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こたろう博物学研究所
探訪記録:19990314

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保内町/長浜町散策【平成11年(1999)3月14日】


前田山生誕地/前田山記念公園建設碑

・公園面積49u、土地寄付者萩森直義氏、事業費24,814,000円
・工事内容:横綱前田山像一体、ベンチ一基、植栽四本、灰皿一基
・平成4年10月吉日建立、保内町・横綱前田山顕彰事業協賛会

本名萩森金松 大正3年5月4日父圓太郎,母ツユの五男として喜須来村喜木(現保内町喜木)に生まれる。喜須来尋常高等小学校卒業後、14歳で大相撲に入門する。昭和4年1月喜木山で初土俵 昭和8年12月新十両の土俵を前に右腕上膊骨骨髄炎になるが、慶應大学前田和三郎博士の診療手術により約1年を費やし完治する。その恩に感激し前田山と改め三段目より再スタートする。その後は順調に出生し十両を二場所、入幕三場所目後に大関となり、大関在位時に高砂を襲名する。大関を9年18場所務め、戦後初の横綱となる。幕内通算成績206勝104敗39休。引退後は高砂親方として横綱朝潮、大関前の山、関脇高見山、小結富士錦らの力士を養成する。相撲協会においては理事・取締の要職を務める。また協会きっての外国通として知られ、昭和26年9月には力士3名を伴い、相撲紹介のため渡米する。後のハワイ巡業などにも尽力し、外国人関取第一号となる高見山をスカウトするなど、相撲の国際化に多大な貢献をした。昭和46年8月17日、57歳で波乱の生涯を閉じる。この第39代横綱前田山英五郎関の偉業を偲ぶことは、保内町の誇りであり、後世に顕彰するためこの像を建立する。
喜須来尋常高等小学校卒業 昭和2年3月(1927)
高砂部屋入門 昭和3年11月(1928)
十両昇進 昭和9年1月
幕内昇進 昭和12年1月
小結昇進 昭和13年1月
大関昇進春場所後 昭和13年1月
高砂襲名 大関との二枚鑑札 昭和17年1月
横綱昇進 夏場所後 昭和22年
横綱引退 昭和24年10月

1992年10月吉日 保内町長菊池善治

★喜須来小学校の正門前にある。
★ノートパソコンを開き、碑文の写し取りを始める。すると、横の草原の木に鎖で繋がれいたゴールデンレトリバーが吼え始める。小学校の校庭で遊んでいた児童が珍しそうに寄ってきて、ワシの作業を覗き込み、「わぁ〜はえぇ〜これやったら有名科学者になれるよぉ」と叫んでいる。どんな根拠だろうか?まあ、なんとも長閑な田舎の人見知りを知らない純真かつ素朴な子供たちである。


喜木八幡神社【保内町喜木2番耕地571番地】

●宝亀八年鎮座千二百年記念碑

・昭和57年8月吉日建立

●常夜燈

・大正14年12月

●けやき

・このけやきは宝暦12年(1762)神越から現在地に社地替の際に植えられた。八幡神社造営にあたり、参道をつくり併せて町筋の水害防止のため喜木川を改修、堤防を築堤し、約2.0m〜1.5m下に補強いを兼ねて川原(八幡川原)をもうけ、「けやき」や「松」が植えられたと伝えられる。
「けやき」や「松」は巨木となり、近隣にない松並木の参道としてその景観を誇っていたが、「松」は松食虫におかされ枯死、「けやき」だけが現存し氏子を見守っている。
・町指定天然記念物(昭和50年6月4日指定)
・樹齢:推定230年
・高さ:15m、昭和18年(1943)台風による豪雨で護岸が損壊。復旧の際、現在の高さまで根元が埋め立てられた。
・根回り周囲:5.0m

 ●句碑

「大欅 虚空を支ふ 裸かな」
・けやきの根元に建つ。
・平成9年6月吉日建立

常昌寺【保内町喜木3番耕地112番地】

・山号:佛日山

●常昌寺の仏像三体(常昌寺観音堂在仏像)

・町指定天然記念物(昭和50年6月4日指定)
・木造不動明王立像(像高1.03m)
・木造観世音菩薩立像(像高1.11m)
・木造毘沙門天立像(像高さ1.02m)
・当山観音堂に安置してある三体の尊像は、いずれも一本づくりで、三体の背面には「行基作明和五子夏天再興主常昌寺四代湛月誌」(1768年)との朱銘がある。
・三体とも多少の破損があり後世に手を加えたところがあるものの、浅い彫り、緩やかな衣紋の流れは、穏やかな姿を浮かび上がらせて、昔の手法を偲ぶことができる。

