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こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 四国中央市 (旧・川之江市) |
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市の花 | 市の木 | 市の花木 | 市の鳥 |
菊 | 松 |
大字 | 字 |
真鍋家住宅(1棟)【川之江市金生町山田井(切山)】
1998/4/30
・国指定重要文化財[建造物](昭和45年(1970)6月7日指定)
・入館料+パンフレット代金=200円。
・17世紀建造とされ、県内に現存する民家の中では最古のものとされる。
・木造平屋で、面積は67u。
・古風な中ネマ三間取り形式を採用している。
表桜(おもざくら)[川之江市保存樹木] |
要害の森
・真鍋家住宅の背後には樹齢400〜500年のヤマザクラ・エノキなどの巨木が立ち並ぶ。 ・林の中には様々な樹木が植栽されており、植物園さながらである。 |
和田医院診療棟【川之江市川之江町】
・国登録有形文化財
・明治末期の建造物
梅錦山川主屋【川之江市金田町】
・国登録有形文化財
・明治中期の建造物
梅錦山川仕込蔵【川之江市金田町】
・国登録有形文化財
・明治中期の建造物
大西内科医院診療棟【川之江市金生町】
・国登録有形文化財
・大正初期の建造物
向山古墳【川之江市金生町下分
向山】
・県指定有形文化財[史跡](昭和24年9月17日指定)
朝日山古墳【川之江市金田町上の山】
・県指定有形文化財[史跡](昭和43年3月8日指定)
木造十一面観音像立像(1躯)【川之江市金田町 三角寺】
・県指定有形文化財[彫刻](昭和40年4月2日指定)
棹の森【川之江市妻鳥町中下 三皇神社】
・県指定天然記念物(昭和54年3月20日指定)
・えひめ自然100選
・代表的植物はクスノキ。
大鳥居【川之江市川之江町塩谷 川之江八幡神社】
・市指定有形文化財(昭和59年3月8日指定)
旧宝蔵寺塔礎石【川之江市川之江町】
・市指定有形文化財(昭和59年3月8日指定)
宝洞山1号古墳【川之江市川之江町洞山】
・市指定史跡(昭和51年8月28日指定)
住吉古墳【川之江市金生町下分
松木】
・市指定史跡(昭和51年8月28日指定)
鰐口【川之江市大門中2区
乗林寺】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和51年8月28日指定)
土器(お姫山古墳出土、須恵器)【川之江市川之江町港通り
市立郷土館】
・市指定有形文化財(昭和51年8月28日指定)
川之江村役用記【川之江市川之江町
市立図書館】
・市指定有形文化財[古文書](昭和53年3月13日指定)
三皇尊懸仏【川之江市金田町西金川
教順寺】
・市指定有形文化財(昭和53年3月13日指定)
木彫神像群(石川助吉作)【川之江市】
・市指定有形文化財(昭和54年8月13日指定)
常楽寺薬師像【川之江市川滝町領家池田
常楽寺】
・市指定有形文化財(昭和59年3月8日指定)
一柳陣屋門【川之江市川之江町】
・市指定有形文化財(平成2年9月10日指定)
・「川之江村字神ノ木の内裏町に在り 川江城興廃記に云ふ
一柳監物直盛の二男
一柳美作守直家三万石を領し
寛永十三丙子年より同十九年壬午年迄七年にして播州小野へ移る御屋敷跡は今の御陣屋天神の敷地吉祥院の築山等皆昔の陣屋内なり
長地といふ所は堀跡なり 御陣屋跡・/font>ノ高入となる
此表門は三宅氏領し 裏門は今寶積寺の黒門是れなり」(伊豫温故録)
獅子舞【川之江市川之江町長須】
・市指定無形文化財(昭和53年3月13日指定)
大西神社奉納踊り【川之江市金田町金川
大西神社】
・市指定有形文化財(昭和59年3月8日指定)
臥龍の松【川之江市川之江町
仏法寺】
・市指定記念物(昭和51年8月28日指定)
槍下げの松と土佐街道【川之江市上分町】
・市指定有形文化財(昭和53年3月13日指定)
山城神社大杉【川之江市川滝町領家池田
山城神社】
・市指定有形文化財(昭和59年3月8日指定)
土肥義昌墓碑【川之江市】
・土肥義昌は、1337年、川之江城初代城主。
・城山南麓の墓地の一番高いところにある。
後藤玄哲の墓【川之江市川之江町】
・仏殿城山の中腹にある。
→See.伊豫温故録
純信堂【川之江市塩谷】1998/4/30
・よさこい節の「....坊さん簪(かんざし)買うを見た....」の坊さん、五台山竹林寺の脇坊妙高寺の僧、純信を供養する堂庵。
・純信は安政2年、恋人お馬との関所破りの罪で土佐を追放され、この地で48歳の生涯を閉じた。
→というが、純信生存説も残っている。→c.f.美川村
純信の墓
松尾芭蕉句碑 |
大西備中之守父子墓所【川之江市金田町金川
八戸】
2001/11/24
・せとうちバス「三角寺口」から東へ少し上がったところに「大西備中之守父子之墓」と刻まれた案内標が建っている。
土佐街道道標【川之江市金田町半田
平山】
2001/11/24
・向かって左より「道標」「町石標」「新道標」
・金田町の土佐街道は涼川、平山を通り、法皇山脈の分水嶺に出る。しばらく分水嶺の林道に沿って進み、右に折れて新宮村へと下っていく。
金比羅道道標
・東金川の大西神社南にあり、左面に1863年の年号が刻まれている。 正面には 此の方 遍路道 三角寺 20丁 右面には 右金比羅道 川之江 35丁 大門 9里 上分町 10丁 雲辺寺4里20丁 とある。 |
雲辺寺への道標
