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こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 伊予市 (旧・中山町) |
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●姉妹都市提携などのこと
・中山町は、国際交流事業としてオーストラリアのゴールドコーストへ青少年の派遣や一般の海外視察を行い、交流を深めていた。市町村合併後も交流は続いているのだろうか?
・鳥取県の中山町と姉妹町の提携をし、行事・イベント時に相互訪問して、人・物・文化の交流を図っていたが、行政地区としての中山町が消失した現在、もはや無効化してしまっているのだろう…。
町の花 | 町の木 | 町の花木 | 町の鳥 |
梅 | クリ |
・中山...と言えば、「栗!」「西瓜!」....あ、あと何があったかのぅ...?
・中山栗(なかやまぐり)は、大洲藩主・加藤泰興が、参勤交代時に徳川三代将軍・家光に献上したという。(加藤泰興には、中山町の太兵衛が栗の実を献上した。)
・木工芸品: (有)木遊舎によって、間伐材を利用した木の玩具、菓子器などさまざまな木工品が生産されている。製品がクラフトの里で販売されているほか、木遊舎スタッフの指導により木工体験も実施されている。
・緋カブ漬けほか加工グループによる特産品:緋カブ漬けをはじめ各種加工品は、町内加工グループが原料の生産から加工を行い、特産品センターやふるさと市、しあわせ市などで販売している。
近隣に先駆けて多種多様な特産品開発を行ったことで、「ふるさとの味」としてのイメージが定着している。
・栗菓子: 特産である「中山栗」を加工した栗菓子も名産となっている。町内の製菓店による栗まんじゅう、栗ようかん、栗タルト、栗モナカなどが伝統的な銘菓。近年、JAえひめ中央の栗納豆(平成元年農林水産省流通局長賞受賞)、加工グループによる栗かりんとう、栗せんべい、栗クッキー、クラフトの里のマロンアイスクリーム、遊栗館の遊栗まんじゅう、遊栗アンパンなど新商品が生まれている。
・中山栗:中山町は、江戸時代から「中山栗」が名産品の地位を保ち続けており、徳川3代将軍家光が献上された中山栗を殊の外賞賛されたという故事が伝えられている。現在も中山栗はブランド品として高い評価を受け、日本を代表する栗生産地として名高い。 栗菓子の名産地(長野県小布施町、岐阜県中津川町など)へ原料としての生栗を供給している。また、栗納豆、栗まんじゅう等の特産品を開発している。
・藩政時代は中山・出渕・栗田・佐礼谷の4村から成り、大洲藩領に属していた。
・明治23年、栗田村は広田村に編入された。
・明治40年、中山・出渕両村が合併して中山村となった。
・大正13年、町制を施行し、中山町となった。
・昭和4年、広田村から栗田地区を編入した。
・昭和30年、中山町と佐礼谷村が合併し、今の中山町となった。
大字 | 字 |
一本鳥居(石鳥居遺構)(1基)【中山町永木 永木三島神社】
・県指定有形文化財[石造美術]
盛景寺の菩提樹【中山町出淵
門前 盛景寺】
・県指定天然記念物
阿弥陀如来像【中山町高岡】
・町指定有形文化財
・鎌倉時代の作と伝えられる。
・もともと、高岡の豊国山寿永寺の本尊であったが、火災に遭い泉町の浄光寺に移された。しかし、この像がしきりに身体を高岡の方に向けるので「きっと如来様は高岡に帰りたいに違いない」と考え、元の場所に戻したという。
弘法大師像【中山町永木
永木三島神社前の県道沿い】
2005/12/11
・中山町指定有形文化財(石造物)(平成17年3月1日指定)
・建立年:1795年
・旧大洲街道筋であり、通行人の安全を祈願して建立されたと伝えられている。
山四国:志度寺・■栗寺(石仏3体)
般若経残欠【中山町永木
永木三島神社】
・町指定有形文化財
柚の木観音堂【中山町柚之木】
2001/1/28
・柚之木集会所裏にある。
・鎌倉時代に作られた木彫りの観音像である。
永木三島神社社叢(イスノキの群生)【中山町永木 永木三島神社】
・町指定天然記念物
脇本陣(玉井家)【中山町】
・江戸幕府が将軍の代替わり毎に全国の天領・私領視察のために派遣した巡見使の宿を勤めた。
雨山城趾(天山城址)【中山町永木】
・標高450m。
・河野氏一族の城戸右京が拠った。
「雨山城、中山村に在り、城主城戸右京」(伊予古城砦記)
「中山村 雨山古城、城主城戸右京亮直則」(大洲秘録五)
「中山村 雨山城主城戸右京」(大洲旧記第三)
「雨山城、中山村に在り、城戸右京居る」(伊豫温故録)
伊福城趾【中山町出淵】
2004/6/13
「出淵村にあり 出淵出雲守盛景其の子筑前守盛政其の子右衛門大夫盛忠居る
下城後仙波と名乗り当村庄屋となる
脇坂氏領地の時庄屋より別家して其の家老となりしものあるよしなり」(伊豫温故録)
→c.f.盛景寺
合之森城(会の森城、高森城)【中山町永木】
・標高331m。
→永木の里マップ(永木小学校)
「合之森城 中山村に在り 一に田河ノ森ともいふ 合田彌四郎貞遠居る 建元三年南朝方合田彌四郎貞遠多勢を以て松前城に楯篭る大祝安親河野通治の命を受け二月十七日よりこれを攻め 同十九日に攻め落す 貞遠は遁け去り其の所在を知らす 残兵由並の城に引篭るゆへに直ちに馳せ向ひ城を焼討にすと河野家譜に見ゆ 其の所在を知らすといふは貞遠松前城を守る能はずして当城に引篭たるを当城に攻め来らざりしゆへ斯々は伝へたるなるへし 一説に北畠顯家の三男清重氏を合田と称すと云ふ 其の後応永年中合田通基当城主たり貞遠の子孫なりといふ」(伊豫温故録)
佛ヶ森砦【中山町永木】
陣ヶ森【中山町永木】
・標高621m。
・天山城の出城。
御堂
・山頂には御堂があり、地蔵尊が祀られている。 ・縁日は4月、8月の21日。平村・梅原部落の人が登山し、ここで読経する。餅投げ・籤引き・相撲大会などが行われる。 |
太刀洗いの池 |
鎧掛けの松 |
鎌野城趾【中山町佐礼谷】
「鎌野々城 佐礼谷村に在り 一に平岡城といふ
平岡左衛門太夫又坂田右衛門又菊沢道廉居る」
松森城趾【中山町佐礼谷】
2004/6/13
「森松城 佐礼谷村に在り 一に松森といふ
森岡喜三左衛門尉居る
日陰組の内清次寺の上に同人の石碑あり」(伊豫温故録)
(*1)日陰組は現在の日浦か?
