[KOMIL:KOtaro's Miscellaneous 
Information Laboratory]
Copyright (C) Kotaro Iseki (1996〜2016).
All rights reserved
こたろう博物学研究所
探訪記録:19980207

トップページ

インデックスに戻る

川内町東部散策【平成10年(1998)2月7日】


1.滑川沿いを行く

国道11号線を東へ。まずは腹ごしらえということで、落手隧道手前の「東京たこやき」へ立ち寄る。値段は1パック350円。おばちゃんが作り置き・保温中のたこ焼きをパックに詰めているのがちょっと残念やなぁなどと考えながら窓ガラスの上部に目をやると、誰かのサイン入り色紙が飾られとるのに気が付いた。よう見てみると、南海放送の「もぎたてテレビ」野志克仁のサインじゃ。この店にも寄ったんじゃね。最近見とらんので知らんかったが。「のしかつ」というひらがな4文字の合わせ技のサイン、てっきり小学生が書いたのかと思うてしもた。
おばちゃんが「マヨネーズは?」と聞いてくるので、メニュー表に「無料」と明記してあるのをすかさずチェックし、「もちろん要ります!」と気合を入れて返答した。
自販機で缶コーヒーも買って、さあ出発!。中山川支流滑川沿いを走る県道302号線へと、国道11号線から右折して、落手(おちで)橋を渡って、今日の第1目的、滑川沿いの旅の始まりじゃ。

(1).滑川コミュニティ広場(川内町滑川下)
しばらく車を走らせると、道路の右側にちょっとした広場が設けられている。滑川界隈の案内地図らしきものが目に入る。
トイレも有るし、ということでここで先程買うたたこ焼きをたいらげ、「滑川ふる里まっぷ」の内容をメモして再出発。
ちなみに、ここの広場は「平成3年度推力発電施設周辺地域交付金事業」で設けられたようじゃ。なるほど地図で確認すると、上流に水力発電所がある。

(2).昌禅寺(川内町滑川下)
桃の花が、本当に「桃色」と呼ぶべきような鮮やかな色で咲いている。その向こうから、畑仕事の老婆が「あの人何しとるんじゃろ?」といった眼差しでこっちを眺めている。
川内西国霊場第12番札所「昌禅寺」はこじんまりとした寺で、苔生した境内が、なんとも言えぬ情緒を醸し出しとる。さて、ここには写真のように「薬師如来堂」があるんじゃが、残念なことに屋根(裏側)が倒木で損傷し、下の方に割れた瓦が散乱しておる。その犯人の倒木も未だ撤去されとらん。


(3).滑川林道改修記念碑(川内町滑川)
特筆すべきことはないんじゃが、この碑が建っておるところから東に「林道」らしき道がまっすぐ伸びておる。とは言ってもほんと車1台しか通るれんような道なんじゃけどね。
地図で確認する限りは、丹原町の鞍瀬谷のほうに通じておるようじゃね。(車で通り抜けれるかどうかは定かじゃないが。)


(4).総河内神社(川内町滑川)
ちょっとした集落に辿り着くと、左手に鳥居が見えた。総河内神社である。鳥居の向こうには2本の見事な大木(杉?)が聳え立っている。樹齢数百年といったところじゃろうね。


(5).ホタルの里(川内町滑川上仲屋)
しばらく人気のない道を進む。この辺りがどうも「滑川ふる里まっぷ」で言う「ホタルの里」らしい。夏じゃないんで、その真偽は定かじゃないけど、水も奇麗じゃし夏にはきっと多くのホタルが飛び交っておることじゃろう。

(6).滑川渓谷(川内町明荷滑川上)
やがて大きな集落に辿り着く。伊予鉄バス「海上」停留所が見える。そして夏場だけオープンするような民宿・御食事処が見えてくる。

皿ヶ嶺連峰県立自然公園に属する渓谷で、松野町の滑床渓谷と同じように河床がずっと板のように滑らかに続いており、夏場じゃったらケツを下ろしてスライダープール気分を味わえれるんじゃけどね。いかんせん、今は冬。見よるだけで鼻水が出そうにならい。
遊歩道には雪がかなり残っており、足元がつるつる滑って仕方ない。突発的な転倒で買ったばかりのデジカメをこわさぬよう、足元に細心の注意を払いながらそろりそろいと上流に向けて歩いていった。
岸壁には大きな氷柱が垂れ下がっており、しかも小雨混じりの天気。結構、ぼとぼとと落下した氷柱の残骸が散らばっておる。じゃけん、その下を通るのは些か不気味な感じがしたわい。歩きよったら上から降ってきて脳天に突き刺さるんじゃなかろうかという不安。何か事あったらすぐに連絡が取れるよう、携帯電話が無性に欲しゅうなった。
本日の客はどうもワシ一人。そりゃこんな悪天候の日にわざわざこんなとこに来る人間はそうざらにはおりゃぁせん思わい。この季節でも案外カメラマン(カメラ好き)の人は訪れとるみたいじゃけどね。

