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こたろう博物学研究所
探訪記録:20000610

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桂ヶ森(久万町)、池の城山登山と帰路での道草【平成12年6月10日】


 生憎、今日の天気は芳しくないようだ。灰色の雲が松山平野の上空全体に覆い被さっている。午後からの降水確率は50%超であり、山など行こうものならば、雨に見舞われることが必至であろう。こんな日は大人しく家にこもっていようかとも考えたが、ひょっとしたら天気予報が外れて、雨だけは免れるかもしれない。こう思い出したらもう止まらない。一応は合羽や傘をリュックに詰め込んで、8:15、松山を出発。

 重信川左岸を上り、国道33号線経由で国道379号線に出て、広田村方面を目指す。途中、お茶を買い忘れたことに気が付き、何とかPETボトルの自動販売機は無いものかと辺りを見回しながら車を走らせるのだが、いかんせん、既に車は砥部町の川登地区を抜けようとしている。自動販売機も店も全くない。「まぁ、広田の"道の駅"にでも行けば、最悪は350ml缶のお茶ぐらいは調達できよう」と思いながら進んでいると、万年のところに、PETボトルの自動販売機が具合良く設置されていた。おまけに煙草の自動販売機もある。早速車を停めて、調達。

 上尾峠(うえびとうげ)の所で左折し、県道220号線を通り、満穂(みつほ)経由でサレガ峠越えで桂ヶ森を目指そうと目論んでいたのだが、峠手前のところで工事中のため通行止め。一昨年にも同様に峠越えしようと試みたのだが、そのときの記憶では近々開通という看板が立っていたはずだ。何時の間に開通予定が変更されたのだろう。今日こそは絶対に通行できると確信していたのに、とんだロスタイムである。
 
 仕方が無いので、引き返し、総津落合から左折して県道42号線経由で目的地へ向かうこととする。小田町・久万町境界の下坂場峠を越えて、二名(にみょう)の葛城神社下の三叉路で左折。県道220号線を北進し、東条・中条・帯石の集落を抜ける。富重の集落辺りから道が若干狭くなり、もうそろそろかと考えていたら、その通り、500mぐらいで北上方へと続く未舗装の林道が見えてきた。丁度、林道入口のところは幅員が広くなっており、駐車にはお誂え向きである。路傍に車を停めて、早速登山準備に移る。時刻は10:10。

 林道を上っていく。少し上ったところでヘアピン状態に折れ、方向は南へと変わる。10分ほど歩くと、東方向へと方角が変わり、辺りは雑草が蔓延ってくる。これといって目新しい花にも出遭わないなぁ....と半ば残念がって歩いていると、道端に黄苺がいっぱいなっているではないか。子供の頃を懐かしみ、早速実を摘んで口に放り込む。甘酸っぱい柑橘系の果汁が口の中に広がる。野いちごの中では王様的存在である黄苺に出遭うことが出来、すっかり御満悦になってしまう。誰一人として苺を摘む人が訪れてないようで、どの枝もみずみずしい実を付けており、気分は最高である。

 自然の恵みを味わいながら歩いていると、コガクウツギがあちこちに白い花を開いているのが目に入る。写真を撮ったりしながらゆっくり歩いていくと、やがて伐採した木を車に積むための作業場のようなところに辿り着く。「ここが登山口だろうか」と思い、辺りを見回すが、それらしき標識も見当たらない。確かに沢の左側に上方へと続く林業用の道も続いている。しかし時刻も10:25であり、地図を眺めて目星をつけた登山口にしては近すぎる。ということで、更に林道を進むことにする。

 ヘアピン状に折れ曲がるなだらかな道を歩き続けると、またもや似たような作業場に辿りつく。どうやらここが地図上で記されていた尾根越えの登山口のようだ。林業用の小屋も据えられているが、ここにも桂ヶ森を示すような標識類は一切無い。時刻は10:35。