日露戦役記念碑【保内町喜木】

・いよてつバス喜木停留所前

庚申堂【保内町喜木】


法眼院【保内町須川177】

・山号:妙光山
・宗派:日蓮宗

●太子堂

・町指定文化財(昭和61年10月1日指定)
・寛政年間に都築文六が建立したもので、江戸時代から明治末期までは、須川村の庚申堂と兼ねて、村のほぼ中央にあったものを大正初期に現在地に移転。その際、桧皮葺を銅板に替えられているが、形整い、釘無使用で、手の込んだ建築彫刻は見事である。
・都築文六は、都(京都)にあって太子堂を建て、その出来映えがよく、苗字・御■許されて須川村に帰郷しこの堂を建てたと伝える。

三本松新四国八十八ヶ所【保内町】

・この地域の人々が先祖供養・家内安全を祈願して明治の頃設立した地四国。
・雨井慈眼庵から始まり、庚申堂や龍潭寺を経て、標高240mの三本松山を越して宮内駄馬の薬師堂に至る。

雨井庚申堂【保内町雨井】


川之石ドレスメーカー学院【保内町】


保内三島神社【保内町宮内5番耕地1番地】

・宝亀5年(774)8月、今から約1200年前保内郷内の五穀豊穣・人民繁栄のため越智郡大三島大山祗神社より、御分霊を勧請したものである。
・往古、このあたりは入海になっていて、社地のみ浮島となって船形を形成し、神様を乗せた御船が止まった所であるので船森三島大明神と呼ばれたと伝えられている。
・昭和8年県社となり、保内郷の総鎮守の神社として郷民に崇敬されている。本社の主な祭日は、例祭(春祭り)4月23日、祈念祭(としごえのまつり)2月23日、新嘗祭11月23日、神奉祭(秋祭り)10月23日、夏越祭(わぬけ)7月28日などがあり、特に10月23日の秋祭りは多くの人々の参拝で賑わい、川之石・宮内のおねりが三島神社に集まってくる。

●保内郷総鎮守三島神社所蔵神像・懸仏

・神像五躯:県指定重要文化財(昭和31年11月3日指定)
・神像二躯:町指定文化財(昭和46年3月15日指定)
・鎌倉時代後期頃の作とされる神像七躯のうち、傷みの見られた二躯は、平成7年補修を施したが、いずれも像高31〜37cm、桧材の丸彫の像で、手先を ■つけるもの二躯、冠と髪■、■形などに■■をのこしている。
・頭に巾子冠を頂き、枹衣(公家の宮廷服)や狩衣(公家の常用略服)をつけている。豊かな表情と姿態のたくみな変化は、長年手がけた伝統の下に、時代の写実を生かした力強い表現技法をうかがわせる。
・朝廷で行われた相撲の節会にちなんだ角力人形ともいわれているが、県下の三島系神像の傑作といえる。

●懸仏一面

・県指定重要文化財(昭和31年11月3日指定)
・懸仏とは、円鏡の表に神仏の像を現し、寺社の円陣にかけてあるお姿のうち、半肉彫・丸彫の像を据えたものをいう。
・三島神社の懸仏は、直径約33cmの円錐に愛染明王座像と台座が取り付けられ、青銅製で重さ1.69kg、裏面上部の釣穴でかけつるすようになっている。
・裏面の■刻銘文から、建久5年(1194)鎌倉時代初期の作と知られ、工芸品としても、愛染明王信仰の歴史を知るうえでも貴重なものといえる。

●神船石(おふねいし)と神龍池(しんりゅういけ)

・宝亀5年(774)、大三島から御船に乗って神様がこの地に着かれた。その神船が石と化して安座故事に因んで神船石という。池は水涸れることなく、旱天に慈雨をもたらす雨乞いの神として親しまれた龍神社の竜神の気がみなぎり神龍池と呼ばれる。

