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伊豫の隅々インデックス

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市町村概要


キャッチフレーズ
(1).「緑と清流の町 エコロジータウン・うちこ」
(2).「白壁と木蝋の町」

町の花 町の木 町の花木 町の鳥
サツキ カシ


特産物

沿革
・緑と清流の町 エコロジータウン・うちこ 内子町は、三筋の河川で隔てられた山地と傾斜地から成り立っており、平地は皆無に近いため、大洲藩政の時代には、和紙と木蝋の生産が起こり、地場産業として発展してきた。
・往時の歴史的環境は、町の随所に保存され、「八日市護国町立保存地区」として次代に引き継がれようとしている。 (昭和57年、国選定重要伝統的建造物群保存地区に選定。昭和58年、愛媛県「文化の里」に指定されている。)


地名
大字
石畳
・明治22年、下灘村(双海町)の一部となる。
・明治41年、下灘村から分離して満穂村へ合併。
・昭和30年、内子町となる。
・隠れキリシタンの里ともいわれる。
知清 ・江戸時代には大洲藩の伊賀崎郷に属していたが、明治22年に内子と合併した。
河内 ・大洲旧記(寛政12年、1800年)によると、楠木正成の子孫が山谷を切り開いて居を構えたという。(楠木氏の掬水(きくすい)の紋瓦を所蔵している寺がある。)
・満穂村(みつほむら)へ合併。
・昭和30年に内子町へ合併。
五百木 ・江戸時代には、横峰組(現在の長田第1、第2)、和田組(現在の和田)、石浦組(現在の富中、富長)の3 組に分かれていた。
・日本のビール王と呼ばれ、現在のアサヒビールの創始者・高橋龍太郎氏の本家が代々庄屋を務めていた。
・明治22年の市町村制施行時に城廻村と合併して五城村になるまで五百木村と呼ばれていた。
・昭和30年に現在の内子町となった。
川中
村前(むらさき) ・昭和4年12月26日まで村前村と呼ばれていた。
・江戸時代は大瀬村の庄屋が当初支配し、昭和4年までは一つの村として存続した。しかし、同年の12月26日に同村の南側の池窪、亀井は天神村(五十崎町)へ。東側の本村、喜田村、上日ノ地、徳積は大瀬村へ。北側の中土、長前(ながさき)、北浦、深谷(ふかだに)、下成(しもなる)、上成(かみなる)は五城村へ「昭和の大合併」までの間、それぞれ編入されたところである。
袋口(ふろく) ・明治22年の市町村制施行によって河内村、石畳村と一緒に満穂村となった。
・立山村と川中村とで立川村となった。


文化財

八日市護国伝統的建造物群保存地区【内子町内子正木、ワケノオカ、古町/内子町城廻岡、清正】
2003/12/7
・国選定重要伝統的建造物群保存地区(昭和57年(1982)4月17日指定)
★「国選定重要伝統的建造物群保存地区」指定はここが四国初。
日本のかおり風景100選(2001年10月選定)「内子町の町並と和ろうそく」

・江戸時代後期から明治時代にかけて木蝋生産で栄えた八日町護国地区は、今もなお当時の隆盛を極めた商家の家並みが残る。

「この辺りは、内の子村(現内子町)の八日市町(七日市を改める)で曽根城主により市日を設定したときに生れた市場町である。
 この町で宝暦7年(1757年)に、初代芳我弥三右衛門氏が製蝋業を始めてから、順次製蝋業者がふえ、木蝋の町として栄えた。
 町の両側には、作業場・使用人のための長屋・倉庫が建ち並び、産業の町として当時の繁栄ぶりがしのばれる。最盛期には、全国の輸出白蝋の8分の1を内子が占めるまでになったのである。写真の左側は、使用人の長屋、その先の少し低く見える家は、寛政年間、(1789〜1801年)に建てられた大村家であり、白壁の見えるのが本芳我家の倉庫の一部。すぐ隣は、明治17年に建てられた本芳我家である。
 木蝋で得た巨額の富を投入した豪邸が点在しており、本芳我家・中芳我家・高根家、その外に元禄年間(1688〜17(雌年)に建てられた室野家もある。その時代の建築様式が、独自な意匠で時には華美時には簡素にそのままの姿で残されている古い町並である。」(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)

「内子は松山と大洲を結ぶ旧大洲街道に沿った町で、江戸時代には市場町として、また、肱川の支流小田川の水運を利用した物資の集散地、金毘羅参りや四国遍路などの交通の要所として栄えた。その後、木蝋の伊予晒法が内子で考案されてからは製蝋が主要三行となって発展し、江戸時代の末期から明治時代にかけて最盛期をむかえた。
 その時代の建築が建ち並ぶ地区の中心部には、寛政年間(1789〜1801)に主屋を建築した大村家(国指定重要文化財)、製蝋で栄えた明治時代中ころ建てられた本芳我家、上芳我家(いずれも国指定重要文化財)の大規模な主屋や土蔵などの附属屋が道路に面して建ち、町並み景観の中心的存在となっている。また、ところどころに丸太を柵状に組んだ「蝋垣(ろうがき)」なども残り、製蝋で栄えた往時の姿をよくとどめている。
 この地区は地方的特色を示す伝統的な建造物が数多く残り、四国地方における重要な伝統的町並みとなっている。」(愛媛の文化財、愛媛県教育委員会文化財保護課、愛媛教育委員会、平成5年3月31日)

内子座【内子町内子(下町通り)】
2003/12/7
・町立伝統文化施設。
・大正4年〜5年(1915〜1916)に建築、2月21日に落成した本格的な歌舞伎劇場で、現存する県下最古の劇場である。
・大正天皇の御大典を記念し、町内の有志より株式会社として建造された。
・昭和60年(1985)に修理復元した。
・太鼓櫓、木戸、回り舞台、花道など、当時そのままの姿を復元した貴重な劇場。
・奈落は平成6年(1994)に部分改修した。

「蝋(ろう)と紙と生糸の町として栄えさせた"胆の内子商人"が、大正天皇の御大典記念事業で建築した。どうせ造るなら立派なものをと、当時県下一の演劇場と誇っていた、松山市の新栄座をサンプルに建築したとのこと。敷地の関係で、間口は十分だったが奥行が不足で新栄座に敗けたと残念がられているが、建物は、花道から桟敷、更に株主の席として本部席を設け、また舞台には、回り舞台まで完備し、この地方最大のモダンな劇場ともてはやされた。
 コケラ落しは、大正5年2月12日吉田伝次郎人形芝居(のちに人間国宝となった人)を上演した。"バカコイ バカコイ 土デコミセル"と芝居がある日は、櫓(やぐら)から太鼓が威勢よく鳴り響き、劇場周辺にはノボリが立ち景気をつけた。
 大正末期には、映画も上映され、町民の娯楽の殿堂として大きな役割を果たしたが、現在では、内山商工会館として商工業者の中枢として活用されている。」(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)

「内子座由来
内子座は、大正5年(1916)に、大正天皇即位の大典を記念して建てられた歌舞伎劇場です。江戸時代から町民、近隣在郷の人たちの娯楽であった歌舞伎や人形芝居を鑑賞する殿堂として、融資8名の発起により「大典記念株式会社内子座」を興し、建築費3423円を投じ、地元の大工、左官によって完成したものです。
 建物は、この時代全国的に建てられた劇場の基本に習い、■側を正面にした木造瓦葺き二階建てで、歌舞伎劇場として備えるべき回り舞台や花道などを整えています。また洋風小屋組(トラス工法)であるため、舞台から観客席にかけての天井の空間が広々としています。
 劇場は、時代の変遷とともに映画館や商工会館に転用され、部分的な改造が繰り返されました。しかし昭和50年代に始まる内子町の歴史的環境保全運動の一環として保存の機運が高まり、3ヵ年と総事業費7020万円をかけて、昭和60年(1985)に復元完成したものです。
 昭和60年10月 愛媛県内子町 」(説明書き)

大村家住宅(2棟)【内子町内子 八日市】
2003/12/7
・国指定重要文化財[建造物]
・寛政年間(1789〜1801)の建造物。
・非公開
・江戸時代末期寛政年間の建物。雑貨商と農業、染物、生糸製造、切手等販売と生業を変え、堅実な暮らしを守ってきた。

「 この建物は寛政年間(1789〜1801)に建築された町家(まちや)で雑貨商染物商・生糸製造にかかわってきた。
 厨子と呼ばれる低い二階や虫籠窓など、古い形式を伝えているこの地域で最も古い建物の一つである。(非公開)
 内子町/内子町教育委員会」(説明書き)