階上山城址【中山町佐礼谷】
「佐礼谷村にあり 佐川喜三兵衛居る
或る時長曽我部の軍将来り攻め大に防戦せしかばはいたか川へ血流るること七日七夜紅の如し
然れども山城にて要害よけれは落ちず 此時の首塚陰浦組にあり 其の後敵忍び入って喜三兵衛病に臥して在りけるを連子外より射けるに喜三兵衛火入れの灰をなげ付け直ちに長刀を取って戦へども初め傷を受しことなれば終に奥方と共に討死す
城の麓民家の傍らに其の墓あり印に杉一本あり
其所は喜三兵衛常の居館なり
其子砥部七折に住居し 今に鎗及家系を持ち伝ふと大洲旧記に見ゆ」(伊豫温故録)
(*1)「城の麓の民家」とは現在の中屋敷にあったものか?(単なる地名からの類推)
根中(ねなか)の城【中山町佐礼谷】
「根中の城、佐礼谷村に在り」(伊予古城砦記)
「ねなか城、佐礼谷村ニアリ」(大洲領古城記)
はい高城【中山町佐礼谷】
「はい高城、佐礼谷村に在り」(伊予古城砦記)
「はいたか、佐礼谷村ニアリ」(大洲領古城記)
ぜうの城【中山町佐礼谷】
「ぜうの城、佐礼谷村に在り」(伊予古城砦記)
「ぜうの地、佐礼谷村ニアリ」(大洲領古城記)
小ぜうの城【中山町佐礼谷】
「小ぜうの城、佐礼谷村に在り、一書田所に在り」(伊予古城砦記)
高森城【中山町佐礼谷】
「高森城、佐礼谷村に在り、一書田所に在り」(伊予古城砦記)
いだら城【中山町佐礼谷】
「佐礼谷村に在り」(伊予古城砦記)
「いだらの城、佐礼谷村ニアリ」(大洲領古城記)
蒲山城趾【中山町出淵】
「出淵村にあり 東大蔵太夫居る
奥六組を領す 墓あり 又た百人窪といふて城辺に四方より見れば山と見ゆるに中窪にて行かざれば見へず伏兵したる所なりと
此城昔し蒲冠者源範頼居給ひたり
此所の里人は皆其の従臣の末孫なりと言ひ伝ふ 蒲冠者の墓は上吾川村称名寺の上にあり」(伊豫温故録)
三谷峰古戦場【中山町中山
高岡】
・高岡と福元の間にある小山「三谷峰(みたにみね)」は古戦場であったといい、今でも五輪塔が多く残っている。
・戦いの矢に用いられた「シノベ竹」の群生地が近隣にあるという。
瑠璃殿【中山町永木】
六郎屋敷跡【中山町高岡】
・檜垣六郎右衛門という浪人が住み着いた屋敷跡という。石作りの観音が屋敷の傍にあり、毎年8月14日には念仏踊りの供養がなされるという。(See→「えひめのふるさとこみち
中予編、愛媛県教育委員会文化振興局、昭和58年5月31日(財)愛媛県文化振興財団)
真光寺(峰の薬師)【中山町佐礼谷安別当】
1997/9/23、2005/4/29
・本尊:薬師如来
・峰の薬師は病気を治し、飢饉を救うと言われている。
・佐礼谷はもともとは左礼谷と書いていた。これは殿様がこの地に来て、左をむいてこの薬師を拝んだことから来ている。
松本犁雪(まつもとりせつ)句碑 |
盛景寺(じょうけいじ)【中山町出渕
門前】
2000/11/5
・宗派:臨済宗妙心寺派
・山号:積翠山
・当初、玉泉山伯林寺と称した。
・奈良中期の天平13年(741)、南海道(四国)巡錫中の行基がこの地に足を留め、草庵を結び創建したと伝わる。菩提樹はその時に手植えしたといわれる。
・弘長2年(1262)、円明国師の中興と言われる。建長6年(1254)宗国より帰国した法燈国師が、行基の址跡を再興して開山入寺し、法相、真言両宗の僧が住する柏林寺と号したというが、円明国師・法燈国師のどちらが中興したものだろうか。(後者の説の方が一般的のようである。)菩提樹はその時に手植えしたものという説もある。
・正中2年(1325)、竺亭禅師が入住して臨済の法脈を伝えた。
・天文20年(1551)、土豪の仙波盛景が重興し、仙波家の菩提所とし、盛重興国禅寺と称した。
・江戸時代初期に臨済宗妙心寺派の末となり、信仰を集めた。
山門(楼門)
・中山町指定重要建造物 ・室町時代の遺構とされ、この寺で最古の建造物である。 |
菩提樹 |
柳原極堂句碑 |
照之句碑 |
戒証山公園(ロマンスが丘) |
八大竜王神 |
大道無門 |
浄光寺【中山町中山】
田辺文里句碑 |
誓明寺【中山町佐礼谷】
1997/9/23、2005/4/29
・宗派:臨済宗 妙心寺派
・山号:臨川山
大興寺【中山町中山】
2000/11/5
・山号:佛日山
井上三餘句碑 |
梅原寺【中山町永木】
2005/12/11
・山号:天香山
・益雄玄巨和尚による開山。
※船ヶ迫山を望むビュースポット!
