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こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 西予市 (旧・宇和町) |
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市町村概要
・宇和盆地には約160基の古墳が確認されており、県下有数の古墳群集地帯である。
町の花 | 町の木 | 町の花木 | 町の鳥 |
レンゲ
(昭和49年制定) |
ヒノキ
(昭和49年制定) |
アマゴの甘露煮
明間茶
ぶどう
いもたき
皿鉢料理
みがらし味噌
・「伊予国宇和郡」
14. 古代ロマンの里創世記 ボリュームワン ほか
■宇和地区
宇和町は、周囲を400〜800mの連山山脈に囲まれた山間盆地のため、冬の寒気はきびしく夏は冷涼で「伊予の軽井沢」と呼ばれています。県下有数の穀倉地帯として知られ、広い水田を生かした米作りと施設園芸(イチゴ・ブドウ・花き等)が展開されています。また、昔の家並みが残っており、当時の文化興隆を今に伝えています。
【由 来】「うわ」という地名は、律令時代からの伊予国宇和郡の呼称といわれていますが、由来は定かではありません。
【現 在】現在の宇和地区は、昭和29年3月31日、多田村・中川村・石城村・宇和町・田之筋村・下宇和村の1町5村が合併して誕生しました。また、昭和33年には、大洲市の一部(鳥坂・正信)を編入して現在に至っています。
〈中町の町並み〉江戸末期から明治初期の建物が多く残る「中町(なかのちょう)」は、在郷町・宿場町として栄え、その名残が今も息づいている。
〈高野長英の隠家〉脱獄逃亡中の長英が、二宮敬作を頼って卯之町を訪れた際に身を隠した家。現在2階部分だけが保存されている。
〈申義堂〉明治2年に向学心に燃える地元の人々によって自発的に建てられた私塾である。
〈四国88ヶ所第43番札所「明石寺」〉季節を問わず、多くのお遍路さんが訪れる。また、昔からお遍路さんへのお接待が続けられている。
(広報せいよ、2004年8月号)
・明治11年郡区町村編成法により宇和郡の郡役所を卯之町に設置した。
・昭和29年3月31日:宇和町、多田村、中川村、岩城村、田之筋村、下宇和村が合併。
・昭和33年:大洲市の一部(鳥坂、正信)を編入
大字 | 字 |
明間(あかんま)
(西予市宇和町 明間) |
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明石(あげいし)
(西予市宇和町 明石) |
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伊賀上(いがじょう)
(西予市宇和町 伊賀上) |
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伊崎(いさき)
(西予市宇和町 伊崎) |
※昭和34年、大字田之中より分離して設置 |
伊延(いのべ)
(西予市宇和町 伊延) |
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稲生(いのう)
(西予市宇和町 稲生) |
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岩木(いわき)
(西予市宇和町 岩木) |
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卯之町(うのまち)
(西予市宇和町 卯之町一丁目〜五丁目) |
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大江(おおえ)
(西予市宇和町 大江) |
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岡山(おかやま)
(西予市宇和町 岡山) |
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小野田(おのだ)
(西予市宇和町 小野田) |
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小原(おばら)
(西予市宇和町 小原) |
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皆田(かいだ)
(西予市宇和町 皆田) |
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上松葉(かみまつば)
(西予市宇和町 上松葉) |
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加茂(かも)
(西予市宇和町 加茂) |
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河内(かわち)
(西予市宇和町 河内) |
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清沢(きよさわ)
(西予市宇和町 清沢) |
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窪(くぼ)
(西予市宇和町 窪) |
※昭和34年、大字田之中より分離して設置 |
久保(くぼ)
(西予市宇和町 久保) |
鳥坂(とっさか) |
郷内(ごうない)
(西予市宇和町 郷内) |
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坂戸(さかど)
(西予市宇和町 坂戸) |
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下松葉(しもまつば)
(西予市宇和町 下松葉) |
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常定寺(じょうじょうじ)
(西予市宇和町 常定寺) |
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新城(しんじょう)
(西予市宇和町 新城) |
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瀬戸(せと)
(西予市宇和町 瀬戸) |
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神領(じんりょう)
(西予市宇和町 神領) |
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田苗真土(たなえまつち)
(西予市宇和町 田苗真土) |
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田野中(たのなか)
(西予市宇和町 田野中) |
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永長(ながおさ)
(西予市宇和町 永長) |
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西山田(にしやまだ)
(西予市宇和町 西山田) |
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野田(のだ)
(西予市宇和町 野田) |
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信里(のぶさと)
(西予市宇和町 信里) |
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東多田(ひがしただ)
(西予市宇和町 東多田) |
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久枝(ひさえだ)
(西予市宇和町 久枝) |
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下川(ひとうかわ)
(西予市宇和町 下川) |
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ひまわり
(西予市宇和町 ひまわり) |
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平野(ひらの)
(西予市宇和町 平野) |
※昭和34年、大字田之中より分離して設置 |
杢所(もくしょ)
(西予市宇和町 杢所) |
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山田(やまだ)
(西予市宇和町 山田) |
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れんげ
(西予市宇和町 れんげ) |
●卯之町(うのまち)
・藩政時代、宇和島藩の在郷町・宿場町として栄えた。
・幕末にはシーボルトの高弟二宮敬作が医業を開き、洋学者高野長英やシーボルトの娘、楠本イネが訪れた。
・この一帯は昭和48年、愛媛県から「宇和文化の里」に選定された。
・天正年間末に西園寺氏が居城を松葉山から黒瀬山に移したとき、山麓の鬼窪村に町を作ったのが始まりである。慶安4年(1651)、町並みを現状の中ノ町に移した。この時、火災に関係の深い「松葉」の名前を、水と縁の深い「鵜之町」に変え、後に卯之町に改めたという。また、改名の年が辛卯(かのとう)の年であったため、卯之町にしたとか、卯之日(毎月4,14,24日)に市が立ったので卯之町にしたとか諸説ある。
旧開明学校(かいめいがっこう)校舎(1棟)【宇和町卯之町3丁目】
1997
・行ってみよう!えひめ感動の地20選
・国指定重要文化財[建造物](平成9年(1997)5月29日指定)
・明治5年(1872)の学制発布により創設され、当初は申義堂を校舎とした。
・現在の校舎は明治15年(1882)に建てられた(棟梁:都築熊吉)もので、舶来のガラスを用いた、フランス風のハイカラな校舎は、当時非常に珍しいものであった。
・現在館内には3,000冊余りにも及ぶ教科書、掛図、帳簿類など、開明学校を前身とする宇和町小学校に保存されていた貴重な教育資料が展示されている。
・木造2階建て、延べ面積366m2。
・白壁に洋風のアーチ形の窓を備えたモダンな校舎。
・現存する木造校舎では西日本最古である。
・昭和62年、長野県松本市の旧開智学校(重要文化財)と姉妹館提携を結んだ。
・開館時間: 9:00〜17:00
・休館日:月曜 (月曜日が祝祭日、振替休日の場合は火曜日)
・料金:大人200円、小人100円
開明学校の松
紙本墨書歯長寺縁起(1冊)【宇和町伊賀上
歯長寺】
・国指定有形文化財[書跡・典籍・古文書](昭和11年5月6日指定)
木造阿弥陀如来坐像(1躯)【宇和町小野田
極楽寺】
・県指定有形文化財[彫刻](昭和32年12月14日指定)
絹本著色熊野曼荼羅図(1幅)【宇和町明石
明石寺】
・県指定有形文化財[絵画](昭和40年3月29日指定)
絹本著色虎関師錬像(1幅)【字和町常定寺
常定寺】
・県指定有形文化財[絵画](昭和40年3月29日指定)
絹本著色回塘和尚像(1幅)【字和町常定寺
常定寺】
・県指定有形文化財[絵画](昭和40年3月29日指定)
