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こたろう博物学研究所
探訪記録:19980219

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北条市方面散策-(2)【平成10年(1998)2月19日】



今年になって2度目の北条散策調査。


1.北条港界隈
本当は波方町・大西町界隈へ探索に行くつもりだった。いつものように三津から海周りで梅津寺を通り、左手に広がる興居島を眺めながら海沿いの道に車を走らせる。
久々の晴れた休日。とかく有給をとった日は必ずと言っていいくらい雨が降っていた。今日も週間天気予報では50%ぐらいの確率で雨が降るはずだった。だからこそ、本当は水曜日に休みをとるつもりだった。しかし、どうしても仕事の折り合いがつかず、結局今日を逃すと当分休みが取れそうもないので、有給取得を敢行した。
北条バイパスは通り飽きたので、こないだも通ったのだが、旧の196号線から北上することにした。
北条市街地を突き進み、ぐっと左に曲がってすぐさま右に曲がるクランク状の道、そう鹿島渡船場から少し北側に入った道路を進むとき、ふと「花へんろの道」という白装束に身を纏う女遍路の絵のでっかい看板と、その下に「花へんろの町」「松山札辻より四里」という道標が目に付いた。
「これはカメラに収めにゃならん!」と海へと続く小川沿いの道へと逸れていく。やがて港に辿り着く。北条港である。
港の向こうに鹿島がぽっかりと浮かんでいる。
まずは、先ほど発見した道標を写真に収めるという主目的を達成するために、北条港の北岸に車を停める。
今日は愛車シャリオ号の後部座席をフラットにして、自転車を搭載してきた。行き当たりばったりの探索には自転車がものすごく機動力を発揮する。早速ハッチバックからごぞごぞと自転車をひきずり降ろし、リュックサックを背負い、出動態勢に移る。
鹿島の方に目をやったときに、港出口の堤防あたりに鳥居があるのが目についた。「ちょっと先に寄ってみるか...」と自転車を全く目的地とは反対の方向へ走らせる。
鹿島渡船場の前の道に聳え立つ白い鳥居と同様、小振りではあるが白い鳥居が悠然と構えており、その向こうにこじんまりとした社殿が見える。ここも鹿島神社と称する神社である。
余りめぼしいものは見当たらない。残念と思いながら、折角来たのだからと、防波堤の先の燈台でも眺めてみようと奥の小道を進んでいく。港の出口から鹿島が見える。泳いで渡れそうなくらい間近に鹿島が浮かんでいる。
どうもこの小川の両岸に続いている道は「花へんろ通り」と呼ばれているようだ。北条出身の早坂暁氏が書いたテレビ小説「花へんろ」に因んでいるのだろう。
小川に浮かぶ小船の中に目をやると、数羽のカモが時間を忘れたかのようにぼーっと佇んでいる。人通りもなく、静かな雰囲気の中、まるで時間が止まっているかのような錯覚さえ覚える。
先ほどの女遍路の絵のでっかい看板の裏には、「伊予の二見 光ありて天つ日ありて海ありて伊予の二見はかしこかりけり」と歌を添えて、鹿島沖の小島に沈む赤々とした夕陽の絵が描かれている。伊予の二見だ。
無性に鹿島に渡りたくなってきた。
白い大鳥居をめざして自転車を走らせる。北条港の角っこに「四国のみち」の看板を見つける。その向こうには大根を干している。

初期の目的を忘れそうになってしまうが、まあ取り敢えず渡船場には観光協会もあるようなので、パンフレットを貰えるかもしれない
往復料金で大人300円である。高々4〜5分の船旅もたまにはいいかもと、ついつい自動券売機に100円玉を3枚つっこんでしまった。
海の向こうから、船首に鹿が座り込んでいるおまぬけな船がとろとろと近づいてくる。「第13かしま」だ。



2.鹿島へ渡る
本当に久しぶりだ。もう2〜3年は渡ったことがない。船に乗り込んだかと思うと早速動き始める。客はワシを含めてたったの二人である。とても採算のある商売には思えない。船長(?)も些か「だれ気味」で操舵しているように見える。シーズンオフだから仕方ない。
動き出したかと思うと、見覚えのある光景がだんだんと近づいてくる。あっと言う間に島に着いた。
「北条の鹿島へようおいでたなもし」というゲートがお迎えしてくれる。なんともほほえましい気分にさせてくれる。