・金田町平山。新宮への道をトンネルより手前で堀切峠の方へと進むと右手にある。 古い道しるべは1894年のもので 右面に 奥の院48丁 正面に 雲辺寺 とある。 真ん中のものは大師像である。 一番新しいものは1986年に建てられたもので、右面に「古代官道調査保存協議会」とある。土佐街道はここから山の中へ入っていく。 |
奥の院への道しるべ
・東金川西方にあり、大正4年2月の年号が刻まれている。 正面に 雲辺寺へ5里 箸倉寺へ7里 右面に 奥の院へ58丁 と書かれている。 |
一里塚跡【川之江市川之江町塩谷】・国道11号線沿い、旧フェリー乗り場の入り口から40mほど川之江寄りにある。
・純信堂の看板のすぐ右手に一里塚跡と書かれた石の柱が建っている。そこには、石垣があり榎(えのき)も生えており、江戸時代につくられた一里塚の跡と思われる。 ・一里塚は一里ごとに5間四方の塚を道の両側につくり、榎や松を植えて、旅人に距離を示した物である。また、この塚は旅人に日影を与え、旅の疲れをとる休憩の場でもあった。 |
一柳直家公陣屋跡(ひとつやなぎなおいえこうじんやあと)【川之江市川之江町栄町(本陣通り)】
・1636年、直家は川之江28,000石の領主としてやって来た。領地は兵庫県に1万石、宇摩郡、新居郡(新居浜市)、周布郡(東予市)を合わせて18,000石であった。直家の陣屋(役所)は東は栄町通りから西は新町和田医院あたり、北は吉祥院から南は愛媛銀行、フジ川之江店辺りまでと広いものであった。
・「川之江郷土物語」によると旭町の天神さんは陣屋の北東に当たるところで、鬼門よけに建てられたものとのことである。
・陣屋の表門は古町の三宅家(旧大庄屋)へ、裏門は川之江八幡宮へ移された。八幡宮のものは解体され、その材料を使って一柳陣屋門が復元されている。
・川之江の秋祭りに残っている関船は直家公の参勤交代の船を形取り、海上安全を願ったものだと言われている。
旅籠屋「鳥屋」跡【川之江市金田町半田
平山】
2001/11/24
菅公古跡【川之江市川之江町大門】→See.伊豫温故録
→菅原神社
長須古墓【川之江市川之江町長須】
川之江城(仏殿城)跡【川之江市川之江町城山】
・川之江城、仏殿城、御殿城ともいう。
→See.伊豫温故録
・昭和61年(1986)に復元された。
・武具・絵画・什器・古文書などが城内に展示されている。
・川之江城天守閣の石垣の一部に佛殿城本丸跡の石垣が残っている。
・延元2年/建武4年(1337):河野通政(みちまさ)が、讃岐の細川頼春の侵入を防ぐために土肥三郎左衛門義昌に命じて鷲尾山に築城させた。(築城は、興国元年(1340)?)
・興国3年/康永元年(1342):細川頼春の侵攻により土肥義昌破れる。
・天文5年(1536)〜永禄2年(1559):細川通薫が城主となる。
・元亀2年(1571):妻鳥釆女正友春(めんどりうねめしょうともはる)が入城。
元亀3年(1372)には、伊予高縄から来た妻鳥氏の采女正友春によって守備されたがこの時、阿波の細川氏を倒した家臣の三好氏が、織田信長の命を受けて伊予攻略を進めていた。伊予を治める河野氏は軍勢をもってこれを退け、ひとまずは仏殿城を守ったが相次いで土佐から長曽我部元親の伊予侵攻軍が迫ってきた。 長曽我部の勢いを見た妻鳥氏は、河野氏を裏切って長曽我部氏と密通する。 これを知った河野氏は憤慨し、河上但馬守安勝らをもって仏殿城を攻略し、妻鳥采女氏を滅ぼした。時、天正7年(1579)、城中本丸では五十余人の将兵が自害して果てたとされる。 (諸説あり)・1500年代後半 河上但馬守(かわかみたじまのかみ)が妻鳥氏を打ち滅ぼし城主となる。
・天正10年(1582)、城主であった河上但馬守安勝は、長宗我部氏の武将・大西備後中守に敗れた。落城の際、河上但馬守の子女は姫ヶ嶽の崖から海中に身を投じた。→c.f.姫が嶽
これより河上但馬守安勝が仏殿城を治める事となるが、ここでこの地の南部を有する轟城の大西備中守元武という人物が現れる。元は阿波の白地(池田町あたり)にいた人のようだが、長曽我部の侵攻等で轟城にある。
阿・予に五万石を有し、川之江の南部もほぼ手中にして、目と鼻の先にある仏殿城をどうにかして攻略したかった。 天正4年(1575)睦月、それまでに度々諍いのあった両氏だが、大西備中守は一策を労して配下の秋山嘉平を河上但馬守に近づけ、闇に乗じてこれを討ち取らせた。突然主君の悲報を聞いた仏殿城はにわかに浮き足立ち、そこへ一気に大西方の軍勢が攻め込んできたので全く防ぎようがない。決死の覚悟で応戦するも、次々と敵兵が城中になだれ込んで将兵は悉く闘死した。 この時の河上但馬守の息女、年姫の悲劇が後々まで語り伝えられる。
歳16,17にして心清く花のごとし。家来にも慕われた麗しき若姫は、惨状を極める城内で四方を敵兵に取り囲まれて、ついに進退きわまった。 既に頼りの父君は亡く、落ち延びるにもこころもとない。
「仏神も哀れとおぼし召さば、死出の旅路で父上のお供をなさし給え」
意を定めた姫は合掌して、はるか高き櫓下より海中に身を投じ、自ら若い命を散らせた。その後、仏殿城は秀吉の四国征伐以後廃城になる。昭和6年、この地を訪れた歌人が年姫の悲劇に感じ入り一首の詩を詠んだ。
姫が嶽 海に身投ぐるいや果ての うまして入りぬ 大名の娘は 与謝野晶子
・天正13年(1585)、土佐方の武将が川之江城を攻略し、河上但馬守を討ち破り、妻鳥釆女が帰城。
・天正13年(1585)年8月、豊臣秀吉が土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を打つため東予地方に進攻。川之江城は吉川元長の手に落ちる。秀吉の四国平定後伊予は小早川隆景が治めることになり、天正14年(1586)、廃城。
