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こたろう博物学研究所
探訪記録:20040101

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高縄山塊登山及び北条市河野郷散策【平成16年(2004)1月1日】


 今年の新年は、山上で迎えようと目論んでいた。
 とは言え、大晦日は炬燵に入って酒でも飲みながらのんびり紅白歌合戦でも眺めていたいもんだ。曙VSボブサップの行方だって気になる。

 せめて初日の出だけでも見に行かねばと、5:30頃、暗闇の中、重たい瞼を擦りながら松山を出発する。「雪の中」「樹氷」...などが頭をよぎったが、今の時間からでは山頂に着く頃には「日の出」には間に合いそうにない。「さてどこに行こうか」と考えつつ、チェーン装着が不要で、ほぼ山頂付近まで車で行けて、7:00ぐらいまでに到着できて、そして見晴らしの良いところ...ということで、行き先は高縄山に決定。日の出を高縄山上で見物した後、北三方ヶ森へ登山することにしよう。

 国道317号線を北上。途中、松山市末町のコンビニ(ローソン)に立ち寄り、朝食を買う。パンをかじりながら国道を走っていると、所々温度表示の電光掲示板が設けられているのが目にとまる。九川の入口付近の温度計は1℃を示している。ひょっとして路面凍結しているのではなかろうかと不安を抱いたのだが、思いのほか路面は良好。高縄山頂に至る迄、一切凍結は見られなかった。

1.高縄山山頂へ

 6:30過ぎ、高縄山駐車場到着。既に数台の車が到着して、焚火で暖をとっている人もいる。「これじゃ、山頂まで車で行っても駐車も出来なければ、折り返しもままならないだろうな」と思いつつ、駐車場に車を停めて、薄暗がりの中、登山道を歩いていく。 高縄山(標高 986m)山頂に着くと案の定である。思ったより遥かに多くの人が初日の出を見に登ってきている。総数40名強といったところか。どうやら地元のイベントで新年登頂しているようにも見える。展望台に上るのもままならない。それでも、展望台に上り、辺りの風景を撮影したりして日の出を待つことにするのだが、東方向はどうも鉄塔が邪魔くさくてならない。

 時刻は7:00。東側の山には分厚い雲が垂れ込めている。日の出にはあと20〜30分かかりそうだ。人が多すぎてどうにも落ち着かない。場所替えのため下山することにする。山頂から真南に直下し、杉の巨木(2本)のところに出る。ここから車道を歩いて高縄寺上部の広場へ。千本杉を眺めた後、高縄寺境内を散策。どうやら高縄茶屋は開店中のようだ。奥さんのところで飼っている犬2匹が人懐っこく摺り寄ってくる。

 おっと、こうしてはいられない。日の出が近付いている。急ぎ足で車のところまで戻り、そして石ヶ峠まで車で下る。三叉路の脇の路側に車を停めて、7:21、大月山(標高 953.1m)へ向けて登山開始。とはいえ、目的地は大月山ではなく、途中の尾根に設けられている展望台。
 旧の石ヶ峠を経由して、15分ほどで目的地に到着。(7:35) 思った通り、誰一人居ない。ちょうど明神ヶ森・福見山の上にかかる分厚い雲から太陽が姿を現そうとしている。ナイスロケーション、ナイスタイミングだ。

 日の出の風景を堪能しつつ、約20分、展望台に滞在。折角なので大月山へも足を伸ばそうかと思ったが、この後は「北三方ヶ森」も待っていることだし...と下山に移ることにする。

 途中、旧石ヶ峠で石仏を観察する。(8:06) 2000/3/20に登山したときには、塞の神かとも思ったが、どうやら地蔵のようである。「八反地村」(現 北条市)の人が奉納したもののようである。制作時期は不明。

 再び歩き始めて、峠直上のピークに建てられた山界標柱にふと目をやると「丁目地蔵」「十丁」の文字が見える。おそらく先ほどの峠の地蔵の名前を指すのだろう。それでは「十丁」は何か?地図帳でこの場所から高縄山までの距離を見ると、直線で1km強。そう、昔の単位で行けば、「10丁」なのである。(1丁≒109m)  なるほど、あの地蔵は道中安全のためだけでなく、旅程を示す役割をも果たしていたのか。なかなか奥が深いものである。このような発見の面白さがあるから、地元探訪は止められない。

