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伊予の隅々
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市町村別情報庫
伊予市
(旧・伊予市)

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伊豫の隅々インデックス

カテゴリ別インデックス

市町村概要

キャッチフレーズ
(1).「自然環境と調和を図り、災害のない魅力あるまちづくり」
(2).「活気に満ちたまちづくり」
(3).「かおり高い教育と文化の向上を目指したまちづくり」


 
市の花 市の木 市の花木 市の鳥
ツツジ メタセコイア
(扶桑木)


特産物
唐川ビワ
・1890年頃から盛んに生産されるようになり、品質・味ともに最高位のものといわれる。
ちりめん
・瀬戸内海沿岸で獲れたカタクチイワシの稚魚。
花かつお
・大正初期より製造が始まった。


沿革

・明治22年、町村制施行により、郡中町、郡中村、北山崎村、南伊予村となる。
・明治23年、南山崎村が誕生。
・昭和15年1月、郡中町が郡中村を吸収。
・昭和30年1月、郡中町、北山崎村、南伊予村、南山崎村が対等合併して伊予市となる。
 
明治22年 明治23年 昭和15年 昭和30年 昭和33年
郡中町 郡中町 伊予市
郡中村 郡中町 伊予市
北山崎村 伊予市
南伊豫村 伊予市
南山崎村 伊予市
(中山町平岡地区編入)


地名
大字
灘町
米湊(こみなと)
湊町
尾崎
本郡(ほんぐ)
三秋
大平
平岡
上唐川
下唐川
両沢
鵜崎(うのさき)
市場
稲荷
上吾川
下吾川
上三谷
下三谷
宮下
八倉


文化財

福田寺本堂【伊予市上吾川 福田寺】
・国登録有形文化財(平成17年(2005)指定)
c.f.「登録有形文化財 遠登志橋(新居浜)と福田寺(伊予市) 文化審 県内は4件答申」、愛媛新聞、平成17年9月7日

福田寺通玄庵【伊予市上吾川 福田寺】
・国登録有形文化財(平成17年(2005)指定)
c.f.「登録有形文化財 遠登志橋(新居浜)と福田寺(伊予市) 文化審 県内は4件答申」、愛媛新聞、平成17年9月7日

福田寺山門【伊予市上吾川 福田寺】
・国登録有形文化財(平成17年(2005)指定)
c.f.「登録有形文化財 遠登志橋(新居浜)と福田寺(伊予市) 文化審 県内は4件答申」、愛媛新聞、平成17年9月7日

稲荷神社楼門【伊予市稲荷 伊予稲荷神社】

・県指定文化財(昭和44年2月12日指定)
・1662年(寛文2年)建造。
・伊予の名工、余土の治部(ぢぶ)の造立と言われる。
・三間一戸、屋根入母屋造り、瓦葺
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

伊予岡古墳【伊予市上吾川 伊予岡八幡宮】

・県指定文化財[史跡](昭和23年10月28日指定)

青銅経塔【伊予市大平】
・県指定文化財[考古資料](昭和40年4月20日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

石造層塔【伊予市大平 曽根】
・県指定文化財[石造美術](昭和30年11月4日指定)
・高さ3.3mの五重層塔。凝灰岩でできており、造立当時は七重の層塔であったと推定される。
・建治3年(1277)の年紀銘を有する。
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

かわらがはな窯跡【伊予市市場 向井原】
2001/1/28
・県指定史跡(昭和43年3月8日指定)
・奈良中期(8世紀前半)の窯跡。
・「かわらがはな」の山腹の自然の傾斜地を利用して作られた古代の登り窯であり、10数基の窯跡が確認されている。
・現在、そのうちの3基が公開されている。構造はいずれも有段の半地下形式の登り窯で、各々に燃焼部・焼成部・煙道部がある。
・古代の登り窯で「かわらがはな」のように天井部が残っているのは珍しいとされている。
・天井及び側壁はガラス状のコバルト色をしているが、小石交じりの焼粘土塊である。
・南側の1号窯は、燃焼部の奥行1.5m、幅1.32m、天井部までの高さ1.5mである。焼成部は42〜48度の傾斜に8段の階段がつけられ、段の横幅は1段目は1.55m、8段目が0.75mの隧道型である。
・出土した瓦は軒丸瓦、軒平瓦で、共に重弧文が施されている。また、須恵器、土師器も出土している。

軒平瓦(のきひらがわら)
・軒の最先端に葺かれた飾文のある平瓦の一種で、平瓦の下端が厚くなり、その垂直面に装飾として文様を取り付けたものである。飛鳥時代にはまだ広く用いられず、白鳳時代になって軒平瓦の使用が一般化し、この例は急に増加する。文様には唐草文と重弧文とがあり、奈良時代には地方色が加味されて多種多様となる。

重弧文軒平瓦(じゅうこもんのきひらがわら)
・同心円弧文ともいい、弥生式土器・銅鐸に長く使われた文様である。同心円的文様の複合をもって構成されたこの文様は西日本を中心に分布している。

土師器(はじき)
・赤褐色の素焼き土器である。焼成温度は800℃前後であり、弥生式土器と同じ手法で作られた。模様はあまりなく地味な焼物であるが、4世紀から11世紀に至る長期にわたって使用された。普段農民が使う壺・甕などの炊事用具として、大量に生産された。

須恵器(すえき)
・青灰色あるいは灰黒色を呈する硬質の土器である。1000℃以上の高温で焼成され、粘土も良質のものが選ばれた。5世紀初め頃、朝鮮半島南部から作製技術者が渡来し、生産が開始されたと考えられる。当初は、主に副葬用や祭祀用として作られたが、8世紀頃から日常雑器として一般に普及した。

丸瓦(まるがわら)

本瓦葺丸瓦(ほんがわらぶきまるがわら)

行基葺行基丸(ぎょうきぶきぎょうきまる)