・「川之江城(川之江町)。延元二年、阿波の細川頼春の侵略に備えて築城。南北朝時代、応仁の乱、戦国時代に亘って常に戦禍の中にあり、城主も転々。最期は長曽我部の進攻に潰える。築城は土居義昌。」(「史伝の人とその周辺
伊予の巻」、高橋紅六、くれない書房)
・「延元5年(1340)伊予国宮方土居三郎左衛門義昌が居城。元亀3年(1572)妻鳥釆女が城主・天正13年(1585)川上但馬守城主落城。」(小松町誌)
亀山城跡【川之江市】
畠山城跡【川之江市川之江】・「川之江村畠山に在り
建武年中由良兵庫頭吉里 官命を奉しこれを守る
興国年中細川頼春経兵を率ひて来り攻む
脇屋義助の部将金谷経氏等これを援け防戦すれ共克たずして城陥いる」(伊豫温故録)
・「畠山城(畠山)。建武年中、南朝方の由良兵庫頭吉里が預ったが、細川頼春の前に屈して落去。」(「史伝の人とその周辺
伊予の巻」、高橋紅六、くれない書房)
・「建武(1334〜1338)年由良兵庫頭吉里官命を奉じて此の城を守る。興国(1340〜1346)年中、脇屋義助の武将金谷経氏ら援け防戦したが細川頼春により城陥る」(小松町誌)
轟城跡(大西城)【川之江市金川/上分】「轟城(上分町)。応永年間信藤正国が築く。天正二年大西備前守元武が修築して居城とし、宇摩郡を斬り従えたが、亡ぼされた仏殿城の遺臣のため囲まれて自刃。」(「史伝の人とその周辺
伊予の巻」、高橋紅六、くれない書房)
・「大西備中守元武居城。長宗我部一家にて土州出入の改めなど。元親に盟約し、渡ってきた人質は皆当城に預る。天正13年(1585)落城」(小松町誌)
隠(レ)城(かくれじょう)跡【川之江市上分】
・「上分村の東南十二町余に在り 轟城の枝城なり」(伊豫温故録)
・「轟城の支城」(小松町誌)
高文珠山城(たかもんじゅやまじょう)跡【川之江市】
・「高文珠山城(金生町)。轟城の番城。」(「史伝の人とその周辺
伊予の巻」、高橋紅六、くれない書房)
・「轟城の番城という」(小松町誌)
比丘尼城跡【川之江市上分】
上分西遺跡【川之江市上分町】
[「県埋文調査センター 中世集落跡など確認」、愛媛新聞、2004/1/30]
柴生遺跡【川之江市】
土居山遺跡【川之江市妻鳥町
麓】・弥生時代後期〜古墳時代後期
[まいぶんえひめ No.29、平成14年(2002)]
朝日山古墳(原峰1号古墳)【川之江市金田町西金川上ノ山乙120】
・県指定文化財(史跡)
・直径17m、高さ4.5mの円墳。石室は長さ7m、幅2m、高さ2m余り。建造された頃の状態をほぼ完全に残しているのは県内でも朝日山古墳ぐらいである。
・6世紀ごろに作られたもの。
お姫山古墳【川之江市川之江町片上山3113-2】
・四国中央病院の裏山頂上部にある。殆ど壊れているが、1つの墳丘にT字型に2つの石室を持つ日本でもめずらしい形をしている。
・使われている石も小さく、横穴式古墳としては古い物と考えられている。
・2号石室は殆ど壊され、側壁が僅かに残っている。1号石室も土が流れこんでいる。
出土品は高原ふるさと館や城山に展示されている。
お姫山古墳1号石室 |
お姫山古墳2号石室 |
経ヶ岡(きょうがおか)古墳【川之江市】
・東宮山古墳の南東約2kmに位置する。
・全長30mの前方後円墳。
住吉古墳【川之江市金生町下分
松木】・市指定史跡
・7世紀の平地円墳。
・周辺には条里制の跡が残る。
滝の宮古墳【川之江市】
塚田古墳【川之江市妻鳥町土居字塚田2179】
塚穴古墳(土居塚穴古墳)【川之江市妻鳥町字塚穴2704】
・玄室:長さ5.8m、幅2.1m
・横穴式古墳。
・大正時代に天井の石が三皇神社の忠魂碑に使用され、塚穴古墳は破壊された。
天生津古墳【川之江市川之江町大門字宝洞山3102-1】
・市指定文化財。
・宝洞山の南側にあり、宝洞山一号墳とも言う。
・斜面を削り、直径20m、高さ5mの土を盛り上げて作った横穴式古墳。周りに溝が掘ってある。
・川之江市の古墳中では一番美しい古墳だと言われている。
東宮山(とうぐうざん)古墳【川之江市妻鳥町山口東宮口】
・宮内庁陵墓参考地[第19代允恭天皇の第1皇子・木梨軽太子陵墓]
・川之江市最古(古墳時代後期前半[6世紀前半])の古墳とされる。
・標高87mの東宮山山頂にある。
・山頂には春宮神社が祀られている。
・脇には東宮神社が鎮座する。
・古事記・日本書紀に記される木梨軽皇子の伊豫配流に纏わる伝説が残る。都を追われて道後へと航海している途中、嵐に遭い、川之江に漂着したという。
・直径15m、高さ3.2mの円墳。横穴式石室がある。※前方後円墳の可能性も有り。・金銅冠(こんどうかんむり)・馬具類などの出土品は、宮内庁に保存されている。
・三島・川之江IC近く。
《文献・記事》
「わが町色いろ−154−東宮山古墳」、愛媛新聞、2001/1/27
木梨軽皇子御陵墓参考地
(伊豫墳墓録)
宇摩郡妻鳥村字東宮山、現在。川之江市妻鳥町山口。
(伊豫重要史蹟)
允恭天皇第一皇子木梨軽太子の御墓と伝う。明治27年 内省より御陵墓参高知と指定せらる。周囲28間を限り木棚を繞(めぐ)らす。高さ約8丈、周囲3町余の小山なれども、全山樹木鬱蒼たり。山上の小祠を春宮神社と称う。文政年間村人集りて整地したるに、石棺現れて銅鉾を掘出せり。明治24年3月更に「勾玉、水晶玉、天冠様のもの、矢の根。大刀。古鏡等々」を発掘、宮内省に届出たり。
(愛媛県神社明細帳)
春宮神社 祭神不詳。
(伊豫温故録)
春宮山は高さ八丈五尺、周囲三町四十八間、文政年間村人相撲を催さんとて此処を整地せんとて発掘を始む。
(伊豫重要史蹟)
温泉郡御幸村姫原にも同様遺蹟がある。
[愛媛県郷村変遷史「文化財三宅メモから」、三宅千代二、愛媛出版協会、昭和52年1月1日]
春宮石
・ →See.伊豫温故録 |
東塚穴窪古墳【川之江市柴生町
北柴生 垣添2105】
・現存せず。(高速道路建設工事により焼失)