2.北三方ヶ森山頂へ

 さて、本日のメインディッシュである「北三方ヶ森登山」へと移ろう。再び石ヶ峠から高縄山駐車場へと上り、北条市猿川へと下る林道を宝坂谷沿いにを下っていく。途中、「北三方ヶ森 林道終点までは約1.1km。その後はテープを目印に約2時間 Yサークル」と書かれた手作り看板が名も無き林道の入口に掲げられているのだが、この登山口はスキップ。「四国のみち」として取り上げられているルートの登山口を目指す。(8:18)
 しばらく下るとログハウスが姿を現し、その先に「欅平」と記された碑が道端に建っている。(8:21) 

 8:35、登山口に到着。登山口周辺には2〜3台の駐車スペースがある。本日の来訪者は無し。そりゃそうだ。新年早々、北三方ヶ森を目指す企画を立てることなど、普通は思いつかないだろう。積雪してたり、樹氷がついてたりすれば話は別だが。
 沢の音だけが鳴り響く植林帯の中を黙々と歩き始める。ここから北三方ヶ森までは 2.9km。所要時間は約1時間のはずだ。

 10分くらい歩くと、「四国のみち」道標が建つ分岐に至る。「北三方が森 2.3km」とある。ここから右手の道へと入っていく。道は段々と傾斜を増していき、ほどなく尾根が見えてくる。結構な急斜面であり、一瞬たじろいでしまうのだが、登山道は斜面をうまく巻いて築かれているので、全然しんどさを感じさせない。
 ここを上りきれば、あとは軽快な尾根道が続いている。北三方が森まではあと 1.9km。

 尾根道を少し行くと、植林帯から落葉小木帯へと変わる。淡いグレー色の冬木立の中の歩きは爽快な気分にさせてくれる。道も明瞭だし、南側の眺望も良い。背後を振り返れば、山頂に鉄塔を携えた高縄山から大月山にかけての展望も楽しめる。

 緩やかに高度を稼いでいくと、標高865mの小ピークへと至り、ここから北三方ヶ森の雄々しき姿が眼前に広がる。左端のピークには巨大反射板2基が建っているのが見える。
 ここからは高度差100mほどの下り。「折角高度を稼いだのにもったいないなぁ」と思いつつも、実際に歩いてみると思うよりも軽快に足が運ぶ傾斜であり、疲れを覚えることもない。一旦コルへと下るとあとは砂岩質の登山道をただ黙々と上るのみである。

 途中、擬木で組まれた階段部が一部崩落しているが、殆ど安全な道が続く。そして、9:24 北三方ヶ森の西の肩部へと至る。ここにも「四国のみち」道標が建っており、山頂まで残り 0.4km。
 ここからは樹相が若干変わってくる。花の季節じゃないので残念なのだが、シャクナゲの小群落なども姿を現す。

 松山市米野々へと下る南尾根コースへの分岐を越えれば、あと100mほどで山頂である。

 歩き始めて1時間弱。予定通りのコースタイムで山頂(標高 978m)に到着。(9:33) 気温は体感では 0℃ぐらいか。土肌には霜柱が散見される。しかし、雪は一かけらも見つからない。

 景観はまずまず。多少靄(もや)がかかって霞んではいるものの、玉川・今治そして燧灘まで見通せる。
 写真を撮ったりしながら、眺望を楽んだ後は、時刻は少々早いが食事(ブランチ)をとることにしよう。メニューはいつもの如く、カップヌードルとコーヒー。安上がりであれど、気温が低いだけに、あったかいというだけで「至上の食物」へと変わるのである。登る途中の沢で汲んだ水をバーナーで沸かし、待つこと3分強。そして、静寂な山頂の空間にて、白い息を吐きつつ、ズルズルとラーメンをすする。これを優雅と言わずして、何と言えるか。

 40分間と少々短めの山頂滞在を終え、10:12 下山開始。「四国のみち 北三方が森 0.4km、高縄寺 5.6km」道標部から北に入って反射板のところに寄り道(10:18)した後は、ひたすら黙々と下山するのみ。
 途中で一人の登山者とすれ違った。「こんな日に同じルートでこの山を目指す人もいるんだ...」と意外さを覚え、挨拶を交わそうとするが反応は帰ってこず。孤高のクライマーには言葉は無用ということか。

