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こたろう博物学研究所
探訪記録:19980913

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砥部町/伊予市方面散策【平成10年(1998)9月13日】



最近、ずっと郊外ばかりを追い求めていたが、たまには原点に帰って近場を見直してみなければ。そう思い、見過ごしがちになっていた砥部町から伊予市に至る「高速道路沿い」の隅々探訪に出掛けた。


1.魔住ヶ窪地蔵尊【砥部町八倉】

 県道を走っていると、「大森彦七之遺跡」という石標が蜜柑畑の隅に立ち、山に向かって小径が伸びている。20〜30m進んだところに、魔住ヶ窪地蔵堂がある。
 藤の蔓がはびこり、地蔵堂をすっぽりと包んでいる。暑い日差しも遮り、涼し気な空間を創り出している。時折吹き抜ける風が非常に心地よい。
 「魔住ヶ窪」という名前は、「魔物(鬼)が住む窪地」ということであろう。ここ八倉には、湊川の戦いで楠木正成を討って功績を挙げた大森彦七が、松前町筒井の金蓮寺での猿楽を見物するために赴く途中に正成の霊の化身である鬼女に出くわしたとの伝説が残っている。
 
・砥部町指定文化財 
伊予温古録に「麻生村に在り、大洲旧記に云ふ。大森彦七化物に出逢うたる所なり...」と。大森彦七にまつわる遺跡として代表的なところである。 
彦七が、筒井金蓮寺で催される猿楽に行く途中のことである。矢取川にさしかかると美女が川を渡ろうとして難渋していた。それを見た彦七が自ら美女を背負って川を渡っているとき、背が急に重くなり、月光に照らされた水面に映った美女はにわかに鬼女となり、彦七を襲ったと伝えられる。 
・ここには地蔵堂があり、彦七の襲われた場面を想像して、地元の絵師矢野翠堂が描いた絵馬が奉納されている。 


2.昔時の里程標:一里松の跡【砥部町】

●昔時の里程標:一里松の跡

●奉庚申の常夜灯

●石鉄山大神宮常夜灯

・旧土佐街道は松山市西堀端の札の辻を起点として、天山、恵原を通って三坂峠に抜けるルートであったため、現在の国道33号線よりも東側を抜けていた。
・この里程標の建つ位置にはどんな街道が通っていたのだろう。この辺りは大洲藩、松山藩が入り乱れていた場所であり、藩と藩を結ぶ重要な街道が通っていたに違いないと勝手に解釈している。
・一里松の側には、時代を感じさせる常夜灯が残されている。きっと幾夜も多くの足下を照らし続けてきたに違いない。

●三代荘

・個人所有のものなのか、それとも公園として位置づけられるものなのかよくわからない。しかしながら、大きな銀杏の木と紅葉の木が植わっているところを見るとかなりの歴史を感じさせる。
・「花の枝をとらないで見てたのしみませう」
と書いてあるところを見ると、昔は、公共の憩いの場であったということだろうか。

3.勤王武士重見通勝発祥地【砥部町】

・松山家畜診療所前(NOSAIえひめ) に建つ。
・「西松唯一建」とある。
(西松唯一氏はこの他、矢取川の碑も建てている。氏がいかなる人であったのかも是非とも調べておきたいものである。)

4.矢取川【砥部町】

●矢取川

この川に水が流れているのを見たことが無い。「昔は天井川で、民家よりも高い場所を流れていた」という話をどっかの本で見たような記憶がある。
今では、水の代わりに雑草が河床を埋め尽くすばかりである。

●矢取川の碑

・「正義の鬼美女となりて大森彦七をおそひし處」
・西松唯一氏が昭和12年に建てた。

●矢取川砂防工事竣功記念碑

・昭和13年3月


5.八倉集会所(八蔵寺跡)【砥部町】

・ここを前に通る度に「公民館があるなぁ。何やら碑も立っているけど、あんまし研究対象にはならんじゃろうな」などと思っていた。しかし足を停めてみると、探し求めていた「窪田兵右衛門」に関する史跡(墓)に出くわすことができた。

