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こたろう博物学研究所
探訪記録:19980308 |
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松前町方面散策【平成10年(1998)3月8日】1.松前城址松前城の起源は明らかではないが、平安時代初期すでにこの地に定善寺(性尋寺、今の金蓮寺)があり、軍事・交通の要衝として境内に砦が設けられたのが始まりであろうといわれている。松前城の文字が初めて文献に現れるのは、建武3年(1336)、祝安親軍忠状である。「大山積神社文書」によると、南北朝時代南朝方の合田弥四郎貞遠のたてこもる「松崎城」を北朝方の祝彦三郎安親が攻略したとある。 「松前」は、古来「松崎」、「真崎」、「正木」、「柾木」、「満崎」等書かれており、「松前」に定着したのは、寛永12年(1635)松平定行入国以来である。 湊川の戦に楠木正成を討った功により、砥部の豪族大森彦七が松前城主を兼ねたが、やがて荏原の平岡氏と交替する。
●塙団右衛門安土桃山時代の武将。出生は明らかではないが1550年頃、遠江に生まれたといわれる。名は直之、18歳の頃、織田信長に仕えた。義侠心に富み、友情は厚かったが、直情__、独断__するところがあった。やがて士分に取り立てられたが、酒豪で酒癖が悪く泥酔して人と争い傷つけたので追放された。その後、京阪を徘徊していたが、ふとした縁で加藤嘉明に仕え、順次大功をたて累進し銃隊長となった。以来、嘉明に従って各地を転戦し大豪の士として認められるに至った。 数々の武功により禄千石を食むようになったが、____、嘉明の軍令を守らず、__の傾向があったため、嘉明に「生涯人の将たり得ず」と罵られて激怒し、床柱に「遂不留江南野水 高飛東海一閑鴎」と墨書して松前を去った。松前を去るにあたり、団右衛門が城を懐かしんで小川の橋の上に佇み、名残を惜しんだ石橋が平田東助撰文の「義農頌徳碑石」であると信じられている。 流々の後、豊臣家に仕え、大阪夏の陣では部下3000余騎を率いて勇戦奮闘したが、元和元年(1615)5月敗死した。 2.大念寺●坪内寿夫翁頌徳碑●句碑3.中村草田男寓居趾4.住吉神社●松前町制実施記念碑5.瀧姫神社/松前港/天保山●坪内寿夫翁頌徳碑●「珍味発祥之地」の碑●歌碑6.妙寛寺7.長尾谷川/ダンダラ川●長尾谷橋●長尾谷川●ダンダラ川8.金蓮寺9.長徳寺10.不動院●路傍の権現11.八幡宮12.大智院●後藤又兵衛の墓●雪勝の桜13.善正寺14.矢野地蔵15.義農作兵衛終焉の地16.国近川●古城橋17.和多都見神社18.塩屋公園 |
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