 11:00 登山口へと戻る。

3.高縄山山腹の観察

 せっかく来たのだからこのまま帰宅するのは勿体無い。ということで。いつもの如く本年度最初の徘徊モードへ突入。

●天神ヶ森(てんじがもり)のブナ林
 至るところにヤドリギが張り付いているのが見られる。ブナの養分を吸い尽くさなければ良いのだが...。

●河野水天宮
・明治六癸酉年六月吉日

●河野川源流
・平成8年8月吉日建立

4.北条市横谷地区散策

 県道湯山高縄北条線(178号線)を下りながら、目ぼしいものが無いか探していく。

●林道雄鹿2号線起点標識
・幅員3.0m、延長1.4km

●甲森塚(こうもりづか)(北条市閏谷)
 県道脇に「ここから約300m旧登山道を登ると左側の少し高いところに備後の国(広島県)の奴可入道西寂の首塚がある。後に供養のため地蔵様を祀っている」の案内標識が建っている。
西寂像の台座には、「明治20年9月」と刻まれている。

●素鵞社【北条市横谷】
 年始参拝に訪れていた木戸さんに話を伺った。

・徳川の時代(約200年前)に疫病鎮護のため京都の祇園神社より勧請・建立されたものか。
・元は村社であったという。
・社号碑は昭和54年建立、拝殿は昭和52年10月ににより建てられた。(棟梁:木戸傳=木戸さんの御兄弟らしい)
・拝殿に向かって左側の山の斜面には杉の若木が林立しているが、この場所は元々は蜜柑山であった。ここが土砂崩れを起こし、拝殿を押し流したため昭和52年に建て替えたという。昔の素鵞神社に残っていたものは神名額ぐらいなものである。作成日が銘記されていないので何時のものかはわからない。
・境内地は自動車1〜2台ぐらいのスペースしかないが、昔(昭和初期)は9月5日の祭礼日にここで宮相撲が行われていたらしい。「横谷の集落に男の子だけでも20人ほど居て、宮相撲も賑わったものだった」と木戸さんは懐かしそうに語っていた。
・木戸さんと話していると、家族3人連れが初詣に訪れた。御主人は「下の天満神社の狛犬は古いモンぜ。ワシが知っとることはこんぐらいよ」と教えてくれた。
●目魯止神社【北条市横谷】
 素鵞神社よりやや下手に小さな祠がある。おそらく目の神様として名高い目魯止神社(北条市西谷)から勧請したのであろう。祠の前には、 「目を守る神の威力の尊しや 平成15年12月 坂本卓美建立」という碑が建っている。

●天満神社【北条市横谷】

■国土調査実施記念碑
・昭和54年6月建立

■鳥居
・元治元年の銘有り。

■句碑
水売の桶に隨き来し山の蝶 白歩
川音へ落ちゆく蛍火のひとつ 真喜子
やよい句会20周年記念 平成11年7月吉日

 何と偶然にも、先ほど出会った3人連れの奥さんがこの碑の作者であった。
 白歩氏は鎌倉在住の俳人とのこと。北条市観光協会発行の「句の街、歴史の街 北条 風早文学碑の解説」によれば、「白歩は佐野欽一氏、元清和病院長、ホトトギス系「雪解」同人、鎌倉在住、医学博士」とある。なるほど、奥さんの言っていた内容と合致している。

■高縄林道竣工記念碑
・昭和50年5月建立

■道路改修記念碑
・昭和2年6月15日 横谷村民建之

■支那事変・境内拡張記念碑
・井手勉 書

 建立年は不明だが、「皇紀2600年」と謳っているので昭和15年(1940)に間違いなかろう。皇紀は日本書紀の紀年に基づくもので、皇紀元年は西暦でいうBC660年。この年は国威高揚のため全国各地で式典が執り行われたようである。「支那事変」とは、昭和12年(1937)に始まった日中戦争であるが、「支那」の呼称は中国側が「蔑称」と指摘しているため、現代では使ってはならない言葉である。

■狛犬
・明治27年3月
・石工 荻山逓吉 (逓の文字は摩滅気味で判読し難いので読み誤っているかもしれない)

■常夜燈
・明治27年3月
・石工 荻山寅市 (文字は摩滅気味で判読し難いので読み誤っているかもしれない)