六地蔵
※立ち並ぶ六体の地蔵の中央部に塩化ビニール製の人形が肩を並べている…。(2005/12/11) |
樅(?)の巨木 |
梅原寺位牌堂庫裡新築・本堂修復記念碑
・平成8年2月落慶 |
常夜灯
・文政三辰年仲春日 |
馬頭観音
・山門下 |
厳島神社【中山町下野中】
野中小学校跡 |
梅坂天神社【中山町】
栗田三島神社[烏帽子杜三島神社(えぼしもりみしまじんじゃ)]【中山町栗田】
・火災で資料が焼失してしまったため由緒等は未詳。
栗田大杉
・境内には大杉の御神木がある。 |
川崎神社(かわさきじんじゃ)【中山町出渕】
・祭神:孝霊天皇、菅原道真公
・海抜180m。
・天長元年(824)に創建された。
・大宝律令撰定律書残篇中に記される浮穴郡出部郷というのが出渕になり、当社を
氏神として創始したという。
・出渕出雲守盛景は河野家の由緒を重んじ、氏神として代々崇敬した。
・江戸時代には大洲藩主の崇敬暑く、加藤泰公が天満宮の扁額を献納した。
佐礼谷三島神社(燈森三島神社)【中山町佐礼谷】
1997/9/23、2005/4/29
・豊かな社叢林が残されている。特に神木と思われる(注連縄が結わいつけられている)大銀杏は勇壮に聳え立っている。
イチョウ
・胸高幹周:約4.3m。 |
下岡広洋句碑 |
忠魂碑
・陸軍大将 秋山好古謹書 |
「黎明」の碑
・県知事 白石春樹書 |
鶴岡天神宮【中山町中山
高岡】
2001/1/28
・社名は昔2羽の鶴が舞い降りたことに由来するという。
永木三島神社【中山町永木】
2001/1/28、2005/12/11
・社叢は「藤縄の森」と呼ばれる。
・藤の郷川に架かる藤縄の橋を渡ってすぐのところにある。
→永木の里マップ(永木小学校)
「藤縄三島神社
中山村字梅原にあり 古木鳥居あり
其の柱の銘左の如し
当国守護河野通之御代也
当地頭合田通基大願主梅原沙彌通興大工越智氏範近中山名主御百姓達各敬白
応永玖年歳次閏八月二十二日
又当社に書寫の般若経六百巻あり
毎本の末に左の如くあり 此内二百巻は惣津村秀禅寺にあり
奉施八宇都宮大明神御宝殿地頭大旦那源高實
応永二年乙亥一夏真読 助縁旦那平服部真伝庵書了
又
大旦那伊賀崎地頭因幡守源朝臣高實 大勧進比丘宗圓敬題
神主初めは城戸氏 其の後栗田氏 今は佐伯氏なり
明応の頃別当断絶して唯一になる 八十余ヶ所末社付の帳あり 永久二年の経巻もあり
昔し神主鳥居を通る度毎に天狗鳥居の上に居て頭を撫でる 剣を以て其の足を切る
足塚とて御殿の上に石寄せあり 其の剣は神主方に在り 諸刃にして中心に形付きたる如く彫あり
頭の方百足虫の口の如くまがりてあり」(伊豫温故録)
鳥居
・中山町指定有形文化財(石造物)(平成17年3月1日指定) ・元禄十六癸未歳三月 ・金石文字には、当村名主長岡尹貞発起人・神主佐伯能登守・石大工尾崎九兵衛と明記されている。 |
楼門 |
手洗石 |
一本鳥居(石鳥居遺構)(1基)
・県指定有形文化財[石造美術] ・永木三島神社にある鳥居で、高森城主合田通基が応永9年(1401)に自ら大願主となって建立したもので、一本鳥居としては関西に2基あるもののうちの1つである。 ※説明書きを筆写すること。 →永木の里マップ(永木小学校) |
石灯篭
・元禄十六癸未歳三月 ・藤縄の森三島神社には、氏子達の寄進により多くの灯篭が建立されているが、中で最も古いものである。 |
狛犬
・文政四年八月吉日 |
般若経残欠
・町指定有形文化財 ・応永2年(約600年前)、伊賀崎(五十崎)地頭因幡守源朝臣高実が入仏宿願によって書写した般若経600巻のうち、400巻を永木三島神社に奉納したものと伝えられる。明治初年までは相当数が残されていたという。 |
境内社:稲荷神社/杵築神社
・本殿左側 ・文久元年奉斎 |
境内社:八幡宮/小千神社/鹿島香取宮
・拝殿右斜め前 ・慶應二年丙寅奉斎 |
「ヤシキシン」と書かれた… |
鎮座1220年祭碑
※説明書きを筆写すること。 |
境内社:八耳神社
・拝殿左側 |
境内社:足塚神社
・拝殿右側 |
境外社:石鎚神社永木遥拝所 |
永木三島神社社叢(イスノキの群生)
・町指定天然記念物 |
八股の榎 |
永田三島神社【中山町出淵
東町】
イチョウ
・胸高幹周:約4.9m、樹高:約30m。 |
七体天神宮【中山町小池】
2005/4/29
・小池集会所脇にある。
※近所のおばちゃんに尋ねたところ、祠の中に七体の神様が収められているとのこと。
イチョウ
・胸高幹周:約4.8m、樹高:約30m。 |
カゴノキ
・正面から見ると大層立派な樹幹なのだが、裏手は空洞化していて無惨な姿となっている。ウツロには正月飾り(注連縄)が多数収められている。 |
神名額
・「神戸森 七體天神宮 素玉謹書」 |
鳥居
・昭和36年10月建立 ・鳥居の額の部分に梅紋が見える。 |
三島神社(大山積神社)【中山町中山】
2000/11/5
金刀比羅神社 |
宮島神社【中山町中山】
下村為山句碑 |
山吹神社【中山町佐礼谷
日浦】
1997/9/23、2005/4/29
山吹御前の墓
「佐礼谷村に在り 其の墓所は郡中より中山へ通ずる往還の下田の中に石を積み其の上に小祠を建つ 土俗伝えいふ 山吹御前は木曽義仲の婦人なり 元暦元年正月義仲は近江国粟津ヶ原にて義経と戦ひ負け討死せし ゆへ伊予は其の頃義仲か領国なれは従者を伴ひ京都を迯れ出で難波より乗船して当国に来りしが河野家を始めとして国人等悉く頼朝がたとなり敵なればいひ寄ること叶はず 潜に灘浦へ上陸したるに婦人は海上長途の労れにて病み倒れ 終にはかなくなり給ひぬ 従者等其の死骸を人知らぬ所へ隠し納めんとて笹竹に載せ山坂を曳き登り来りて此の地に葬りたり 故に灘より此村に登る坂の名を曳坂といふ 又た坂を登り切たる人家のある地名を楯築といふ 其の時従者等が楯を突立て宿せし故に夫れより地名となりたりといひ伝へたり」(伊豫温故録) |
山吹御前伝説 |
柚之木観音堂【中山町柚之木】
2001/1/28
・町指定文化財
・追俵峠から西へと細い道を下りていくと、やがて柚之木の集落が見えてくる。
・柚之木集会所の敷地内にある。
・鎌倉時代に作られたものという。顔面白塗りの寄木造りの観音像はなかなか立派なものである。
日比石堂【中山町中山
高岡】
2001/1/28
・鶴岡天満宮より100mほど南に進んだところにある。
・堂の中には石塔が祀ってある。
瑠璃殿【中山町永木
重藤 重藤峠】
→永木の里マップ(永木小学校)
永木茶堂(森の御堂)【中山町永木】
2005/12/11
・薬師如来像(鎌倉時代以前の作)を安置する。
・もともとは永木三島神社社地にあったものを、天保15年(1844)に現在地へ移転した。