木蝋資料館上芳我邸【内子町内子 八日市】
2003/12/7
・1995年5月1日リニューアルオープン。
・見学料:大人 400円、小人 200円
・休館日:毎週月曜日
上芳我家住宅(10棟)
・国指定重要文化財[建造物](平成2年(1990)指定)
・晒(さらし)蝋の生産で富を築いた上芳我邸は、本芳我邸の分家。
・明治27年(1984)の建物。
・豪商の暮らしぶりや木蝋(晒蝋)の生産の様子が見学できる。
・木蝋で栄えた本芳我家から1861年に家督と金、さらし場の3割を与えられて分家したのが上芳我家である。
・現在、昔の面影が偲ばれる木蝋資料館として一般公開されている。
木造二階一部三階建て。蝋燭を造る作業場などがあり、14年前に町が借り受け、ろうしぼり機を復元、3つの生産工程などを展示し、資料館として翌年から開館した。

上芳我邸の庭に立つ大きな泰山木を囲み、訪れたみなさんは、さまざまな催しを楽しみながら優雅なひとときを過ごします
9月18日日曜日、内子の町並みにある木蝋資料館「上芳我邸」で催された「観月会」に行ってきました。
ススキや行灯で情緒たっぷりに飾り付けられた邸内。出迎えるスタッフ、そして訪れるお客さんの中にも着物姿の方が多く見受けられ、そこはまさに日常の世界とは違う「和」のやすらぎが漂う空間。
日が傾き、しだいに薄暗くなっていく中、地元のみなさんによって披露される「はぜとり唄」や琴の音色がゆっくりと心の中へと流れ込んできます。
この日は仲秋の名月。いつしか空にはまん丸のきれいなお月様がぽっかり顔を見せました。
「月をこんなふうにゆっくりと見上げるのはどのくらいぶりだろう」。
何かに追われるように忙しく過ぎていく毎日に、ふっと心やすませてくれた観月会。まだ知らないみなさんにはぜひとも、一度は訪れてみてほしい催しです。
(広報うちこ 2005(平成17)年10/15号 Vol.19)

製蝋用具展示棟/製蝋用具収蔵庫棟
・国重要有形民俗文化財(平成3年(1991)指定)
・1995年5月1日リニューアル時に新しく加わった。(4/26落成)
・展示棟は木造二階建て、収蔵庫は鉄筋二階建て。
・重要有形民俗文化財に指定されている製蝋用具1444点(レプリカを含む)を公開する。

内子及び周辺地域の製蝋用具(1,444点)【内子町】
・国指定重要有形民俗文化財

本芳我邸(4棟)【内子町内子 八日市】
2003/12/7
・国指定重要文化財[建造物]
・明治17年(1884)の建造物。
・非公開
・木蝋の生産と海外輸出で財を成した旧家。漆喰を使った懸魚や2階の随所にほどこされた波頭文様の鏝絵など、贅を尽くした意匠に目をみはる。

「当家は内子木蝋の基礎を築いた家で、建物は木蝋生産が盛んであった時代を背景に明治17年(1884)に建築された。
建物は質がよく華麗な漆喰細工はきわだった存在である。庭園はその後に整備されたものであるが、豪商の住宅の一側面をよくあらわしている。
内子町 内子町教育委員会」(本芳我邸立て看板)

素巧館(そこうかん)
・江戸時代後期の建物を、民芸品の展示場として昭和63年(1988)に修復した。
・民芸品を展示している。

町家資料館(まちやしりょうかん)
2003/12/7
・寛政5年(1793)の建造物。
・当時の典型的町家を昭和62年(1987)に修理復元したもの。
・江戸時代の建築の特徴を最もよく残している。

「この建物は昭和59年3月当時の「米岡家」住宅を町が譲り受け、資料館として復原したものです。内部は江戸時代の八日市周辺の一般的な町家の生活様式がわかり易く展示してあります。
一.開館時間 午前九時より午後四時三十分
一.休館日 年末年始三日間
一.入館 御自由にお入り下さい
おねがい
 この建物は地域住民の協力により管理されているものです。大切に利用して下さい。」(説明書き)

商いと暮らし博物館(内子歴史民俗館)
・江戸後期から明治時代の商家をそのままの形で利用して、大正10年(1921)頃の商家(薬屋)の日常生活を再現している。
・内子町の歴史・民俗・郷土人物に関する資料も展示している。

鏝絵
「鏝絵とは
鏝絵は、漆喰の壁に鏝で漆喰を塗り上げ、レリーフを描くように浮き彫りの模様を描く左官の技術である。家や、土蔵を建築する際に家内安全・不老長寿・大火災除け・商売繁盛・五穀豊穣などを祈願する為に妻壁や戸袋などに福の神干支などを漆喰で描いたものをいう。左官が鏝を使って漆喰の壁に細工したもので[左官アート]とか[漆喰絵][壁絵][石灰絵][左官絵]呼び方はさまざまである。全国に分布しているが関西地方に多い。近県では、鳥取県・佐賀県・長崎県の対馬・大分県安心院町・日出町・山香町、高知県野市町、土佐山田町、県内では、東予市、内子町、野村町、小田町 県内ところどころで見ることが出来る。塗ってから乾くまでに時間も手間もかかる。心にゆとりがないとその出来ばえを楽しむことは難しいと言われている。静岡県松崎に生まれた江戸末期の天災左官入江長八。通称[伊豆の長八]によって、造られたのが起源だと言われている。」(説明書き)

萬福寺の阿弥陀如来像【内子町大瀬 萬福寺】
・町指定有形文化財(昭和37年3月23日指定)

萬福寺の寺号額【内子町大瀬 萬福寺】
・町指定有形文化財(昭和37年3月23日指定)

願成寺の宝篋印塔【内子町内子 願成寺】
・町指定有形文化財(昭和40年3月25日)

願成寺の阿弥陀三尊像【内子町内子 願成寺】
・町指定有形文化財(昭和40年3月25日)

高昌寺の寺院構造一式【内子町城廻 高昌寺】
・町指定有形文化財(昭和40年3月25日)

高昌寺大雄殿扁額【内子町城廻 高昌寺】
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)

竹の花活【内子町内子 内子図書館】
・町指定有形文化財(昭和46年6月30日)

御調神社の神号額【内子町程内 御調神社】
・町指定有形文化財(昭和55年10月8日)

三島神社の鎧【内子町大瀬 三島神社】
・町指定有形文化財(昭和48年5月24日)

三島神社の御系図(巻物)【内子町大瀬 三島神社】
・町指定有形文化財(昭和48年5月24日)

八幡神社の算額【内子町内子 八幡神社】
・町指定有形文化財(昭和60年10月9日)

八幡神社佐藤秀文の絵馬(2点)【内子町内子 八幡神社】
・町指定有形文化財(昭和60年10月9日)

阿弥陀如来坐像・観世音坐像【内子町川登】
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)

籠松堂【内子町河内】
・町指定有形文化財(昭和63年12月13日)

内子座建物構造一式【内子町内子】
・町指定有形文化財(昭和57年9月29日)

河内の屋根付き橋【内子町河内】
・町指定有形文化財(昭和57年12月16日)
★四国みずべ88ヶ所

一本松の大師堂【内子町論田 惣郷】
・町指定有形文化財(昭和59年8月10日)

西光寺の大師堂【内子町富長 富浦】
・町指定有形文化財(昭和59年8月10日)

滝の花の大師堂【内子町石畳】
・町指定有形文化財(昭和59年8月10日)

元袋口の大師堂【内子町袋口 西】
・町指定有形文化財(昭和59年8月10日)

慈雲山観音寺【内子町程内】
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)

満穂神社御神像群【内子町河内 満穂神社】
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)

三島神社の御神像と狛犬【内子町川中 三島神社】
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)

三島神社佐藤秀文の絵馬(4点)【内子町川中 三島神社】
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)

船戸神社神号額【内子町論田 船戸神社】
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)

呑水聖観世音菩薩【内子町立山】
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)

栄恵美寿神御姿御版木【内子町内子 恵美寿神社】
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)

喜多郡一宮三島神社祭礼行事社切り【内子町川中】
・町指定無形民俗文化財(昭和57年9月29日)

喜多郡一宮三島神社祭礼行事獅子舞【内子町立山】
・町指定無形民俗文化財(昭和57年9月29日)

喜多郡一宮三島神社祭礼行事御供相撲【内子町川中】
・町指定無形民俗文化財(昭和57年9月29日)

