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こたろう博物学研究所
探訪記録:20000730 |
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別子山村・新居浜市・西条市散策【平成12年(2000)7月30日】しかしながら得てして計画を立てたときに限って天気は崩れるもの。水不足が懸念されるほど雨降らずの毎日が続いていたというのに、台風の到来で松山平野も雲行きは今ひとつ宜しくない。朝も早よから松山市を抜け出していったものの、東の方向にはぶ厚い雲が垂れ込めている。 西条市内に入ってから、雨が少し降り始めた。まあこれくらいの雨で治まるのならば問題無いかなと楽観的になりながらも、別子ラインに入って少し雨足が強くなり、不安感を駆り立てられる。更に大永山トンネルを越して別子山村に入るや否や、豪雨が僕を待っていた。激しい雨に、フロントガラス面を拭うにはワイパーの振幅運動が追い付かないほどである。 行き交う車も全くといっていいほど無い。いつも大賑わいの日浦の西赤石登山口付近にも1台の車も停まっていない。唯一、目にしたのは白装束とビニールのレインコートを身に纏った別子山村民が乗り込んだ軽トラック・普通乗用車の編隊ぐらいであった。
瀬場登山口【別子山村瀬場】
瀬場登山口のところには先程見掛けた車が動かずにそこにあった。何せ今回の山行(滝見ツアー)はネットワーク上でプランされたもので、今回のメンバーとは全く面識がない。ちょっと不安を感じながらも、その駐車している車の後ろに我が車を停め、車外に出て恐る恐る「あのぅ....朝倉からお越しの.....ですよね...」と声をかけてみる。心配する必要もなく、やはりなべちゃんであった。
床鍋登山口【別子山村床鍋】
別子ふるさと館【別子山村保土野】
ひとまず車を降り、作戦会議へと移る。雨足は一向に弱くならない。横を流れる銅山川の水音も段々と険しさを増して来ているように思えてくる。時折、強い風も吹きぬけて行く。なんと恨めしい天気だろうか。
黒滝、ノの字の滝遠景【別子山村大湯】
そこから車を少し走らせたところで、対面にそそり立つ峨蔵山南斜面の景色が開けてくる。ナビゲータのなかちゃんが車を停め、ここが絶好の観賞ポイントだと教えてくれる。
(*1)「えひめの山旅 赤石の四季」(伊藤玉雄氏著、銅山峰ヒュッテ発行)に依れば、「ノの字の滝」という名前で紹介されている。
別子山村森林公園・ゆらぎの森(*2)【別子山村大湯】
しばらく歓談していると、再び奥さんが現われ、「もし宜しければ、ご案内のお便りなどを御送りしますので、住所とお名前を記入戴けませんか?」とボールペンとA4の白紙5枚を差し出してきたので、記帳する。この時になって初めて今回集ったメンバーの本名を知ることができたのだから不思議と言えば不思議な集団である。インターネットならではの人の繋がりというものを改めて感じさせられたような気がした。 降り止まぬ雨を憂いながらも、コーヒーを飲みながらの一時を過ごした後、ゆらぎ館を後にする。 (*2)「ゆらぎの森」・「ゆらぎ館」の「ゆらぎ」は川のせせらぎや風がそよそよと木の葉を揺らす音に特有の1/fのスペクトル分布〜1/fゆらぎ〜から採ったもの、すなわち自然をウリにしたネーミングだと思っていたが、道沿いに「悠楽技の森」と当て字を刻んだ碑が建っているところをみると、それは僕の考え過ぎだったのかもしれない。
別子ふるさと館【別子山村保土野】
一通り展示物を見終わった後、滝見断念と互いの別れを惜しみながらふるさと館の外に出る。