扶桑木(ふそうぼく)【伊予市森 大谷海岸】

・県指定天然記念物(昭和31年11月3日指定)
・森の大谷海岸の約1,800mにわたり、粘土質岩から成る第三紀層が露出している。
・砂層、礫層、粘土層、シルト層、テフラ層を挟む地層が露出している郡中層から産出されるメタセコイア、トガサワラ、オオバラモミ等古代植物25属29種の化石。
・淡水産の貝類の化石も多く発見されている。
・「森村に神代よりの大木ありて栄えるこというばかりなし、枝葉の高きため豊後の地(九州)に朝日の照ること遅く夜明けること遅きがごとし、来りて願により伐ることをゆるす。大勢来りて数年にしてこれを伐り、海の方へかやりてその木を伝うて豊後に帰る。其の海中に沈み、今にその根あり.....」(大洲旧記)
・「扶桑の事ハ山海経・淮南子・大荒経の諸書に出たり、千早振神代の御時、伊予の国に大木有て、梢は大空を払ひ、根ハ海山にまたかれり、此木を扶桑と名付て、其生たる国をまた扶桑国といふ、則日本の事也、といふ事、和漢久敷云伝ふる也、されハ、是かために、日出る頃は築紫をも覆ひ、入るときハ陸奥の果迄もかけろひて、年のミのりを妨けしかは、国民歎きにくみて集り切しかと、限りなく大なるの故に、とみニも伐果さす、日経る間ニハ癒合て其事ならさりしかは、終に火をもて焼からして後そ切倒しぬ、其後千載経て、人のしろしめす御代になり、景行の帝、肥後の熊襲御征伐のとき、此国の温泉尋させ給ひて、豊後へ渡らせ給ふニ、猶扶桑の朽木海上二三十里程にまたかり倒たり、官軍皆此木の上を歩行て、舟せすして筑紫の地に渡り付給ひぬ.....」(大洲随筆)
※森地区の人々は扶桑木のことを「かつらの木」と呼ぶようである。(聞き取り調査要) これは、大谷海岸の中間部に「かつら川」と呼ばれる川があったことに由来するらしい。
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

ソテツ【伊予市大平梶畑】
2001/1/28
・県指定天然記念物(昭和25年10月20日指定。) ※ひょっとしたらもう解除されているかもしれない。
梶畑集会所の裏手の公園内にある。
・小さな祠に添うように立つソテツの雄株である。
・大小の樹幹20数本が叢生しており、根廻り9m、樹高10mに達し、樹勢はますます旺盛で、その巨大な雄姿は数世紀にわたって郷土の人とともに生きてきた。
・元来愛媛県でのソテツは栽培植物であり、このソテツのように自生しているものは珍しい。
★2001年1月28日に訪れてみると、高さは1.5mほどである。台風で倒壊してしまったのか、かつての雄姿はどこへやらになっている。しかし枯死したわけではないのが唯一の救いであろう。
 
 

千手観音(千手千眼観自在菩薩)像【伊予市上吾川 宝珠寺】
・市指定有形文化財[彫刻](昭和39年6月15日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

宝珠寺本堂【伊予市上吾川 宝珠寺】
・市指定有形文化財[建造物](昭和59年12月26日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

日露戦争絵馬(征露凱旋記念奉納絵馬)【伊予市上吾川 伊予岡八幡宮】
・市指定有形文化財[歴史資料](平成2年10月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

キリシタン禁制高札【伊予市】
・市指定有形文化財[歴史資料](平成3年10月23日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

兼定【伊予市下吾川】

播州手柄山氏繁作【伊予市湊町】

無名伝左文字【伊予市湊町】

手柄山正繁【伊予市灘町】

橘【伊予市灘町】

石地蔵【伊予市市場】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

稲荷神社楼門【伊予市稲荷 稲荷神社】

山姥金時の絵【伊予市稲荷 稲荷神社】
・市指定有形文化財[絵画](昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

大般若経(稲荷)【伊予市稲荷 常願寺】
・市指定有形文化財[古文書](昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

大般若経(下三谷)【伊予市下三谷 伝宗寺】
・市指定有形文化財[古文書](昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

宮内家古文書【伊予市上吾川】
・市指定有形文化財[古文書](昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

庄屋文書【伊予市上野】
・市指定有形文化財[古文書](昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

赤坂泉文書【伊予市八倉】
・市指定有形文化財[古文書](昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

称名寺文書【伊予市上三谷】
・市指定有形文化財[古文書](昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

知行安堵状【伊予市稲荷 稲荷神社】
・市指定有形文化財[古文書](昭和44年4月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

但馬守法城寺橘貞国【伊予市上三谷】

無名伝一文字【伊予市上三谷】

岡本直金源圀良【伊予市上三谷】

薬師堂【伊予市下三谷 傳宗寺】
・市指定有形文化財[建造物](昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

苦厭上人(くえんしょうにん)開基の地【伊予市三秋】
・市指定文化財[史跡](昭和59年12月26日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

雲居国師(うんごこくし)生誕地【伊予市】
2001/7/8
・市指定文化財[史跡](昭和62年2月24日指定)
雲居国師の父は小浜左京といい、土佐中村藩主・一条兼定に仕えていた。
・天正10年(1582)、長宗我部元親に攻められ、重傷を負った兼定は道後温泉で湯治することになった。兼定の乳母であった左京の妻は、我が手で看病するため、遠い道のりを急いだ。身重だった彼女は三谷毘沙門堂で身体を休めているときに産気づき、1月25日正午、立派な男子を生んだ。その子が後に雲居国師になる。
雲居国師は青年時代から天下の名僧・傑僧を訪ねて諸国行脚修行の旅を続けた。その途中、元和7年(1621)、天徳寺(松山市)の南源師を訪ねた。その話を聞いた松山城主・加藤嘉明明成父子はさっそく天徳寺を訪ね、その徳の高いことに感銘を深くし、雲居国師のために宝樹寺を創建した。
・寛永15年(1636)、55歳のとき仙台藩主・伊達政宗からの再三の招請により松島瑞巌寺の第99世の住職となり、中興の大業を成し遂げる。
・師は76歳で亡くなられたが、権力者や庶民に分け隔てなく接し、生涯木綿の僧衣をまとって倹約を示し、人々から生き仏と慕われた。
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