東の枝垂桜【内子町石畳 東】
・町指定天然記念物(昭和37年3月23日指定)

東のムクロジ【内子町石畳 東】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

八幡神社のイチョウ【内子町内子 八幡神社】
・町指定天然記念物(昭和37年3月23日指定)

峰ノ成のイチョウ【内子町石畳】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

五葉の松【内子町石畳】
・町指定天然記念物(昭和63年10月9日指定)

河内のヒイラギ【内子町論田】
・町指定天然記念物(昭和63年12月13日指定)

和泉のヒイラギ【内子町石畳】
・町指定天然記念物(昭和46年6月30日指定)

和泉のナツメ【内子町石畳】
・町指定天然記念物(昭和46年6月30日指定)

久保のナツメ【内子町程内】
・町指定天然記念物(昭和46年6月30日指定)

中岡のナツメ【内子町程内】
・町指定天然記念物(昭和46年6月30日指定)

鈴木のコガノキ【内子町袋口 鈴木】
・町指定天然記念物(昭和47年3月10日指定)

鈴木のエノキ【内子町袋口 鈴木】
・町指定天然記念物(昭和47年3月10日指定)

高岡のエノキ【内子町池田】
・町指定天然記念物(昭和57年11月29日指定)

土井のクロガネモチ【内子町内子】
・町指定天然記念物(昭和55年10月8日指定)

清田のムクノキ【内子町河内】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

知清の大杉【内子町知清】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

深谷のヤマモミジ【内子町深谷】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

河内砦のヤブツバキ【内子町五百木】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

水戸森のイヌマキ【内子町五百木】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

高屋のハゼノキ群【内子町五百木】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

峰土のイチイガシ【内子町立山】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

御調神社社叢【内子町程内 御調神社】
・町指定天然記念物(昭和37年3月23日指定)

天神社社叢【内子町池田 天神社】
・町指定天然記念物(昭和57年11月29日指定)

弓削神社境内【内子町石畳】
・町指定名勝(昭和37年3月23日指定)



城址

曽根城跡【内子町城廻】
・町指定史跡(昭和60年9月10日指定)

「内子町城回りの小高い森の上に位置し、別名を常久寺城と称せらlているが、築城の年代はつまびらかでない。天正年間(1573〜1592年)の曽根城は、本丸が東西約90メートル、南北約140メートル、城跡の高さは西南約190メートル、西北約200メートル、二の丸の総回り約910メートルであったという。
 城北には、松尾神社裏に空壕を掘り、東南は中山川、西南は麓川三方水流に囲まれた自然の山水を巧みに取り入れた、地方まれに見る広域の築城で、追手門に当たる麓部落に、水濠があったと伝えられている。
 続続喜谷行邇に続いて、9代小式部が城主となり、この時に至り滅んだ。行幹の子宣高が再び曽根城により、宇和の宇都宮真綱、土佐の長宗我部元親、大洲の大野直之、伊予の河野通直などと戦い屈しなかったのである。遂には盟友龍王城を奪い、当時の宣高の領地は、曽根郷・五十崎郷・広瀬郷・平郷計21村石高9100石を領し、大洲藩に次ぐ郡内の雄藩であったが関ケ原合戦の後、大洲領となった。」(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)
愛媛県 内子町  曽根城跡
 曽根城は、東に中山川、西に麓川が流れ、北面の尾根は千部峠に囲まれ標高110mの河段丘上に位置していた。この城より内子盆地、黒瀬城、今岡城、龍王城が一望でき、また中山、松山への旧街道、五百木、大瀬を経て久万に通じる街道があり、南予、中予への交通を*    内子・石畳間 伊予鉄南予バス

石城【内子町村前】
石城 横山村に在り 南尾源三郎居る 橘城の番城なり」(伊豫温故録)

大岡館【内子町五百木】
大岡館 五百木村に在り 高橋対馬守居る 対馬守の二男助右衛門天正年中より当村の庄屋となる」(伊豫温故録)

中土城【内子町村前】
中土城 村前村に在り 中土一に中度に作る 中土重兵衛居る」(伊豫温故録)

今岡城【内子町村前】
今岡城 村前村にあり 千葉但馬守居る」(伊豫温故録)

森城【内子町村前】
森城 村前村に在り 森掃部居る」(伊豫温故録)

十楽城【内子町村前】
十楽城 村前村にあり 鬼堂才省居る 仙波八兵衛と伯父甥なり才省討死の地は二本松といふ所なり 鬼堂才省一に岐藤斎文といふ」(伊豫温故録)

梅原寺城【内子町村前】
梅原寺城 村前村に在り 仙波八郎兵衛居る」(伊豫温故録)

笠松城【内子町村前】
笠松城 村前村に在り 笠松長五郎居る 又弥々が森城あり 城主知れず」(伊豫温故録)

城の尾城【内子町大瀬】
城の尾城 大瀬村にあり 松尾大内記居る」(伊豫温故録)

日表城【内子町大瀬】
日表城 大瀬村石の峯にあり 日表河内守居る 慈雲山観音寺とふ其の時代の寺あり 本尊は伝教大師の作折紙付なり」(伊豫温故録)

木菱ノ城【内子町大瀬】
木菱ノ城 大瀬村に在り 大木土帯刀居る 栗田宗徳討手に向ひ夜討にしたる時帯刀坪の中に隠れたるを坪ともに切たるに子細なく切れたりとて今平岡村庄屋に坪切丸と名付けたる指添あり」(伊豫温故録)
※指添(さしぞえ):「刀の〜」

尾首城【内子町大瀬】
尾首城 大瀬村に在り 尾首新蔵人居る」(伊豫温故録)

久保城【内子町大瀬】
久保城 大瀬村に在り 久保長門守居る」(伊豫温故録)

岡城【内子町大瀬】
岡城 大瀬村にあり 岡備中守居る」(伊豫温故録)

白石城【内子町大瀬】
白石城 大瀬村に在り 武智雅楽頭直政居る 久保長門守 兼て牛を中野下駄馬といふ所に預け置きしが折節はなれて雅楽頭が飼牛の天神社につなぎ有しを突殺しぬ 此意根に依って雅楽頭久保方に攻め入り双方討死せりといふ」(伊豫温故録)

黒山城跡
・治承年間(1177〜1181)平家の武将が築城したと伝えられる。
・標高730mの黒山山頂の断崖絶壁に設けられた。



遺跡

旧石器及び縄文遺跡【内子町五百木】



古墳

跡地

内の子紙役所跡【内子町】
2003/12/7
「明和8年(1771)に、大洲藩へ和紙を納入するため置かれた役所で、近郷よりここに紙が集められました。」

御蔵小路(みくらこうじ)【内子町】
2003/12/7
「紙役所をこの地に置いたとき、保管用の蔵をこの通りに建てたことから、こう呼ばれるようになりました。」

化育(かいく)小学校跡【内子町本町3丁目】
「明治5年「必ず邑(むら)二不学ノ戸ナク、家二不学ノ人ナカラシメンコトヲ期ス」との学制の公布と同時に、内ノ子村では、今までの手習い場所であった寺・庵・有志宅をそれぞれ桜ケ丘、文階、耕余の3黌(こう)を発足させた。
 当時の内ノ子村は、文明開化の波にのり、商業の発展とともに郵便所の開設、続いて警察分署、私立病院等が開設され、実に活気に満ちたものとなると同時に教育熱もあがり、明治12年桜ケ丘・文階・耕余の3黌を合併し、本町3丁目に化育小学校を新築した。
 この学校を新築するにあたり、村の有志が神戸の外人居住区の建物を参考にして、モダンな洋館建ての学校を設計した。始めは大きな校舎の建設を計画したが、県から大ぎ過ぎると難色を示され、縮少されたとの話が伝えられている。明治19年(小学校令公布)、化育小学校から内子尋常小学校となり、明治34年現在の高校に移転新築、その後は郵便局・農協と活用され、町の重要な文化遺産の一つである。」(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)

吟松庵【内子町知清】
・願成寺の末寺

内ノ子騒動結着の場【内子町知清 知清河原】
・内ノ子騒動は、寛延3年(1750)に勃発した百姓一揆。
→See.「愛媛文化双書10 伊予農民騒動史話」、愛媛文化双書刊行会、昭和47年2月10日

