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こたろう博物学研究所
探訪記録:20000730

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別子山村・新居浜市・西条市散策【平成12年(2000)7月30日】


 「別子山村保土野谷の上流にある黒滝を見に行こう」と媛の瀧を主宰しているタックさんからのお誘いを受け、二つ返事でOK。そして、7月30日当日を早くから待ちわびていた。

 しかしながら得てして計画を立てたときに限って天気は崩れるもの。水不足が懸念されるほど雨降らずの毎日が続いていたというのに、台風の到来で松山平野も雲行きは今ひとつ宜しくない。朝も早よから松山市を抜け出していったものの、東の方向にはぶ厚い雲が垂れ込めている。

 西条市内に入ってから、雨が少し降り始めた。まあこれくらいの雨で治まるのならば問題無いかなと楽観的になりながらも、別子ラインに入って少し雨足が強くなり、不安感を駆り立てられる。更に大永山トンネルを越して別子山村に入るや否や、豪雨が僕を待っていた。激しい雨に、フロントガラス面を拭うにはワイパーの振幅運動が追い付かないほどである。

 行き交う車も全くといっていいほど無い。いつも大賑わいの日浦の西赤石登山口付近にも1台の車も停まっていない。唯一、目にしたのは白装束とビニールのレインコートを身に纏った別子山村民が乗り込んだ軽トラック・普通乗用車の編隊ぐらいであった。


瀬場登山口【別子山村瀬場】


 08:45に瀬場赤石登山口でなべちゃん(朝倉村在住)、タックさん(松山市在住)と合流する予定となっていた。先日タックさんから念押しのメールを戴いたにも関わらず「床鍋登山口で待ち合わせ」と思い込んでしまい、瀬場登山口の三叉路のところに1台の車が停まっていることにも気付きはしたのだが、何の気無しに瀬場を通り抜けてしまった。
 別子山村に何時頃から雨が落ち始めたのかは定かではないが、瀬場谷の水はかなり勢いを増している。「こんな状態じゃ沢歩きは無謀だなぁ。この雨だし...」と半ば諦めムードで車を東に走らせる。床鍋登山口への入口まで行ったところで「あれぇ?待ち合わせ場所はホントに床鍋だったかなぁ」と気になり始める。路側に車を停めて、印刷して持ってきたメールをカバンから出して再読すると、やっぱり待ち合わせは瀬場と書いてあるではないか。「こりゃいかん」と慌てて引き返す。

 瀬場登山口のところには先程見掛けた車が動かずにそこにあった。何せ今回の山行(滝見ツアー)はネットワーク上でプランされたもので、今回のメンバーとは全く面識がない。ちょっと不安を感じながらも、その駐車している車の後ろに我が車を停め、車外に出て恐る恐る「あのぅ....朝倉からお越しの.....ですよね...」と声をかけてみる。心配する必要もなく、やはりなべちゃんであった。
 時刻は8:30前後。まだタックさんとの待ち合わせまで少し時間がある。「ミーティングでもしよりましょうか」ということで、なべちゃんの車の後部座席におじゃまして自己紹介がてらあれこれと暫く喋り込む。


床鍋登山口【別子山村床鍋】


 8:40頃、タックさん到着。各自の車で、まずは床鍋登山口へと車を走らせる。計画では、下山に使用する床鍋に車を1〜2台乗り捨てておいて、往路の起点である保土野まで乗合で行く予定である。
 床鍋登山口とは言っても、下調べ不足の僕にはどこが登山口なのかわからない。話に聞くと、床鍋谷の左岸に続いているらしいが、それらしき道はよく確認できない。
 駐車場らしきものもなく、路側に車2台が限度のスペースがかろうじてあるだけで、Uターンするのも厳しいほどである。そこに、タックさんの車をに置き去りにして、2台の車に分乗して保土野へと向かう。


別子ふるさと館【別子山村保土野】


 別子ふるさと館に着くと。もう一人のメンバーであるなかちゃん(善通寺市在住)が既に到着していた。

 ひとまず車を降り、作戦会議へと移る。雨足は一向に弱くならない。横を流れる銅山川の水音も段々と険しさを増して来ているように思えてくる。時折、強い風も吹きぬけて行く。なんと恨めしい天気だろうか。
 結局「今日は残念だけど中止したほうが良さそうだ」という意見で纏まる。そりゃそうだ。こんな日に山・沢を登ろうというのは無謀に近い。しかし、前々からの計画でもあり、遠方から皆が寄り集まったのだから、出来ることならば決行したいと誰しもが思っていた。


