松山市持田町散策【平成13年(2001)2月17日】
事務仕事の残務が沢山残っているので出社しようとも考えていた。しかし昨日も帰りが遅く、ここ最近連日16〜17時間勤務の状態であり、疲れがどっと溜まってい
たので午前中だけでもゆっくり眠ろうと心に決めていた。
しかし、非情にも8:00前に会社からトラブル発生の電話が入る。眠たい目を擦りながら、朝飯も食わずに会社へと向かう。
昼から息子が通っているサッカースクールの練習試合があるというので、午前中で仕事を切り上げて、応援がてら持田町にある愛媛大学付属小学校へと出向いて
みた。
観戦してはみたものの、なかなか試合に出して貰えない。見ている親としては、これほどつまらないものはない。冷え込んだ空気の中では、よそ様の子供が繰り広
げる試合など正直行って耐え難いものがある。
ということで、我慢しきれず近所散策へと繰り出したのである。
鎮守若宮社【松山市持田町】
鎮守若宮社は持田集会所の隣に位置する。地図上では八幡神社と記されているが、境内敷地のどこにも「八幡神社」と記されたものは存在しない。
鳥居の下側には以下の通り記した看板が立っている。
「鎮守若宮社
祭神:天御中主神、猿田彦神、倉稲魂神、稚産霊神、大国主神、火産霊神、奥津彦神、奥津姫神
由緒(創立不詳)
往古より天御中主神、猿田彦神との二神を奉斎される鎮守社と、倉稲魂神、稚産霊神との二神を奉斎される若宮社との二者社有りしが、明治3年8
月官命により之を合祀して、鎮守若宮社と称す。又文化の末より文政に亘って持田村内に屡々火災が起こる。之を以って文政6年8月村民等相議り
て大国主神、火産霊神、奥津彦神、奥津姫神を祭り、「秋葉神社」と称え、防火守護の神となされしが、明治4年4月官命に依って之を鎮守若宮社に
合祀され現在に至っております。
例祭:10月8日
祈年祭:2月19日
新嘗祭:11月27日」
祭神を見ても八幡神社を思わすものではない。
まさに「村の鎮守」といった小さな神社で、拝殿がぽつりと一棟建つだけである。
拝殿から格子越しに覗き込むと、床に神輿が一体置かれている。
●持田神輿
持田町には由緒格式のある鎮守若宮社があり、古来より秋祭も盛んで、持田村時代の大神輿と共に大正時代には此の優雅な青年神輿が作られま
した。そして平成6年に大修理を行い往時の姿に修復され現在は子供神輿と共に華麗な三体の神輿で町内巡行を行っています。
拝殿の左横には、常夜灯の上部と思われる苔生した岩がある。
岩石には、大きく分けて堆積岩と火成岩と変成岩の三種類ある。
この灯篭の石は、堆積岩の中の礫岩という石である。この礫岩は、今から八千万年昔の石が泥と一緒に、上の新しい地層の重みで押し固められて
できた。見て分かるように、粒は粗く、コンクリートの割れ目とよく似ているのが特徴である。
八千万年昔といえば、陸地には恐竜、海底にはアンモナイトが生きていた。この時代の地層は、道後姫塚にあり、礫岩の神秘性に直接触れることが
できる。
この石は120年前から若宮社参道の常夜灯に使われていたが、平成5年の改修を機に境内に移転。平成9年10月、愛媛県立博物館の千葉昇先生
が礫岩と鑑定され、科学的に石の成り立ちが明らかになった。
8000万年を経たこの石を、自然環境を守る町民の生きた教材とし、追いも若きも挙げて親睦の象徴にしていきたいものである。
そして拝殿の右横には、地元の義民を顕彰した彰徳碑が一基建っている。
義民太郎兵嘉元温泉郡持田村農也明和丁亥座於拓堤松樹伐様疑獄代村民牢死矣郷
■■其徳合祀若宮神社会前茲字新起碑以傳方於千歳云■
大正十二年九月 菅 菊太郎誌
デジカメによる撮像が上手くいってなかったため、後の判読がしにくかったのだが、碑の背面には上のように記されている。「現石手川の堤に植わっていた松を伐っ
た罪を、村民に代わって自分が負い、牢死した」ということらしい。
若宮社と称する神社にはこの手の話が多い。古式よろしき祭神ではなく、功徳のあった人間を神として祭る場合、「若宮神社」と号する傾向がある。案外、この義民
太郎某が主祭神なのかもしれない。
西龍寺【松山市持田町】
・山号:佛海山
・宗派:曹洞宗 禅派
総合社会福祉会館の東側道端に崩れかけの山門が見える。
二階建ての本堂は異色の存在であるが、境内にはこれといって見所は無し。山門をくぐって右手に六地蔵があるが、大して古いものでも無さそうだ。
余談だが、土手沿いの道を走る途中、遠方の山に目をやれば、雪を被った石鎚の山々が際立って美しく目に映った。特に今日は天気も良く、空気が澄んでいるせ
いか、真っ白な雪に埋もれている瓶ヶ森の姿もお目見えしている。その姿を恨めしそうに眺めながら車を走らせるのがちょっと哀しかったが、息子は観に来てくれた
と喜んでいた様子なので、まぁ良しとしよう。
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