雨乞ごい千人踊り【内子町知清 知清河原】

草競馬場【内子町知清 知清河原】

舟着き場【内子町知清 知清河原】

重岡薫五郎氏の墓
2003/12/7

高畑誠一翁生家跡
2003/12/7
・昭和50年4月建立


円福寺【内子町袋口3368】

願成寺(がんじょうじ)【内子町内子甲137(廿日市)】
※電話帳では、住所表記が「内子町内子351」となっている。
・山号:宮床山
・宗派:時宗
・本尊:阿弥陀如来(脇尊:観世音菩薩、勢至菩薩)
大鷲山の山腹にある時宗の寺院で、昔の三嶋神社の宮居の跡である。開基の年号は不明だが、開基の和尚は智真和尚、開基の主は、国主越智益躬と伝えられている。その昔、七堂伽藍が建ち並び優美を誇る地方まれにみる名刹であったといわれるが、戦国の兵火にかかって焼失した。
 天文17年(1539年)、時宗本山相模の国、藤沢山清浄光寺27世真寂上人が、四国を巡られたとき、願成寺に立ち寄り再建を思い立ち苦心の末再建をなし遂げられたが、不幸にして上人は病の床にふされ、翌天文18年7月2日夜入寂されたと伝えられる。
 内子の里人は上人様の臨終を深く悲しむと共に、その御事績を仰ぎ御徳をしのび、堂の東の方に御遺がいを納め一基の宝塔を建て、7月2日(現在は8月1日)の命日には、大勢の里人が集って盛大な念仏供養と読経を行い、現在ではその行事は"お上人様"と呼ばれ続けられている。現在の本堂客殿は享保年間当山30回世伝応和尚により建てられたもの。本尊は阿弥陀如来立像(1.8メートル)である。(宝篋印塔は、町指定史跡。阿弥陀三尊像は、町指定有形文化財)」(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)
願成寺の宝篋印塔
・町指定有形文化財(昭和40年3月25日)
・一遍上人27代目の真寂上人の墓所にある。
・真寂上人は天文17年(1548)、この寺で死去した。
願成寺の阿弥陀三尊像
・町指定有形文化財(昭和40年3月25日)
上人堂
・時宗開祖・一遍上人から数えて27代目の真寂上人の遺骸が祀られる。
遊行聖人祭り
・8月1日(真寂上人の命日 旧暦7月2日) 

菊水寺(掬水寺)【内子町河内412(上組)】
・山号:稲月山
・宗派:曹洞宗
・本尊:聖観音菩薩
・明徳3年(1394)、楠木正成の子孫が落ち延びてきて、檀那寺として創立したと言われる。

高昌寺(こうしょうじ)【内子町城廻117】
2003/12/7
・「伊予のミニ永平寺」、(本堂に大きな楠材を使用していることから)「楠寺」とも呼ばれる。
・新四国曼荼羅霊場 第50番札所
・山号:護国山
・宗派:曹洞宗
・本尊:観世音菩薩(脇尊:弁財天、不動明王)
曽根城城主、曽根高昌(そねたかしげ)の謚(おくりな)を寺号とする。
・嘉吉(かきつ)元年(1441)、大功円忠和尚(山口県)が麓川沿いに常久寺を創建した。しかし火災に遭い、天文2年(1533)に現在地へ移築した。
曽根高昌が深く帰依し、曽根家の菩提寺として手厚く保護され、弘治2年(1556)に高昌寺と名を改めた。
・文化4年(1807)の出火で堂塔伽藍・什宝を失う。
・文化8年(1811)、禅堂、雲集堂などを復興する。再建時に柳沢の楠の大木を貰い受けて建材としたため、楠寺とも呼ばれる。

高昌寺は曹洞宗に属し、本尊は聖観世音菩薩である。境内、約3500平方メートルに本山永平寺の建築様式を模した中雀門や、3列の石段と七堂伽藍があり、本山を小型にしたみごとな調和をみせている。本堂には、戸・柱・欄間・天井・廊下にクス材が使われ、開山堂の天井にはみごとな一枚板が用いられ、別名を楠寺ともいう。
 高昌寺の歴史は室町時代にさかのぼる。嘉吉元年(1441年)大功円忠禅師によって常久寺(地名)に浄久寺として開創、92年後の天文2年(1533年)現在地に移された。今から440年前、当時の領主、曽根高昌(たかしげ)公が四世玄巨禅師に帰依し、施主となった。高昌公歿後、弘治2年(1556年)に高昌寺と改められたが、高昌寺は、曽根城の興亡に深い因縁があり、落城の悲話が語り伝えられている。
 高昌寺は、高昌公の菩提所であるとともに、末寺24か寺をもつ近郷の菩提寺でもある。文化4年(1807年)失火により本堂・庫裡・山門を除いて焼失し、3年の歳月をついやし文化7年に現在のものが再建された。(町指定有形文化財)」(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)
高昌寺の寺院構造一式
・町指定有形文化財(昭和40年3月25日)

「高昌寺の寺院構造一式
・町指定有形文化財(平成5年3月)
護国山高昌寺は、曹洞宗に属し、本尊は聖観世音菩薩である。境内は、3500uもあって、伽藍の配置は本山永平寺に似ている。特に均整の取れた楼門、唐破風の中雀門、回廊3列の石段、禅堂、勧学寮、鎮守堂などはみごとに互いに調和し、近郷の寺には見ることのできない建築物である。本堂には、戸・柱・欄間・天井にクス材が使われ、別名を「伊予の楠寺」ともいう。什宝には、大洲藩主加藤泰候公の真筆「大雄殿」の扁額、御開山一代記、涅槃像の大幅、地獄極楽巻物、狩野探幽、常信、曽彌荒助子爵などの筆跡が所蔵されている。高昌寺の前身をさぐってみると、まず嘉吉元年(1441)のこと、大功円忠大和尚によって、麓川沿いに浄久寺が開創されたが、この後92年を経て天文2年(1533)に、浄久寺が現高昌寺の地に移されてきた。そして当時の領主である曽根高昌公は帰依し、菩提所と定めた。やがて高昌公が死去されると、公の諱をとって「高昌寺」と改称されたのである。時に弘治2年(1556)のことであった。
 その後、ながく威容を呈していたが文化4年(1807)になって出火し、堂宇什宝などが焼失してしまった。しかし、文政7年(1823)に再建され今日に至っている。近郷に24か寺の末寺を開創した歴史のある寺である。
平成5年3月 内子町教育委員会」(説明書き)

高昌寺大雄殿扁額
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)
ねはんさま(涅槃会=ねはんえ)
・釈迦入滅の日(旧暦2月15日、現在では3月15日)に涅槃図を掲げて遺教経(ゆいきょうぎょう)を読誦して、釈迦の遺徳を追慕・奉賛する行事。
・平成10年11月には、巨大な石造涅槃仏が建立された。
涅槃像
由来記
「曹洞宗護国山高昌寺は、道元禅師の永平寺を本山として開山いらい560年、毎年春の涅槃まつりもまた200余年の歴史を有しております。
 「涅槃」とは、お釈迦さまの入滅にみる安らぎと、悟りの世界を意味します。
 新世紀の夜明けと急速な高齢化社会の到来を前に、当山は皆さま方の真の心の安らぎと平和を願い、8年前に涅槃像の建立を発願いたしました。
 ご本体は、シルクロードの「世界の遺産」、1300年も昔の中国敦煌莫高窟・涅槃像を基に、当山と日中交流の研究により独自に彫刻したもので、信仰崇拝の対象としては日本一の石造臥仏像です。
 ご参拝いただいて、ご安心を得られることを願っております。
 平成10年11月吉日 護国山 高昌寺」(説明書き)
孝子桜
遍路道道標
・高昌寺参道三叉路にある。

光明寺【内子町川中1390】

正覚寺【内子町論田1933】
子安地蔵
・むかし正覚寺境内にあった地蔵堂が火災に遭い、地蔵の胴体が焼けて割れ落ちた。危ないと思った大工が上体を下に置いたが、翌日には元の形に戻っている。不思議に思いながらも、また上体を取り外すと、その翌日にはまた元通りになっている。こんな不思議が続いた地蔵は、今は子宝を授ける地蔵として崇められている。

常楽寺【内子町村前2429】

施法寺【内子町知清373-1】
・山号:聖南山
・宗派:華厳寺
・本尊 :廬遮那大仏(脇尊:阿弥陀如来、文殊菩薩)

禅昌寺【内子町内子1852】
2003/12/7
・山号:瑞桂山
・宗派:曹洞宗
・本尊:阿弥陀如来(脇尊:勢至菩薩、観音菩薩)
地蔵堂
三味線(太棹)皮張り名人 よしや 中村盛雄さん