→永木の里マップ(永木小学校)
茶堂 |
灯篭
・奉日本総鎮守 ・文政二巳卯年八月吉日 |
山四国:大興寺・神恵院 |
弘法堂【中山町永木】
→永木の里マップ(永木小学校)
龍王堂【中山町永木】
→永木の里マップ(永木小学校)
観音堂(?)【中山町小池】
2005/4/29
階上城主の墓【中山町中替地】
合之森城主・合田通基の墓【中山町】
のぞきの権現【中山町大矢?】
※秦皇山山頂にあった「中山町略図」に記していたが、詳細所在地は不明。
永木山四国【中山町永木】
・縁日は4月21日(春)、8月21日(夏)。
→永木の里マップ(永木小学校)
→広報なかやま、平成16年5月号、No.422
→広報なかやま、平成16年9月号、No.426
秦皇山(しんこうざん)【中山町小池】
1994/4/29、2005/4/29
・標高 873.6m
・えひめ森林浴八十八ヶ所「秦皇山森林公園」(愛媛県、平成15年3月)
・友好町の北海道上湧別町から寄贈された白樺が植えられている。
★国道56号線を南に向かい、犬寄峠を越えてクラフトの里を通り過ぎ、そこから500mくらい
下ったところから左向いて細い道を登っていったとこが秦皇山なんよ。
・細く曲がりくねった道をこれでもかというぐらい走らにゃならんのやけど、途中から視界が開けて、
中山を囲む山々が一望でき、爽快感が味わえらい。
★山道を登りつめると、
・展望台
・アスレチック
・ログハウス
・運動場兼キャンプ場(5900u)
などがあり、子連れのアウトドアにはええとこよ。
★標高874mじゃけん、夏場も結構涼しいし、春なんか4月末に行っても桜の花が完全に散っとらんけん、
松山の道後公園で「踊り、叫び、暴れる花見」を楽しんだ後、翌週は「心静かに自然を満喫する花見」としゃれこむのも、
なかなかええもんではあらい。
★春先は蕨、ぜんまい、蕗などの山菜を摘むのもええぞね。
秦皇山観音堂=十一面観音堂
・弘化三年(1848)の創建。本尊は十一面観世音菩薩。 |
秦皇山森林公園 |
南海放送中継所
NHK中継所 四国電力中継所 |
テレビ愛媛中継所
伊予・朝日テレビ中継所 NTT中継所 |
キャンプ場 |
小林地蔵尊
・入口に「心願成就の小林地蔵尊これより左50m先」の案内有り。 |
長命の泉「衣水」
・入口に「下り30m先」の案内有り。 |
白象句碑 |
秦皇山総合開発記念碑
・中山町長・・・謹書 |
秦皇山開発記念碑
・中山町長西岡進書 |
休養センター |
愛媛国際村
※朽ち果てている。 |
展望台 |
アスレチックトリムコース
多目的広場 桜園 花木園 |
グラススキー場
ログハウス |
階上山(はじかみさん)【中山町】
・標高 898.6m
蒲山【中山町/広田村】
・標高 874m
水無権現【中山町/内子町】
2000/11/5
・標高 703m
陣ヶ森岳【中山町】
・標高 620.8m
船ヶ迫岳【中山町永木/内子町】
2005/12/11
・標高 631.2m
→永木の里マップ(永木小学校)
船ヶ迫登山口
・永木小学校により登山口標柱が建てられている。 |
石柱
@大正六年七月二十八日、黒田石五郎、西山喜八郎 A「奉納地蔵尊」、明治二十六年三月四日、黒田万五郎、西山佐太郎、中村熊五郎 B昭和三十六年二月、黒田数…、中村亀五郎 |
※船ヶ迫山登山(2005/12/11 14:22〜14:55、)
・ムラサキシキブの自生が随所に見られる。
・山頂近傍北の肩部の送電線鉄塔あり。
・山頂に地蔵を祀る堂あり。
・山頂にケルンあり。
・山頂最寄の林道から東方への眺めが良い。遠方に四国カルストと思われる冠雪した山嶺が見渡せる。
・山頂付近には残雪があった。
河野森権現【中山町永木】
→永木の里マップ(永木小学校)
黒岩岳【中山町】
・標高 698.9m
三宝鉱山【中山町佐礼谷】
・マンガン鉱を産出した。
中山川
栗田川
藤之郷川
奥山川
・肱川水系
・土石流危険渓流
・永木小学校の下側には肱川水系・奥山川が流れる。護岸の壁には、「永木の今昔マップ」と称するイラストマップが掲げられている。
茶堂橋 |
永木川
・肱川水系
・土石流危険渓流
藤縄の森橋 |
福住川
・肱川水系
・土石流危険渓流
長曽池【中山町】
2005/4/29
・昭和62年度「みんなの森」造成事業(国土緑化愛媛県推進委員会、中山町)
長曽池竣工記念碑
→裏面碑文 |
※池の周囲を巡る遊歩道にはヤマルリソウがいっぱい咲いていた。(2005/4/29)
※池の中に目をやると、数千にも及ぶと思われる程のオタマジャクシが犇めき合っていた。(2005/4/29)
大矢の明神池【中山町】
2005/4/29
柳の群生
|
藤縄の森橋【中山町永木】
2005/12/11
※陶器橋
・永木小学校・永木三島神社前。
・永木小学校生徒による陶板画などが欄干に当て込まれている。
・アーチ橋
・平成8年10月完成
・肱川水系永木川にかかる。
茶堂橋
2005/12/11
・永木小学校・永木三島神社前。
・肱川水系奥山川にかかる。
谷橋
2005/12/11
・平成元年3月
・藤之郷川にかかる。
・船ヶ迫岳へと上る県道。これといって特筆すべきこともない橋。
黒橋(くろはし)
2005/12/11
※陶器橋
・平成7年1月
・藤之郷川にかかる。
採石場【中山町永木】
→永木の里マップ(永木小学校)
夫婦岩
【中山町永木】
→永木の里マップ(永木小学校)
漆地区〜漆の梅林【中山町漆】
2000/11/5
・梅の名所である。山の斜面には数多くの梅の木が植わっている。
梅の里まつり |
ホタル
乱獲等で激減したホタルを、伊予中山ホタル保存会と行政が保護活動を行い、再びホタルの乱舞が見られるようになった。
保護活動では、水田の一部を利用し、全長500mに及ぶ水路を作りホタルの養殖を行っている。伊予中山ホタル保存会の努力で繁殖したホタルは、現在では本町の重要な観光資源ともなっており、伊予中山ホタルまつりが開催される。また、ホタルの養殖を通じて自然の大切さを教える教育の場としても活用されている。
農村景観
本町は、標高600m〜800mの急峻な山々に囲まれた起伏の激しい地形の典型的な中山間地域で、平地は谷あいの小盆地に限定され、棚田や畑地が山頂近くまで広がっており、不利な条件を克服しようとしてきた先人たちの開拓精神が感じられる農村景観を見ることができる。特に、秦皇山中腹など標高が比較的高く、視界が開ける場所から見る、田畑が連なって高みへと続いている景観は、日本〜アジアの農村の原風景を思わせる。
高地性集落 |
イルミネーション:花の森ホテル
イルミネーション:榎峠集会所
イルミネーション:佐礼谷クリーンセンター
