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伊豫の隅々インデックス

カテゴリ別インデックス

市町村概要


キャッチフレーズ
(1).「ミルクとシルクのまち」 (2).「ミルクとシルクとすもうのまち」 (3).「いなか・都会・野村町」
(4).「ふたつ季節のある町のむら町」

町の花 町の木 町の花木 町の鳥
ツツジ ブナ


特産物

沿革
・藩政時代には宇和島藩に属した。

地名
町名の由来:藩政時代の文献に「伊予国宇和庄須智郷濃村」「四陽予州宇和庄須知郷野村」の記述が見られる。
その昔、野村彦助という人がいて、その人の名前から取ったという。
地区 大字 小字
溪筋(たにすじ) 白髭[しらひげ]
(西予市野村町 白髭)
白髭(奥/中間/中/白岩)
  松渓[まつたに]
(西予市野村町 松渓)
松渓(上/上中/下中/下)
  鳥鹿野[とじがの]
(西予市野村町 鳥鹿野)
鳥鹿野[とじがの](上/中/下)
  旭[あさひ]
(西予市野村町 旭)
旭(上/下)
  長谷[ながたに]
(西予市野村町 長谷)
長谷
  四郎谷[しろうたに]
(西予市野村町 四郎谷)
四郎谷(陰の地/日の地/古谷/中/上)
  河西[かわさい]
(西予市野村町 河西)
河西
    出合
中筋(なかすじ) 高瀬[たかせ]
(西予市野村町 高瀬)
富野川[とみのかわ]
(西予市野村町 富野川)
平野[ひらの]
(西予市野村町 平野)
滝山、頭王、大成、保堂、更生、小滝、舟坂、
金集、杉山、榎、
成城、柿木、岡、成穂、惣財久、平野上、沖成
貝吹(かいふき) 中通川[なかとがわ、なかとおがわ]
(西予市野村町 中通川)
中通川[なかとがわ]
大西[おおにし]
(西予市野村町 大西)
大西
鎌田[かまんた]
(西予市野村町 鎌田)
鎌田[かまんた]
栗木[くりのき]
(西予市野村町 栗木
栗木[くりのき](川平/本村)
西[にし]
(西予市野村町 西)
西
横林(よこばやし) 予子林[よこはやし]
(西予市野村町 予子林)
坂石[さかいし]
(西予市野村町 坂石)
奈良野、大成、堂野窪、松尾、河成[こうなる]、
大領地、坂石、高丸、長谷、汗嵐
野村(のむら) 野村[のむら]
(西予市野村町 野村)
片川[かたかわ]
(西予市野村町 片川)
阿下[あげ]
(西予市野村町 阿下)
釜川[かまのかわ]
(西予市野村町 釜川)
蔵良[くらら]
(西予市野村町 蔵良)
上野、山本、岡、中村、荒瀬、深山、芒ヶ原、
木落[こおとし]、大田、中屋敷、新町、
本町[1丁目/2丁目/3丁目]、
法正[ほうしょう]、愛宕、岩村、
馬地[うまじ]、片川[かたかわ]、次の川[つがのかわ]、
古市、石久保、下氏宮、上氏宮、
竹ノ内、三島町、伊勢井谷、双津野、久保谷、
峰、権現、緑ヶ丘、
下野、大暮[おおぐれ]、前石[さきいし]、阿下[あげ]、
釜川旭、植木、岡成、道野々、蔵良本村、
中野、平治、手都合
惣川(そうがわ) 舟戸[ふなと]
(西予市野村町 舟戸)
惣川[そうがわ]
(西予市野村町 惣川)
小松[こまつ]
(西予市野村町 小松)
大野ヶ原[おおのがはら]
(西予市野村町 大野ヶ原)
協和、大窪、台、知野、龍徳、千代田、中久保、
稲谷、天神、西下、西上、寺上、寺下、奈良野、
竹崎、藤之内、三島、平野、
宮之成(下/宮之成/上)、
伊予之地、都、榎木、川久保、色納、大和、通、
昭和、大久保、小松、寺山


文化財

泉貨紙(せんかし)【野村町】
・国選択文化財(記録作成等の措置を構ずべき無形文化財、昭和55年4月4日国選択)
・今から 400年ほど前(慶長2年)に亡くなった兵藤太郎衛門道正泉貨居士)の発明した泉貨紙は、昭和の初め頃まで全国的に用途も広く、現在のパルプ紙が発明され大量に生産されるようになるまで、重要図書、帳簿類、容器、雨具などに使用されていた。
・元禄初年に紙問屋が官営となり、同時に泉貨紙や杉原紙など自由に販売することが禁じられた。しかし弘化4年(1846)当時の記録によれば、野村組(野村、渓筋、中筋、貝吹)で 864人。山奥組(城川町惣川、横林)で 524人の紙漉業者がいたとある。
・太郎衛門は鎌田ヶ城主土居四郎勝正の孫で宇和郡の旗頭西園寺公広(宇和町の松葉城主)に仕え、若干18歳で功をたて「兵頭氏」の号を賜う。氏は晩年になって楮にトロロを混ぜ2枚合わせの厚手で丈夫な紙を漉くことを考案した。これが「泉貨紙」の起源である。
・泉貨紙は大正時代が最も盛んに漉かれていた。
・泉貨紙は13の工程を経て漉き上げる立派な工芸紙である。その技術も 400年以上の伝統も今では、日本で唯一高瀬の菊池製紙だけとなった。
 
@楮切り(かじぎり) A楮蒸し B楮へぐり C楮乾燥・貯蔵
D石灰水による煮沸 E楮さらし F楮打ち Gホゼ入れ
Hトロロ入れ I紙漉き J圧搾 K乾燥

・泉貨紙と並ぶ杉原紙は、兵庫県加美町が町立和紙研究所をつくり、その伝統と技術を大切に保存し、後世に引き継ごうとしている。

泉貨居士の墓【野村町野村 竹ノ内 安楽寺】
2003/8/24、2005/8/5
・所有者:土居一男
・県指定文化財(史跡、昭和24年9月17日指定)

@泉貨居士(せんかこじ)の墓 所在地 東宇和郡野村町大字野村竹ノ内 安楽寺
 泉貨紙(和紙厚紙)の製法を発萌した兵頭太郎左衛門の墓である。
 弘治2年(1556年)に生まれ、初めは、土居太郎左衛門と称して伊予宇和郡の領主、西園寺公広公に仕えていた。
 天正11年(1583年)、桜ケ峠で、魚成源太と戦い、その武勲により領主から兵頭の姓を賜わる。後に「泉貨」と号して出家し、種々辛苦の末、泉貨紙の製法を発明した。
 住民は、彼の徳をしたって、泉貨さまとたたえ、今なお香煙が絶えない。
(県指定史跡)
(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)

小屋の羅漢穴(らかんあな)【野村町大字小松】

・えひめ自然100選
・県指定天然記念物(昭和36年3月30日指定)
・所有者:中本文江
・延長388mの鍾乳洞。数百のドリーネから成る。
・洞内に林立する鍾乳石が五百羅漢に似ているから「羅漢穴」と名付けられたのであろう。
★小学校5年生んときには、野村町少年自然の家でキャンプして、ほして羅漢穴ん中へもぐりにいったもんよ。「ロープ持っとかんと、洞窟ん中で迷うてしまうぞ」と先生に脅されてこわごわ入っていった記憶が蘇らい。いっぺん入ったら、ジャージ(体操服)も靴もドロドロんなる。よそ行きの服装で行くとこじゃないわい。

木造十一面観音立像及び脇侍二躯【野村町野村 次ノ川】
・町指定有形文化財(昭和43年1月22日指定)

鬨の太鼓【野村町野村 阿下(前石)】
・町指定有形文化財(昭和48年7月3日指定)

藩政時代の庄屋本宅〜土居家住宅【野村町惣川 天神】
・町指定有形文化財(昭和43年10月30日指定)

船渡の森三島神社本殿【野村町惣川 三島 船渡の森三島神社】
・町指定有形文化財(昭和43年10月30日指定)

木造御紙像三躯【野村町渓筋 白髭 三島神社】
・町指定有形文化財(昭和47年12月2日指定)

木造阿弥陀如来坐像【野村町長谷】
・町指定有形文化財(昭和51年2月25日指定)

乃木将軍揮毫の軸【野村町中筋】
・町指定有形文化財(昭和51年2月25日指定)

銅鉾
・町指定有形文化財(昭和51年2月25日指定)

市内埋蔵文化財めぐり(4) 「マツリの道具」銅矛(野村・四郎谷)
 秋祭りが各地でにぎわいを見せていましたが、日本人は古くからなにがしかの「マツリ」を行っていたようです。
 弥生時代のマツリでは、青銅器を神聖な道具として用いていました。青銅鏡や銅鐸(どうたく)などが有名ですが、弥生時代の南予では武器形の青銅器、なかでも銅矛や銅剣が用いられていました。
 写真は、野村町四郎谷の銅矛です。長さ74.8pの中広(ちゅうびろ)銅矛です。銅矛の形式は古い方から、細形→中細→中広→広形と変化していきます。南予ではほかに伊方町と宇和で見つかっています。銅矛は九州北部で作られたことが分かっていますから、九州から大分→佐田岬半島→宇和盆地と伝わり、その一部が野村へ伝わったのだと思われます。高知県側では、窪川でたくさん発見されています。
 ところで、なぜこれがマツリの道具と考えられているのでしょうか。ひとつにはその大きさがあります。70pを超えるこの武器を振り回すのは、容易なことではありません。また、写真の一番下、茎 (なかご)の部分には棒を差し込んで使うのですが、この形のころには茎がその用をなしていません。したがって、実用品とはいえず、むしろマツリ(祭祀)に用いたのだろうと考えられているのです。
(広報せいよ、2004年12月号)