●モガシ

・砥部町指定文化財
・もがしは、初夏のころ小さな花をつけ冬熟すると黒青色の楕円形の果実を結ぶホルトノキ科の常緑高木である。
・ここ八蔵寺跡に茂るもがしは、古木で樹幹も大きく、その幹根の形状や張り具合は見事で、この樹種としては県下でも最大級の巨樹と見られている。
原町村誌(明治44年編)の八倉・八蔵寺の項に「境内に七丈の大樹二本あり、枝葉繁茂一見旧跡なまことを証せらる」とある。
・二本のうち、大きい方の幹根の間に馬頭観音の石仏が納められており、以前は出し入れができたという。
・樹高約12m、目通り約3m。

●大乗妙典石宇之塔

●窪田兵右衛門碑

・松山 近藤元脩撰文
・明治24年卯4月

●守中菴石山宗匠墓

・発起人:南陽社中
・明治41年2月15日

●「石山先生五十周忌記念」碑

・昭和31年春建之

●古樋小路新設記念碑

・八倉組中建設
・原町村村長 相田梅太良/水路新設委員長:窪田章

●窪田兵右衛門辞世の句碑

●窪田兵右衛門の墓

・町指定史跡
・「窪田兵右衛門の墓 百年」という石碑有り。

●地蔵尊

・享保5年


6.坂本日吉神社【伊予市】

・ピンク色の鮮やかな壁の伊予病院へと抜ける道を上がっていくと、鬱蒼とした森の前に比較的大きな鳥居が立っているのが見える。道端に車を停め、長い参道を上って行く。樹叢は非常に豊かで、歴史のある神社だという感を得る。
・参道の石段を登りつめると広大な敷地に、期待していたよりは小ぶりな社殿が建っている。比較的最近改築したものであろう。
・寄付者を記した石柱を眺めると、この辺りには「武智」「窪田」「松田」「重松」姓が多いことがわかる。名字の由来についても研究してみたいものだ。

・祭神:大山積神、雷神、高■神、天御中主神、大己貴神 外二十五柱

●「坂本日吉神社由緒」碑

・この神社は昔からあった大山積神社に、弘仁10年9月、滋賀県比叡山坂本にある日吉神社山王大権現の分霊を越智宿祢実勝つが合わせ祀ったもので、入佛寺と八蔵寺が別当となり守護した。後、元弘の頃、河野備後守通綱が御神徳をいただき、その孫河野伊予守通政は延元4年9月21日伊予国14郡の1郡毎に新たに日吉神社を坂本の本社より分霊を勧請して合祀し、改めて坂本日吉神社と号するようになった。だからこのお社は千年以上も前から此所におまつりされているわけである。社の境内は五町歩余りあり終戦後は宗教法人となり各祭典も盛大に奉行されている。


7.伊曽能神社【伊予市】

・朱色の鳥居をくぐり、車1台がやっと通るぐらいの細長い参道を行くと、延喜式内社の伊曽能神社がある。
・この神社の界隈を宮の下という。

●「延喜式内神社の由来」の碑

・「そもそも当伊曽能神社は延喜五年即ち905年醍醐天皇の命により藤原時平忠平などが22年の歳月を要して延長5年完成せる法典50巻の内延喜式の施行に係る全国神社名鑑に登■せられている由緒ふかき傳統の神社であります 宮司 武市勉」

●天保三辰年の常夜灯

・常夜灯より、更に右に位置する手水槽には享保十一年の銘あり。

●境内社:吹揚神社

・和霊神社、岡崎神社、高殿社、鷹神社、今岡神社、厳島神社、旗立神社、一宮神社を合わせて祭っている。
・明治42年に合祀した。
★ここに合祀されている「今岡神社」は、次に訪れる「今岡御所跡」と関係するようだ。


