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こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 伊方町 (旧・瀬戸町) |
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町の花 | 町の木 | 町の花木 | 町の鳥 | 町の魚 |
ツワブキ・スミレ
(昭和59年制定) |
ウバメガシ
(昭和59年制定) |
サザンカ
(昭和59年制定) |
アジ
(平成5年制定) |
ウニの瓶詰
・採取したウニの中身を取り出し、洗って水切りし、塩とウニにアルコールを合わせて瓶につめたもの。
・6カ月程で美味しくなる。
キュウリのかす漬け
・とれたてのキュウリを塩漬けし、2日ほどして2、3回熱湯処理する。水気を切り、酒粕に砂糖を合わせた中に漬け込む。三ヶ月程度で食味ができる。
夏カンのマーマレード
・無農薬の夏みかんを使ったマーマレード。夏カンの皮をむき、皮はスライスして茹でる。袋でペクチン水を取り、果汁と皮とペクチン水を合わせ、火にかけ練り、仕上げ前に果汁を入れる。
ツワブキ漬物
・自然のツワの味噌漬けと粕漬け。粕漬けの場合は、ツワを2度茹ですると美味しい。
味噌
・麦を蒸して麹をつくり、それに大豆と塩を合わせて3カ月程度置く。こうして作られた手づくり味噌はおいしく安心して食べられる。
丸寿し
・塩・酢で味をつけ、オカラ(雪花菜)、ネギ、ショウガ、オノミなサヨリ、鯛などで包み込む。
湯ざらし
・鮫肌を落としたフカの切り身をゆがいて水でさらしたもの。みがらし味噌で食べ、淡白な味。
鯛の活けづくり
・鯛の姿をそのまま活かし、刺身で大鉢に盛る。白砂青松の海に踊る大鯛を形どる縁起のいい料理。
鯛めし
・鯛の刺身を卵を主としたタレにつけ、たきたてのご飯にのせる。山海の薬味を加えるとより美味。
さつま
・すり鉢で焼魚と味噌をすり合わせ逆さにし、火であぶった後出し汁加え、ご飯にかけて食べる。
ワカメ、ひじき等
・塩の流れの速いところで採れ、おいしく栄養豊富な健康食品。
金太郎芋
・佐田岬半島は古くから三崎十三里と言われ、美味しい甘薯が取れることで知られていた。この地の土壌と雨の少ない段畑が、甘い甘薯を生むと言われる。
みかん等かんきつ類
・照りつける太陽と、畑からの照り返し、そして海からの照り返しという「3つの太陽」に加え、潮風にさらされて育ち、甘く、香りが高い。
ちりめん
・宇和海で採れ、新鮮なうちに天日乾燥したもの。
・昭和31年(1956) 6月1日、三机村、四ツ浜村が合併して瀬戸町となった。
・昭和62年7月28日、岡山県赤磐郡瀬戸町と姉妹町の縁組を行った。(※市町村合併以降、瀬戸町との姉妹縁組はどうなったのだろうか?)
・平成17年(2005)4月1日、伊方町・三崎町と合併して伊方町になった。
大字 | 字 |
三机(みつくえ) | 三机、小振(こぶり)、上倉(あげくら) |
足成(あしなる) | |
塩成(しおなし) | 振の浜、中網代、狩浜 |
大江(おおえ) | |
小島(こじま) | |
志津(しつ) | |
高茂(こうも) | |
田部(たべ) | |
神崎(かんざき) | |
大久(おおく) | |
川之浜(かわのはま) |
うばめがし林【瀬戸町三机 須賀の森】
・県指定天然記念物(昭和45年3月27日指定第97号)
・樹齢250〜500年のウバメガシが茂っている。
須賀の森(須賀公園)【瀬戸町三机】
・町指定文化財
・潮流によって自然に出来た砂嘴。
・ウバメガシ(最高樹齢1500〜1600年)、ビャクシン(最高樹齢1000年)、ハマボウ、シャリンバイなどが叢をなす。
・夏はキャンプ、海水浴、釣りで賑わう。
うばめがし林
・県指定天然記念物(昭和45年3月27日指定第97号) |
八幡神社 |
六艘堀
・参勤交代で往来した御座船などの船だまりであった。 |
九軍神慰霊碑
・三机湾は伊予灘唯一の避難港・天然の良港であったが、第2次世界対戦中には、特殊潜航艇の訓練基地となっていた。真珠湾と地形や水深が類似しているということで真珠湾攻撃を想定した訓練が行われていたのだ。九軍神は、特殊潜航艇に乗り込み、体当たり攻撃で真珠湾に散った9人の軍人を指す。 ・古野繁実少佐、岩佐直治中佐、横山正治少佐、広尾章大尉、横山薫範特務少尉、佐々木直吉特務少尉、上田定兵曹長、片山義雄兵曹長、稲垣清兵曹長 の9人を慰霊する。 ・昭和41年8月、故人が求めた「広く世界の平和を呼びかける礎石」とすべく、須賀公園の一角に慰霊碑が建てられた。 |
忠霊塔 |
鯨の墓
・文化6年(1809)、イリコの大群を追って三机湾内に入ってきたのを殺した鯨の霊を祀る。 |
魚霊塔 |
宝剣、吉則
・町指定文化財 |
御所ヶ浜
・北に面した浜辺を御所ヶ浜(ごしょがはま)と言う。これは、神武天皇が東征時に嵐に遭い漂着したとの伝説に基づく。三机という地名も、この伝説に因み、御着江が転じたとも言われる。 ・佐田岬という名前も、道先案内の神・猿田彦命にあやかったという説がある。 |
自然海浜保全地区 |
B須賀(すか)公園
所在地 西宇和郡瀬戸町三机大平
三机湾に突出している須賀の浜は潮の流れで自然にできた砂嘴(さし)で樹齢400〜500年のウバメガシ、1000年以上と
言われるビャクシン、その他ハマボウ、シャリンバイなどが林をなしている。
この森に囲まれている八幡神社は、天平5年(733年)建立といわれ、九州宇佐八幡の分霊が流れついたものとされ、歴代宇和島藩主の信仰が厚く、数々の献上物が残されている。
須賀公園の一角には、9軍神の慰霊碑が建てられている。三机湾は昭和12年より特殊潜航艇の秘密訓練の地となったところであり、昭和16年12月8日未明の真殊湾攻撃で花と散った9人の軍神たちもこの地で訓練した。
その他海水浴場、キャンプ場としても親しまれている名所である。
(須賀の森は、県指定天然記念物)
(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)
中尾城跡【瀬戸町三机乙1032-1】
1996/1/4
・瀬戸町指定文化財(昭和53年10月6日指定)
・旧三机村役場裏手の森山にある。