 雨露に濡れた沢沿いの山道を上っていく。忽ち足の裾はずぶ濡れ状態になっていく。やがて左側へと山道は巻いて行くようになる。しかし、これでは方角的に見て、正反対のような気がする。どうもおかしい。そこで、沢に沿って上って行くことにする。炭焼き窯跡の横を通り抜けると、何やら看板が立っている。「ひょっとしてこれが案内板か!」と期待して、書かれている文字を覗き込んでみると、「山火(たばこ、たきび)注意 公団造林地 3.68ha」という期待外れの代物。がっくりきてしまう。

 歩き始めて40分。沢の辺でちょっと一休みすることにする。辺りを見回すと、間伐で切り倒された木が至るところに無造作に横たわっている。今から進もうとする方向を見ても、遠慮無しに倒木が道を塞いでいる。さて、今からどう進めばいいものかと思案してしまう。6万分の1の地図では、今自分がどの地点に居て、どの方向へと進んでいるのかが漠然としか掴めない。方向感覚には自信があったのだが、自分が進んでいこうとする方向に確信が持てない。さて、どうしようかと思い、ふと急斜面の上を見上げると、なんとなく稜線らしい部分が見える。まずはあそこまで上ってみよう。そうすれば下界が見下ろせ、且つ桂ヶ森がどの辺に位置するかが掴めるかもしれない。

 腰を上げて、沢沿いに少し上る。注意深く足元を見るとフタリシズカと思われる白い小花をつけた草がポツポツと顔を見せている。踏み潰さないように足の運び先を選びながら、倒木をかいくぐり進んでいき、途中から急斜面を這うようにして上って行く。この斜面も倒木が無造作に横たわっているので、上りにくいことこの上なしである。

 15分強でササ(スズタケ)が生えたなだらかな肩の部分に辿りつく。しかし期待外れで、周りの景色は植林された木々達がシャットアウトしている。僅かに北方に開けていて、その方向には山頂に礫岩を携えた岩峰がそそり立っている。「ひょっとしてあそこが桂ヶ森?」自分が今居る場所からはどう少なく見積もっても1時間近くかかりそうである。

 3月26日の三ツ森登山に引き続き、今回も山頂未到達になってしまうのか....と、半分諦め気分になりながらも、取り敢えず稜線を辿りながら、最寄りのピークを目指すことにする。笹原とまではいかないが、尾根沿いは笹が生えていて、行く手を阻むような雑木も無く、比較的歩きやすい状態である。そうこうしていると、木の枝の所々に青い荷造り紐が括られているのが目に入ってきた。もしかして先人が目印として残したものか...と少し嬉しくなってくる。10数メートルピッチで括り付けられているので、妙に安心感を覚えてしまう。それを辿りながら進んでいくと、突如辺りが明るくなった。非常に狭い空間ではあるが、草むらの中から三角点が顔を覗かせている。北方を見ると、先程見えた岩峰が低い位置に見える。 「やったぁ!」と思わず声が出てしまう。11:45、桂ヶ森山頂到着。山頂には三角点と「二等三角点」と記された標柱が建つものの、桂ヶ森という名前を示すものは全く無い。だが、ここがその場所であることは間違いなさそうである。

 しかし残念かな、眺望は宜しくない。大野ヶ原や五段高原、大川嶺など南方に連なる山々や、皿ヶ嶺辺りまで展望できると期待していたのだが、北方を除く全方向とも木々の枝に邪魔されて眺めることができない。しかし、南方は小振りの木の枝を手で掻き分けると、かろうじて大野ヶ原などの連山を確認することができる。ステッキで枝を横に払いながら、頭に雲を被った大野ヶ原を写真に収める。

 さて、ゆっくりメシでも食べようかとリュックから折り畳み椅子を取り出そうとすると、空よりポツポツと雨の雫が落ち始めた。「折角辿り着いたのに何たること!」と恨めしく空を見上げながら、少しでも雨除けになるよう、場所を北寄りに移動し、植林の中のちょっとした平らな部分に腰を下ろすことにする。まぁどっちにしろ、景観を楽しみながらの食事にはありつけないのだから、とにかく雨足がこれ以上強くならないを祈りながら、早速、ラーメン作りに着手する。

