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こたろう博物学研究所
探訪記録:19980905

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広田村/小田町/久万町/美川村/砥部町方面散策【平成10年(1998)9月5日】


今回は、たけしさん・しんさんとの3人旅。


1.上尾峠〜満穂【広田町】

国道379号線を南へ。上尾第1〜3隧道を抜け、上尾峠(うえびとうげ)で左折し、県道220号線(上尾峠・久万線)を走る。

・やがて、ひなびた集落に出る。バスも運行していないと思われるひっそりとした山高い場所。満穂集会所前辺りに数軒の民家があるものの、すぐにまた山道へと変わる。過疎化が著しく、この部落の人口は20〜30人いるかいないかといったところだろう。村指定無形文化財として満穂万才があるが、このような伝統芸能の存続も危惧される。どうか廃れないことを祈る。

サレガ峠越えを目指し、更に車を走らせるが、しばらくすると、「この先1.5kmで行き止まり」との看板が。たけしさんの持っているロードマップ詳細版を見てみると、確かにサレガ峠周辺の1kmぐらいが未開通の表示になっている。躊躇し、引き返そうとしたが、行けるところまでは行ってみようということで、更に奥へと車を走らせる。

・やがて舗装も途切れ、バラス状の石が散乱する道へと変わる。タイヤを気にしながらも、先へ先へと進むが、結局はあと1km弱というところで道路工事の真っ最中に出くわし、どうにも通ることなどできはしない状態。結局仕方なく引き返すことにした。(今年の秋には全面開通する予定のようだ。)

・途中、見晴らしの良いところで車を停めて、広田・中山の山並みを眺める。所々、茶色に切り崩した山が見える。何のために切り崩したのだろうなどと考えていたのだが、それは次に訪れた神の森公園で答えが見つかった。上尾の陶石採掘場だったようだ。その他、中山のロイヤルゴルフクラブ、そして遠くに砥部の町並みまで眺めることができた。


2.道の駅「ひろた」/神の森公園【広田村】

・気をとりなおして、県道42号線からのルートで久万町を目指して車を走らせる。

・途中、折角だからということで、道の駅「ひろた」、神の森公園に立ち寄ることにする。

・まずは、神の森公園に上がり、正12角形の赤屋根の建物「農村工芸体験館」に入る。1FLで広田焼の実演コーナーや作品展示を眺める。相も変わらず館内は閑散としていて、ワシら3人以外誰も訪れていない。係員だけが、轆轤の部屋で実務に没頭している有り様だ。

・2FLで、倉橋正泰先生の水彩画や土鈴(どれい)コレクションを観覧する。倉橋先生の水彩画が何時見ても美しい。体験館の円周状の壁に貼り付けられている揚子江沿いの風景画も去ることながら、広田村内/周辺の風景画がいい。千人塚・長曾池、総津の家並み...どこにでもあるようで、忘れかけている風景がしっかりと描かれている。

・倉橋先生のプロフィールを少々。昭和4年、広田村総津に生まれ、愛媛大学教育学部2年中退後、玉川大学文学部へ進み、その後、近隣の小・中学校の教員を務める。昭和60年に退職した後、海外スケッチ旅行などに出向き、多くの水彩画を残している。今から老後のことを考えていても仕方がないが、ワシもこのような過ごし方をしてみたいもんだ...とつくづく思った。

・次に道の駅「ひろた」の川沿いを散策してみる。水車小屋は手入れが悪いせいか、回転が悪くなっている。人の手を介さねば回ることができない。折角、いい設備を作っても管理が行き届かないのは寂しい限りだ。そもそも設計がまずいのかもしれない。

・川沿いを歩くと、胡桃(くるみ)の実が歩道上に落ちていた。最初は気にもしなかったが、しんさんが「これ、胡桃と違うかなぁ」と言って初めてその存在に気がついた。正直な話、胡桃の木・実の現生を見るのは初めてだ。確かに拾い上げてみると手触りが「胡桃」である。ポケットに2個しのばせて土産に持って帰ることにした。

