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こたろう博物学研究所
探訪記録:20010916

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浮穴小学校界隈(松山市)、伊予市五色浜方面探訪【平成13年(2001)9月16日】


 (雑記)
息子のサッカーの試合があるので、浮穴小学校へと車に乗せて連れて行く。朝8:00に自宅を出発し、8:20頃に到着。
しばらくは試合観戦してたのだが、次第に退屈になってくる。朝トイレに行かなかったせいもあって、途中猛烈な尿意に教われる。校庭内をうろつきトイレを探したのだが、外トイレがない!休日なので校舎も開いてない!
ふとフェンス越しに北側を見ると公園があるのが目に入った。「おぉ、神の御加護よ」などと心の中で叫びながら急ぎ足で公園まで出向き、事無きを得た。
(観戦に訪れた御父兄の皆さん!あなた達はどうされたのですか!)

そんな中、校庭にて句碑を発見

●橘華子句碑【松山市森松町 浮穴小学校】
「霧四方に 退きて咫尺の 松に鷹」
・橘華子、本名は馨。

公園までの道中では、

●須賀泉神社【松山市森松町】

を発見。



13:00に練習試合日程終了。
息子を自宅まで連れて帰った後、本業(?)の散策へと繰り出す。


まずは松前町の図書館にて下調べ。


そういや、最近伊予市界隈の散策も御無沙汰である。
まず、「五色浜再見」を始める。


●五色浜【伊予市灘町】

五色姫神社の東脇には、以下の案内板が建てられている。

『五色浜は藩政時代の終わりごろから、景勝の地として知られ、散策や遠足の場となっていたが、昭和44年(1969)、伊豫市が、近代的公園として整備した。源平の争いで、源氏に追われた平家方五人の姫が、この浜にたどりついた。姫たちは、源氏の旗と同じ色の白いかにをさがしたが、どうしてもみつからず、次々に入水して果てた。その化身が、浜辺の五色の石になったという哀話が伝わっており、それが地名の由来となった。
美しい松原を背景にした五色浜神社は、海の神、住吉三神と菅原道真を祀っている。近くの彩浜館は、明治の元勲伊藤博文や、日露戦争のロシヤ人捕虜、その他この地を訪れた名士の接待場所であった。
この二つの建物付近と、松林の中には、顕彰碑、記念碑、文学碑などが数多く建っており、そのそれぞれが、伊豫市発展の歴史を物語っている。
海岸へ出ると、明治初年の旧灯台が、昔のままのたたずまいを残し、前方瀬戸内海には伊予の小富士をはじめ、多くの島々が海面に浮かんでいる。
松林をめぐっては、遊園地、野球グランド、海水プール、休憩所がある。グランドの地は、明治維新前は郡中保国隊の訓練所であり、昭和25年(1950)には、天皇の奉迎会場となった。南西の丘粥喰山(かいくいざん)には、戦没の英霊を祀る忠霊塔が、昭和40年に建てられた。俳人正岡子規は、市内上吾川から、はるかにこの地をながめ、次の俳句を作っている。
「夕栄(ゆうばえ)の五色が濱をかすみけり」子規  』



その案内板の横には、五色浜公園内の散策地図が掲げられている。これをメモして、興味深い対象物を眺めて回る。


●魚付林の歌碑【伊予市灘町 五色浜公園】


●彩浜館【伊予市灘町 五色浜公園】
▼さざえ堀
文化9年(1812)、大洲藩がこの地に萬安港をきずいたとき、らせん階段のように石を積み、砂をもりあげて作った井戸である。井戸の水は、港の海水の動きとともに上下するので、これによって潮の満ち干を知ることができた。形がさざえに似ているので、こう名づけられた。かっては、この井戸に鯛を飼っていたことがある。


●五色浜電話室【伊予市灘町 五色浜公園】

五色浜神社の前にある電話ボックスは、一見普通の緑色の公衆電話が備えられたものだが、屋根には五色姫が描かれたボードと「五色浜電話室」という名前が掲げられている。



五色浜神社前には多くの碑が建っている。

●郡中町創業の碑【伊予市灘町 五色浜公園】

●芭蕉のしぐれ塚(芭蕉句碑)【伊予市灘町 五色浜公園】
『介ふ者(ば)かり ひともとしよ礼(れ) 者(は)つ志(し)く連(れ)』
( 今日ばかり 人も年寄れ 初時雨 )
・句意は、「今日ばかりは若い人達もみんなが老人の様な気持ちになり、時雨の風情を味わって欲しい」。
・元禄5年(1692)10月3日の連歌の会で、芭蕉が会場に着いたとき、折から初時雨が降って来たのを詠んだ句。
・芭蕉170回忌である文久3年(1862)郡中地方の俳人の建立と推測される。