尾崎天神下古墳【伊予市尾崎】
・市指定有形文化財[史跡](昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

猪之窪古墳【伊予市宮下】
・市指定有形文化財[史跡・考古資料](昭和59年12月26日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

後藤又兵衛基次公菩提所【伊予市宮下 長泉寺】
・市指定有形文化財[史跡](昭和63年11月29日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

今岡御所【伊予市宮下】
1998/9/13
・市指定有形文化財[史跡](昭和35年8月1日指定)
宮の下新池の堤上に碑が建っている。この碑は昭和56年(1981)に建てられたもの。
・弥生期の住居跡、皇霊天皇皇子伊予親王(河野氏遠祖)の居住地と伝えられる。
茶臼山にある。茶臼は前方後円墳と関係があるところから、陵跡と推定されるが、伊予皇子が伊予に来られた確かな文献がなく、地方豪族の墳丘とも考えられる。
・ここには、彦狭島命と大小市命を祭る今岡神社があったが、今は池の堤防になっている。
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

昌山焼【伊予市】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和63年11月29日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

江山焼金剛力士像【伊予市湊町 大師堂】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和44年4月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

江山焼抹茶茶碗【伊予市米湊 市立図書館】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和44年4月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

十錦神酒瓶(郡中十錦)【伊予市稲荷 稲荷神社】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和44年4月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

錦手大形神酒瓶(郡中十錦)【伊予市稲荷 稲荷神社】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和44年4月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

弓具一式【伊予市稲荷 稲荷神社】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和44年4月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

玉飾(上野)【伊予市上野】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和44年4月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

玉飾(宮下)【伊予市宮下】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和44年4月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

甕型土器【伊予市米湊 市立図書館】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和44年4月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

銅鉾【伊予市米湊 市立図書館】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和44年4月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

人物埴輪【伊予市米湊 市立図書館】
・市指定有形文化財[工芸品](昭和44年4月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

吹上の森1号古墳出土遺物【伊予市 伊予小学校】
・市指定有形文化財[史跡・考古資料](平成2年3月16日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

風呂ヶ谷古墳出土の須恵器【伊予市宮下 音地】
・市指定文化財[考古資料](平成5年10月20日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

森山大膳供養塔【伊予市下唐川 馬場】
・市指定有形文化財[石造美術](昭和59年12月26日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

長泉寺の層塔【伊予市宮下 長泉寺】
・市指定文化財[石造美術](平成5年10月20日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

経筒【伊予市大平】

端の左衛門の墓【伊予市三秋 端】
・市指定有形文化財[史跡](昭和59年12月26日指定)
・端の左衛門は鉄砲撃ちの名人。
・墓碑には「釋明好秋運墓」、「元禄七甲戊歳(1694)8月16日」と刻まれている。
・過去帳は善正寺(松前町)にある。
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会
 
端の左衛門に纏わる伝説

椿【伊予市下唐川 馬場】
・市指定天然記念物(昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

藤三ツバキ【伊予市上唐川 長崎谷】
・市指定天然記念物(昭和52年2月19日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

シュテンドウジ【伊予市上唐川 長崎谷】
・市指定天然記念物(昭和52年2月19日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

唐川ツバキ【伊予市上唐川 長崎谷】
・市指定天然記念物(昭和63年9月28日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

クロコガネモチ【伊予市稲荷 山崎神社】
・市指定天然記念物(昭和44年11月15日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

稲荷神社の藤【伊予市稲荷 正一位稲荷神社】
・市指定天然記念物(昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

蘇鉄【伊予市三秋 西願寺】
・市指定天然記念物(昭和35年8月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

ナギ【伊予市上吾川 六反集会所】
・市指定天然記念物(昭和40年4月1日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

クスドイゲ【伊予市森 天神社】
・市指定天然記念物(昭和44年11月15日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

中央構造線小手谷露頭(A・B)【伊予市大平 小手谷】
・市指定天然記念物(昭和52年2月19日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

中央構造線ハノラ谷露頭(A・B)【伊予市大平 葉浦谷】
1997/5/11(A)
・所有者:大平 谷口勝美
・市指定天然記念物(昭和52年2月19日指定)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

宮内小三郎邸【伊予市】

2006/10/29
・灘町通りにある。
・灘町は寛永13年(1636年)に宮内九右衛門清兵衛の二兄弟が、藩主加藤泰興から土地を譲り受け、開拓した
宮内小三郎九右衛門の孫にあたる。
宮内小三郎家は幕府の巡見使や伊能忠敬測量隊の本陣を務めた。
・(大洲の臥龍院を手掛けた棟梁)中野虎夫による建築物。

「宮内小三郎邸 伊予市の歴史を語る家 伝統的建築物
・江戸後期(推定)の建築
伊予市市街地(現在の灘町、湊町周辺)は当時、牛子が原と言われた荒れ地であったが、一九三六(寛永十三年)上灘村(現双海町)の豪商宮内九右衛門、清兵衛兄弟が私財を投げうって自主独立で町を拓いた。
 以後、和紙、陶器、海産物、醸造、製材、油、金融など、現在の愛媛の地場産業の全てが見られるほどに町は栄え、人で賑わった。
 宮内小三郎家(三代以後小三郎襲名)は、町を開いた家というのにふさわしいものである。本瓦の大屋根に入母屋の破風をもつ家の姿は商家というよりも奉行所ともいえる貫禄で建っている。また、正面左のうだつは、県下でも最も格式の高い形式である。
 宮内家は町年寄として村を治める一方、各種商業の元締めとして今に言う総合商社であり、また役人をむかえ、藩主が御成になった家であり町の歴史の象徴でもある。  記載設置 1995年7月 伊予市商業協同組合」