黒滝、ノの字の滝遠景【別子山村大湯】


 折角来たのに、ここで解散というのも何なので、下調べ済みのなかちゃんの提案で、黒滝の丁度銅山川を挟んで対面にあたる大湯へ遠景を観に行くことにした。別子ふるさと館の駐車場に僕の車を停めて、2台の車に分乗して出発。
 天皇から右折し、東光森山の裾を巻いて大滝山へと続く林道を上っていく。村の機運を賭けた(?)観光施設・「ゆらぎの森」がオープンしたせいかどうかは知らないが、アスファルト舗装がなされており、道は然程悪くない。と思ったのは束の間。強風で青竹がなぎ倒され道を覆っているではないか。仕方なく、人力で青竹を除けて、車を通行させる。
 やがてゆらぎの森のシンボル的存在の巨大パーゴラが眼前に現われる。直径約50m、高さ約15mという鉄骨のドームには藤の枝が絡み付き、青々とした葉を雨露で輝かしている。花咲く5月などは、さぞかし「圧巻」と呼ぶに相応しい花が咲き乱れることだろう。

 そこから車を少し走らせたところで、対面にそそり立つ峨蔵山南斜面の景色が開けてくる。ナビゲータのなかちゃんが車を停め、ここが絶好の観賞ポイントだと教えてくれる。
 白い水の飛沫がノの字形を成している大きな滝がくっきりと見える。「あれが黒滝?」「いやあれは肉淵の滝で名前は付いてないんじゃないかなぁ(*1)」「黒滝はもうすこし西側の谷に架かっているんだよ」
 霧雨が波状に西から北へと流れる。目の前に広がっていた景色はあっと言う間にシャットアウトされてしまう。「もう少し上の方まで行ってみましょう」
 一旦林道終点付近まで行ったものの、黒滝は確認できず。方角的にもちょっとずれているということで、元の場所まで戻り再確認すると、丁度霧雨もいい塩梅に晴れて、2つの滝を拝観することが出来た。どちらの滝も立派な滝で、かなり奥深い山の中に水を落している。もっと近くから眺めるとさぞかし雄大な姿を見せてくれるのだろうにと、諦めきれない気持ちを引きずりながら、その場を後にする。

(*1)「えひめの山旅 赤石の四季」(伊藤玉雄氏著、銅山峰ヒュッテ発行)に依れば、「ノの字の滝」という名前で紹介されている。


別子山村森林公園・ゆらぎの森(*2)【別子山村大湯】


 ゆらぎ館に入り、ホットコーヒー(\300)を飲みながら歓談することにする。喫茶店というよりは、宿泊施設の喫茶ルームというほうが適切であり、玄関先で濡れそぼった靴を脱ぎ捨てて、スリッパに履き替えて奥へと入っていく。
 気さくな御主人・奥さんが声を掛けてくる。「どちらから来られたのですか?」 (こう言っては失礼かもしれないが、奥さんは別子山の人とは思えないようなアクセント・気品のあるような言葉遣いある。)事の成り行きを話したら長くなりそう(インターネットを通じて集まったなどと話そうならば、理解されない可能性も大)なので、「いやぁ、方々から集まってきたんですよ」と言葉を濁して返答してしまう。
 「今日は山登りに来たの?」
 「いや、黒滝を観に行こうということで来たんですけど、この雨なんで取り止めにしたんですよ」
 「下の方は降ってなかったの?」
 「下?」
 「いや....。下界の方、西条とか....」
 「ああ、下の方ですね。ええ、あんまり強く降ってはなかったですね。天気予報でも東予地方はそれほど降水確率も高くはなかったみたいですし」
とここまで話したところで、御主人の語調は跳ね上がる。
 「天気予報で東予の天気を当てにしてはいけないよ。ここの天気はむしろ高知の予報のほうが当てはまる」
なるほど、確かに高知県の予報では降水確率は80%近くであった。さすが別子山村民(?)。当地の気候には精通しておいでる。

 しばらく歓談していると、再び奥さんが現われ、「もし宜しければ、ご案内のお便りなどを御送りしますので、住所とお名前を記入戴けませんか?」とボールペンとA4の白紙5枚を差し出してきたので、記帳する。この時になって初めて今回集ったメンバーの本名を知ることができたのだから不思議と言えば不思議な集団である。インターネットならではの人の繋がりというものを改めて感じさせられたような気がした。

