[KOMIL:KOtaro's Miscellaneous 
Information Laboratory]
Copyright (C) Kotaro Iseki (1996〜2022).
All rights reserved
こたろう博物学研究所
探訪記録:19990425

トップページに戻る

インデックスに戻る

北条市散策【平成11年(1999)4月25日】


1.薬師堂【北条市庄】

・風早四国八十八ヶ所 第64番霊場

●仏像群

・市指定有形文化財(昭和39年7月25日指定)
・薬師堂に安置されている仏像約30体の中で、比較的保存のよい大小の像である。製作年代の幅は広く10〜12世紀のものと推定される。武装した形の二体は帝釈天像、天衣をまとった形の軟顔の三体は吉祥天像と思われる。薬師如来を中心として十二神将の一部と吉祥天、帝釈天がこの仏堂に集められていることは、この地にかなりの規模の伽藍のあったことを証明づけるものである。昔時兵火にかかり享保7年と明治19年の大洪水にあいながら、今日までこれだけの諸像が損傷しながらも保存されていることはまことに幸いである。

●木造薬師如来座像

・市指定有形文化財(昭和39年7月25日指定)
・薬師如来像は薬師堂の本尊で、堂内にある菩薩像2体よりずっと後の室町時代(1339〜1573)後期の作といわれ、作者は明らかにされていない。愛媛県下で最も大きい地方作風顕著な木像である。座高2.5m、腰幅1.85m、総桧材の寄木造りの座像で、昔から諸病平癒に霊験あらたかなお薬師様として、地方民の信仰厚く、毎年8月17日の縁日には参拝者が多い。しかし、薬師如来を盛りたてる日光菩薩、月光菩薩、十二神将など脇仏のそろわないのはまことに惜しい。

●木心乾漆菩薩立像

・国指定重要文化財(昭和40年5月29日指定)
・木心乾漆菩薩立像はセンダンの木の一木造りで、損傷が目立つが、殆ど乾漆をつかって仕上げたものである。面持ちは童顔に近く美しい。
肩張り、胸の厚み、腰から脚へ流れるような衣紋など、奈良期の作風がよく示され、平安初期の製作で、県下では最も古い彫像として注目されている。

●木造菩薩立像

・国指定重要文化財(昭和年月日指定)
・木造菩薩立像はカツラの木の一木造りで、髪は頭上に束ね、天衣をかけ、胸飾り、腕輪をつけ、■の膝をゆるめて立つ。ひるがえる波のような膝下の■など平安期の特色をあらわしている。
木心乾漆菩薩立像・木造菩薩立像は、ともに古風を保ちながら地方作風の粗豪さが出ており、伊予造像の貴重な作例といわれている。

2.奥の谷古墳【北条市庄奥の谷】

・県指定史跡(昭和25年10月10日指定)
・この古墳は丘陵の斜面を利用し、入口が南に面した両袖式の横穴式石室もつ円墳である。内部は羨道と玄室に区分せられ、その奥行きは12m、入口の高さ1.25m、玄室の高さは3mである。
・すべて巨大な花崗岩を使用しており、羨道、玄室ともに天井は各3枚の巨石の持ち送り方式によって構築している。奥壁は幅1.8m、高さ3mにおよぶ巨大な一枚石を使った豪壮なものである。
・使用されている石の大きさや構造などから見て、古墳時代後期である6〜7世紀の内、比較的遅い時代に造られたものと考えられるが、横穴式のものとしては県下で最も大きな古墳の一つと言えるであろう。
★玄室内部に入ることができる。

3.十輪寺【北条市庄】

・山号:弘法山
・院号:丹生院
・宗派:真言宗醍醐派
・風早四国八十八ヶ所 第65番霊場
・風早西国三十三ヶ所 第23番霊場
・知恵の文殊菩薩

●知恵の環

「知恵の環を くぐらばいつか 我も亦 頭の下がる 人となるかも」

4.春日社【北条市庄】

★春日社と金毘羅大権現の間に、合掌する石仏有り。

5.金毘羅大権現【北条市庄】

・河野伊豫守通信、河野通俊父子によって文治3年(1187)10月に創建されたと伝えられている。
本殿は扇量木を使用し、彫刻物は竹田番遙、飛田円道の作品があり、拝殿かえる股には十二支の彫刻があって、好道の刻名がある。
御神像は三宝剣を■し威厳があり、明治以前の両部神道、神仏一致の行装を示している。社殿はしばしば修理を施されているが、扇量木をはじめかえる股等の彫刻、組木などは原形が保存されていて貴重である。