・城主は井上善兵衛尉重房であり、三机発展の基礎を築いた。また、長養寺創建の功労者でもあった。井上善兵衛尉重房は八幡浜の萩森城主・宇都宮房綱の家臣。(井上善兵衛尉重房は1587年死去。墓碑は長養寺横の墓地の最上段にある。)
・城跡には持珠院が建てられている。
・宇和旧記には、「中尾城、此城主は井上善兵衛尉重房と云、此親父之時、河野殿より傍折敷に三文字の紋を給はる由、其昔は此処へ度々海賊等仕掛候て、万民住宅の心も静ならざる所に、萩森殿より此人を被レ遣てより、所より繁昌し、家居も数々出来たりと云へり」とある。
・「中尾城墟 三机浦に在り。井上善兵衛尉重房と云人の城址也。.....[以下略]」(愛媛面影)
・中尾城は、天正10年、長曽我部元親の侵攻を受けて陥落した。
刀剣吉則
・瀬戸町指定文化財(昭和44年4月28日指定)
・五代宇和島藩主が1785年に奉納した。
五ツ鹿の頭
・瀬戸町指定文化財
宝筐印塔
・瀬戸町指定文化財(昭和53年10月6日指定)
・1803年、三机浦善重郎という人が三机浦の平和安泰を祈念して建立した。
探幽山水画
・瀬戸町指定文化財(昭和53年10月6日指定)
・探幽晩年の作と思われ、宇和島藩主のいずれかが参勤交代の折長養寺に寄贈したと思われる。
三机古地図
・瀬戸町指定文化財(昭和53年10月6日指定)
・藩政時代の三机の絵図。往時の三机を偲ぶ貴重な資料。
お宮の森【瀬戸町小島】
・町指定天然記念物
愛媛県 瀬戸町 小島宮の森
小島小学校の裏手、古い宮跡に密生するしい等の大木の森。昭和58年10月1日、町文化財に指定。保存状況:良好。
町指定
JR八幡浜駅より車で50分。
・スダジイ、タブノキ、ホルトノキ
(ふるさとの森−えひめの社寺林、(財)愛媛の森林基金、平成4年3月31日)
供養様
・瀬戸町指定文化財(昭和58年10月1日指定)
・経塚。堀切工事で多くの犠牲者が出たため、人夫の安全を祈念して建られた。
千手観音像
・瀬戸町指定文化財(昭和60年4月2日指定)
・島原の乱の戦没者、切支丹宗徒の冥福と平和安泰を祈念して1638年建立された。
シャンシャン踊り【瀬戸町大久 大幾世大明神】
・瀬戸町指定文化財
旧三机村役場跡
長養禅寺【瀬戸町三机】→西宇和郡伊方町三机
・山号:法性山
・宗派:禅宗、臨済宗妙心寺派
・本尊:阿弥陀如来
・長養寺過去帳によると、創建は天正10年(1582)壬午6月7日。
・寛永16年(1639)に宇和島藩士・梶田又兵衛が観音堂を建立した。
・中尾城主・井上善兵衛尉重房(1587年没)の墓は、長養寺の横の墓地の最上段に有る。戒名は「青松院殿」である。
C長養寺
所在地 西宇和郡瀬戸町三机乙1708
法性山長養寺は、臨済宗妙心寺派の寺で天正6年(1578年)、中尾城主井上善兵衛重房の開基で開山した。
宇和島藩主伊達侯は、参勤交代の途上たびたびこの寺に立ち寄り詩歌などを詠まれている。
5代藩主村候の宝暦2年(1752年)の歌
「手折りくる心の花のふみみ草法の教えを家つどにせん」
6代藩主村寿の安永7年(1778年)の歌
「いさぎよししらたま積をながむれば法の主ぞ心ゆかしき」
長養寺境内には、宇和島藩士梶田権兵衛が建立した観音堂も現存している。この観音堂は、島原の乱に派遣された権兵衛が平定を謝し、寛永16年(1639年)総ケヤキ釘なし工法で建てたものであり、近年補強のため釘を使用している。
また、長州征伐の時には徳山藩、長州藩、岩国藩の使者と宇和島藩の使者との会見の場所として、しばしば使われるなど、400年にわたる歴史の重みを感じさせる由緒ある寺である。
(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)
鹿地蔵
※長養寺境内に「鹿地蔵」があるらしいとの情報を聞きつけて探しに行ってみたが、残念ながら見つからず。 |
宝篋印塔
・町指定文化財 ・享和三癸亥歳(1803)七月吉日 ・「天下泰平 奉納大乗妙典日本廻国 日月清明」 |
イボ神様
・「高覚道眼醫師 安永四未年十二月十二日」 ・安永4年(1775) |
長養寺八十八ヶ所・三十三観音
「長養寺山林ニ四国八十八ヶ所三十三番観音様ヲ祀テ有タ 道路新設ニ散在シ詣モデキナイノデ三机老人会員外有志ノ奉仕ヲエテ復興シ供養デキル事ニナル 昭和五十四年三月二十一日記念シテ之ヲ建テル 井上重利氏ノ寄贈ニヨリ碑ヲ建テ後世ニシルス 昭和五十四年十二月 老人クラブ会有志一同」 |
長養寺参道上り口の地蔵堂 |
「子安大師」の石仏
・長養寺参道途中の御堂の前に座っている。 |
持珠院【瀬戸町三机】
・山号:海森山
・宗派:日蓮宗
・本尊:本尊:一塔両尊士(釈迦牟尼世尊、法無辺行、浄行、安立行)の4菩薩
・別名、「法華寺」ともいう。
・明治15年(1882)、中尾城跡に建立される。(資料によっては、明治17年(1884)に設立されたと記すものもある。)
※持珠院裏に「七面様」と呼ばれる小社がある。昔、首を切られた人を祀ってあるとかで、首から上の病気に御利益有りと伝えられる。
萬有句碑
「 薫風や 街一半を 木の間より 」 |
長松寺【瀬戸町大久】
・本尊:釈迦牟尼仏
・山号:幽谷山
・宗派:臨済宗妙心寺派
ミニ四国霊場八十八ヶ所/四国三十三観音霊場【瀬戸町三机】
・長養寺裏山に配置される。
・「明治41年旧3月21日 長養寺当山四国八十八ヶ処開山柱」が建っており、明治後期に開山されたことが伺える。
足成庵【瀬戸町足成】
・長養寺の末庵。
・本尊:釈迦如来
大江庵【瀬戸町大江】
・長養寺の末庵。
・本尊:阿弥陀如来
・寛永13年(1636)頃の開山。
神崎庵【瀬戸町神崎】
・長養寺の末庵。
・本尊:釈迦如来
小島庵【瀬戸町小島】
・長養寺の末庵。
・本尊:大日如来
志津庵【瀬戸町志津】
・長養寺の末庵。
・本尊:十一面観音菩薩
・山号:徳養山
・寺号:善通寺
宝手庵【瀬戸町塩成】
・長養寺の末庵。
・本尊:千手観音菩薩
・山号:臨海山
釈迦寺【瀬戸町神崎】
長松寺【瀬戸町大久】
八多喜寺【瀬戸町川之浜】→西宇和郡瀬戸町川之浜1196
八幡神社【瀬戸町三机字大平乙804番地】
2005/1/4
・明治12年旧郷社となる。
・祭神:誉田天皇(ほむだすめらみこと)、大帯姫命(おおたらしひめのみこと)、田心姫命(たぎりひめのみこと)、湍津姫命(たきつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
