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![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 愛南町 (旧・城辺町) |
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城辺
(愛南町城辺甲) (愛南町城辺乙) |
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緑
(愛南町緑丙) (愛南町緑乙) (愛南町緑甲) |
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岩水
(愛南町岩水) |
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敦盛
(愛南町敦盛) |
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柿ノ浦
(愛南町柿ノ浦) |
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大浜
(愛南町大浜) |
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中玉
(愛南町中玉) |
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僧都
(愛南町僧都) |
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垣内
(愛南町垣内) |
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脇本
(愛南町脇本) |
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蓮乗寺
(愛南町蓮乗寺) |
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深浦
(愛南町深浦) |
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鯆越
(愛南町鯆越) |
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古月
(愛南町古月) |
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久良
(愛南町久良) |
にっぽんかわうそ保護区【城辺町
黒崎鼻】
・国指定天然記念物。イタチ科に属する夜行性の肉食動物。僧都川の上流に多くいたといわれる。
・乱獲され、絶滅の危機にさらされている。黒崎鼻などにわずかに生息していると推測されている。
万福寺のイヌマキ【城辺町深浦 万福寺】
・県指定天然記念物
常盤城跡【城辺町矢野町】
・町指定文化財[史跡]
緑の千人塚【城辺町緑 智恵光寺】
・町指定文化財[史跡]
・天正11年(1583)、土佐の長宗我部軍の御荘侵入により緑城が落城したときに、南予軍と長宗我部軍双方の戦死者を葬ったものと云われている。
・町指定文化財(史跡)
・五輪塔は花崗岩で出来ており、大きいもので117cmの塔高がある。全部で50基余り立ち並んでいる。(五輪塔の数は115基との説もある。その真偽を自分の目で確認せねば!)
・「緑の智恵光寺境内にあり、長さ8.7m・幅4.5m・高さ2mの長方形の台地の上に115基の五輪の塔がある。これは、大洪水で死んだ農民の墓だという説もあるが、天正年間、土佐の長宗我部軍によって落城した緑城の大激戦で、双方の出した多くの戦死者を葬った墓だといわれている」(愛媛の観光、昭和49年)
阿弥陀如来【城辺町
蓮乗寺】
観世音菩薩【城辺町
蓮乗寺】
大森城跡【城辺町城辺(中町)】
・町指定文化財[史跡]
緑城跡【城辺町緑】
・町指定文化財[史跡]
・常盤城の支城。弓削山にある。
・高さ約100m、周囲約1000mで、三段になっていた。
天嶬鼻遺跡【城辺町久良】
・町指定文化財[史跡]
・池の谷海岸の畑の中から布目文土器、土師器が出土した。
三島が岡遺跡【城辺町 城辺三島団地】
・町指定文化財[史跡]