それはさておき、このような行事の光景に巡り合えただけでも、別子山村を訪れた価値はあったと非常に御満悦気分になった。「黒滝までの沢登り」という主目的は果たせなかったが、自然を愛する仲間達との出会いも楽しめたのだから、良しとしようではないか。 色んな意味で名残は惜しいが、またの日の「計画再実行」を約束し、現地解散した。
本当は天気も悪いし、ここから自宅に真っ直ぐ帰るというのが常道であるが、いつもながらの徘徊癖が出てくる。松山への帰路、「少し走っては車を停め」というパターンを繰り広げてしまうのである。
大山祇神社・新田神社【別子山村弟地】
南光院【別子山村余慶】・雲谷山南光院・本尊:不動明王 雨降りしきる県道の脇にひっそりと佇む寺院が見える。車を道沿いに停めて、境内を散策する。
なるほど、この説明の通り、境内敷地内には圓通寺の堂も残っている。宗派は高野派古義真言宗、雲谷山圓通寺三業院と称するらしい。本尊は大日如来である。(*3)
(*3)圓通寺には次の諸佛が納められている。
また、快盛が蛇淵の大蛇を退治したときの、その蛇の尾を祀ると伝えられている「白尾神社」などもあり、なかなか興味深い寺である。 その他、以下のようなものもある。 ●西国三十三ヶ所巡拝所
大永山トンネル【新居浜市/別子山村】トンネル手前の幅員の広いところに別子山村の観光案内図が建っているので、しばし見入る。トンネルのお姿をカメラに収める機会もそうざらには無いということで、カバンからカメラを取り出し、パチリと1枚。 しかし、これ以上大雨の降る中にいては、道が崩れて別子山から帰れないハメに陥ってもいけないので、とにかく下界を目指すことにする。
清滝【新居浜市大永山 河又】清滝トンネルを通過して軽快に大永山を下ろうとも思ったが、折角なので旧道(悪路)を行くことにした。赤い橋の袂から上方を仰いでみたが、水量が思ったよりも少なく、ちょっと迫力に欠ける感がした。大山積神社【新居浜市角野新田町】大山積神社は別子ラインを下り切ったところの橋を渡る手前のところに鎮座する神社である。参道の階段の入口のところには、平成2年11月16日に建立された本田三嶺子の句碑がある。この神社は、もともと旧別子の足谷の「縁起の鼻」と呼ばれる場所に鎮座していた。元禄4年(1691)の旧別子開業時に大三島の大山祇神社より分霊を勧請したのが始まりで、その後、銅山の歴史と流れとともに目出度町、新居浜市山根の内宮神社へと移転・奉遷され、昭和5年に現在地に移されたという。 参道を上ると結構広い境内敷地が広がっている。そして、いくつかの蒸気機関車が展示されている。
この他、坑内牽引6トントロリー電車(第4通洞専用の鉱・人車牽引用電車)、大型四角鉱車・0.7u小形ダンプカー(鉱石・操業用資材運搬用。昭和初年から採用・活用された)、かご電車(昭和13年(1938)から閉山(1972)まで、東平坑口から日浦坑口の間の約4,000mの坑内を運行した人員輸送車)、鉱山専用鉄道用電気機関車・ED-104号(昭和25年(1950)鉄道電化の後、鉱石輸送増強のために日立製作所より部品を購入して別子事業所で組み立てた自社製電気機関車)なども展示されている。
別子銅山記念館【新居浜市角野新田町3-13】瑞応寺【新居浜市山根町】広瀬公園【新居浜市上原2-10-42】広瀬歴史記念館【新居浜市上原2-10-42】観覧料が520円。勉強不足の状態で見るのは勿体無いので、今日のところはひとまず西門から少し入ったところで、クスノキの巨樹を眺めただけで引き揚げる。新居郡立農業学校跡地【新居浜市萩生】一字一石塔【新居浜市萩生 岸之下】この一字一石塔の前には、旧へんろ道が通っており、歩き遍路も多く行き交うのであろう。私財を投じてこしらえたと思われる休み場が設けられており、ちょっとした図書館のように書籍類が一休みする人のために開放されている。王至森寺【西条市飯岡】地蔵堂【西条市福武甲 地蔵原】加茂神社【西条市福武乙】金剛院【西条市福武甲】●七重石塔・県指定有形文化財(石造美術、昭和29年11月24日指定) ・源実朝は承久元年非業の最期を遂げた。後堂北の方は落飾して京都遍照心院を建立し本覚尼となり亡夫の菩提を弔った。文永7年実朝の50年忌にあたり供養の本覚尼がこの塔を建立せられたものという。総高322cm。均整のとれた美しい石像美術である。本堂南側にある石段を登った右手にある。 ●定額位大僧正・佐藤明義翁銅像