伊予ショップガイド

山惣商店

宮中酒店

山丈商店

濱田屋

松田農機具店

金石常夜燈【伊予市下吾川】
・「石鉄山」(南面)、「大神宮」(東面)、「金毘羅」(北面)、「天保十四癸卯年四月」(西面)
・天保14年は西暦1843年。
 



城址

鹿島城【伊予市中村 台山】
2001/9/16
・法寿院の右脇から、小道を約330m登ると山頂部に辿り着く。
・「東西北に横四間(約7m)余、深さ三間(約5.4m)ばかりの堀有り」(大洲秘録)
・城主の墓石には「当鹿島山之城主前周頭左近衛中将藤原盛保墓」と記されている。
・標高90mの山頂部には桜の木が沢山植わっている。山頂西側に回り込めば見晴らしも良い。
・山頂南には天主の跡地があり、祠の礎石らしきものが残っている。
前近衛中将助安が居城した。鹿島山法寿院に位牌があり、「法寿院殿玄清居士」と戒名が記されている。
・大洲旧記には、「左近衛中将藤原助安居る 大城なりしや 六町程へだてて堀の中家 中屋敷という所あり」と記されている。

「」(伊豫温故録)

白滝城跡【伊予市両沢】
2002/9/8
・標高503m。
・山頂付近には3面の郭、その下3ヵ所に堀切がある。
・鎌倉時代、河野氏の臣越智氏が城主となり、次いで中村氏が継いだ。
・元弘の乱(1332)には幕府方で戦い、軍功により米湊・稲荷五百石を加増された。
・天正年間(1573〜1596年)は、中村主殿頭の居城であったと言う。
「両澤村にあり 中村家旧記に云ふ 河野通信郎従谷田八郎越智経孝温泉郡中村郷に住す 承久三年河野家故有って中絶す 然れとも将軍実朝経孝か射能あることを聞き其の罪を赦し弓道を試み給ふ賞として浮穴郡両澤村白滝城主とす 知行三千石の地を領す 此に於て谷田氏を改め中村左近将監といふ 其子中村主殿経実平岡遠江守舎弟経孝甥なり 養子として白滝城主時に応長二年其子左衛門尉経友元弘二年の乱に河野対馬守通治に従い軍功に依って五百石の地を加増す 稲荷米湊村なり 中村主殿頭経武實は福角與五郎二男経友養子とし 経武與左衛門父なり 谷上山宝珠寺代々の菩提所 家紋は輸違須浜七ツ星なり 右欠損のまま寫す 其の後中村白滝を退き外山村田中に屋敷を構へ居住すと大洲旧記に見ゆ」(伊豫温故録)

森ノ城跡【伊予市森】
「森村に在り 天正の頃熊権兵衛これに居ると云ふ」(伊豫温故録)

大平城跡【伊予市大平】
「大平村に在り 大野氏の属将東宗太これに居る」(伊豫温故録)

森山城跡(天神ヶ森城跡)【伊予市大平】
・標高180m。
「大平村に在り 森山城と云ふ 森山伊賀守代々これに居る 伊賀守は河野通尭〜初代の通直〜の時にも同名の人あり 通尭九州へ渡り征西将軍懐良親王に謁す 其の跡へ足利の将細川頼之討ち入り伊予を押領せしかば 河野の旧臣森山伊賀守及び山形吉田宇和島と與に高縄城に拠って河野家■復の義兵を挙げしが細川氏の為めに同城にて討死せしも 此義挙に因つて通尭九州より帰り細川方を追退け遂に伊予を取返しけれは森川氏も子孫長く此城主となり居住せし 城山の麓に墓所あり 又下唐川村にも森山氏代々の墓ありと云ふ」(伊豫温故録)
・讃岐の福川頼行が伊予に侵攻してきたとき、河野家の家老職を務めていた森山伊賀守は、義兵を挙げて高縄城で防戦したが、敢え無く討死した。しかし、その後河野通尭が九州から戻ってきて細川氏を撃退し、伊予を取り戻した。
・その後、子孫は代々森山城主としてこの城に拠った。
 
森山神社
・森山城跡に鎮座する。
伊賀守の墓(森山伊賀守供養塔)
・石造五重層塔
・「建治三年丁丑八」の銘有り。
・森山城跡の麓にある。
・地元では「森山伊賀守の供養塔」と伝えられているが、記銘年と矛盾する。
森山大膳の墓(五輪塔)
・下唐川の馬場にある。
・塔長約2m。

山崎城【伊予市】
「山崎城 中村に在り 文正中 東新左衛門尉俊之 これに居る 又た東宗太 居ると云ふ 河野家譜には山前城と書す」(伊豫温故録)



遺跡

今岡遺跡【伊予市】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

長尾(なご)遺跡【伊予市】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

雨が森遺跡【伊予市宮下】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

東谷遺跡【伊予市宮下】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

富田山遺跡【伊予市宮下】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

行道山遺跡【伊予市】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

東原遺跡【伊予市上野】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

行道山遺跡【伊予市】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

八倉大平の遺跡【伊予市】
・金松山
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

原遺跡【伊予市 大谷池東】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

兎渡護遺跡【伊予市上野】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会



古墳

伊予岡古墳【伊予市上吾川 伊予岡八幡神社】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

嶺昌寺古墳【伊予市三谷】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

尾崎天神下古墳【伊予市尾崎】

・市指定有形文化財(史跡)
・横穴式石室を持つ円墳。
兎渡護(ととご)古墳【伊予市上野】
出土品:→玉飾(上野)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会
吹上の森1号古墳【伊予市宮下】
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

猪之窪古墳【伊予市宮下】
・市指定有形文化財(史跡)
・標高約180mの山腹斜面にある。
・この古墳で発掘された古墳時代前期の人骨は、長泉寺本堂に保存されている。