・そして物産センターで山の幸を物色する。価格(300円)にも惹かれて梅干しを買うにした。見事な赤色に染まっている。店のおばちゃん(おねえさん?)達が「田村のばあちゃんントコの梅干しは、ほんと綺麗な赤に染まっとらいねぇ、どがいにして作りよるんじゃろねぇ」と話を始める。商売っ気が無くて、好感が持てる。

・店頭にはいちじく(無花果)も並んでいた。おばちゃんが、「いちじくにじくがあって、にじくのほうが甘くて美味しいんよ」と宣伝していた。「にじく」という響きは初めて聞いた。色合いが普通のいちじくよりも赤っぽい。


3.三島神社(田村神社)【小田町(大字)臼杵(字)本成】

・国道379号線から左に折れ、県道42号線(久万・中山線)を東に進む。しばらくすると、道沿いに木製の鳥居が見えたので、道端に車を停め、立ち寄ってみる。

・郷社。地図上では単に「三島神社」と記されているが、拝殿の中の額を見ると「三島神社/田村神社」と併記してある。何時かの時点で合祀されたものと思われるが、由来等が記されたものが全く無いのが残念である。

・創建は700〜800年頃と思われる。(1200年記念碑が建っていた。)

・小さな「村の鎮守」でありながらも、楼門を構えている。楼門内には古めかしい木造が安置されていた。


4.葛城神社【久万町(大字)二名(字)宮成】

・林の中の曲がりくねった道を進み、小田町/久万町の境、下坂場峠を越えて700〜800mほど進むと、当初の目的ルートであった県道上尾峠・久万線(220号線)ニの合流点に差し掛かる。「この辺りに神社があるはず」と車を停めてきょろきょろ探してみると、丁度背後に参道が見えた。

・立っているのもやっとという感じの注連石の右側には「文明」、左側には「開化」と刻まれている。ということは、この注連石は明治初期に作られたものであろうか。

・階段を上り詰めたところに楼門が聳え建っているのが見える。

・階段の両脇には豊かな社叢林が生い茂っている。通称「永田の森」と呼ばれているらしい。杉(すぎ)や桧(ひのき)の老大木や欅(けやき)、イロハモミジなどが勇壮に立ち並び、原生林的な雰囲気を醸し出している。

・「天武天皇御宇の686年、大和国葛城山から役小角を迎えて伊予国の開発を進めたとき、往時より祀っていた饒宮(古宮)と称していた饒速日命を祀っていた社へ、大和葛城山から一言主命、味■高彦根命(■は「金且」)を奉遷したという。そして建久3年には山城国男山八幡宮を、更に文明3年には京都北野天満宮から菅原道真公の霊を勧請・配祀した。」

・拝殿内には明治時代の奉納額が多く架けられている。興味深かったのは、天井の照明回りに付けられた方位板。比較的新しいものだろうが、このようなものが奉納されているのは初めて見た。

・拝殿に向かって右側に「拝殿寄付記念碑」が建っている。寄付額がお金の単位でなく、「石高(石、斗)」で記されている。何やら古めかしそうだと思ったが、明治21年1月14日である。田舎だからお金の流通が無かったのだろうか?

・楼門脇には「造林記念碑(県知事久松定武、昭和45年7月)」が建っている。裏面に刻まれた説明書きを読むと、「昭和34年、父二峰村、久万町、川瀬村を合併......」とある。

・楼門の前には水盤(すいばん=手水桶)があるが、文政7年甲申閏(1824)8月に作られたもので歴史を感じさせる。


5.慰霊碑/頌徳碑【久万町二名】

・葛城神社から少し南に下ったところ、道の左側に地区の集会所があり、小高い丘の上に慰霊碑が建っている。昭和18年12月建立とあるから、太平洋戦争の戦没者を慰霊したものであろうか。

・その丘への登り口のところには、頌徳碑が3つ並んでいる。左側から「宮脇順」、「大野直栄」、「亀岡重太郎」の各頌徳碑が建っている。背面にその功績が記されているものの、なかなか読みづらい。今度ゆっくりと調べることにしよう。(地元の名士であることに違いないが、いずれも大臣・知事の書となっているので、きっと大きな功績を上げたことであろう。)