・例祭:10月15日(春:4/29、夏:旧6/15)
・この宮は宇佐八幡宮の分社で天平5年(733)聖武天皇の奈良時代の創立といわれ、現在の御神殿は明治31年に新築されたものである。
・「宇佐八幡の分霊流れ来る。その順序はまず神伏鼻に着きそれより御所浜にさらに小振に着き、最後に須賀に上り給ふ。また『愛媛面影』には昔沖より流れ寄せられ給いしを鎮座し奉れりと。依って当浦を御着江と称す。(宇和島藩主伊達村候侯の詩歌にも『御着江繋舟遊』とあり古名は御着江と書けり。)
昔此の宮を殿宮と称し宇和島藩伊達侯の管理せしものにて代々の藩侯の尊祟厚く祭典を挙行するごとに幕其の他の祭具一切を寄進又は借受けており、祭礼の節は堀切下の馬場(小振)で流鏑馬が行われた。」
・天明三年、宇和島藩第5代藩主・伊達村候が八幡宮を改築した。(瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日)
・「八幡宮 同所に在り。相伝、昔沖より流寄せ給ひしを鎮座奉れりと。祭礼の時堀切の下の馬場にて流鏑馬などありと云。.....[以下略]」(愛媛面影)
注連石
・昭和三十六年(1961)七月 ・右「愛天然」、左「護神域」 ・青石の自然石 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
改築記念碑 |
鳥居
・万延元年(1860)八月 ・施主:三机浦庄屋 菊池宇右衛門友道 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
常夜燈 |
燈篭
・天明三年癸卯五月吉日 ・施主:矢田三郎左衛門源佳眤、橋本孫右衛門源勝興(共に宇和島藩士) →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
境内末社:客神社
・祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊 ・三机浦の氏神で、現在の法務局瀬戸出張所が旧神社跡である。 |
境内末社:八坂神社
・祭神:素戔嗚尊、櫛稲田媛命 |
境内末社:三社神社
(大神宮/大山祇神社/三島神社) |
境内末社:恵美須神社
・祭神:事代主神 |
境内末社:厳島神社
・祭神:市杵島姫命、田心姫命 |
境内末社:和霊神社
・祭神:山家清兵衛公頼 ・昔は松之浜に鎮座していたのを、昭和4年当時の三机青年会により今の場所に遷座し奉ったものである。 |
境内末社:金刀比羅神社
・祭神:祟徳天皇、大物主神 ・文化3年以前の開基と思われ、大字坂本乙2920番地の金刀比羅山頂に鎮座。今は八幡神社の末社である。 |
境内末社:合祀社 |
境内末社:客神社 |
境内末社:海津見神社 |
境内末社:天満神社 |
三机八幡宮碑銘並序
・「三机者当本鎮之西北往来旅舶之所輻湊也其地三方山■周廻而唯一面可以通行舟船焉其中央近西之州中有八幡祠伝曰往古自豊之宇佐移以祭于族■君候四世祖修葺祠宇以新其観望.....」 |
ビャクシン |
おこもり行事 |
姉姫神社【瀬戸町三机】
・正徳4年(1714)頃の創建。
・祭神:縮司御前姉姫神
石鎚神社【瀬戸町塩成】
・権現様、御山様とも呼ばれる。
注連石
・昭和四十一年七月吉日 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
一宮神社【瀬戸町塩成(西上)】
・祭神:大物主神、武内宿祢命、比売神
・例祭:10月9日
・安永元年(1772)9月創立。
・文久3年、社殿を建造。
→See.瀬戸町誌
境内末社:恵比須神社 |
境内末社:客神社 |
境内末社:天満神社 |
狛犬
・昭和三十四年(1959)十月 ・施主:佐々木信義 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
鳥居
・昭和三十四年(1959)十月 ・施主:上田鶴吉、島津金作(右柱に刻名)、阿部好松、木下菊治(左柱に刻名) →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
大幾世大明神【瀬戸町大久】
・大久のコチヤケという所に社がある。
・昔(享保7年(1722)頃)、大久ノ浦に女の水死体が漂着した。その後疫病、災害が相次いで起こり、この女の祟りかもしれぬということで大幾世大明神として祀り、慰霊した。
・そして九州の五島列島からシャンシャン踊りを習って帰り、「ハッサク踊り」として大幾世大明神に奉納すると、それ以来祟りはおさまったという。以来この踊りは250年踊り伝えられてきた。(※「五島列島」は誤りで、対岸の大分「豊後踊り」から習い伝えられたとの説もある。)
・「ハッサク踊り」は、お瀬戸踊り、シャンシャン踊りなどとも呼ばれ、旧暦8月1日、大明神前の広場で踊られる。町指定無形文化財。
勝宮明神【瀬戸町川之浜】
・昔、祈祷をし、また口寄せをして病気を治したり死者の霊を慰めたりする巫女、水野カツの墓。
木舟神社【瀬戸町田部】
タマガラの巨木 |
客神社【瀬戸町田部】
・祭神:天照皇大神
客神社【瀬戸町志津】
・祭神:天照大皇神
・例祭:10月12日
・享保6年(1721)以前に、伊勢国度会郡五十鈴川上鎮座の天照大神の分霊を勧請。
→See.瀬戸町誌
境内末社:天神社 |
境内末社:貴船神社
・祭神:天御中主命 |
境内末社:金刀比羅神社 |
境内末社:山王神社
・祭神:大山祇命 |
客神社【瀬戸町大江大川1260(大江
宮ノ首)】
・祭神:伊弉諾命、伊弉冊命、武内宿祢命
・例祭:10月15日
・境内末社:金毘羅神社(大物主命)、天満神社(菅原道真)
・由緒未詳。文化年間以前の創祀といわれる。
「この神社は旧村社で享保六年(1721)以前に伊勢国度会郡五十鈴川上鎮座の天照皇大神の御分霊を、部落鎮護のために勧請したという古老の言い伝えである。」(ふるさとの森−えひめの社寺林、(財)愛媛の森林基金、平成4年3月31日)
客神社社叢
・タブノキ、スダジイ、ホルトノキ優占。 (ふるさとの森−えひめの社寺林、(財)愛媛の森林基金、平成4年3月31日) |
鳥居
・文政元年(1818)寅九月吉日 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