盛景寺の菩提樹【中山町門前 盛景寺】
・県指定天然記念物
・樹齢:約700年(法灯国師当山入寺の年代から起算)
・樹高:30m(中山町誌では樹高推定25m)
・周囲:約2m(中山町誌では胸高幹周約190cm)
・根周り:320cm
・行基が手植えしたとも、法灯国師が宋の国から帰国の際に持ち帰って植えたものとも伝えられている。(中山町誌には、「このボダイジュは、寺伝によると天平13年(741)に行基大僧正が、南海道(四国)巡錫中、この地に足を留められ大衆を教化されたおり手植えられたとも、また法燈国師が建長6年(1254)宋国より帰国のとき持ち帰り、荒れ果てた行基菩薩の址跡を再興、当時の繁栄を祈り、手植えしたとも伝えられている。」と記されている。)
栗田の大杉【中山町栗田
栗田三島神社】
2005/
・樹高:45m
・胸高幹周:約5m(境内改修時に埋め立てているため、実際にはもっと太い。)
・推定樹齢400年以上。
・中山町で一番の巨木。
林道・松森城線
林道永木高見線
2005/12/11
・幅員4.9km、延長5.6km
・始点〜終点全線舗装済み
鳥越峠 |
林道永木高見線開通記念の碑 |
林道・ハダコ線
2005/4/29
犬寄峠【中山町/双海町】
杖立峠【中山町/伊予市】
間戸峠【中山町/砥部町】
・県道223号線
鍛冶屋峠【中山町/広田村】
・県道221号線
落葉松峠【中山町】
重藤峠【中山町永木
重藤】
鳥越峠
2005/12/11
→永木の里マップ(永木小学校)
・林道永木高見線
地蔵 |
猪之峠
→永木の里マップ(永木小学校)
柳原極堂句碑【中山町出渕 盛景寺】
「化けて来し 狸と秋を 語りけり」
2000/11/5
・盛景寺が昭和50年6月に建立。碑名寄進は中山町。
・句碑の横には信楽焼の狸が一体佇む。
照之句碑【中山町出渕 盛景寺】
「加齢とは かくもしづかに 柚子の空」
2000/11/5
・平成10年10月、阪本謙二の書。
富安風生句碑【中山町出淵2番耕地165番地
中山中学校】
「栗山へ一縷の途のかかるかな」
清崎敏郎句碑【中山町出渕2番耕地143番地
中山小学校】
「菩提樹の花の盛りは今ならん」
2005/8/5
本名星野敏郎 大正十一年二月東京に生れる 慶應大学卒 慶大及び同附属高にて教鞭をとる 昭和十五年 富安風生に師事 昭和十八年 高浜虚子の指導を受け ホトトギス同人となる 昭和二十三年 若葉同人 昭和五十四年 若葉主宰 現在俳人協会副会長 度々ご来町され広く俳句の指導をしていただく |
松本犁雪(まつもとりせつ)句碑【中山町佐礼谷安別当 真光寺(峯の薬師寺)】
「揚花火 消えて大杉 闇に立つ」
1997/9/23
・平成4年3月29日、中山町文化協会、むささび句会、中山俳句会、秦皇山句会が建立。
・句は昭和5年8月、「峯の薬師寺」縁日での作。
・松本犁雪は明治10年12月11日、佐礼谷村安別当に生まれた。明治44年佐礼谷村長に当選以来、昭和10年12月まで6期間村長を務めた。昭和19年、67歳で長逝するまで終生村を思い、その生涯を捧げ多くの業績を残した。氏は多芸多趣味。中でも俳句「むささび句会」を結成し、後進を指導した。
下岡広洋句碑【中山町佐礼谷 佐礼谷三島神社】
「河鹿鳴き 静かに夕日 入りにけり」
1997/9/23
・平成3年8月、村中部落建之。
橋本月登句碑【中山町佐礼谷
佐礼谷小学校】
「師弟が仰ぐ遠嶺の初雪夕日背に」
森白象句碑【中山町佐礼谷
秦皇山】
「平凡を倖せとして去年今年」
2005/4/29
森 白象 本名寛紹 明治三十二年五月三十一日 温泉郡重信町牛渕で生まれる 高野山真言宗前管長 ホトトギスおよび若葉同人となった 昭和二十四年秋 富安風生先生と共にご来町し投宿される 以後幾度か本町に立寄られ俳句の指導をされる 「弘法大師とその教」など仏教の著書のほか俳句集多数がある。 |
稲荷島人句碑【中山町出淵 野中公民館】
「蛍火や暈をまとへる山家の灯」
下村為山句碑【中山町中山 宮島神社】
「新涼也灯火津羅年亭市佐加里」
村上霽月句碑【中山町中山 農業総合センター】
「黄昏の春を中山泊哉」
2005/8/5
松根東洋城句碑【中山町中山 栗の里公園】
「茹で栗を峠で買ふや二合半」
2006/4/16
井上三餘句碑【中山町中山 大興寺】
「夕暮れの雨がとびつく焚火かな」
田辺文里句碑【中山町中山 浄光寺】
「里やあるけふり横たふ秋のくれ」
忽那快風句碑【中山町永木 永木小学校前】
「晝寐起(ひるねおき) 柝(たく)とりあへず 打ちにけり」
2001/1/28、2005/12/11
・忽那快風は明治16年4月、松前町北川原に生まれた。本名は政一。松根東洋城の俳誌「渋柿」に参加以来、有力な渋柿同人として常に巻頭句に選ばれた。また、俳論を展開して、後進の指導にあたった。
・この句は永木小学校教員時代、明治33年の句。
・柝とは拍子木のこと。
品川柳之句碑【中山町 花の森ホテル駐車場】
「梅林の中に川あり邑がある」
・平成16年11月1日除幕。→See.広報なかやま、2005年10月号、No.430
轡田進句碑【中山町 中山町特産品センター】
「ゆかりある伊予の中山栗の秋」
・平成16年11月1日除幕。→See.広報なかやま、2005年10月号、No.430
町村道改修記念碑【中山町永木】
・中山消防団永木分団詰所前。
県道池田中山線開通記念碑【中山町/内子町】
2000/11/5
・内子町長・河内紘一
小池林道開設記念碑【中山町小池】
2005/4/29
・愛媛県知事久松定武書
次郎丸(じろまる)線改修記念碑
2005/12/11
・中山町長 森…
・昭和53年3月竣工
町道永木坂本線開通記念碑
2005/12/11
梅原農道改修記念碑
2005/12/11
・県道_号、梅原への入口にある。
・愛媛県知事 久松定武書
・昭和40年4月
※碑文を筆写すること。
林道永木高見線開通記念の碑
2005/12/11
・珍しい木製碑。巨木の幹をまるごと利用している。
・工事延長9,528m、事業期間:平成元年度〜平成10年度、事業費:1,744,950千円、事業主体:愛媛県
感謝の碑【中山町/内子町】
2000/11/5
・「開通記念碑建立 森本建設株式会社 社長 森本継雄」
・裏面には「この記念碑は森本建設社長様の英断により建立して戴いた。よって感謝の念を込め副碑をたて後世に伝えます 平成12年春
記念碑建立委員」と刻まれている。
記念碑群【中山町永木】
2005/12/11
・道路沿い、中山消防団永木分団詰所前に4基の記念碑が立ち並ぶ。
立川上灘線県道移管記念
・昭和24年5月 |
改修記念碑 |
鷹尾寅太郎翁之碑