・海抜40mの海岸段丘上にある。
・弥生時代〜古墳時代の土師器が出土した。
梶郷駄場遺跡
豊田窯跡【城辺町豊田】
・町指定文化財[史跡]
・御荘焼の久治兵衛が緑から移った所。
緑窯跡【城辺町緑】
・町指定文化財[史跡]
・御荘焼の久治兵衛が御荘から去り、ここに窯を築いたという。
・後に弟子である早崎に窯を譲った。
僧都の一里塚跡
・町指定史跡
・藩政時代の一里塚跡。
・宿毛街道の要地、僧都の一里塚として植えたのが二本松であった。
能山おどり【城辺町久良】
・町指定無形民俗文化財
僧都の伊勢踊り【城辺町僧都】
・無形民俗文化財(昭和57年12月3日)
能山様の大銀杏【城辺町久良】
・町指定天然記念物
二本松【城辺町僧都】
大くす【城辺町久良】
緑庄屋屋敷・尾崎家
・藩政期の緑庄屋、尾崎家の屋敷。
・本宅は天明元年の建築と伝えられている。茅葺であるが、現在はトタンで覆われている。
チョウナづくりの家
・町指定民俗文化財
・柱を全部、手斧で削った、一室住居の典型的な民家。
御荘焼
・町指定民俗文化財
・昭和36年に「陶説」96号に二神彰治郎が「御荘焼に関する一考察」として発表し、全国的に、「御荘焼」の名が認められるようになった。それまでは、長月焼、緑焼、また、久治兵衛焼、喜内焼と呼ばれていた。
猿越城【城辺町緑】
「緑村に在り。御庄殿時々居城す(郡録)」(伊豫温故録)
今木城【城辺町城辺】
常盤城跡【城辺町矢野町】
・町指定文化財[史跡]
・現在の諏訪神社に位置する。(諏訪山、標高35m)
・永正年間、南郡領主・勧修寺基明が本城として築いた。
・別名「亀城」「堀之内城」とも呼ばれた。天正年間の長宗我部軍侵攻にもなかなか落城せず、内偵で調べてみると堀の中にいる亀が頭を上げ下げするのに呼応して城も浮き沈みするため城壁を登ることができなかったのである。その亀を捕まえて殺すと、難攻不落の城もあっけなく落ちたのだ。
亀城の井戸と不老の池
鳶巣(とびのす)城【城辺町古月】
・勧修寺氏の枝城の一つ。
・天正十一年落城。
大森城跡【城辺町城辺(中町)】
・町指定文化財[史跡]
・常盤城の支城。
・大森山山頂。
・一本松町の猿越城が見えるようにと切り開かれた人工の開削跡がある。
緑城【城辺町緑】
・弓削山山頂。
一夜城【城辺町長野】
・長野山山頂。
・長曽我部軍が築いた向城。
・一晩のうちに築き上がったので一夜城と呼ぶ。
平城貝塚【城辺町】
・縄文時代後期の遺跡
・出土した土器の形式は九州と共通したものがある。
梶郷遺跡【城辺町】
天峨鼻遺跡【城辺町久良】
・町指定文化財[史跡]
・池の谷海岸の畑の中から布目文土器、土師器が出土した。
三島が岡遺跡【城辺町 城辺三島団地】
・町指定文化財[史跡]
・海抜40mの海岸段丘上にある。
・弥生時代〜古墳時代の土師器が出土した。
梶郷駄場遺跡
・縄文前期の中津川式1、2類の土器が発見された。
![]() ・百合若大臣が飼っていた緑丸という鷹が落ちて死んだ場所であるという。 「緑村に在り。傳へ云ふ。ゆりわか大臣の飼はせられたる緑丸と名付くる名鷹出たり。此鷹おちて此所に緑丸の宮とて社を立てられたりといふ跡あり。此山は二三十間四方の小山なり。尤岩たきも有木もあれども山の廻りは皆畑なり(舊記)」(伊豫温故録) ※「緑」の地名の由来を説明するものだろうか?百合若と緑丸の伝説は、山形県八幡町にも伝えられている。ここには「緑丸の碑」というのがあるらしい。百合若は瀬戸内海で海賊退治をしていたとか、豊後の国司を勤めたというから、案外城辺町にも立ち寄ったのかもしれない。 |
御荘焼陶祖久治兵衛の墓【城辺町緑】
尾崎庄屋の家【城辺町緑】
・「緑の岡部落にある旧緑村の庄屋尾崎家は、文政二年(1829)名字帯刀がゆるされていた尾崎家初代の庄屋尾崎正右衛門本蔵が建てたといわれ、430坪余りの屋敷内に、100坪ほどの茅葺の居家と、これをとりまく70坪の長屋、土蔵まで、ほぼ完全な姿で残され、県下でも稀にみる庄屋屋敷の構えである。」(愛媛の観光、昭和49年)
弘誓寺【城辺町久良】→愛南町久良1446
西光寺【城辺町深浦】
少林寺【城辺町城辺】→愛南町城辺甲3690-1
・「城辺村にあり。禅宗。御庄殿より寺領五十貫寄附あり。再度焼失によって開基不詳。御庄殿二代目位牌所に左馬頭位牌とてあり。後には讃岐守ともいひたる哉。左の如し。.....(以下略)」(伊豫温故録)
