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こたろう博物学研究所
探訪記録:20000618

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松山市・松前町・伊予市散策+谷上山登山【平成12年(2000)6月18日】


 梅雨入りしてからというものの、土日になると雨模様というパターンが連続している。

 午前中は、娘が英検を受けるというので、市内まで送り迎えをしなければならない。試験会場の手前で娘を車から降ろし、試験時間の間、どっかで暇つぶしでもしようと、取り敢えず御幸界隈に車を走らせる。


還熊八幡神社【松山市御幸1丁目】

国道196号線を北に走り、山越のハトマートの手前で右折する。住宅地の中に大きな鳥居・常夜燈の姿がお目見えする。これらの鳥居・常夜燈が立派なのも然る事ながら、江戸時代には「松山八社八幡宮」の一つに挙げられていたというからさぞかし興味深いオブジェも転がっているだろうと意気揚々と訪ねていったが、まず最寄りに駐車場らしきものが無いのにはまいった。仕方無いので石段の前の路側に車を停めて、急ぎ早に境内散策へと移る。しかし、思ったよりも境内敷地は狭く、句碑などの姿も見えず、少し残念である。唯一の救いは、境内林が豊かであることだ。社地後方には低いながらも雑木林の小山が控えており、すぐそこに市街地があるとは思えないような落ち着いた空間に辿り着くことができる。

景観樹林保護地区 指定番号第30号(7,803u、昭和54年3月30日指定)
松山の八社八幡の七番社である。
・主祭神:品田和気命(ほむだわけのみこと)、帯中彦命(たらしなかひこのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、迦具都知命(かぐずちのみこと)
・貞観年間に石清水八幡宮より勧請し、河野氏が崇敬したという。
・天正18年、饒宮宗胸肩宮、矢取宮(長寛年間、源爲朝が弓術の奥儀を悟った際に神祠を建て五十猛神を祭り、矢取宮と称したという)を合祀した。
・慶長年間、松前城主・加藤嘉明が関ヶ原に出陣した留守に毛利勢が河野の遺臣らと連携して来予し、この地区でも戦闘を交えた。その時、嘉明の家臣・佃十成がこれを撃滅したが、兵火によって社殿が消失し、旧記宝物等を失った。慶長6年、加藤嘉明が松山築城にあたり社殿を再建し、八社八幡宮の一社として崇敬し、江戸参勤の際には幣帛を奉り道中安全を祈願したと伝えられる。

●「山林寄付」の碑

●境内社:鎮守社


長建寺【松山市御幸1丁目】

還熊八幡神社からやや南に下り、小川沿いに東へ少し進んだところに長建寺がある。何度か訪ねてみたことはあるが、あらためて句碑を眺めに立ち寄ってみる。

●種田山頭火句碑

「もりもりもりあかる雲へあゆむ」
・昭和51年1月26日建立。
・昭和15年の俳誌「層雲」に発表した句。
・俳句の里 道後コース37番

●高橋一洵句碑

「母と行くこの細徑のたんぽぽの花」
・昭和51年1月26日建立。
・俳句の里 道後コース37番

●副碑

「高橋一洵先生は松山に生まれ、大正14年早大卒業後、33年間松山商大に教鞭をとり、古代印度の宗教社会政治の研究、聖徳太子・一遍上人の讃仰等多数の論文を発表す。佛教の実践、名講演は青年と大衆の心を打つ。俳人山頭火を敬愛しその最後を見守る。昭和33年1月26日歿。山翁と共に59歳なりき」と刻まれた自然石の副碑が傍らに立つ。

●大島梅屋句碑

「門前に野菊咲きけり長建寺」
・長建寺山門前に建つ。
・梅屋は松山市生まれ。松山市立松山高等小学校教員。愚陀仏庵に漱石と同居していた子規に教えを受けに日参した松風会員の一人。
・明治28年(1895)10月下旬の「松風会稿抜草」(子規選)では、この句が「圧巻」と朱書されて、その子規の文字のままでこの句碑が建立されている。
・昭和36年建立。
・俳句の里 道後コース36番

護国神社/万葉植物園【御幸1丁目】

◆万葉植物園

 ここは市街地にありながら、手軽に多くの植物と対面できるという点で、僕にとって最高の暇つぶしスポットである。しかも、和歌と絡めて植物を眺めるという発想がいい。

 ここ最近、山登りに凝っているせいもあって、今日は「竹」に絞って眺めてみることにする。

●やだけ(万葉呼名:しの)
「うちなびく春さり来れば小竹(しの)の末に尾羽うち触れて鶯鳴くも」
●すずたけ(万葉呼名:すず)
「み薦(すず)刈る信濃の真弓わが引かば貴人さびていなと言はむかも」
●くまざさ(万葉呼名:ささ)
「ささの葉はみ山もさやにさやげども吾は妹思ふ別れ来ぬれば」(2-133、柿本人麻呂)