・昭和24年5月 →永木の里マップ(永木小学校) |
道路改修速成会寄付…城戸庄五郎 |
寺井哲心の墓【中山町】
佐伯陸奥守の墓【中山町】
合田通基の墓【中山町】
栗の里公園・遊栗館【中山町大字中山戌696】
★2001年10月より休業中。→再開
栗の資料館 |
実演加工場 |
郷土料理試食コーナー |
いろり庵
・開園時間: 11:00〜21:00 ・野外バーベキューコーナー有り。 |
栗の里公園
・開園時間: 09:00〜21:00 松根東洋城句碑 |
遊栗館
・開館時間: 10:00〜21:00 ・入館料:無料 |
野外音楽広場
★バックには溜め池。大理石(もどき?)で段々に造られ、合間に芝生を植え込んだ 観客席。こんなところでコンサートしたら気分もえかろのぅ。 |
鹿牧場
★10頭ぐらいの鹿が飼ってあるわい。 ★そこらへんに生えとる「ちちくさ」(ワシらが勝手にそう呼んでおるだけで、正式 な名称は知らんが、ポキッとおったら白い汁がでてくるタンポポもどきの草)をや ったら喜んで食いよるわい。 ★ウチの幼犬(3ヶ月)を連れていったら、でかい図体のくせして、前足2本をダンッ と踏み降ろして威嚇しとった。案外臆病な動物じゃのう。(1997) |
遊具:ローラー滑り台(90m)
・山の中段ぐらい野外バーベキューコーナーの南端まで下りる直線の滑り台。 ★あんまし長うないんで、高学年のお子様には物足りんかもしれなぃ。 遊具:変形自転車 ★30分300円はちょっと高いんじゃないかのぅ... |
フラワーハウス
★観葉植物、花の苗が安い! |
フルーツの森
・栗の里公園に隣接した、民間の観光果樹園。ぶどう狩り、みかん狩り、柿狩りが楽しめる。 |
ふるさと公園【中山町永木】
秦皇山森林公園【中山町佐礼谷】
ログハウス・キャンプ場・バーベキュー棟・ピラミッド式休憩所・展望台・アスレチックコース・グラススキー場などのアウトドア施設・休養施設が整備されている。
松森城森林公園【中山町佐礼谷】
2004/6/13
・クラフトの里より林道・松森城線を通って山を上っていったところにある。
・星空を眺めるのに手頃な場所。
松森城跡 |
中央公民館どんど焼き祭り【中山町】
・1月9日:中山中学校グラウンド
棚田の里漆の梅まつり【中山町漆】(3月)
・平成17年3月6日:第11回
・アマチュアカメラマンによる写真コンテスト→入選作品は遊栗館で展示。
秦皇山御縁日【中山町】
・4月9日、8月9日、秦皇山山頂の森林公園一円で開催。
永木山四国縁日【中山町永木】
・4月21日
伊予中山ホタルまつり【中山町】
・6月第1日曜日開催。
・ホタルの保護・保存による環境保全活動により、ホタルが帰ってきたことを記念し、昭和62年6月より実施。
・毎年町内外から1万人を超える人が集まってくる。幻想的な光の舞いを楽しめるまつりで、夏の風物詩になっている。
・会場では特産品の即売などが行われる。
中山夏まつり(7月下旬)
・7月26日〜27日、町内一円で開催。
・演芸バラエティショー、造り物コンクール、生け花展、中山音頭踊り、花火大会などが行われる。
・伝統の作り物コンクールや、中山音頭パレードが行われ、町民総参加による祭りが開催される。
・問い合せは、中山商工会(089-967-0197)まで。
永木山四国縁日【中山町永木】
・8月21日。
なかやま栗まつり
・9月23日(秋分の日)、栗の里公園(雨天時は農業総合センター大ホール)で開催される。
・特産品「中山栗」が主役のまつり。中山栗のイメージを高め、需要拡大を目的として開催される。栗ひろい大会や栗皮剥き大会などで盛り上がり、やき栗、ゆで栗食べ放題、イガ栗プレゼントも行われる。
盆踊り
・永木盆踊り:8/15
・中央盆踊り:8/16
・野中盆踊り:8/18
・佐礼谷納涼の夕べ:8/21
美味しんぼフェスティバル
佐礼谷やらいで会が中心となって地域おこしの一環として行われている。手作りグルメコーナー、どてカボチャコンテスト等が開催される。
9月に佐礼谷地区で開催。
なかやま栗まつり
・第17回:9/23(広報なかやま、2004年10月号、No.427)
秋祭り
・10/17
舎儀利
(しゃぎり)【中山町】
・神輿渡御に行われる御供行事。10月17日の秋まつりに奉納される。
・梅原舎儀利保存会、川崎舎儀利保存会、永田舎義利保存会が中心となって活動を展開している。
お供相撲【中山町】
・10月17日の秋まつりに奉納される。
・祭礼の宮出し、御旅所の出御の前に行われる珍しい行事。行事の申し立てと各力士の土俵入りが行われる。江戸時代初期かそれ以前に氏神様を慰めるため始まった花相撲と推測される。
・平沢お供相撲保存会が中心となって活動を展開している。
門前獅子舞【中山町】
・獅子舞の道具箱には文久元年(1861)の銘がある。
獅子舞【中山町】
・10月17日の秋まつりに奉納される。
・神社の祭礼に行われ、五穀豊穣と悪魔祓いの意味を持ち、獅子を中心に狐、猿、狩人、翁、大黒等を配して演じられる。
・天保の時代から行われていたと伝えられる。
・永木獅子舞保存会が中心となって活動を展開している。
万才【中山町】
・派手な衣装で踊る。
・大和万才の系統で、明治末期から始まったとされる。
・野中万才保存会、村中保存会が中心となって活動を展開している。
・ふるさとまつりなどで出演を行っている。
なかやまふるさとまつり
・11月最終日曜日に、農業総合センター、中山小学校などで開催される。
文化・芸能発表会、農林商工業の産物展示即売等が行われる。
ジャンボツリー
・12月初旬から1月初旬に飾る。
・光に彩られたジャンボツリーが冬の夜空を飾る。
美味しんぼフェスティバル
佐礼谷やらいで会が中心となって地域おこしの一環として行われている。手作りグルメコーナー、どてカボチャコンテスト等が開催される。
フルーツ狩り
特産の栗やフルーツを活用した観光果実狩り。栗狩りではゆで栗サービス、その他は食べ放題サービスを行っている。
栗狩りは9月10日〜10月10日に町内各栗園で開催。その他フルーツは季節に応じて各フルーツ園で開催。
クラフトの里【中山町上長沢】
ウッドクラフトセンター |
木工体験道場 |
木遊舎 |
そば打体験道場 |
シャーベットハウス |
しあわせ市
・毎週日曜日、祝祭日に開催。 |
中山町特産品センター【中山町中山戌696】
・JR中山駅前にある、特産品の展示即売施設。
・鮮度100%の中山の特産品を直売している。
・年3回、ふるさとの香りを届ける「ふるさと便」の受付も行っている。
ふるさと市
・日曜・祝祭日には、町内加工グループによる「ふるさと市」が開催されている。 |