専称寺【内子町内子甲1385-1】

専昌寺【内子町内子】
・山号:円覚山
・宗派:浄土真宗 本願寺派
・本尊:阿弥陀如来
・元々は肱川町大谷に在ったといい、平家落人を祀ったものという。

徳林寺【内子町五百木2673(大瀬 和田?)】
・山号:金毛山
・宗派:曹洞宗
・本尊:地蔵菩薩(脇尊:不動明王、毘沙門天)

福成寺【内子町立山1448】
・山号:円輝山
・宗派:曹洞宗
・本尊:観世音菩薩(脇尊:不動明王、毘沙門天)

萬福寺【内子町大瀬】
阿弥陀如来像
・町指定有形文化財(昭和37年3月23日指定)
寺号額
・町指定有形文化財(昭和37年3月23日指定)

明王寺(明應寺)【内子町大瀬中央4637(成屋)】
2003/12/7
・山号:仏徳山
・宗派:曹洞宗
・本尊:釈迦如来(脇尊:阿弥陀如来、権現、達磨大師)
寺号碑
・明應二十二世寿山秀道謹書

明光寺【内子町石畳2865(藤ノ瀬)】
・山号:石雲山
・宗派:臨済宗東福寺派
・本尊:観世音菩薩 (脇尊:延命地蔵)

龍現寺【内子町大瀬北4070(程内)】
・山号:得雲山
・宗派:曹洞宗
・本尊:釈迦如来(脇尊:文殊菩薩、普賢菩薩)
・永正8年(1511)開山。元は大瀬の影山にあり、観音寺と称した。
・寛永2年(1662)の秋、火災により全焼。
・寛文5年(1665)、桜田に移転し、高林寺と改称。
・後に大瀬熊ノ滝にあった瑞石寺と合併し、現在地に移転し、龍現寺と改称。


神社

秋葉神社【内子町大瀬】
2003/12/7
・曽我十郎神社へと向かう林道の途中に鎮座する。

一宮三島神社【内子町川中境】
・祭神:大山積神、雷公神、高おかみ神、天照大神、素盞鳴命
・当初は谷野神社と称していた。
・絵馬:山姥図、牛若弁慶図、源家遺児吉野山中図

正一位白髭稲荷大明神【内子町】
2003/12/7
・高昌寺より八日市護国町並みへの入り口に小祠がある。

神徳山石鎚神社【内子町大瀬】

宇都宮神社【内子町和田】

恵美須神社【内子町内子】
栄恵美寿神御姿御版木
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)
恵美須市
・11月28日

小薮三島神社【内子町川中 小薮】
・祭神:大山祇神、萱野姫神、雷公神、高おかみ神
・「谷野郷川中の三島大明神は祭神大山津見命、鹿野比姫命の二座で谷野神社と称し、上の宮に大山津見命を祀り、下宮の姫命を祀る」(伊予旧記)

河内神社【内子町石畳 岡の成】
・祭神:須佐之男命

五社宮(五社大明神社)【内子町五百木 長田第一】

牛頭天王神社【内子町立山村】
・祭神:牛頭天王、河野通有
・河野通有の家来である久保式部入道が、伊豆より分霊を勧請し、牛頭天王を氏神として祀った。

白髭神社【内子町石畳 東】

「(24)白髭神社(しらひげじんじゃ)
所在地 大字石畳 東
管理者 東組

 石畳地区から伊予郡中山町永木へ通じる県道「串〜中山線」を郡境近くまで行くと、内子町の名勝「弓削の池」に着く。屋根橋の参道をわたりてお宮の裏山を登ると、頂上に雑木林があり岩肌の突起した所に社殿がある。前には二段になった広い境内がある。社殿は3m四方の古きものであったが、昭和20年ごろの台風で崩壊したが、物資不足の時代で復旧もできず、荒れるがままになっていたが、氏子有志の計らいで現在の神社が再興された。樹齢300年というマツの老木が、神社の歴史を物語るように栄えていたが、松喰い虫の被害を受けて枯れてしまった。御祭神は「白髭大明神」で弓削神社の奥の院とも言われている。その昔、この森に白いタヌキが住み着き我身を呈して人を助け多くの子孫を繁栄させたが、里の人々に害を与えるようなことは一度もなく、人々からは白髭様と呼ばれるようになった。あるとき猟師が、たくさんのタヌキをつかまえようと意気込んで来たら、白い髭の老人に化けたタヌキにうまく騙されて一匹も見ることすら出来なかったという。里の人々は「さすがは白髭様じゃわい」と白狸一族の無事を喜び、後に祠を造って祀るようになったのが創建の始まりと伝えられている。
 毎年秋には収穫したものをもちより、酒肴でお祭り行事がおこなわれていたが、最近ではすたれてきたようである。」(「内子の神社・仏閣」、内子の神社・仏閣編集委員会、内子町教育委員会、平成2年3月31日)

曽我十郎神社【内子町大瀬 乙成(おつなる) 椎ノ木駄場(しいのきだば)】

・内子町大瀬の乙成地区は、日本三大仇討ちの一つに数えられている曽我十郎祐成の首塚を祀った場所と伝えられる。
堂内の細長い石には
「曽我十郎祐成首塚
建久四年癸丑年五月二十八日富士野御狩時討親敵 工藤祐経達本意為仁田四郎忠常被討 年二十三 宇和島産鬼王持帰葬此処」と記されている。
曽我十郎祐成五郎時致兄弟の父・祐泰は、幼い頃に工藤祐経(すけつね)により、領地争いの末殺された。兄弟は22歳、20歳になった1193年、十八年の苦節の末、源頼朝が催す富士の裾野の巻狩りにおいて見事仇討ちを果たしたが、源頼朝の家来に討たれた。その十郎の首を宇和島出身の家来・鬼王が故郷に持ち帰ろうとし、瀬戸内海に海路をとり、上灘に上陸後、仏峠を越え、この地にやってきた。しかし傷みがひどくなり、しかたなく乙成地区に埋めたと伝えられる。
 
「幼い時(兄五才弟三才)に父を討たれ数奇な運命を生きた曽我十郎五郎の兄弟の仇討ちは日本三大仇討の一つとして有名である。
 領地争いのため伯父工藤祐経に父河津三郎祐泰を殺された兄弟が満二十二才満二十才になった1193年富士の裾野で巻狩りをする御陣へ二人だけで忍び込み 仇の工藤を見事に討つ事が出来た。しかしその直後多数の家来に囲まれ勇敢に戦ったものの討死した。
 曽我十郎の家来だった宇和島出身の鬼王は主人の首を故郷へ持ち帰り弔ろうとしたが瀬戸内海を渡る時しけに会い上灘(双海町)に漂着し中山町程内を通って乙成(此処椎ノ木駄馬)まで来た。しかし追っ手が伸びまた首も痛み臭いを放し出したため持ち帰る事をあきらめこの地へ首を埋め石を積み塚を作った。
 塚石の表には「曽我十郎祐成首塚」裏には「建久四年癸丑五月二十八日於富士野御狩場殺父之敵工藤祐経于時以公命仁田四郎忠常討之臣宇和島産鬼王者持其首埋于此」と記されている。
 乙成地区住民は先祖よりこの曽我十郎神社をお祀りし地域の文化遺産として守っている。
 また首塚という事で首から上の病はお祈りすれば治ると伝えられ信者も多くそのお礼に小さな鳥居が多数奉納されている。
 平成四年四月吉日 乙成地区 曽我十郎神社守る会
思ひきや 有しむかしは 白雲の かかる山路に 跡とめむとは
 大洲随筆 寿山書」(説明書き)

※寿山は明應寺の住職の名であろう。
※日本三大仇討
@忠臣蔵(赤穂浪士による主君の仇討ち)
A曾我兄弟の仇討ち
B伊賀越の敵討(剣豪・荒木又右衛門が助太刀した)
鍵屋の辻の決闘
・寛永7年(1630)7月11日、備前国岡山藩士の河合又五郎が、同僚の渡辺源太夫を、私情から出た突発的な理由をもとに殺害したことに始まり、兄である渡辺数馬が姉婿である荒木又右衛門を筆頭に4人の助太刀のもと、悲願である又五郎一行を見事討ち果たした。

曽我十郎神社大祭
・5月24日に行われる。
・鎧・兜に身を包み、神社までの約1kmの道のりを曽我兄弟を偲びながら行列で歩く。
曽我物語[準軍記物語]
・原作は箱根山僧の手によるものとされる。10巻または12巻で、内容の異なる諸異本がある。原作は南北朝初期には成立。語り物であった。物語は曽我十郎・五郎兄弟の敵討ちとその後の日談を記す。