桜山古墳【伊予市】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

風呂が谷古墳【伊予市】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

竜塚古墳【伊予市八倉 伊予病院前】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

雨が谷・東谷古墳【伊予市宮下】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

南坂古墳【伊予市上野 伊予神社】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

猿が谷古墳【伊予市上三谷】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

尊霊社古墳【伊予市下三谷 西原】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

客池古墳【伊予市上三谷】

城山古墳【伊予市上三谷】

塩塚古墳【伊予市上三谷】
・圃場整備により消失?(「伊予市の文化財」には「石室が露出した状態で残されて未発掘」とある。)
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

遊塚古墳【伊予市上三谷】 →圃場整備により消失

五輪塔(塩塚2号古墳)【伊予市上三谷】 →圃場整備により消失

大角蔵古墳【伊予市米湊1460】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

高塚【伊予市米湊】
・彦兵衛池の南。
殿様塚【伊予市米湊 賀々田池堤】
ノツゴ古墳【伊予市米湊西原437】
See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

桂屋敷古墳【伊予市米湊1231】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

大塚古墳【伊予市】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

森山古墳【伊予市森】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

大地古墳【伊予市三秋 水之明神社】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

塚穴口【伊予市大平 梶畑】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会

線刻巨石【伊予市宮下】

See.伊予市の文化財、伊予市教育委員会


跡地

九門修理の墓【伊予市大平】
九門修理源範頼の家来であり、名馬「虎月毛(とらつきげ)」を預かり飼育していたが、愛馬を残して病死してしまった。虎月毛はその後、野山や村里を野生馬のように歩きまわっていたという。しかし、遂には死んでしまったので、亡骸を寺の下手の「御所の河原」に畳を2枚敷いて置いていたところ、七日目に飛び去り、どこへともなく姿を消してしまったという。
・その後、街道沿いの河原で馬のいななきが度々聞かれたという。
※馬塚が築かれたというが、果たして場所はどこなのだろうか?
「」(伊豫温故録)

馬場の五輪塔【伊予市馬場】
・伊予市大平より県道大平砥部線を進み、馬場集落に入ってから左側の道路の坂道を約50m登ると竹薮の中に五輪塔がある。
・高さ2.14m。石質は安山岩。
・室町時代のものと推定されている。
・この碑に並んで高さ1.5mの古い宝篋印塔が一基とともに残っている。
※「馬場」という地名は「九門修理による虎月毛の飼育伝説」から見て興味深い。

砥石山【伊予市上唐川 下寺】
・集落の北側一帯が砥石山である。
・砥石は、1742年のころ掘り取られていた。
・1855年(*1)、上唐川の庄屋影浦喜衛門は、所有地(砥の畦)で砥石の脈を発見し、その砥石を大洲藩主へ献上した。大洲藩に仕えた豊川覚十郎は新しい砥脈の発見や、砥石の掘り割り、販売に尽くした。昔、刀を研ぐには7種類の砥石を使っていたが、伊予砥はその中研ぎとされていた。明治になってからは官有地となったが、上唐川が借り受け最盛時には三山あった。
(*1)安政2年(1854)との記載も見られる。
「上唐川村字砥石場より出つ 百五十年前より開採 一ヶ年出高凡四万五千挺代金千参百圓上 石虎石の類あり」(伊豫温故録)
 
豊川堤翁の碑
・加工場の下にある。豊川堤は大洲藩に仕えた人物で、唐川の砥石産出に尽力した人である。

吾河館【伊予市上吾川】
「吾河館」(伊豫温故録)

郡中中学校跡碑
2005/2/6
明治23年 郡中尋常小学校設立(小学校令)
明治32年 現地に郡中尋常小学校新築
明治33年 高等小学校が併置される
明治36年 郡中尋常高等小学校と改称される
昭和10年 郡中青年学校併設される
昭和15年 郡中青年学校独立する
昭和16年 郡中旭国民学校と改称される
昭和22年 学制改革 国民学校高等科、青年学校を合わせ郡中町立郡中中学校となる
昭和34年 伊豫市立港南中学校開校される
昭和36年 4月1日 米湊3番耕地に移転する
昭和57年7月 卒業生一同

常世橋
 



栄養寺【伊予市灘町4丁目 52】
2003/8/21、2006/10/29
・宗派:浄土宗(京都智恩院[=泰昌山・安楽院・浄土宗]の末寺)
・山号:泰昌山(泰正山)
・本尊:阿弥陀如来。
苦厭(くえん)上人によって開基されたと伝えられる。
・古くは、市内中村にあって明音寺と称した。
宮内清兵衛が灘町を開くにあたり、寛永14年(1637)に明音寺から本堂及び本尊を移転して栄養寺とした。
・山門は総欅造りで、江戸時代に建立されたもの。前に龍、後ろに亀の彫刻が施されている。
宮内清兵衛ら灘町開拓者の墓碑や、武知五友宮内柳庵陶惟貞仲田蓼邨らの墓がある。
 
武知五友の墓
宮内柳庵の墓
陶惟貞の墓
仲田蓼邨の墓
「栄養」という語の起こりについて
火防地蔵尊
 ・「三界萬霊」と刻まれている。
・享保六辛丑年五月二十四日に造られたもの。
「元在安置於灘町五丁目移転明治四十二年十二月予此奉安置 栄養寺 第十九世 厳誉代」
正一位稲荷瘡護(かさもり)大明神
・皮膚病に霊験有りと伝えられる。
「日本三大瘡護稲荷は大阪府高槻市の稲荷大明神、江戸感応寺黒門際、小石川御薬園の北の3ヶ所である。
諸人瘡護稲荷を称えて諸瘡の平癒を祈願した。皮膚病の神として治癒を祈る時に土の団子を供え満願のときに効があれば米の団子に供え替えて諸供物をした。
霊験あらたかであり諸人の多き参詣するところなり」
水子地蔵供養会
・十一月二十四日 午前十時〜(2006)