金幣(1振)【宇和町卯之町
三島神社】
・県指定有形文化財[工芸品](昭和23年10月28日指定)
高野長英隠れ家【宇和町卯之町3丁目】
1998
・県指定史跡(昭和60年2月15日指定)
天保時代の卯之町全景図【宇和町】
・町指定文化財[絵画](昭和52年7月18日指定)
・光教寺境内の仏堂を1番札所として、裏山一帯に亘るミニ八十八ヶ所霊場を図示する目的で描かれた。
・筆者不詳。
・宇和町小学校所蔵。
※以上、広報宇和第279号より引用。
十二天画幅【宇和町 福楽寺】
・町指定文化財[絵画](昭和58年12月9日)
大師堂【宇和町四道】
・町指定文化財[建造物](昭和58年12月9日)
建造物鳥居門、御成門【宇和町】
・町指定文化財[建造物](昭和62年6月11日)
鰐口【宇和町四道】
・町指定文化財[工芸品](昭和58年12月9日)
熊野本地懸仏【宇和町権現講】
・町指定文化財[工芸品](昭和62年3月27日)
須弥壇、台座【宇和町 善福寺】
・町指定文化財[工芸品](昭和62年6月11日)
西林寺阿弥陀堂内厨子【宇和町 西林寺】
・町指定文化財[工芸品](昭和62年6月11日)
西林寺阿弥陀堂内光背【宇和町 西林寺】
・町指定文化財[工芸品](昭和62年6月11日)
中広銅矛【宇和町 祇園神社】
・町指定文化財[考古資料](昭和30年12月16日指定)
平形銅剣【宇和町 観寂寺】
・町指定文化財[考古資料](昭和30年12月16日指定)
金環【宇和町】
・町指定文化財[考古資料](昭和30年12月16日指定)
環頭柄頭【宇和町】
・町指定文化財[考古資料](昭和40年12月15日指定)
土器【宇和町】
・町指定文化財[考古資料](昭和30年12月16日指定)
弥生式土器【宇和町】
・町指定文化財[考古資料](昭和30年12月16日指定)
石斧【宇和町】
・町指定文化財[考古資料](昭和30年12月16日指定)
高坏【宇和町】
・町指定文化財[考古資料](昭和30年12月16日指定)
盆【宇和町】
・町指定文化財[考古資料](昭和30年12月16日指定)
はそう【宇和町】
・町指定文化財[考古資料](昭和30年12月16日指定)
横瓶【宇和町】
・町指定文化財[考古資料](昭和30年12月16日指定)
蕨手刀【宇和町】
・町指定文化財[考古資料](平成6年5月13日指定)
薬師如来坐像【宇和町 福楽寺】
・町指定文化財[彫刻](昭和40年12月15日指定)
阿弥陀如来坐像【宇和町 妙法寺】
・町指定文化財[彫刻](昭和40年12月15日指定)
毘沙門天【宇和町 福楽寺】
・町指定文化財[彫刻](昭和58年12月9日指定)
薬師如来坐像【宇和町 善福寺】
・町指定文化財[彫刻](昭和58年12月9日指定)
阿弥陀如来立像【宇和町 大安楽寺】
・町指定文化財[彫刻](昭和62年6月11日指定)
阿弥陀如来坐像【宇和町 西林寺】
・町指定文化財[彫刻](昭和62年6月11日指定)
大般若経【宇和町 神久寺】
・町指定文化財[典籍](昭和30年12月16日指定)
陣旗【宇和町 大安楽寺】
・町指定文化財[歴史資料](昭和62年6月11日指定)
申義堂記【宇和町】
・町指定文化財[歴史資料](平成6年7月14日指定)
開明学校扁額【宇和町】
・町指定文化財[歴史資料](平成6年5月13日指定)
傍示石【宇和町】
・町指定文化財[歴史資料](昭和63年11月22日指定)
二宮敬作住居跡【宇和町卯之町3丁目】
・町指定文化財[史跡](昭和30年12月16日指定)
・宇和島藩主・伊達宗紀が、幕府の罪人であった二宮敬作を城下から外れたこの地で医院を開業・住まわせた。
小森古墳【宇和町山田】
・町指定文化財[史跡](昭和30年12月16日指定)
樫木駄馬古墳【宇和町坂戸】
・町指定文化財[史跡](昭和49年12月9日指定)
谷ヶ内古墳【宇和町小野田】
・町指定文化財[史跡](昭和49年12月9日指定)
粟尻1号墳【宇和町山田】
・町指定文化財[史跡](昭和49年12月9日指定)
東大谷古墳【宇和町岩木】
・町指定文化財[史跡](昭和49年12月9日指定)
河内奥ナルタキ古墳(1号墳)【宇和町岩木】
・町指定文化財[史跡](昭和49年12月9日指定)
妙法寺裏山古墳【宇和町田苗】
・町指定史跡(昭和49年12月9日指定)
松ノ本古墳【宇和町田苗】
・町指定文化財[史跡](昭和49年12月9日指定)
大洲藩鳥坂口留番所跡【宇和町】
・町指定文化財[史跡](昭和58年12月9日指定)
申義堂【宇和町】
・町指定文化財[史跡](昭和59年5月16日指定)
宇和町小学校講堂【宇和町】
・町指定文化財[史跡](昭和62年3月27日指定)
宇和町小学校第2
校舎【宇和町】
・町指定文化財[史跡](昭和62年3月27日指定)
宇和町小学校第1
校舎【宇和町】
・町指定文化財[史跡](昭和62年3月27日指定)
善福寺薬師堂【宇和町 善福寺】
・町指定文化財[史跡](昭和62年6月11日指定)
末光家住宅【宇和町卯之町中町】
5. 市指定文化財「末光家住宅(当主・末光大祐氏)」の修復完了 ほか
■市指定文化財末光家住宅の修復工事完了〜見事なたたずまい披露
宇和町卯之町中町(なかのちょう)にある市指定文化財「末光家住宅」の修復工事がこのほど完了、見事なたたずまいを見せています。
今回の工事は、当主の末光大祐さんが「建築文化財修復工事を地元の建築士、技術者、技能者の手によって行うことが、愛媛の文化財を保全する最善の方法」と考えられ、愛媛県建築士会に調査や工事の指導などを委託。約2年かけ修復を完了しました。
江戸中期から昭和初期の建物が立ち並び、白壁など伝統的な建築様式が残る中町の町並み。幕藩時代には宇和島藩の在郷町として栄え、二宮敬作、楠本イネらも往来した通りとして知られています。末光家住宅は、その中で最も古く、町並みに欠かせない建物です。
現存する主屋は明和七年(1700年)に建築されたもの。間口は八間(約16b)で、奥行きは6.5間(約13b)。明治28年(1895年)ごろに大規模な改築、改修が行われていますが、柱などの構造、壁、屋根は建築当初の様式をよく伝えています。
間取りと表構えは明治28年ごろを基本に修復。
屋根は、景観を損なわないよう再利用できる瓦はできるだけ使用しています。構造部は、現状を基本に柱材などを補修。出入り口、建具などは保存、または使用されていたものを調整、補修し使用しています。
(広報せいよ、2004年10月号)
坂戸五ツ鹿踊り【宇和町】
・町指定文化財[芸能](昭和58年4月7日指定)
タブノキ【宇和町 春日神社】
・町指定文化財[天然記念物](昭和58年12月9日指定)
イヌマキ【宇和町 常定寺】
・町指定文化財[天然記念物](昭和58年12月9日指定)
池田屋(最進酒造合名会社)
・中町の町並みの南端に立派な屋敷門を構える家屋がある。
・この屋敷門は「鳥居門」と呼ばれ、天保5年(1834)に庄屋・鳥居半兵衛が建てたものである。
・総欅造り。門扉には鉄鋲を打ち、そりのある屋根には高々とした大きな鬼瓦があるいかめしい門。
・庄屋には身分不相応な造りであると、宇和島藩からお咎めがあったもいわれる。
この鳥居門のために、鳥居半兵衛は左遷され、後に清水家が入り、庄屋となる。清水伴三郎氏は町長となり、卯之町の小学校やキリスト教会を建てた人である。しかし清水家は3代続いた後ブラジルへ移住することになり、当時その酒蔵を借りて酒造を営んでいた渡辺さんの祖父が後に入ったという。大正時代のことである。昭和40年過ぎまでは全盛期で、造った酒を灘へ出荷していたそうである。現在は酒造はやめていて、当店の銘酒「玉川」の販売のみ行っている。造り酒屋としての「池田屋」という屋号は、鳥居家の代から使われていたようである。
・高野長英が逃亡中に二宮敬作を頼って卯之町へ来た時、この大門脇にある隠れ部屋で身を潜めたともいわれている。
ギャラリー&喫茶 池田屋
倉庫に使っていた蔵を改造して開いた喫茶店。(1999〜2000年頃) |
五ツ鹿踊り【宇和町皆田】
・五ツ鹿踊りの源流は東北地方のものであり、伊達政宗の長子秀宗が大名として宇和島に入封して以来郷国仙台地方の鹿踊りを伝えたものと云われている。南予地方各地によって多少の相違が見られ地域独自の郷土芸能になっている。
宇和神楽【宇和町明間 三柱神社】
・宇和神楽は約300年前頃から近郷に伝承されていたものを、明治初期に集大成された神楽といわれている。昭和25年頃から一時絶えていたが、昭和38年明間神楽愛好会の人々によって発足し、現在に至っている。この神楽は明間の三柱神社の春秋の祭礼に奉納される。
榜示石
@「従是西駅内卯之町」(卯之町4丁目) [天保14年癸卯七月]
A「従是南宇和島領」(卯之町2丁目)
B「従是北大洲領」(宇和町信里) ←鳥坂番所(宇和町久保)にあったものが移設された。
C「右卯之町 左八幡浜」(宇和町小原)
D「従是東駅内卯之町」
E「従是北駅内卯之町」
寿式三番叟
郷内七福神
五ツ鹿踊り【宇和町石城
小原】
「ある屋敷に隠された一頭の雌鹿を四頭の雄鹿が探しあぐねた末、芝の陰にいるのを見つけて喜び狂う」というのが物語の筋。
「清家日記」によれば、「宝歴五年九月、宇和島にて練習す」とある。
「鹿の子が生まれておちると踊りでるがせ、我等が御前におどり出るがせ」…と歌う。
(広報宇和、第31号、昭和31年11月5日)
小原の五つ鹿踊り
宇和町小原の五つ鹿踊りは、古風で宇和島から直接伝えられたとの伝承記録があり、周辺への伝播(でんぱ)の起点となったことなどが重視されている。(愛媛県調査)
小原地区の庄屋古文書によれば、「宝暦5年(1755年)9月、地区の氏神十二所神社の秋祭りに練り車をやめ五つ鹿に替える。頭取長右衛門宇和島において練習す」とあり、当時の庄屋清家久兵衛親平が天明の飢饉(ききん)のおり、地区民救済の功と30ヶ年精勤の賞として、宇和島藩主伊達侯から下賜されたものと伝えられている。(宇和町史より)
踊り手5人の扮装(ふんそう)は、かすりの着物に股引きをはき鹿面をかぶる。4色の前垂れと長短冊の背垂れを垂らし、足は白足袋にわらじがけ、腰には御幣をつける。胸には締太鼓をつけ、両手に撥(ばち)を持つ。そのうち先鹿(さきじし)は頭上に赤色の幟旗(のぼりはた)を立て、3番目の雌鹿(めんじし)には角がなく白っぽい面で、頭の赤い鳥居に紅葉の小枝をつける。警護役の2人は、縞(しま)の半纏(はんてん)に角帯をしめ、中折れ帽をかぶって杖を持つ。杖で踊り手に指示し誘導する。
演目は、太鼓のリズムだけで踊る勢揃(せいぞろ)いと道行きで始まり、序曲と小歌(回れ回れ水車…)、仲立ちねぎらい、雌鹿かくしと再会、庭見(長歌)=庭ほめ、小歌踊り、別れ=帰り(…おいとま申していざ帰ろ)などがある。踊り歌は15番まであり、全部踊ると30分もかかる。
伝播については、小原地区に伊達侯より直接下賜された後、皆田地区と坂戸地区に伝授され、皆田から新城地区と西山田地区に伝えられた。明浜町高山地区は天保2年(1831年)皆田で習い、数年後本家の小原へも習いに行っている。
三瓶町朝立の客地区は、安政6年(1859年)小原へ習いに行ったとの記録があり、小原の五つ鹿踊りを本家としている。客から浜地区へは大正10年(1921年)に伝授されている。
(以上、記・西予市文化財保護審議会委員 二宮覚)
(広報せいよ、2007年1月号)
飛鳥城跡【宇和町】
松葉城趾【宇和町】
・西園寺氏築城。
・南北朝時代に荘園を護るために築かれた。
・四方に山並みを望み、眼下には宇和盆地を一望できる絶景の地。
・松葉城跡から明石寺まで抜け穴がある?(子供のウワサ)
・古井戸、祠がある?