〈古代ロマンの里創世記〉vol.10
市内埋蔵文化財めぐり (9)
 「銅矛が出た場所」 (野村・銅矛出土地)
 以前、 野村四郎谷の銅矛(どうほこ)を取り上げましたが、 もう少し掘り下げてみたいと思います。
 銅矛は九州北部でつくられて、 福岡−大分−宇和−窪川というルートで四国西南部へもたらされたと考えられています。 九州では複数の銅矛が埋納される場合、 その多くは 「生活空間とは隔絶した高地」 に出土します。 西予市宇和町久枝の大窪台では最少でも5例は出土していると考えられており、 これらは集落や平地を望む山から出土したとされています。 高知県中村市具同石丸(ぐどういしまる)では1例が低地から出土。 窪川町ではあまり高くない場所からの出土が多いようです。
 翻って野村町四郎谷の銅矛はどうか?はっきりした場所の限定はできませんが、 おおよそ渓筋を流れる稲生(いのう)川のほとり、 非常に低い位置からの出土だといえます。
 埋められた場所が九州や宇和とは違うということは、 銅矛に込められた意味合いが違っているかもしれません。 1本だけの出土ですが、 どのような意味でこうした場所に埋めたのか?興味深い例です。
(広報せいよ、2005年5月号)

大杉【野村町松渓】
・町指定有形文化財(平成7年10月24日指定)

百人一首絵馬【野村町杉山】
・町指定有形文化財(平成12年3月25日指定)

絵馬8枚【野村町 三島神社】
・町指定有形文化財(平成13年1月25日指定)

大窪新四国八十八ヶ所【野村町惣川 舟戸】
・町指定民俗文化財(昭和49年6月28日指定)

野村四国八十八ヶ所【野村町山本】
・町指定民俗文化財(昭和51年2月25日指定)

木造恵比須坐像【野村町権現】
・町指定民俗文化財(昭和55年7月31日指定)

木造大黒天坐像【野村町山本】
・町指定民俗文化財(昭和55年7月31日指定)

白木ヶ城跡(しらきがじょうあと)【野村町片川】
・町指定記念物[史跡](昭和48年7月3日指定)

上城跡【野村町溪筋 松渓】
・町指定記念物[史跡](昭和49年6月28日指定)

鎌田城(鎌田ヶ城)跡【野村町渓筋 鳥鹿野】
・町指定記念物[史跡](昭和49年6月28日指定)

竜ヶ森城(龍ヶ森城)跡【野村町野村 阿下】

岩本将監の墓【野村町貝吹 栗木】
・町指定記念物[史跡](昭和48年7月3日指定)
・城川町の三滝城の城代家老で、猿滝城主を兼ねた岩村将監の墓。

五輪塔群【野村町貝吹 西】
・町指定史跡(昭和51年2月25日指定)
・南北朝時代のものと推定され、この辺りに11基ある。

五輪塔群【野村町野村 阿下】

高橋玄蕃五輪塔【野村町予子林 松尾】
・町指定記念物[史跡](昭和48年7月3日指定)
高橋玄蕃は道後湯築城主・河野通直の家臣で、越智郡高橋郷を治めていたが、天正13年河野氏滅亡後にこの地へと落ち延びて土着した。
・元和6年(1620)8月14日没。戒名は「高松院殿賢翁真徳大居士」。

大塚源十郎五輪塔【野村町中村】
2005/8/5
・町指定史跡(昭和48年7月3日指定)
・中村墓地内にある。
・塔高約110cm。
一ヶ森城主であった大塚源十郎の供養塔。白岩城、白石城、小振城にも拠った。
・通称「世柱様」
・大塚源十郎は、紀実平(さねひら)の孫・備前守通安(みちやす)の三男・長門守安親(やすちか)の別名。越智安親とも名乗った。
 
 ★大塚源十郎五輪塔説明書き
大塚源十郎五輪塔
これは紀の長門守安親(別名越智安親または大塚源十朗)が、またはその子越智勘兵衛の供養塔であろうといわれています。尚、この地域の開祖として俗称"世柱様(よばしらさま)"とも称されています。
            記念物 昭和48年7月3日指定
世柱様由来記の碑
この五輪塔は天正十一年(西紀一五八三年)頃に当地方の先覚者で民生につくし■■も治したと伝えらられう元小振城主紀長門守安親公、別名大塚玄蕃であって南朝に仕えた紀貫之の末裔であり古くより里人は世柱様と称え信仰して来た。今般町文化財に指定されたのを機会に境内を整備由来の碑を建てその由緒を長く構成に伝えることにした。

御番所跡【野村町中筋 高瀬】
・町指定記念物[史跡](昭和48年7月3日指定)
・寛永年間、宇和島藩が大洲藩との境界に設けた関所跡。

御番所跡【野村町渓筋 白髭】
・町指定記念物[史跡](昭和48年7月3日指定)
・慶長19年、宇和島藩が大洲藩との境界に設けた関所跡。

松溪経塚(まつたにきょうづか)【野村町溪筋 松溪】
・町指定記念物[史跡](昭和48年7月3日指定)
・「入らずの山」と呼ばれる丘陵の斜面にある。
・鎌倉時代後期の徳治3年(1308)銘の経筒2個と経巻47巻が見つかった。

〈古代ロマンの里創世記〉vol.12
市内埋蔵文化財めぐり (11)
「 経 筒 (きょうづつ)」 (野村・松渓経塚)
 今回は、 古代のロマンから少し時代が離れた中世のお話です。
 写真は、 野村町の松渓経塚 (まつたにきょうづか) 出土の経筒 (きょうづつ) です。 松渓経塚は標高約300mの山林中にあり、 この経筒2口は昭和32年、 木材搬出中に出土したものです。
 経塚とは経典つまりお経を埋めた塚のことで、 平安時代から近世に至るまで作られていました。 経筒は、 お経を入れる筒形の容器ですが、 お経がそのまま残るということは極めてまれな例です。 松渓経塚の経筒に入っていたそれは、 ほとんど残っていたという点で注目を浴びました。 この筒には銘文が刻まれ、 「徳治三年」 (1308年) に供養されたものということが分かります。
 本来経塚は、 経典を将来へ託したり、 さまざまな願いを込めたりしたものであったのが、 のちに松渓経塚のように死者の供養のために作られるようになりました。
このコーナーへのご意見・ご感想、 お問い合わせは、 市教育委員会 文化体育振興課まで
(広報せいよ、2005年7月号)

前嶽(まえがく)溝【野村町野村 慈眼堂】
・町指定記念物[史跡](昭和56年2月13日指定)

・野村町山本出身の徳山駒吉が建設した総長3545mの水路。
・宇和川(四郎谷出合)から野村盆地に水を引き込むため、1852〜1862年に私財を投じて測量・工事を行ったが水量不足であったため、宇和島藩(当時藩主は伊達宗徳)に直訴。1867〜1868に延べ11,895人を動員して完成した。

泉貨居士の墓【野村町竹之内】
2005/8/5
・町指定記念物[史跡](昭和51年2月25日指定)

一字一石像【野村町横林 坂石】
・町指定記念物[史跡](昭和48年7月3日指定)

大審院長 児島惟謙苦学之地【野村町野村 本町2丁目】
2005/8/5
・町指定記念物[史跡](昭和49年6月28日指定)
 
 ★緒方惟貞
 緒方惟貞は宇和島藩・野村の大庄屋。宇和島藩全域を揺るがした野村騒動を解決し、乙亥相撲を創始しました。
 文政五年(1822)五月緒方惟真の次男に生まれ、少年時代から文武に励み、頼山陽の長子律庵に師事、藩内では勤王僧晦巌や藩校教授の上甲振洋と交流しました。
 嘉永五年(1852)野村で大火があり、惟貞は愛宕神社に願相撲を奉納しました。これが乙亥相撲の始まりです。
 文久年間(1861〜1863)討幕運動のため脱藩、京都大阪へ行き、このため藩から処罰を受けて隠居しました。
 明治三年(1870)三月、野村騒動が起こり、領内各地の農民一万数千人が野村庄屋に押しかけてきました。惟貞は、農民に食糧などを提供する一方、農民代表を集め、藩庁との間に立ち、騒動を解決しました。
 父惟真は文化14念(1817)の被差別者救済事件で惟貞の祖父で代官の惟吉と共に被差別者側を支持し藩庁と対立しました。また、嘉永五年に、司法権の独立を確立した、後の大審院長児島惟謙が、惟貞の下で文武の修業をし、惟貞の影響を受けました。
            平成六年(1994)11月 
★児島惟謙(これかた)
 児島惟謙は司法権の独立を確立した大審院長(最高裁判所長官)で緒方家の出身。
 天保八年(1837)2月惟彬の次男に生まれ、父惟彬は文化六年、当家に生まれ金子家に養子にいき、嘉永二年職を辞し緒方に復姓。
 惟謙も十五歳から三年間を当家の惟貞の下で文武の修業に励み、この間、文化十四年(1817)の被差別者救済事件で一族の野村組代官緒方惟吉・惟真親子の強靭な人間尊重の影響を受け、慶應三年(1867)脱藩、倒幕運動に参加、明治維新後、地方行政官、明治五年(1872)判事となり、大阪、福島、名古屋裁判所長等を歴任、明治十九年大阪控訴院長となる。その在任中、新島襄の同志社大学設立を援助、関西大学の創立に参画、明治24年(1891)五月、大審院長に転出、就任後六日目に大津で来遊中のロシア皇太子を警備中の巡査が襲い負傷させる「大津事件」が起きた。惟謙はロシアの報復を恐れた政府の干渉に屈せず、司法権の独立を守った。
 その後、大審院長を辞し、貴族院議員となる。明治二十七年四月当家の緒方惟忠(陸朗)宛に「衆議院議員になる意思がある。不動産名義を移し、納税すること」を頼み、本籍も野村町に移し、明治31年4月衆議院へ、同八月解散、再度当選し三十五年まで衆議院議員として立憲政治確立のため努力した。
            平成七年(1995)二月