 降り止まぬ雨を憂いながらも、コーヒーを飲みながらの一時を過ごした後、ゆらぎ館を後にする。

(*2)「ゆらぎの森」・「ゆらぎ館の「ゆらぎ」は川のせせらぎや風がそよそよと木の葉を揺らす音に特有の1/fのスペクトル分布〜1/fゆらぎ〜から採ったもの、すなわち自然をウリにしたネーミングだと思っていたが、道沿いに悠楽技の森と当て字を刻んだ碑が建っているところをみると、それは僕の考え過ぎだったのかもしれない。


別子ふるさと館【別子山村保土野】


 再び別子ふるさと館に戻り、このまま帰るのもしゃくだし、ちょうど開館時間となったので、中の展示物を眺めて帰ることにする。1FLは鉱物・森林関係の展示、地下は昆虫・キノコの標本や民具・生活具が主体となっており、小振りながらなかなか充実した展示内容になっている。

 一通り展示物を見終わった後、滝見断念と互いの別れを惜しみながらふるさと館の外に出る。
 すると、来る時に目にした白装束の団体(村人)が喫茶コーナーの中に押し寄せてきた。まるで南予の牛鬼が民家の軒先に乗り込んでくるように、小さな祠のような形をした駕籠のような柄がついたものを二人組で担いで、各建物に乗り込んでくるのだ。これは何かと聞くと、般若様という行事だと一人の青年が答える。「土用までにこの行事をせねばならず、今日が最後のチャンスなんだ」とある若者が言う。
 ふるさと館の地下に掲示してあった「別子山の年中行事」のパネルには、4月の行事の欄に記してあったが、「大般若経:土用の入りの日」と書いてある。そうだ、今日は土用だ。そう思うと、急にウナギが食いたくなってきた。

 それはさておき、このような行事の光景に巡り合えただけでも、別子山村を訪れた価値はあったと非常に御満悦気分になった。「黒滝までの沢登り」という主目的は果たせなかったが、自然を愛する仲間達との出会いも楽しめたのだから、良しとしようではないか。

 色んな意味で名残は惜しいが、またの日の「計画再実行」を約束し、現地解散した。


 本当は天気も悪いし、ここから自宅に真っ直ぐ帰るというのが常道であるが、いつもながらの徘徊癖が出てくる。松山への帰路、「少し走っては車を停め」というパターンを繰り広げてしまうのである。


大山祇神社・新田神社【別子山村弟地】


 村役場よりやや東の道端に鳥居が建っているのが目に留まる。鳥居の社号額のところに「大山祇神社・新田神社」と記してある。道端より参道が川の方へと続いている。路側に車を停め、杉に覆われた参道を下って行く。
 下りてみると、広場にぽつんと拝殿が建つだけで、あとはこれといってめぼしいものはない。河原には公衆便所もちゃんと用意されており、キャンプには好適である。しかし、今日はと言えば、川は激しい泥流となっており、キャンプ客の姿などあるはずもなく、まったくもって物悲しい状態である。


南光院【別子山村余慶】

・雲谷山南光院
・本尊:不動明王

 雨降りしきる県道の脇にひっそりと佇む寺院が見える。車を道沿いに停めて、境内を散策する。
 境内には、
「徳島県大里の人、元禄7年(1695)土居上野に留錫中の南光院快盛法印は、住友家の要請により別子銅山に移り、住民の為に日夜を分たず福祉に努め、物の怪を物住谷に封じ、文盲の鉱夫に文字を教え、病を医して全山全て其徳に浴す快盛師示寂にあたって此地を以って、墳墓の地と遺言された銅山内老若男女、涙と共に師を送り、後に一ノ霊神として敬うていたが、寛政年間(1790)、別子銅山の守護神として南光八幡大菩薩と敬い、社殿を建立し永くその徳を慕う。明治7年(1874)神佛分離と共に圓通寺鎮守佛となり、現在に至る。現拝殿は、明治12年再建されたものである。尚、上方に墓地、住友トク氏建立の本殿がある。」
との説明書きが建てられている。

 なるほど、この説明の通り、境内敷地内には圓通寺の堂も残っている。宗派は高野派古義真言宗、雲谷山圓通寺三業院と称するらしい。本尊は大日如来である。(*3)
 「鎌倉期、近藤季俊が土佐の国大北川に開創。慶長年間(1597頃)、本村大野山■経の久保に移転す。延宝6年(1678)保土野(現学校)に勧請し、宝永2年(1705)再建され、明治34年(1901)現在地に移る。尚、小足谷に本寺出張所があったが、銅山の移転と共に廃せらる」との説明書きがなされている。