天神社【内子町池田】
天神社社叢
・町指定天然記念物(昭和57年11月29日指定)

天神社【内子町大瀬 鵜川】
・祭神:菅原道真

八幡神社【内子町内子 六日市】
2003/12/7
・祭神:誉田別命、田心媛命、市杵島媛命、湍津媛命
・配神:足仲彦命、息長足媛命
・天文11年(1542)年6月6日、宇佐神宮より勧請。当時は森八幡宮と称した。
・境内社:五穀神社(大宣都媛命)、八雲神社(素盞鳴命)

「神社由来と神社銘碑建立記
本神社は天文11年水無月6日宇佐八幡宮より御祭神を勧請し「森八幡宮」と称したに肇まる 天正19年(390年前内の子六日市村現本神社の氏子地域)創立の節本拝殿が造営され氏子民の精神練磨の霊場心のよりどころとして崇められて来た尊貴な神社である
御祭神 天照皇大神 誉田別命 田心姫命
    市杵島姫命 足仲彦命 息長足姫命
    田寸津姫命
の神々が祭祀されてあります。
この神社には伊勢の皇神が祭祀されているので昔日は伊勢の大祭日には必らず六日市村から代表者を選び御祭礼に参列することが村行事の一つとなっていた由である 本神社の境内神社としては八雲神社(祭神素盞鳴命)と五穀神社(祭神大宣都姫命)の二社があり八雲神社の例祭日が内子夏祭で「内の子の造物は有名であり又五穀神社の奉納角力は文化四辰年十月天下の関取で(瀧の音権五太夫から四本柱の寄進を受け「日本一の宮角力と天下のその名をあげ有名である 斯く本社造営爾来390年之を記念して神社銘碑建立を画せしところ内子八日市の住人石材主泉田麻津見氏(現上ノ山天神社責任役員専務総代)が本計画を察知され本事業は自費建立寄贈するとの申し出でを受け此れが建立に当りては碑石は日向宮崎から運び寄せ完成した次第である。
右本社殿造営爾来390年を記念し略記す
 八幡神社宮司 吉岡大瑯
 昭和55年水無月吉日建之
 寄贈者 八幡神社専務総代 植木高重」(説明書き)
八幡神社の算額
・町指定有形文化財(昭和60年10月9日指定)

「奉納年代 弘化四年11月(1847)
この算額は「長方形(直)内に大、左、右なる半円。その間には甲円、大半円の外に乙・丙・丁の三円を入れる。丙円の直径が既知(若干)のとき、各円の直径および長方形の横(長)の永さはいくらか。」と、問われているものである。作者は、寺井政道門人の数学者 岩田源助清謹氏で 82才のとき奉納したものである。
 陽明学の系統を受け継いだ清謹は、新谷藩士・兼斎と号し、和算の研究家であった。ここの算額のほかに伊予市稲荷神社にも奉納している。
 平成5年3月 内子町教育委員会」(説明書き)

八幡神社佐藤秀文の絵馬(2点)
・町指定有形文化財(52)(昭和60年10月9日指定)
@虎 牡丹図
「絵馬は、神社・仏閣に祈願は報謝のために奉納する扁額の一種である。横400cm縦150cmの板面に雄■な筆致で描かれており、作者佐藤秀文の非凡さが伝わる。」
A神功皇后征韓図
「横400cm縦150cmの板面に、神功皇后を描いた対策で皇后を中心に多くの兵士が海を望む雄大な構図である。佐藤秀文の絵馬は、愛媛県立美術館で行われた「愛媛の絵馬展」で高い評価を得た優れた作品である。
 秀文の絵馬は、内子町以外の地方では見いだせないことから、この地方の作家ではないかと推測されるが、生き方について知る手がかりがない。」(説明書き)
八幡神社のイチョウ
・町指定天然記念物(68)(昭和37年3月23日指定)

「雄樹(左) 樹高約25m 目通り約4m 樹齢約300年
 雌樹(右) 樹高約30m 目通り約4.2m 樹齢約320年
この八幡神社は、天文11年(1542)に創建され、その頃にこのイチョウも植樹されたと言われている。
 この雄下部一対大イチョウは、八幡神社の御神木として今なお樹勢強くその威容を誇っている。このように一箇所に雌雄一対の大木が揃っている所は少なく珍しい。
 秋の落葉前には黄金色に色づき見事な姿に変容する。雌雄異種の落葉高木である。」(説明書き)

常夜燈
・安政二年乙■霜月建之
・明和三年丙戌八月吉日

船戸神社(舟戸神社)【内子町論田 菖蒲】
船戸神社神号額
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)

満穂神社【内子町河内】
満穂神社御神像群
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)

川中三島神社【内子町川中】
三島神社の御神像と狛犬
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)
三島神社佐藤秀文の絵馬(4点)
・町指定有形文化財(昭和60年9月10日)
春神楽
・3月5日
秋まつり
・10月21日

三島神社【内子町立山】

三島神社【内子町廿日市】

燈森(とぼしがもり)三島神社【内子町大瀬】
2003/12/7
※■=「火主」
・祭神:大山積命、雷公神、高おかみ神
・永禄11年(1566)9月13日、曽根式部大輔藤原宣高公が大三島より勧請した。
・境内社:春日神社(天児屋根命)
・飛地境内社:星中神社(英霊)

※曽根城主・曽根高昌の子孫か?
三島神社の鎧
・町指定有形文化財(昭和48年5月24日)
三島神社の御系図(巻物)
・町指定有形文化財(昭和48年5月24日)

三島神社【内子町大瀬 穂積】
・祭神:大山積命、高おかみ神

御調神社【内子町程内 別府】
・祭神:倉稲魂命
・境内社:八坂神社(素盞鳴命)、川崎神社(素盞鳴命)、天神社(少彦名命、菅穂積命)、大賀神社(豊玉彦命)
御調神社の神号額
・町指定有形文化財(昭和55年10月8日)
御調神社社叢
・町指定天然記念物(昭和37年3月23日指定)

満穂神社【内子町河内 峯】
・祭神:金山彦命、瀬織津姫命、少彦名命、猿田彦命
・大将1年(1922)4月、川中三島神社より分霊・勧請した。

山本神社【内子町】

弓削神社【内子町石畳】

・祭神:弓削八社大明神
・双海町上灘の三島神社の境外末社。
・応永3年(1397)の創立。
・町指定名勝(昭和37年3月23日指定)
・池の真ん中に社殿が建っており、屋根付き橋が参道となっている。
「内子町指定有形民俗文化財(四)
弓削神社境内
 この神社の創建は、応永三年(1396)と伝えられ、主神は天照大神で他に七神がまつられている。現在の社殿は、明治三〇年に改築されたものであり、境内には椎木の巨木が茂っている。
 神社と向き合うようにして、池の対岸に弓削大師堂があり、本尊は弘法大師の石仏座像である。大師堂の周辺には、馬頭観音・開地蔵の石仏や大師堂円成供養塔などがまつられている。大師堂・池・太鼓橋・弓削神社と周りの自然との調和がとれ池に映る老木の影、屋根付きの風雅な橋など趣のある景観を呈している。
 平成六年三月
 内子町教育委員会」(立て看板)
 
椎の巨木
・神殿裏


お堂

遊行上人堂【内子町】

弥勒菩薩堂
2003/12/7
・高昌寺のやや下手にある。




地蔵

火防地蔵(かぼうじぞう)【内子町】
2003/12/7
・「六日市は、宝暦12年(1762)と寛政2年(1790)に、二度も大火に見舞われました。その度に、大火がここで鎮火したことにより、火災防止を願って、この地に地蔵堂が建てられました。」




うつむき山【内子町/小田町】
2004/8
・標高 535.75m
・3等三角点(点名「尾首」)

高森山【内子町知清】
・標高 309m

陣ヶ森【内子町大瀬】
・標高 565.4m

星中山【内子町大瀬】
2003/12/7
・大瀬の街並みを見下ろすのに好適。(それほど高くはないが...。)
星中神社
庚申堂
御旅所敷地寄進
河内■■翁顕彰碑
・農林大臣 赤城宗徳書