・穴窪古墳より西20mのところより、平形銅剣が2振出土。(東京国立博物館に保存されている。)
宝洞山1号古墳【川之江市川之江町洞山】
・市指定文化財
・向山古墳の北約400mに位置する。
・7世紀の円墳。
・付近には横穴式古墳が多い。
宝洞山2号古墳【川之江市川之江町大門字宝洞山3112-2】
・天生津古墳の上、30mほどのところにある。今は住宅地の裏山になっている。
・古墳時代後期のもので円墳。横穴式石室は土が流れこんでいて、入り口が狭くなっている。
・土を盛り上げた墳丘の周りには周壕(しゅうごう)と呼ばれる溝が掘られている。
宝洞山3号古墳
・天生津古墳の西側にあった。
・今は、この石もなく、新四国88ヵ所の石仏が残っているだけである。
向山古墳(むかいやまこふん)【川之江市金生町下分向山218-1】
・県指定文化財(史跡)
・古墳時代後期(7世紀)のもの。
・巨石を用いた横穴式古墳では県下最大のもので、同一墳丘中に並列した2つの石室がある。
・石室・玄室ともほぼ完全に残る県内でも珍しい巨石古墳。
・金生川を対象とした「ふるさとの川モデル事業」の一環として散策路が整備された。
向山古墳1号石室
・1号石室は雌塚(めんづか)と呼ばれ、ほぼ完全な形で残されている。石室の大きさは全長11m、入り口は幅2.8m、高さ1.7mである。奥に入ると広くなり、高さ2.5mになる。内部に使用された石の中には40tをこえるものもある。 |
向山古墳1号石室
・2号石室は雄塚(おんづか)と呼ばれているが、殆ど壊れている。大きさは、1号石室より大きく、全長は15m近くあったと思われる。この石室に使われていた巨石は金生八幡神社の忠魂碑や川之江城山公園の尾藤二州先生碑に使われている。 墳丘については円墳、双円墳、方墳などいろいろ言われ、はっきりしたことはわかっていない。 |
→See.伊豫温故録
→「向山古墳−金生川間『散策路』整備着工へ」、日付不詳、愛媛新聞
山口1号〜4号古墳
山口1号古墳【川之江市妻鳥町西山口2378】
・縦10m、横6m、高さ3mの円墳。 ・石室の奥に棚がある。 ・6世紀後半のものとされる。 |
山口2号古墳【川之江市妻鳥町西山口
土居四畝田】
・石室:長さ3.6m、幅2.2m、東北 ・半壊。 ・石室の石の一部は、三皇神社境内にある忠魂碑の三方石に使用されている。 |
山口3号古墳【川之江市妻鳥町西山口
四畝町田】
・山口2号古墳より約50m。 |
山口4号古墳(有塚)【川之江市妻鳥町西山口(妻鳥町山口字横山2330)】
・山口3号古墳より約30〜40m。(契川の辺) ・直径約20m、高さ約4mの墳丘。 |
吉祥院
宅善寺【川之江市川之江町(旭町)】→四国中央市川之江町1775
・宗派:高野山真言宗
・貞享4年(1687)に当時の有力者・三宅善右エ門吉次が建立した。
※そうか、寺号は建立者の名前から取ったものなのか…。(2004/12/25)
川之江新四国 |
吉祥寺【川之江市下川町】→四国中央市下川町487-1
・宗派:真言宗
・寛永の頃、宥応上人が、万病に効く霊水を見つけ、ここを開いたとの伝承が残る。
教順寺【川之江市金田町西金川】→四国中央市金田町金川1494
・宗派:真宗西本願寺派
・元和元年(1681)、正善寺5世教順が隠居寺として建てた。
・金川橋の近くにあったが、明治4年の大洪水のときに現在地に移転した。
工芸品三皇尊懸仏
・市指定有形文化財(昭和53年3月13日指定) |
光厳寺(こうごんじ)【川之江市金生町山田井】→四国中央市金生町山田井1425
1998/5/1
・山号:大悲山
・院号:慈眼院
・宗派:真言宗
・新四国曼荼羅霊場25番札所
・昔は長福寺と呼び、現在地の東の谷間(寺の谷)に位置していたが、江戸時代初期に現在地に移転した。
・切山へ抜ける県道の、高速道路の陸橋下に位置する。
・ツツジの名所。
光明寺【川之江市金生町通町】
・山号:宝珠山
・「お薬師さん」とも呼ばれる。
宝篋印塔 |
法華塔 |
生墓 |
国祐寺別院【川之江市】→四国中央市川之江町1516-2
五明院【川之江市金生町】→四国中央市金生町下分594
・山号:檀育山
・寺号:如意輪寺
・慶長年間、光明寺、極楽寺、宝蔵寺、二天寺、皆蔵寺の5寺を合わせて五明院と呼んだという。
千体地蔵 |
三角寺(さんかくじ)【川之江市金田町三角寺】→四国中央市金田町三角寺75
2001/11/24
・四国八十八ヶ所霊場 第65番札所
・所在地:愛媛県川之江市三角寺
・電話番号:
・山号:由霊山(幽霊山)(ゆうれいざん)
・院号:慈尊院(じそんいん)
・宗派:真言宗高野派
・本尊:
・開基:
・法皇山脈の中腹にある。
・天平年間(729〜749)、行基により開基されたと寺伝は伝える。
・三角寺の名は、弘法大師が三角の護摩壇を築いて護国泰平の修法を行じたことに由来する。
・本堂は嘉永3年(1850)の築造。
・門前の駐車場は、駐車料金200円
本尊:木造十一面観音立像
・県指定重要文化財(昭和40年4月2日指定、第46号) ・ヒノキの一木造。像高168cm。 ・藤原時代初期の作 |
原峰御殿
・旧大地主である鈴木家の邸宅。 |
朝日山古墳 |
一茶句碑 |
イチョウ |
正善寺【川之江市金田町国秀】→四国中央市金田町金川1105
・宗派:真宗東本願寺派
・戦国時代に九州から渡ってきた山川五郎左ヱ門国秀についてきた永蔵坊の護持した仏像を祀ったのが始まりと伝えられる。
→See.伊豫温故録
山川五郎左ヱ門国秀/永蔵坊墓所 |
常楽寺【川之江市川滝町領家】→四国中央市川滝町領家825
・山号:瑠璃光山
・院号:薬師院
・宗派:真言宗
・本尊:薬師如来(行基作と伝えられる。)
・東西北に3つの門を有していたが、数度の火災で焼失。