(*3)圓通寺には次の諸佛が納められている。
・大日如来坐像 ・十一面観世音菩薩坐像 ・不動明王立像 ・毘沙門天像 ・地蔵菩薩像 ・阿弥陀如来立像 ・弘法大師像

 また、快盛が蛇淵の大蛇を退治したときの、その蛇の尾を祀ると伝えられている「白尾神社」などもあり、なかなか興味深い寺である。

 その他、以下のようなものもある。

●西国三十三ヶ所巡拝所
・境内にあり、大僧正良■和尚が衆生済度の為にこの山を開き、村人達の一日の清楽を得させんものと自らの手によって建立された。
●新四国建設紀念碑
●合田正良歌碑
「もろもろの人のねぎことききまして仏か志こくほほえみ給ふ」


大永山トンネル【新居浜市/別子山村】

 トンネル手前の幅員の広いところに別子山村の観光案内図が建っているので、しばし見入る。トンネルのお姿をカメラに収める機会もそうざらには無いということで、カバンからカメラを取り出し、パチリと1枚。

 しかし、これ以上大雨の降る中にいては、道が崩れて別子山から帰れないハメに陥ってもいけないので、とにかく下界を目指すことにする。
 大永山トンネルを抜けて、県道47号線(新居浜別子山線)を下ると、見渡す山々に普段は見掛けることがない、「雨と共に出ずる名も無き滝達」が何個も見える。特に、沓掛山の東斜面、父山の北斜面などには見事な滝が出現していた。西山から三の森にかけての西斜面の山裾にも見事な滝が出来ている。といっても、これまで単に気付かなかっただけなのかもしれない。ちょうどその滝の対面にあたる県道沿いには数台の駐車スペースが設けられているのだから。これを考えると、結構有名な滝見の場所なのかもしれない。


清滝【新居浜市大永山 河又】

 清滝トンネルを通過して軽快に大永山を下ろうとも思ったが、折角なので旧道(悪路)を行くことにした。赤い橋の袂から上方を仰いでみたが、水量が思ったよりも少なく、ちょっと迫力に欠ける感がした。

大山積神社【新居浜市角野新田町】

 大山積神社は別子ラインを下り切ったところの橋を渡る手前のところに鎮座する神社である。参道の階段の入口のところには、平成2年11月16日に建立された本田三嶺子の句碑がある。

 この神社は、もともと旧別子の足谷の「縁起の鼻」と呼ばれる場所に鎮座していた。元禄4年(1691)の旧別子開業時に大三島の大山祇神社より分霊を勧請したのが始まりで、その後、銅山の歴史と流れとともに目出度町、新居浜市山根の内宮神社へと移転・奉遷され、昭和5年に現在地に移されたという。

 参道を上ると結構広い境内敷地が広がっている。そして、いくつかの蒸気機関車が展示されている。
 一番手前に置かれているのが、「鉱山専用鉄道用蒸気機関車(準鉄道記念物、昭和38年10月14日日本国有鉄道四国総局指定、指定番号1)」である。
 明治26年(1893)開通した鉱山専用鉄道用に、ドイツミュンヘンのクラウス社より明治25年(1892)購入の別子では第1号の蒸気機関車であり、 昭和4年(1929)から地方鉄道としての営業を開始し、昭和17年(1942)には国鉄新居浜駅との間に連絡路線が増設され、物資輸送と併せて一般利用もなされた。
 昭和25年(1950)に幹線が電化された後は廃車となり、県立新居浜工業高校に保管展示されていたが、別子銅山記念館の建設時にここに移設されたらしい。

 この他、坑内牽引6トントロリー電車(第4通洞専用の鉱・人車牽引用電車)、大型四角鉱車・0.7u小形ダンプカー(鉱石・操業用資材運搬用。昭和初年から採用・活用された)、かご電車(昭和13年(1938)から閉山(1972)まで、東平坑口から日浦坑口の間の約4,000mの坑内を運行した人員輸送車)、鉱山専用鉄道用電気機関車・ED-104号(昭和25年(1950)鉄道電化の後、鉱石輸送増強のために日立製作所より部品を購入して別子事業所で組み立てた自社製電気機関車)なども展示されている。