8.今岡御所跡【伊予市】

・音地(おんじ)バス停よりやや東のところに、「史跡:今岡御所跡/後藤又兵衛墓所」という白い標柱が立っているが、車で普通に走っていたんでは殆ど気付かないだろう。そこから蜜柑山へと続く細道を南へ上がっていくとやがて小高い丘がみえてくる。蜜柑山途中からその丘めがけて未舗装道路を行くと大きな溜め池があり、池の対岸に大きな碑が立っているのが見える。
・小高い丘の上からは松山平野の隅々までが見渡せる。非常に爽快な眺めだ。きっと伊予皇子もここに立ち、国見をしていたことであろう。

●今岡御所跡の碑

・「当所(茶臼山)は人皇7代孝霊天皇の皇子、彦狭島命(伊予皇子とも云われる)が館をかまえ四方の国々を鎮護された所であると云う。ここに今岡神社を建立し、彦狭島命と大小市命を奉祀した。伊予の豪族河野氏の始祖として崇敬していたが、現在は伊曽能神社の末社として吹揚神社に合祀されている。」 
・昭和54年10月吉日建立。 


9.長泉寺【伊予市】

●長泉寺本堂

・山号:醫王山
・宗派:真言宗智山派
・本尊:十一面観世音菩薩

●「真実は多くの言葉を必要としない」の碑

● 多層塔

・伊予市指定文化財[石造美術]。平成4年4月15日指定 。
・この層塔は、長泉寺のすぐ西の蜜柑畑にあったもので、現在は五層であるがいずれも異石の累石に過ぎないが、軸部周囲の銘文は、仏教思想研究上において特筆すべきものである。
銘文
  正面 蓮華座上に(■)字
  左面 如法経奉納所
  右面 富尾寺願主日運(通)
  裏面 文永二年巳丑十一月上旬
・この塔は如来経の奉納所として文永2年(1265)願主日運(通)によって造立されたものである。
・また正面の雄渾な薬研彫の胎蔵界大日如来の種子梵字■(ア)字やその下の蓮華座の手法等鎌倉時代の技法をよく表している。

●後藤又兵衛基次公菩提所

・伊予市指定文化財[史跡]。昭和63年11月29日指定。
・大坂陣の豪傑、後藤又兵衛基次公菩提所
・後藤又兵衛基次は播州(姫路市)の生んだ英雄豪傑で、黒田■高(よしたか)[如水(じょすい)]その子長政につかえた。戦場では一騎駈け■せず全局面を見とおし戦機を一瞬に把握する力を持っており、一軍を統率する智勇を兼ね備えた武将で秀吉からも愛された。
・長泉寺との関係は、又兵衛の母方の伯父藤岡九兵衛が住職となっていた寺であり又兵衛が筑前小隈の城を捨て故郷へ帰る途中立ち寄った所である。
・大阪夏の陣で道明寺の戦に破れ小松山にて元和元年戦死した。又兵衛の首は従者宮村武衛門によって戦後ひそかに泥田から掘り出し遺言通り伯父のいる長泉寺へ持ち帰り懇に葬ったとつたえられられている。


10.三谷神社/金刀比羅神社【伊予市】

★三谷神社を後にして次なる目標地「稱名寺」へと向かう途中、「市指定文化財 史跡 雲居国師生誕地」の案内板が路傍に立っているのを見つけたが、それが一体どこなのか、探せど一向に見当たらない。


11.稱名寺【伊予市】

・山号:臨江山
・宗派:真言宗智山派
・新四国曼荼羅霊場 第48番札所

●水琴窟

・「今から二百年前造られた伏瓶(伏鉢)洞水門は今日では水琴窟と謂はれている。それも永く歴史の中に埋没して幻的存在であったが、平成の今日再び世に出たものである。地中に埋めた甕(壷)に落ちる僅かな水滴の反響音■■であるを聴いて楽しむものである。これは先祖の優雅な遊び心、風流なたしなみから生まれたもので、築造には高度な特殊技術を要するが、自然と人間の心のふれ合い、延いてはこれを洗心の場とした日本人のすぐれた感性、美的情緒を誇りとしたいものである。....」
・平成元年2月建立。