●本尊像 一躯
●奥殿 一棟
●拝殿 一棟
・市指定有形文化財(北文第32号、昭和50年12月12日指定)


6.堂【北条市庄】

・堂の元バス停前にある。

7.毘沙門堂【北条市庄】

●兜跋(とばつ)毘沙門天立像(多聞天)

・県指定有形文化財(昭和37年11月1日指定)
・毘沙門天は護法神の一つで十二天のうち北方の守護神であり、仏法守護の役割を表わすために武装念怒の形をとっている。
本木造は毘沙天の一異形である兜跋毘社門天であることは、地天の上に直立していること、胴の部分にからだに密着した鎧を着用し三面立の宝冠のあとなどで知ることができる。
この毘沙門天は両手に鼻頭その他欠損が見られるが一木彫成法による彫刻であり、身体全体が量成と力の充満した堂々たるものであり、突出した山形の眉、小さな顎などは明らかに貞観時代(810〜823年)、平安初期の彫刻の特性を備えているといえよう。
木造の相貌で見ると送八の字に上つき眉、見開いた両眼、角張った頬骨を突き出した口などの全体から受ける念怒表現、堂々たる体躯は1.82mの大きさとは思えない強大な迫力を感じ、護法神の名を高くしている創造沿革を知る文献資料はないが、古来から部落民信仰の的となっており、庄府寺の境内に建てられたものといわれ今もその地を庄府屋と呼んでいる。

8.俵源池【北条市】

●俵源池の碑

・「豊穣の源 俵源池」と刻んでいる。
・昭和28年5月建立
・池の周りには、至る所に野藤が薄紫の花をつけている。

●サンセットヒルズCC内の遺跡

・ゴルフ場建設に先立って、(財)愛媛県埋蔵文化財調査センターによる遺跡発掘調査を実施した結果、弥生時代中期の遺跡や、箱式石棺一基(5世紀頃)、古墳7基(6世紀後半〜7世紀初頭)、土坑墓(6世紀末〜7世紀初頭)などが見つかった。そして、弥生時代中期の人々の生活痕跡(遺構)からは、土器や石包丁、鉄製のやりがんな等が出土した。
・この遺跡から出土した古石で円墳が築かれている。

9.山神社【北条市萩原】

10.小竹地蔵堂【北条市浅海本谷】

・風早四国八十八ヶ所霊場 番外18番霊場

11.葛城神社【北条市浅海谷】

・祭神:味■高比古根命、八重事代主命
・境内神社:荒神社(祭神:大己貴神)
・例祭:10月2日
・当社は文武天皇の御宇、創祀されたといわれる。
・その後、元久年中、浅海太郎頼■の厚い崇敬があり、社殿を造立した。 

12.高田神社【北条市高田】

・当神社はそれぞれ別の場所に三ヶ所あり、柳神社(神田)は天忍穂耳命、■幡千々姫命が鎮座して、河野氏・柳原氏等の崇敬深い社であった。新宮神社(波田)は遠玉男命・産霊神・天香語山命を奉り、刑部大輔より水田寄進の■状あり。素鵞神社(寺谷)は素戔鳴命・稲田姫命・少彦名命が鎮座し、和邇氏、河野氏の崇敬するところであったが、明治45年維持の方法を確定し、その設備を整え、官の免許を得て現在地に合祀奉遷し、高田神社と称して氏子の崇敬を集めた。
・その他に和霊神社(境外神社)、熊野神社(境内神社)があり、地域崇敬者に手厚く祀られている。
・昭和7年に不審火により本殿を除くことごとくを焼失したが、氏子らにより再建した。