鉱山

川・渓谷

小田川

中山川

麓川【内子町石畳・河内】
・牛ノ峯を源流とする。
→屋根付き橋
麓川堰群




ダム

屋根付きの田丸橋(河内の屋根付き橋)【内子町河内(かわのうち)】

・土木学会選奨土木遺産(2002年度)選定
・町指定有形文化財
・昭和19年(1944)に屋根付きの木橋として完成した。
・幅2m、全長15m。屋根は杉皮茸。
・以前は物産の倉庫も兼ねた。
・地域住民のコミュニティの場ともなり、住民の生活に直結した橋であった。

下の宮橋(河内の屋根付き橋)【内子町河内(かわのうち)】

・屋根付き橋。
・「中山間ふるさと水と土保全モデル事業」により架け替えられた。
・平成6年11月に完成。
・橋長10.6m、幅2.2mの方杖式木橋。
・「美しい景観建造物・デザイン賞」平成7年度 内子町

弓削神社の屋根付き橋【内子町】

鳥居元橋(とりいもとはし)【内子町川中】
・平成14年春に国道56号線脇の中山川に架けられた、町内4番目の屋根付き橋。

幟立橋(のぼりたてはし)
2005/12/11
・松山より国道56号線を南下し、県道224号線へと右折してすぐ、中山川に架かる。
・昭和44年3月
※ここより石畳まで約9km。論田、立山へと至る道は県道329号線(石畳中山線)。
立川地区案内図
・昭和62年10月立川青年団
・立川公民館前

新成屋橋【内子町大瀬】
ようこそ谷間の村へ(大瀬・成留屋)
・大瀬分館地域づくり実行委員会による大瀬地区の案内ガイドマップ(看板)。
ノーベル文学賞受賞記念植樹


風景

神徳山石鎚神社の紅葉【内子町大瀬 石鎚神社】

石畳(いしだたみ)【内子町石畳】
石畳清流園(いしだたみせいりゅうえん)
下の宮橋(しものみやばし)

大瀬成屋地区

・ノーベル文学賞受賞作家、大江健三郎の出生地。


洞窟・鍾乳洞

樹木

シダレザクラ(東の枝垂桜)【内子町石畳 東】
・町指定天然記念物(昭和37年3月23日指定)
・樹高:約8m
・幹周:約3.8m
・枝張り:東西約15m
・樹齢約150〜160年

東のムクロジ【内子町石畳 東】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

八幡神社のイチョウ【内子町内子 八幡神社】
・町指定天然記念物(昭和37年3月23日指定)

峰ノ成のイチョウ【内子町石畳】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

五葉の松【内子町石畳】
・町指定天然記念物(昭和63年10月9日指定)

河内のヒイラギ【内子町論田】
・町指定天然記念物(昭和63年12月13日指定)

和泉のヒイラギ【内子町石畳】
・町指定天然記念物(昭和46年6月30日指定)

和泉のナツメ【内子町石畳】
・町指定天然記念物(昭和46年6月30日指定)

久保のナツメ【内子町程内】
・町指定天然記念物(昭和46年6月30日指定)

中岡のナツメ【内子町程内】
・町指定天然記念物(昭和46年6月30日指定)

鈴木のコガノキ【内子町袋口 鈴木】
・町指定天然記念物(昭和47年3月10日指定)

鈴木のエノキ【内子町袋口 鈴木】
・町指定天然記念物(昭和47年3月10日指定)

高岡のエノキ【内子町池田】
・町指定天然記念物(昭和57年11月29日指定)

土井のクロガネモチ【内子町内子】
・町指定天然記念物(昭和55年10月8日指定)

清田のムクノキ【内子町河内】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

知清の大杉【内子町知清】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

深谷のヤマモミジ【内子町深谷】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

河内砦のヤブツバキ【内子町五百木】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

水戸森のイヌマキ【内子町五百木】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

高屋のハゼノキ群【内子町五百木】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

峰土のイチイガシ【内子町立山】
・町指定天然記念物(昭和60年9月10日指定)

御調神社社叢【内子町程内 御調神社】
・町指定天然記念物(昭和37年3月23日指定)

天神社社叢【内子町池田 天神社】
・町指定天然記念物(昭和57年11月29日指定)

弓削神社境内【内子町石畳】
・町指定名勝(昭和37年3月23日指定)

川つつじ自生地【内子町大瀬】

孝子桜【内子町 高昌寺】




林道石畳上灘線



水戸森(みともり)峠【内子町五百木】
「記録によると、四国八十八か所巡拝の風習が盛んになったのは、元禄元年(1688年)の頃と伝えられているが、水戸森峠に残されている通路道標(現在内子町立中央公民館に保管)には、元禄2己年正月吉日と記されている。村上節太郎氏(愛媛大学名誉教授)によると、県下で発見された道標では、2番目に古いものであるとのことである。
 内子町には八十八か所の札所はないのであるから、43番明石寺(東宇和郡宇和町)から、44番大宝寺(上浮穴郡久万町)に向う通路として、古くより開かれていたものと想像される。左は長田方面に通じ、右が巡拝路である。ふもとには大師堂があり、峠からの展望がすばらしく、喜多郡一円の山々はもとより、四国山脈の連山も遠望され、白装束に身を固めた巡礼などが、一休みする絶好の場所でもあったと思われる。
 なお、この種の道標は高昌寺参道の分岐点にも見ることができる。」(えひめのふるさとこみち 南予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)


野口雨情歌碑
2003/12/7

大山澄太顕彰記念碑
2003/12/7
大山先生顕彰記念碑文
「大山澄太先生(1899〜1994)
明治32年岡山県井原市に生まれる 青年期に広島通信局勤務の傍ら臨済宗佛通寺派管長山崎益洲老師の下で禅の道を極め「大耕」の号を授かる
「層雲」主宰萩原井泉水に師事し種田山頭火と親交を結ぶ 終の栖を「一草庵」と名うけ「定本山頭全集」を編纂 終生山頭火の顕彰に努めた
 昭和20年夫人のゆかりの地内子町上芳我邸別棟に疎開まもなく個人誌「大耕」を創刊 26年松山市鷹子町へ転居し平成5年12月まで刊行 通巻571号に及ぶ 「日本の味」「坐禅50年」など著書多数 日本各地に招かれての講演も数えきれない
層雲社井泉水賞 愛媛教育文化賞 前■賞など受賞 平成6年9月26日卒 享年96
一周忌に大山先生顕彰記念事業賛同者建之」
澄太句碑
「夕焼の向ふに美くしい風が在る追っかける子■」

大瀬簡易水道工事完成記念碑【内子町大瀬】
2003/12/7
「大瀬簡易水道組合は、昭和30年9月、大瀬本町1,2,3丁目、掛木地区の4地区で発足 地域住民の健康増進と文化生活の向上に貢献を来してきたが、四十数年を経過した今日、施設も老朽化してきた。
 平成3年度に本町地区の改修工事をスタートに、和田、乙成、中野地区への拡張工事及び陣ヶ森の治山事業等を石岡建設株式会社の施工により、ここに完成す
 今後、安全で安心できる水を求めて山林の持つ自然の保水力と浄化に期待をし、更に水資源の確保のため三つのダム上流域に水源涵養林の植栽と育成ができることを夢見ながら記念碑を建立する
総事業費 546,660,0000円
組合負担金 47,230,000円
.....
平成14年3月吉日」

立川中学校跡碑
2005/12/11
「立川青年学校創立 昭和10年4月
立川中学校創立 昭和22年4月
立川中学校開校 昭和47年3月
内子中学校立川校舎 昭和47年4月
内子中学校実質統合 昭和49年4月」

安達玄人杏君之碑
2003/12/7

奥田石五郎君頌徳碑
2005/12/11
・幟立橋の袂、井上酒店前


公園

内子総合運動公園【内子町】

知清公園【内子町】

十郎谷公園【内子町大瀬】

 
十郎谷公園整備インベント館
十郎谷公園休憩所
・奉納絵馬(3点)

龍王渓谷公園【内子町立川】
2005/12/11
龍王渓谷公園土地寄付者名碑
龍王社?
・川べり
龍王淵?
※ここに龍王社が祀られていることから察するに、大蛇伝説でもあるのだろうか?→九州大学の民俗調査結果等を参照。
※ひょっとしたらこのような龍蛇譚は、塞(境)を守るために生み出されてきたものではなかろうか。「恐ろしいモノが存在するのだから、みだりに入ったり出たりしてはならない」という戒めの意味が込められているように思えてならない。
龍王神社龍王公園休憩所新築落成記念碑
・平成8年9月吉日
龍王神社
・小祠が巨巌の袂に祀られている。祠には「藤ヶ森龍王神社」の額が掲げられている。
・祠内部には身体に蛇を絡ませた神像が置かれている。小松姫だろうか?
・賽銭箱の上には卵が備えられている。