●神龍池改修記念碑

・平成7年10月建立。

●宮中神社

・国や県の、集落内神社の統廃合による「一村一社」の方針に従い、明治42年(1909)4月10日届出、旧宮内村内の無格社18社が、宮中神社として合祀された。
 
神社名 祭神 もとの場所
滝本神社 不詳 揚正2番耕地603番地
山崎神社 不詳 山崎1番耕地909番地
一宮神社 味祖高彦根命外 堀4番耕地689番地
玉司社 不詳 王司4番耕地121番地
川津神社 木花開耶姫命 上川原4番耕地167番地
天神社 菅原道真公 鳴滝5番耕地530番地
三森神社(森神社) 不詳 森4番耕地394番地
新宮社 菊理姫命 駄馬ノ谷5番耕地381番地
一宮神社 事代主命 持ノ峯4番耕地1132番地
一宮神社 味祖高彦根命 東6番耕地385番地
西川神社 速須佐ノ男命外 日ノ裏6番耕地318番地
客神社 菊理姫命 
速玉之男命
新蔵坊9番耕地354番地
八ツ面神社 速須佐ノ男命 松山9番耕地130番地
一宮神社 不詳 親家9番耕地257番地
客神社 菊理姫命外 宮ノ上8番耕地287番地
龍神社 豊玉彦命 下雨乞9番耕地877番地
一宮神社 事代主命 空手10番188番地
客神社 伊耶那岐命 下神田11番耕地476番地


宮内村先賢の碑【保内町】

・丁度三嶋神社の本殿あたりの宮内小学校側にある。
・袂には、「瞽女トンネルの石」と刻んだ、瞽女トンネル開通記念の碑が添えられている。この碑は平成9年11月に建てられたもの。

瞽女トンネル【保内町】

・長さ:2156m

喜木津トンネル【保内町喜木津】

・長さ:635m

磯崎トンネル【保内町磯崎】


二宮敬作記念公園【保内町磯崎】

●二宮敬作記念公園建設碑

・公園面積:810u
・事業費:5900万円
・工事内容
・二宮敬作像 一体
・広場面積 431u
・便所 一棟
・外燈 二基
・ベンチ 四基
・擬木柵 92m
・平成3年3月吉日建立

Corylopsis Kesakii

・二宮敬作の師、シーボルトは医師であり、同時に優れた博物学者であった。長崎郊外に鳴滝熟を開設、蘭学者の育成に努めるかたわら、動植物の採集に努め、友人や弟子達にも採集への協力を依頼したという。
・さて、Corylopsis Kesakiiは師のそのような求めに応じて、敬作が採集してきた植物に師が名付けた学名である。採集者敬作の名前にちなんで、学名が命名されている点が興味深い。土佐ミズキの一種とみなされる。すなわち、九州の高山に自生する土佐ミズキ属の一種とみなされている。
・なお、Corylopsis Kesakiiについては、シーボルトの著作「日本植物誌」に説明が詳しい。
  平成4年5月10日 愛媛県文化財保護審議会委員 小沼大八

客神社【保内町磯崎2280】

●客神社社叢林

・町指定天然記念物(昭和50年6月4日)
・客神社は、伊弉那岐命、伊弉那美命を主祭神としているためか、樹木も一対のものが多い。
・「楠の森」とも呼ばれ、周囲約6mの2本の大楠をはじめ、椎、ヒョンノキ、椿などの群生が目立つ。
・ほかに、榊、タブノキ、イチョウ、楓などの樹木が茂り、貞享3年(1686)、本殿再興の古い神域にふさわし森厳の気を放っている。

丸碆【保内町磯崎】

「丸碆は言う 私は大昔よりここでイサキを見つめている...と」
「丸碆よイサキを語れこの磯で」夢十

長浜町出海

・長浜町公民館出海支所前に何やら、ケーブルドラムを改良したような、校倉というか何というか、よくわからない貯蔵庫が建っている。

しょうぶ園【長浜町櫛生】


綱掛岩【長浜町】

・天平12年(740) 9月、九州大宰府の少貳(次官)藤原広嗣は、朝廷に対し反乱を起こした。朝廷は大野東人を大将軍に任命し、17,000の兵を率いその反乱を鎮圧した。
・その際、伊予の国主越智玉澄も多くの兵を率い、船を利用して筑前(福岡県北西部)を目指した。しかし、その途中大時化に遭い、この浜辺に一時滞在することになった。その時、船の艫綱(ともづな)を投げかけたこの岩を「綱掛岩」と伝称している。やがて広嗣軍を征討した玉澄は、帰路再びここに立ち寄り、嶺櫛生に三島神社を建立したといわれている。

