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こたろう博物学研究所
探訪記録:20010815

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奥善神山(川内町/久万町)登山【平成13年(2001)8月15日】


 (雑記)
・井内林道沿いには3つの小瀑がある。なかなかこれは見逃せないアイテムである。
・林道からの井内の集落の風景はなかなか美しい。思わず車を停めて眺めてしまう。
・井内隧道は標高1000mほどのところに造られている。こんな高いところを抜ける隧道は珍しいのではなかろうか。ナトリウム燈も非常電話もない、質素な造りになっている。
・井内隧道北口から登山道が続いている。少し横道を行くと、杉の木に「善神ヶ森まで90分」とペンキで記されているが、このように幹にダイレクトに書いてしまうのはどうしたものかと思ってしまう。せめて看板釣り下げぐらいにして欲しい。
・そのペンキ標示のところからは急坂。しかし峠まではそう大した距離ではないので、一気に登ればよい。
・井内峠は、なんとなく多くの人が行き交った峠だなぁという印象を受ける。今では荒れ果てているが。
・井内峠からはなだらかな尾根道が続く。しかし、2mほどの背丈のスズタケが道の両脇から覆い被さり、道が不明瞭な部分も多々有り。しかし、トンネルをくぐるようにすり抜けていけば、道を見失うことはない。
・赤錆によりもはや判読もできない標識のところからは急坂が続く。しかし、周りはブナ自然林に包まれており、爽快な気分になる。
・日本観光協会標識には、「奥善神山 標高1284m 皿ヶ嶺山頂へ5160m 2時間20分、井内北間バス停留所へ5140m 2時間」と記されている。以前は縦走登山者も多かったのであろう。
・標識のところから三角点のあるピークまでは背丈の低いスズタケが覆っているが、なんとか道は確認できる。ここからは陣ヶ森、皿ヶ嶺方面の眺望が開ける。
・三角点のところには山名を示すものは全く無し。三角点さえもスズタケに埋もれかけている。
・折り返して標識のところに腰を下ろして昼食を摂る。ここから前善神山方面まで足を伸ばそうとも思ったが、スズタケの覆い被さり方は半端ではないので断念する。


 
【コースタイム】
井内隧道南口
↓(10分)
井内峠
↓(25分)
判読不能標識
↓(20分)
日本観光協会標識
↓(5分)
奥善神山
↓(60分)
井内隧道南口


【その他、帰りがけに探訪した場所】

●井内峠隧道【川内町井内】
・1978年11月竣工
・延長124.7m、総幅4.2m
・施工:二神組

●板無山林道【川内町井内】

●林道梅ヶ谷永子線【川内町井内】

●吉井神社【川内町井内】

●堂【川内町井内】

●大乗妙典一字石塔【川内町井内】

・文政三辰天二月、施主傳蔵

▼大銀杏

●常夜灯【川内町井内】
・文化六巳年
●大通庵【川内町井内】
・河野家重臣、大熊城主である戒能氏一族の墓所。

▼大通庵彼岸桜
・町指定天然記念物


●オトクラサン(地蔵菩薩)【川内町井内】

●三島神社【川内町則之内】
 ▼池川蜩谷句碑

・大正14年、則之内に生まれ、巨星塔に俳句を学ぶ。ひたき渋柿会の指導に専念す。渋柿代表同人、課題句選者となる。
平成13年5月建立
川内吟社、めぐみ吟社、与力吟社、白糸吟社、表川吟社、タンゴ吟社、湯月吟社、連句会
▼木造狛犬二躯
・有形文化財
・阿形、吽形ともにほぼ同じ大きさで、両像ともに力量感及び勢いがあり、丁寧な造りとなっています。表面に施されている塗りは、後の時代(江戸時代末ごろ)に行われたもので、作られた当時は木地の狛犬だったと考えられます。
胴体は一木造りとなっており、尾の部分だけ後で取り付ける工法となっています。また台座の部分は裏面には4ヶ所の穴があり、4本の脚を持った台座に狛犬は置かれていたものと想像されます。
狛犬の作者については、随身像と作風及び材質が似ていることから同一人物の作品ではないかと考えられています。
また製作時期は、随身像に書かれていた「延文5年(1359)」頃に作られたのではないかと考えられています。  川内町教育委員会

▼随身立像二躯
・県指定有形文化財
・桧材寄木造
・法眼(ほうけん)作
・南北朝延文4年(1359)造立
・像高:右138cm、左135cm
・昭和49年5月30日、文化庁倉田文作先生の鑑定を受けたところ、全国的にも珍しく価値高きものと認められたため、仏師菰田宗二郎氏に依頼し■■したところを修理復元した。
・昭和51年4月、愛媛県より文化財の指定を受けた。
 昭和51年7月 川内町教育委員会

▼三島神社本殿
・国指定重要文化財(平成4年8月10日指定)
・大山積命を主祭神とし、その創立については諸説有り詳らかでない。
・暦応元年(1338)、河野通郷(みちさと)が大山積神社を崇敬し、それにならって社殿を建立したと伝えられる。
・本殿の造りは三間社流造(さんげんしゃながれつくり)といい、銅板葺(旧桧皮葺)であり、梁間4.5m、桁行4.2mの大きさである。
・中世の三間社流造としては全国最大級の大山祗神社本殿と比べると半分程度の大きさである。
・蟇股(かえるまた)、手挟(たばさみ)等の様式手法から本社大山祗神社本殿の原形をなすものではないかと言われる。
・14世紀中期頃(室町前期)の建築と推定される。
・四国地方で数少ない神社建築として価値が高く、三間社流造としては現在愛媛県下で最古である。四国全体でも香川県の神谷神社本殿に次いで古い建築である。

※まだ夕暮れまでに時間がある....ということで、重信町の岩伽羅山へと向かう。

●愛媛いしずえの碑【重信町西岡】

・アクロス重信の東側の林道沿いにある。
・1996年6月建立。
・「1935年、東京青山墓地に「無名戦士墓」が建立され、戦後毎年3月に解放運動の中で亡くなった人々が合葬されている。そこに収められる愛媛ゆかりの人々を顕彰し、運動の継続発展を誓い、碑を建立する。」と副碑に刻まれている。
※林道を車で行けば、山頂まで10分もあれば上れる算段であった。しかし、登山口を見出すことができず、林道を1時間ほど更に進んだところで断念。

●別府の石造物群【重信町下林 別府】

●層塔五輪塔群【重信町下林 仙幸寺】
 

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