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こたろう博物学研究所
探訪記録:19990523

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砥部町南部散策【平成11年(1999)5月23日】



★国道379号線の上尾峠に3つのトンネルが設けられているが、一番松山側のトンネルを抜けて左のところに古い地蔵が祀られているとの情報があったので行ってみたのだが、発見できず。雨降る中を出向いてみたのに、いきなり出鼻をくじかれてしまった。

1.千里集会所【砥部町千里】

●砥部四国八十八ヶ所霊場21番札所:太龍寺

★この後、西へと山道を進み、十郎部落へ行ってみたが特筆すべき事項無し。途中で行き止まりになってしまった。
★この先には、見残しという地名が残っているらしい。

2.新田五社神社【砥部町万年】

★国道379号線を下りていき、万年の急カーブのところで左折して県道53号線に移る。1kmぐらいだろうか、車を走らせると、右側に鎮守の森が見える。

●地蔵堂

★堂の中には地蔵が一体安置されていた。
★堂の入口の石段に、何故か(四角穴の)古銭が1枚置かれている。

●小祠


3.要害山峠附近【砥部町万年北万年】

●砥部四国八十八ヶ所霊場38番札所:金剛福寺

★雨がそぼ降る薄暗い山道を下りていくと、途中で狸に出くわす。「こげな山ん中で化かされたらどがいしょうか」と内心不安になってしまう。

●六地蔵

・天保七年の道祖神3体と、左端には首無し地蔵が。
・昔は北万年から南万年にかけて中山街道が通っていた。恐らく大洲藩・新谷藩に属する砥部町内との往来が盛んに行われていたのであろう。道に祭られた六地蔵がそう物語っているような気がする。
★この辺りは秋口になるとマツタケがよく採れたらしく、「マツタケ山」「マツタケ峠」などの地名が残るとのこと。
★万年は「万年柿」で有名らしいが、柿の木は一本も見掛けることがなかった。やっぱり秋口じゃないんで見落としてしまったのか。

4.千里口【砥部町川登川上(千里口)】

★千里口の集落内をゆっくりと車を走らせながら、砥部川のほうを眺めると、川の中で何やら洗い物をしている農家のおばちゃん二人の姿が見える。更にスローダウンしながら、何を洗っているのかを眺めたが、どうも球根系の農作物(辣韮?)のようである。川と密着した生活の風景というものも、最近ではほんと見掛けることが少なくなった。砥部川の上流部はまだまだ水が綺麗だということか。
★砥部四国の22番を探して山道を登っていると、おばちゃんが上から降りてきている。ワシを見つけたおばちゃんが、「どこ行きよんな」と声を掛けてきた。「これこれ」と"砥部四国22番"と書かれた道標を指差し、「まだまだ歩かんといかんのですか?」と尋ねてみる。「ほれ、そこの梅の木の上びらんとこよ。私ら、道が悪いけんよう行かんのよ。足下が悪いでな。若い人なら大丈夫じゃろうけど、気をつけて行きなはいよ」と答えてくれる。「有り難う」と礼を言って、山道を再び登り始める。ここには稀人(まれびと)を大切にもてなしてくれるような風土がまだ残っている。
★端の脇に「砥部四国22番、26番」という道標が立っていたが、26番のほうは残念ながら発見できず。

●砥部四国八十八ヶ所霊場22番札所:平等寺


5.立野菩薩堂(立野集会所)【砥部町立野】

★つづら(くさかんむりに"縮")川沿いに細く薄暗い山道を上っていくと、途中に「立野七社さま:脳かみさま →」「立野菩薩堂竝:延命長寿抜苦離観音 →」の石標が建っている。途中農耕用軽トラックと出くわすが、離合もままならない。

●安らぎの里

●坂村真民「念ずれば花ひらく」詩碑

●観音水

●陶板碑

●弘法大師像

●六地蔵

●菩薩堂


6.七社神社(袋神さん)【砥部町立野】

・頭痛の神として有名らしい。

●きくえ句碑

「去りゆけど 忘れがたしや 薮椿」

●立野部落歴史碑

●神木:コガノキ

・樹齢1000年といわれる。

●小堂

★立野は、昔義太夫が盛んで師匠も出したと言われる。民家の北側に小堂が並んでいるのは、北方からの進入を防ぐためと言われる。
★立野には、”ジヨシ”、”マツバゴヤシ”、”ウワゴヤシ”など、肥沃な土壌を偲ばせる地名が多く残る。

7.二ツ木入口【砥部町千里口】

●砥部四国八十八ヶ所霊場29番札所:国分寺

●六地蔵


8.二ツ木集会所【砥部町二ツ木】

●砥部四国八十八ヶ所霊場30番札所:善楽寺

●六地蔵


9.川富神社【砥部町川登川中】

★この神社の向かいにある「タケチ工業ゴム」の工場敷地は、もとは千里小学校が建っていたという。千里小学校は明治8年創立で、その後、砥部小学校と統廃合を繰り返しながら、昭和27年に独立校となるが、昭和45年に砥部小学校と統合し、千里教場となった。そして、昭和47年に実質統合して歴史の幕を閉じた。

10.義民佐治衛門碑【砥部町川登川中】

★江戸時代、農村では生活に欠かせない燃料を確保するために山を所有していた。しかし、自分の村に山が無い地域では、近くの村に共同の山(入会山)を持ち、燃料を求めた。当時砥部には三つの入会山が有り、松山藩の支配下にあった。しかし砥部が大洲藩の支配下に代わり、入会山が二つの藩に分かれてから争いが起こり始めた。そこで佐治右衛門(川登村組頭)は、庄屋善兵衛(北川毛)とともに大洲藩に直訴し、砥部の立場は認められたが、騒動の首謀者として極刑に処せられた。

11.円誓寺【砥部町川登川中(古幸)】

・宗派:臨済宗妙心寺派

●六地蔵

★円誓寺は(1999年5月)現在改築中で、本堂も庫裏もまったく姿を消してしまっていた。
★古幸橋の上からしばし川を眺める。小さい川だが、水は透明で、景観的にも素朴で美しい。
★古幸の北西側の一帯は、中替地(なかがいち)と呼ばれる。寛永3年に行われた、松山藩・大洲藩との替地であったことを示すといわれる。

12.川登陶石発見の地【砥部町川登川中】


13.塚(小社)【砥部町川登川下】

★伊予鉄バス停留所「コナ」のやや南、国道の砥部川側の田圃の中にぽつんと塚(小社)があるのが見える。社の西側には五輪塔1基が建っている。古墳跡だろうか?

14.熊野神社【砥部町大南】

 

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