阿下歌舞伎(あげかぶき)【野村町阿下】
・町指定無形文化財(平成6年6月27日指定)
・約140年ほどの歴史を持っており、「狭間の合戦、太閤記の十段目、寿司屋の段」等々、数多くの狂言を昭和40年頃まで、年1回(2日間)夜公演がなされていた。

花取り踊り 【野村町中筋 岡成】
・毎年9月第1土曜日に行われる伝統行事。
・元和年間の 8月5日、落雷による大火事が発生し、今後このような災難が部落内で起きないように、神様に祈願し、踊りを献上したのが始まりとされる。
・大太刀、小太刀を持った踊り手16名が軽快な踊りを繰り広げる。

小踊り【野村町惣川 小屋】
・町指定無形文化財(昭和40年12月24日指定)

伊予の里神楽【野村町貝吹 西】
・町指定無形文化財(昭和44年8月11日指定)
・鎌倉時代に発生したといわれる郷土芸能

客神社の岩戸神楽【野村町横林 坂石】
・町指定無形文化財

五ツ鹿踊り【野村町野村 片川】
・町指定無形文化財(昭和47年12月2日指定)

五ツ鹿踊り【野村町野村 次ノ川】
・町指定無形文化財(昭和47年12月2日指定)

五ツ鹿踊り【野村町渓筋 鳥鹿野・旭】
・町指定無形文化財(昭和47年12月2日指定)

五ツ鹿踊り【野村町中筋 高瀬】
・町指定無形文化財(昭和47年12月2日指定)

五ツ鹿踊り【野村町中筋 富野川】
・町指定無形文化財(昭和47年12月2日指定)

六ツ鹿踊り【野村町貝吹 西】
・町指定無形文化財(昭和47年12月2日指定)

八ツ鹿踊り【野村町惣川 三島神社】
・町指定無形文化財(昭和47年12月2日指定)

泉貨紙製造技術伝承者 菊地定重【野村町中筋 小滝】
・町指定無形文化財(平成13年3月22日指定)

子供ねり相撲甚句【野村町貝吹 西】
・町指定無形文化財(昭和51年2月25日指定)

成龍寺念仏踊り【野村町富野川】
・町指定無形文化財(平成5年10月27日指定)

トゲナシテリハノイバラ(トゲなしバラ)

・弘法大師が棘を封じて里人の苦しみを解いたという伝説がある。
・町指定天然記念物(昭和39年12月12日指定)

猿坂峠の黒松【野村町馬地】
・町指定天然記念物
★ワシが小学生の頃には、野村小学校の西側に聳える山に一際大きな一本の松が雄姿を見せておったんじゃが、松食い虫にやられて、いつしか姿を消してしもうた。(よって、天然記念物は解除になっとることじゃろな。)

山もみじ【野村町阿下】
・町指定天然記念物

木斛【野村町阿下】
・町指定天然記念物

客神社社叢【野村町横根 坂石客神社】
・町指定天然記念物(昭和39年12月12日指定)

大白樫【野村町 港の森三島神社】
・町指定天然記念物(昭和39年12月12日指定)

大椋【野村町溪筋 鳥鹿野】
・町指定天然記念物

天満神社の這いあすなろ【野村町貝吹 中通川】
・町指定天然記念物(昭和44年8月11日指定)

小屋の羅漢穴【野村町惣川 小屋】
・町指定天然記念物(昭和51年2月25日指定)

桂川渓谷【野村町野村(深山)】
・町指定天然記念物(昭和56年2月13日指定)

樽滝【野村町旭】
・町指定天然記念物(昭和56年2月13日指定)



城址

白木ヶ城跡(しらきがじょうあと)【野村町片川】
・町指定史跡
・宇都宮氏の本城。
・城跡からの出土品が多い。
・山裾の古市は当時城主の居館が置かれた城下町であった。江戸時代以前はここが野村の中心地であったという。
 
首無し馬の伝説

鎌田城跡【野村町鳥鹿野】
宇都宮成綱が築城し、東多田より独立して野村を支配した。

亀城(かめんじょ)【野村町】

 
亀ヶ城(かめんじょ)跡の火の玉

猿ヶ滝城跡【野村町横林→肱川町予子林】
・「豫子林村に在り、城代岩木将監(*1)居る北ノ川の落城と同時天正十一年正月十三日長曾我部の勢攻め来り防戦力叶はず将監は城の麓に鹽屋の淵を游き渡りけるが敵城中より鐡砲を劇しく打ちかけたる故に栗木村の方川端に自害して死せり、今に於て坂石村高丸より下り船の分は此所の前に至れば必ず御酒を上げ念仏して通ると云ふ。寶徳年中新田義宗脇屋義治伊豫へ来る時河野の命にて最初宇和郡の猿ヶ瀧へ送り潜居せしめたりといふは此城なり」(伊予温故録)
※1 岩木将監ではなく、岩村将監の誤りであろう。

一ヶ森城【野村町】

泉城跡【野村町】

上城跡【野村町溪筋 松渓】

鎌田城跡【野村町渓筋 鳥鹿野】
・町指定史跡

竜ヶ森城跡【野村町野村 阿下】
・町指定史跡
・宇和西園寺15将の魚成氏の居城。
・山頂から段々仕切られた郭になっている。

鎧ヶ鼻城【野村町惣川】
・「相川村にあり、一に天神ヶ森城と云ふ、城代相伴伊豆守居る」(伊予温故録)



遺跡

四郎ヶ谷(しろがたに)【野村町松溪】
・幼い頃の記憶によれば、「四郎谷」(しろうたに)と呼んでいたような気がする。
・ここからは銅鉾が出土している。



古墳

安穏寺【野村町阿下】→西予市野村町阿下2-78

安楽寺(あんらくじ)【野村町野村(竹ノ内)】→西予市野村町野村3-286
2003/8/24
・山号:雲林山
・大本山 永平寺 総持寺
・宗派:曹洞宗
・永任元年(1292)開基。
★小学校の頃は、よう学校の帰りがけにこの寺で道草を食いよった。春には甘茶を水筒に詰めて帰ったり、秋には椎の実を拾うて帰ったりしたもんじゃ。
 
泉貨居士の墓(せんかこじのはか)
・県指定文化財[史跡](昭和24年9月17日指定)
タブノキ
・樹齢:300年以上
・樹高:30m
・太さ:6.1m

高安寺【野村町高瀬】→西予市野村町高瀬1361

興禅寺【野村町惣川】→西予市野村町惣川571

慈眼堂(じがんどう)【野村町】
2003/8/24
 
前嶽溝碑
宇和街道の石橋
慈眼堂橋
・昭和4年5月架換
前嶽溝百年記念碑
池ヶ野堰復興記念碑
★池ヶ野堰は、昔、学校帰りに寄り道して泳いだことがある場所である。
難所水没碑
・野村ダム湖畔にある。
・1981年、倉之子堂水利組合が建立した。

西岸寺(さいがんじ)【野村町中通川】→西予市野村町中通川77
・山号:吉祥山
・宗派:曹洞宗

大泉寺【野村町野村】→西予市野村町野村9-153

成龍寺【野村町富野川】→西予市野村町富野川1994

バラ大師永照寺(ばらだいし えいしょうじ)【野村町阿下(十夜野)】→西予市野村町阿下5-974
1999/1/22
・四国曼荼羅霊場第52番札所
・伊豫二十一霊場第20番札所
・弘法大師ご巡錫伊予21霊場
・山号:霊光山
・この「とげなしバラ」のある聖地は、延暦10年(791)頃、大師が四国巡錫を続け、釈迦の正法を広めている途次に野宿した聖地とされる。
・当時はバラの蔓が所狭しと茂っており、安眠ができず、大師は法力で「バラの棘」を封じ込めたが、一夜の野宿があたかも10日間の苦業の如き野宿であったとの伝承で、この地方を昔から十夜野(とやの)と称している。
・この「とげなしバラ」の霊地に参詣して一心に祈願すれば、一切の煩悩のトゲは滅除されて霊妙不可思議な霊験を被り、心願は悉く達成し霊感に歓喜する。
★そういや、ここは小中学生時代には絶好の「写生大会」ポイントじゃったのぅ。
 
ばら大師縁日祭り
・4月21日、7月21日
六波羅蜜井戸
・この六波羅蜜井戸は、町内全地区に水道設備の無い昭和初期のある日、弘法大師野宿の聖地「十夜野(とやの)」へ巡拝の同行二人、上田亀次(高知県幡多郡三崎)と伊藤甚蔵(大阪市東淀区)の二人が参拝者への冷水の布施を発願し、井戸を掘ること数年、三日掘っては一日托鉢、托鉢の途中に伊藤忠助と妻タツ(大分県南海郡佐伯町)にあい、賛同協力し、4名は夜苦行の井戸掘りに精進忍■■、七間の深きに達し、昭和5年3月21日にやっと清水が湧き出た。4名は歓喜して次の巡拝地へと出発した。
昭和40年に十夜野地区にも水道が整備された。井戸は危険だと土砂でつぶされていた所を発掘すること数日、冷水一滴も出ない。作業中止にするか、いやあと二尺掘る。不思議や霊水が本堂の方向からコンコンと湧き出る。大師の神通力の■■を受ける。
南無大願王地蔵菩薩
・この中央の大願王地蔵菩薩は、全ての地蔵菩薩の淵源である。この台座の土中には、宝永七年に法華経全巻69623の文字を小石69623個に浄書し埋めてある。一字一石塔の菩薩座の上に立っている有り難い地蔵である。諸人曰く「この願掛け地蔵に祈願すればいつのまにか霊妙不可思議な霊験を授かるから不思議だ」と昔から伝承されている。
・家内安全、息災延命、商売繁盛、五穀豊穣、進学合格、就職達成、相縁結婚、安産出生に利益ありという。
鐘楼
・高さ 4.8mの総欅造り、釣り鐘は富山県高岡市へわざわざ出向き火入れ式を行ったもので、直径70cm、重量 120貫(約450kg)の大釣り鐘。
・平成5年4月24日に落成し、バラ大師鐘楼落慶大法要が行われた。
お砂ふみ
・春は4月21日、夏は7月21日。
バラ大師のとげなしバラ