真宝寺【城辺町城辺】→愛南町城辺甲2267-1
智恵光寺【城辺町緑】→愛南町緑乙3263
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徳正寺【城辺町深浦】
保眼院【城辺町城辺】
高野山佛眼院【城辺町城辺】→愛南町城辺甲1826
蓮乗寺【城辺町】
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万福寺(萬福寺)【城辺町深浦】→愛南町深浦385
![]() ・県指定天然記念物 |
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真法寺【城辺町城辺2267-1】
・宗派:浄土宗
・永仁3年(1295)以前、心寂により開基された。
・この地は京都青蓮院門跡(天台門跡)の荘園であったため、御荘と名付けられた。御荘に派遣されていた荘官定尋が、当地巡錫中であった心寂を招聘した。
・勧修寺氏の外護によって栄え、御荘浄土宗の本寺であった。
・「城辺村にあり。御庄中浄土宗の本寺なり。御庄殿より寺領五十貫寄附あり。開基心寂上人位牌の裏に永仁3年3月3日とあり」(伊豫温故録)
・「古町にあり、鳥龍山真宝寺と号し、本尊は阿弥陀如来、開基は定尋和尚、京都智恩院の直末寺で御荘地方浄土宗の本寺である。境内にある枝垂れ桜の老樹や老松で知られている。」(愛媛の観光、昭和49年)
大畠大明神【城辺町城辺】
大山住神社【城辺町中玉】
諏訪神社【城辺町城辺】→愛南町城辺甲矢の町1782
1998/10/9
・「城辺村にあり。御庄殿より社領五十貫寄附あり。永正3年3月17日承賢子息助賢・能寛・能憲の棟札あり。又永禄4年卯月5日兵庫頭藤原冬顕子息左馬頭定顕の棟札あり」(伊豫温故録)
蘇家神社【城辺町深浦】
滝宮神社【城辺町脇本】
・祭神:豊玉姫命
・「日向灘の滝宮の神が出雲に行く途中、脇本に渡り、その後、浜に住みつくようになった」(奥の伊予路、愛媛新聞社)
白山神社【城辺町岩水】
白山神社【城辺町脇本】
三島神社【城辺町城辺】
・「城辺村に在り。御庄殿より社領三十貫寄附あり。永正2年11月15日大願主法眼承賢法眼能寛の棟札あり」(伊豫温故録)
→棟札を寄進した人物名を見ると、諏訪神社、愛宕神社の棟札にも現われる人物である。
若宮神社【城辺町久良】
若宮神社【城辺町僧都】
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愛宕神社【城辺町城辺】
・「城辺村に在り。御庄殿より社領三十貫寄附あり。左馬頭基詮嫡子基賢の棟札あり。清良記には左馬頭兵庫頭は上家になりし時は聟の九条大納言殿を便り京着とあり」(伊豫温故録)
地主神社【城辺町僧都】
・「僧都村に在り。上岡道近を祭る」(伊豫温故録)
羽子山【城辺町/一本松町】
・標高 730m
観音森【城辺町】
・標高 779m
・「標高779mの山頂には、朽ち果てた祠と明治32年3月18日と刻まれた観音の石像がある。いつの頃からか向い山の風神様とならんで水神様と呼ばれて、農耕の神として崇められ、かんばつの時は農民が集まり雨乞いをしその恵をうけたという。
またこの山は『出ベソ山』ともいわれ、その変った形を宇和海の漁師は漁場の目標とし、漁があればここを訪れたといわれている。」
白石山【城辺町】
・標高 647.6m
「城辺町西柳にあり、焼物に使う白い石が多く出ていたところから、白石山と呼ばれたという。標高648mの山頂からの眺望は、宇和海のパノラマを見るように美しく、特に海岸線美がみごとである。藩政時代の宿毛街道がこの山腹を通り、大岩道越といわれ、大正初期までの城辺と僧都を結ぶ街道であった。」(愛媛の観光、昭和49年)
大森山【城辺町城辺】
・標高 134m
・大森城があった。※「史伝の人とその周辺」には高さ60mとある。大森城があった大森山とは異なるのかもしれない。
長野山【城辺町長野】
・一夜城があった。
弓削山【城辺町】
・緑城があった。
諏訪山【城辺町】
・標高約35m。
大久保川
・僧都川上流
西柳川
山出川
蓮生寺川
僧都渓谷【城辺町山出】
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大久保渓谷【城辺町大久保】
・僧都川支流大久保川