別子銅山記念館【新居浜市角野新田町3-13】


瑞応寺【新居浜市山根町】


広瀬公園【新居浜市上原2-10-42】


広瀬歴史記念館【新居浜市上原2-10-42】

 観覧料が520円。勉強不足の状態で見るのは勿体無いので、今日のところはひとまず西門から少し入ったところで、クスノキの巨樹を眺めただけで引き揚げる。

新居郡立農業学校跡地【新居浜市萩生】


一字一石塔【新居浜市萩生 岸之下】

 この一字一石塔の前には、旧へんろ道が通っており、歩き遍路も多く行き交うのであろう。私財を投じてこしらえたと思われる休み場が設けられており、ちょっとした図書館のように書籍類が一休みする人のために開放されている。

王至森寺【西条市飯岡】


地蔵堂【西条市福武甲 地蔵原】


加茂神社【西条市福武乙】


金剛院【西条市福武甲】

●七重石塔
・県指定有形文化財(石造美術、昭和29年11月24日指定)
・源実朝は承久元年非業の最期を遂げた。後堂北の方は落飾して京都遍照心院を建立し本覚尼となり亡夫の菩提を弔った。文永7年実朝の50年忌にあたり供養の本覚尼がこの塔を建立せられたものという。総高322cm。均整のとれた美しい石像美術である。本堂南側にある石段を登った右手にある。

●定額位大僧正・佐藤明義翁銅像


八堂山・市民の森【西条市福武乙】

 頂上へは、考古歴史館から220m、第3駐車場からは130m。
●八堂山遺跡
・県指定史跡(昭和49年7月20日指定)
●入面屋竪穴式住居
・昭和47年12月復元。昭和63年3月全面修復。
●高床式円形倉庫
・昭和48年12月復元。昭和63年3月全面修復。
●C号住居跡
・昭和46年発掘調査
●A号住居跡
・この上層部に円形倉庫及び集石特殊遺構が存在していた。
●西条市考古歴史館
・入館料無料
・開館時間:09:00〜17:00
・休館日:月曜日・祝日の翌日・年末年始
・3階ベランダからの西条市街地・瀬戸内海の眺めは絶品である。
●天神山遺跡1号石棺
・現地より移し復元されたもので、考古歴史館の玄関正面にある。
・「天神山丘陵頂上部北東端に検出された。主軸方向は磁北から32度西に振れ、長軸方向180cm、短軸方向40cmの堀り方を持ち、石墨片岩を並べて側壁を造り、3枚の石材を横に使い1枚の石材を縦に付き合わせて蓋石としており、全体を淡緑色の粘土で固めていた。5世紀から6世紀の物と考えられる。」と説明書きがなされている。

西條神社【西条市大町】

・祭神:徳川家康公、徳川頼宣公、西條歴代藩主松平諸公
・松平諸公は家康公の御孫の系譜に当たり、西條藩主として10代200年の間、宇摩、新居、周桑の村浦に仁慈の政治を敷き、ことに西條地方発展の基礎を開いた。
・古くから西田二並山に祀られていた東照宮を合祀して明治5年現在地に創建された。もと大町村村社、後西條東照宮の名を西條神社と改めた。明治27年県社昇格。
・社宝は家康公の馬印。
・例祭日は4月6日。
●伊曽乃宮お旅所の碑
●一茶句碑
「冬の月いよいよ伊予の高根哉」「廿日大町はたごやに泊る。廿一日雨つれづれ昼寝して起きて見れば春雨晴れず日も暮れず」「桃の明スサ霧男眠気也」
 江戸時代の俳人・小林一茶は寛政7年(1795)の春に伊予路を旅し、2月20日には大町に泊って句を作っている。句碑は平成元年7月建立。
●鶴亀石
 この石の背に乗ると延命長寿を祝福されると云われる。
●下津ライオンズクラブ/西条石鎚ライオンズクラブ姉妹提携記念碑
●乃木将軍の梅
●高砂浦五郎碑

楢本神社【西条市大町】

 西條神社の北隣には、戦争色の濃い神社が鎮座している。
 祭神は大国魂神他3柱。西条の名の発祥地であり、西条荘守護神として奈良朝以前に創祀されたが、詳細は天正の陣の兵火にかかり社殿と共に消失して詳らかでないらしい。
 社宝は貝正則作短刀一振蝮封じ石2個とのこと。蝮石(はみいし)の方は境内で実物を見ることができる。説明書きには「天保年間編述の西条誌巻三大町村の項に左の如し記載しあり 八ヶ塔の用水井手の端にあり長さ三尺余、幅二尺位もあるべし。二つありて一つは少し小さし。當村むかしは蝮(はみ)に喰はるるもの少なからざりし。楢本明神この石の下え封じ込め玉い、その後蝮出る事なく患やむとあり」と記している。
この他、
・関行男慰霊碑
・真鍋嘉一郎誕生の家(嘉一郎の産湯に使った水を汲み上げた井戸)
・大東亜戦争特攻記念館
・神風特攻第一號敷島隊五軍神祀碑
などがある。
 因みに真鍋嘉一郎氏は東京大学内科物理療法学初代教授であるとのこと。生家はこの場所から北方へ約500mのところに建てられていたものを昭和53年8月に復元したものらしい。