■石柱
 参道階段再上部にある石柱には「元治元年12月吉日」と記している。鳥居の建立年と合致しており、おそらくこれが建立年なのだろう。その脇には杉の木がある。樹齢は100年ぐらいか。さほど老木でもなさそうだ。

■拝殿
 拝殿内部には鹿を描いた絵馬(明治28年4月奉納)が掲げられている。
 拝殿(に向かって)右横の巨木の根元の空洞に恵比寿の面を祀っている

■御大典紀念拝殿建設碑
・大正4年11月 大工 平野典市

 ●河野川水系横谷谷
・土石流危険渓流

●横谷橋

●高縄山登山口
・「奥道後玉川県立自然公園 昭和38-12 愛媛県」

●風早四国八十八ヶ所 第24番 虚空蔵
 民家の庭先に鎮座しているので、立ち寄るのは遠慮してしまった。

●常夜燈
・文化14年

●石仏「24番 當所ヨリ善応寺...」

●石仏「十五丁...天明...」

●句碑「木の芽山めぐらす底の四五十戸」白歩

●祠

5.北条市善応寺地区散策

●善応寺の石経28個【北条市善応寺】
 1999/4/25以来の来訪。
 県指定有形文化財(昭和39年3月27日指定)

●大日堂
・石経出土地の東側

●善応寺古墳(河野塚)【北条市善応寺辻の内上土居】
 1999/4/25以来の来訪。

●善応寺(ぜんのうじ)【北条市善応寺】
 1999/4/25以来の来訪。
 新年であるため本尊を御開帳中であり、とても得した気分である。(2004/1/1)

■善応寺縁起(沿革)

■「河野氏発祥之地」の碑

■河野対馬守通盛公の墓所

■風早西国三十三ヶ所 第14番 観音堂
■風早四国八十八ヶ所 第25番 地蔵堂
 本堂同様、いずれも新年で御開帳中。

●善応寺集会所
愛媛県コミュニティ施設整備事業補助施設
■常夜燈
文化14年丑歳12月吉祥日

■国土調査実施記念碑

●八幡若宮社

6.北条市粟井地区散策

●粟井坂大師堂(あわいざかだいしどう)【北条市粟井】

■花へんろ第2番札所:修行大師

■正岡子規/夏目漱石合句碑【北条市粟井坂】
「志保ひ加多(しほひかた) 隣の国へ つづ支介里(つづきけり)」子規
「釣鐘のうなる許に野分哉」漱石

■正岡子規句碑【北条市粟井坂】
「涼しさや 馬も海向く 粟井坂」

■大森春恕句碑【北条市粟井坂】
「淋しさや 鴫(しぎ)さえ逃げて うらの秋」

■河野通清公墓所
・風早88ヶ所番外7番
・お石塔参道

■河野通清供養塔【北条市小川 粟井坂2】
・市指定有形文化財(昭和41年4月10日指定)
・治承5年(1181)、河野通清は平家に叛き当国を押領した。

■粟井坂新道碑
 「昔、風早郡と和気郡の境にある粟井坂は、交通の難所であった。大森盛籌(おおもりもりかず)(1829〜1903・小川村里正(りせい)・郡副長)は、人馬の通行を便利にするため岩山を切り開き道路の建設を思い立ち上司に相談したが受け入れられなかった。そこで貯金の策を設けて数年かかって金額が殖(ふ)えたので、念願の新道工事を当時の郡長長屋忠明を通して県令(知事)岩村高俊に願い出たところ県税890余円の補助で盛籌の意思に賛同した。明治13年(1880)4月6日に着工し工事人は延べ5079人、工費2070余円を費やし、7月27日遂に完成した。
瀬戸内海の風光明媚な海岸に完成した道は、山を越える坂道がなくなり多くの車や人の通行が大変便利になった。この恩恵を受ける私たちは大森盛籌の功績を顕彰し感謝の気持ちを後世に語り継ぎたい。(小川部落)」

■1等水準点(国土交通省国土地理院) No.3478【北条市小川甲517】
・標高6.0997m

■裏山散策
ミニ四国八十八ヶ所の石仏が置かれている。

7.松山市堀江地区散策

●三穂神社【松山市堀江町】
 拝殿内部には三十六歌仙絵馬が奉納されている。36人全てが割合良好な状態で残っているのは珍しいのではなかろうか。
 

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