 それとオマケ。

●やどりぎ(万葉呼名:ほよ)
「あしひきの山の木末の寄生(ほよ)取りて挿頭(かざ)しつらくは千年(ちとせ)寿くとそ」(10-4136、大伴家持)


◆護国神社

護国神社境内の南の玉垣沿いには、
「愛媛県護国神社の御祭神 国造りの神・郷土愛媛の守り神
明治戊辰の役以降日清戦争を経て、支那事変大東亜戦争に至るまでの、数度の戦役事変において護国の重任に当り、遂にその尊き犠牲となって国難に殉せられた、愛媛県出身の護国の神霊を始め、社会公共のために■して公務に殉職せられた方々、又愛媛県の産業文化に貢献して、永く県民に恩恵を垂れさせられた先賢諸士、即ち松山城を築造せられた加藤嘉明命、宇和島今治城主藤堂高虎命、松山城初代藩主久松定行命、宇和島初代藩主伊達秀宗命、其の他藩主及び藩政に功労のあった足立重信命等、亦建武中興より明治維新に至る迄の国事に殉して御贈位になった方々、産業功労者としては、義農作兵衛命、下見吉十郎命、鍵谷カナ女命、文化人としては尾藤二洲命、近藤篤山命、矢野玄道命、正岡子規命等を合祀、さらに女子学徒、看護婦、電信交換手、報国隊、義勇隊、東予丸犠牲者、警察官、消防団、自衛隊等の公務殉職者を併せて御祭神数は49,710柱を御奉斎申してあります。」と記してある看板が建っている。


 そうこうしているうちに、胸元の携帯電話から着信メロディが流れてきた。娘からのコールだ。急いで迎えに行き、そして家に連れて帰る。

 朝方は曇天で今にも雨が降りそうな感じであったが、昼からは晴れ間がのぞいている。こうなると、いてもたってもいられない。昼食を終え、14:00過ぎからではあるが、手軽な山を目指し、車を伊予市方面へと走らせる。目的地は伊予市南方に聳える谷上山だ。


埜中神社【伊予市下三谷】

行く途中で、田圃の中にこんもりとした社叢林があるのに目がとまった。
境内は豊かな樹叢を成している。中でも神木(クス?)は樹齢200、300年は下らないと思われるほど大きくて立派な枝ぶりである。天然記念物に指定されてもおかしくないほどである。

●句碑

「うぶすなの神はかしこしとこ鎮め」

●永代常夜燈

・文化13年の銘有り。

谷上山【伊予市上吾川】

・伊予市八景
・皿ヶ嶺連峰県立自然公園

●正岡子規句碑

「夏川を二つ渡りて田神山」

●へんろみち道標

●愛媛尊旧跡道標

・「奥院夜光井」「田神権現」と記されている。
・大正10年9月建立
宝珠寺山門前の広場に駐車し、鐘付堂のところから山道を登っていく。墓地を通り過ぎると、まるで奥深い山に来たと錯覚しそうなほどの豊かなスギ・ヒノキ林が広がっている。道は非常にしっかりしていて歩きやすい。ハイキングには絶好の道である。

しばらく進むと愛媛県立伊予農業高等学校の演習林を示す標柱が建っている。ここから左に折れてヘアピン状に続く道を登っていく。以前来たときよりもだいぶん道も整備されている。ちょうど汗が噴き出てきそうになったころ、山頂に辿り着く。極めてお手軽な登山コースである。

山頂には小さな祠と、その脇には何やら意味ありげな小さな池がある。これがきっと「田神権現」と「夜光井」に違いない。「谷上山 456m H7.2.11」と書かれた小さな記念板が建てられている他は、山頂らしさを示すものは存在しない。

そして肝心要の山頂からの眺めは、残念ながら然程良くない。北方に僅かに開けている程度である。そして木々の間より明神山の姿が垣間見ることができるぐらいだ。

特筆すべきは山頂に野菜畑が有るということか。畑仕事を来ていた農家の方に一礼すると、
「下(大谷池)から登ってきたの?」
と声を掛けられる。
「いやいや、寺の前までは車で来たんですよ」
リュックを背負い、スパッツを足元に巻いている姿は、如何にも麓から歩いてきたような雰囲気を醸し出していたのであろうが、恥ずかしながら実際には軟弱登山者なのである。

10分ほど山頂での時間を過ごすと、さっさと下山に移る。疲れも感じないほどの距離であり、下りでもあることから、あっという間に登山口に到着した。たったの10分である。ちょっと物足りない気もしたが、登山気分を味わうという意味では十分に目的を果たすことができた。


宝珠寺【伊予市上吾川】

・真言宗智山派谷上山

●出来京太郎・吉太郎翁頌徳碑

脇には「信濃国善光寺」と刻まれた石仏が佇む。
本堂は修復中であり、周りを架設足場が取り囲んでいて風情を損なっている。折角来たのに残念だが、保存のためならば仕方ない。