●鹿島
渡船は、4月〜10月は15分毎、11月〜3月は20分毎に発着する。
料金は往復で大人300円、小人160円。
鹿島−陸側渡船場間は0.4km。
鹿島−波妻不定期航路(2.5km)も運行しているようである。

鹿島に来たならまず鹿を見なければならない。これが王道である。
何とも間抜けな顔をして数十頭の鹿が網の向こうに座り込んでいる。「あーら、久々にお客さん来たわねぇ」といった具合でつぶらな瞳を一斉にこちらに向けている。
しかし鹿島の鹿は人慣れしていないようで、「おいでおいで」と手を差し伸べると、蜘蛛の子を散らすように拒否反応を示す。
「可愛い顔して、おめぇ、愛想ないのう」と思わず独り言、いや鹿に語りかけてしまう。なんせ純粋観光客はこの島でワシ一人。貸し切り状態なので少々不気味な行動をしても、後ろ指もさされないし、リゾート貸し切り状態なんでもの凄く得した気分になる。

●鹿島の鹿(県指定天然記念物)

「この島の鹿は、キュウシュウジカと推定され、体が一般に小さく、臆病で警戒心が強く、人に馴れにくいのです。
鹿は春から夏にかけて袋角になっていてやわらかいが、飽きになると袋はは◆◆ち、かたい角に変わります。
この時期になりますと鹿は、角で木の皮をよくいためます。
山の中へ入ると、そのような木をよく見掛けます。
鹿が成長しますと雄は、時々荒々しくなり、雄同志で付き合うこともあります。」
との説明書きがあるが、だいぶん文字も薄れかかっている。
「角の発育と年令の関係」という図解説明もあり。
 

●山口草堂句碑
「しつかなる 昴(たか)ふり月の 鯔(ぼら)跳ねし」
南風本部有志一同建立。昭和53年3月。

●廉塚

「波風に 痩せゆく巌や 石菠の花」 毛人

●金婚記念

立て看板には得意の「シカ」ネタで川柳が詠まれている。
「縁神しかと結ばれとけぬ仲」
(円楽ならば大口開けて笑うかもしれないが、今時の中学生らは一言「さむぅ」と言って片づけそうだ。)

●太田屋
客もおらんので、ほんとに閑散としている。
 

●国民宿舎鹿島
こちらも閑散としているとしか言いようがない。いや「ひなびている」という言葉もある。

運悪く落石危険のため島の周遊は禁止されていた。しかし折角来たのだからこのまま引き下がるわけにはいかない。
(こういう自分勝手な客が、何ぞしでかして、迷惑をかけるのが世の常なんじゃろう。)

●尾崎鳴堂句碑
「春たつや 神うつそみの わたの潮」
昭和33年4月11日「ぬなは」同人が建立。
鳴堂翁は神奈川県大磯高麗寺住職で「ぬなは」誌の選者。

●噴きだした岩(Spouted Rock)
この島は、花崗岩と安山岩からできている。この二つの触れあったところが島の北側(現在地)と南側に見られる。
この付近の岩石の特徴として、黒っぽい安山岩の中に花崗岩のかけらや、さらに花崗岩がばらばらになって石英、長石などの白い粒がたくさんとりこまれている。このような岩石を捕獲岩(ほかくがん)といい、どろどろにとけた熱い火山岩が噴き出しているとき、まわりの岩石をとりこんでできたものである。それは、今から約一千万年以上もの昔(新第三紀中新世)と推定される。

●髪洗磯(kamiarai Shore)
その昔、神功皇后が三韓征伐の軍を進められたとき、満ちてくる潮で身を清め、髪を洗われて神々に戦勝の祈願をされたと伝えられている。
鹿島山頂の「御野立の巌」とともに古くから鹿島の名所の一つに数えられている。

●仙波花叟句碑
「腰折れと いふ名もをかし 春の山」
仙波花叟(1874〜1940)は本市常保免の生まれ。正岡子規に師事し風早吟社を創設(1915)し、多くの後輩を育成した。1940年に建立のこの句碑が台風19号により破損したが池本享啓氏のご尽力を得て北条俳句協会により修復された。1994年吉日 北条俳句協会

花叟句碑の向こうに恵良山(Eryou mount)、腰折山(Koshiore mount)、波妻岬(Hazuma cape)が霞んで見える。

●川獺谷(Kawauso Balley)
ここは島の北に面し、名のように、その昔「かわうそ」(肉食動物・いたち科)が生息していたと伝えられている。
左に見える岬が波妻岬で、その右の腰の折れた山が「エヒメアヤメ」の自生地として有名な腰折山である。
この付近一帯は、磯釣りの名所でもあり、鹿島第一の涼しいところである。