花の森ホテル(中山町交流促進センター)【中山町】
2006/4/16
・電話番号:089-967-1666
・1997年4月27日にオープンした。
・1FLはレストラン風花(ぶーけ)、和室研修室(50畳)、花の湯温泉、2FLは宿泊室
松山ロイヤルゴルフクラブ
・18ホールの本格的ゴルフ場。 JR松山駅から車で60分
フルーツの森
・栗の里公園に隣接した、民間の観光果樹園。
・ぶどう狩り、みかん狩り、柿狩りが楽しめる。
中山小学校【中山町】
永木小学校【中山町永木】
2004/6/13
「開校百年」の碑
・愛媛県知事白石春樹書 ※未だ正門には「中山町立…」のプレートが取り付けられている。(2005/12/11) |
忽那快風句碑 |
自然植物観察歩道「草や花のわかる道」 |
道標
・「かみなだ二リ十二丁 うしのみね一リ二丁」と刻んでいる。 |
野中小学校【中山町野中】
・明治8年、下野中厳島神社前の人家を借用して創立。
・平成16年度を以って中山小学校に統合・閉校。
佐礼谷小学校【中山町佐礼谷】
中山中学校【中山町】
中山高等学校【中山町】
中山と佐礼谷の領分け【中山町佐礼谷】
・中山町永木の谷の氏神と寺野の里(佐礼谷)の白神は仲の良い兄弟であった。
・あるとき、この土地を二つに分ける相談がまとまった。
・同時刻に牛に乗って二人が出会ったところを境にしようというのである。
・兄の氏神は少しでも自分の村を広くしたいと思い、約束を破って馬に乗って出かけた。
・二人はゴンロク谷のところで出会い、ここを中山と佐礼谷の境にすることにした。
★このような「領分け」の話は城川町の「サルバイ」などに見られる。
山吹御前の伝説【中山町日浦】
今から約800年前、豪遊木曽義仲は源氏再興のため、軍を率いて一族に先んじて京に入り、当時横暴を極めていた平家を追放し、都を平定した。其の切に義仲は朝廷より朝日将軍の冠位を賜り、自ら天下統一を全うせんとしたが、如何せん遂に頼朝に滅ぼされ追われる身となった。
義仲の妻、山吹御前も危うく難を逃れ、京を後に今の大阪より船に乗り瀬戸の海路を西へと逃れた。
途中、今の上灘(双海町)に上陸した。その頃すでに義仲が敗れるとの情報が伊予に迄も達し、頼朝に味方する情勢であり、伊予も決して安全地ではなかった。夜間密かに上陸した一行十数人は、昼は山陰木陰に身を潜め、夜を待って人家を避けて川沿いに奥地へ進んでいった。
食もない不眠不休の海路を逃れ、しかも慣れない難航で全員身体は憔悴しきっていた。殊に山吹御前は女の身であるがゆえ、堪える心身の限度は極みに達していた。それでも弱音も吐かず、一歩一歩足をひきずりながら進んでいったが、病のため、大栄口(おおえぐち)に差し掛かったとき、とうとう疲労と病気で息絶えてしまった。
家来達は竹を斬り、遺体を笹舟に乗せて、涙にむせびながら坂道を登っていった。笹船を引いて坂を上ったので、その坂道を曳坂(ひきざか)という。
・坂道を登りきったところで一行は楯を囲いにして野宿をした。この場所は築楯(ついたて)という。
・そして再び丘を越え谷を渡り奥地へと遺体を運んだ。
・やがて仁壬川(にぶかわ)の辺の村(現在の佐礼谷日浦)に辿り着き、松の森城跡山麓の川の辺の小高い丘に遺体を葬り、家来達は付近に百姓として住み付いたという。
源平の戦いの覇者となった木曾義仲の寵愛を受けて第二婦人となった山吹御膳は、源氏同士の争いによって源義経らに義仲が討たれると、義仲の領地であった伊予国へと船によって逃れた。しかし、伊予国の豪族たちもすべて頼朝方となっており、ひそかに現在の双海町灘浦から上陸したが、長い船旅の疲労によって病気となり、没したという。従者はその屍を人知れぬ所に隠し納めようと、笹竹に乗せ、山坂を曳き登って中山町佐礼谷の地に葬ったと伝えられる。現在、この墓のある集落を山吹といい、また灘浦から佐礼谷に至る坂を曳き坂という。坂を登りきった地を築楯(ついたて)というが、そのとき従者たちが楯を突き立てたのが地名の起こりといわれている。また佐礼谷にある源氏集落は、従者たちが住み着いた所という説もある。明治26年にこの地に小祠が建てられ、山吹神社として祀られている。
秦皇山の衣川と衣大師
今から120年ほど前、秦皇山観音堂を開いたと伝えられている僧が、同所に十一面観世音菩薩を祀り21日間の供養をした。後、麓の民家へ下りて、「自分は十一面観世音菩薩をお祀りする霊地をさがして、やっとこのお山を訪ね当てることができた。観世音菩薩をお祀りしておいたからお参りして有り難いおかげを受けるとよい。なお、このお山には水がないので、清水が湧き出るように祈願して清水溜を作っておいた。この水で心身を清めるように」と告げて、かき消すようにいなくなった。
人々は不思議に思って山に登ってみると、観音像が祀られ、その近くに清水溜りもあった上に、傍に一着の衣が残されていた。人々はことの不思議に驚き、、その衣をそこに納めて大師像をお祀りした。この泉が衣川と呼ばれ、大師像も衣大師と名付けられたと伝えられている。
(小池)
(中山町誌、PP.1272〜1273)
永木三島神社の天狗の伝説【中山町永木】
天狗
永木の三島神社には、よく天狗がやって来て、鳥居や楼門松に座って神官をからかっていた。ある日神官がそこを通りかかったところ、天狗が神官の烏帽子を蹴ったので、怒った神官は天狗の足を切り落としてしまった。天狗の足というものは、七日の間であれば継ぎ合わせることができるといわれていて、天狗は毎日「足を返せ、足を返せ」と神社にやってきた。七日目の晩にもやって来て返してくれるように頼んだので、神官は「里人に悪さをしなければ返してやろう」と約束したが、天狗はすぐその約束を破ってしまったので、とうとう返してもらうことはできなかった。
以降、天狗の足は足塚として祀られており、足の悪い人がおまいりすると、悪い足が治るといわれている。
(中山町誌、PP.1270〜1271)
大矢の池【中山町】
大矢の池
大矢にある池は小池の御池(おいけ)につながっているといい。この二つの池を大蛇が通っていたという。この大蛇は御池で田を耕していた人を牛ごと引張り込んでしまう程の大蛇だった。大矢の池には弁天様が祀ってあるがそのお社があるところに五合、小池の池に五合、両方で一升の木綿針を入れて蛇を退治した。
この池には鯉がいて、中には1m位の大きいものや片目のもおり、村の人々はこの鯉を大事にして近寄らなかった。この鯉が死んで浮くと、死んだ鯉の向いている方向の人が死ぬといわれていた。また、この池には水神様が住んでいるという。
(中山町誌、PP.1271〜1272)
大矢の池の片目鮒【中山町】
大矢の池の片目鮒