日切地蔵(ひぎりじぞう)【野村町河西】→西予市野村町河西1203
2003/8/24
・出合トンネルの左側の小高いところに鎮座している。
・日を何日間と決めてお詣りすると難病、受験など、どんな願い事でもかなうという言い伝えがあり、今でも満願のお礼として納められたのぼりが立ちならんでいる。上から水色・白・赤・白・黄の幟に願を記して奉納しているようだ。
・日切地蔵は広く県内外に知られており、縁日はもとより日頃からたくさんの信者が訪れている。
 
川柳碑
「お日切の 楊貴妃桜 ダムの風」 比呂志
日切地蔵大祭
・4月23日、9月23日

福徳寺【野村町四郎谷】→西予市野村町四郎谷1-303

本光寺【野村町小松】→西予市野村町小松3467

高善寺【野村町惣川】
・「相川村に在り、創建不詳、開山を本空和尚といふ、此寺の門前に松あり、根より一間ほど上り、夫より冠木の如く横にのび、梢にて五六尺ほど自然に下り、田の上をはいたる事十一餘あり、此下を寺の往還とす故にこれを称して根はい松といふ(舊記)」(伊予温故録)


神社

愛宕神社(あたごじんじゃ)【野村町愛宕】

・愛宕山山頂に鎮座する。
・嘉永5年(1852)6月25日に野村町内で大火災が発生し、当時の庄屋 緒方与次兵衛が同年10月15日に「火鎮擁護祈願」のために建立した。
・愛宕神社への奉納相撲として、毎年旧暦10月の乙亥の日に33番結びの相撲を行うようになった。これが乙亥大相撲の由来である。

乙姫神社【野村町深山】

乙御前の滝から続く細い道を上がったところにある。
 
乙姫神社夏祭り
・7月25日

三島神社(みしまじんじゃ)【野村町野村3-57(三島町)】→西予市野村町野村4-54
2005/8/5
・祭神: 大山祗神、菊理姫命、大雷大神
・電話番号:0894-72-0557
・野村の商店街を抜け、三島橋を渡ってすぐの三叉路を右に折れ、県道(旧国道441号線)を進むとすぐに見えてくる。
・和銅5年(712)に大三島大明神を伊予国に勧請する詔勅があり、天平5年(733)9月5日に越智郡大三島の大山祗神社の分霊を勧請し、仁治2年(1241)12月5日に再建した。その後も、度々の大水で被害を受け数度再建している。
・昭和31年(1956)には、野村に鎮座していた熊野神社(正応3年(1290)紀州熊野神社の分霊を奉っていた)を合祀した。
・境内末社:愛宕神社
★ホームページを開設しておいでるようじゃね。URLはhttp://www.netwave.or.jp/~mishimaj/。

三島神社(みしまじんじゃ)【野村町惣川】

・祭神: 大山祗神
・「船戸の森三島神社」船戸神社」ともいう。
・「相川村に在り、昔しより船戸明神とて川中に宮あり、寛永六午ノ歳洪水にて宮の上の草木へ塵芥はかかれども此宮は其儘にて流れず人々皆奇異なりといひ合ぬ(舊記)」(伊予温故録)
★船戸の森三島神社は、坂東真砂子氏原作の映画「死国」のロケ地となったみたいじゃね。ワシが入院しとった旧野村病院病棟もロケに使われとったなぁ。
★そういや小学校んとき、ここで飯盒炊爨をやったなぁ。
船戸の森水辺公園

三島神社(みしまじんじゃ)【野村町松渓】
1998/1/22
・家内安全に御利益あり。
・神社の創建は応永7年(1340)3月で、白髭、松渓、鳥鹿野、旭の各部落の氏神社となっている。
☆拝殿、本殿ともに茅葺きになっているのは珍しい。(部分補修は藁を用いているようだ。)
木造御神像三躯
・野村町指定文化財第16号(昭和47年12月2日指定)
・大山積神、雷神、高おかみ神の三神で、欅材による一木彫である。作者は不明であるが、藤原時代の作といわれている。

客神社【野村町坂石】
・祭神:伊弉諾大神、伊弉册神
 
客神社社叢
・町指定天然記念物
岩戸神楽
・町指定無形文化財
・明治時代から続けられている里神楽。
・貝吹地区西の住吉神社と坂石の客神社の付属神楽社による神楽で、約400年の歴史と伝
統を誇る。
・毎年4月3日に行われる行事である。

住吉神社【野村町貝吹 西】

白王神社【野村町釜川宮本】→西予市野村町阿下7-3-2
・交通安全の神を祀る。

野坂神社【野村町高瀬3593】
・「高瀬村に在り、長禄二戌寅年三月尾首森城主三瀬宮内之丞創営し刀三振を納む(明細書)」(伊予温故録)

三柱神社【野村町阿下】
・「阿下村にあり、正應元戌子年那須與市宗高願ありて熊野より勧請せり(明細書)」(伊予温故録)

龍王神社(りゅうおうじんじゃ)【野村町大野ヶ原】→西予市野村町大野ヶ原10-153
2001/8/12,2003/11/15
・電話番号:0894-76-0235
・水を司る神として海難、干ばつ除け、大漁、豊作に利益がある。漁業・商売その他万(よろず)の神とされる。
・漁師や農民からの信仰が厚い。
・標高1200mの海の神。
・美しい少女、小松姫の伝説がある。
・海の神様として信者が多い。
竜王神社大祭
・5月18日、9月28日
竜王神社と姫ヶ淵
小松ヶ池
・大蛇が棲むとの伝説有り。
・ドリーネに水が溜まって出来た池。
・池の底は羅漢穴に繋がっている…というような話を聞いた記憶有り。
・昔はジュンサイが生えていたというが、今はどうか。


お堂

田の中の祠【野村町中村】


地蔵

地蔵【野村町中村】

大窪新四国八十八ヶ所霊場【野村町惣川】
大窪バス停から山中の参拝道を抜け、大窪御堂に至る約8kmの道のり。

野村四国八十八ヶ所巡拝霊場
・野村町指定民俗文化財(昭和51年2月25日指定)
「ここ野村八十八ヶ所は、今から145年前の弘化4年(1847)に開基されたものです。第1番札所は慈眼堂にはじまり、結眼の88番は白木ヶ城主の菩提寺として知られる大泉寺です。この大縁日は毎年旧暦の3月、7月、11月の各21日に行われています
野村町 野村町教育委員会」

C新四国八十八か所 所在地 東宇和郡野村町大字野村山本
 四国八十八か所にあやかり、神仏石像をそれぞれの札所に奉納祭祀した、野村版の新四国八十八か所である。
 弘化4年(1847年)、山本・上野・中村組の協同発起によって創設され、慶応4年(1868年)に追加設置、その後、明治、大正に修理が行われ、今日に至っている。
 札所への奉納者は、近隣はもとより遠く西条や大阪等に及び、それらの寺名は、別名が多く、特に、頂上には、学問の神様、天神像を祭るなど、当時の世情を知る資料となる。
 第1番札所慈眼堂(じがんどう)から結願所(けちがんしょ)第88番札所の大泉寺(だいせんじ)までの道行は山あり谷あり岩場ありと変化に富み、所によっては、難所が待ち受けており、諸人の願いをきくには、あまりにも素ぼくで、表情ゆたかな霊場である。
 旧歴3月21日と9月21日には、例年、祭が行われる。
(町指定有形文化財)」
(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)




源氏ヶ駄馬【野村町】

大野山【野村町/宇和町】
・標高797m。
・郵便番号の頭3桁と符合しているのがなかなか面白いではないか。

大判山【野村町/宇和町】
・標高799m。

鉢ヶ森【野村町】

御在所山【野村町/肱川町】

・標高669m。

高雄山【野村町西/肱川町西】

竜王山【野村町/肱川町】

岳山【野村町/肱川町】

大旗山【野村町/河辺村】

丸石山【野村町/小田町】
・標高1327.5m

碁石ヶ森【野村町】
・標高1185m

吉森山(よしもりやま)【野村町深山】

・標高897m

《BCLのこと》
→See.「約149万人の媛語読本」

ちんから山【野村町久保谷】

 伊勢井谷から久保谷へと通じる山道と途中にある。
 「ちんから石」をよく採りにいったものである。「ちんから石」とは、石灰岩の変質したものだと思うのだが、キラキラ輝く宝石のような石である。
 なぜそれを「ちんから石」と称するのかは、未だ僕には謎である。
 「ちんから山」には鍾乳洞もあった。今では崩落によるものか、入り口が殆ど閉ざされた状態にある。鍾乳洞内部にはコウモリやカマドウマが生息していた。時折、ゲジなども姿をみせた。

拝高山(はいたかやま)【野村町伊勢井谷】

 伊勢井谷の部落の一部の人達が、どこから勧請したのかは定かではないが、部落の西端、昔宇和島バスの「伊勢井谷」停留所があった場所の裏の山の山頂に拝鷹権現を祀っている。ここも、とっておきの遊び場所であった。
 山頂には、直径6〜7mはあるだろうか、大きな石が鎮座している。拝鷹権現はその石の下に祀られている。幼い頃は、何やら神様らしきものが祀られていることは認知していたものの、それが何なのかを意識することはなかった。「拝鷹山」という名前についても、なぜそう呼ぶのかなどと考えることはなかった。
 ドロマイト鉱山から西に200〜300mの位置にある。久しぶりに訪れてみると、拝鷹権現が祀られている巨石の位置より西手の尾根にも、巨石が立ち並んでいたことに気付く。何となくストーンサークルを匂わせるように、環状に配置されている。ひょっとしたら、この場所は古代においても信仰の場であったのではなかろうかと考えさせるのである。
→See.「参参、vol.1〜」