●句碑(誰の?)
昭和9年中秋ヒラミン吟社

●伊予の二見と石門(Futami for Iyo and Ishimon)
ここは沖に点在する忽那(くつな)七島を臨み、右手に二つの島、安居島(あいじま)、小安居島(こあいじま)が遠望できる。
右手の岩は、波がつくった石門。海上には千霧(ちぎり)、高小鹿島(たかこがしま)、玉理(ぎょくり)、寒戸(かんど)の浮島があり、寒戸岩には龍神像が祭られ、玉理・寒戸岩には大注連縄が張られている。
特に玉理・寒戸に沈む夕日は「伊予の二見」として知られている。

双海、二見と夕陽の美しいところは「futami」の読みをするところに、何か曰くがありそうな気がして止まない。

●海神の笛伝説(for flute legend)
この海辺(水晶ヶ浜)の白砂の中に、潮にもまれて丸くなった安山岩の小石があった。その中から直径一センチほどの穴が開いている小石を見つけ、唇を当てて吹くとよい音色の笛となるため、「鹿島の石笛」といって、龍神のなぐさみの石笛だと言い伝えられてきた。
今では拾い尽くされて、めったに見られなくなったが、これは石に穴を穿って住む穿孔◆のしわざである。

●大連縄願い文(Oh Shimenawa make an application)
昔、高縄城主・河野通信(こうのみちのぶ)が海上安全・五穀豊穣の守護神として、玉理・寒戸島に龍神様を祀ったとの伝説がある。
今はこの島に長さ40m、直径30cmの大注連縄を張り「伊予の二見」として知られている。
毎年4月29日、観光協会、消防団の手で注連縄の張り替えが行われている。
この注連縄に願い文を包み込み、奉納すると縁談・学問・商売・交通安全など、よろずの願い事が叶えられるといわれている。この願い文は鹿島神社本殿と無料休憩所に設置している「願い文入れ」に投函しておけばよい。

ワシは陸側の船着場にあった「願い文入れ」に、「坊ちゃん文学賞入賞祈願」と書いて投函した。
果たして願いが叶うか否か...

幸い引き潮だったので、落石危険のある遊歩道は通らずとも、海辺を歩くことで周遊することができた。

●句碑
「夕焼けに 輝く波や 伊予二見」

●三由淡紅(みよしたんこう)句碑
「裏山に ひびく太鼓や 青嵐」
淡紅は北条生まれ。15歳にして村上霽月に師事する。常に鹿島を愛し、資材を投じて周遊道の整備・架橋等を行い、また月斗、東洋城、爲山等文人墨客を招聘して鹿島の顕彰に勉めた。
大正6年虚子鹿島に来遊の際、洞を淡紅洞、石橋を白石橋と名付けた。

●犬戻り
犬戻りは昔から鹿島第一の難所であり、犬でさえここで引き返したところと言われる。岸壁内にある洞窟は今でも深さを知るものはいない。
俳人三由淡紅がこの難所に橋を架けたのが周遊道の始まりで、この洞窟を淡紅洞と呼ぶ。
白石橋は今はコンクリート製の情緒に欠けた橋になっている。

●勇歌碑
「岩ありて天つ日ありて海ありて伊予の二見はかしこかりけり」
昭和47年5月、鹿島老人クラブが建立した。

●海水浴場

「枯国や 昔行幸や 水の音」
平成2年11月吉日北条市渋柿会が建立。
傍らには、登山口の案内板が建っている。「山高115m、徒歩20分」とある。

●柳原極堂句碑
「舟涼し 朝飯前の 島めぐり」
昭和9年6月、若葉吟社主催の極堂歓迎風早俳句大会に招かれ、当夜一泊、翌朝島めぐりの時の句。
翁生誕100年を記念し、昭和41年5月4日若葉吟社が建立した。