●五色浜神社社務所【伊予市灘町 五色浜公園】

●藤谷豊城(元郡中町長)胸像【伊予市灘町 五色浜公園】
・秋山好古書。
・昭和48年3月建立。

●十日戎開祖の碑【伊予市灘町 五色浜公園】
・「津田七衛(?)」と刻んでいる。
・建立年月日は「萬延元年庚申正月十日」と刻んでいる。

●漢学者陶惟貞(すえいてい)の碑【伊予市灘町 五色浜公園】
・明治31年3月建立。



●五色浜神社【伊予市灘町 五色浜公園】

「この地には、稲荷新社の末社があったといわれる。明治4年(1871)灘町から「住吉社」を遷し、明治42年(1909)に天神社を合わせて五色浜神社と改称した。拝殿正面には、明治の元勲伊藤博文の筆にかかる「五色神社」及び「天神社」の額がかかっている。祭神は、航海安全の神である住吉三神〜上筒男命、中筒男命、底筒男命〜及び武勇の神息長帯姫命と学問の神菅原道真である。住吉祭は当地方最大の祭りで賑わう。」との説明書きがある。

境内には多数の末社がある。その一番北端になにやら謂れが記された碑が建っている。

▼ねがい石
五色浜には「海に身を投げ五色の石になってしまった」という平家の五人の姫達の話が伝えられています。
土地の人々は、五色の石を手にして悲しみにうちひしがれ、石になってしまった五色の姫達が生き返ってくれることを、日々願いました。
人々の涙が数滴五色の石にふりそそぐと不思議なことに海のかなたから、五色姫達が再びよみがえり、土地の人々と幸せに暮らしました。
それ以来、「五色の石に願い事をするとかなえられる」と言う言い伝えが広まり、祈願成就の「ねがい石」として現代に伝承されています。
ねがい石は特に五のつく日と神社祭事日に五色姫神社へ奉納し願い事をするとかなえられます。
「なるほど、五色姫は入水自殺で死んでしまったものだとばかり思っていたら、このような復活譚も残っているのだな...」と感心してしまう。


グラウンド沿いに進むと、鷲野南村の碑が建っている。

●漢学者鷲野南村の碑【伊予市灘町 五色浜公園】



そしてその向こうに小高い丘、「粥喰山」がある。

●粥喰山(かいくいやま)【伊予市灘町 五色浜公園】
・萬安港(伊豫港)の西、波うちぎわの砂を盛りあげ、港口に寄せる砂を防ぐために文久元年(1861)に築いた人工山。
・大洲藩の工事で、貧しい人の救済事業もかねて 1日交代で灘町、湊町、三島町から毎日300人が出て働き、約90日で完成した。
・昼食は、米・麦・粟・小豆などをまぜた粥とみそ汁であったので、人びとはこの山を「かいくいさん」と呼んだ。
・以後、工事が二回行われた。

▼忠霊塔
・粥喰山山頂には忠霊塔がある。
▼五重の塔


●五色浜海浜公園【伊予市灘町 五色浜公園】

夏場は海水浴客で賑わうこの海岸。もう季節が季節だけに閑散としているだろうなと想像してたのだが、意外と訪れている人は多い。海の家(店)も開店している。

「家族連れ」と「カップル」を除けば、ワシ一人ではなかろうか....。何となく居心地が悪い。
小富士山(松山市興居島)や中島など伊予灘の島々がはっきりと浮かび上がっている。北側の道後平野の遥か遠方には、高縄山、北三方ヶ森、明神ヶ森の姿も見える。南へと視界を移すと、明神山、牛ノ峯、黒山、壷神山などの山々が続いている。東には谷上山。
景観を十分堪能した後、五色浜周遊の旅を続ける。



●五色姫橋【伊予市灘町 五色浜公園】
・平成6年7月完成。
・古小川に架かる。


●郡中港旧燈台【伊予市灘町 五色浜公園】
・説明書きには
「江戸時代に築かれた萬安港(ばんあんこう)は、砂や小石で港が浅くなって商船や漁船の出入りが困難となった。
 そこで明治2年(1869)に、長さ約70mの石崖(いしがき)を築き、その先端にこれまで木造であった燈台を石造に改めた。燈台の側面には、石に刻んだ文が残っており、この燈台によって破船のおそれがなくなったと記している。
 燈火は初め種油であったが、後に石油・電燈に変わり、昭和33年に新燈台ができてからは点燈していない。」
と記されている。
・「石工:河野為吉郎」の文字が刻んである。この他にも多くの文字が記されているのだが、風化してきており、判読が困難となりつつある。