野々市原古戦場(千人塚)【西条市野々市】

 以前(1999年4月30日)に禎祥寺観音堂(西条市上喜多川)の駐車場のおっちゃんに、「歴史が好きなら野々市原へ行ってみたら?」と教えて貰っていたのだが、場所がわからず、結局おざなりになっていた。
 国道11号線を西進していると、途中で案内板が目に留まったので、すかさず左折して探しに行く。車一台がやっとの道であり、難儀な思いで進んでいくのだが、注意深く道端に目をやると要所要所に案内標識が建っており、3回ほど左折・右折を繰り返すと目的地に辿りつくことができた。
 千人塚というくらいだから石積みの塚が数多く並んでいるものだという先入観を持っていたが、実物はちょっと拍子抜けするようなものであった。とは言え、「市指定史跡・野々市古戦場」という西条市教育委員会の立派な碑も建っており、郷土史を語る上での要所であることには間違いなさそうだ。「千人塚400年祭記念事業」として昭和59年9月には史跡公園として整備もされている。「天正の陣野々市原古戦場 千人塚四百年祭」と刻まれた碑も民家脇に堂々と建っている。
 教育委員会が建てた碑には「豊臣秀吉の四国経略にあたり毛利輝元を総大将、小早川隆景を征討大将とする進攻軍に対し金子城金子備後守元宅を総大将とする郷土軍が激烈な攻防戦を行った。これが高尾城並びに野々市原である。天正13年(1585)7月12日に高尾の城攻めが開始され、7月17日に落城した。進攻軍の30000騎に対し郷土軍は2000足らずと衆寡敵せず郷土の勇士たちは力戦奮斗の末討死した。この戦のあと小早川隆景は首級を実験してこれを一墳にあつめねんごろに葬ったという。それが千人塚である。 昭和45年9月1日指定」とある。
 千人塚の横には「生子山松木三河守安村公之碑」という碑も建っている。昭和9年7月17日に、11世の孫にあたる松木幹一郎氏により建てられたものであるが、裏面の碑文を読むと野々市原で討死した郷土軍の一人であるようだ。

大久保四郎兵衛の墓【西条市氷見 大久保】

 国道11号線の南側に並行して続く旧道を通り西進していると、散髪屋の隣に何やら小さな祠があり、その横に白ペンキの角材に黒文字で何やら説明書きがなされた標柱が建っているので、立ち寄ってみることにする。
 「大久保四郎兵衛の墓」と記されている。大久保四郎兵衛は、天正13年 大久保の城を守って討ち死にしたのだが、何故か不明であるが「たごりの神」、「咳の神」として今も祀られ、平癒の際には祠に湯呑みを奉納しているということだ。しかし大久保四郎兵衛と「たごりの神」との間には何等因果関係が無さそうに見える。この祠の場所が、旧金刀比羅街道であることを考えれば、「道祖神信仰→賽の神→咳のおばさま」という流れを汲む場所と四郎兵衛の墓が存在した場所が単に一致したに過ぎないものと思われる。

お旅所跡(お旅所遊園地・新御堂児童公園)【西条市氷見 新御堂】

 ふと「ふる里サイクリング」コースの案内板が目に留まる。ここは「氷見お旅所」らしい。市指定天然記念物「氷見お旅所のくろまつ群」(昭和45年8月5日指定。所有者:石岡神社)と記しているものの、見渡せどそれらしきマツの木は見当たらない。解説には「石岡神社の新御堂お旅所には7本の老クロマツ群がある。以前はもっと沢山あったが枯死した。西条藩松平氏の御代参道にもあたるところである」と記されており、西条祭りとの関係が深く、藩政時代の交通の要所であったことを匂わせる。道沿いには「右遍んろ道/左西條道」と刻まれた道標が建っており、古くより行き交う人も多かったに違いない。
(ここから東へ1.2kmのところに阿弥陀寺がある。また、南西1.5kmには城の谷池がある。)

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