 今日は気温が低いせいか、少し肌寒い。半袖で来たのはちょっと失敗だったかなと思いながらも、熱いラーメンをすすっていると直に身体は温もってきた。

 もう少しゆっくりしようとも思ったが、どうも雨足が気になる。身体が濡れるほどでもないのだが、ポツポツと雨雫が時折頬を叩く。35分ぐらいの昼食・休憩を取り、下山に移る。来た道を折り返そうとも思ったが、当初の予定ルートの状態も確認しておきたく、北側の尾根を下り、コルからの下山を試みることとした。

 山頂からやや下ったところからは西方向への眺望が広がる。三郷の辻を始めとする久万町・広田村境に連なる山々が見渡せる。今回の登山で、一番の景色である。

 そこからコルまでの稜線沿いには、極めて狭い範囲ではあるが、ナラなどの林が残っている。植林ばかりで半ばうんざり状態であったが、少し心が和む気がする。上るときに通った道よりも、気分的にも楽な気がする。もっとも、歩き易さという面でも勝っているのだが。

 コルのところからは、植林地帯をかいくぐって、踏み跡さえも定かでないような道を下って行く。途中、色気が出て来て、「そういや桂ヶ森から見えた岩峰はここの上部ぐらいだったなぁ」と進路を右にずらして、再び上りに差し掛かろうともしたが、目の前に突如とぐろを巻いたヘビが出現したため、ちょっと怖くなって寄り道は止めることとした。

 下りは快調に足が運ぶ。すぐに上り時に思案のために小休止した場所に着いた。邪魔臭く思っていた倒木も余り気にはならない。このまま一気に下山していく。12:55、登山口のところに到着。あとは林道歩きを残すばかりである。5分ほど休んだ後、来るときと同様、黄苺を摘みながらゆっくりとした足取りで林道を下って行く。あちこちから響くかっこうやウグイスの囀る声を聞きながら歩いていくと、あっと言う間に駐車していた林道入口に着いた、時計の針は13:25。登山道らしき登山道もなく、また標識らしい標識は一切無い、そして景観という景観は殆ど楽しめない登山ではあったものの、終わってみれば、まずまずの面白味のある登山であった。

 しかし、人様にお勧めするような場所ではないことも事実。山頂付近が刈り込まれて展望が開けており、そして登山道がもっと明瞭ならば申し分ないのであるが、僕のような初心者にとってはちょっと酷な山である。もしこの記事を読んで行ってみようと思われる方は、慎重に行き帰りの道をトレースすることを心掛けたほうが良いであろう。


●瀬戸新四国八十八ヶ所

 桂ヶ森から下山した後、車を北に走らせ、瀬戸の集落にある「瀬戸新四国八十八ヶ所」を見に行く。県道沿いに大きな看板が立てられているので、見過ごすことはない。この看板は、久万町むらおこし事業実行委員会の建てたもので、以下のような開帳の由来が記されている。

久万「瀬戸新四国八十八ヶ所」の由来
「ここ久万町大字二名瀬戸部落は、古来より十五戸余りの集落であった。約百五十年の昔、この地にはやり病が蔓延した折、お大師様をまつり息災を念じた処その霊験によりたちどころに平癒したと伝えられ、爾来ここは大仏谷と称され霊地として崇められていた。
 その後明治時代終り頃、原町村宮内(砥部町)に住む越智カメ女が発心し奉賛を呼びかけて、上尾峠の青石による石仏を奉納したと伝えられている。
 大正年間に入り、富重部落の渡部四郎三郎氏らの■進により御本尊様を囲んでの新四国八十八ヶ所建立となり、大仏谷周辺に篤信家奉納の石仏が建立されたのである。
 そののちこの新シコクの石仏は、長らく忘れられていたかの如く風雪に打たれ、雑草に埋もれてしまっていた。これを昭和五十八年、地元の方々の発心と松山市徳風会の人々の御奉仕と山主の方々の御芳志により、同年九月十六日奉賛会員一同の念願がかない、開帳法要の運びとなったものである。
 以来、毎月十六日の縁日、そして九月十六日の大法要をはじめとして善男善女の参拝者は後をたたず、霊場に香煙のたゆることなく今日に至っているのである。」