沖浦観音【長浜町】

・宗派:臨済宗妙心寺派
・山号:萬松山
・寺号:瑞龍禅寺

●本尊十一面観世音菩薩像

・国指定重要文化財

長浜大橋【長浜町】

・長浜大橋(開閉橋)は、南予地域の振興発展を目的として、大正9年長浜・川之石道路改修組合設立以来昭和10年の完成まで、幾多の苦難を克服し、時の町長西村兵太郎翁によって架橋されたもので、現役の道路可動橋としては我が国最古のものである。
・工期:着工昭和8年10月、竣工昭和10年8月
・橋の長さ:226m
・橋の幅:5.5m
・開閉部分の長さ:18m
・開閉部分の重さ:82ton
・総工費:29万円
・施工:細野組(大阪)

新長浜大橋【長浜町】


圓立寺【長浜町】

・山号:満珪山
・宗派:浄土真宗本願寺派
・長浜商店街の中にある。

住吉神社【長浜町】

●手水鉢

・長指定文化財
・この手水鉢の原型は鳥居である。
・足利時代の応永9年(1402)、伊予郡中山の豪族栗田正泉らが中山産の黒雲母安山岩を材料として鳥居を作り、中山町永木の三島神社へ献納した。
・それから約250年後、大洲藩主加藤氏がこの鳥居の立派さに驚き、石柱の一本を取って江戸に持参しようとした。しかし、何らかの都合で江戸持参を取りやめ、海の守護神として信仰の厚かった住吉神社に手水鉢として奉納したと伝えられる。
・手水鉢の高さは約1.5m、円柱の直径40cm、水槽部分の内径は約25cm、深さ約20cmである。

JR白滝駅【長浜町】


西滝禅寺【長浜町】

・JR白滝駅前。
・宗派:曹洞宗
・山号:東明山

貴舩神社【長浜町】


白滝【長浜町】

●錦橋

●奉祝記念碑

・裏面には、「君が代は千代に八千代に白滝の巌もあらん限らん紅葉とちかいこけのむすまで 萬蔵」と歌が刻んである。昭和62年4月29日、久保田芳枝、末子が建立した。

●関所

●東屋橋

●久保田水車

●句碑

「瀧の音 遮るものに 変わりけり」
・昭和39年11月、好崎設香水建立。

●朱仙峡

●見返橋

●雄滝

●落合滝

●雌滝

●もみぢ庵

●来光の滝

●白山権現

・享保3年加賀国白山大権現を勧請した。

●おかげの水

●るり姫塚

●滝壷

●るり姫本像(観音像)

・戦国末期、元亀元年(1571)秋、現在の大洲市米津地区にあった米津城(滝ノ城)は、土佐の長曽我部氏による再三の侵攻に奮戦むなしく、ついに落城した。城主の奥方瑠璃の方は二歳になる世継ぎ尊雄丸を小脇に抱え、姫の八重姫・九重姫と待女達を励まし、血路を開いて白滝公園のこの地に辿りついた。そこで二人の姫をそば近くに招き、「姉妹は後に生き残りて我が一族の霊を慰め、冥福を祈れかし」と叫びつつ尊雄丸を抱き60m下の滝壷へ投身した。残る待女達も続いて滝壷へ飛び込み水死した。今この滝壷を「女郎か渕」と称えている、米津城の十六代城主、吉右衛門尉、藤原行春(津々喜谷遠江守藤原行春)も残る家臣と共に菩提寺である横松山西禅寺(大洲市手成)において自刃して果てたと云い伝えられている。当地では、これらが霊を慰めるため毎年11月23日を祭日とさだめ、るり姫の供養が盛大に行われる。
・以上のことが、白滝るり姫観音像建立奉賛会が昭和63年10月に建立した「るり姫親子観音像の由来」碑に記されている。
・来光の滝の下にある「るり姫塚の由来」と記した看板には、るり姫が滝壷に飛び込む際に叫んだ言葉がもう少し詳しく書いてある。「姉妹は後に生き残りて我が一族の霊を慰め、冥福を祈れかし、世に悩める婦人病をなおし、子なき婦人には子宝を授け得させん」...。しかし、これはどう考えても、現代人が付け足した装飾的逸話と思われるが。