注連石
・大正八年九月 ・施主:酒井壮助、謹書:上田名州 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
狛犬
・明治十八年(1885)酉八月 ・施主:古泉圭六、世話人:井上弥作、酒井七三郎、井上喜平 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
手洗石
・明治十五年(1882)八月吉日 ・施主:氏子中、本世話:井上弥作、寄附世話:井上勇造、土居長三良、山本平松、松沢八十松 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
高茂山王神社【瀬戸町大久 高茂】
・佐田岬半島で牛の飼育が盛んな頃は、牛の神様として信仰が厚かった。
・例祭:10月20日
金比羅神社【瀬戸町三机
金毘羅山】
鳥居
・天保三年(1832)壬辰歳 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
神明神社【瀬戸町志津
タデウラ】
・祭神:伊弉諾命、伊弉冉命
・例祭:10月19日
・天明2年(1782)、近江国犬上郡多賀浦の多賀大明神より分霊を勧請。
・産神大明神として崇敬が厚い。氏子として生まれた婦女子は、他郷に嫁いでも安産であるという。
→See.瀬戸町誌
境外末社:金刀比羅神社
・海岸近く |
境内末社:一宮神社 |
境内末社:客神社 |
狛犬
・明治八年(1875)寅月吉日 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
住吉神社【瀬戸町小島】
・祭神:表筒男命、中筒男命、底筒男命、大帯姫神
→See.瀬戸町誌
境内末社:一宮神社
・祭神:大国主命他1柱 |
境内末社:客神社
・祭神:菊理姫命他1柱 |
境内末社:金刀比羅神社 |
境内末社:火天神社
・祭神:阿禺突智命 |
高岩
・小島の西の浜の住吉神社の沖に離れ岩として赤味がかった赤鉄石英井岩の岩礁がある。この岩は、その昔、沖を流れているのを他の部落と奪い合い、小島に落ち着いたと伝えられる。 |
鳥居
・寛政十年(1798)九月 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
狛犬
・明治三十一年(1898)九月吉日 ※尾の剣先が三つになっているのが珍しい。 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
天満神社【瀬戸町塩成】
手洗石
・明治十三年(1880)正月吉日 ・施主:田中藤吉 他 →See.瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日 |
八幡神社【瀬戸町足成】
・元々は、現在の足成漁港・足成集会所のところに鎮座していた。
→See.瀬戸町誌
境内末社:金刀比羅神社 |
境内末社:天満神社 |
境内末社:和霊神社 |
八幡神社【瀬戸町大久】
・祭神:誉田天皇、大帯姫命、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命
・例祭:10月18日
・寛延3年9月(1750)創立。宇佐八幡神社より分霊を勧請した。
→See.瀬戸町誌
境外末社:恵比須神社
・西の端の赤岩にある。 |
境外末社:客神社
・大久幼稚園の「客神社跡」にある。 |
境外末社:権現様
・長松寺のお墓の上にある。 |
境外末社:三島神社
・長松寺西側にある。 |
境外末社:山神社 |
境外末社:石鎚神社 |
境外末社:脇明神社
・祭神は手力男命。 |
八坂神社【瀬戸町川之浜】
・祭神:田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命、須佐之男命、奇名田姫命、天之穂日命、天之忍穂耳命、浩津日子根命、熊野久須比命
・例祭:10月15日
・元亀3年(1572)鎮座。当初は祇園宮と称した。
・明治2年、社殿を改築し、八坂神社と改称した。
→See.瀬戸町誌
境内末社:一宮神社
・祭神:武内宿祢命 |
境内末社:浦明神社
・祭神:菊理姫命、速玉男命 |
境内末社:恵比須神社 |
境内末社:金刀比羅神社 |
境内末社:客神社 |
六社神社【瀬戸町神崎】
・祭神:別雷命、天児屋根命、宇賀魂命。配神:事代主命、大山咋命、大山祇命
・祭日:10月17日
・元禄16年(1703)現在地に鎮座し、六社権現と称した。
・明治初年、社殿を改築し、六社神社と改称した。
→See.瀬戸町誌
境内末社:客神社 |
境内末社:天満神社 |
龍王神社【瀬戸町三机】
・「高浦の龍王様」と称する。
・昔信心深い老婆が川で禊をしている最中にお告げを受けてお祀りしたという。
海岸端の神社・地蔵・祠【瀬戸町塩成】
2005/1/4
神社 (社名不明) |
三界万霊 |
地蔵 |
阿部官三郎記念碑
・「大正十年一月九日建之」 |
大神宮【瀬戸町塩成】
2005/1/4
・「昭和62年6月新築」とある。
豊神社・狸地蔵【瀬戸町塩成 風峠[オウビノカワ]】
・この地蔵は、大正4年(1915)9月に建てられたもの。
ビヤクシ神【瀬戸町小島】
平家落人の碑【瀬戸町志津
神久保】
・志津の神久保にある自然石の碑は、平家の名有る落人の碑であると伝えられる。
・夜尿症の子があり、祈祷師の説で7日間参詣したところ、その子の夜尿症がピタリと止まったと伝えられる。
供養様(くえさま)【瀬戸町塩成】
・堀切峠にある。堀切掘削時の犠牲者を祀る。
先徳大師【瀬戸町塩成】
海上安全地蔵【瀬戸町足成 足成漁協前】
上脇の地蔵様【瀬戸町足成 上脇】
水中地蔵【瀬戸町足成
川名】
子供を水難から守ってくれるという。
子安地蔵【瀬戸町足成
川尻】
・「水中安全 水中地蔵」と刻まれている。
大瀬の地蔵【瀬戸町神崎
番匠鼻】
・海上安全祈願
・天明2年(1782)頃の建立。
志津の平家様【瀬戸町志津】
小島の平家様【瀬戸町小島】
・一夜造りの甘酒を供えて、それを戴くと咳が止まるという。
薬師如来【瀬戸町田部
ショウブ】
・乳房のぬいぐるみ(「乳ぐるみ」とでも称すべきか)をブラジャーのように身に纏った2体の薬師如来が安置されている。
・明治後半に建立されたものか?