向かって右より、「瀬戸新四国八十八ヶ所」の碑、修行大師像、得徳院佛母禅定大姉石像(由来碑有り)、水子供養地蔵が建ち、左端の階段を上ればやや小高い位置に八十八体の石仏が左から順番に立ち並んでいる。石仏達は皆、赤や黄色の涎掛けを纏っている。


●サレガ峠

 来る時に通行止で途中断念したサレガ峠の建設状況を確認しておきたいということで、瀬戸新四国八十八ヶ所を眺めた後、車で上がってみた。峠直近までは舗装もなされており、開通が近いことを窺わせるが、得てして田舎の道路工事は長期化するもの。気長に待つしかない。

●帯石ちびっ子広場

 県道220号線を南に下っていると道の左脇に鎮守の森らしきものが見えたので、迷わず車を停める。とことこと歩いて上がってみたが、社殿は最早朽ち果て寸前である。境内には、錆付いたブランコや鉄棒が物悲しそうな顔をして佇ずむ。「帯石ちびっ子広場:ママとぼくの広場 昭和50年度 寄贈愛媛県」という看板がその横に立つ。子供達の集う空間となることを期待して設けられたものであろうが、今では忘れ去られそうな空間と化している。

●二名小学校横

 二名小学校の横に車を停めて、先程上った桂ヶ森の姿を確認する。頭をちょこっと出しているだけで、山容全体を確認することはできない。残念。
 小学校の南東には河床が自然石の石畳となっている、仁淀川水系の天神川が流れる。人工的ではありながらも、無機質なコンクリートで塗り固められたものではなく、田舎の風景に非常にマッチした仕上がりになっている。土石流危険渓流に指定されながらも、荒れた様子は全く無い。

●葛城神社下

 葛城神社は1998年9月5日の探訪で立ち寄ったので、境内までは上がらず、参道前にある「四国のみち」の案内板を眺めるだけにした。「久万郷の峠に通ずるへんろみち」「久万郷の峠を越えるへんろみち」「山里のへんろみち」という「へんろみち三部作」のコース案内が記されている。

●二名の名水

 どうしても桂ヶ森の全容を写真に収めたいということで、葛城神社よりやや東に下ったところの路側に車を停める。北方を眺めると、桂ヶ森の雄姿が目に映る。最初にこの姿を眺めていれば、登山時の山頂付近で不安感を抱くこともなかったろうにと数時間前のことを残念がってしまう。
 山景を堪能した後、ふと道路の反対側に目をやると、何やら水が湧き出ている。近寄ってみると「二名の名水」と記してある。口にすると、まろやかな味だ。水量はさほど多くはないが、自然水ファンには是非ともお勧めしたいポイントである。

●下坂場峠

 来た道を折り返し、県道42号線を走る。久万町・小田町境界にあるのが下坂場峠であるが、その名を示す標識があるわけでもなく、単に町名標識があるだけに過ぎない。そしてこれといった見所があるわけでもない。ごく普通の山越えである。

●倉谷

 倉谷のバス停留所がある三叉路のところには「臼杵地区総合案内板」と称する真新しい案内地図の看板が立てられている。これといって観光すべきポイントが記されているわけでもなく、集落の位置の案内に徹しているものである。
 その看板の横には神社があるが、社号は不明。鳥居の脇には色鮮やかなツツジの花が植わっている。境内は小振りながら一面が苔生しており、いい雰囲気を醸し出している。
 看板の道を挟んで対面には六地蔵が祀られており、その横にはへんろみちの道標が建てられている。