・山頂の松→古木?→現在枯死。
伊延城跡【宇和町伊延】
黒瀬城跡【宇和町卯之町】
・土佐の一条氏、豊後の大友氏の侵攻に備え、松葉城の出城として守りを固めるために築かれた。
・西園寺家19世・西園寺実光が工事着手。実光が病没後、その子・西園寺公家が築き上げた。
(以上、広報宇和、第33号、昭和32年1月5日)
歯長城跡【宇和町】
・足利又太郎忠綱(*1)の築城と伝えられる。
・又太郎は歯の長さが一寸もあって「歯長又太郎」と呼ばれた。
・又太郎は俵藤太秀郷(ひでさと)(*2)の末裔ともいわれる。
・長宗我部氏来襲により歯長城が落城したことに関して、「白米城伝説」(*3)が伝えられている。
(*1)てっきり愛媛の人間と思とったら、下野国の人じゃったんじゃな。
(*2)俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと):藤原秀郷。近江国三上山の大百足(むかで)を退治した話で有名。
(*3)「白米を馬の背に掛けて水と見せかけた」とされる伝説。
下木城跡【宇和町】
・宇都宮永綱が居城した。(c.f.→安楽寺蛇骨堂)
堂山城【宇和町明間】
・戦国時代末期に堂山にあった小城。
・堂山は観音水を源流とする赤川が肱川と合流する手前約300mの右岸に位置する小丘。
(以上、広報宇和、第470号、平成5年5月21日)
法華津城【宇和町】
水ヶ杜城跡【宇和町】
鵡巣城
我合城
岡城
護摩ヶ森城
土居城
岩木赤坂遺跡【宇和町岩木】
・標高約200mの平野部にある。
・5世紀後半の首長クラスの古墳と見られる。
・南予初の古墳時代初期の竪穴式住居跡が見つかった。
・県内で確認例のない構築墓壙(ぼこう)が発掘された。
岩木原田遺跡【宇和町岩木】
・弥生時代末期の土器が確認されている。
上松葉谷川遺跡【宇和町】
・古墳時代初頭の遺跡。
清沢遺跡【宇和町】
金毘羅山【宇和町清沢】
・弥生前期前半の重弧文の壷形土器などが出土している。
・周辺の狭間里(はざまり)からも重弧文の甕形土器が出土している。
・金毘羅山の南を流れる深ヶ川の河床や、河岸の横田からは、口縁の下に突帯を持つ、東九州の下条式系の弥生前期後半の土器が出土している。
城楽(じょうらく)岩陰遺跡【宇和町西山田】
田苗真土中市遺跡【宇和町田苗真土】
・弥生時代後期の土器が出土している。
・全国最大級の石包丁が出土。
永長上横田遺跡【宇和町永長】
・南予最古の弥生遺跡。(弥生前期)
西ノ前遺跡【宇和町】
〈古代ロマンの里創世記〉vol.11
市内埋蔵文化財めぐり (10)
「古代の役所はどこ?」 (宇和・西ノ前遺跡)
現在、 市役所は宇和町の卯之町にあります。
江戸時代、 南予の政治経済の中心は宇和島でした。 では古代はというと、 正確にはよく分かっていません。
よく分かってはいませんが、 現段階で最有力と目されているのが宇和町岩木の
「西ノ前 (にしのまえ) 遺跡」 です。
「西ノ前遺跡」 からは、 古代の瓦や硯
(すずり) などが出土しています。 また平成元年に旧宇和町教育委員会が実施した分布調査では、
こうした遺物の他に柱跡なども確認されました。
当時一般の住居に瓦が葺かれることはありませんでした。
瓦は役所か寺院に葺かれるぐらいです。 また、 だれもが文字を書くことができるという時代でもなく、
硯が出土したということは、 やはり役所や寺院に関わりが深いものと考えられます。
将来、 古代宇和郡の役所の場所が、
発掘によって明らかにされる日が来るかも知れません。
(広報せいよ、2005年6月号)
山田細狩遺跡【宇和町】
・南予最古の弥生遺跡。(弥生前期)
・宇和盆地には条里遺構が広く残っている。
・岩木では複弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、奈良時代の廃寺跡であると考えられている。
・藤原宮出土木簡には「宇和評小■代熟」と墨書されており、7世紀に宇和評が成立していたことが伺える。
・田苗(たなえ)、真土(まつち)、坂戸、上松葉、入宇(にゅうう)などからは弥生時代の遺物が出土している。
粟尻1号墳【宇和町山田
粟尻】
・町指定史跡(昭和49年12月9日指定)
・標高360mの山頂一帯に散在する。
・粟尻古墳小群の一つ。
・直径16mの円墳。石室全長7.5m、玄室長5m、幅2m、高さ2.6mの横穴式石室。
・ほう製珠文鏡1面、金環、銀環、ガラス製勾玉、鉄刀が出土している。
伊勢山大塚古墳【宇和町下松葉】
・直径約15mの円墳。陶質土器4点が出土している。
・6世紀後半の須恵器が多数出土している。
岩木赤坂古墳【宇和町永長】
・古墳時代中期。
大江垣内古墳【宇和町大江】
・採石工事により消滅した。
・双竜環状柄頭(そうりゅうかんじょうつかがしら)、金環2個が出土した。
大塚穴古墳群【宇和町】
・新池東丘陵上にある。12個の小さな円墳があったといわれる。
・直径6.4cmの小型の捩文鏡(ねじりもんきょう)が出土した。また、金環、銀環、銅環、勾玉、馬具、鉄刀、須恵器など多数出土している。
笠置峠古墳【宇和町岩木】
・標高411mの山頂にある高地性古墳。
・平成9年より調査開始。
・県内で初めて供え物を象った土製品が出土した。
・5世紀前半の首長クラスの古墳と見られる。
●市内埋蔵文化財めぐり (1)九州と瀬戸内をつなぐ古墳
〜笠置峠古墳 (宇和) 〜
右の写真は、標高411mの笠置峠古墳
(宇和町岩木)からみた宇和盆地です。古墳時代の初めごろの古墳は、こうした風景が見える高いところに作られることが多かったようです。運がよければ西側には九州を望むことができます。九州と瀬戸内・四国をつなぐ大事な役割を果たしていたのだと思われます。
(広報せいよ、2004年8月号)
樫木駄馬(かたきだば)古墳【宇和町坂戸
樫木駄馬】
2003/8/23
・町指定史跡(昭和49年12月9日指定)
・坂戸古墳小群の一つ。
・直径約15mの円墳。全長7.5m、玄室長3.6m、、幅1.5mの両袖形横穴式石室。
・6世紀末頃の古墳と見られる。
所在地 宇和町坂戸樫木駄馬1422 標高280m
墳丘 円墳 直径11.9m 高さ基底より4.5m 推定編年 7世紀前後 内部構造 両袖形横穴式石室 石室 主軸方向 南西 S31°E 全長7.5m 羨道 長さ3m 幅1.5m 高さ0.8m 玄室 長さ3.6m 幅1.5m 高さ1.4m 奥壁 一枚石 幅1.5m 高さ1.4m 天上石 現存4枚 最大のもの前後2.3m 宇和町には160基以上の古墳が観とめられるが、それらのほとんどは消滅した。当所の古墳は本町に残る代表的なもので、石材も大きく最も完全で美しい。昭和49年12月9日宇和町文化財史跡に指定された。なおこの谷一帯には古墳が群集し、その数49基....余ともいわれ、坂戸古墳群の名称で県下にもよく知られている。 宇和町教育委員会 |
坂戸古墳【宇和町坂戸】
2003/8/23
「この谷あいは古墳地帯で、県下で坂戸古墳群としてよく知られる。明治初期ころには70余基の古墳が数えられたというが次第にその姿を消し、現在樫木駄馬古墳が....」
天皇水の井戸
「古代には、清涼な清水のわく泉に神霊が宿ると考え、不老長寿の王水として神聖化した。泉の近辺には古墳も築かれ、この泉の側にも俗称宇和津彦古墳があった」 |
河内奥ナルタキ古墳【宇和町岩木
河内奥ナルタキ】
・町指定史跡(昭和49年12月9日指定)
・河内奥古墳小群の一つ。
・東西14m、南北16mの円墳。
ナルタキ古墳群1号墳【宇和町岩木】
・古墳時代後期の築造と考えられる。
・直径約12mの円墳。
・2004年8月の発掘調査で、墳丘下部に一抱え大の石を積み重ねた石垣状外護施設が確認された。
・石室からは、ガラス玉、刀装具、鉄器片などが見つかった。
(→See.愛媛新聞、2004/8/28)
古代ロマンの里創世記vol.2
●発掘調査のお知らせ〜「ナルタキ古墳発掘調査を見に行こう!」
今年も暑い暑い夏がやってきました。夏といえば、今や西予の風物詩ともいえる(?)遺跡の発掘調査です。今年はナルタキ古墳の発掘調査と笠置峠古墳(いずれも宇和町岩木)の補足調査を実施します。夏休みの自由研究の題材に、また、生の歴史を確かめるために、より多くの方にご覧いただければ幸いです。調査は、8月9日(月)〜9月9日(木)の予定です。ぜひ一度ご覧ください。
(広報せいよ、2004年9月号)
■ 古代ロマンの里創世記
●ナルタキ古墳群発掘調査の成果報告(1)
「まるで石垣」・・・9月号で紹介したナルタキ古墳群の1号墳の調査成果を報告します。この古墳は古墳時代後期(6世紀後半〜7世紀初頭)の古墳です。今回の調査では、重厚な迫力ある石組みが見つかりました。一抱えもあるような石を古墳のそでにぐるっと巡らせています。200〜300年前に作られた笠置峠(かさぎとうげ)古墳の葺石(ふきいし)に似たところもあり、宇和の古墳の作り方になんらかの伝統があったのかもしれません。
(広報せいよ、2004年10月号)
■古代ロマンの里創世記
ナルタキ古墳群発掘調査の成果報告(2)「ナルタキ古墳は、だれの墓か?」