近松門左衛門250年祭
北条浄曲古今天狗連名
波頭鹿島◆祝記念
昭和48年5月

●富安風生句碑
「きりぎしに すがれる萩の 命はも」
森薫花壇氏等が若葉500号記念に昭和46年10月16日建立。

●村上霽月句碑
「御野立の 岩や薫風 二千年」

●神功皇后の伝説(Jingu empress legend)
仲哀天皇の后、神功皇后は西征の途中、軍船を風早郷の鹿島に止められ、軍備を整えられた。このとき、島の東部中腹二の平に仮宮を設けられたといわれ、この所を今も皇后の局と呼んでいる。
島の東北海岸一帯は大津地と呼ばれ、昔港のあったところといわれている。神功皇后は髪洗磯に立たれ、御姿を整え、旅装をなされると鹿島山頂の御野立の巌に立たれ、弓に矢をつかえ、沖へ放たれて戦勝を祈願し、大津地の港を出発したと伝えられている。
 

●鹿島二題
「」

●村上壷天子句碑
昭和44年11月、吟社創立55周年を記念して、風早吟社が建立した。

●鹿の俳句ポスト

●村上霽月の句碑
「神威曽(しんいかつ) 斧入らしめず 島茂て」

●戦没記念碑(本殿に向かって鳥居の左側)

●「伊予十二景 第一等當選 鹿嶋」の碑(本殿に向かって鳥居の右側)
 

●鹿島神社

●要石(Kaname for legend)
この地方では、昔から地底に大鯰がいて、常には静まっているが目覚めてあばれだすと地震となって大地が震動すると考えられていた。
この地震を起こす大鯰の頭を、鹿島の神様が「要石」で押さえているので、この風早地方には地震が少ないと言い伝えられてきた。
傍らの石に次の歌が刻まれている。
「ゆるぐとも よもやぬけじな 要石 鹿島の神の おわすかぎりは」

要石の由来
常陸国鹿島神宮より勧請の折、霊石たる要石も併せ遷したと伝えられる。
本宮においては古来、山の宮御座石の別名があり、鹿島神の天降りの時、この石に座しもうたといわれ、地震を起こす大鯰の頭を祭神が押さえられた石ともいう。

鹿島信仰と要石の密接な関係については、もっと調査を要する。

●龍神社の雨乞伝説(Ryu shrine and Amagoi legend)
昔、高縄城主・河野通信が海上安全、五穀豊穣の守護神として玉理・寒戸島に竜神様を祀ったとの伝説がある。昭和30年頃現在地に遷宮した。
以前は、龍神様への雨乞いは盛んに行われ、鹿島山頂はその雨乞いの斎場であったという。この雨乞いは、全裸の若者たちが男根を藁で縛り、首にかけ、火のまわりを駆け回ると必ず雨を得るという奇習のため禁止されたと言われ、今では単なる伝説となっている。

●無料休憩所
北条市内の史跡・名所を記したマップが掲げてある。

成就箱(願い文入れ)も設置してある。

「行ってみよう!えひめ感動の地20選」の認定証が掲げられている。
 文は以下の通りだ。
 「県民の観光・レジャーにふさわしいすぐれた所として『えひめ感動の地20選』に認定いたします。 平成元年11月11日 四国大型キャンペーン推進愛媛協議会 会長 伊賀貞雪  愛媛新聞社長 松下功」

くねくねと長ったらしい遊歩道を上っていく。
すると小石を木の葉の上に落とすような物音がして思わずびくっとする。野生の鹿だ。僕のほうをしげしげと眺めている。

●鹿島城跡
中世における伊予の国の覇者、河野氏の海城の古城跡であるが、最後の城主来島通総は豊臣秀吉の四国征伐に先鋒水軍として活躍した功により、鹿島城主に任ぜられたが、関ヶ原の戦いの際、西軍に加わった関係から、豊後国森に転封され廃城となった。
島の頂上、南角等に築城、当時のものらしい石積の崩れた姿が残っている。

●御野立の巌(Onodate for orag)
仲哀天皇の后、神功皇后は西征の途中、軍船を風早郷の鹿島に止め、軍備・旅装を整えられるとこの巌に立って、弓に矢をつがえ、沖に放たれて戦勝を祈願し、勇躍大津地の湊を出発されたと伝えられている。