権現山【瀬戸町】
1996/1/4
・佐田岬半島宇和海県立自然公園
・標高360m。(瀬戸町誌には378mと記している。)
D権現山
所在地 西宇和郡瀬戸町三机字丸山
権現山は標高360メートルで、県立自然公園に指定されており、眼下は三机湾が一望できる景勝地である。
藩主伊達秀宗は、参勤交代の途上、狩浜辺りから狩をしながらこの権現山にたどりついた。遠く宇和島の方まで見渡せるこの地に、領内の平和を祈願し、蔵王権現の分霊を祭ったのが始めだといわれている。
秀宗入城の頃の宇和島藩の領民の生活は、窮迫をきわめており、山家清兵衛は、領内くまなくその実情を調査したと言われ、この権現山からながめる一帯に自生しているチガヤに着目し、仙台より馬を移入し、この半島で飼育を普及させたといわれている。
その他山頂には、石鎚神社や、昭和36年開局したテレビ放送の中継所などがあり、町民に親しまれている。
(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)
石鎚神社 瀬戸遥拝所
・祭神:石鎚大神、蔵王槿見、正軍天皇 |
「御神像堀出地記念のため建立」の碑
・昭和46年7月27日建立 |
新築記念碑
・昭和46年10月吉日建立 |
見晴山【瀬戸町】
・標高 395.1m。
金毘羅山【瀬戸町三机】
・堀切工事の残土を積んだ。
もり山【瀬戸町塩成】
・堀切工事の残土を積んだ。
白の滝【瀬戸町】
・城の滝とも呼ばれる。
大峯山【瀬戸町】
大森山【瀬戸町大久】
・標高 291m
石神山【瀬戸町/伊方町】
・標高 302.7m
・国道197号線、瀬戸トンネルが抜けている。
遠見山【瀬戸町三机】
・標高 110.7m(最高点は128mか?←瀬戸町誌)
・須賀公園西
タコラ山(高浦山)【瀬戸町足成】
小島峰、耳取りの高原、ハタ峰、ムメの谷、文珠(もんじょ)川【瀬戸町川之浜】
足成鉱山【瀬戸町足成】→See.瀬戸町誌
大成(たいせい)鉱山【瀬戸町三机】→See.瀬戸町誌
大江鉱山【瀬戸町大江】→See.瀬戸町誌
金毘羅鉱山【瀬戸町小島】→See.瀬戸町誌
小島鉱山【瀬戸町小島】→See.瀬戸町誌
塩成鉱山【瀬戸町塩成】→See.瀬戸町誌
三机鉱山【瀬戸町塩成】→See.瀬戸町誌
佐市鉱山【瀬戸町塩成】→See.瀬戸町誌
大奥鉱山【瀬戸町】→See.瀬戸町誌
平碆(ひらはや)鉱山【瀬戸町川之浜】→See.瀬戸町誌
河内(こうち)鉱山【瀬戸町川之浜】→See.瀬戸町誌
暁鉱山【瀬戸町川之浜】→See.瀬戸町誌
大久鉱山【瀬戸町大久】→See.瀬戸町誌
青石(あおい)鉱山【瀬戸町】→See.瀬戸町誌
四ツ浜鉱山【瀬戸町】→See.瀬戸町誌
高茂川
・神崎、田部、大久へ上水道用として供給している。(瀬戸町誌)
三机大川
2005/1/4
・「土石流危険渓流 大川水系三机大川」と記された看板が横たわっている。辺りを確認するも、川らしい川の姿は見当たらない。
小島峰高原【瀬戸町小島】
高茂牧場【瀬戸町高茂】
・佐田岬半島の山の上に四国カルストのように牛を放牧する高原地帯があるのは余り知られていないのではなかろうか。
・最近では5月連休の最初に「もーもーフェスティバル」と称して高茂牛の肉を使ってのバーベキュー大会が催されている。
デッカ高原【瀬戸町大久】
1996/1/4
Eデッ力塔
所在地 西宇和郡瀬戸町川之浜
標高389メートルの山頂は、宇和海と伊予灘が一望できるところで、150メートルの電波塔は、昼夜電波を発信し、船舶の安全航海に役立っている。瀬戸デッカ局は昭和44年開局し、前原(福岡県)、津島(長崎県)、長島(鹿児島県)の4局を、北九州デッカチェーンとして、2局以上の電波を受信すれば、自分の船の位置を知り安全に航海するしくみになっている。
このデッカ塔付近の頂上道路は、旧三崎街道であったところで、茶屋跡の石積みなども残っており、眼下に海をながめながら旅の足を止め休憩した往時の姿がしのばれる。
また、この付近一帯は、和牛飼育の採草地にもなっており、西へ1.5キロ・メートルぐらい行くと高茂の放牧場がある。一時隆盛を極めた三崎牛の放牧場も、現在では1〜2か所を残しているにすぎない。
(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)
デッカ塔
・国道197号線を西に走れば、高さ地上150mの塔が大成山(標高389m)山頂に聳え立っているのが見える。(自動車運転中によそ見をするのは危ないのでやめよう。安全に眺めるには、伊方の伊方原発ビジターズハウスかお隣のきらら館の展望所から眺めると良い。) ・昭和44年5月に業務開始した船舶用電波灯台。有効範囲は昼間で590海里、夜間で350海里。 ・船舶を安全にナビゲートするために、24時間休み無く長年電波を出し続けてきたこのデッカ塔も、近年の通信技術の発達により、今はその役目を終えている。 |
亀ヶ窪(カメガクボ)高原
・佐田岬半島山頂上に広がる草原地帯。
堀切【瀬戸町塩成】
2005/1/4
・現在では佐田岬半島頂上線(国道197号線)、通称メロディーラインが抜け、道の駅「瀬戸農業公園」が設けられている。堀切の上には、逆ローゼ橋・堀切大橋が架かっている。(この橋のことを、地元の人は「瀬戸大橋」と呼んでいる。)