●池の城山

 時間はまだ15:30を過ぎたばかり。雨足も強くないので、倉成から南へ続く道を上って行く。途中で、西峰(にしみね)と倉成(くらなる)への分岐にさしかかる。ここを西峰方面へと曲がり、しばらく進むと民家に出くわす。この辺りからは北方に連なる山景が美しい。三郷の辻(931.9m、小田町/久万町/広田村)や、高土の峰(796m、広田村)、そして遠く水梨山(728.9m、広田村/砥部町)、千里城山(592m、砥部町)が見渡せる。
 この先は道の幅員も狭そうなので、ここに車を停めて、歩いて上がることにする。道の脇には葉たばこの畑が連なる。山の斜面に青々とした大きな葉をいっぱいに付けている。

 少し歩くと、舗装が途切れ、雑草が蔓延った林道へと変わる。林道を100mほど歩いたところの谷間から、杉木立の間の山道を上っていく。20分ほど歩くと尾根に出る。踏み分け跡がかすかに残っており、それを辿って歩くのだが、途中からは薮状態。こんな調子で本当に三角点に辿りつけるのかと心配したが、心配するに足らず、すぐに木々の間にひっそりと佇む三等三角点(標高589.2m)を見つけることができた。この山にも、山名を記すようなものは全くない。三角点近傍に建てられていた標柱も、風雨に曝され、朽ちて横たわっている。

 山頂付近からは全く周りの景色が楽しむことができない。休む間もなく、下山に移ることにする。上ってきた道を従順にトレースしたつもりであるが、全く上るときと異なる景色が続く。まあ、上りと下りでは得てして山の景色も異なるものだと安気に構えていたのだが、次第に棘だらけの雑木の中に突入してくる。上ってきたときにはそれほど距離はなかったので、このまま進んでもどうにかなると高を括って進んで行ったのだが、とにかく酷い状態である。服のあちこちに棘が引っ掛かるわ、その棘を気にし過ぎると足元を滑らして尻餅をついてしまうわ、雨露で靴からズボンからずぶ濡れ状態になるわで散々である。

 やっとの思いで林道らしきところに出たのだが、歩いても歩いても来る時に眺めた景色にありつけない。一体、どこを自分は歩いているのだろうと不安になり、方位磁針を取り出すと北からやや西よりの方向に歩いているのだから、間違いはないはずだ。強引に確信を抱きながら林道を更に進んでいくのだが、道に生い茂った茅などの雑草は僕を容赦無く濡れ鼠にしてくれる。全く泣きたくなってくる。

 10分弱歩くと、確かに記憶のある景色に巡り合えた。どうやら西に向かって下りたつもりが、かなり南にずれて下りてしまったようだ。無事辿り着けて本当にほっとした。

 結局往復小一時間の山行。三角点を発見できたのだけが唯一の収穫の登山だった。


●広田村庁舎前

 そう言えば広田村には再々訪れてはいるものの、村の中心地・総津の街並みを車を走らせたことはなかった。折角なのでぶらっと回り道してみる。
 しかし、これといった見所はない。広田村庁舎前には、「渡邊成壽翁頌徳碑」なる碑が建てられているが、どのような功績をなした人なのかは全く掴めない。
 その他には特筆すべきこと無し。

●道の駅・ひろた

 国道379号線を北進していると、いつもと異なり多くの人々が道の駅の周りに居る。制服を着て交通整理をしているおじさんの姿も見える。何事だろうとスピードを緩めてみると、どうも祭りをしているようだ。4〜5件の露店が出ている。路側には「ほたるまつり」と書かれた水色の幟が多数立っている。
 折角来たのだから、立ち寄ってみようかと、ふるさと館の前に車を停めて「峡の館」の方まで歩いてみる。よくよく自分の姿を確認すると、先程の池の城山ですっころんだため、ズボンはめちゃくちゃ泥塗れになっている。みっともない格好だが、まあ気にしないでおこう。
 祭りとはいえ、あまりぱっとしないというのが正直な感想。家族連れでもなければ長居しても仕方がないと感じてしまう。しかし、こんなことを言いながらも「峡の館」内に展示されている民具・農具・生活具のコーナーでは、数こそ少ないが自分にとって興味深いオブジェが立ち並んでいるのでしばらく見入ってしまったのだが。
 峡の館の東側の吊り橋を渡り、鉱山跡のコンクリート構造物を眺める。そして、玉谷川の縁を歩き、土居不可止の句碑が有ることを確認する。最後に、トイレの壁に貼り付けられた陶板「伊豫浮穴郡総津村権現山細見之図」をしげしげと観察するが、まつりに訪れた人がどうもトイレに入りづらそうなので、さっさと引き揚げることにする。