6.上黒岩遺跡【美川村上黒岩】

●上黒岩遺跡

●上黒岩考古館

・入館料:100円。

・白髪の仙人のような館長(?)が懇切丁寧に原始時代〜縄文時代の事柄や上黒岩遺跡に関する話を色々と語ってくれた。彼の話してくれた内容の要約は以下の通り。

  • 4層(8000年前)の女性人骨は何故現在までこのような綺麗な形で残ることができたか?それは石灰岩に保護されたためだ。因みに当時の女性の身長は140〜150cm。
  • 調査当時は第14層まで掘り進めたが、何も出土しなかったので埋め戻し、現在のような形になっている。
  • 園山俊二先生が描いた「はじめ人間ギャートルズ」が石器、あれが(ここに展示されている)「礫器(れきき)」、「石槍(せきそう)」である。
  • (ここに展示している)約12000年前の細隆起線文土器(さいりゅうきせんもんどき)は日本最古のもので、この波形文様がポイントである。
  • 石鏃に使われている黒曜石は九州産のもので、10000年前に九州と交易があったことを示している。
  • 貝殻は高知の海で採ったものである。
  • 12000年前の原始人の1日の行動半径は100kmである。
  • 犬の骨は人骨の傍らに埋葬されていた。原始人は犬は食さず、良きパートナーと見なしていたようだ。だから、昔から「犬」と名の付くものは食さない。

  • といった具合で、チップをあげないと気の毒なぐらい切々と説明をしていただいた。

    ●縄文神社

    上黒岩遺跡の右側に鎮座する小さな祠。平成8年7月に竹口渉氏により建立された。
    ・昭和10年代の開田、昭和36年以降の発掘調査により全国に拡散した人骨・遺物の鎮魂祈願と遺跡の安全・郷土の発展を祈願して建てたという。


    7.山中家住宅【美川村】

    ・重要文化材(昭和45年6月17日、文部省告示第228号)
    山中家住宅は、もと愛媛県宇摩郡別子山村にあったが、県立「岩陰文化の里」の指定を受けている美川村が譲り受け本地に移築して附近の史跡とともに保存勝つようを図ることになったものである。
    ・この民家の由緒ならびに建築年代については詳らかでないが、細部手法から推定すると18世紀中から末期頃に建てられたようである。建物は桁行七間、梁間三間半の規模で向かって左側に出入口をとる。平面は桁行くに三分し、一番上手は「ざしき(座敷)」、次は「いま(居間)」を取り、この二室の前面に縁側をつけ、一番下手は表側に「まえ」、裏に「おく」をとる。現在、間口一間半、奥行半間の土間を復旧しているが、土間が狭く、部屋を一列に並べる間取りは、他の地方の山村民家にも例を見るが、この住宅はその特色が特に顕著である。構造は、上屋、下屋からなり、周囲の下屋を取り囲んでいる。内法材には、差鴨居が多く、壁は板壁である。小屋な又首組と棟束を併用している。
    ●修理の大要
    1.修理は解体移築とし、当初の構造形式を踏襲するとともに後世改変部については資料に基づき可及的当初の形式に復旧整備した。
    2.移築地における基礎は独立コンクリート地業として礎石を据え周囲に雨落石をめぐらせた。
    3.古材は出来る限り旧位置に再用したが、止むを得ず取り替えた材料及び後世切除されたものの補足材は旧工法に倣った。
    ●構造形式
    ・桁行15.37m、梁間7.766m、入母屋造、茅葺
    ●主要寸法
    ・桁行:14.752m
    ・梁間:7.009m
    ・軒の出:南北0.450m、西0.400m
    ・軒高:南北2.220m、西2.170m
    ・棟高7.733m
    ・平面積:99.537u
    ・軒面積:134.689u
    ・屋根面積:242.940u

     ●句碑

    ・碑文を一生懸命読解しようと試みるが、学の無いワシにはなかなか判読できない。「炉乃中に日の当里ゐる初音栗」か。きっと、「囲炉裏の火の中に、今年の秋に初めて取れた栗を入れて焼くと小気味良くパチンと弾ける音が鳴り響いた」といった意味だろう。


    8.農村活性センターみかわ【美川村】

    ・丁度昼時となったので、昼食を摂ることにした。この辺りではメシを食う処の選択肢は余り無い。最もポピュラーな選択肢だろうということで農村活性センターみかわに立ち寄ることにした。