海雲寺【伊予市米湊】

華敷(禅)寺【伊予市下三谷1660】

西願寺【伊予市三秋268】

・宗派:曹洞宗(永平寺の末寺)
・山号:大原山
・本尊:釈迦如来
・寺宝:大般若経600巻
「三秋村字大地に在り 大洲旧記に云ふ 昔は大寺にして開山に仏煕禅師文保以前の住職なり 凡そ五百年になる十五代住僧の名記載あり 七堂伽藍なかりしか長曽我部攻め来る 寺の上川を隔てて大に戦ふ 其の時兵火に焼けたり 其の後小院になると云ふ」(伊豫温故録)
 
「不許酒入山門」の石柱
蘇鉄
・市指定天然記念物(昭和35年指定)
・樹齢約600年、根回り6〜7m、8株

真成寺【伊予市下唐川】
「下唐川村に在り 創建年月詳ならす 境内に二間四方の大五輪塔あり 森山某の墓なりと言ひ伝ふと大洲旧記に見へたり」(伊豫温故録)
※真成寺は現存するのか?ひょっとしたら、この記載にある五輪塔は「馬場の五輪塔」と同一のものを指すのではないか?

正圓寺【伊予市上三谷1131】
・宗派:真言宗智山派
・山号:熊野山
・「左宇和島道 右さぬき道」と刻まれた文化2年(1805)の道標が建っている。

常願寺【伊予市稲荷849】
2002/9/8
・宗派:真言宗智山派
・山号:稲荷山
※「ふじの常願寺」で名高い。(とはいうものの、それほどたまげて藤の木が多いというわけでもない。)
 
子安観音
健治句碑
「谷上背に 瀬戸一望や 藤の寺」

上行寺【伊予市灘町210】

稱名寺(称名寺)【伊予市上吾川1418】
1998/9/14
・新四国曼陀羅霊場48番
・蒲冠者の旧跡。
・本尊:阿弥陀如来(春日基光の作)
・山号:臨江山
・院号:遍照院
・宗派:真言宗智山派(智積院の末寺)
・嘉祥3年(850)に宗貞により開基された。
・元々は上吾川松本の鷹爪にあったと伝えられる。
「稱名寺」(伊豫温故録)
 
庫裏・客殿・鐘楼堂
・平成17年(2005)4月3日落慶
称名寺文書
・市指定有形文化財
水琴窟
夏目漱石句碑
花まつり・5月上旬
称名寺88ヶ所霊場めぐり

善覚寺【伊予市上三谷2577】

善正寺【伊予市大平甲531】

・宗派:真言宗智山派
・山号:法林山

増福寺(増幅禅寺)【伊予市湊町394】
2003/8/21
・宗派:臨済宗妙心寺派
・山号:護国山
・本尊:如意輪観世音菩薩
・大洲藩6代藩主の加藤泰■(みち)が開基した。
■増福寺沿革
「護国山増福膳寺は正徳5年開山 桂峯 宣益禅師を勧請し大洲藩長隠居寺潮音堂として信仰を集め 延享4年見山勧兵衛慰創建により増福寺を開基、昭和13年第10世禅恕和尚大禅師により再中興され、近隣にない風格ある禅寺として仏法興隆に寄与しております。

1.本尊 如意輪観音菩薩
 如意輪観音は世間の財宝 出世間の財を満足さす功徳ある菩薩である。世間の財とは、金銀・不動産等の宝、出世間の財とは福徳智慧の財を指している。手に如意、宝珠と宝輪を持っているため如意輪と呼ばれている。
宝珠は人々の願いを満足させ、宝輪は仏教で真理を象徴し、煩悩を破砕する戒めをもっている。日本では天平時代(8世紀)前から信仰されている。
1.大本山は京都市右京区花園妙心寺町64番地
1.大本山妙心寺は釈尊より第28代の達摩大師、臨済禅師、無相大師が花園天皇の勅請によって開創されて現在に至っている。
1.教義
禅宗は釈尊の悟を人から人に、悟を心から心に、無我無心を求め真実の悟で人間の生きる力を育てる。
1.報恩・報徳の精神を行し社会を心の花園を念じてなごやかに生きて行く。

史蹟
1.岡文四郎の墓−郡中港の開港者
1.藤井道一(どういつ)(号 淡村)
漢学者であり、漢方医 大洲藩医目付けだった。
京都 藤原一族の出身とも 山口県萩の出身とも言われている。
萩から船で京都、大阪方面に向かう途中 嵐を避けて中島にとどまったとき、地元の民に医療を施したことからこの地に留まり、やがて現在の郡中町に移り来たと言われている。伊予市湊町増幅寺に墓がある。墓石の碑文にみられるように名字帯刀を許されていた。明治維新の時の志士や文志達と交流があったらしく、頼山陽、高野長英、大村益次郎(村田蔵六)らとの交流を示す資料が残されている。
NHKの大河ドラマ「花神」の中に名前が出てきて一躍有名になったが当時の漢学の里大分県日田市の「淡窓塾」との関わりについては未調査であるが、号を「淡村」としていたことや「淡窓塾」が投じ、子供達がオランダ医学を学ぶ為に長崎に出た通り道にあった事等から何等かの関わりがあったのではないかと推測される。大阪の「通塾」の門下生の中には藤井一族の名前はない。
 第二次大戦後、東京大学から日本医学史編纂のために電話にて問い合わせ有り。その時、「ふじいどういち」と言われたため電話を受けた藤井興三は「ふじいどういつ」は当家で道に独逸の逸の字ではないかと思う。だが「ふじいどういち」は知らないと答えた事があった。後日、興三は小さい頃から「どういつ、どういつ」と聞かされていたので「道一」と書いて「どういつ」と読ませていたことを知らなかったとよく懐述していた。この為かどうか「日刊愛媛」に連載された「医者の墓」には「道逸」の字が使われていた。


 
藤井道一の墓
・山門を入って右側にある。
藤井道一は、大洲藩の蘭法医・鎌田正澄の門人で、大洲藩の御目付医者として郡中に在勤した。
・嘉永6年(1853年)、蘭法医・村田蔵六大村益次郎)を家に泊め、宇和島まで道案内をしたという。
岡文四郎「功岩自徳居士」墓碑
岡文四郎は萬安港を築いた人物。