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オオヒカリ滝
コヒカリ滝
コンコロの滝
![]() ・高知県境にある巨岩。 |
当木島(あてぎじま)【城辺町久良】
・天嶬鼻の南方沖合い約3kmの島
・ハマユウ・ハマゴウ・ウバメガシ・マルバシャリンバイ等の亜熱帯植物が群生する。
天嶬鼻(てんぎのはな)【城辺町久良】
・えひめ自然百選
・足摺宇和海国立公園
・南予十景
・南予百景
![]() ・東経132°32' 9''、北緯32°55' 38'' ・海抜70m ・昭和28年2月14日より点灯。 |
![]() ・県指定史跡 |
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僧都の大タブ【城辺町僧都中組】
・僧都中組 の下屋敷の上にある。
・根回り6m、目通り4.5m、樹高27m
・樹齢約250年。
二本松【城辺町】
・天然記念物(昭和39年9月10日指定)
・寛文12 年に一里塚として植えられた黒松で、地上7mのところで二つに分かれており、北側が根回り7.5m・目通り4.7m、南側が根回り8.1m、目通り6m、樹高
約30mに及ぶ巨木であったが、松食い虫にやられて枯死・伐採された。
観音ツバキ【城辺町】
・観音森への登り道三合目の川田家の庭にある山ツバキ。
・根回り4.2m。8本に分かれていて、大きいものは2.5mあり、1m以上のものが3本ある。
・推定樹齢500年。
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大森山児童公園
・昭和50年3月完成。南レク都市整備事業により建設された。 |
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![]() ・高野山仏眼寺境内を起点・終点とし、大森山を周遊するミニ四国 |
南レク城辺公園キャンプ場【城辺町】
諏訪公園【城辺町北裡】
・城辺の中心地、「諏訪の森」にある。
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不老公園【城辺町】
![]() 「城辺の中心地より1.5km長野中の谷にあり、広さ2万平方メートル余、周りには数百本の桜が植えられ春は花見客でにぎわる。また水面に映える松の緑や水辺に遊ぶ水鳥など、静かな憩いの場である。 なお今年1月北アメリカ産の淡水魚ブルーギルの稚魚を放流、生育をまって釣り堀にする計画もある」(愛媛の観光、昭和49年) |
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山出憩いの里公園【城辺町山出】
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![]() ・岩風呂、家族風呂、食堂、研修室などがある。 |
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南レク城辺つつじまつり
・4月下旬
南レク城辺杯高校サッカー大会
・5月上旬、南レク公園城辺芝球技場で開催される。
・国立競技場の常連校が集う。
城辺かつお&さつきフェア
・5月下旬
★イメージキャラクタの少年はどうみてもサザエさんに出てくる磯野カツオのパクリとしか思えない。(ねじりはちまきに法被姿といういでたちであるが)
カラオケ大会【城辺町深浦地区】
・'97年で11回目。6月に行われる。
・午前中に魚供養祭が行われる。リンゴン様と呼ばれ親しまれている、深浦漁協近くの龍王様で神事が行われ、その後、ヒラメの稚魚放流が行われる。
・夕方からカラオケ大会が行われる。
城辺夏まつり
・8月1日〜2日
ジャズin南レク
・8月中旬に大森山キャンプ場で開催される。
ふれあい広場城辺
・10月下旬
秋まつり
・11月3日
![]() ・大浴場、家族風呂、ふれあいホール、食堂、交流室・研修室 |
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大久保冷泉