●正岡子規句碑

「夕栄の五色ヶ濱をかすみけり」
・昭和48年10月10日、伊予市長玉本善三郎、静枝、篠崎菊正が建立。
・この句は寒山落木に見え、明治29年作

●稱名寺八十八ヶ所

・地四国。
・1番(本堂前)から4番までは境内地にあり、5番から88番および奥之院修行大師は高速道路を挟んで山手に設けられている。
・大きな駐車場も構えてあり、手軽に地四国巡礼をすることができる。


12.古蹟:蒲冠者源範ョ(みなもとのりより)公 鎌倉神社

・昭和48年5月に再建された。
・境内には溜め池があり、その傍らにひっそりと五輪塔が建っている。

●夏目漱石の句碑

「蒲殿の いよいよ悲し かれ尾花」
「木枯らしや 冠者の墓撲つ 松落ち葉」
明治28年(1895)松山中学校の教師であった夏目漱石がこの地で作った俳句である。蒲殿、冠者は源範ョのこと。兄源頼朝に追われてここへのがれ悲しい最後をとげたという範ョをあわれむ情がひしひしと感じられる。句碑は昭和16年(1941)に地元の有志が建立し、文字は松山市西垣生町生まれの俳人村上霽月が書いた。

●源範ョ墓所

・源範ョは源義朝の六男で、遠江の蒲御厨(今の静岡県浜松市)で生まれたので蒲冠者ともいう。
・1180年兄の頼朝が兵を挙げてから弟の義経と共に、一方の総大将として木曽義仲や平家との戦いや九州の遠征などで手柄を立てた。
・しかし、曽我兄弟の仇討ち事件で頼朝に疑いをかけられて伊予へのがれ、この地へ葬られたと伝えられる。
・大洲藩主の崇敬厚く、藩の補助で幕末に新墓標や祠が建立された。


13.常願寺【伊予市】

・山号:稲荷山
・宗派:真言宗智山派
 

●句碑

「谷上背に 瀬戸一望や 藤の寺」   健治

●子安観音

●フジの花

●玉岡周三郎頌徳碑

・昭和55年8月31日建立。
・氏ハ建設業界ノ指導者トシテ、清廉、高潔、徳行ノ人、依ッテ、従六位勲五等瑞寶章ヲ賜ル、一級建築士トシテ常願寺建設ノ中核トナリ衆望ヲ担ヒ、本堂、庫裡ノ本設計ヲ完遂、昭和55年1月逝去サレルマデ建設ニ尽力サレ住ム人々ノ「心ノ拠リ所」ヲ造ラレル」


14.善正寺【伊予市】

・山号:法村山
・宗派:真言宗智山派


15.築池【伊予市】


16.大平【伊予市】

●金毘羅神社

●地蔵堂


17.唐川/両沢【伊予市】

●名も知らぬ神社


18.稲荷五社大明神(浜出稲荷神社)【伊予市唐川】

・唐川・本谷線と鵜ノ崎・両沢線の分岐点から川に沿って山手へ。小さな集落がやがて見える。唐川部落だ。道端に赤い鳥居の小さな神社がある。
・文治元年(1195)8月安部康儀がこの地に移したとされる。
・保食神を主神として外四柱を祭る。
・上古の頃、神功皇后の三韓征伐の際に戦勝祈願に訪れたという。
・平安時代後期には伊予守源頼義が社殿修復したと伝えられる。
・川に面して大柏の古木がある右方、道を隔てて直成寺があり、明治32年から36年まで俳人森田雷死久が唐川小学校で奉職しながら住職として里人に俳句を教えたという。
 