・奈良時代、行基がこの地を訪れて開基した。本天井は絵天井になっている。
薬師如来
・市指定有形文化財(昭和59年3月8日指定) |
定蓮寺【川之江市妻鳥町中下】→四国中央市妻鳥町1233
・山号:三皇山
・院号:天寿院
・宗派:真言宗
★裏(北)側に宮島さんがある。
乗林寺【川之江市川之江町(大門)】→四国中央市川之江町2931-1
・山号:雲龍山
・宗派:臨済宗妙心寺派
・「川之江村字大門に在り 京西天龍寺菅想国師の開基なり」(伊豫温故録)
鰐口
・市指定文化財 ・応永年間の作である。 |
大光寺【川之江市金田町半田】→四国中央市金田町半田375
2001/11/24
・山号:本宮山
・院号:瑠璃院
・宗派:真言宗
・庭園が綺麗。
・天正年間の兵火で焼失。寛文年間に再興された。
・「半田村に在り 空海の創営なり
後僧秀範これを中興せり」(伊豫温故録)
供養塔
・宝暦8年(1758)と刻まれている。 |
大師堂【川之江市川之江町】
・国道11線沿い、川之江漁港近くにある。
宅善寺【川之江市川之江町】→四国中央市川之江町1775→吉祥院
椿堂常福寺【川之江市川滝町
下山(椿堂)】→四国中央市川滝町下山1894
1998/5/1
・四国霊場別格二十霊場第14番札所
・山号:邦洛山
・院号:不動院
・寺号:常福寺
・弘仁6年、弘法大師が四国行脚の途次、この地に立ち寄って、仏法有縁の地として不動明王を刻んだ。そのとき挿した椿の枝から芽が出て大樹になったと伝えられる。
椿の大木 |
仏法寺【川之江市川之江町(古町)】→四国中央市川之江町1145
・城山の麓、城山公園の東にある。
・山号:鷲尾山
・院号:恵心院
・宗派:浄土宗
・本尊:阿弥陀如来
・行基が諸国行脚の際、草庵を結んで法を説いた。後に恵心僧都がこの地を訪れ、行基の跡を偲んで堂宇を建てたのが始まりとされる。
・当時は浜町の一角(中須町または寺屋敷辺り)にあったが、寛永年間に現在地に移された。
・「川之江村古町上にあり 恵心僧都の開基なり
往古は当村城山に在りしが 延元年中土肥義昌築城す
依って今の地に移営せり」(伊豫温故録)
臥龍の松 |
河上但馬守の墓
・仏法寺の境内に、妻鳥釆女をうち破り城主となった河上但馬守安勝の墓所がある。 ・仏法寺には、河上但馬守の妻の位牌もある。 |
年姫供養塔
・河上但馬守の北殿年姫の供養塔がある。 ・年姫は但馬守が討たれるとすぐに城山の北側の断崖から身を投じたと伝えられている。駐車場の脇に「姫ヶ嶽」の碑がある。 |
不動寺【川之江市川之江町】→四国中央市川之江町1110
・山号:本城山
・院号:大蔵院
・宗派:天台宗寺門派
・本尊:不動明王・神変大菩薩・大黒天の像
宝蔵寺(法蔵寺)【川之江市川之江町】→四国中央市川之江町847
・単に「お庵」とも呼ばれる。
手洗石
・「お庵の大石」、「鬼の盥(たらい)」などとも呼ばれる。 |
宝蓮寺【川之江市上分町西川原】→四国中央市上分町146
・宗派:浄土真宗西本願寺派
・嘉永2年秋、新居郡西条村よりこの地に移されたと伝えられる。
妙蓮寺【川之江市川之江町(旭町)】→四国中央市川之江町1781
・山号:顕実山
・宗派:真宗大谷派
・本尊:阿弥陀如来
・寛文4年(1664)の創立といわれる。
水野龍門の墓 |
稲荷神社【川之江市川之江町】→四国中央市川之江町
・川之江小学校北側にある。
稲荷神社【川之江市川之江町】→四国中央市川之江町
・城山公園東にある。
大榎神社【川之江市川之江町】→四国中央市川之江町1789
・祭神:菅原道真
・大宰府左遷の途中で立ち寄ったと伝えられる。
大西神社【川之江市金田町金川
東金川】→四国中央市金田町金川592-10
2001/11/24
・轟城城主・大西備中守元武父子を祭る。
・明治7年に、東金川神ノ内より現在地に移転した。
・せとうちバス「東金川」停留所より三角寺川にかかる橋を渡って右折。山裾の巻き道を登る。
奉納踊り |
大西備中守(びっちゅうのもり)墓所 |
村芝居
・かつては、大西神社で村芝居が行われていた。境内地には舞台小屋が残っている。 |
上分神社【川之江市上分町宮ノ元】・祭神:奇稲田姫命、素戔鳴命、大国主命、天照大神など。
・始めは牛頭天皇宮と呼んでいたのを、明治2年に上分神社に改めた。
・建造年代は不詳。
石灯籠
・1739年のものと、1770年のものがある。 |
狛犬
・市内でもっとも古く、1824年につくられたのものである。 |
加茂神社【川之江市】
切山土釜神社【川之江市切山】
金生八幡宮【川之江市金生町大道(下分)】→四国中央市金生町下分1654-2
・昭和23年、川之江八幡神社から分霊をうつして、まつった。
忠魂碑
・向山2号墳の巨石を運んで建てたものである。 |
荒神社【川之江市金生町山田井】
イチョウ |
熊野三所神社【川之江市金田町半田】→四国中央市金田町半田376
2001/11/24
・祭神:伊弉諾神 他5柱
・境内社:正一位稲荷神社、出雲神社、熱田神社、その他多くの先祖を祀る小祠が有り。
・紀伊国有馬村より勧請した熊野本宮の別社であると伝えられる。
・創建年代はかなり旧そうである。大きな杉の切り株がある。
・拝殿右脇のイブキもなかなかのもの。
・境内社地内には、多くの小祠が祀られている。先祖祭りの風習だろうか。
杉 |
金毘羅大権現【川之江市川之江町】
三皇神社(さんこうじんじゃ)【川之江市妻鳥町中下(妻鳥町605)】→四国中央市妻鳥町606
1998/4/30
・祭神:日本武尊(やまとたけるのみこと)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、応神天皇、仁徳天皇(にんとくてんのう)
※天照大神(あまてらすおおみかみ)も祭神とする?