谷上山展望台界隈

続いて第一展望台に登り、周りの景色を楽しむ。伊予市の平野部には意外なほど豊かな田園が広がっている。水を湛えた田圃が、ガラス窓を敷き詰めたような風景を作り出している。
以前は海側だけを見て「きれいな景色じゃのう」と思っていたが、山登りをしはじめ、山の名前をだいぶ覚えたせいもあって、四方八方に自然と目が行ってしまう。大谷池の向こうには行道山、南東方向には障子山、南西方向には明神山などが見える。実際に登ったことのある山ばかりであり、その方向に目が向くと、自然と登山時の記憶が頭の中に浮かび上がってくる。

景色を十分堪能した後、展望台の裾に建てられている碑を観察する。

●沖喜予市翁頌徳碑

「沖喜予市翁は明治28年2月22日伊予郡郡中村(現伊豫市)下吾川の農家に生まれた。農家に生きることを志し愛媛県立松山農業学校(愛媛大学農学部の前身)に進まれた。その後愛媛県農業会技術員として農家並びに農業団体の指導と技術の普及にあたり農業の振興に尽くされた。清貧に甘んじ栄達を求めないことを信条とされた高潔な人格は地元はもとより郡内住民の敬慕する所であった。
昭和22年4月推されて戦後初の伊予郡選出県議会議員となられ以来連続5期20年間にわたり激動の自生を県政に奔走された。第50代愛媛県議会議長の要職に就かれては県政重要施策の推進に敏腕を振われた。とりわけ20年間の政治生活を通じ農業問題に情熱を傾け道後平野の干害防止対策に尽力された。翁は仁淀川に注ぐ面河川から愛媛県側へのダム建設による分水を提唱され、難問であった高知県との分水協定締結に心血を注がれた。こうして面河ダムの完成と同然道後水利開発という世紀の大事業が完成した。その他道後平野土地改良区理事長・郡中農業共同組合長等々その功績は枚挙にいとまがない。時あたかも道前道後水利事業完成20年を迎え加えて昭和51年7月、81歳の生涯を閉じられた翁の13回忌を迎えるにあたり、ここに頌徳碑を建立して翁の偉業をしのび功績を永く後世に伝える。」と記した副碑が建っている。

●伊予商工会議所創立50周年記念碑

伊予中学校の玉井さんが描いた「未来の伊予市」の絵が焼き付けられている。
大谷池へと下る道は、以前は雑草が覆い被さる陥没だらけの未舗装の悪路であったが、今では綺麗に舗装されていて、とても車で走りやすい道へと生まれ変わっている。この道沿いにも句碑・川柳碑が2、3新たに建てられている。

●関谷省三句碑

「大谷の花から瀬戸へ届く鐘」
関谷省三氏は伊予川柳会長。
この句碑は平成9年伊予市にて開催された県民文化祭川柳大会での知事賞受賞を記念して平成10年9月に柳友一同により建てられたもの。

●紀楽句碑

「波の音地球の鼓動かも知れぬ」
伊予市立図書館川柳コーナー開設を記念して開催した川柳誌上大会において国内外より応募のあった9000余りの句の中から最優秀句に選ばれた句。東京の安藤紀楽氏の作。
平成9年11月、伊予市長・増野英作銘で建立された。

大谷池【伊予市上三谷】

●大谷池の説明書き立て看板

・大谷川の上流にあり、周囲を自然林に囲まれた全国指折りの人造湖。大谷川は、上流の砂や小石を流したため、下流の川底が次第に高くなり、いつもは水量が少ないが、大雨となるとたびたび水害を起こしてきた。また用水は、上・下三谷の田に引かれたが、この地方は瀬戸内気候で雨が少なく、炎天が続くとたちまち水不足となった。
・大正13年(1924)南伊予村長・武智惣五郎は、相次ぐ水害と旱害を永遠に防ごうと、この池の築造を思い立った。翌年、南伊予村ほか三か町村(郡中村、松前町、北伊予村)耕地整理組合を設立。以後、幾多の難問を突破。14年かけて昭和20年3月、ついに完成した。
・土手の高さ38m、長さ198mで、貯水量180万立方メートル、灌漑面積570ヘクタール。池のほとりには、記念碑と、武智惣五郎の記念碑が建てられた。この池築造のかげには、この人の不屈の根性とゆるぎない実行力が秘められている。
・皿ヶ嶺連峰県立自然公園に含まれ、春は桜が美しく、冬は数千羽のかもがシベリアから飛んでくる。この楽園に集まる野鳥の種類は80種にも及ぶといわれる。
・昭和59年には、この池に添って、えひめ森林公園が設けられ、昭和61年には谷上山と併せて、朝日新聞社の「四国の自然100選」に選定されている。

●武智惣五郎氏頌徳碑

●大谷池記念碑

●大谷ます子歌碑

「山青く 水清らかに 風渡る 大谷は 心のふる里」

天長寺【松前町】




【同行者】なし
【コースタイム】
[往路]宝珠寺山門→(15分)→谷上山
[復路]谷上山→(10分)→宝珠寺山門
 

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