    ・入口左側には水車小屋も設けられて、田舎らしさをアピールしている。

    ・折角だから川魚を食べたい。アマゴ(アメゴ)、アユの塩焼きを頼むことにした。空きっ腹も手伝ってか、この上なく美味しかった。1匹350円は少し高い気もするが、美味しかったから良しとしよう。

    ・窓から下を見下ろせば、久万川の渓流が遥か下方に見える。水の透明度も良く、川底まで透けており、その上をコイやハヤなど大小の魚が悠々と泳いでいるのが見える。ただ川が流れているだけなのに、時間を忘れるほどしばし見入ってしまう。


    9.御三戸(みみど)【美川村御三戸】

    軍艦島の異名を持つ御三戸嶽。何故にこのようなヘアピンカーブ状の流れを自然は作り上げてしまったのだろう。自然の力の偉大さに感動してしまう。


    10.赤蔵ヶ池【美川村】

    ●赤蔵ヶ池

    ・美川村自然保護指定地区

    ・国道33号線、
    ・熊笹が生い茂る山道を700m下って行く。途中、林道の開発中で樹齢20〜30年の杉の木が伐り倒されて、道が拓かれようとしている。利便性と引き換えに景観が損なわれるのもどうしたものかと憂いを感じざるを得ない。

    いかにも鵺が出現しそうな不気味さを醸し出す池が見えてくる。

    ・水面は名も知らぬ水草で一様に覆われている。
    ・池の端に作られた周遊道を歩く。雑木林の広げた葉が陽を遮り、地表部は熊笹(くまざさ)で覆われている。鬱蒼とした木々の中を歩くと俗世間からの開放感を感じないではいられない。日常の気ぜわしさをしばし忘れさせてくれる。

    ・この池は美川村の沢渡、二箆、筒城の山頂にあって湧水による自然の池で、水は農業用水に使われ、四国でも珍しいジュンサイが生育していた。池の周囲は雑木林で四季折々の変化があるが、池は常に蒼然と不気味に静まり返っている。古書にも「鴨住ヶ池」、「阿蔵ヶ池」または「遊ヶ池」といろいろに記されているが、源三位頼政が退治した怪獣(ぬえ)は、この池に棲み、雲に乗って京の空へ往来していたと伝える。周囲575m、面積10,470uという。
    ・この池から南東3kmに下った県道の傍らに竹の群生が見られる。「矢竹」と呼ばれ、頼政がぬえ退治に使用した矢の竹がこれであったと伝え、村は文化財に指定して保護育成につとめている。

    ●美川無線中継所(建設省)

    ●多段積みの稲木


    11.岩屋寺【美川村】

    ●橋の袂に建つ句碑

    ・参道の脇に所々彼岸花(まんじゅしゃげ)が毒々しいほど鮮やかな赤い花を広げている。

    ●一遍上人御修行之地の碑

    ●正岡子規の句碑

    ●庫裏

    ・垂直に立つ岸壁に飲み込まれるように建てられている。何時上から岩塊が落ちてくるやもという恐怖感を感じずにはいられない。

    ●本堂

    ●大師堂

    ●旧参拝道

    楼門が山の上方へと続く小道のほうに向かって建っている。何故だろうと考えていたが、この小道が古岩屋へと続くことがわかり納得がいった。
     

    ●第45番岩屋寺

    弘法大師以前に法華上人という女修行者が篭っていたといわれている。鎌倉時代、一遍上人が参篭したことで有名である。四国巡拝の道筋が南予の海辺から瀬戸内の海岸へ移る転回点を占めている。海抜650mに位置し、寺名は勿論「七鳥」の地名、「海岸山」の山号そのままに大自然との一体感を味わえる霊場である。