・貞観元年(1130)4月、京都旧官幣大社、平野大明神の分霊を奉遷して、日本武尊に合祀し、三皇四社大明神と尊称して妻鳥村の氏神として奉斎した。
・伊予温古録に依れば、景行天皇の御子日本武尊が筑紫の熊襲平定の途次、東方港門に上陸後、この森に仮泊したと伝えられる。後、能褒野(のぼの)に崩御のとき、神霊が白鳥と化して天下りし、この森に留まったことにより、この遺跡に社殿を建立し、「棹の森(さおのもり)の皇大神」と称し崇敬したという。古事記に「即ち其の陵を白鳥の陵とぞいう。然れども亦其の地より更に天かげり飛び行きましぬ」とある。
・拝殿は宝永7年(1710)に建てられたもの。
若宮神社
・祭神:猿田彦大神、地主大神 ・当社、古記録に貞観元年本社三皇神社勧請と同時に同社若宮神社を勧請するとあり、所願達成の神として霊験あらたかである。 ・「若宮さん」とも呼ばれている。 |
境内末社:任部神社 |
境内末社:石川霊神 |
境内末社:県神社 |
棹(さお)の宮のおさんさん(お使狸)
・お楠と呼ぶ神の使いをする狸が棲んでおり、神に忠誠を尽くしたという。 |
棹の森(さおのもり)
・県指定天然記念物(昭和54年3月指定) ・暖地性広葉樹林帯の残存部。代表的植物はクスノキ。 |
神木「佐遠の宮の大楠」 |
《references》
「社殿、290年ぶり改築へ 川之江・三皇神社で起工式」、愛媛新聞、2001/1/27
三頭神社【川之江市下川町】
・祭神:大山祇神
・明治44年、下川地区の神社を合祀。
川之江八幡神社【川之江市川之江町塩谷】→四国中央市川之江町2567
1998/4/30
・治暦元年(1065)、伊予守源頼義が切山から畠山に奉遷したと伝えられる。
・正保3年(1646)に火災に遭い、慶安元年(1648)現在地に移した。
・当時は宝積寺という寺があった。
・境内には立派な石造物が多い。
・「川之江村字亀島にあり 社記に云ふ 推古天皇六年 豊前国宇佐より勧請す
初め山田井村字霧山に鎮座ありしか 康平年中伊豫守源頼義当村八幡山に移す
天正年中焼亡す 因つて其の後今の地に再建す」(伊豫温故録)
※この記述から察するに、畠山は「八幡山」の転訛形であろう。
大鳥居
・市指定文化財 |
奉納獅子舞 |
百手祭り
・旧暦2月1日 |
塩釜神社【川之江市川之江町3615(塩谷)】
・祭神:塩竈神
・畠山にある。
・昔この付近で製塩していたので、この神を祭ったと考えられている。
下谷八幡神社【川之江市金生町切山下谷】
神明神社(お伊勢さん、お伊勢屋さん)【川之江市川之江町1425(中須)】
・祭神:天照皇大神、豊受大神
・天正13年(1585)伊勢国より、橋村正秀が奉遷したという。
・この神社の夏祭は有名で、伊予三島や土居などからも参る人が多いという。
神明神社【川之江町長須403】
末社:荒神社
・祭神:奥津彦命、奥津姫命 |
住吉宮【川之江市川之江町】
クロガネモチ |
菅原神社【川之江市川之江町大門】
・由来未詳。
・菅原道実公が九州へ左遷される折、船を寄せた所という伝説が残る。
・「天神松」といい、今も記念の松が植えられている。往古も天神松(舟寄松)と呼ばれる松が存在していたようだ。
大神宮【川之江市川之江町】
天神社【川之江市川之江町】
天満宮【川之江市川之江町】
東宮神社【川之江市妻鳥町山口東宮山】
土釜神社【川之江市金生町山田井】
新田神社【川之江市柴生町】
・祭神:新田義宗
・新田義貞の三男・義宗が、この近くにある下川に隠れ死んだとの伝説が残る。
・義宗が帝より賜った遺品を神宝として祀っている。
奉納絵馬
・今城東仰斉が描いたもの。 |
速玉神社【川之江市金生町】
三津歳(みつとし)神社(八将神さん)【川之江市川之江町馬場八将神山】
・祭神:大歳神、御歳神、若歳神(いづれも農耕の神)
・金生川を見下ろす八将神山の山頂近くにある。
・社のすぐ裏に古墳らしきもの有り。
・八将神社とも称する。
八坂神社【川之江市川之江町1018】
・祭神:素盞鳴尊、櫛名田姫、八王子
・天文年間(1532〜1554)の勧請と伝えられる。[口碑]
・祇園宮とも呼ばれる。
・祇園山に鎮座する。
山城神社【川之江市川滝町領家
池田】
・祭神:武甕槌神
・天正4年(1576)に勧請された。
奉納芝居 |
山城神社大杉
・市指定有形文化財(昭和59年3月8日指定) |
余木崎神社【川之江市川之江町余木3番地】
・祭神:大国主命
・香川県境に近い浜辺にある。
龍王社【川之江町金生町山田井】
・山田井川上流、切山にある。
龍王淵
・日照りのとき、ここで雨乞いが行われた。龍王社に踊りを奉納し、その帰りに龍王淵の水を貰って帰るというのが雨乞いの一連行事であった。 |
天道退魔堂【川之江市上分町】→四国中央市上分町7-1
大垰地蔵尊【川之江市川之江町】
平石山【川之江市】
2001/11/24
・標高826m
・法皇スカイラインの途中に「平石山山頂へ↑ 愛媛県山岳連盟」の案内標が立っている。ここより5分足らずで山頂に達することができる。山頂からの眺望は良くない。
呉石高原【川之江市】
1998/5/1
呉石山
・標高:826.9m |
大谷山【川之江市】
2001/11/24
・県道9号線(大野原川之江線)田野々越の手前の路側に駐車。遊歩道が整備されており、ハイキングに好適。
・「大谷山遊歩道 標高507m 頂上まで1.3km」との案内標が登山口脇にある。
愛宕山【川之江市金生町山田井】
2001/11/24
・県道9号線(大野原川之江線)を東進し、切山の集落を抜けて坂道を上がりきったところが愛宕山である。
・「←200m 愛宕山桜公園/石鎚山大山神」と書かれた看板がガードレールに結わえてある。
・道を歩いていくとほどなくして、「←愛宕山桜公園/石鉄山大山神→」と記された石標がある。
・山頂部は眺望に富む。東には大谷山〜金見山の山並み、西には道前平野が見渡せる。
・手作り風車が2基。
八将神山【川之江市川之江町馬場】
・三津歳神社が鎮座する。
小仏山【川之江市】