![]() ・真浦の古木庵といわれる薬師堂に石碑がある。 ・その石碑には、天文16年4月9日、顕徳院殿能山祐賢大居士神儀と刻まれている。 ・この法名は、勧修寺左馬頭基詮のものと伝えられている。 ・戦国の頃、土佐の長曽我部元親が、伊予路へ度々侵入してきた。天正11年(1583)2月、長宗我部勢は、 御荘の豪族、勧修寺左馬頭基詮の常盤城を攻撃した。この合戦は1ヶ月にも及び、食糧が尽きと うとう落城した。城主基詮は逃れて久良に隠れ住み、この地で亡くなったという。 ・この基詮をまつったのが「能山様」である。 |
![]() ・町指定天然記念物 ・基詮が落ちて延びてくる時に、杖にしていた枝を逆さに地面に突き刺したものが成長して、 現在の大銀杏になったと伝えられる。 ★弘法大師の湧水伝説や新田義貞の御杖椿伝説に相通ずるもんじゃね。 |
![]() ・町指定無形民俗文化財 ・地元有志による伝承芸能(念仏おどり)で、真浦の古木庵で7月31日〜8月14日に開催される。 ・400年以上の歴史を持つ。 ・能山公が臨終のときに和歌を詠み、「集落が3軒になるまで踊り続けて欲しい。そうすれば浦を悪疫から守る」と告げたという伝説に基づく。 |
槍松と首切れ馬【城辺町中玉】
源平合戦に敗れた平家の落人がこの地に隠れ住んでいたが、追捕の兵に見つかり、今はこれまでと、
大きな松の木に、槍を投げ捨てたところ、この槍が松の木にささった。それ以来、
この松を槍松と呼ぶようになったという。
それから暫くして、この槍松の辺りを首のない馬が夜な夜な走りまわるようになった。
この奇怪な出来事に、部落の女や子供達は家から出なくなり、困った村人達は相談の結果、
この地にお地蔵様を建て馬の霊をまつった。それ以来、首切れ馬は姿を見せなくなったという。
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岩水【城辺町岩水】
昔、三間の豪族、沢近駿河守時定が、土佐の長宗我部元親に追われてこの地に移り住んだといわれ、
昔の記録に「清水ふく大岩のもとにすまいとり」とあり、この大岩は、現在も岩の上に清水を頌えている。
このことから、この地を「岩水」と呼ん でいる。
一説には、岩水市左衛門という武将の居住地であったことから、この呼び名が生まれたとも言われている。
しんどの坂【城辺町】
天正11年(1583)土佐の長宗我部元親の軍勢が御荘の常盤城を攻め、城に火を放った
ため常盤城は落城し、城主基詮は久良に逃れる途中、重い鎧・兜を身につけて、険しい鳥越の坂を歩いて登ったので「しんどい、しんどい」と言い続けたという。
部落の人は今でも、この坂を「しんどの坂」と呼んでいる。
エガ様【城辺町北裡】
友岡様【城辺町】
・昔、疫病が流行して多数の死人を出した。
・その疫病封事として、現在では青年団がお礼を配り演芸会を行っている。
海からあがった観音様【城辺町深浦奥前】
亀城の井戸と不老の池【城辺町中谷】
→不老池
えんこう皿【城辺町緑】
承応年間のことである。緑村の庄屋・二神十兵衛の妻女が用を足しに僧都川にいくと、二人の子供が水遊びをしていた。日暮れでもあり、妻女がその二人を背負って帰ろうとするのだが、どうにも逃げようとする。わけを尋ねると、人間の子供ではなく猿猴(えんこう=河童)の子だという。
「あんたらがこの辺でイタズラぎりしよる河童か!」と戒めると、猿猴は「もうイタズラもせんし、子供が川で溺れよったら助けちゃるけん」と言って去っていった。
次の朝、妻女が軒下をみると沢山の魚が釘に引っかけられていた。そして一枚の皿も置いてあった。その日を境に、毎日魚が献上された。
ある日、もっと沢山の魚を貰おうと、妻女が大きな鹿の角を軒に取りつけた。するとその日から猿猴は魚を持って来なくなった。河童は鹿の角が苦手なのである。
この猿猴の持ってきた皿は「猿猴皿」と名付けられ、二神家の家宝として保存されていたらしいが、現在は消息不明である。(県外流出?)
妻女は「猿猴ばあさん」と呼ばれていた。妻女の墓は観音寺裏山の墓地にあり、墓碑には「延宝三年(1675)正月晦日死亡、三鏡妙前大姉」という戒名が刻まれている。
ちょうなづくりの家【城辺町僧都】
僧都の伊勢踊り【城辺町僧都】
・無形民俗文化財(昭和57年12月3日)
・江戸初期の流行の際に土佐藩多地方から伝えられた。 男の子6人が藩政時代より伝わる麻の長袖を着て、化粧をし、幣と扇を持って踊りを踊る。歌は、太鼓、縦笛、鼓(つづみ)に合わせて歌う。
・11月3日に若宮神社で奉納される。(戦前は11月1日初柳の日)
高知県との県境争い
・正保3年(1646)頃〜明治7年