小池組みに住む鮒は、ことごとく片目である。神明のお使いだろう。不思議なことにこの鮒の数は村人の数と同じで、村人が一人死ぬと鮒も一匹死ぬ、村人が一人生まれると鮒も一匹生まれるという。[大洲随筆七不思議]
(中山町誌、PP.1272)
七人塚【中山町】
七人塚
毎年1回、小池の方から中野中・仁川登の方面にヨヤマンギョウという妖怪が歩いて行くという。その時はチリンチリンと音がし、付近の空気に触れた者は全員死ぬといわれていた。それで音がした時は、村人は皆家の外には出ないという。ある時、中野中の七人家族がその空気に触れたため全員死んでしまった。その墓は中野中に七人塚として祀られているという。
(中山町誌、PP.1272)
長沢の明神の由来【中山町】
(中山町誌)
山犬【中山町】
山犬
昔、出渕あたりの山には山犬が住んでいた。そこへ、一人の魚売りが毎日やって来ては、その山犬に魚を与えていた。ある日いつものように魚をやろうとすると、山犬が「急いで山を下れ」と言った。魚売りが言われた通りに山を下って様子を見ていると、「リン、リン」と音がして、先程まで魚売りがいた場所にヨヤマンギョウの神が現れたのだった。「ヨヤマンギョウの神に触れると死ぬ」といわれていたので、山犬は日頃の恩返しをするために魚売りを助けたのである。
(注)この物語に出てくる山犬と、犬寄伝説に出てくる山犬とは全く違う。中山には2種類の山犬がいたらしい。
(中山町誌、PP.1271)
犬寄峠【中山町】
大洲藩の御用飛脚、畑の左衛門が、深夜に現在の伊予市と中山町の境の峠へさしかかった時。一匹の山犬が襲ってきたが、切り捨てた。山犬の断末魔の声に応えて周囲から数十匹の山犬が寄り集まり、飛び掛ってきた。山犬を切っても、ますます増え、ついには何百という群れになった。左衛門は近くの町の大木に登って逃れたが、追い詰められた左衛門は力尽きそうになった。左衛門の刀の目抜には鶏の名作があり、血潮がかかると歌うという伝説があった。左衛門が祈ると、刀が「コケッココー」と鳴き、驚いた山犬は、夜が明けては大変と帰っていった。帰りがけに山犬は、「残念、今夜左衛門の女房の山猫が来てさえいれば・・・。」といった。
左衛門が、ある時山猫の雄を撃った際、雌の山猫が大変悲しみ、その恨みを晴らすため、左衛門の女房を殺し、女房に化けて住み込んでいたのだ。左衛門が大洲に帰ってきこの出来事を放すと、城下の大評判となった。取り調べの結果、左衛門の女房が山猫の化け物に間違いないということで、殿様から左衛門自身が退治するよう命令された。左衛門は、自分の女房が山猫の化け物とは信じられなかったが、殿様からの命令には逆らえない。いつものように猟に出かける際、女房から七発の弾を受け取った。しばらくして引き返し、家のなかの女房に目掛けて左衛門が鉄砲を撃つと、女房は茶釜の蓋で七発の弾をすべて受け止めた。最後に左衛門が殿様からもらった八幡大菩薩の弾を撃つと、女房は倒れ、山猫の正体を現した。
この出来事以来、左衛門が山犬に襲われた峠のことを犬寄峠と呼ぶようになった。
●犬寄峠の由来
大洲藩と松山藩の間を通う御用飛脚が、松山の殿様の使いで大洲の殿様のところへ行こうとした。犬寄峠に差しかかったのは深夜だった。突然一匹の山犬が現れぎらぎら光る目、大きな声で吠えかかった。飛脚は驚き、差している刀で抜き打ちに山犬に切りつけた。山犬は一声高く「ウォーッ」と吠えたてた。
その声が四方の山々や谷々にこだますると、たちまち飛脚を取り巻き、四方八方から飛びかかり、今にも食い裂くばかりの勢いになった。近づく山犬を切り殺していったが、殺せば殺すほどますます多くやってくる。集まってくる山犬は次第に増えて、何百何千という数になり、飛脚の命も危うくなった。
ふと隣を見ると松の大木があったので、飛脚はこれによじ登った。ここなら大丈夫であろうと胸をなでながら下の様子を見ると、木の下にはいよいよ多くの山犬が集まってきた。一群の山犬が松の木の周りに集まれば、他の一群はその上に跳び上がって肩車に乗り、次の一群はまたその上の肩車に乗って飛脚を狙った。斬り殺しても斬り殺しても次から次へと上がってくる。飛脚はとうとう松の木のてっぺんまで追いつめられた。山犬はいくら殺してもひるまず跳びかかってくる。疲れ果てた飛脚は、今はもう山犬の餌じきとなるばかり、これまでの命と観念した。
その時、ふと飛脚は持った刀の目抜に鶏の名作が彫刻されていて、血潮で温められるときは鶏が歌うことを思い出した。ここぞとばかり飛脚は「この鶏の名作、まことの性根あるものなら見事歌ってみよ」と大声をあげた。あら不思議、刀に彫った鶏が「コケコッコー」と声も鮮かに歌った。この鶏鳴に驚いた山犬どもは、「一番鶏が歌うた。もう夜明けが近い。早よいなないかん」と言って、囲みを解き、飛脚をにらみながら帰りかけた。そして、帰りがけにこう言った。「ああ、残念。畑の左衛門の女房の山猫が来ておったら、この失敗はなかったのに。残念だ」と言って帰ったそうである。
左衛門は三秋の猟師であった。この話を聞いた大洲の殿様は、「左衛門の女房が山猫なら殺せ」と厳しく命じた。家来の者が左衛門にこの話をすると、左衛門は「この可愛い女房がなんで山猫じゃ。なんで殺されようぞ」と怒ったが、殿様の命令だからしようがない、殺すことに決めた。
畑の左衛門はもともと鉄砲の名人で、猟に行くときも七つの弾だけで猟ができたのである。今度は殿様から弾を買いそのことは女房には言わず隠していた。いよいよ殿様の命令で撃たなければならない。一発撃つと女房は茶釜の蓋でチャリンと受けた。しまったと左衛門は二発目。これもチャリンと受けられた。三発四発と、とうとう女房に貰った七発とも撃ち尽くしたが、全部受けられてしまった。
左衛門は神仏に祈りながら、殿様からもらった八幡大菩薩の弾を込めた。この弾があることは女房は知らない。もう弾はないと思って安心しているところへ最後の弾が飛んできた。死ぬと、今までの可愛い女房は山猫になった。
これが犬寄峠に由来する本格的な伝説である。
(中山町誌)
寺尾淵【中山町】
聖武天皇の頃、行基が当地を訪れた時、夜になると淵から光が射すのを見て調べると、深い淵に大きな柏の木が倒れていた。その木を引き上げ、十一面観世音菩薩像を刻し、お堂を建立した。これが盛景寺の由来であり、その淵を寺尾淵と、また地名を出淵と呼ぶようになったと伝えられている。
秦皇山森林公園【中山町小池】
お堂のたこやき【中山町】
※松山方面から南に向かい、遊栗館を過ぎてゆるやかな右曲がりのカーブの路側に古ぼけたお堂があって、
ほん中でタコ焼きを売っとるんよ。怪しい雰囲気がたまらなく食欲をそそるわい。わし、国道56号線を通るたびに、寄りたい寄りたい思いよるんじゃけどなぁ。じゃけど、ついつい通りすぎてしまうんよなぁ。