瓢箪山【川之江市】
井地山【川之江市】
祇園山【川之江市川之江町】
・八坂神社が鎮座する山。
市民の森【川之江市】
2001/11/24
・川之江市−新宮村境の堀切峠から西に3kmの南山頂上にある。
・展望台からは燧灘の島々、南には四国山脈と嶺南の渓谷を眺めることができる。
金生川【川之江市】
金生川【川之江市】
三角寺川【川之江市】
山田井川【川之江市】
西新橋(川之江町) |
大江橋(川之江町) |
川之江橋(川之江町)
・国道11号線に架かる。 |
栄橋(川之江町) |
金生橋(金生町) |
山田井橋(金生町) |
川原田橋(金生町) |
上分大橋(上分町) |
佐遠の宮の大楠【川之江市 三皇神社】
・大日本老樹木誌に全国36番の大楠と記載される名大木。樹齢千数百年。目通り7.55m。
表桜【川之江市切山 真鍋家住宅】
・川之江市保存樹木
生木地蔵【川之江市切山(金生町山田井)】
・切山の山中(海抜550m)にある。
・生きているカゴノキの幹に直接、地蔵を彫り込んでいる。
・川之江市保存樹木(平成2年3月指定、第19号)
槍下げの松【川之江市上分町】
・土佐街道沿いにあり、1978年、付近の土佐街道と共に市指定文化財(天然記念物)に指定されていた。
・平成10年(1998)10月枯死により、「保存樹木」指定を解除した。
・樹齢数百年、高さ7m、目通り2.7mのクロマツであった。
・この木の名の由来は、参勤交代で土佐藩家臣が張り出した松の枝を切ろうとしたところ、藩主山内公が枝ぶりを褒め称え、馬上の武士が槍を下げて通ったことによる。
臥龍の松【川之江市川之江町古町】
・佛殿城(川之江城)城主川上但馬守安勝の菩提寺の仏法寺境内にあり、樹齢200年、臥龍(地を這う龍)の形をした銘木。
・樹高:7〜8m、南北の長さ:20m。
・目通り:2.4m、樹高4.8m、枝張り:21.6m
西行松【川之江市川之江町長須】
「長須村に在り 墓の周囲五十間高さ一間二尺五寸 何人の墳墓たるを知らざれども往古より村人崇敬して毀つものなし
又た其の墓傍より往々刀類を掘り出すことありと云ふ」(伊豫温故録)
「長須村にあり。西行法師西国行脚の時、暫く此処に住みたまひしに、庵前に松のたてりけるを見たまひて、
ここをまた わが住うくて うかればな 松はひとりに ならんとすらん
と詠たまひしは此所の事なるよし 豫陽盛衰記に見えたり。古の松は朽ちしかど、後に植継ぎて今猶さかえたり。
按ふに、此歌、山家集に、讃岐国に大師のおはしましける御あたりの山に廬むすびて住みけるに、月いとあかくて云々、庵の前に松のたてりけるを見て
久に経て わが後の世を とへよ松 あとしたふべき 人もなき身ぞ
といふ歌に并びて出でたりければ、両首ともに讃岐国にて詠みたまひし歌なるべきを、古よりかく云ひ伝へたるは、誠は後の一首はここにての歌なるを、山家集に誤りてひとつにしるしたるか」(愛媛面影)
山城神社大杉【川之江市川滝町領家池田
山城神社】
・市指定有形文化財(昭和59年3月8日指定)
土佐街道【〜川之江市〜新宮村〜〜高知市】
・文化庁「歴史の道百選」に選定されている。高知城
布師田本陣(ぬのしだほんじん)
領石(りょうせき)
穴内(あなない)
本山本陣(もとやまほんじん)
下関(しもせき)
葛原(くずはら)
川口(かわぐち)
立川番所(たぢかわばんしょ)【高知県大豊町立川下名】
笹ヶ峰(ささがみね)【新宮村/高知県大豊町】
杖立地蔵(つえたてじぞう)【新宮村】
七曲り【新宮村】
水無峠(みずなしとうげ)【新宮村】
笠取峠(かさとりとうげ)【新宮村】
腹包丁(はらぼうちょう)【新宮村】
下り付(おりつき)【新宮村】
青木の泉(あおきのいずみ)【新宮村】
梅の泉(うめのいずみ)【新宮村馬立柿の下】
堂成札場(どうなるふだば)【新宮村】
馬立本陣(うまだてほんじん)【新宮村】
新宮渡し(しんぐうわたし)【新宮村】
不動堂(ふどうどう)【新宮村】
一升水(いっしょうみず)【新宮村】
水ヶ峰(みずがみね)【新宮村】
横峰(よこみね)【新宮村/川之江市】・法皇山脈の横峰を越えると上分に出る。
山内豊■(とよちか)公の歌碑 |
道標
此方於くのいん道 [大師像]「南無阿弥陀佛日本廻国供養 此方うんへん寺道」(正面) 「とさ あわ 上山道」(側面) 「願主 讃州 山田郡堀江村産 貞昌尼」(側面) 「天保二卯八月吉日」(裏面) |
松尾芭蕉句碑【川之江市塩屋町 純信堂】『此阿多里目耳み由るも能み那涼し(このあたりめにみゆるものみなすずし)」
・県境に近い、純信堂前に建つ芭蕉の句碑
深川正一郎句碑【川之江市川滝町 椿堂】
川端龍子句碑【川之江市川滝町 椿堂】
高浜虚子句碑【川之江市川滝町 椿堂】
柳原極堂句碑【川之江市川滝町 椿堂】
与謝野晶子歌碑【川之江市 城山公園 姫ヶ嶽】
真鍋朱光句碑【川之江市川之江町 市民会館】「をりからの 風花よりも 梅白し」
・1999年10月4日除幕。
・建立者:句碑建立発起人会
・高さ約2m、幅約1m。
・真鍋朱光が昭和42年に詠んだ句。
・真鍋朱光は、川之江市金生町下分の人。川之江市で長年、俳句文化の振興に努めた。昭和13年より句作を始め、昭和21年に松本たかしが主宰した俳誌「笛」に入会。
・「水の会」「若葉会」「金生俳句会」を主宰した。
《references》
「真鍋朱光氏の句碑建立」、愛媛新聞、1999/10/6
山内豊雍(とよちか)公の歌碑【川之江市 横峰越】
「うすくこく 遠近(おちこち)分て 夕日影 霞む浪まの 沖の嶋々」
・参勤交代で、土佐から土佐街道を進んで江戸に向かう土佐藩9代藩主山内豊雍公が安永3年(1774)に詠んだ歌。
・歌碑は、川之江市金田町の南東一郎氏が、土佐街道が「文化庁歴史の道百選」に選定されたのを記念して建立した。
・碑文は山内家18代当主の山内豊秋氏が揮毫した。
・高さ1.8m、幅70cmの御影石製の碑。
・左横に副碑が建てられている。
→「川之江の土佐街道・横峰越 土佐藩主の歌碑建立」、平成9年(1997)11月30日、愛媛新聞?