    12.古岩屋【久万町】

    ・駐車場、国民宿舎「古岩屋荘」入口のところには「文部省指定名勝古岩屋四国カルスト県立自然公園」と観光地らしくその名前を大きく掲げている。

    ・駐車場から東方、千丈岳(せんじょうだけ)、子持岳(こもちだけ)を臨む。

    ●案内板「国指定名勝・県立自然公園・生活環境保全林 古岩屋案内」

    1.この礫岩峰(れきがんほう)はどうして出来たか。
     直瀬川(なおせがわ)の両岸とその支流に礫岩峰が林立する一帯が古岩屋ですが、岩屋の地名は、岩峰にできた岩窟によるものとされている。
     岩峰をつくる礫岩層は、始新殻久万層群二名層で、礫岩の礫は塩基性(緑色)片岩・泥質(黒色片岩)・珪質片岩などの三波川変成岩類に由来するもので、大小様々な角礫(かくれき)〜亜角礫(あかくれき)より構成されている。このような礫岩内部の様子から、礫岩の堆積した時代(約4000万年前)には、古岩屋一帯に北東方面からの大河があり、扇状地をつくっていたと考えられている。この礫岩層が浸食されて、現在の岩峰や■割が形成された。

    2.礫岩の数、高さ、面積
     古岩屋は、標高500mで約20個の礫岩があり、その面積は60haとなっている。高いものは100mを越え、連結して渓谷を形成し特異な景観をつくりだしている。しかし、独立した岩峰は4峰で他は■割と呼ばれる割れ目によって分離した形となっており、谷に沿う断崖絶壁となっているのが特徴である。

    3.豊富な動植物
     岩はだにはイワヒバ、セキコクなどの群生植物、渓谷にはイワヤシダ、イヨクジャクなど、樹木にはカエデ類、山ツバキ、カシ、クロモジ、シロモジ、ホウノキ、トチノキなどが多い。
     鳥獣類では、外敵を防ぐに都合のよい岩窟が巣づくりに適するため、四季を通じ小鳥が多く、ウグイス、シジュウカラ、カケス、ミソサザイ、アメケラ、キジバト、フクロウ、キジ山鳥、タヌキなどが多く、岩窟にはコウモリが生息している。

    4.四国霊場との関連
     四国霊場44番菅生山(すごうさん)大宝寺(たいほうじ)、45番海岸山(かいがんやま)岩屋寺(いわやじ)の往復路であり、この地域一帯が旧くから大宝寺奥の院としての岩屋寺と結ぶ霊地として、修験者、巡拝者の修行の場となっており、通夜堂や大師堂、寺守堂(てらもりどう)などが建っていた。
     昭和19年国指定の名勝となり、39年四国カルスト県立自然公園の指定、63年生活環境保全林としての指定を受け、景勝地として整備が進んでいる。
     

    ●渓谷

    ・秋にはさぞかし紅葉が美しいであろう。もっとも、夏でもこの緑色に染まった景色は大層美しいのだが。
     

    ●大師堂

    ●不動堂

    ●不動明王像

    ・総高4.90m(1485尺)、明王高3.03m(920尺)、明王巾0.72m(220尺)
    ・カヤの木による一本彫刻像
     

    ●正岡子規の句碑

    「夏の日の ひえてしたたる 岩間かな」

    ●礫岩峰(古岩屋の奇岩)

    「岩屋寺古岩屋の大岸壁や、そそり立つ岩の峰を作っている礫岩は、結晶片岩の岩塊や砂からできています。これと同じ性質の岩石が分布する久万町のひわた峠二名東条などからは、化石も産出しており、その化石の研究から約4500年前の古第三紀の地層であることもわかっています。」
     

    ●古岩屋生活環境保全林の概要

    古岩屋生活環境保全林は、久万町の中心部から南東へ約8km、標高400から900mにわたる山岳地にあり、日本三大カルストに数えられる四国カルスト県立自然公園の一角を占めています。ここには美しい新緑・鮮やかな紅葉・滑らかな水の流れる渓谷を始め、石鎚山を一望する山頂付近には橡(クヌギ)、楢(ナラ)等の落葉広葉樹林帯が広がり、更に国指定の名勝地「古岩屋」には、高さ30から40mにも達する円錐状の奇岩(第三期層礫岩峰)が数十基もそそり立っています。この豊な森林資源を生かした保全林を、四季折々に変化する自然と楽しくふれあう憩いの場として散策してみませんか。」

    13.住吉神社【久万町】

    ・木製鳥居
    ・拝殿は赤色銅板葺(改修)