八堂山・市民の森【西条市福武乙】頂上へは、考古歴史館から220m、第3駐車場からは130m。●八堂山遺跡 ・県指定史跡(昭和49年7月20日指定) ●入面屋竪穴式住居 ・昭和47年12月復元。昭和63年3月全面修復。 ●高床式円形倉庫 ・昭和48年12月復元。昭和63年3月全面修復。 ●C号住居跡 ・昭和46年発掘調査 ●A号住居跡 ・この上層部に円形倉庫及び集石特殊遺構が存在していた。 ●西条市考古歴史館 ・入館料無料 ・開館時間:09:00〜17:00 ・休館日:月曜日・祝日の翌日・年末年始 ・3階ベランダからの西条市街地・瀬戸内海の眺めは絶品である。 ●天神山遺跡1号石棺 ・現地より移し復元されたもので、考古歴史館の玄関正面にある。 ・「天神山丘陵頂上部北東端に検出された。主軸方向は磁北から32度西に振れ、長軸方向180cm、短軸方向40cmの堀り方を持ち、石墨片岩を並べて側壁を造り、3枚の石材を横に使い1枚の石材を縦に付き合わせて蓋石としており、全体を淡緑色の粘土で固めていた。5世紀から6世紀の物と考えられる。」と説明書きがなされている。 西條神社【西条市大町】・祭神:徳川家康公、徳川頼宣公、西條歴代藩主松平諸公・松平諸公は家康公の御孫の系譜に当たり、西條藩主として10代200年の間、宇摩、新居、周桑の村浦に仁慈の政治を敷き、ことに西條地方発展の基礎を開いた。 ・古くから西田二並山に祀られていた東照宮を合祀して明治5年現在地に創建された。もと大町村村社、後西條東照宮の名を西條神社と改めた。明治27年県社昇格。 ・社宝は家康公の馬印。 ・例祭日は4月6日。 ●伊曽乃宮お旅所の碑 ●一茶句碑 「冬の月いよいよ伊予の高根哉」「廿日大町はたごやに泊る。廿一日雨つれづれ昼寝して起きて見れば春雨晴れず日も暮れず」「桃の明スサ霧男眠気也」 江戸時代の俳人・小林一茶は寛政7年(1795)の春に伊予路を旅し、2月20日には大町に泊って句を作っている。句碑は平成元年7月建立。 ●鶴亀石 この石の背に乗ると延命長寿を祝福されると云われる。 ●下津ライオンズクラブ/西条石鎚ライオンズクラブ姉妹提携記念碑 ●乃木将軍の梅 ●高砂浦五郎碑 楢本神社【西条市大町】西條神社の北隣には、戦争色の濃い神社が鎮座している。祭神は大国魂神他3柱。西条の名の発祥地であり、西条荘守護神として奈良朝以前に創祀されたが、詳細は天正の陣の兵火にかかり社殿と共に消失して詳らかでないらしい。 社宝は貝正則作短刀一振と蝮封じ石2個とのこと。蝮石(はみいし)の方は境内で実物を見ることができる。説明書きには「天保年間編述の西条誌巻三大町村の項に左の如し記載しあり 八ヶ塔の用水井手の端にあり長さ三尺余、幅二尺位もあるべし。二つありて一つは少し小さし。當村むかしは蝮(はみ)に喰はるるもの少なからざりし。楢本明神この石の下え封じ込め玉い、その後蝮出る事なく患やむとあり」と記している。 この他、 ・関行男慰霊碑 ・真鍋嘉一郎誕生の家(嘉一郎の産湯に使った水を汲み上げた井戸) ・大東亜戦争特攻記念館 ・神風特攻第一號敷島隊五軍神祀碑 などがある。 因みに真鍋嘉一郎氏は東京大学内科物理療法学初代教授であるとのこと。生家はこの場所から北方へ約500mのところに建てられていたものを昭和53年8月に復元したものらしい。 