●句碑


19.森天満宮【伊予市森】

・平成8年5月改築。
 

●境内末社

・厳島神社、海津見神社、春日神社、和清(わきよ)神社

●クスドイゲ

・伊予市指定天然記念物(昭和44年11月15日指定)
・関西から西の暖地の海岸、あるいは海に近い所に生える常緑低木で時に小高木のようになる。若木では、小枝が針に変わってくる。八月頃黄白色の小さい花を沢山つける。雌雄異株である。
・このクスドイゲは雄株で、高さ約15m、周囲は目通りで1.5mもある高木なので珍しい。


20.湊神社【伊予市】

●一字一石塔

・まっこう鯨が泳ぐ。なぜか郡中沖に住みついた明治42年早春である。どこかに姿を消してほしいと漁民は願う。捕鯨の経験を持たぬ湊町漁民の素朴な願いがあった。

大鯨は姿を消さぬ。しびれをきらした湊町漁民はついに捕鯨に立ち上がる。大網を使った捕鯨作戦も見事に失敗した。網などで獲れる相手ではない。協議の末、浜代表は馬開捕鯨会社(下関市)に応援を求めた。
砲主は数々の道具を携えて湊町に来る捕鯨作戦は3月21日午前8時8■に50人が乗り込むこととなる。
3月21日早朝、法螺貝の合図と共に出動する。森沖に姿を見せる大鯨に、砲主の目が光り、若者50人の血は騒ぐ。朝日に映えて鯨体は黒光に輝く。第一の砲声が郡中沖に鳴る。弾は鯨をかする。驚く鯨に追跡は続く。松前沖で第二の砲声が鳴る。命中と同時に鯨体が空中に舞う。50人のモリが鯨に集中し激砕の海に血潮は渦巻く。歓声は海陸呼応して四国に響いた。二頭の牛と数百人の力で恵美須の浜に引き揚げられた。臨時の鯨小屋がつくられて人々に見せた。見物人が恵美須の浜に群れた。明治43年3月、鯨を供養して碑が建てられる。克鯨一字一石塔。湊町浜浦の長い歴史の中で鯨との出合いはこのときが最初でありまた最後でもあった。
(語り伝える 鯨のはなし 今に残るよ 記念の塔が 白い波 白い波 文字のあと)


21.大師堂【伊予市湊町】

●金剛力士像

・伊予市指定有形文化財(工芸)


22.湊町/灘町商店街に点在する旧家【伊予市】

●湊町

・延享2年(1745)小川町を改称し湊町とした。
・大正期頃まで当地の商業の中心地であった。

●藤村石油邸

・明治時代建築の油問屋
・明治22年(1889)の建築。
・当時の本格的な木造建築で、和泉屋(西岡邸)と同じく正確な小屋組による五重梁で、日本の木造建築が最高の水準に達していることを表している。保守状況もよく、貴重な建築物である。
・明治3年、油商を創業以来、現社長藤村泰雄氏で五代目となる。

●西岡邸

・藩御用商人和泉屋〜砥部焼のルーツ
・安政2年(1855)11月建築 棟梁は灘町住人黒田屋仁○助
・間口8.5間(16.8m)、奥行34間(63.7m)の敷地は伊予市の商家の典型的な地割である。
・和泉屋は砥石を扱う御用商人で明治初期に至るまでと石商を営んだ。
・入母屋本瓦葺むくりのある屋根そして下屋部分の屋根が馬通し、店、そして御成門へと連続してかかっている外観が建築上の大きな特徴である。また内部小屋組は五重梁として正確にかけられ、当時の灘町・湊町の建築技術の水準の高さを示している。現在西岡建材社長宅。
・周辺の町並みは江戸、明治、大正時代の商家の趣を残している。

●旧四国泉邸(旧岡井邸)