ナルタキ古墳群(宇和町岩木)1号墳は、墳丘以外にも石室内部の調査も行いました。その結果、須恵器、鉄製大刀、玉類などが出土しました。玉類には、ガラス小玉、空玉(うつろだま、銀製)、切子玉(きりこだま、水晶製)があります。これらは6世紀後半から7世紀初頭ごろのものです。
大刀はその形から、さまざまな装飾が施されたものと思われ、このような立派な刀をもっていることは珍しいことです。また、空玉は、2枚の銀製の薄板を加工してできたものを貼り合わせて作ったもので、高い技術が要求されます。いずれも貴重品であり、だれもが持てるものではありません。となるとナルタキ古墳は、この地域でもある程度有力な人のお墓であったと思われます。
ところで、この宇和町岩木の西の前地区からは、瓦やすずりなどが出土しており、この地に宇和評(「うわのこおり」あるいは「うわぐん」。「評」は後に「郡」となる)の役所が置かれていたといわれています。宇和評(郡)の文字は、奈良県から出土した木簡(木製の付札)にも記されており、この地の税が都へ届けられていたことが分かります。当時の役所を任されたのは地元の豪族であり有力者でした。ナルタキ古墳とは100年ほどの開きがありますが、宇和郡を治めた人達の先祖がナルタキ古墳に葬られたのかも知れません。
(広報せいよ、2004年11月号)
〈古代ロマンの里創世記〉vol.13
発掘調査のお知らせ
「ナルタキ古墳群・西の前遺跡」
(宇和町岩木)
今夏も遺跡の発掘調査を実施します。
調査するのは、 ナルタキ古墳群と西の前遺跡。 ナルタキ古墳群は、 6世紀末から7世紀はじめごろの古墳で、
飾り付きの大刀や、 ガラス製や水晶製などの玉類、 須恵器が出土しました。
また8世紀ごろの須恵器が見つかったこともあり、 当時の役所の可能性があるとされる西の前遺跡との関連性があるかもしれません。
その西の前遺跡は、 過去の調査で奈良時代の瓦などが出土しています。
愛媛大学や専門機関による地中レーダー探査でも、 地下に建物と思われる遺構が存在することが分かっています。
今年の調査ではそうした建物跡などの存在を明らかにしたいと思います。
調査は、 8月16日ごろから9月上旬まで。
ぜひ、 調査現場に足を運んで、 生の古代史に触れてみてください。
(広報せいよ、2005年8月号)
小森古墳【宇和町山田】
・町指定史跡
・標高240mの山頂にある。
・山田古墳小群の一つで、前方後円墳。
谷ヶ内古墳【宇和町小野田
谷ヶ内】
・町指定史跡(昭和49年12月9日指定)
・久枝古墳小群の一つ。
・標高240mの山腹にある。
長作森(ちょうさくもり)古墳【宇和町】
・直径8.9cmのほう製の内行花文鏡が出土している。
道仙寺古墳群【宇和町】
東大谷古墳【宇和町岩木
東大谷】
・町指定史跡
・河内奥の観音岩の北西、標高340mの山中にある円墳。
久枝大窪台【宇和町久枝(ひさえだ)】
・斜面の巨石の岩陰から銅矛32本が出土したと伝えられる。
・宇和島藩士の井関盛英が、天和元年(1681)に幕府巡見使に献じた「宇和旧記」によれば、「寛文八申年、新正月と云事はやりて、誠の正月の如く祝へり。其時、久枝村長七と云ふ者、彼正月を祝はんとて、焼物に木の根をほりに大窪台と云ふ所へ参り候て、一鍬二鍬掘り候へば、かねの音仕り候故、深く掘り見候へば、鉾五本掘り出し申候。本より此所に山王の社跡有之候故、是は山王の御ほこたるべしとて、則ち御正体にかのほこを致し、ちいさきほこらをかまへ、毎年九月十五日祭礼のかたち仕のよし」と伝える。
松ノ本古墳【宇和町田苗真土
松ノ本】
・町指定史跡(昭和49年12月9日指定)。
・田苗古墳小群の一つ。円墳(南北14m)。
妙法寺裏山古墳【宇和町田苗真土】
・町指定史跡(昭和49年12月9日指定)。
・玄室長2.5m、幅1.7mの横穴式石室。羨道長2m、幅1m。
・直径10数mの円墳と見られる。
霊神塚古墳【宇和町】
・5世紀後半のものと見られる。
・横穴式石室の一部が残っている。
・古墳上方の畑からは、陶質土器と見られる台付壷が出土している。
宇和文化の里【宇和町卯之町3丁目】
申義堂(しんぎどう)【宇和町】
・明治時代の塾舎。明治5年(1872)学制発布時に郷校として建てられた。
※広報宇和の第249号(昭和50年2月15日)には、「明治2年、坪が谷に建築され、明治15年に現在地に移転された」とある。
・開明学校と同敷地にある。
中町通り(なかんちょうどうり)【宇和町】
・明治、大正にかけての古い家並みが続く。
・町並みには白壁、半蔀(はじとみ)、うだつなどが残っている。
旧宇和町小学校校舎(きゅううわちょうしょうがっこうこうしゃ)【宇和町】
・長さ112m。
鳥坂番所跡(とっさかばんしょあと)【宇和町久保】
・大洲藩が天保年間に設置した。
東多田口留番所跡【宇和町東多田】
(大)安楽寺【宇和町伊延(いのぶ)東】→西予市宇和町伊延東37
阿弥陀如来立像
・町指定文化財[彫刻](昭和62年6月11日指定) |
陣旗
・町指定文化財[歴史資料](昭和62年6月11日指定) |
あじさいまつり |
蛇骨堂
・むかし、この地は池(淵、沼)であり、ここに大蛇が棲み、里人に危害を加えてきた。 ・嘉元年間(1303〜1306)に京の宇都宮永綱が大蛇退治にやってきた。弓で大蛇を射止めた永綱は、多田の下木城主となった。 ・ところが、大蛇退治以降、この多田の村に不吉な事が度重なった。これは大蛇の祟りに違いないということで、この池を埋め立て、供養の祠が建てられた。これが蛇骨堂であるという。 「伊延村に在り。億万年山と号す。本尊阿弥陀、長六尺余、恵心作。観音・勢至・地蔵長二尺八寸、空海作。開山勅諡宝覚禅師東山湛然和尚。
「御延村に在り 臨済宗なり 当院内は往古毒蛇栖む所の池なり 嘉元中宇都宮永綱なる者射を善くす勅を奉して毒蛇を射殺す功を以て多田城を賜ふ 後ち彼蛇祟を為す
是を以て嘉暦二丙寅年其の池を埋め以て伽藍を創立し二百貫の地を賜ふ 後ち天正中兵火にかかり伽藍及び什宝文書等焼失す
永綱の孫宇都宮石見守宣綱再建して掌宇漸く旧に復す 文禄中戸田氏寺領を没収し樹木を伐採す 爾後大に頽毀す 寛永十四丁丑年再び火災にて綸旨朱印国郡領主の寄附書等三十余匣を失ふ 伊達秀宗本郡を領するに至って田若干を施捨し 以て香火料に給す(明細書)
※一種の英雄伝説か?「この地の城主が弓の名人で、化け物を退治することでこの地を治めることを許された」というモチーフで語られている。宇都宮永綱はこの功績により下木城(東多田)を賜ったという。 (「よみがえる伝説 篤志家蛇骨堂を再建」、広報宇和、第217号、昭和47年6月20日) |
蛇骨堂大祭
・11/23 ・「蛇骨堂は約700年前に京都から来た弓の名手・宇都宮永綱が退治した大蛇を供養するため、巳年の1989年に建立。寺檀家による蛇骨堂奉賛会(和家利雄会長、約30人)が同年から、大祭を開いている。」(「蛇骨堂に人だかり 西予・宇和 大安楽寺 大祭で多彩な行事」、愛媛新聞、2004/11/25) |
安養寺【宇和町岩木】→西予市宇和町岩木2719
観寂寺【宇和町清沢】
平形銅剣
・町指定文化財[考古資料](昭和30年12月16日指定) |
光教寺(こうきょうじ)【宇和町卯之町】→西予市宇和町卯之町3丁目100
・宗派:臨済宗
・「卯之町に在り臨済宗永和中松葉城主西園寺従二位左大臣公良創営して香花院とす故に最初は此寺松葉城下に在しか文明十五年従三位大納言實充居城を黒瀬に移すに依って明応元年此寺も亦今の地に移せり」(伊豫温故録)
→See.「お釈迦様の誕生日 心清めて迎えよう 宇和光教寺 降誕会前に花飾り」、愛媛新聞、1997年4月8日
極楽寺【宇和町小野田】
木造阿弥陀如来坐像(1躯)
・県指定有形文化財[彫刻](昭和32年12月14日指定) |
クヌギ長者
「屋敷内には大きなクヌギがあって、朝日をうけるとその影は遠く安芸の国までとどき、夕日をうけると土佐の山々がかげる」 極楽寺の棟札には「朝日さす夕日輝くその下に黄金千杯朱千杯あか金千杯三千杯」との歌が書かれている。 それほどの隆盛を極めた長者が不治の病に伏し、病気回復を祈願して建てた寺が極楽寺である。 |
西林寺(さいりんじ)【宇和町郷内】→西予市宇和町郷内3171
阿弥陀如来坐像
・町指定文化財[彫刻](昭和62年6月11日指定) |
西林寺阿弥陀堂内厨子
・町指定文化財[彫刻](昭和62年6月11日指定) |
西林寺阿弥陀堂内光背
・町指定文化財[彫刻](昭和62年6月11日指定) |
西福寺(さいふくじ)【宇和町明間】→西予市宇和町明間2-82-1
地蔵寺【宇和町山田】
歯長寺(しちょうじ)【宇和町伊賀上】→西予市宇和町伊賀上356
・山号:大竜山
・宗派:天台宗山門派
・本尊:千手観音
・天平勝宝2年(759)、孝謙天皇勅願所として建立。
・経行(きょうぎょう)により開山された。
・治承年間(1176〜80)に、足利又太郎忠綱(歯長又太郎)が当地に隠棲し、再興したのが歯長寺であるという。(宇和旧記)
・「歯長寺縁起」によれば、元徳2年(1330)10月に再興。理玉(*1)による開山、開田善覚(*2)による開基という。
(*1)理玉については、等妙寺(広見町)を参照のこと。
(*2)皆田(かいだ)という地名と、開田(かいだ)という姓名とは関連があるのだろうか?