3.目指せ北条市役所

●小田幸重頌徳碑(大町区会堂前)
「春風や 会堂成りて 町うらら」壁堂
代表 大町区町 山内孝平

町のあちこちに古めかしい石標が建っている。

●風早高等小学校之跡
旧国道196号線の脇にある。

●北温中学校跡
北条市役所北側

●北条市役所
商工観光課で「風早四国霊場漫歩」「風早文学碑の解説」の小冊子を戴く。
史跡とか文化財関係のパンフレットや冊子はないか?有償でも構わないと問い掛けると、それは社会教育課のほうに聞いてくれと事務所の場所を教えてくれる。
社会教育課に行って「北条市に点在する史跡・文化財の具体的な所在位置について記されているような資料やパンフはないでしょうか?」と尋ねてみる。生憎昼休みで担当者が居ない。「あげたり、売ったりできるようなものはないですよ。このように手書きで記入した地図はあるんじゃけどねぇ」とA1用紙に調査結果を記したような地図を見せてくれる。「もう少ししたら担当の者が昼食から帰ってくるけん、コピーでもしてもろたらええわい」と親切に応対して戴いたので、有り難く待たせてもらうことにした。お茶でも出れば、もっと嬉しいかったのだが、身元不明・挙動不審の来訪者にはそれほど甘くはない。

●三穂神社
祭神に事代主命と菅原道真を祀る。学問の神、天神様として崇敬する。明治大正初期北条に於て上町衆も繁華で7月の天神祭ににぎわって
「町角に 天神様や 松乃花」 花叟

●杖大師(クラボウ北条工場南東)
・真言宗醍醐派青面山養護院四国霊場番外札所
・風早四国88ヶ所49番釈迦如来、52番お杖弘法大師

花へんろ 第4番札所 修行大師



4.飯でも食おうか
どっかの店にでも入って飯でも食おうかとも思ったのだが、どうも時間が勿体無くってならない。ということで毎度乍らローソンでオニギリ3個を買う。

●風早四国88ヶ所54番 鎌大師(中西内)
不動明王を祀る。



5.立岩川沿い県道17号線を行く

●百一人様(庄府)
残念乍ら見つけることができず。

●明見神社(庄府)
山の斜面、庄府の里を一望に見下ろす小高い場所に鎮座している。
参道を上り切ったところに大木の根が残されている。以前はかなり立派な神木が聳え立っていたことだろう。その面影は社殿の中に奉納されたモノクロームの写真額に見ることができる。
末社:木野山神社
風早四国88ヶ所6番庵

●風早四国88ヶ所5番地蔵堂(庄府)
南無大師遍照金剛
立岩川支流の両側に棚田が広がる。所々、梅の花が広がり白い色を添えている。僕の大好きな風景がここにある。

●高縄山登山口(儀式)
「奥道後玉川県立自然公園 高縄山入口 愛媛県北条市」
「石鎚神宮」
という案内板が路傍に建っている。

●石鎚神宮(米之野)
所々に道標が立っている田の畦のような細い道を息をきらしながら歩いていく。
なかなか目的地に到着しない。やがて
風早四国88ヶ所7〜9番 庵 千手観音 に到着する。
そこから林の中に入っていき、山道を登っていく。やはり山岳信仰の石鎚、奥深い山の中に社殿を構える。
ようやく辿り着いたところにはとても小さい祠がぽつりと建っているだけだった。少々期待外れであった。

●新田神社(米之野)
愛媛新聞のローカル面に目を通す謎の女性(中年)二人。
社号額には「米山書」とある。おそらく三輪田米山を指すのだろう。
高縄山へ10kmと立て札がある。

●立岩ダム(米之野)

◆計画の概要
本地区は愛媛県のほぼ中央に位置し、瀬戸内海を望む高縄半島山間に開けた550haの樹園地で一大みかん生産地を形成している。地形は全般的に起伏が多く、標高25m〜260mの急傾斜地である。真砂土帯であるため土壌は保水性に乏しく、年毎に干ばつの被害を受けている。
本事業は二級河川立岩水系の水を有効活用し、本地区を灌漑するもので、大遊谷川に有効貯水量780,000m2のフィルダムを築堤するとともに明神谷川、宝坂川に取水堰を設け、....