野々市原古戦場(千人塚)【西条市野々市】以前(1999年4月30日)に禎祥寺観音堂(西条市上喜多川)の駐車場のおっちゃんに、「歴史が好きなら野々市原へ行ってみたら?」と教えて貰っていたのだが、場所がわからず、結局おざなりになっていた。国道11号線を西進していると、途中で案内板が目に留まったので、すかさず左折して探しに行く。車一台がやっとの道であり、難儀な思いで進んでいくのだが、注意深く道端に目をやると要所要所に案内標識が建っており、3回ほど左折・右折を繰り返すと目的地に辿りつくことができた。 千人塚というくらいだから石積みの塚が数多く並んでいるものだという先入観を持っていたが、実物はちょっと拍子抜けするようなものであった。とは言え、「市指定史跡・野々市古戦場」という西条市教育委員会の立派な碑も建っており、郷土史を語る上での要所であることには間違いなさそうだ。「千人塚400年祭記念事業」として昭和59年9月には史跡公園として整備もされている。「天正の陣野々市原古戦場 千人塚四百年祭」と刻まれた碑も民家脇に堂々と建っている。 教育委員会が建てた碑には「豊臣秀吉の四国経略にあたり毛利輝元を総大将、小早川隆景を征討大将とする進攻軍に対し金子城金子備後守元宅を総大将とする郷土軍が激烈な攻防戦を行った。これが高尾城並びに野々市原である。天正13年(1585)7月12日に高尾の城攻めが開始され、7月17日に落城した。進攻軍の30000騎に対し郷土軍は2000足らずと衆寡敵せず郷土の勇士たちは力戦奮斗の末討死した。この戦のあと小早川隆景は首級を実験してこれを一墳にあつめねんごろに葬ったという。それが千人塚である。 昭和45年9月1日指定」とある。 千人塚の横には「生子山松木三河守安村公之碑」という碑も建っている。昭和9年7月17日に、11世の孫にあたる松木幹一郎氏により建てられたものであるが、裏面の碑文を読むと野々市原で討死した郷土軍の一人であるようだ。 大久保四郎兵衛の墓【西条市氷見 大久保】国道11号線の南側に並行して続く旧道を通り西進していると、散髪屋の隣に何やら小さな祠があり、その横に白ペンキの角材に黒文字で何やら説明書きがなされた標柱が建っているので、立ち寄ってみることにする。「大久保四郎兵衛の墓」と記されている。大久保四郎兵衛は、天正13年 大久保の城を守って討ち死にしたのだが、何故か不明であるが「たごりの神」、「咳の神」として今も祀られ、平癒の際には祠に湯呑みを奉納しているということだ。しかし大久保四郎兵衛と「たごりの神」との間には何等因果関係が無さそうに見える。この祠の場所が、旧金刀比羅街道であることを考えれば、「道祖神信仰→賽の神→咳のおばさま」という流れを汲む場所と四郎兵衛の墓が存在した場所が単に一致したに過ぎないものと思われる。 お旅所跡(お旅所遊園地・新御堂児童公園)【西条市氷見 新御堂】ふと「ふる里サイクリング」コースの案内板が目に留まる。ここは「氷見お旅所」らしい。市指定天然記念物「氷見お旅所のくろまつ群」(昭和45年8月5日指定。所有者:石岡神社)と記しているものの、見渡せどそれらしきマツの木は見当たらない。解説には「石岡神社の新御堂お旅所には7本の老クロマツ群がある。以前はもっと沢山あったが枯死した。西条藩松平氏の御代参道にもあたるところである」と記されており、西条祭りとの関係が深く、藩政時代の交通の要所であったことを匂わせる。道沿いには「右遍んろ道/左西條道」と刻まれた道標が建っており、古くより行き交う人も多かったに違いない。(ここから東へ1.2kmのところに阿弥陀寺がある。また、南西1.5kmには城の谷池がある。) |
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