紙本墨書歯長寺縁起(1冊)
・国指定有形文化財[書跡・典籍・古文書]](昭和11年5月6日指定) ・南北朝時代の至徳3年(1386)に、歯長寺の寂証が記述したもので、現存するのは15世紀半ばの写本。 →See.「歯長寺縁起書 建武の中興の武士たち」、五葉道全 |
実蓮寺【宇和町大江】
釈迦寺【宇和町稲生】
松岳寺(しょうがくじ)【宇和町久枝】→西予市宇和町久枝582
・宗派:天台宗
本堂
・文政六年(1823)建立。→平成17年〜18年に老朽化のため建替。 |
勝光寺(しょうこうじ)【宇和町岩木】→西予市宇和町岩木3299
常居寺【宇和町永長】→西予市宇和町永長1340
常定寺【宇和町常定寺】→西予市宇和町常定寺357
絹本著色虎関師錬像(1幅)
・県指定有形文化財[絵画](昭和40年3月29日指定) |
絹本著色回塘和尚像(1幅)
・県指定有形文化財[絵画](昭和40年3月29日指定) |
イヌマキ
・町指定文化財[天然記念物](昭和58年12月9日指定) |
神久寺【宇和町】
大般若経
・町指定文化財[典籍](昭和30年12月16日指定) |
瑞山禅寺【宇和町小原】
扇照禅寺【宇和町西山田】
善福寺【宇和町西山田1889】
・山号:潮光山
・本尊:薬師如来
薬師如来坐像
・町指定文化財[彫刻](昭和58年12月9日指定) |
須弥壇、台座
・町指定文化財[工芸品](昭和62年6月11日) |
大梅寺【宇和町東多田】→西予市宇和町東多田2-623
道仙寺【宇和町】
中山禅寺【宇和町田野中】→西予市宇和町田野中1-117
繁栄寺【宇和町郷内】→西予市宇和町郷内2342
福楽禅寺【宇和町坂戸】→西予市宇和町河内589
2003/8/23
・山号:塔満山
・宗派:天台宗山門派
・本尊:十一面観音
・康保2年(965)開創。
・伊延城主・高森五郎四郎が開山。
・もとは大窪山山上にあった。
本堂
・昭和27年に大窪山より移転された。 |
薬師如来坐像
・町指定文化財[彫刻](昭和40年12月15日指定) |
毘沙門天
・町指定文化財[彫刻](昭和58年12月9日指定) |
十二天画幅
・町指定文化財[絵画](昭和58年12月9日) |
福楽寺奥ノ院
・平成4年、40年ぶりに復興。11月23日に祈願祭が行われた。)
・福楽寺より北西約4.5km、標高650mの大窪山山中にある。
(広報うわ、第466号、平成5年1月16日発行)
護摩堂
・十一面観音及び不動明王が安置される。 |
一乗山本如院【宇和町卯之町】→西予市宇和町卯之町1丁目219
満慶寺【宇和町下松葉】→西予市宇和町下松葉190
妙法寺【宇和町田苗真土】→西予市宇和町田苗真土247
・山号:東円山
阿弥陀如来坐像
・町指定文化財[彫刻](昭和40年12月15日指定) |
梵鐘
・太平洋戦争の軍需資材として供出されていたが、昭和50年4月再鋳。 (広報うわ、第255号、昭和50年8月15日発行) |
明石寺(めいせきじ)【宇和町明石】→西予市宇和町明石201
2003/8/24
・四国88ヶ所霊場 第43番札所
・山号:源光山
・電話番号:0894-62-0032
・山号:源光山(←源頼朝が現光山から改名したという)
・院号:円手院(えんじゅいん)
・宗派:天台寺門宗
・本尊:千手観世音菩薩
・開基:正澄上人
・天平6年(734)、圓手院正澄上人の開創と伝えられる。
・通称「明石(あげし)さん」。
・女神が大石(「白王権現石」と呼ばれる、境内地にある石)を軽々と持ち上げたことから、「あげいし」→「上げ石」→「明石」と呼ばれるようになったという。
・南予の名刹霊場として信仰が厚く、8月9日の縁日には、四国九州から多くの参拝者が訪れる。
熊野十二所権現社 |
いらずの森
いらずの森にある五輪塔(池の禅尼供養塔)は源頼朝が建てたと伝えられる。(建久5年(1194)、源頼朝が明石寺を再興したと伝えられる。) |
池之禅尼の経塚 |
絹本著色熊野曼荼羅図(1幅)
・県指定有形文化財[絵画](昭和40年3月29日指定) |
説明書き
「源光山明石寺(43番札所) 本来の名は「あげいしじ」ですが、現在は「めいせきじ」と呼ばれています。土地の古老たちは、この寺を親しみを込め「あげいしさん」または「あげしさん」と呼んでいます。この「あげいし」という名はその昔若くて美しい、女神が願をかけ、深夜に大石を山に運ぶうち、夜明けに驚き消え去ったという話を詠った御詠歌の「軽くあげ石」からついたと伝えられています。8月の縁日には西日本各地から多くの人々が集まり、終日賑わいを見せています。 |
句碑
「お遍路に 昨日も今日も ■風」 ・昭和31年4月23日 峠誌友建之 |
明石寺奥之院
2003/8/24
へんろ道道標 |
明光寺(めいこうじ)【宇和町明石】
善福寺=山田薬師(やまだやくし)【宇和町西山田】
・日本三大薬師(*1)のひとつ。
・行基による開山とされ、本尊薬師如来も行基菩薩作といわれている。
・南予一の沃野を見下ろす台地にある。
・天平年間(729〜749)、宇和に天然痘が流行し、多くの死者を出した。宇和の郡主・春貞が神仏に祈ると白髪痩躯(はくはつそうく)の翁が現われ、「行基にすがれ」と告げた。そこで春貞は行基に病魔退散の仏像彫刻を依頼した。行基が薬師如来を刻み、それを山田に安置すると、それ以降天然痘はぴたりと止んでしまったという。
(*1)日本三大薬師:一畑薬師(島根県)、山田薬師(愛媛県宇和町)、満願寺の薬師如来(愛媛県津島町)。愛媛県に2つもあるのがすごい。
花まつり
・4月8日 |
龍光寺【宇和町久保 鳥坂】→西予市宇和町久保1-196
明間神社【宇和町明間】
倉谷神社
・祭日:3/1、9/1 ・祭日にはお伊勢踊りを奉納していた。 ・明間神社に合祀 (里の昔話、兵頭茂) |
出雲大社【宇和町上松葉】
岩崎八坂神社【宇和町東多田】
宇和津彦神社【宇和町坂戸】
王子神社(おうじじんじゃ)【宇和町卯之町3丁目】→西予市宇和町卯之町3丁目390
・「子供・お産の守護神」として信仰を集める。
・祭神:伊邪那岐命、伊邪那美命?
・天正年間、荘園主・西園寺公広が黒瀬城麓に氏神として建立した。
・大正3年に現在地に移転した。
夏祭
7月10日に行われる。(7月9日は宵宮) |
輪越し
宵宮の日に輪越しが行われる。茅の輪を3回くぐり、身体を撫でて穢れを移した人形を水桶に流す。(「安産願い輪抜け〜西予の王子神社 夏祭りにぎわう」、愛媛新聞、平成16年7月13日) |
子供練り
大正の初期、祭神若一宮を中心に天神宮、金刀比羅宮など五社が合祀されており、こどもねりもそのころから伝承されている。 (広報宇和、第231号、昭和48年8月15日) |
春日神社(かすがじんじゃ)【宇和町下松葉】
相撲甚句
・子供の日の行事。 ・松葉城址で行われた。(昭和49年に復活) ・むかし下松葉には男の子が不遇で、生まれても病気などで早逝し育つものが少なかったため、春日神社に祈願奉納したという。 |
タブノキ
・町指定文化財[天然記念物](昭和58年12月9日指定) |
竈神社(かまどじんじゃ)【宇和町田野中】
神ノ倉神社【宇和町大江】
祇園神社【宇和町】
中広銅矛
・町指定文化財[考古資料](昭和30年12月16日指定) |
熊野神社【宇和町西山田】
高知神社(高智神社)【宇和町下川】
2003/8/24
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|
境内社:神明神社、新田神社、八坂神社、金刀比羅神社、若宮神社、猿田彦神社、★猿田彦神社、春日神社、龍王神社、大山祇神社、八幡神社、弁天社、高森神社
※猿田彦神の面絵馬が中央に架かっている。 |
|
記念碑 |
十二所神社【宇和町】
神明神社【宇和町伊賀上 日之地】
多賀神社(たがじんじゃ)【宇和町卯之町】
新田神社【宇和町野田】
新田神社【宇和町皆田】
新田神社
2003/8/24
亀田智次郎翁銅像跡 |
境内社:東上大権現社
その他、境内社多数 |
八幡神社【宇和町東多田】
神楽・神事史料
・県歴史文化博物館に収蔵。 ・天狗の神楽面(1879年奉納[推定])、ひょっとこの神楽面(1881年奉納)、お多福の神楽面(1882年奉納)、神楽謡本(1873〜1881年)、算木筮竹(さんぎぜいちく)、飯櫃・高坏(1854年奉納) 「東宇和郡宇和町東多田の八幡神社から、1950年代前半に途絶えた明治時代の神楽に関する史料と、28年の県社昇格前の神事の史料合わせて44点がこのほど見つかった。県歴史文化博物館の大本敬久学芸員は『南予の神楽史料は残存物が少なく、今回のものは中でも古い。神事史料からは、近代において神主が易占いを行っていたことや当時の氏子の広範な分布が分かり、いずれも貴重』と語っている。」(「途絶えた神楽 姿伝える〜面・謡本など44点」、愛媛新聞、平成15年1月25日) |
日吉神社(ひよしじんじゃ)【宇和町久枝】
三瓶神社【宇和町山田】
三瓶神社(みかめじんじゃ)【宇和町岩木】
・蜷が運んできた瓶を三瓶町内に祀ると、それ以降海難が相次いだ。白い帆船が何の異状もないのに転覆する。村人は「これはきっとその瓶が平家落人の遺品に違いない。だから白いものを見ると祟るに違いない」と考え、海の見えない宇和町へと移したという。
三島神社(みしまじんじゃ)【宇和町田野中】
三島神社(みしまじんじゃ)【宇和町卯之町】
金幣(1振)
・県指定有形文化財[工芸品](昭和23年10月28日指定) |
三島神社(みしまじんじゃ)【宇和町東多田】