はげ山【野村町伊勢井谷】

 行政区分で言えば、城川町に属するのであろう。ドロマイト鉱山のある山稜で、鉱山の東側に位置する。どういうわけだが、その名の通り、頂上部には草木が生えていない。
 僕が小学生・中学生の頃は、この山によく遊びに行ったものだ。
 長さ1〜1.5mの竹を二つに割り、その先っぽを火で炙りながら反らせる。そして、スキー板を作る。山裾からこれを抱えてえっちらおっちらと登り、ハゲ山をゲレンデに見立てて「砂スキー」を行うのだ。ゲレンデ長は高々15〜20mで、途中からは勾配が45度以上はあると思われる急斜面になっている。まぁ、摩擦係数の大きそうな砂地なので、そうそう猛スピードで滑降するようなものでもなく、大人が心配するほど危険な遊びではなかった。(はずだ。)
 「まつぼっくりかつけやいこ」(松ぼっくりをぶつけあう遊び)、「基地作り」(葛などのツタを4本の木の枝に張り巡らせ、羊歯(しだ)等の枝葉をそのツタに引っ掛けて壁や屋根をつくる)などもよくやったものだ。
 
はげ山1号
はげ山2号

ドロマイト鉱山のこと
 ドロマイトは、苦灰岩、白雲岩ともいわれる。石灰岩よりマグネシウム(苦土)を多く含む岩石である。石灰岩をつくっている方解石(CaCO3)のCaがMgで置き換えられて出来たものや、蒸発岩として岩塩や石膏と一緒に出来たものが知られている。
 東宇和郡城川町・野村町(いずれも現・西予市)にはドロマイトを採掘している鉱山がある。
 ドロマイトには製鉄用副原料・セメント・ガラス・苦土肥料・ブラスターなどの用途がある。


鉱山

川・渓谷

肱川(宇和川)

稲生川(いのうがわ)

寺谷川

長谷川

桂川(かつらがわ)

戸石川
土石流危険渓流
・双津野を源流とし、伊勢井谷を通過して野村盆地へと下り、宇和川(肱川本流)へと合流する。
 夏には蛍が乱舞していた。「今も蛍は飛んでいる」というのだが、社会人になってからというもの、初夏に泊りがけで里帰りすることが殆どなくなってしまっていて、蛍に出会う機会がなかなか巡ってこないのである。
・そういえば、小学校5年頃の作文で、この戸石川の渓谷を遡行したことを書き連ね、将来は渓谷巡りの観光開発をするげな話で纏めたような記憶がある。

片川

富野川

高瀬川

成穂川

瀬田川

舟戸川

中筋川

カロト川
カロト温泉源泉

桂川渓谷(かつらがわけいこく)【野村町深山】

行ってみよう!えひめ感動の地20選

「A桂川(かつらがわ)渓谷
所在地 東宇和郡野村町大字野村横岳
 乙御前姫の悲しい伝説を秘める昼なおうす暗い幽山渓谷である。
 伝説にまつわる深渕、万古の深たんに落下する白条、両岸相せまる絶壁、奇岩にかかる飛瀑、原生林や高山植物等にも恵まれ、美しい自然探勝の渓谷で、特に夏の涼気を求めるハイキングやキャンプに絶好の場所である。また、冬期における樹氷と、凍りついた滝の景観も格別である。
(昭和55年、野村ダムの完成とともに、本渓谷は、野村ダムとの一体的なつながりが強化される。)
悲しい物語
乙御前姫(おとごぜんひめ)は、豪族の息子のもとへ嫁ぐことになったが、迎えが来ないのを嘆いて、尼になろうと頭を丸めた。ところが、そこへ迎えが来たので、カツラをかぶって嫁いで行った。
 やがて、丸坊主が発覚し、離縁されたのを嘆いて桂川に身を投げた。」
(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)
蝶の楽園(ちょうのらくえん)
・野村町には、日本に生息する250種類の蝶のうち、約100種が生息すると言われてきた。
・蝶の楽園は、桂川渓谷にある。
・平成2年より、この渓谷の約2haを蝶の楽園として整備している。
・ネットは無く、蝶が好む彼岸花、ノウゼンカズラなど吸蜜植物やショカッサイ、ニオイスミレ、ニオイスミレなど食草を池の辺に植え、自然のままの状態に整備している。
・楽園の一角に羽化ハウスがあり、蝶の卵や蛹を天敵の蜂や螳螂、野鳥から守っている。
・現在約32種類の蝶が生息する。
乙姫神社(おとひめじんじゃ)
乙御前の滝(おとごぜんのたき)
馬淵(うまぶち)
仲の滝(なかのたき)
下女淵(げじょぶち)
滝野城(たきのじょう)
キャンプ場
乙御前の伝説


池・沼・湖

岡池【野村町野村 岡】
・野村小学校の西側、現野村病院の敷地は元々は岡池と呼ばれる池であった。昭和47年に埋め立てられ、その後ボーリング場(確かレーマンボウルという名前だったはず)が建設され、後には春日館へと変わり、そして今日のように病院が建設されている。


樽滝(たるたき)【野村町旭】
・県道331号(高瀬・松渓線)を尼ヶ坂峠行き、ここから林道(樽線)を終点まで行けば、そこから徒歩10分で行ける。
 
樽滝(たるたき)
・滝の裏には「観音堂」へ通ずる小道があり、ここから眺める景色は格別で、別名「裏見の滝」とも呼ばれ、他にも、しぶきが七色の虹を彩ることから「虹が滝」とも呼ばれている。
観音堂(かんのんどう)
観音堂」には、戦国秘話によると、源氏の流れをくむ寺野六郎左衛門正直が寄進した「樽滝観音」が安置されている。
腰掛岩(こしかけいわ)
・寛政7年、宇和島藩主伊達公が絶景探訪の折りに腰掛けられたという。

金剛滝【野村町貝吹】
2002/4/13
・国道441号線沿い、大和田小学校のやや下流側・瀬田川にある。

白滝(男水の滝)【野村町小松】
・坂本龍馬が土佐から脱藩する途中で飲んだとされる「男水」を石灰岩の切り立つ崖の上に引いてつくった滝。
《資料・文献》
「私の絶景-59- 白滝(野村町)」、愛媛新聞、平成16年2月24日

鮎返りの滝
※2003/8/24、鮎返りの滝が眺められるかと期待して、ちょっと寄り道してみるが、辺りを探せど全然姿が見つからず。


ダム

朝霧湖(野村ダム湖)【野村町野村】
2003/8/24
行ってみよう!えひめ感動の地20選
・野村ダムは昭和57年に肱川下流の洪水調整、宇和島・八幡浜への水道水供給、南予の柑橘系栽培に供するための灌漑用水を目的に建造された。
・春には、ダム湖畔でのむらダム祭りが行われる。
・夏には、盛大に花火大会が行われる。
・冬にはイルミネーションが美しい。その数、26,000個であるとか。

B野村ダム公園 所在地 東宇和郡野村町大字野村
 愛媛県南予地域住民生活の安全と、産業経済の伸展のため建設される、野村ダム周辺の環境緑化整備計画のダム公園である。
 野村ダム湖水のゆたかなたたずまい、両サイドには、色とりどりの花がひらき、緑の広場は、いこいとやすらぎ、コミュニケーションの場となり、景観、レクリエーション等、緑水ゆたかな自然美あふれるかっこうの場となるであろう。
(ダムは、現在建設中で、昭和55年には完成の予定)」
(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)
日切地蔵公園
日切地蔵
シルク博物館
親水広場
出合大橋
自然の森
わんぱくランド
・平成4年(1992)7月23日オープン。
・芝スキーゲレンデ
・マウンテンバイクコース
・トリム
キャンプ場
・共同炊事場、トイレ、駐車場完備
・キャンプ場は約40張の広さ。
・4棟のログハウスが建っている。
親水石積公園
藤棚公園
鯉のぼり
・約180匹の鯉のぼりが5月に架設される。
のむらダムまつり
・毎年5月4〜5日に開催される。
朝霧湖マラソン大会
納涼祭・花火大会(8/13)
野村町酪農創始50周年記念乳牛像「ビッグミル」
・野村ダム駐車場付近に置かれている牛のモニュメント
・高さ4.2m、体長6.7m、胴回り5.6m
日本一の乳牛像らしい。
碑文
野村町の酪農は、昭和19年静岡県よりホルスタイン種雌牛25頭の導入に始まり 同25年明治乳業野村工場誘致 同30年集約酪農地域指定 同36年生産地形成事業地域指定を受け飛躍的な発展をみた かくして昭和38年には 1058戸 2300頭の生産地になった。
その一方では低乳価の窮地に立たされることにもなり、その苦境を乗り越える為 酪農家は自らの組織強化に努め 乳価闘争を経て経営改善や多頭化を奨めながら乳価の安定をめざして昭和40年に愛媛県酪連の設立となった。
さらに二度に亘る生乳生産調整 貿易の自由化による打撃を受けながら 現在176戸 4000頭 生産販売高18億円と県下一の生産高を誇る酪農団地として大きく発展してきた。
酪農創始50周年を迎えるにあたり幾多の変遷を顧みて先人の功徳に深く感謝すると共に我々は地域の活性化を図り 併せて酪農家の団結を強め自由化等にも屈しない「酪農の郷」の更なる発展を願い 町のシンボルとしてここに日本一の乳牛像を建立した。
 平成5年2月 野村町酪農創始50周年記念 乳牛像建立委員会
野村ダム湖の愛称「朝霧湖」
行ってみよう!えひめ感動の地20選 認定地 朝霧湖
川柳碑
「北風の中で育った親思い」まもる
「灯台のようふるさとに母が居る」かほる
・平成5年 川柳のむら
【花】ツツジ、サツキ、アヤメ

鹿野川ダム:坂石湖水【野村町坂石】

 
めがね橋[坂石]→船戸川橋
・鹿野川ダムの水位が下がると水没していた橋が姿を見せる。
鹿野川湖:オシドリ渡来地【野村町貝吹】
・冬にはたくさんのオシドリが渡来してくる。