●塩嶽
駐車場から北の方へ約250m歩いたとこにあるらしいんじゃが、今回は見るようにならんかった。雨さえ降ってなかったら行ってみたかったんじゃがねぇ。

●前の滝
駐車場から渓谷に向かうとすぐに見える第1の滝。薄ら雪が残っておる。

●滝の尾
●み淵
●熊の爪
●犬くぐり
●奥の滝
駐車場から南(川上)へ約600m歩いたところにある滝でまあまあ落差があるし、水量も結構豊富なんでええ塩梅よ。両脇は岸壁に囲まれて薄暗く、河原には積み石が至る所に見える。一人でこの場所におるんはちょっと恐い気もしたわい。


(7).光明寺
山号:安養山
川の西側の小高い岡の上に建てられている。
寺の飼い犬(放し飼い)が、僕の素行が怪しいせいか、やたら吠えながら纏わりついてくる。まぁ犬好きじゃし、別に吠えても怒りたわす気分にもならん。「お前何で吠えよるんぞ」と話かけても一向に吠え止まない。
暫くすると住職の娘が出てきて「どうもすいません。これ!もう吠えるの止めなさい!」と戒めなさった。人間が見てもきっと素行が怪しいはずなのに、とても礼儀正しく接してくれたんは、そこが田舎じゃけんじゃろうか?それとも寺じゃけんじゃろうか?
とにかく犬もなき止んだんで、ゆっくりと境内を眺めてみる。ここには鎮西八郎為朝(源為朝)の霊廟があるらしい。次のような説明書きが建てられておる。
 
源為朝(1139〜1177) 
源為義の子で武勇に優れているが、13歳のとき蛮勇を振ったため、父から九州へ追われた。 
為朝は「阿蘇忠景」の婿となり、数年後に九州全域を支配下におき自ら鎮西八郎為朝と称した。 
朝廷では彼を京都に召したが応ぜず父為義は連坐により解官された。
保元の乱(1156) 
12世紀の中頃、皇室では後白川天皇と兄の崇徳上皇が対立し、攝関家では兄の藤原忠通と弟の藤原頼長が対立していた。これらの対立は鳥羽法皇の死を契機に爆発し、後白河天皇・藤原忠通は平清盛・源義朝を味方に、崇徳上皇・藤原頼長は平忠正(清盛の父)、源為義(義朝の父)を味方とした源為朝は父(為義)に従った。親子兄弟が敵味方の二派に分かれて戦った。結果は後白河天皇側が勝利した。 
崇徳上皇側の敗因は源為朝の夜襲戦の進言を退けたためであるという。崇徳上皇は讃岐に配流、頼長は戦死、忠正と為義は新材、義朝は伊豆の大島に流された。 
この乱は貴族の無力を示すとともに武士の中央政界進出を促した点で画期的な意義を有する。
為朝之墓(光明寺) 
伊予の豪族河野家は清和源氏の流れを持つ家柄である。為朝が流された事について、河野水軍が秘に為朝を救い出し、滑川のこの地へ迎えたことであろう。 
為朝が沖縄の王に迎えられたとか、大島で死んだという説など色々あるが、国史においては彼の死は不明になっている。 
その後、河野(伊予)水軍が源平壇ノ浦の決戦に参加して勝利に導いたことは有名である。
清和源氏略系 
56代清和天皇は皇子皇女に源姓を与う。 
清和天皇−源頼義−源義家−八幡太郎義家 
    −弟親経(伊予に移り河野家の祖となる) 
源義親−源為義−源為朝(鎮西八郎為朝) 

    贈 伊予路の文化史跡を守る会

●鎮西八郎為朝の墓(霊廟


(8).滑川小学校跡
滑川小学校の位置は、東経133°、北緯33°48′。海抜は310.418m。 グランドも今ではゲートボールコートとして活用されている。校舎の二階には2つの投光器がゲートボールコートの方に向けて取り付けられている。校庭に一人立ち尽くす、生徒御手製の埴輪像も丁度ゲートボールコートの方を向いているのが何とも物悲しい感じがしたわい。


(9).その他行き損ねた所
●白山神社(川内町滑川郷)
●面木山
●立鳥帽子城跡
●平家落人の里(川内町滑川九騎)

2.旧金毘羅街道(桜三里)を歩く
滑川から下りてきて、再び国道11号線で元来た道を戻る。すぐそこには「レストパーク桜三里」という電話・トイレが設置された休憩所も設けられている。
レストパーク桜三里のやや松山寄り、国道11号線の道端に「旧金毘羅街道→」の看板が立っている。
細い道に入り、中山川に架かる土谷橋を渡ると正面に源太桜と旧金毘羅街道に関する説明書きが建っている。

この案内板を見て「車で行けるんかいなぁ?」と思いながらも、徒歩でいくのも悪くないと公民館近くの路上に駐車し、リュックサック背負って歩いてみることにした。後から考えるとこれは大正解じゃった。やっぱり「旧街道」じゃけん、人が歩くんで精一杯の道じゃったわい。