大門寺【伊予市森】
・臨済宗妙心寺派に属したが、明治の初年に廃寺となった。
・明治11年(1878)に如法寺の住職が政府から買い戻して寺を再建した。
・戦後、住職不在となり、今は寺守りが管理している。
 
西国33観音像
・寺の裏山には祀られている。
・明治の初めに作られたもの。

長泉寺【伊予市宮下1563】

・宗派:真言宗智山派
・山号:醫王山
・本尊:十一面観音(行基作と伝えられる)
・本堂には昭和55年(1980)に発掘された猪之窪古墳の人骨2体が安置されている。
 
後藤又兵衛供養塔
後藤又兵衛基次公菩提所
・市指定文化財
層塔
・文永11年(1265)に願主日運(日通)が造立した五層の層塔。

傳宗寺【伊予市下三谷860】
・宗派:真言宗智山派
・山号:天瑞山
薬師堂
・伊予市指定文化財
大般若経
・伊予市指定文化財

入仏寺【伊予市八倉610】
1996/11/27
・山号:林光山
・宗派:真言宗智山派
入仏寺発祥地石塔
・農免道路沿い、入仏寺上り口のところに建っている。

福田寺(ふくでんじ)【伊予市上吾川878】
2002/9/8
・山号:興徳山
・宗派:臨済宗妙心寺派
・本尊:釈迦牟尼仏、観世音菩薩
・谷上山道の登り口、左手山麓にある。
・寛文7年(1667)法雲律師が、上吾川市の坪より現在地に移転し、大洲如法寺の開祖・盤珪禪師を迎えて、福田寺開祖とした。(大洲第二代藩主・加藤泰興によって創建された。)
・天明5年(1785)に第8世梅岫和尚が再建したものが、現在の本堂、庫裡、山門である。境内には宝篋印塔があり、山門前には聖徳太子を祭る太子堂や、茅ぶきの通玄庵がある。
・本堂前の石庭は、京都龍安寺の石庭を模して造られた。大小15石が庭のどの方向から眺めても、14石にしか見えないようになっている。
 
本堂
・国登録有形文化財(平成17年(2005)指定) 
・1781年に建てられたもの。
・方丈型本堂の典型的な例である。
c.f.「登録有形文化財 遠登志橋(新居浜)と福田寺(伊予市) 文化審 県内は4件答申」、愛媛新聞、平成17年9月7日
通玄庵
・国登録有形文化財(平成17年(2005)指定) 
・江戸時代後期に建造されたという。
・隠居した僧侶の住居として使用された。
・四方蓋造り(萱葺き屋根の四方に瓦葺きの下屋(げや)が回る形式)。四国の農家で多く見られる。
c.f.「登録有形文化財 遠登志橋(新居浜)と福田寺(伊予市) 文化審 県内は4件答申」、愛媛新聞、平成17年9月7日
山門
・国登録有形文化財(平成17年(2005)指定) 
・1822年に建造。
・総欅材の切り妻造り。本瓦葺。
c.f.「登録有形文化財 遠登志橋(新居浜)と福田寺(伊予市) 文化審 県内は4件答申」、愛媛新聞、平成17年9月7日

仏乗寺【伊予市】

豊圓寺【伊予市下吾川1963】

宝珠寺(ほうしゅうじ、ほうじゅじ)【伊予市上吾川1419】
2001/7/8
・山号:谷上山
・院号:慈悲院
・宗派:真言宗智山派
・京都智積院(ちしゃくいん)の末寺
・「道前道後十観音霊場めぐり」巡礼の札所
・西国三十三観音
・本尊は千手観音
・674年(天武天皇2年)、当時の当国国司であった越智有興が創建したと伝えられ、今までに4回の大造営がなされている。(聖徳太子の開山とも伝えられる。)
・予陽郡郷俚諺集には「谷上山慈悲院宝珠寺、自然出現の千手観音、白鳳二年従五位上越智有興建立という、此観音瑞験新たなる事尊敬し奉るべし」とある。
・宝物として、大森彦七が奉納した甲冑がある。
「谷上山寶珠寺」(伊豫温故録)
 
弘法大師1150年御遠忌供養塔
子育・水子地蔵
千手観音(千手千眼観自在菩薩)立像
・伊予市指定文化財(昭和39年(1964)指定)
・高さ 1.7mの立像。藤原時代(784〜1191)の仏像彫刻。
本堂
・伊予市指定文化財
・明治38年(1905)本堂を大改築した。
薬師堂
絵馬堂
護摩堂
大師堂
通夜堂
庫裡(蓮浄院)
鐘楼
一の門
二の門
仁王門
・寺宝には大森彦七の甲などが納められているという。

法昌寺【伊予市灘町6丁目】

・山号:海岸山
・宗派:真言宗醍醐派醍醐寺の末寺
・永禄3年(1560)快忍阿闍梨(あじゃり)の開山と云われる。
・寛政12年(1800)刊の「御替地古今集」によると、境内に金比羅宮、住吉宮、大師堂があったと記される。
・天神社、住吉神社は明治の代に五色浜に移されて五色浜神社となった。
庚申堂とも云われ、本尊は青面金剛であったが、大正4年(1915)温泉郡福見山文寿院が放火のため焼失し、住職宗忍法師が幸いに焼失を免れた51番奥の院福見山十一面観世音菩薩をここへ合併し、山号を改めて福見山法昌寺と号した。
・伊予郡内の安泰の祈願所とされ、雨乞いのときは本尊青面金剛を青い布で巻いて、あたかも仏を水の中に入れた形として祈願した。
 