天神橋

三島橋

野村大橋

船戸川橋

「土木」の日にちなんで
国の文化財選定目指す旧「船戸川橋」の見学会開催
国内で最も美しいコンクリートアーチ橋
 西予市文化財保護審議会と横林地区自治振興協議会生活環境部が11月18日、国の登録有形文化財選定を目指している野村町予子林の旧「船戸川橋」の見学会を行いました。
 旧「船戸川橋」は、現在使われている「船戸橋」のほぼ真下にあります。昭和34年の鹿野川ダム完成により水没。渇水期に姿を現します。鉄筋コンクリート製の上路式開腹アーチで、昭和5年に完成。横林村誌によると「この橋に要したコンクリートかたわく材料六百石はそのころ建築中であった河成小学校第一校舎の所要木材部より多かった」とあります。
 当日は同審議会委員や地元住民15人が参加。まず船に乗り込み下から橋を見学し、続いて、橋の上を歩きました。その後、同審議会建造物担当の第1部会・岡崎直司部会長が旧「船戸川橋」の概要を説明。橋りょう専門家から「国内で最も美しいコンクリートアーチ橋」と評価されていることなどを紹介しました。
(広報せいよ、2007年1月号)


風景
大野ヶ原(おおのがはら)【野村町小松】
2001/8/12
行ってみよう!えひめ感動の地20選
・天正12年(1584)、土佐の長宗我部元親軍の攻撃を受けた久万大除城主・大野直昌が、元親の軍を追い払ったことから、大野ヶ原と名付けられた。
・一丁ヶ原、一朝ヶ原ともいう。
源氏ヶ駄馬(げんじがだば)

・壇ノ浦で敗れた平家残党が安住地を求めて大野ヶ原までやってきた。
・ある朝、見張り番が遥か彼方を眺めると、夥しい数の源氏が白馬に跨って周囲を取り囲んでいた。驚いた平家残党はすぐさまこの地を退去した。
★これは白い石灰岩を見誤ったとのことであるが、周りの様子など、到着した日か明くる日には気付くだろうし、見誤るはずもなかろうに....と思ってしまう。
★小学校5年生のとき、惣川の少年自然の家で二拍三日ほどの野外学習をしたとき、源氏ヶ駄馬まで登ったな。中学校のときにも同じコースを辿ったような・・・。
ブナ原生林(小田深山ブナ原生林)
2004/5/8
・えひめ自然100選
・えひめ森林浴八十八ヶ所
・県三大天然林
 →石鎚山のシコクシラベ、篠山(西側斜面)のハリモミ純林
・小屋山県自然環境保全地域(昭和53年指定)
・野村町・小田町の境界の稜線部にブナ原生林がある。東西約3.5km、面積は約75haに及ぶ。

 源氏ヶ駄場の小松ヶ池から山腹に添った車道を北に行けば峠に着く。車道のそばには、わずかにアカモノが自生している。この植物は、可憐な釣り鐘状の花をつけるツツジ科の低木で、このあたりが分布の南限となっている。
 峠には駐車場が設けられており、ブナ自然林へはここから歩くことになる。峠から北を眺めれば、眼下に平家駄場の放牧場が広がり、山の斜面上部から稜線にかけては緑濃い広葉樹の林を見ることができる。広葉樹林のうち稜線付近のとりわけこんもりとした林がブナ自然林である。
 丸石山(標高1327.5m)稜線部分にもすばらしいブナ自然林が残っている。斜面中部から谷にかけては植林や伐採地となっていて、自然林は稜線付近にしか残っていない。はっきりした道が無いため、訪れる人は少ない。
平家駄場からブナ自然林に続く山道がある。入り口には道標があり、はっきりした一本道で迷うことはない。この道は砲車道ともいわれ、かつて小田町から源氏ヶ駄場演習場へ大砲を運ぶために建設されたものである。ブナ自然林までの道のりは、約1.2kmで、その間はミズナラなどの落葉広葉樹の二次林が続いている。途中の谷側には、愛媛県では珍しいテツカエデの大木がある。
小屋山ブナ保護林は、峠を過ぎて小田町側斜面にあり、保護林の手前には松山営林署の設置した表示板がある。
これによれば、この保護林は、「垂直的森林植物帯に於けるブナ帯として学術の考証上これを維持保存するものとする」という目的で、大正14年に松山営林署が、標高1100〜1300mにかけての848haを保護区に指定したと記されている。

ポニー牧場
・動物達とのふれあい体験ができる。
つつじ公園
・6月中旬から下旬にかけてが見頃。
一夜ヶ森
竜王神社
大野ヶ森
(所在地調査中)
秋望台
(所在地調査中)
甫意坂
(所在地調査中)
笹ヶ峠
(所在地調査中)
大野ヶ原七不思議
@小松ヶ池の龍王
・金物を池に入れると、たちまち雷鳴を伴った豪雨を降らせる。
・いくら雨が降っても池の水かさは増さない。
A弘法大師の大野山童就寺
Bフク山
C箱水
D盤石
E源平合戦
F戦国の物語
の七つ?(大野ヶ原の主ともいわれる巴松太郎氏に尋ねてみること。)
アカモノ自生地
・小田深山との境にアカモノが自生しているという。
尻無川


洞窟・鍾乳洞

樹木

バラ大師のとげなしバラ

・野村町指定天然記念物 第4号(昭和39年12月指定)
・学名:テリハノイバラ
・南予一帯の山野に自生するバラの一種で、このバラはトゲがないのが特徴である。6月下旬に白い花が咲き、秋には赤い実がつく。
・このトゲのないバラは、その昔、弘法大師が四国巡錫のとき、ここに野宿されバラのトゲの痛みに悩まされ、この土地の里人のためにトゲを封じ込められた「とげなしバラ」と伝承されている。
・持ち帰ると、色々の災難にあう人が有ることが未だに不思議なことである。
とげなしバラの伝説
 大師の野薔薇の上の一夜の野宿は「十夜」の苦しい修行と同じであった。「里人はこの野バラの棘で苦しむであろう」と、大師はこの土地の人の為に棘を封じ込めた。そして「他の土地に移すと棘が出て天罰にあいますぞ。くれぐれも注意しなされ」と言われたという伝説が残る。
 未だに不思議な事がある。高知の学生がそれは迷信と、バラの移植の実験をしたところ、棘が出始めると家でも親戚でも不幸・災難が続き、自分は大変な交通事故をして「ただ私は深く後悔します」を懺悔参りに来た。
 大正12年の官憲が「バラ大師は現代の邪教」と決めつけて、大師の尊像を警察に拘引、暴挙した。その為か、不思議なことに当時の署長や巡査部長など警察当事者達の身上に死者・発狂者が続発した。そして昭和25年3月、愛媛新聞社野村支局長や信者達の要請で当霊地に28年ぶりに返還された。
 バラの小枝を盗み帰り、急に原因不明の腹痛に罹ったり、棘が出始めてから病気になり入院、その日に高いところから落ちたとか、急に親友と不仲になったといった話もある。

小屋山のブナ原生林【野村町大野ヶ原】




土屋隧道(つちやずいどう)【野村町双津野/広見町】

(観光地でもないのにこんなとこ掲載してもええんかいねぇ?)
・国道441号線、広見町境に位置するトンネルで内部照明・緊急電話一切無し!
★ここはワシが小学生のときの「遠足コース」じゃったんよ。標高520mで、野村町の中心部を見下ろすことができるんよ。天気のいい日には、東方彼方に大野が原(らしき山)が見渡せらい。
★夏場はカブトムシ・クワガタムシの宝庫じゃけん、そこらへんにあるクヌギの木でもけつってみないや!ボトボト落ちてくるけんな。
★このトンネルはよいよ車の通行が少ないんよ。ほじゃけん、小学校行きよったころはここに遊びに来てトンネルん中で「肝だめし」したり、花火して遊んだもんよ。思い起こせばよいよ懐かしいわい。
★冬の朝なんかも抜群の景色でな。野村盆地を埋め尽くす雲海の風景なんかは絶品よ。
★ワシの「異郷への憧れ」の原点は、ここと城川町境の「桜峠」。この「トンネルを抜ける」「峠を越す」という行為は、その向こうに広がる未知の世界に踏み込むことじゃけんな。幼いワシの胸は躍りかやりよったもんよ。



笹ヶ峠【野村町大野ヶ原】

猿坂峠【野村町】
猿坂峠の大松
松食い虫に食われて枯死してしまった。
※野村小学校の校庭から、西側に聳える山を見上げると、稜線上に一際偉容を放つ大松の姿があった。
→乙亥の里に標本が展示されている。


井関三四郎句碑【野村町野村 野村町健康福祉センター前】
「 花抱けば 妻に二十の 日が還る 」
2005/8/5
・平成10年(1998)10月、吟社「川柳のむら」によって建立された。
・この句は、井関三四郎遺句集「花の驕り」に収められている。
井関三四郎(本名:英雄)は大正10年野村に生まれた。
・その後、警察官を務める傍らで川柳作りに没頭し、その才能をいかんなく発揮した。
・結核を患い、昭和27年7月21日に亡くなった。享年31歳。

西園寺源透頌徳碑【野村町高瀬 中筋小学校】

西園寺源透頌徳碑【野村町富野川 西園寺邸跡】

「児島大審長苦学之 地」の碑【野村町】
2005/8/5


公園

愛宕山公園(あたごやまこうえん)【野村町愛宕】
1998/1/22
・野村町中心部の西に位置する小高い山の上に鎮座する。
・全国に名高い(?)乙亥大相撲は、ここの神様に奉納するために始められたんよ。
・山頂には展望台があり、野村の町並みが一望できる。

「D愛宕山公園
所在地 東宇和郡野村町大字野村愛宕
 朝夕の散歩に、春の花見に、まちの夜景を眼下に見わたす野村盆地の中心地にあり、住民のいこいと語らいの広場公園である。
 ここには、トリム施設があり、こどもはもとより大人ともども楽しい声々が絶え間ない。心のやすらぎと明日への生産意欲へ、特に親子間、住民間のコミュニケーションの花咲く住民広場である。その他、ここには、野村名物"乙亥(おとい)相撲"に関係する「愛宕神社」がまつってある。」
(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)