三島神社(みしまじんじゃ)【宇和町岩城】
スギの巨木
・樹高31m |
三島神社(みしまじんじゃ)【宇和町神領】→西予市宇和町神領2-433
曳き船練り
・秋の例祭で行われる行事。大正時代から伝わる。 |
八坂神社(やさかじんじゃ)【宇和町杢所(もくしょ)】
・弥生時代製の中広形銅鉾出土物を所蔵している。
若宮神社【宇和町永長】
大師堂跡【宇和町】
大師堂【宇和町四道】
・町指定文化財[建造物](昭和58年12月9日)
薬師堂【宇和町岩木】
火除け地蔵【宇和町卯之町】
「火よけ地蔵の由来
卯之町はもともと松葉城の西北麓、現在の上松葉・下松葉辺りにありまして、岩瀬城の名に因み「岩瀬町」と呼ばれ、後に城も松葉城と改名し、町名も「松葉町」と変えられたのでした。
慶安年間(今から三百年ほど前)松葉町はしばしば大火に見舞われましたので、街並みは次第に在来の位置から東北方に移り、今の中の町通りがそうだと伝えられております。町の移転と共に住民は火災と大変悪因縁のあった松葉町の名を忌み嫌いまして、水にゆかりのある鵜の鳥に通じさせ、これを「鵜の町」と呼ぶようになりましたが。この年があたかも卯の歳に当たっていましたのと、文字が書きやすいところから「卯之町」に転化したものといわれております。もっとも卯之町と公称されたのはずっと後の天明年間のことでありました。更に享保元年にも卯之町一帯は大火に見舞われ、町の過半数を焼失するという痛手を受け、町民はあまりの惨めさに、せめても信仰にすがりこの悪魔のような業火を防ごうと「火除け地蔵」と名をつけて下之町、中学校、小学校など、昔の町の各々の入口に露仏の地蔵を建立しまして、町内安全を祈ったといわれています。その後嘉永年間にもまたまた大火にあい、たまりかねた町の有志が王子神社に集まり、「火よけ月ごもり」の祈祷を始めるようになり、以来昭和の今日までその行事が延々と続けられ、卯之町地区では今も毎月各区持ち回り当番でこれを行っており、当時町の人がいかに火災に神経質であり、防火に真剣であったかが伺われますし、神仏の信仰にすがって火を防いだことは面白いと思います。前述の「火除け地蔵」は僅かにその一体が下の町入口に残っており「天保二年是より卯之町駅」と刻まれた石柱が過ぎし昔の面影をしのばせています。…」(広報宇和、第36号、昭和32年4月5日)
※火除け地蔵の現存状況、「火よけ月ごもり」の実施状況を調べること。
大窪山【宇和町】
大畑山【宇和町/八幡浜市】
・標高 645.2m
大野山【宇和町/野村町】
・標高 796.5m
大判山【宇和町】
・標高 798.7m
大念寺山【宇和町】
雨山公園 |
鳥殿【宇和町】
・標高588.5m
極山【宇和町】
御篠山【宇和町】
竜王山(龍王ヶ峯)【宇和町野田/明浜町】
・藤原純友が博多で敗れて伊予に逃げ戻ったときに、追捕吏・遠保(とおやす)が竜王山に登って純友逮捕策を練っていると竜女が出現し、逮捕術を与えたという。
「この高峰の頂上で宇和初代の領首美濃介遠保が、日振島に根拠を構えて当時近海沿岸を荒し廻る海賊藤原純代友討伐の軍議が初まりました…」
(「郷土の史跡と名勝をたずねて」、広報うわ、第107号、昭和38年2月5日)
堂所山【宇和町】
・標高 593.2m
オオヒトサマの足跡石 |
高森山【宇和町/吉田町】
・標高 634.9m
源氏ヶ岳(げんこつ山)【宇和町皆田】
(「郷土の史跡と名勝をたずねて」、広報うわ、第106号、昭和38年1月5日)
池の岳【宇和町皆田】
「…頼朝はまた池之禅尼の恩徳をもしのび源氏ヶ岳の峯続きの山を『池の岳』と称えてその中腹の岩窟に龍王神を祠り『池の岳龍王様』と崇めた…」
(「郷土の史跡と名勝をたずねて」、広報うわ、第106号、昭和38年1月5日)
肱川(宇和川)【宇和町】
・宇和川は昔は新川と呼んだ。
鳥越川【宇和町】
深ヶ川【宇和町】
根笹川【宇和町】
西川【宇和町】
岩瀬川【宇和町】
深山川【宇和町】
藤川【宇和町】
大谷川【宇和町】
緑川【宇和町】
滝山川【宇和町】
倉谷川【宇和町】
板ヶ谷川【宇和町】
赤川【宇和町明間】
カラ谷川
ゲジゲ谷川
金輪淵
エガマン淵(柄鎌淵)
・樵が誤って淵に柄鎌を落してしまった。困り果てた樵が後日ここを訪れると、不思議にも落したはずの柄鎌が岩の上に置かれていた。
(里の昔話、兵頭茂)
関地池【宇和町信里】
・寛永21年に落成、昭和31年に改良された。
・溜め池としては県下第2の規模で100万トンの貯水量を誇る。
・春は桜、秋は紅葉の名所としても有名。
・池の周囲2.5kmに約500本の桜が立ち並ぶ。「湖面に映って千本桜」と呼ばれる桜の名所である。
関地池桜祭り
・4月1日〜10日 |
関地池記念碑
・昭和48年4月11日除幕 |
下川橋
2003/8/24
・大正15年3月
観音水【宇和町明間】
1998
・「行ってみよう!えひめ感動の地20選」
・「名水百選」(昭和60年選定)
・宇和町の中心部から10km。車の場合300m手前まで登れる。県道29号線(宇和・野村線)を宇和町より東へ。バスの場合JRバス明間停留所(今は宇和島運輸かな?)より昭和橋(宇和川)を渡り徒歩で20分。
・明間の深い山並なみの中、ぽっかりとあいた鍾乳洞の入口から今なお人々に涼を与えるきれいな清水がこんこんと流れ出し、肱川の支流、宇和川の流れに注ぎ込んでいる。宇和川に至るまでの河川名を赤川という。
・真夏でも14〜15℃の冷水が豊富に湧き出し、その量は日量約1万トンを保っている。
・昭和60年には、環境庁の「名水百選」に選ばれ県内外に広く知られている。
・永禄年間にこの地の城主が観音像を安置したと伝えられたことから観音水と名付けられた。
観音水素麺流し
・「名水亭」 電話番号:0894-67-0013 ・毎年4月29日頃オープンする。 ・開店時間: 10:00〜17:30 ・料金: 大人500円、子供300円、幼児200円 |
あずまや風の休憩所 |
名水認定碑
・大島石製。 |
下川観音水【宇和町】
・水温約14度の冷水が湧出する。その水は集まって白水川となる。石灰岩質の河床が水で侵食され、奇景を呈している。
宇和文化の里【宇和町卯之町3丁目】
1997、1998
・県指定「宇和文化の里」は開明学校、先哲記念館、民具館のある中町(なかんちょう)通りで構成される。
田之筋のせりわり
2003/8/24
・この名称は通名ではない。いせきこたろうが勝手に命名したもの。
・車高3m以上の車は通行不可
夕暮れの関地池
アベマキ【宇和町岩城】
・山田大池の辺にある。
・胸高幹周4.1m。
・四国最大のアベマキの巨樹である。
スギ【宇和町岩城 三島神社】
トチノキ【宇和町石城】
タブノキ【宇和町石城】
タブノキ【宇和町下松葉 春日神社】
2004/12/31
・町指定文化財[天然記念物](昭和58年12月9日指定)
・目通り5.6m、樹高18m
※霙(みぞれ)混じりの雨が降り、写真を撮ろうにもレンズに雨粒が付いてなかなかうまく撮れない。傘を持ってくればよかったとつくづく後悔する。(2004/12/31)
イヌマキ【宇和町 常定寺】
・町指定文化財[天然記念物](昭和58年12月9日指定)
イチョウ【宇和町石城】
山田桧【宇和町西山田 山田薬師】
クスノキ【宇和町西山田 山田薬師】
エノキ【宇和町西山田 山田薬師】
開明学校の松【宇和町】
・松食虫の被害にあい昭和48年から次々と枯死。最後の3本目も昭和50年に枯死してしまった。(広報うわ、第251号、昭和50年4月20日)
林道久保鳥越線
2003/8/24
・幅員 4.0m、延長 12.3km
・県道八幡浜宇和線
林道八ヶ森線
林道一本松線
笠置峠【宇和町/八幡浜市】
・宇和町岩木−八幡浜市釜倉
・標高411m
■古代ロマンの里創世記vol.8
市内埋蔵文化財めぐり(7) 「 笠置峠」(宇和−八幡浜)
鉄道も車もない-時代、人々は自らの足で移動しました。笠置峠は宇和と八幡浜をつなぐ峠道で、古代から現代に至るまで利用されていたと考えられています。
その峠には、古代に作られた西南四国最古の前方後円墳「笠置峠古墳」があり、そこからは宇和盆地、八幡浜のほか、佐田岬半島、宇和海、果ては九州まで望むことができます。
中世の様子は、安養寺(宇和町岩木)の大般若経(愛媛県歴史文化博物館調査)から分かります。安養寺には当時多くの檀家がおり、中には双岩(八幡浜市)の住民もいたそうです。
近世には、お遍路さんが峠を越えましたが、遍路墓の存在から道半ばで倒れた人も多かったようです。
近代以降も峠の茶屋や遍路宿が営まれ、人々は峠を越えて商売したり、買い物をしたりしました。山田薬師(宇和町西山田)の花まつりには、峠を越えて多くの人々がやってきたそうです。
そして現代。交通の発達とともに峠は機能を失いかけていました。しかし今、発掘調査によって得られた成果を活用につなげていく取り組みが進んでいます。古墳と峠を介して、石城地区と双岩地区の住民の交流も行われるようになりました。地域の文化財を介して、新たな歴史が刻まれようとしています。
(広報せいよ、2005年3月号)
モロイ岩
・頂上よりやや下に下りたところにある。 |
鳥越峠【宇和町/八幡浜市】
・県道25号線、宇和町−八幡浜市境界に位置する。
鳥坂峠【宇和町/大洲市】
2003/8/24
・国道56号線、宇和町久保 鳥坂−大洲市に位置する。
・標高430m
★「鳥坂峠の狼」の伝説で語られる峠は、宇和島街道(国道56号線から見て西側を抜ける山道)の方であろう。今回訪れた峠のほうも、辺りは杉・ヒノキなどの植林が鬱蒼と生い茂り、昼間でも薄暗く不気味な空間を創り出しており、妖怪出現スポットといっても過言でないほどである。(2003/8/24)