・ここからは宇和海(南側)、瀬戸内海(北側)の両方が眺められ、青々とした海に挟まれた道を潮風を受けながらドライブをするのは心地好い。
・松根東洋城は、「堀割の菖蹟佐田は霞みけり」と詠んでいる。(堀切に木製の句碑が建っている。)
・慶長15〜17年(1610〜12)、宇和島藩主・富田信濃守信高が佐田三崎半島に塩成堀切を作り、瀬戸内海と宇和海を繋ごうとして工事をしたが失敗した。
・「塩成堀切 磯崎より三崎の端までさし出る事凡拾七里、.....[以下略]」(愛媛面影)
A堀切り跡
所在地 西宇和郡瀬戸町三机〜塩成
富田信濃守信高が宇和島藩主であった頃、慶長15年(1610年)から2年半の歳月をかけ、10万石の浦里より人夫を集めて、掘らせたものである。塩成の振(ふり)と三机の小振(こぶり)との間で、三崎半島の背梁山脈が落ち込んで小峠となっているところが、堀切り跡である。
工事を起した理由は不明だが、船で岬鼻を回るには、あまりにも危険で時間もかかるため、航海の安全と時間短縮をはかるため、運河をつくろうとしたものと思われる。
当時は築城、その他土木工事まかりならぬ時代だったので、「無暴な工事を起こし、民心を乱す」と工事は完成せぬまま中止された。
工事は堅い岩盤で難行し、きびしい労働のため、人夫たちの中には病気やけがで数多くのぎせい者を出したといわれ、経塚を建て安全を祈願した。
塩成の振には、供養様と呼ばれる経塚があり、ぎせい者の霊が祭られているとか、工事に使用した道具が埋めてあるとかいわれている。
(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)
松根東洋城句碑
「堀割の菖蹟佐田は霞みけり」 |
藤村儀作之碑 |
地蔵 |
ウバメガシ群生【瀬戸町三机 須賀の森】
ビャクシン【瀬戸町三机
須賀の森】
・樹齢1,200年。
・「新月の日にカップルが木の前で手を合わすと必ず結ばれる」という言い伝えがある。
塚の供養松【瀬戸町塩成 堀切】
・堀切工事における犠牲者を祀る。
→See. 供養様
龍宮松(枯死)【瀬戸町志津】
小振峠【瀬戸町三机】
経塚
・堀切工事の犠牲者を祀る。 |
萬有(田村子吉)句碑【瀬戸町三机 持殊院】
「薫風や 街一半を 木の間より」
・境内敷地の東側にひっそりと青い自然石(青石)の碑が建っている。
・昭和6年(1931)の建立で、「皇紀2591年」の銘あり。
・萬有は、三机で開業医を営んでいた田中子吉の俳号。
この句は三机にいた頃に詠んだもの。
瀬戸町合併記念碑【瀬戸町三机 瀬戸町役場】
・昭和31年(1956)6月1日建立。
(瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日)
瀬戸町閉町之碑【瀬戸町三机 瀬戸町役場】
2005/8/25
・平成17年3月、瀬戸町長井上善一書
本所・足成支所新築記念碑【瀬戸町三机 瀬戸町役場】
2005/8/25
・碑上部の扇形の部分には「一人は万人のために万人は一人のために」と刻まれている。
国土調査記念碑【瀬戸町三机 瀬戸町役場】
2005/8/25
・「瀬戸町国土調査記念碑 昭和59年3月31日完了」
本事業は明治年間に全国的に行なわれた土地調査の成果を基に、近代的高度の測量技術をもって、土地行政の改革を遂行するため実施したものである。
昭和49年4月神崎地区から調査を開始 その間 推進委員 105人 延べ調査員 14人 総事業費300,013千円の巨費を投じ、約十ヶ年の歳月をかけ、昭和59年3月ここに完了する。 |
(瀬戸のいしぶみ、瀬戸町教育委員会、昭和58年3月25日)
毛利松平胸像【瀬戸町三机 瀬戸町役場】
毛利松平先生は大正二年瀬戸町に生を享け 県立大洲中学に学び 慶應義塾大学を卒業 昭和三三年以来衆議院議員九期連続当選 此の間外務政務次官 大蔵委員長 自由民主党副幹事長 国務大臣 環境庁長官 コスタリカ国特命全権大使 日本武道館理事長の要職歴任 マダガスカル国再興勲章 衆議院永年在職議員表彰 勲一等瑞宝章叙勲 大韓民国修交章 光化章 愛媛県功労賞を受く 先生は政治一筋に徹して初志を貫き 郷土の発展と国連の興隆に献身 その功績と栄誉は燦然と輝き 天与の資質は気宇宏壮剛毅果断大局を運観■■に篤く人間味豊かに万人ひとしく敬慕して止まぬ愛媛が誇る偉大な政治家である 茲に先生の医業をえ挙郷一致相諮りその風格を鋳し顕揚する
昭和五十九年十二月二日 撰文 顕彰実行委員長 村上清吉 題字 元内閣総理大臣 三木武夫 彫刻 日展理事 伊藤五百亀 |
福島朝行氏功労記念碑【瀬戸町三机 瀬戸町漁業協同組合】
2005/8/25
・瀬戸町長井上善一の書。
・銅板に「漁業功績のあゆみ」として、福島朝行氏の職歴等が記されている。
・平成15年11月建立。
福島朝行氏功労記念
功績のあゆみ 氏は、温情誠実にして品行方正、清廉潔白な性格を身上とし、卓越なる職見と指導力は高く評価され、その功績は誰もが尊敬するものである。 昭和三十九年八月若干三十二才の若さで瀬戸町議会議員に当選以来、連続九期三十六年にわたり在職し特に農漁業基盤整備の必要性を認識し政治信念を持って町の発展と町民福祉の向上に尽力された。また、本組合事業にあっても豊富な知識と実行力が認められその名声は高く広く県内外に知られるようになる。 昭和四十五年瀬戸町漁協合併以来七年間にわたる旧足成漁業組合における債権整理を満身一義に打ち込まれた事実と実績は計り知れない。 昭和六十三年組合員の強く厚い後押しがあり三度目の組合長就任以来、活力ある組合の発展を真摯に願い、高度成長の時代背景も見極めえながら組合経営を攻めの経営に転換し安定させた。これは氏の適確な総合判断力、社会信用力が礎にあった。 よってこの記念碑を建立する。 平成十五年十一月吉日 |