★ワシが小学生の頃は、よう写生大会でこの公園に行きよったもんよなぁ。
★春には桜の花が楽しめる。2002年春、「町ん中から慰霊塔が見えん!」という理由で桜の木が数本伐採されたという新聞記事が出とったが、まぁ勿体無いと言えば勿体無いことよのぅ。

野村町総合運動公園【野村町】

・愛宕山の南西の小高い丘の上にある。
★野球場、テニスコートなどのスポーツ施設のほか、ローラ滑り台などの遊具もあり、子供連れでも楽しめらい。

鮎返り公園【野村町】
鮎返りの滝(あゆがえりのたき)

日切地蔵公園【野村町】

農業公園ほわいとファーム【野村町】
・2000年オープン。
・乳製品加工施設を中心とした公園。
・レストラン、チーズ工房、イベント広場、芝生広場、ハーブ園などがある。

キャッスルランド深山【野村町野村16-1048-1(深山)】
1998/1/22
滝野城が滝野氏から町に寄贈されたのを機会に愛称を募集し、1998年4月よりリニューアルオープンした。
・山菜料理、バーベキュー、ステーキ、アメ・マスの塩焼きなどが楽しめる。
・屋敷造りのバンガローでの宿泊が可能。宿泊費は2,000円より。
・電話:0894-72-2854
滝野城(東楽園)
滝野保昭氏によって約30年前(昭和43年頃)に建築された。
・天守閣内部は資料館になっており、多くの古美術品が展示されている。
・1997年10月1日に野村町に寄贈された。
・城の周りの庭園には、下屋敷、水車小屋、漆器物収納庫、仏像展示棟などがある。
・天守閣近くには追手門があり、それをくぐると「石仏が並ぶ敬老公園」がある。
萬安渓
萬安の滝
この滝は、その昔、土地の信心なる人々の修行の滝として使われていた由緒ある滝である。真の名称はわかっていない。昭和47年、滝野城築城を始めると共に整備され、新たに「萬安の滝」と命名した。

旭ヶ丘公園【野村町惣川天神】

船戸の森水辺公園【野村町船戸】

早馬せせらぎ公園【野村町中筋】
・四月中旬から下旬にかけ、チューリップ約5,000本が花が鑑賞できる。


祭り・イベント

ばら大師の縁日
・旧暦3月21日

野村ダム祭り(5/3〜5)【野村町野村 野村ダム】

・1983年から始まった。
・1992年からは5月3日に「朝霧湖1周マラソン大会」を実施している。

龍王神社春祭り【野村町大野ヶ原】
・5月18日
・海難除け・開運を龍神に祈願する。

山開き・川開き
・7月1日

乙姫神社夏祭り
・7月25日

実盛送り(稲祈祷(いなぎとう))
・7月〜8月

お盆の入り
・8月1日

納涼祭・花火大会(8/13)【野村町野村 野村ダム】

・ダム湖に架けられた「ナイヤガラの滝」や「水中花火」が見物。
・山火事発生率が高いが、今年は大丈夫か!?
・道路事情が悪い場所、駐車場確保困難な場所で行われるので、例年大渋滞が巻き起こる。町外からお越しの方、車の運転には一層の注意を。

灯籠流し
・8月25日

ぼんめし炊き(夏めし炊き)
・8月〜9月

山の神八朔相撲(たのも相撲)
・8月〜9月
・社寺境内で山の神を祝い、素人相撲を行う。

花取りおどり【野村町岡成】
・旧暦8月5日

ばら大師の縁日
・旧暦8月21日

竜王神社秋祭り
・9月28日

秋祭り
・10月〜11月

亥の子搗き
・10月〜11月

乙亥(おとい)大相撲【野村町】

玉春日関を輩出した野村町は相撲のメッカ。これも、百数十年の歴史を誇る乙亥大相撲のおかげか。
乙亥大相撲は、約150年前、嘉永5年(1852)6月25日の大火(*1)の際、当時の庄屋緒方氏(緒方与次兵衛)が火災防止祈願のため「100年間相撲を奉納しますので、町内に火災をもたらさぬよう」と旧暦10月の乙亥の日に愛宕神社に33結びの願相撲を奉納して始めたもの。昭和27年(1952)にその100年の期限は越えたものの、町内の一大イベントとして定着しており、日本唯一のプロ・アマ対決相撲として県内外から多くの見物客が訪れる祭りへと発展した。
(*1) 現在の氏宮部落より出火し、下氏宮、上氏宮、石久保、権現の4部落が全焼した。更には飛び火して古市部落の2戸も罹災した。この大火災は総罹災戸数100戸に及んだ。
・最近は、大相撲九州場所千秋楽翌日に開催される。
稚児土俵入り
・子供の健やかな成長を祈願し、力士に稚児を抱えて土俵入りして貰う。 

★ワシが小学校の頃は、宇和島バス野村営業所北の元「フジマート」の横の広場や、児童館のグラウンドで大相撲が行われとった。今は野村町役場前の公民館で行われておるんかいねぇ?それとも野村ダム湖畔辺りでやりよんじゃろか?最近、ほんと御無沙汰しとります。
★「相撲のまち」を自負するならば、「雲龍の郷」(福岡県大和町)のように、相撲ドームでも建設してはどうかいな?
★こんな戯言を記していたら、平成17年(2005)、それが実際のモノとなった。「乙亥会館」が旧宇和島バス停車場に建設されたのだ。(2005/4)

ギャンギャン奉納【野村町】
・「ギャンギャン」との愛称で地元の人達が呼んでいる念仏踊り。
・文政5年(1822)に先祖の供養として始まったが、昭和32年に一時中止になった。昔は境内にずらりと露店が並び、たいへんな賑わいであったが、今では廃れてしまっている。
・昭和55年に復活し、現在も続けられている。

パラグライダー大会【野村町大野ヶ原】
・10月

竹の内お念仏講【野村町竹ノ内】
・創始者は一遍上人であるという。宿を持ち回り、長々と念仏の唱和を行う。
・念仏の唱和が終わると、駄菓子、手作りの巻ようかん、卵酒のふるまいがあり、雑談・放談となる。
念仏呪文
日々光明遍昭十方世界念仏衆生摂取不捨摂取不捨の光明に念ずるところ照させ給へや
南無阿弥陀仏観音勢至の来光にこころを尋ねて向ふなり


施設

野村町シルク博物館【野村町野村】
・平成6年(1994)完成。7月24日にオープンした。
・鉄筋コンクリート、一部2階建て。
・広さ:1,286m2
・入場料:大人350円、大学・高校生300円、中・小学生200円
・繭をイメージしてデザインされた円形の建物は「えひめアメニティ賞」に選ばれた。
・博物館では蚕糸の歴史や文化を展示している。
・常設展示室では、町内で発見された17世紀頃の能衣装を中心に、歌舞伎衣装や乙亥化粧まわしを展示している。また、野村養蚕の歴史や蚕のしくみ一目でわかるようになっている。
・織物館では繭作り、製糸、染色、織布までの一貫生産を行っている。

織物館【野村町野村】
・シルク博物館西側に位置する。
・木造一部2階建て。
・延べ面積206m2。
染色加工室
製織室

貝吹ふるさと資料館【野村町貝吹】

土居家住宅(どいけじゅうたく)【野村町惣川 天神】
・町指定有形文化財(昭和43年指定)
・170年の歴史を持つ四国最大級の茅葺民家。 藩政時代の庄屋本宅。
・文政10年(1827)の建築と伝えられる。
・平成9年(1997)屋根の葺き替えが行われた。
・平成10年(1998)6月28日、宿泊・交流施設「茅葺き民家交流館『土居家』」としてオープンした。
・休館日:月曜(祝日のときは翌日)、年末年始
・電話番号:0894-76-0636
・営業時間:9:00〜17:00
・詳細については、 http://www1.pasutel.co.jp/nomura/を参照。
・天神地区は、伊予と土佐を結ぶ街道の宿場として栄えた。
母家
農村体験交流館
「土居家」離れ(宿泊棟)
農村文化伝承棟

乙亥の里 乙亥会館【野村町野村12号10番地】

・平成17年(2005)3月25日竣工、4月23日合同落成式。
多目的会館
・多目的ホール、温浴施設、相撲練習場など
商業インキュベータ施設
カロト温泉
・泉質: 低張性弱アルカリ性冷鉱泉
・効能: 神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・慢性消化器病など
・営業時間:10:00〜22:00(札止め 21:00)
・入浴料金:大人400円、小人200円


学校

温泉

カロト温泉【野村町野村12号10番地 乙亥の里】


伝説
日切地蔵【野村町渓筋 出合】

あかごぶち【野村町渓筋 四郎谷】

ほうそう神社【野村町渓筋 四郎谷】

延福寺【野村町渓筋 四郎谷】

猿神さま【野村町渓筋 旭】

土佐ヶ森【野村町渓筋 旭】

牛まつり【野村町渓筋 旭】

火の玉地蔵【野村町渓筋 長谷】

又入道【野村町渓筋 長谷】

観音滝【野村町渓筋 長谷】

宇都宮三河守直綱【野村町渓筋 鳥鹿野】

経文駄馬【野村町渓筋 鳥鹿野】

めくらぶち【野村町渓筋 鳥鹿野】

上甲伊豆守貞好【野村町渓筋 松渓】

五輪さま【野村町渓筋 松渓】

にいだぶち【野村町渓筋 白髭】

乙御前の滝【野村町野村 深山】

乙御前の伝説【野村町深山】
 三間の豪族・土居清良(どいせいりょう)に乙御前という娘が居た。乙御前は野村町中筋の城主・保堂新左衛門と結婚する約束を交わしていたが、約束の日になっても迎えに来ず、破談になっては武士の恥ということで剃髪し、尼となった。
 しかし剃髪した後になって保堂新左衛門方の迎えが訪れた。土居家は慌て、乙御前にカツラを被せて嫁入りさせた。しかし、夜になってカツラを被っていることが発覚し、家を追い出されてしまう。
 途方に暮れた乙御前は、吉森山越えの山道を通って実家へと帰る途中、滝壷に身を投げた。(乙御前の滝)
 同行していた下女・馬も悲観し、後追いで渕に身を投げた。(下女渕、馬渕)
 乙御前の被っていたカツラが流れていったことから、この川を桂川と呼ぶようになった。