●銚子の滝

 雨が降っているので、ひょとしたら銚子滝の横に出現するという布引滝の姿が拝めるとの淡い期待を込めて上ってみたが、残念。

●砥部衝上断層

 久し振りに砥部衝上断層を見ることにする。何遍来ても代わり映えのない風景である。しかし、いつもは気にとめてなかったのだが、この辺りからの障子山の姿は美しく、伊予市方面から見たのとはがらりと趣が異なっている。山登りを始めなかったらこのような景色の存在にも気付かなかったのかもしれないなぁとしみじみ思ってしまう。

●素鵞神社

 遊びついでに、帰りがけに松前町内に鎮座する二つの素鵞神社に立ち寄る。

 まずは、大溝の叶田にある素鵞神社。教育の町をアピールする松前町らしく、村の鎮守のような社にもしっかりと立て看板で詳細の説明をしている。
・祭神:素戔鳴命[武塔天神(ぶとうてんじん)、牛頭天王(ごずてんおう)]
・配神:大山咋神(おおやまくいのかみ)[山末之大主神]
・伊予川(重信川)の左岸に位置する大溝地区は、水に恵まれた地の利を得た地域である。従って治水工事のいかんでは恵まれた環境も左右されてしまう。大溝では、開拓・治水工事の祖神である大山咋神を祀って、村の進展に努力をしてきた。その結果、元禄元年(1688)の「伊予郡廿四箇村手鑑」による平均耕作面積は約7.3反で、町内では屈指の裕福な農村となっていた。
・慶長3年(1598)、疫病が流行したので、玉生八幡神社の神主が「熊野三社宮」を勧請して祇園社(大王社)を建立し、主祭神として祀った。以後、明治の初年に「素鵞神社」と改称するまでは、「おてんのうさん」と親しみ呼んでいた。
 引き続き、東古泉の一ノ関にある素鵞神社へ。こちらもちゃんと説明書きが施されている。
・祭神:建速素戔鳴命(たけはやすさのおのみこと)
・配神:日速彦命(ひはやびこのみこと)、三女大姫神(さんじょおおひめのかみ)
・寛喜4年(1232)6月17日、国司・河野通尚(みちなお)が性尋寺(金蓮寺)に来訪していた明海禅師(みんかいぜんし)に命じて、玉生八幡大神社の祭神である三女神の分霊を安置して弁天社(市杵島姫命を祀る)と号した。
・その後、慶長3年(1598)6月に疫病が流行したので、玉生八幡大神社の神主が時の領主・加藤嘉明に請って熊野三社宮を勧請して、弁天社内に祇園社を奉斎し、流行病を鎮める守護神として尊崇した。
・正徳6年(1716)に弁天社と祇園社を合祀して「淵の神社」と改称し、さらに明治3年(1870)に素鵞神社と改称し、現在に至っている。
・配神の日速彦命(桶速日神、嘆速日命)は、火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)の血から生まれた神で、灌漑用水・農耕発達を促す神として祀られ、招福・縁結び・夫婦和合の神とされる。
・中殿は昭和63年に氏子により改築された。
・例祭は5月1日。



【同行者】なし
【コースタイム】
[往路]林道入口[富重]→(25分)→登山口→(30分)→肩部ピーク→(25分)→桂ヶ森山頂
[復路]桂ヶ森山頂→(10分)→コル→(20分)→登山口→(25分)→林道入口[富重]
[往路]西峰民家下→(10分)→林道終点→(3分)→山道入口→(25分)→池の城山山頂
[復路]池の城山山頂→(30分)→西峰民家下  ★帰りは道を間違って薮こぎ状態だったんで、あんましあてにはなりません。
 

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