自治功労記念碑【瀬戸町三机】
・三机小学校敷地内に2基が建っている。
・兵頭清行、井上喜内両氏を頌えるもので、「先賢の碑」とも呼ばれる。
※「兵頭清行先生教育功労記念碑」
・兵頭清行氏は、明治34年4月から明治38年12月にかけて、三机小学校の5代目校長を務めた。
松浦岩蔵記念碑【瀬戸町塩成】
2005/1/4
「養蚕組合創立功労者 松浦岩蔵記念 昭和六年一月建之」
・塩成小学校前の道路沿いにある。
松田繁太郎頌徳碑【瀬戸町志津 志津集会所】
・昭和14年8月建立。
(瀬戸町誌)
デラ台風遭難者慰霊塔【瀬戸町塩成】
・昭和28年(1953)6月建立。
★デラ台風(昭和24年(1949)6月20日〜21日)
イワシ網出漁中の1655隻の漁船を直撃し、そのうち849隻が沈没、806隻が破損した。死者46名行方不明108名、重傷37名、軽傷192名。
七人ミサキの供養碑【瀬戸町神崎】
昔、小姫という姫が6名の従者を従えて沖合いを航行中に遭難した。小姫らの霊を慰めるために築かれたものだという。
大久むかいパーク【瀬戸町大久】
・デッカ高原の西端「カメガクボ」に設けられた広さ1.5haの展望休憩所。トイレ、駐車場あり。
オカメ地蔵
・平成8年(1996)3月、むかいパークに移転した。碑文もこのときに建てられた。 ・「おかめさんの伝説」を参照のこと。 |
須賀公園【瀬戸町三机】
須賀八幡神社のおこもり行事【瀬戸町三机】
・4月29日に行われる。
もぉ〜モォ〜フェスティバル【瀬戸町大久】
・4月29日に大久むかいパーク(カメガクボ)行われる。
母なる海への感謝祭【瀬戸町】
・8月の第1土曜日に開催される。
瀬戸の花嫁まつり【瀬戸町三机】
・8月の第1日曜日に開催される。
おしょろ船[御精霊船]、地蔵盆【瀬戸町三机】
・8月15日、一年間の新仏を西方浄土へと送る盆行事。
・町民センター前の船着場で行われる。
おしょろ船【瀬戸町川之浜】
・夕方になると、麦藁で作製した長さ3.5mの「念仏丸」に、市松人形に模せられた新仏を乗り込ませる。船酔いせず無事西方浄土へ行き着くようにと、竹でしっかりと固定する。
秋祭り【瀬戸町三机】
2000/10/14
四ツ太鼓
・四ツ太鼓、神輿(リアカーに積まれた3体)などが町内を練り歩く。 |
牛鬼(大2体、小1体)
・「うしおに」、「うしょうにん」などと呼ばれる。小さい方は「こしょうにん」とも呼ばれる。 |
稚児舞
・艶やかな衣装を身に纏った稚児舞も負けじと鈴の音を鳴らしながら踊り歩く。 |
五ツ鹿踊り
・何故か先頭に兎が居る。幟を手に、間抜けな表情で歩いている。 ・五匹の鹿のうち、一匹は何故だか角が樒の枝である。 |
獅子舞(2体) |
獅子舞、牛鬼、太鼓台の御旅所への突進 |
御旅所での神楽
・町外から招聘しているらしい。 |
道の駅:瀬戸農業公園【瀬戸町塩成293】
・営業時間:08:30〜17:30
・休業日:月曜日
風力発電施設「ジャンボ風車」
・何と言っても最大の観光の目玉は高さ44mの三枚翼の風力発電用の「風車」。発電出力は100kW。 ・平成3年4月1日運転開始。工事費は1億5200万円を要した。 →平成16年の台風で羽根が欠損。平成17年に撤去した。 |
瀬戸町農業活性化センター
・平成元年8月10日オープン。 ・お土産物はこちらで。 ・日本人初の北極点単独歩行に成功し、瀬戸町名誉町民にも指定された瀬戸町出身の冒険家・河野兵市氏の写真パネル・所持アイテムの展示コーナーも設けられている。 |
管理棟・モデル温室
・平成4年4月1日開場。 ・トマトの水耕栽培が行われている。 |
れすとらん風車 |
ジェラテリア「だんだん」/日曜市「だんだん」
・地元農産物を原料にしたシャーベットを販売している。 |
気象ロボット(アメダス) |
ふれあい広場 |
ブリーズハウス【瀬戸町】
・廃校跡を利用した体験学習施設。自炊可能。
・低料金で利用できる。
瀬戸町民センター界隈【瀬戸町三机】
2005/1/4
御仮屋跡
・町民センター裏側の道沿いにある。標柱も建っているのだが、道路より一段(約2m)高いところなので、案外見落としがち。 ・跡地だけで、何一つその痕跡はない。 |
旧三机村役場跡
・町民センター前の小振りな公園敷地に、旧の三机村役場があった。 |
瀬戸町合併記念碑
・公園敷地内に建っている。 ・昭和31年6月 ・その背後には、この界隈唯一の公衆便所があるので、釣り・観光に訪れる場合には是非とも覚えておきたいポイント。 |
塩成小学校【瀬戸町塩成】
2005/1/4
開校百年記念碑
「1981 開校百年記念 町立塩成小学校」 「昭和56年11月建之 記念事業推進委員 委員長 門田徳次郎 ...」 |
おかめさんの伝説【瀬戸町志津】
明朗快活で働き者のおかめのいう娘がいた。
ある日、村の若者と山仕事に出掛けた。カメガクボのところで、負い子を置いて休もうとしたときにトウキビメシをいれたお櫃の蓋が「ギュー」という音を立てた。この音を聞いた若者が「おかめが屁をひった」とからかった。おかめが無実の罪(?)を否定したが若者達はからかうのを止めない。