13.高縄神社【北条市宮内】

・祭神:大山積神、高おかみ神、鳴雷神
・高縄山は古来、神霊天降る峯として、山麓はもとより広く斎灘一帯の海上から仰がれた神山であり、かつて三島大明神を奉じ、瀬戸内水軍を率いて天下に雄飛した小千(越智)河野一族は、当地風早郡河野郷に発祥した。
・社伝によれば、河野氏の遠祖小千命九世の孫、小千躬尺は、別名を小千高縄とも称し、三島大明神の神託により高縄山に居城したと言われ、後六世を経て、第15代小千益躬は推古天皇7年(599)、山頂天神ヶ森(てんじがもり)に社殿を新設、三島大明神を主座に天神地祇を奉斎して高縄神と尊称した。
・「類聚国史」には、当神社を推古天皇勅願社の一つに数えており、「三代実録」貞観5年の項には神階授与のことが見え、当時より神威赫然たりしことが偲ばれる。
・越智氏第27代の家督を継いで高縄城主となった河野親清は、天神ヶ森の高縄神を奉遷すべく御神意を伺い、当地を卜定(ぼくじょう)して、保延2年(1136)3月23日に現在地に鎮座した。河野新宮とも河野三島宮とも尊称され、社殿は大山祇神社に擬して造営された。
・以来当神社は河野氏の産土神として崇敬され、親清の子通清から末孫通直まで神領安堵神田寄進累代に亘り、荘厳を極めた。
・戦国時代河野氏は滅亡して、当神社の神領神田は悉く没収され、更に慶長5年(1600)9月20日の夜、兵火に罹って社殿・神宝・古文書等をすべて焼失した。
・徳川時代半ばになって当神社はようやく復興の緒につき、文化3年拝殿を再建、文化9年に本殿を再建。明治3年に社号を復古して高縄神社と改め、同4年河野一郷の鎮守として郷社に列格、同28年には県社に昇格した。
・現在は神社本庁傘下の宗教法人となり、神縁深き河野地区の氏子によって護持されている。

★絵馬堂で奉納額をしばし眺めていると、一台の車が駐車場まで上ってきた。車を停めると、助手席に息子を置いたまま、一人の男が近寄ってきた。「近所の人じゃろか?」と思いながら、奉納額を再び眺めていると、「もう絵具がだいぶ落ちてきて見えにくくなってるでしょ?」と話しかけてきた。しばらく、色々と奉納額の古さや絵柄などについて話していたのだが、ふと、「この辺りに住んでおられるのですか?」と訪ねると、「私は宮司なんですよ」と答えられた。「ありゃ、そりゃ失礼いたしました。」


14.河野小学校前【北条市宮内/常保免】

●造林記念碑

・昭和3年10月建立。景浦松東書。

●仙波花叟(せんばかそう)句碑

「馬方に 山の名をとう 霞かな」
・常保元橋の袂に建つ。
・昭和28年12月、薫風吟社が建立した。
・仙波花叟は、名を衡輔といい、早くから鳴雪、子規、虚子等に教えを受け、霽月、極堂と親交があり、風早吟社をつくった功績は大きい。父は仙波縄。代々大庄屋で、多くの偉人を出した家柄である。

15.善応寺石経(28個)【北条市善応寺】

・県指定有形文化財(昭和39年3月27日指定)
・石丸浅太郎氏邸の庭に保存されている。
・この石経は、凝灰岩、緑泥片岩、砂岩、安山岩等の比較的柔らかい自然石に妙法蓮華経の経文を表裏にわたって刻んだものである。
・石経を造った意趣は判然としないが、末法思想による現在安穏、追善供養のために築かれた経塚への納石と考えられる。
・筆跡より見て、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて作られたものと推定されるが確証はない。だが当時の仏教思想、金石文等に関する貴重な資料である。
・指定された28個は石丸浅太郎氏の裏の山肌から発掘されたもので、たくさんの南無大日如来の名号石の中に混入していたものを選び出したものである。
★経文が刻まれた28個の石経は、庭の隅の鍵のかかった祠の中に収められている。一方、名号石のほうは数が多いせいか、無造作に別の祠の中に積み上げられている。
★丁度、訪れたときに、石丸氏が庭の草むしりをされていたので、「見せてください」と打診すると、親切に色々なことを教えて下さった。石経のこと、河野郷のこと、辺りの山々にあった河野氏の居城のこと、善応寺古墳(「お塚さん」と呼ばれていた)のこと、善応寺の社地がこの辺り一帯に及んでいたこと...など、盛り沢山の内容を教えてくださった。

16.善応寺古墳(河野塚)【北条市善応寺辻の内上土居】

・市指定史跡(昭和49年6月10日指定)
・横穴式古墳として丘陵斜面の南西に口を開き、内部は玄室と羨道に区分されている。玄室の奥行4.8m、幅2.4m、高さ2.8mで、天井は4枚の巨石で構成されている。
・安政2年4月娑婆池の修築また後世当河野神社建築の際、羨道などの石は多数使用され、現在奥行4.1m、幅1m、高さ1.9mを残している。
・発掘の際、人骨、渦紋土器、鏡、刀剣などが発見たが、散逸して全く残在されていないのは遺憾である。