●伊予商工会議所創立50周年記念美術陶板【伊予市灘町 五色浜公園】
・「伊予商工会議所創立50周年に際し、記念事業の一環として伊予市内の各児童生徒達に未来の伊予市をテーマに作画依頼し、より優れた作品をここに美術陶板におきかえたものです」と記されている。
・谷上山にもこの手の陶板があったはずだが、五色浜のものは南山崎小学校4年生による「ぼくたちの五色姫海浜公園」という作品。


車道から外れ、松並木の中に続く小径を歩いてみる。

●伊予港竣工記念碑【伊予市灘町 五色浜公園】
・県知事久松定武の書。
・昭和33年11月建立。
・碑の裏面には「伊豫港は道後平野の西方伊豫灘の要衝に位し内外の両港に分る 内港は天保六年大洲藩士岡文四郎の築く所にして今を距る 正に百二十三年なり 當時万安港と呼び後郡中港と稱す 爾来船舶の出入物資の集散殷賑(いんしん)を極め為に数次の修補を施ししが猶用を充すに足らず 是に於てか外港築造の議大に興る 郡中町長木村太郎外郷党有志を一にし力を協せ盡瘁最も努む 國縣當局亦之を容れ昭和十二年豫算六十三万円五年間の継續事業とし縣営を以て外港の築造に着手す 然るに拾も太平洋戦に際會し同三十三年を以て漸く完成す 港域五万坏 其始まり年を閲する 正に二十二呈露工費現貸六億円の巨額に達す 我が伊豫市の隆昌期して俟つべきなり 依て市名に因み伊豫港と改稱す 惟ふに余や乏しきを市長の任に受け僅に前蹤を趁ふに過ぎずして此度に接す 國縣の賛褒先人の偉績市民の協力に對し景仰感激の念轉切なるものあり 嗚呼五色濱の波長へに靜に住吉原の松翠彌深し 我が市の前途を祝福するにあらさらむや 茲に築港の来由を石に勒して不朽に傳ふ  昭和三十三年十一月 伊豫市長 城戸豊吉謹撰」と記されている。



五色浜神社の脇まで戻ってくると、ここにも多くの碑が建っているのが目に入る。

●山田十雨句碑【伊予市灘町 五色浜公園】

●岡文四郎の碑【伊予市灘町 五色浜公園】

●水道記念碑【伊予市灘町 五色浜公園】

●伊豫市商店街開町350周年記念碑【伊予市灘町 五色浜公園】
・伊予商工会議所会頭 城戸恒

●「開町350周年記念タイムカプセル埋没地」の碑【伊予市灘町 五色浜公園】
・「埋設:1986年11月3日、開封:2036年11月3日」と記している。

●「伊予市八景 五色浜」の標柱【伊予市灘町 五色浜公園】
・平成8年4月建立



一旦、伊予港内港まで引き返し、めぼしいものは無いかチェックする。九州へと向かう高速艇「スピーダ」が就航していた乗船場には、伊予ライオンズクラブによって建てられた「伊予市観光案内図」「新伊予八景のご案内」の看板があるが、今となっては誰にも見向きもされない代物と化しているような気がする。


国道378号線を南下し、双海町手前の銭尾峠を越えて「端」の集落へ行ってみたが、史跡等の類は全く無し。しかし、この集落から田圃越しに眺める伊予灘の景色はなかなかのもの。西日が海面に反射してまばゆいばかりである。


中村まで引き返し、法寿院をチェック。

●法寿院【伊予市中村】
・山号:鹿島山
・宗派:真言宗智山派
・本尊:千手観音

法寿院の右脇に「山頂まで330m」との札が掛けられているのを発見。寺の前に車を停めて歩いてみることにする。歩き始めてすぐ、草叢のトンネルをくぐる。果樹園の前に「歓迎伊予市歩こう会御一行様 当山主」と掲げられている。どうやら何かのイベントがあったみたいである。すいません、私は「伊予市歩こう会」のメンバーではありません。

●鹿島山【伊予市中村 台山】
・「東西北に横四間(約7m)余、深さ三間(約5.4m)ばかりの堀有り」(大洲秘録)
・城主の墓石には「当鹿島山之城主前周頭左近衛中将藤原盛保墓」と記されている。

標高90mの山頂部には桜の木が沢山植わっている。山頂西側に回り込めば見晴らしも良い。
山頂には鹿島城があったらしい。祠の礎石らしきものが残っている。



こうして3時間余りの伊予市探訪を満喫したのである。

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