タイマツ峠【宇和町/大洲市/野村町】
羽子の木峠【宇和町/野村町】
歯長峠(はながとうげ)【宇和町/三間町】
歯長城跡 |
法華津峠【宇和町/吉田町】
・足摺宇和海国立公園(昭和47年11月10日指定)
・標高 436m。
・眼下に段々畑とリアス式海岸、真珠筏の縞模様が美しい法華津湾が広がる。
・遥か水平線の向こうには九州連峰を臨むことができる絶好の展望地である。
・南予五大峠の一つに数えられる。
七月三日大友軍は再び法華津城を攻めた。城主範延は智謀の作戦を展開、城壁にむらがる大友軍に対して石弓による攻撃を加えた。(石弓とは岩石、大木などを積み重ね、綱を切って落とし、一時に大量の敵を殺傷する仕掛け)
頃を見て清家弥三郎秋延を始めどっと城門を開き打ち出した。大友勢は大敗をきっして奥南の吉岡城や吉田の石城へ退却したのである。それ以降大友勢は遂に法華津城攻略をしなかった。
宇和三百五十二年の歴史は法華津城将兵の奮戦によって敵の侵略を許すことなく栄えた。
…
◎清家播磨守範延とその一族の墓所は、吉田町法華津福巌寺にあり、明浜町清家弥三郎氏によって保存されている。
→See.「ふるさと20世紀-134- 法華津峠」、愛媛新聞、平成12年4月15日
法華津城
「永禄三年六月二十六日、豊後(大分)大友宗隣の大将臼杵乗雲、戸次道雪の大船団二百余隻は一万余騎の大軍をもって、宇和領十八城の海岸防衛線を一挙に屠(ほふ)りて多年の野望を達せんと宇和海の離島日振に集結し戦線を整え、八幡浜から御荘にわたる全線に一斉総攻撃を開始した。 大友の軍は次々に宇和の諸城を陥入れ、最後に残ったのが法華津城である。この城は宇和の黒瀬城に最も近く重要な位置をしめていた。時の宇和の領主西園寺実充は勇将譜代の臣、清家播磨守範延の一族をもってこれが防戦に当たらせた。 大友勢も多年にわたる失敗を、この戦いに一挙に打ち返さんものと、総大将戸次道雪の率いる、よりぬきの強者ばかり二千余をもって攻めかかってきたのである。 法華津防衛軍の将清家の一族はその祖、清家大郎泰国が源三位頼政に従って弓道の奥義を極め、宇治瀬田の戦いで偉大な戦功をたてこれを西園寺実氏が感じて臣下に取り立て、宇和下国と共に伊予に住みつくこととなった。祖先代々弓道の名人が続いている。 播磨守範延をはじめ長男弥三郎秋延、三男新十郎俊延、五男鉄之助保延、六男民部治武延遠、七男長蔵茂秋はもちろんのこと伊田井伊太郎、中村唯介等の家来十数人の強者揃い、刀と弓にかけて一騎当千の剛勇は手ぐすねひいて敵を待ちうけていた。 多くの諸城を攻め落し残るは一城のみ「法華津城打ち落とせっ」と大友軍は一気に攻めかけた。 城内の将兵はよき敵ごさんなれとばかり一斉に矢の雨をあびせた。他の諸城で連勝に酔っていた大友勢は鏃をくらいもんどりうって倒れ傷つき一刻もたたぬ間に三百余り死者重傷者を残し算を乱して退却した。 宇和の松葉城址には城台跡の一部に矢竹の薮が現在残っている。戦いに備えての用意周到さが追想されるのである。翌月二日には法華津城をのぞく十七城は悉く落城し、領主西園寺実充も舎弟の信実を人質に出して和睦した。 」 (郷土の史跡と名勝をたずねて@「法華津峠」、岡本 憑、広報宇和、第102号、昭和37年9月5日) |
西村清雄詩碑
「山路越えてひとり行けど主の手にすがれる身は安けし」 |
酒井黙禅句碑
「鶯や 天嶮(てんけん)にして 海の景」 |
遊歩道
昭和48年に、国道56号法華津トンネルの南口から峠展望台までの、延長623mの遊歩道が建設された。徒歩時間約20分。 (広報宇和、第229号、昭和48年6月15日) |
西園寺公広(24代当主)のこと
「今を去る430年天正15年10月20日夜、月の出を待ち公広は精鋭七騎を伴い黒瀬城を落ちて往ったのです。折りしも東の山々は下弦の月白も力なく宇和の野面を照らす頃、法華津峠の山路を辿り行くと森の木陰より現われた女房たちは声も別れの涙にうるませて訣別の叫びをあげれば公広幾度となく黒瀬城を顧みては、住みなれし山容夜色春花秋月幾星霜過ぎ越し方を想い浮べ胸も圧せらるる思い「呼嗚今夜狐雁愁雲に迷う−明朝一路天色闇からんか−」と絶叫したのでした。 夜陰に紛れて近衆や女ども中将の前後に慕い寄り主君を囲み、いつ別れ様もない風情、ただ泣きに泣き袂を分ち得ず峠の峰へと続いたのでした。さりとて果しなしと中将公広涙を払って衆女を諭し「諸行は無常之みな天の命か」と峠を下り立間尻より船の人となり九島の鯨浦願成寺に入って念仏三昧の日を送りました。」 (広報宇和、第34号、昭和32年2月8日) |
野福峠【宇和町/明浜町】
三瓶隧道【宇和町郷内】
・大正6年(1917)完成。
宮崎秋窓句碑
「久に踏む ふるさとの土 春の土」
・宇和病院長公社敷地内。
・町立宇和病院長宮崎義則氏が昭和43年3月、病院再建のため帰郷したときの歓迎句会にて作った句。
・高さ約1.2m。
(広報宇和、第215号、昭和47年4月15日)
酒井黙禅句碑
「鶯や 天嶮(てんけん)にして 海の景」
・材石は大洲柳谷の河中より採取した自然石。
・昭和34年5月26日に除幕。
・俳誌「峠」同人により建立された。
(広報宇和、第62号、昭和34年6月5日)
※「柳谷」とは柳沢のことか?
西村清雄詩碑
「山路越えてひとり行けど主の手にすがれる身は安けし」
・明治36年(1903)、大洲より宇和島への途中で作詩した。
・讃美歌404番。
・西村清雄(すがお)氏を記念して、元松山城南高等学校長の二神喜十氏らが昭和30年(1955)に建立した。
(「みんなの広場 峠路の歌碑」、広報宇和、第220号、昭和47年9月30日)
関地池記念碑【宇和町信里
関地池】
・昭和48年4月11日除幕
・白石春樹県知事の揮毫。
・西条の青石を使用。
(広報宇和、第227号、昭和48年4月25日)
怒涛の碑【宇和町
宇和高等学校】
・宇和高等学校本館正面左脇にある。
・昭和47年3月25碑除幕。
・昼間は働き、夜間勉学に励む青年達の記念碑。
・宇和高校定時制は、昭和23年10月 本校、奥南、俵津、高山の4箇所に設置。奥南分校は昭和26年4月に他校に移管。俵津分校は昭和38年3月に閉校。中心校(本校定時制)は昭和47年3月に閉校。高山分校は昭和48年3月に閉校。
・「怒涛」は定時制の文芸誌の題名をとったもの。
・石材は、同窓生が江川崎から運搬した自然石。基礎工事も同窓生の手により行われた。
・「怒涛」の文字は、宇和町明石の上甲薫風氏の筆による。
・明浜町高山にも、同窓生による「怒涛の碑」が建てられている。
(広報宇和、第215号、昭和47年4月15日)
西園寺公高戦蹟の碑【宇和町大宇和町
瀬戸】
・大正14年10月、西園寺源透が建立。
・天然の青石に戦蹟が詳細に記されている。
・西園寺公高は、西園寺宗家19代の孫・西園寺実光の長子で、黒瀬城の支城・飛鳥城(瀬戸)に居城した。
・弘治2年の9月頃、狩猟に事よせて大洲藩との境を検分した。これを知った大洲城主・宇都宮豊綱は、これ一大事とばかり公高の千手を打たんと鳥坂峠を踏み越えてを急襲した。守将・上甲光康は、この報せを耳にし、すぐに武具で身を固め、士卒らを鼓舞して立ち向かった。しかし、あまりにも急な攻撃に士卒らは武装もままならず、段々と不利な状況に追いやられた。公高は単身槍を抱えて群がる敵中に突入し、敵弾にあたって戦死した。公高、このときまだ19歳の若さであった。
・黒瀬城の西園寺実光はこのとき病に臥していたが、この悲報を聞き、自ら陣頭指揮して進撃。飛鳥城を奪還した。
・その後、道後湯築城主・河野通信に使いして、仲裁を乞い、その後和議成立した。
(広報宇和、第227号、昭和48年4月25日)
毛利松平之碑【宇和町卯之町
宇和運動公園】
神武天皇銅像
・宇和町鬼窪出身の白井雨山の作。 |
薬草園
・二宮敬作は卯之町の大念寺山に薬草園を開き、サフラン、ゲンノショウコ、タデ、ホオズキなどの薬草を育てて、良い薬を作る研究をしていた。 ・昭和51年に150uの薬草園が造園された。 ・現在の薬草園は、敬作の偉業を偲んで、地域の人達の手によってつくられたものである。今も敬作とゆかりのあるものを中心に、約120種の薬草が育てられている。 |
五つ鹿踊り記念塔
・愛媛新聞社主催の郷土芸能コンクールで南予代表となった皆田青年団に対して、同新聞社より寄贈されたもの。 ・昭和32年、神武天皇像横に建設された。 (広報宇和、第35号、昭和32年3月5日) |
明間河川公園【宇和町明間】
宇和総合運動公園【宇和町卯之町】
1997
毛利松平之碑
・宇和町土木建設振興協会ら三者が唱和59年12月に建立した。 ・高さ4m、幅2.8mの自然石の碑 ・揮毫は元首相三木武夫。 |
お旅運動公園
昭和48年、都市施設整備公園事業にて竣工。
(広報宇和、第228号、昭和48年5月20日)
関地池公園【宇和町信里】
関地池 |
経ノ森公園【宇和町】
森林園
・昭和33年に設置。 (広報宇和、第48号、昭和33年4月5日) |
オシメハヤシ【宇和町】
・1月旧正月(1月15日前後)に行われる。
・「左義長」「どんど焼き」のことを宇和町では「オシメハヤシ」と呼ぶ。
・火で焼いた餅を食べると夏病みしないと言い伝えられる。
山田薬師花まつり【宇和町西山田】
・4月8日
関地池桜祭り【宇和町信里】
・4月1日〜10日
れんげ祭り
・昭和51年5月5日、第1回目のれんげ祭りを開催。
・現在の実施日は4月29日?