祭り・イベント

川まつり【内子町大瀬東 川登】
・筏流しは1993年より再現。
【Reference】
・「筏は流れる 内子・小田川で川まつり」、愛媛新聞、1997/4/21

曽我十郎大祭(5月)【内子町】
→c.f.曽我十郎・五郎首塚

笹まつり(8月)【内子町 本町商店街】
愛媛のまつり百選
・期間:8/6〜8/8
・約1kmにわたる本町商店街は笹飾りで彩られる。

棚田の稲刈り(10月中旬)【内子町石畳東地区】
・有機栽培の稲が実る棚田に都市の消費者を集め稲刈り体験を通して農業および農村景観保全の理解と都市と農村の交流がもたれている。(体験農園)

水車まつり(11月3日)【内子町石畳 水車公園】
・バザー、ゲーム、もちつき、郷土芸能等。

石畳地方の盆おどり(8月1日)【内子町石畳 平山観音堂】
・起源は不詳(江戸時代の末期頃か)
・兵庫おどり、扇子おどり、たどころおどり、あわおどり等、多岐にわたる内容の踊りが踊られる。
・黒山城の歴史とも何等かの繋がりがあるのではないかと考えられている。


施設

内子座

町家資料館

素巧館

商いと暮らし博物館(内子町歴史民俗資料館)

常設活動写真館 旭館【内子町】
2003/12/7
「大正14年4月13日、内子町徳田徳三郎、森博三郎他、9名が発起人となり、同町の高岡町魁座劇場跡(芝居小屋)へ、常設活動写真館、旭館を約7000円を投じて新築した。
その後、大正15年3月20日に後援会を発足し、内子町での活動写真館が、映画文化の拠点として活躍した。その後、電気館と改名し、昭和40年初期まで利用された。」(説明書き)

町立図書館【内子町】
2003/12/7
とても図書館には思えないようなレトロな建物。

ハイプラザうちこ【内子町】

内子フレッシュパークからり【内子町】
2003/12/7
・道の駅。
・1996年5月にオープンされた農業活性化を担う産地直売施設。
・国道56号・国道379号線の交差する位置にある。
・電話番号:0893-43-1122
・営業時間:[特産物直売所]8:00〜18:00、[レストラン]10:00〜21:00
・休業日:無し(正月を除く)
からり橋
・長さ73m、幅1.8m。
・小田川を挟んで、対岸と知清地区とからりの間に架かる吊り橋。
・冬場はイルミネーションが施される。
農村公園
・ハーブ観察ができる。

文化交流ヴィラ「高橋邸」
・高橋家は、天正の時代にさかのぼる古い歴史を持つ。
・日本の麦酒業界の繁栄に貢献し、戦後の経済復興に通産大臣として大きな業績を残した高橋龍太郎翁の生家である。
・長男故高橋吉隆氏(元アサヒビール株式会社会長)の遺族により、平成5年(1993)に内子町へ寄贈された。
・休館日:毎週火曜日。
「止談風月無用者可入」という墨書の看板を掲げる高橋邸。「ただ風月を談じるなら用事がなくても屋敷に入りなさい」と、なんとも風流で懐の深い主の言葉。そして、邸内へ一歩入ると思わず背筋が伸び、歩き方までしおらしくなってしまう、まるで着物を着たときのような凛とした感覚。

この高橋邸、古くからの庄屋であった高橋家の分家で、内子町の輩出した偉人・高橋龍太郎さんが育ったところです。龍太郎さんは、1875年(明治8年)に内子町で生まれ、現京都大学卒業後に大阪麦酒へ入社。ビール醸造研究のために6年間ドイツに留学し、帰国後は国産ビール一筋に歩み、大日本麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社の前身)社長に就任するなど、日本のビール業界に貢献し、戦後は、日独協会会長、日本商工会議所会頭などを務め、第3次吉田内閣においては通産大臣として日本経済の復興に多大な功績を残されました。
さらに、78歳のときには、個人出資でプロ野球球団「高橋ユニオンズ」を設立。わずか3年間でしたが、プロ野球史において個人名がついた球団はほかにはありません。
この龍太郎さんが育った高橋邸は、彼の長男、故・吉隆氏(元アサヒビール株式会社会長)が、郷土内子町へ思いを寄せられていたことから、ご遺族によって平成5年、内子町へ寄贈されました。現在、高橋家のみなさんの精神を引き継ぎ、遠来の客を迎える施設として住民グループ風ふうが雅(代表冨士森方子さん)によって運営されています。季節にあわせてさまざまな展示や催しが行われ、別館は宿泊施設としてお客様をもてなしています。
入場無料で、常時喫茶(有料)は可。開館時間は基本的に午前9時〜午後4時30分。火曜日が休館。
用事がなくても、ぜひ一度お立ち寄りください。
※ヴィラ…ラテン語で「邸宅」「屋敷」の意味
(広報うちこ 2005(平成17)年11/15号 Vol.21)

大瀬の館
2003/12/7
・旧大瀬村役場跡

河内農村活性化センター【内子町河内】
・中学校跡地付近に建設されている。

むら並み博物館【内子町石畳】

釣り堀「はる那」


学校

大瀬中学校
校舎案内図
・竣工 平成4年7月31日
・設計:原 広明
    アトリエファイ建築研究所


温泉

龍王荘


伝説

立川蛇淵【内子町立山】

えんぱついそげ【内子町日之地】
不精者で歩くのも牛並みに遅いえんぱつが、突風に煽られて、さも「走る」ように見えたため、村人が「えんぱつ急げ」と囃した。よってこの場所を「えんぱついそげ」と呼ぶようになった。

麓にまつわる話:麓川の橋
(内子むかし話)

麓にまつわる話:赤の淵
(内子むかし話)

麓にまつわる話:柴神のえんこ
(内子むかし話)

麓にまつわる話:牛市・馬市
(内子むかし話)

白ひげさま
・石畳の弓削神社に伝わる狸と漁師とのかけひきの物語(内子むかし話)

牛の峯とお地蔵さま
・内子町の最高峰「牛の峯」に伝わる夫婦の物語(内子むかし話)


キャンプ

海水浴

人物

宮田愛明
・地方自治と産業振興の功労者→2003/12/7探訪録参照

高畑誠一
・世界の商人・日本貿易界の先覚者→2003/12/7探訪録参照
・明治20年(1887)内子町に生まれる。
・神戸高等商業学校を卒業後、直ちに神戸市鈴木商店に入社、ロンドン支店勤務。28歳の若さで支店長になる。
・大正11年(1922)、日商を創立初代社長となり、昭和43年(1968)岩井産業と合併、日商会長を経て相談役となる。

重岡薫五郎
・清廉潔白で剛直な法学者の政治家→2003/12/7探訪録参照

中村盛雄
・三味線(太棹)皮張り名人 よしや さん→2003/12/7探訪録参照

高岡善三郎
→2003/12/7探訪録参照

権大僧都高玄和尚
→2003/12/7探訪録参照

高橋龍太郎
 ・明治8年(1875)内ノ子村に生まれる。
・第3高等学校卒業後、大阪麦酒会社に入社、ドイツ留学後、ビールの醸造研究に心血を注ぎ日本のビール王と呼ばれた。
・昭和21年(1946)、東京商工会議所頭、参議院議員を経て、昭和26年(1951)通産大臣。

大江健三郎
・ 昭和10年(1935)大瀬村に生まれる。
・東大文学部在中、戯曲「獣たちの声」でコンクールに入選するなどの数々の賞を受賞、学生作家として文壇にデビューした。
・昭和33年「飼育」により第39回芥川賞を受賞、同39年新潮社文学賞、同42年谷崎潤一郎賞、同48年…
【作品】
・ヒロシマノート
・万延元年のフットボール

明礼輝三郎
 明治28年(1895)満穂村論田に生まれる。
・苦学力行して日本大学を卒業、弁護士となる。その後東京弁護士副会長となる。この間、衆議院議員2期つとめる。

米田吉盛
 明治31年(1898)満穂村論田に生まれる。
・苦学力行して中央大学専門部を卒業。昭和3年横浜院、同4年に横浜専門学校を創立。
・昭和23年神奈川大学を創立し、学長・理事長となる。この間、衆議院議員2期つとめる。
・昭和54年内子名誉町民となる。


その他

隠れキリシタンの里【内子町石畳】



《References》



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