翌日、おかめはカメガクボのところまでやってきて、舌を噛んで自殺した。
それ以降、このカメガクボにとうきびが芽吹いた。しかし大きく成長しても決して実はならなかった。これは、おかめが無実を訴えているからだという。
三机の名の由来
・神武天皇(じんむてんのう)東征の折、嵐に遭ってこの地に漂着した。それゆえ、御着江(みつくえ)と称し、これが転じて三机となった。
佐田岬の名の由来
・「佐田岬」の名は、道の神・猿田彦にあやかって付けられたという。
チンチンド・カンカンド
昔、大江に仲のよい老夫婦が住んでいた。ある日おじいさんが海岸にいると、山津波がおじいさんを飲み込んでしまった。おばあさんは岩石の下敷きになって死んだおじいさんの霊を慰めるために、毎日、その岩石にむかって念仏を唱え、それは波の音とまざって「チチチン・ドドドン・チチチン・ドドドン」と聞こえた。以来、そこを通る人々は「チンチンド・カンカンド」と念仏を唱えながら通りようになり、その辺りをチンチンド・カンカンドと呼ぶようになったと伝えられている。
六艘堀と飛び上がりの安さん
藩政時代、三机湾の入口、森に囲まれた八幡神社には、宇和島藩主が参勤交代の折り、江戸に向かうための御座船が六艘常備されていた。天候の悪い時に佐田岬を回るのを避けるためである。御座船が三机を出るときには、たくさんの船頭が必要になる。船頭になるためにどうしても厳重な検査に合格したかった真面目な安さんは、検査のときに飛び上がり飛び上がりして背が高いように見せ、無事船頭に選ばれた。それから人呼んで飛び上がりの安さんと呼ばれるようになった。
須賀公園海水浴場【瀬戸町三机】
川之浜海水浴場【瀬戸町川之浜】
大久海水浴場【瀬戸町大久】
塩成海水浴場【瀬戸町塩成
三机港界隈【瀬戸町三机】
・塩成から三机の街に向いて坂道を下り、観光案内・商店街案内の看板が建つところをヘアピン状に右折すると、三机港・瀬戸町役場へと通じる。ここは通称「東の浜」と呼ばれ、晴れた日には多くの釣り人達で賑わう。
「支え合い輝く町」のモニュメント
2005/8/25 ・三机の街並みへの入口、駐在所の北側に建つ。 ・瀬戸町制施行40周年を記念して、平成8年に制作・建立された。 ・「歳月を重ねるごとに光り輝いてゆく町の未来と支え合う人々を表現しています」と、その作成の意図が碑文として刻まれている。 |
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三机港護岸竣工記念碑
2005/8/25 ・昭和29年3月着工、昭和31年3月竣工と碑に刻まれている。 |
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侍番所跡
2005/8/25 「三机港は天然の砂嘴による良港のため、古来避難港としての要衝であった。 江戸時代の三机浦は宇和島藩主参勤交代の途中、御仮屋、長養寺で休憩宿泊されており特に殿宮 須賀の八幡宮へは九州諸藩主も航海安全祈願のため参拝されるなど重要な港であった。そのため宇和島藩はこの地に侍番所を設置し、治安維持に当たらせたのである。 番所には役人のほか三名の下番人を配置し、鉄砲、槍などが常備され建物の周囲には宇和島藩九曜の紋入りの幕が張られ、夜間は常夜灯が点灯されるなど警備に威容を示していた。 平成十七年一月吉日 瀬戸町教育委員会」 |
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PRモニタ
2005/8/25 四国電力(伊方原子力発電所)が設置している漏洩線量のモニタリング施設。 三机港に設置している。 |
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瀬戸夢海道・三机商店街看板
2005/8/25 |
足成灯台【瀬戸町足成】
・三机湾から沖を眺めると細長い半島の先に白亜の灯台が見える。
番匠鼻
・瀬戸町の一番西の端に突出している番匠岩は、岩礁が連なり、磯釣りの漁場として知られる。
番匠鼻公園
・佐田岬県立自然公園 |
狩浜【瀬戸町塩成】
@狩浜(かりはま)
所在地 西宇和郡瀬戸町塩成
瀬戸町の東の玄関口にある塩成は、八幡浜〜三崎間の定期船の寄港地であり、この港が狩浜と呼ばれるところである。
宇和島藩主が参勤交代の際、しけの時などこの狩浜に上陸し陸路を三机へ、一方空船は、岬の鼻を通り三机へ回していた。
また、当時この付近には鹿が多く、しけで何日間か滞在した際など、旅のつれづれをいやすためこの狩浜のあたりで狩をされたといわれる。鹿児島藩の草木学者田原直助が、宇和島藩の招きで領内の物産調査を行った安政5年(1858年)の日記5月11日の項に「山路で鹿の群に合い機銃を打ちなどして田部ヘ……」と記されている。
狩浜には「親方」と呼ばれた阿部家があり、現在は17代の十吉氏が当主である。何代藩主の時か不明であるが、強風のため上陸に難を極めた折、親方阿部氏は裸で海中に入り、藩主を無事上陸させ、一層の信頼を得たといわれている。阿部家には7代藩主宗紀の書などが代々伝わっている。
(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)