17.善応寺【北条市善応寺】

・山号:好成山
・風早四国八十八ヶ所霊場 第25番霊場 地蔵堂
・風早西国三十三ヶ所霊場 観音堂

・開基河野通盛(みちもり)(1364没)は、通有の末子に生まれ、河野総領家を継いだが、元弘の乱(1331)に失脚し、鎌倉建長寺南山士雲(なんさんしうん)をたより、旧勢を保つことができた。この時、南山士雲の恩に報いるため、越智玉澄以後800年に亘る居館であった河野郷土居館を京都東福寺に擬して寺院に改築し、建武2年(1335)に河野一族の氏寺として好成山善応寺を創営した。
通盛(法名善恵=ぜんね)は、南山士雲の法嗣(ほっす)正堂士顕(しょうどうしけん)を東予市長福寺から迎え開祖としたが、正堂法嗣の寺として永代住持(住職)を定めた。この後、貞治3年(1364)には諸山の列(宮寺)に加えられた。
・古文書によれば、寺域を「東限鳩谷(はとだに)之透、南限揚岐庵山(ようぎあんざん)過山峰之透、西限娑婆山(しゃばやま)之透、北限土居山(どいやま)尾新宮山」とし、現在の善応寺部落全域にわたり、その面積は60町歩に及ぶ広大なものであった。
・七堂(仏殿、法堂=はっとう、僧堂、方丈、庫司=くす、東司=とうす、浴室)、十三塔頭(たっちゅう)(通玄庵、萬松庵、千手院、養寿院、大崇院、宗玄院、林少院、萬年院、一心庵、見寿院、明智庵、霊雲庵)を有する大禅刹であった。
・その後、善応寺は代々河野氏の帰依を受け盛観を呈したが、天正13年(1585)7月、河野氏没落と共に戦火に焼失荒廃した。
・江戸時代中期、善応寺十一世の黙翁士徹(もくおうしてつ)によって将軍徳川吉宗の厚遇を受け、明智庵のあとに現在の善応寺を再建した。

●「河野氏発祥之地」の碑

碑誌
河野氏は、伊予国第一の大族で、風早郡(現北条市)河野郷土居(現善応寺)この地より起こる。
中世伊予を代表する武士であった河野氏は、河野郷を中心として発展するが、確かな記録では、平安時代の末期から地方豪族として、広く世に知られるようになった。特に源平合戦で活躍した河野通信が、確固不動の地位を獲得し、瀬戸内海に面する伊予の実権を掌握した。
瀬戸内海に突出する高縄半島にある河野氏の本拠である河野郷土居は、中世伊予の軍事・経済・文化の中心地で、日本の政治と深く係わり合って、波瀾にみちた歴史を生んだところである。

●善応寺のほのぎ(地名)

古文書によると、善応寺の境内を、東は鳩谷を透す限り、南は楊岐庵山を過ぎ山の峯を透す限り、西は娑婆山を透す限り、北は土居山の尾新宮を透す限りと定められ、実に五十町歩に余る広域なものであった。
三良丸、福楽寺、明智庵、塚穴田、万年寺、福堂、木染、松林庵、東深田、城木、竹ノ下、大通院、通玄庵、中田、馬場、硫黄丸、龍王、大石田、二反地、湯の久保、政所、宮ノ下、宮ノ鼻、東角、二十腹、後宮、御城堂、家敷、鳩の谷、観音堂、小尾ノ谷、畦地、能楽、地蔵堂、森本、稗佐古、■畑、菅ノ谷、清水、大庭、南川、片山、久保、大庭西、大庭北、堂ノ上、助近、宵ノ上、桜堂、宗源寺、小松窪、高山界、柳本、後河原、北馬場、城ノ守、小木窪、楠、岡、道免、阿弥陀堂、森本、国峯、明楽、日浦、一ノ宇、長生寺、若■、城の窪、土居越、爪窪、池谷、毘綸首、平原、西佐古、馬口、蔵谷、大角豆田、小室庵、斎御堂、小松、千寿院、風呂元、柿田、福楽寺、温田、万松寺、尾鼻、天王、才ノ原、平利、松ノ木、鳩谷、畦地、上河原、池田、明神、小山(辻ノ四墓地)、辻ノ内、毘沙門、類泉、宮ノ波座、木染、七漬、月輪田、東深田、高木  

トップページに戻る

インデックスに戻る


ご意見・ご感想は

kotaro@kotaro-iseki.net

まで