深山の利助さん【野村町深山】
千貫石

・利助が担いで来て橋を架けたという石。野村町商工会館前にある。

高瀬騒動【野村町】
・文政8年(1825)〜文政9年(1826)。
(「愛媛文化双書 10 伊予農民騒動史話」、景浦勉、愛媛文化双書刊行会、昭和47年2月10日発行)

富野川騒動【野村町】
・文政9年(1826)? 文政10年(1827)。
※「伊予農民騒動史話」の「高瀬騒動」の章には、「高瀬騒動の翌年の富野川騒動−文政10年(1826)に…」と記してあるが、「翌年」が正しければ文政9年でなければならないはずだ。ところが、「片川・次ヵ川騒動」の章には、「文政10年(1827)」と記してある。こちらを信じることにしよう。
(「愛媛文化双書 10 伊予農民騒動史話」、景浦勉、愛媛文化双書刊行会、昭和47年2月10日発行)

片川・次ヵ川騒動【野村町野村】
文政12年(1829)。
(「愛媛文化双書 10 伊予農民騒動史話」、景浦勉、愛媛文化双書刊行会、昭和47年2月10日発行)

蔵良騒動【野村町】
文政13年(1830)?。
※「伊予農民騒動史話」に「文政13年(1829)」という記載が見られるが、和暦年と西暦年とが一致していない。「高瀬騒動から4年後…」ならば文政12年(1829)、「高瀬騒動(の終結)から4年後…」ならば文政13年(1830)が正解であろう。
(「愛媛文化双書 10 伊予農民騒動史話」、景浦勉、愛媛文化双書刊行会、昭和47年2月10日発行)

野村組騒動【野村町野村】
・文政13年(1830)2月。
(「愛媛文化双書 10 伊予農民騒動史話」、景浦勉、愛媛文化双書刊行会、昭和47年2月10日発行)

野村騒動【野村町野村】
・明治3年(1870)。
(「愛媛文化双書 10 伊予農民騒動史話」、景浦勉、愛媛文化双書刊行会、昭和47年2月10日発行)

弁財天【野村町野村 本町二丁目】

泉貨居士【野村町野村 竹之内】

虫送り【野村町野村 竹之内】

亀ヶ城(かめんじょ)跡の火の玉【野村町野村 竹之内】

白木ヶ城に残る話【野村町野村 次の川】

首きれ馬【野村町野村 次の川】

首無し馬の伝説【野村町 白木ヶ城】
・天正11年(1583)、土佐の大軍が野村に侵入した。当時、西園寺氏の騎下に、上甲慶重という勇将がおり、宇都宮氏を応援するために白木ヶ城に入城していた。
・土佐勢は城の搦手にあたる平野村から攻め寄せたが、慶重松ノ窪の「牛鶴井」で敵を迎え、平野村源太あたりに撃退した。
・しかし慶重は合戦の最中に乗馬を撃たれ、ついには討死してしまった。
・主人を失った馬は、手負いになりながら戦場を駆け回り、敵中で暴れた挙げ句、慶重を追うように死んでいった。
・その後、夜になると白木ヶ城から出て行く馬の姿が目撃されるようになった。それは首のない胴体だけの馬だった。
・首切れ馬は、平野源太から蟻ノ木峠を越え、床山の滝を渉り、石久保氏宮を通って川の水を飲んだ。そこから三段淵を渡り、を越え猪ノ森を過ぎて猿坂峠に至り、再び白木ヶ城へと戻るコースを駆け巡った。
・人々はそれを「慶重の馬だ」と噂した。

村の境争い【野村町野村 権現】

熊野神社【野村町野村 権現】

草競馬【野村町野村 緑ヶ丘】

のまず川【野村町野村 手都合】

バラ大師【野村町野村 下野】

バラ大師のとげなしバラ【野村町十夜野】

ときのたいこ【野村町野村 前石】

大猿駄馬【野村町野村 大暮】

ろんでんさま【野村町野村 宮本】

供養の松【野村町野村 植木】

畑ヶ谷と豆ぶち【野村町中筋 畑ヶ谷】

わらびうち三助【野村町中筋 平野】

こぞうぶち【野村町中筋 惣財久】

虚無僧の刀【野村町中筋 頭王】

駄馬川のぬれおんな【野村町中筋 成穂】

星の御前【野村町中筋 成穂】

角藤五兵衛【野村町中筋 成城】

戦国時代の成城【野村町中筋 成城】

こしかけ岩さん【野村町中筋 成城】

だんご岩【野村町中筋 杉山】

保堂新左衛門【野村町中筋 保堂】

五郎兵衛堂【野村町中筋 小滝】

水地蔵【野村町中筋 舟坂】

仏うね【野村町貝吹 鎌田】

消えた女の子【野村町貝吹 鎌田】

まぼろしの城【野村町貝吹 鎌田】

中通川【野村町貝吹 中通川】

中通川の大火事【野村町貝吹 中通川】

消えた金の茶釜【野村町貝吹 中通川】

栗の木と西【野村町貝吹 栗の木・西】

大蔵坊【野村町貝吹 栗の木】

鬼切り新左衛門【野村町貝吹 栗の木】

岩本将監【野村町貝吹 栗の木】

大藤左衛門の怪力 【野村町貝吹 西】

大藤左衛門の知恵 【野村町貝吹 西】

七人の塚 【野村町貝吹 西】

不運の高雄城 【野村町貝吹 西】

横田池のだきあげ地蔵【野村町横林 中山】

大蔵坊【野村町横林 中山】

法力がなくなった薬師如来【野村町横林 坂石】

高橋玄蕃【野村町横林 野地】

御崎松のそとは【野村町横林 野地】

半四郎と友之丞【野村町横林 堂野窪】

大塚玄蕃【野村町横林 小振】

イボ神さま【野村町横林 小振】

子安のおくりオオカミ【野村町横林 大成】

茶堂のうめぼしタヌキ【野村町横林 大成】

平助道【野村町横林 佐須】

こがぶち【野村町横林 辰の口】

猿ヶ滝城に残る話【野村町横林 予子林】

丹後さま【野村町横林 予子林】

蛇岩【野村町惣川】
・「相川村にあり、此村より遊子谷村への往還筋に蓑か谷といふ所の路傍に岩あり上十五日かならず此岩のあわひに蛇の胴見へて尾頭は岩の中にあるゆへ見へず、世にこれを辨才天といふて手ざす人なし(舊記)」(伊予温故録)

みのが谷弁財天【野村町惣川 鍵山】

西海寺ぶち【野村町惣川 大窪】

善太がぶち【野村町惣川 大窪】

にごりぶち【野村町惣川 知野】

天神ヶ森【野村町惣川 稲谷】

清水池【野村町惣川 寺組】

じゃぼりの馬のあしあと【野村町惣川 寺組】

船戸大明神【野村町惣川 宮成】

くわがたのお堂の石【野村町惣川 宮成】

入子田【野村町惣川 伊予之地】

あまつつみ山【野村町惣川 伊予之地】

海女恋しの岩【野村町惣川 伊予之地(いよのじ)】
→c.f. 城川町 雨包山

くもぶち【野村町惣川 今久保】

きょうぶち【野村町惣川 今久保】

じゃぶち【野村町惣川 榎木】

怪力五平【野村町惣川 色納】

しおりの墓【野村町大野ヶ原】

大野ヶ原と弘法大師【野村町大野ヶ原】

竜王神社【野村町大野ヶ原】

竜王神社と姫ヶ淵【野村町小松】
・高知の米屋(悪徳商人)の娘、お竜は、強欲な(不正を働いた)両親を悲しんで、ある夜大野ヶ原の姫ヶ淵に身を投げた。
・両親が姫ヶ淵でお竜を弔っていると、小松ヶ池に水柱が上がり、竜が現れた。この竜はお竜の化身として竜王神社に祀られている。
・お竜は昼間は姫ヶ淵に潜み、夜になると小松ヶ池に棲む大竜になって村人を驚かせたという。

源氏ヶ駄馬【野村町大野ヶ原】


キャンプ

海水浴

人物

その他

河西名水(自然湧水)【野村町渓筋 河西】
2003/8/24
★湧水地の南側の部落入口の三叉路のところに、以下のような看板が立っている。
●河西の道しるべ
「河西分館
・育てよう強く明るい河西の子
・少年によいうち(家庭)よい友よい遊び
・親と子の対話でつくろう明るいふるさと
昔と今の戸数と人口
・1706年(宝永3年)22戸 99人
・1757年(宝暦7年)25戸 118人
・1958年(昭和33年)38戸 206人
・1985年(昭和60年)26戸 82人
・むらおこし運動みんな参加 みんなで考え、みんなでまとめ、みんなで実行
・青少年健全育成活動 あなたとわたしの愛情で地域ぐるみで
河西愛護班・渓筋むらおこし推進協議会・渓筋公民館 」

三葉虫の化石発見場所【野村町大西】

・県道29号線沿い、大和田小学校のやや西に下記のような説明書きが立っている。
この道路の下は"三葉虫"の化石が発見されたところです。このたび道路改良工事のため、その場所が埋没しました。このためそのしるしとして、末永く記念標示するものです。三葉虫は、今から焼く五億年前の古生代の初め地球上に現われ古生代の終わりに一匹残らず姿を消してしまったと言われる生物で、その化石は世界の化石の人気者です。日本では古生代初期の地層がどこにも見つかっていないため、大変貴重なものです。なおここで発見された三葉虫の化石は、現在愛媛県立博物館で、大切に保管展示されています。 昭和60年3月 野村町、野村町教育委員会



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