●子供の国

●都の滝

●貫洞の滝

●滝まつり

・11月第3日曜日

●るり姫まつり

・11月23日
・えひめの祭り50選

●物語風

16世紀も終わりの頃の話である。白滝のすぐ隣、八多喜というところに「滝の城」、別名「米津城」があった。切り立った崖の上にあり、敵にもなかなか攻めにくい城であった。
白滝公園は、城主津々喜氏の遊園地でもあった。桜のほころぶ頃には、奥方の瑠璃姫は家臣と共に白滝公園によくやってきては、花見を楽しんだものであった。
家老の下西舟左衛門も、分銅のついた鎖を振り回す「■切木術」という舞を力強く披露した。瑠璃姫らは、喝采を送り、平和な春の白滝を満喫していた。
この平和な城にも「戦国時代」の波が押し寄せてきたのは、それから数年後のことであった。断崖絶壁の上に立てられた城も、四国一の力を持つ長曽我部氏の前に、簡単に取り囲まれてしまった。
しかし瑠璃姫の娘、八重姫・九重姫は八双手裏剣の名手。瑠璃姫自身も静流長刀の指南であり、また吹き矢は神業といわれるほどの腕前だった。
「殿、瑠璃姫らの見事な吹き矢にて、我が軍も多数の負傷者が出ております。ひとまず、退散して体制を整え直してはいかがでしょうか」
敵の軍勢は、じりじりと後退しはじめた。
「もう一息です。さあ、全ての吹き矢をここに持ってきなさい」
瑠璃姫の必至の叫び声が山々に響きわたった。
そのときであった。一人の待女が吹き矢を運びながら、瑠璃姫にこう叫んだ。
「瑠璃姫様、大変です。これが残りの吹き矢全てでございます」
吹き矢はあと十数本しかなかった。
「なるほど、瑠璃姫の吹き矢もこれでおしまいか。ものども、最早怯むことはない。かかれ!」
今にも退散しかけていた長曽我部の軍勢も、この待女の言葉に、忽ち勢いを取り返した。城は間もなく打ち滅ぼされてしまった。一方、瑠璃姫らは、やっとのことで白滝の雌滝の上まで逃げ延びてきた。しかし、背後に追手はなおも近づいてきていた。
「もはや、これまで」
そう悟った瑠璃姫は、八重姫・九重姫を呼び寄せて言った。
「敵に捕えられ一生辱めを受けるこの尊雄丸が不憫です。私はこの子と共にこの滝より身を投げましょう。世に悩める婦人病を治し、子の無い人には子宝を授けるため、生き延びて我らが霊を慰めなさい」
瑠璃姫は泣きすがる二人の姫を振り払い、尊雄丸と共に滝壷の中に吸い込まれていった。
残された姉妹の二人は、瑠璃姫の言いつけに従い、何とか逃げ延び、後に瑠璃姫と尊雄丸の霊を弔う観音を奉った。
それ以来、ここ白滝に住む者は、「瑠璃姫祭り」をして、二人の霊を慰めるようになった。毎年11月23日に行われるこの祭りは、幼児の無事成長を願う「稚児行列」と雌滝の上から落とす「樽神輿」で有名で、この時期には多くの観光客が訪れる。

人面岩【長浜町】

・長浜町内から出石寺へ向かう県道を走っていくと、「神のいたずら? 自然のわざ? TV放映 人面岩 正面」という黄色い立て看板が立っている。
・正面に目をやると、山の中腹辺りに左を向いた顔面のような岩肌が見える。

三島神社【長浜町豊茂】

・当神社は、840年前の平治元年(1159)に出石寺の別当社として勧請され、以来豊茂の氏神となる。
・現在の社殿は、嘉永元年(1848)から明治22年(1889)の間に造営。永年の風雨で屋根の傷みが甚だしく、平成2年10月に社殿改修・境内整備を行った。

●イチョウ

・町指定天然記念物(昭和46年3月30日指定)

寺院跡?【長浜町豊茂】

●コガノキ

・町指定天然記念物(昭和46年3月30日指定)
・別名「かこのき」ともいう。
・クスノキ科に属する。
・樹高15m、根周り9.3m
・四方に枝を伸ばし繁茂している。
・木の皮は淡い黒色。同形のうすい皮が白くまだらに付いて鹿子模様になっている。

臨江寺【長浜町】


天一稲荷神社【双海町上灘】

・大昔、大己貴命・少彦名命の二柱の神が国内巡歴の際、本尊山に登られたという故事にちなんで、伊予の国造がこの山を本尊の宮として祀った。
・元徳2年(1330) 2月、伊予守得能通時がこの山を居城とするにあたって山頂に社殿を造営したのが天一神社の起こりである。
・元禄4年(1691) 9月、現在の位置に奉遷し、明治43年(1910) 1月5日に稲荷神社(中の宮)を合祀して、天一稲荷神社と改号し現在に至っている。

●安産祈祷の由来

大洲藩主加藤遠江守通遠の奥方御懐妊にあたり、神宮武智■陵が安産御守を謹製して献上したところ御安産なされたという功績によって当神社は大洲候の御祈願所と定められ、安産の守護神として崇敬されている。

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