観音水そうめん流し【宇和町明間】
宇和文化の里まつり【宇和町 中町】
・8月6日
明石寺縁日
・8月9日
ひまわり祭り【宇和町久枝】
・1993年より開始。8月の第3日曜日に、町福祉デイサービスセンター周辺を会場として開催される。
・約150haの畑に神野久地区民の蒔いたひまわりが一斉に咲く。
きちゃんないや祭りin宇和【宇和町】
・12月第2日曜日に宇和町文化会館及びその界隈で開催される。
・東宇和郡内4町の特産品販売が行われる。
県歴史文化博物館【宇和町卯之町4丁目】
1998,
2003/8/24
〔入館料〕 高校生以上 500円、小・中学生 250円
〔開館時間〕09:00〜17:00
〔休館日〕 月曜日
・県立宇和高校の裏山を削った 28800m2の敷地に建設。鉄筋3階建て。
・1994年11月18日落成、19日より一般公開
・歴史、民俗分野の展示品は 1,300点に及ぶ。
・館内には、原始・古代から近・現代までの県の歴史を紹介する4室の「歴史展示室」がある。原始時代の縦穴式住居、中世の船などを原寸で復元しており、各時代の暮らしぶりを肌で感じることができる。
・また、暮らしや祭り、四国遍路など地域の特色を紹介する「民俗展示室」を3室設置。県内各地から発掘された埋蔵文化財の「考古展示室」や、衣食住に関する生活道具を展示した「体験学習室」もあり、展示品は歴史1000点、民俗300点。
★2003/8/24:「絵馬堂へようこそ!」
宇和町先哲記念館【宇和町卯之町4丁目327番地】
・宇和縁の偉人達を一同に紹介する。
宇和町米博物館【宇和町卯之町2丁目2】
・旧宇和町小学校を移築し、「米どころ宇和」のPRのため、平成3年に開館した。
・60種類を超える稲標本をはじめ、明治時代以降の農具を展示し、米文化の素晴らしさを知ることができる。
・「百間廊下」と呼ばれる109mの日本一長い木造廊下がある。廊下と土間の間には一本も柱が無い。
・開館時間: 9:00〜16:30
・休館日:月曜日
・料金:大人200円、小人100円
歴史民俗資料館【宇和町卯之町】
・昭和50年8月30日、建築工事に着手。
・縄文時代以降の町内遺跡からの出土物を展示している。
民具館【宇和町卯之町】
・民俗文化財を展示している。
・入館料:大人200円、小人100円
游の里:ユートピア宇和【宇和町明間
文治ヶ駄馬】
・開館時間:10:00〜21:00
・利用料金:大人400円、子供200円、6歳以下無料
・文治ケ駄場鉱泉 (游の里)
・平成8年オープン。
・低張性アルカリ性冷鉱泉
・効能:神経痛・筋肉痛 ほか
東宇和物産会館・天然どんぶり館【宇和町稲生118】
・四国横断自動車道宇和IC近くの地方道宇和野村線にある。平成12年(2000)4月オープン。
学校
皆田小学校
2003/8/24
松本翁頌徳碑
・「翁は明治3年8月8日当村皆田九十郎氏長男として生を受け、...村議...村長として...昭和27年3月下宇和村…」 |
大正4年の門柱 |
中川小学校【】
・昭和50年、開校100周年の記念植樹を行った。(広報うわ、第250号、昭和50年3月25日)
・明治7年に加茂村・大江村に開進校、田苗真土村に修竹小学校、杢所村に行道小学校、坂戸村に階梯小学校、清沢村に清沢小学校の五つの小学校が新設され、それらが中川小学校の前身となった。(広報うわ、第251号、昭和50年4月20日)
岩城小学校【】
・昭和50年、開校100周年。(広報うわ、第251号、昭和50年4月20日)
游の里:ユートピア宇和【宇和町明間 文治ヶ駄馬】
オオヒトサマの足跡石【宇和町山田】
・堂所山山中にある足形がついた巨岩。
・オオヒトサマが谷を跨いだ時についたとか、出石寺の仏様と山田薬師様が長い棒で荷物を担いだ時に踏ん張って出来たとかの話が伝わる。
鬼の火打ち石【宇和町山田】
・高さ約10mの巨岩。オオヒトサマが不要となって捨てた火打ち石だという。
石崎にあった奇岩【宇和町清沢】
清沢部落南端の小山を金毘羅山と称し、その西側に半壊の岩石が二個並び立つ、むかし、ここに三個の奇岩があり、それぞれ特色をもち土地の名物となり、石崎の地名もこれらの石にちなんだものとか。岩は石神として崇拝され、原始信仰遺跡でもあった。
東端の岩上には約二メートル平方の池があった。常に雨水がたまっていかにかんばつの続く夏でも、たまり水は干しあがったことなく、ある限度以上に水が減ったこともなかった。池の水がここまで減ったから、もう雨が降ると予測できて不思議とされていた。
中間の岩石は打ちくだかれて一部を残すのみで、昔日の姿はしのべない。高さ三メートル余、北面にやっと登れる道がついていた。岩上は平たく、輪になって座れば二十人程度はゆっくり座れ、部落の花見ごもりその他の会場にも使用され、酒さかなの味も特別よく、話ごともよくまとまったという。
西端の岩はえ帽子の形をしているところからえ帽子岩と名付けられ、石神として信仰されていた。
これら奇岩の北方三十メートルあたりに、三瓶の津布里から山中へ通ずる間道があり、山田薬師へ通ずるので薬師道ともいっていた。奇岩近くで、この間道と八幡浜方面から笠置峠を越え、宇和島方面へ行く道とも交わっていた。奇岩付近には茶屋、宿屋、市も開かれにぎあい、幕末から明治維新にかけて歴史的人物も通った道だと。この辺は現在人家もなくり畑に化し、時世の推移が感じさされる。(清沢三好勇、明治38年生より)
(「うわの民話」、広報宇和、第220号、昭和47年9月30日)
観音水【宇和町】
(「うわの民話」、広報宇和、第223号、昭和47年12月26日)
福楽寺由来談【宇和町】
(「うわの民話」、広報宇和、第223号、昭和47年12月26日)
松葉町騒動【宇和町】
「藤堂領の時松葉町の名主三瀬六兵衛毛利家と内通し藤堂和泉守を討て大名とならん事を企つ其弟七兵衛は蔵村に住せしか下人久七此計畧を洩れ聞き藤右衛門といふ者に語る藤右衛門即時大洲に出て此事を訴へたる旨を七兵衛聞き付け直ちに弟勝八同道にて蔵村を立ち出で松葉町へ行く時六兵衛は仏事を営み数僧を請して斎を出し居たるか既に大洲より役人来り六兵衛へ人質を出すへき旨を命ぜしが六兵衛命に応せず役人火を家にかけ乱入す六兵衛一族酒蔵に.....」
楠本イネ
・シーボルトの娘。(シーボルトと滝の間に生まれる。)
・文政10年(1827)、長崎に生まれる。
・天保11年(1840)、14歳のとき卯之町を訪れ、二宮敬作から医学を学び、日本初の女性蘭法医となる。卯之町での滞在期間は5年間。
・のちに宮内省御用掛の産科医としても活躍した。
白井雨山
・1864年宇和町生まれ。東京美術学校彫刻科を卒業、後に同校教授。日本の彫刻界に一時代を築く。宇和文化の里・雨山公園には、雨山作神武天皇像がある。
高野長英
・1804年岩手県生まれ。22歳のときシーボルトの門に入り、医学蘭学を学び、江戸で開業。「蛮社の獄」により幕府批判の罪で入獄中、火災に乗じて脱獄し、卯之町の二宮敬作のもとに身を潜めた。
左氏珠山
・1829年八幡浜市生まれ。30歳のとき卯之町にあった大師堂で漢字塾を開き、宇和教学の灯火をともした。この塾が源となり、申義堂、開明学校へとつながっていく。
二宮敬作
・1804年愛媛県保内町生まれ。16歳のとき長崎に遊学。シーボルト門下生となり、高野長英らと親交を結び、1833年から22年間、中町で医業を開くかたわら、二宮塾を開いて若者を指導した。
河野正長
・日本画家。宇和町出身。
(「日本画や額皿など 河野正長個展開く」、広報宇和、第231号、昭和48年8月15日)
松本恵行
・画家。宇和町皆田出身。
・愛媛青年師範学校卒業後、宇和で教鞭をとりながら絵を学んだ。
新四国八十八ヶ所【宇和町】
二宮敬作の墓【宇和町】
栄座【宇和町】
・大正元年建築。昭和2年に火災により焼失したが再建された。昭和32年に映画館、昭和42年にパチンコ店へと姿を変えた。
・昭和48年解体。
(広報宇和、第228号、昭和48年5月20日)