小山公園【川之江市金生町】
市民の森(三角寺山)【川之江市】
2001/11/25
・駐車場には真新しい川之江市観光案内図が建っている。
・眺望は抜群。
・山頂部には古めかしい展望台が。損傷が著しいため、ロープが張り巡らされて立入禁止状態になっている。
城北公園【川之江市川之江町】
城山公園【川之江市】
1998/4/30
・城山公園は、延元2年(1337)[今から約660年前]に河野氏の武将土肥三郎左衛門尉義昌(どいよしまさ)によって築かれた川之江城(佛殿城)を中心とした公園である。
・天守閣からの瀬戸内海の島々、法皇山脈の眺めはとても美しい。
・毎年4月には、桜まつりが盛大に催される。
・川之江城が聳える小高い山は、城山・鷲尾山(わしおやま)と呼ばれる。
川之江城/佛殿城 |
尾藤二州記念碑
・尾藤二州は、川之江市出身の儒学者で、寛政三博士のひとりに挙げられる。 ・この記念碑は、向山古墳の天井巨石を利用して建立された。 |
住吉公園【川之江市金生町】
向山公園【川之江市上分町】
森と湖畔の公園【川之江市金田町】
オートキャンプ場
・敷地面積7000u、11区画のキャンプサイトと共同炊事場、トイレ、シャワー、管理棟等を備える。 ・利用料金は一泊二日で2000円、日帰りならば1000円。 ・電話番号:0896-57-0618 |
ハーブ園
・約50種類、2700株のハーブが芳香を漂わせる。 |
ショウブ園
・約1000uの敷地に10000本のショウブが開花する。 |
「悪霊退散!!矢1008本連射〜川之江・八幡神社百手祭り」、愛媛新聞、平成11年(1999)3月8日
「ふるさと今昔 百手祭 川之江市 復活した『鼻つき飯』」、愛媛新聞、平成9年5月31日
城山公園桜まつり(4月上旬)
向山公園桜まつり(4月)
奉納踊り(5月4日、5日)・大西神社で行われる。
川之江紙まつり(7月最終土曜、日曜)【川之江市川之江町】・1998年で第21回目を数える。
・紙の造形物や紙製品の展示即売、紙おどりなど、紙に纏わる催しが盛沢山。
・商店街からおまつり広場まで、小学生や幼児による鼓笛隊がオープニングパレードの行進を行う。[1998]
・商店街ではフリーマーケットで賑わう。[1998]
・紙のまち資料館でもケナフによるはがき漉きなどが催された。[1998]
花火大会(7月)・川之江港に千数百発の花火が豪快に打ち上げられる。
かわのえ秋まつり(10月13日〜15日)
奉納芝居(10月15日)【川之江市領家 山城神社】・山城神社で行われる。
・江戸末期から、毎年秋祭りに旅役者を招いて奉納されていたが、昭和39年に一時途絶えた。
・昭和57年より地域住民により復活。昭和58年には「山城神社奉納芝居保存会」が結成された。
・過疎・高齢化により、平成11年を最後にまたもや幕を閉じることとなった。
第1展示室
・紙物産展示・即売 |
第2展示室
・不織布・機能紙 |
第3展示室
・紙の原料と工程/機械抄製紙 |
手すき和紙づくり体験コーナー |
かわのえ高原(たかはら)ふるさと館【川之江市川之江町】・常設展示室:「川之江のあけぼの」「中世動乱期の川之江」「幕藩体制下の川之江」「近代化への道のり」をメインテーマに、古代から現代に至るまでの川之江の歴史を辿る。
・企画展示室:歴史・文化に関する資料、絵画・書・写真等の作品展示を行う。
・実習室:陶芸・木工、油絵等の教養講座を開設。
・この他、講習会・研修会用の多目的室、視聴覚ギャラリーなどがある。
・川之江市切山にある国指定重要文化財「真鍋家住宅」のミニチュアモデルも展示されている。
梅錦酒造【川之江市】・電話番号:0896-58-1211
・10月1日の日本酒の日に公演が開催される。
かわのえ考古資料館【川之江市川之江町】・2004/2/12オープン。
・開館時間:09:00〜16:00
・休館日:毎週金曜日
・入館料:無料
《References》
「川之江の古代一望 考古資料館オープン 市内出土の遺物を展示」、愛媛新聞、2004/2/12
与謝野晶子歌碑
「姫ヶ岳海に身投ぐるいや果てのうましと入りぬ大名の娘は」 |
勝負谷【川之江市】
木梨軽太子に関する伝説
・第19代允恭天皇の第一皇子・木梨軽太子は、同母妹である軽大郎女と禁断の愛に溺れたことにより、皇太子の座を剥奪されてしまった。
・軽太子は、弟の穴穂皇子と対立し、伊予国に配流された。[古事記]
・軽大郎女だけが伊予に流された。軽太子は穴穂皇子との戦いで自刃した。[日本書紀]
・途中で時化に遭い、妻鳥の浜田の海岸に漂着した。そのときに船を繋いだのが東宮石である。
東宮石
・丸住製紙大江工場の信号の手前を西へ少し入ったところの右手に東宮石の看板有り。その看板の奥手の墓地に東宮石がある。 ・木梨軽皇子が船をつけた場所とされる。 ・この付近で、弥生時代中期から6世紀にかけての遺構が確認されている。土器類も出土している。 |
東宮山古墳
・埋葬者は木梨軽太子であるとされる。[古事記] |
切山キャンプ場【川之江市金生町切山地区】
森と湖畔の公園オートキャンプ場【川之江市金田町】
余木崎海水浴場【川之江市】
・香川県境にある。
・愛媛県自然海浜保全地区(昭和58年4月26日指定)
・シャワー室、休憩所、トイレ、駐車場有り。
余木崎→See.伊豫温故録
古代米栽培【川之江市金生町切山地区】・平家遺跡保存会が休耕田に試験的に植えたもの。
・赤米、黒米、緑米の3種が栽培される。
・10月には栽培田見学会が催される。