(1).中山川
道前渓上流にあたるこの川は、河川工事のせいか小汚い茶色に染まっておった。いかんねぇ、風情が損なわれとる。


(2).宿場
昔は土谷橋界隈が宿場が設けられていたようで、茶七、新屋などの宿屋があったらしいわい。今ではその姿を偲ぶことはできん。末裔達は農業を営んでおるようじゃ。庭に筵(むしろ)を敷き、切り干し大根(だいこ)を造っておる。軒先には吊るし柿をつらくっておる。


(3).道標
「左こんぴら道」と記されとる。
石窟に祭られた地蔵が道往く人の安全を祈りながらじっと見守っとるように見えらい。やっぱ山越えの険しい道じゃから、ついつい安全を祈って手を合わす気分になってくると言うもんよね。


(4).峠茶屋跡
案内板で見る限り、結構平坦な道を予想しとったんじゃが、とんでもない。はっきり言って獣道と呼んだようはええくらいの道じゃ。じゃけど、一旦走破すると決めたからにゃ前向いて進むしかないわいねぇ。
真っ直ぐに伸びる杉の木の間の細道を分け入り、しばらくすると心持ち平坦な広い場所に「峠茶屋跡」と案内板が立てられていた。正直な話、ここに茶屋があったなどと想像もできない場所で、面影さえも偲ばせない跡地じゃった。


(5).馬治療院跡
更に山道は続く。結構アップダウンもあるんで、運動不足の中年の足はガクガクしよらいねぇ。途中「落石注意」といった注意書きもあるような、何ともあぶかしい道なんで、遭難したら誰が見つけてくれるじゃろと些か不安を感じたりもする。峠茶屋から10分ほど歩くと椎茸の苗木が道の両脇で腐敗して独特の匂いを醸し出しておる。
やがて、「ちょっと広いかな」と思う程度で馬が沢山停留できるような場所ではない「馬治療院跡」に辿りつく。


(6).源太桜
源太桜は、エドヒガンで、推定樹齢350年に及ぶらしく、川内町指定天然記念物に指定されておる。(昭和56年11月26日指定)
貞享11年(1687)、田野の代官、矢野五郎衛門源太は藩命を破り、金毘羅街道の桧皮峠から丹原町落合に至る山中三里の間に8,240本の桜を植えたらしい。これが桜三里の起こりなんじゃと。そん時村人は源太に命じられて、中山川で水を汲んで、ひーひー言いもって担いで山道を上り、桜に水をやることを余儀なくされよったらしいわい。ほんで腹に据えかねた村人達は
「桜三里は源太のしおき、花は咲くとも実はなるな」
と怨嗟の謡を歌ったんと。ほしたら、ほれ以降、春になったら花は咲くんじゃが一つもサクランボの実を付けることはなかったんじゃと。呪いのパワーはおとろしいねぇ。桜はその後千原銅山の煙害などで殆ど枯死し、この桜がそのとき植えられたものかどうかは定かじゃないらしいんじゃが、推定樹齢300年以上ということは間違いなさそうな位、桜にしてはぶっとい幹。春んなったらもいっぺん来てみたいもんじゃ。


(7)道標
・「金毘羅大門より二五里」と記されている。単純計算で25里×4km/里=100kmっちゅうことかね。金毘羅さんはやっぱり遠い。


(8).その他行き損ねた(所在を掴めなかった)所
●あけぼの橋跡
・施工:茶屋、炭屋、酒屋、笠屋


3.松山への帰り道

(1).高速道路に並走して
元来た道を引き返すのはどうも性に合わん。断固として国道11号線を引き返したくないっちゅう思いが沸沸と沸いてくる。
丁度、旧金毘羅街道桜三里の終点桧皮峠っちゅうのも見ておきたいということで、11号線の北っ側の道を西進して帰ることにしたんよ。
途中は砕石場があるんか、ダンプカーは多いし、土埃で木々も白く薄汚れておるんで、何となく気分が悪かった。自然派志向の人は泣いて悲しむような風景じゃ。
それはともかく、しばらく走ると高速道路に並行して走るようになった。普段はただ通過するだけの高速道路もこうやって立ち止まって眺めてみると、時折いい顔を見せるんよね。
金払って急いでどっかへ行くのもいいけど、金など払わずのんびりと普段見慣れない光景を楽しみながらぼちぼち行くのもええと思うよ。



(2).荒神堂
川内町には結構「茶堂」が現存しておる。ワシの生まれた野村町や隣町の城川町にも相当な数の茶堂が存在しとった。子供の頃は、よくお堂でお菓子を食べたり、ゲームをしたりしたもんじゃ。雨露凌げて大騒ぎしても誰にも怒られん、とっておきの場所じゃったね。何となく懐かしさを覚えらい。


(3).森正八幡神社
社叢林が立派で、青々とした樹木が林立している。
  • この辺りから東を眺めると、冠雪した石鎚の姿がとても美しく目に映る。澄んだ青空その白さを際立たせている。とても神々しく見えるのだ。
  • トップページ

    インデックスに戻る


    ご意見・ご感想は

    kotaro@a1.mbn.or.jp

    kotaro@kotaro-iseki.net

    まで