・文久2年建築の造り酒屋。
この地の長老であった岡井九左衛門が文久2年(1862)に造り酒屋として建築した。昭和後期、四国泉酒造場であった。
・間口八間、はり間六間の外観は、その大きさ、高さ、屋根のかけ方など大店舗の特色をよく現している。二間の出入口を中央に、左手は帳場、居室部、右手は上間、作業部屋、そして裏の醸造場へと続いている。土間上にかかる小屋組が、見る者を圧倒する。極端に曲がった大梁などを自然のままに使い、それが意匠ともなり、店の大きさを象徴している。また通りに面した台椅子の木柄の太いことも酒造家という建築を表している。

●伊予ショップガイド

・明治44年(1911)、伊予農業銀行郡中支店として建築された。
・地元の大工が洋風を取り入れようとする時代に応え、旧来の建築技術と融合したような建築で円柱、柱頭の飾りなど、西洋の様式を模した擬洋風建築の一つ。この時代の伊予市の雰囲気が分かる。
伊予農業銀行郡中支店、愛媛銀行、広島銀行と変わり、昭和38年(1963)に現在の伊予ショップガイド事務所となる。

●宮内小三郎邸

・伊予市の歴史を語る家〜伝統的建築物。
・江戸後期(推定)の建築。
・伊予市市街地(現在の灘町、湊町周辺)は、当時牛子が原と言われた荒れ地であったが、寛永13年(1636)上灘村(現在の双海町)で豪商宮内九右衛門、清兵衛兄弟が私財を投げ打って、自主独立で町を拓いた。
・以後、和紙、陶器、海産物、醸造、油、金融など、現在の愛媛の地場産業の全てが見られるほどに町は栄え、人で賑わった。
・宮内小三郎家[三代以後小三郎襲名]は、町を開いた家というのにふさわしいものである。本瓦の大屋根に入母屋の破風を持つ家の姿は商家というより奉行所ともいえる貫禄で建っている。また正面左のうだつは、県下でも最も格式の高い形式である。
・宮内家は町年寄として村を治める一方、各種商業の元締めとして今に言う総合商社であり、また役人をむかえ、藩主が御成になった家であり、町の歴史の象徴でもある。

●山惣商店

・万延元年建築の旅篭〜伝統的建築物。
・二方の通りの角地に立つ山惣商店は当初旅篭として建築されたものである。外観は角地という敷地に合わせた特異なもので、伊予市の町並みでは数少ない外観の例である。
・建築年代も万延元年(1860)4月1日と明確であることも、この家の由緒を知る上で貴重である。
・現在は山崎家として三代目で、ヤマソウ醤油醸造と肥料販売業を営んでいる。店の内部は創建時の間取りをよく残している。店の間は板張りのままであり、大黒柱より左は帳場など当時の店の様子がよくわかる。その奥に居室部がとられ、右手は土間となり裏へと続いている。
・二階の室は全てが床の間を持ち、旅篭としての特徴を示している。
・この建物は江戸期の大型商家の典型的な例である。

●北村醤油店

・江戸後期(推定)の建築(伝統的建築物)。
・表に見える足固めを兼ねた御影石が、この家の規模や造りを象徴している。店内は明治期の商家の風情を色濃く残し、貴重である。江戸時代創業のよろず問屋(屋号北国屋)を経て、手造りの「カネキタしょうゆ」を醸造し現在に至る。
・現当主、北村昌義氏で12代目となる。


23.上行寺【伊予市】


24.JR伊予市駅/伊予鉄郡中駅【伊予市】

 
伊予市八景 
@五色浜 
A大谷池と森林公園 
B谷上山 
C森の海岸としおさあい公園 
D稲荷山と西権現山 
E伊豫岡八幡神社 
F三秋の大池と明神山 
G鵜の崎峠と障子山 
・近くには、河野氏に属する豪族の砦であった白滝城跡があるとか。


25.栄養寺【伊予市灘町4丁目】

・山号:泰正山
・宗派:浄土宗

●火防地蔵尊

・「三界萬霊」と刻まれている。
・享保6年5月24日に造られたもの。


26.光明寺【伊予市灘町】

・山号:冨泊山
・宗派:浄土真宗本願寺派

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