    ●「天然記念榧の樹叢 住吉神社」の碑

    ●榧(カヤ)の樹

    ・県指定天然記念物(昭和54年3月20日指定)
    ・周囲4m
    ・樹齢約400年
    ・この住吉神社の境内には郡内でも珍しい榧(カヤ)の群生が見られる。杉(スギ)や欅(ケヤキ)に混じって二十数本の榧が群生している。これは自生のものでは無いにしても老木で、しかも群生ということでは立派なもので、昭和54年3月20日に天然記念物として指定となった。
    ・特に拝殿裏のものは、周囲が4mにも達しており、この他3m級のものも数本見ることができる。樹齢ははっきりしないが、400年ぐらい経っているものもあり、かなり古いものであることは間違いない。
    古岩屋には、この榧の中の1本で不動尊が刻まれ安置されている。
     

    ★榧(カヤ)

    ・イチイ科の常緑高木。高さ20mに達する。葉は線形で臭気がある。雌雄異株。雌花は4月頃開花。果実は油の原料となる。材は硬く碁盤などに使う。

    ●県天然記念物「カヤ」

    古岩屋の不動堂に安置されていた(正確には堂の背後に控える岩窟に安置されていた)不動像は、この神社のカヤの木で彫ったものらしい。

    ●ケンポナシ

    ・立ち枯れし、地上2mぐらいのところで折れている木の幹に説明書きがしてある。「ケンポナシ:樹齢250年、高さ28m、直径1m、平成3年7月」と記されている。しかし「ケ」の字がどうしても「チ」に見える。思わず大爆笑してしまった。

    14.仰西渠(こうさいきょ)【久万町仰西】

    ・愛媛県指定史跡(昭和25年10月10日指定)

    ・子供の社会の教科書を読んでいると、久万町に水田用の水路を切り開いた山之内仰西のハナシが載っていたので、どこにあるのだろうと国道33号線を通る度、気にしていた。

    仰西渠付近の久万川両岸は親水公園として整備が着々と進んでいる。

    ・この仰西渠は元禄年間(1688〜1703)に山之内彦左衛門(後に仰西という)が私財を投じて設計・掘削して完成させた手作りの水路である。
    ・長さ57m、幅2.2m、深さ1.5m。
    青の洞門(大分県本耶馬渓町)にも匹敵するといわれる。

    ・この水路のおかげで、農業用水の確保に苦しんでいた農民は大いに助けられた。
    ・岩の下をくぐっている水路は当時の姿をそのままに26haに及ぶ水田を潤し続いている。

    ・洞門の切り開いた岩盤の上には、水路をつくった山之内彦左衛門の業績をたたえ碑が建てられている。
     
    ここを流れる用水路が造られた江戸時代は米は、米は年貢(税)として武士におさめる大切なものでした。人びとは、とても重い税のために、なんとかして水田を広げて、米のとれ高をふやそうと努力しました。 
     入野地区のような、やや高いところへ水を引くには、久万川のずっと上流のこの地から用水路を引くしかありません。 
     最初、人びとは、川の上流に堰を造り、かたい岩山のところは筧(かけい)をつかって水を引こうとしたようですが、筧は台風や大雨、強風などでこわれたり、流されたりすることが多かったようです。修理する費用や時間もなく、水がなければ稲は育たなくなってしまいます。人びとのくらしはたいへん苦しいものだったようです。 
     人びとの苦しい生活をみかねた山之内仰西は、用水路を造り、入野地区まで水を引こうと考えて、かたい岩山を切り開く工事にとりかかりました。 
     はじめは、仰西や石工だけで行っていましたが、「石粉一升、米一升」のアイデアにより村人の協力が得られました。そのうち、米をめあてにしていた人も、心から水を求めて仕事に取り組むようになり、ついに用水路は完成しました。この後は、米の取れ高も安定し、くらしはずっと良くなったそうです。 
     その後人びとは、この用水路を「仰西渠」と呼ぶようになりました。「仰西渠」は、山之内仰西や地域の人びとの「郷土をおもいやる心」がひとつになって、造ることができた用水路です。


    15.理正院/金毘羅山公園/水満田古墳公園辺りの蜜柑山【砥部町】

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