◆諸元
位置:愛媛県北条市米之野字大遊谷
河川名:立岩川水系大遊谷川
基礎岩質:花崗岩閃緑岩
流域面積:直接1.8km2、間接5.0km2 計6.8km2
型式:中心コア型フィルダム
堤長:48.2m
堤頂長:175.0m

●金蓮寺(儀式)
真言宗醍醐派如意山
県道17号線道端にある。
平成6年5月9日に本堂を改装しており、真新しさを感じる。

●儀式公園(儀式)
残念乍ら見つけることができず。

●坊主池(儀式)
残念乍ら見つけることができず。

●三嶋神社(儀式)

●明見神社(中村)
残念乍ら訪問できず。

●中村三十三墓(中村)
残念乍ら訪問できず。

●日高城跡
残念乍ら訪問できず。

●風早四国88ヶ所番外2番 神途地蔵
風早橋袂、特別養護老人ホーム高縄荘上がり口のところにある。
風早橋は昭和34年1月に架けられたもの。
 

●造林記念碑(猿川)
いよてつバス「立岩農協前」停留所横
『立岩は酒米(山田錦)の産地』とある。

●蓮生寺(猿川原)
新四国曼荼羅霊場43番

写本大般若経
北条市指定有形文化財
所在地:北条市猿川蓮生寺
指定:昭和53年5月10日
蓮生寺は数次の兵火にかかりつつも、この大般若経の写本は、経壇に残り今日まで保存されている。この般若経の奥書に「防州大島郡屋代庄南方観音寺沙門◆観生◆三十五」と記され、慈観が貞和5年(1349)から文和2年(1353)までの5年を費やして書き上げたもので、一人が書き写したのは珍しい。室町初期における仏教徒の信仰の様子を知る上に貴重な文献である。

●紀貫之神社(猿川原)
このような万葉歌人を祭る神社は県内では珍しいのではないだろうか?
社殿内には和歌額が多数奉納されている。

早四国88ヶ所86番 地蔵堂(猿川原)

●神途橋[じんどばし](尾儀原)
平成8年9月
県道17号線と県道197号線(才之原−菊間線)の合流点に架かる。
欄干にはエヒメアヤメがかたどってある。

●荒神社(尾儀原)
参道上がり口のところに、風早88ヶ所の80,81番の看板が倒れている。スタンプは無い。

●クスノキ(尾儀原荒神社境内)
市指定天然記念物(昭和53年5月10日指定)
目通り6m、根周り8.5m、高さ30m

●カゴノキ(尾儀原荒神社境内)
市指定天然記念物(昭和53年5月10日指定)
根周り4m、目通り3.8m、高さ20m
幹は高さ3〜4mのところで2つに分かれ、1つは切断されているように見えるが、その幹の中から青々としたモウソウチクが顔を出している。

●十二ヶ滝(滝本)
残念乍ら訪問できず。

●弓祈祷(滝本)
残念乍ら訪問できず。

●嫁ヶ石(才之原)
圃場整備記念碑
嫁ヶ石橋

●出征記念碑(才之原)
陸軍中将仙波太郎謹書
大正4年建立
立岩村在郷軍人分曾、立岩村兵事支会

立岩ガイドマップが立っている。

●立岩川水辺公園
仮設トイレ1基しかないのがちょっと残念。



6.粟井坂で道草を食う

●風早四国88ヶ所55番 大通智勝仏
国津比古命神社参道脇にある。

●河野通清公墓所
風早88ヶ所番外7番
お石塔参道

●花へんろ第2番札所:修行大師

●木造地蔵菩薩座像
・北条市指定文化財
  所在地:北条市小川
  指定:昭和41年4月10日
・粟井坂大師堂はもと茶堂であった。この茶堂に文化6年(1809)11月弘法大師の尊像を祀り橘村大音寺法印秀清が開眼供養して以来、大師堂と呼ばれるようになった。この大師堂に木造地蔵菩薩座像があわせて安置されている応永2年(1395)室町時代の作で寄木造り、高さ56cmの蓮華座の高さ25cm輪光の光背をつけ、玉眼で左手に宝珠、右手に宝瓶を持って蓮華座上に結◆跌座の姿をとっている。

●正岡子規/夏目漱石合句碑 「志保ひ加多 隣の国へつづ支介里」子規
(しほひかた となりのくにへ つづきけり)
「釣鐘の うなる許に....」漱石

●大森春恕句碑
「淋しさや 鴫さえ逃げて うらの秋」
(さびしさや しぎさえにげて うらのあき)
この碑はもと大森芦邦伍長が天明4年9月(1784)小川の基地に建てたものである。
後、昭和34年子規碑建立の際、併せてここに移された。

●正岡子規句碑
「涼しさや 馬も海向く 粟井坂」
昭和34年小川部落によりたてられ寒山落木(かんざんらくぼく)25年の部に「淡井坂」とかかれているので、後日別碑が建てられた。



7.性懲りもなく円明寺
句碑
「島遍路 干潟歩きて 近道す」

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