常夜燈
文化年間(1804〜1818)のもの。
金比羅宮
昭和10年(1935)頃、今出方面から移されたという古い拝殿がある。
胡瓜封じ
・福見山から伝わったと云われ、弘法大師直伝と伝えられる。
・参詣人は土用の丑の日に願い事、病気の平癒を祈った人形の紙と共に胡瓜を持参する。
・寺では20cmぐらいの独特の独こう(鉄棒)で穴を開けて、それに願い事を書いた人形の紙を入れて祈念し、次に封じ曼陀羅を入れて封じ込める。そして境内の中の穴を掘った所へ寺の住職が祈念して埋め土をかける。これが腐ったら願い事が叶い病気が治るという。

法寿院【伊予市中村】
2001/9/16
・山号:鹿島山
・宗派:真言宗智山派
・本尊:千手観音
・鹿島城の辰己の方角に当たる。
・この近くに矢の窪というところがあり、矢の根を多く掘り出した。

本願寺【伊予市上野2754】
1996/11/27
・宗派:真言宗智山派
・山号:安養山
 
四国三十三所設立の碑


神社


伊曽野神社【伊予市宮下1971/2007(字北谷)】

・延喜式内社。
・前方後円墳が存在する。
・昔神功皇后が九州へ向う途中船が進まなくなったので、祭壇を作って神を祭ったところ、船は再び進みだしたため、この地に祠を建てて海上守護神にしたと言われる。
・境内には本殿、中殿のほか厳島神社など6社の社殿がある。
・この地域は吹上の森と呼ばれ、森一帯は古墳地帯となっている。

・創祀年月不詳。


延慶四年(1311)頃には、社号を吹上大明神(吹揚大明神)と称していたという。
・享保九年に社号を旧号に戻し、現在に伊曾能神社となった。
 
鳥居
社号碑
境内社:宇佐八幡神社
境内社:稲荷神社
境内社:多賀神社
境内社:新三郎神社
・祭神:新三郎
・拝殿右側に鎮座している。
・この神社は、当初、上三谷村(現伊予市)平松に鎮座していた。
應永の頃、新三郎というものが、現在地に背負って遷座したという。
平松には、当社の末社・一宮神社があるらしい。
「新三郎神社一千年祭」碑
境内社:猿田彦神社
境内社:天神社
境内社:厳島神社
境内社:吹揚神社
・明治に合祀された、和霊神社・岡崎神社・高殿神社・應神社・今岡神社・厳島神社・旗立神社・一宮神社が祀られている。
境内社:奈良原神社

伊豫神社【伊予市上野】

・延喜式内社
・旧村社
・祭神:月夜見尊 愛比賣命 神八井耳命 速後上命
・創祀年月は不詳。
・社伝では、太古、神戸郷御谷山に、大山積神によって、天御中主神を祀る古社があり、後に国造によって、山の麓、朝日の面に天照大神を祀り、夕日の面に、月夜見尊を祀ったのが、弥邑神(伊予村神)の創祀という。
 
磐神
・明治43年に境外末社・祇園社を合祀した時に、祇園社の境内から遷したもの。同時に石机(ドルメン)も遷したが、その石は本殿の礎になったらしい。
鳥居
境内社・八大龍王社

伊予岡八幡宮【伊予市上吾川508】

・電話:089-982-2858,983-2820
・交通:伊予鉄郡中線郡中港駅下車
伊予市八景(市制40周年記念選定)「伊予岡八幡神社」
・祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
・平安前期の貞観元年(859)の創建と伝えられる。
・宇佐八幡宮の分霊を山城国に迎えるため航行中、伊予岡の辺りが明るく光るのが見えた。これは神託に違いないと、この岡に社殿を建てた。
・大洲藩主・加藤家の祈願所であり、貞享4年(1687)、元禄8年(1695)に加藤氏が寄せた鷹絵が残る。

「伊豫国八幡神社」(伊豫温故録)
 
楼門
・嘉永2年(1849)建造。
拝殿
・元禄7年(1694)建造。
伊予岡古墳
・県指定文化財(史跡)
・伊予津彦(伊予地方の豪族)の子孫の墓と推測される。
・円墳8基、前方後円墳2基から成る群集古墳。
月陵
・前方後円墳
日露戦争絵馬
・伊予市指定文化財
・明治39年(1906)5月、日露戦争から帰還した氏子23名により奉納された。
・絵馬には負傷したロシア兵を介抱する日本兵(赤十字の腕章をつけた救護兵)の姿が描かれており、敵味方を超えた博愛精神が評価されている。
・平成9年(1997)4月、奈良県の元興寺文化財研究所で修復処置を行った。
叢の植物
マツ、ホルトノキ、タブ、クス、クロガネモチ、カクレミノ、カゴノキ、
ヒメユズリハ、ツブラジイ.....
境内社:上川神社【境内末社】
神名石
・旧松山藩の学者で、正岡子規の書道の師・武知五友の書。
・「山静似太古」(山静かにして太古に似たり)、「日長如小年」(日長くして小年の如し)と刻まれている。
境内社:高良神社
境内社:五穀神社
境内社:八ヶ森神社

正一位伊豫稲荷神社【伊予市稲荷1230】
1996/2/18、1999/1/3、2000/11/5
・電話:089-982-0888
・新四国曼陀羅霊場49番霊場
伊予市八景(市制40周年記念選定) 「稲荷神社と西権現山」
・交通:伊予鉄郡中港駅下車
・ご利益:商売繁盛、厄除け
・祭神:宇迦之御魂神、邇々芸命、伊弉冊命、菊理比賣命、大宮能売命
伊予七福神:恵比寿神(航海・漁業・商売の神)
 恵比寿神の功徳は商売繁盛、大漁。商売や事業を拡大、繁栄へと導く。
・弘仁年間(810〜824)山城国、伏見稲荷大社から御分霊を勧請した。後に伊予の総鎮守となり、社前に十二僧坊を興して栄えた。河野氏一族の信仰を集め、享保2年に皇室より正一位のご神位が贈られ、又、大洲藩藩主加藤公の祈願所となされる程、伏見大社と共に神威を高揚した。
・真言:なむえびすたいじん

「稲荷神社 稲荷村字地中に在り 古社なれども伝記はらず 享和二年正一位勅許ありと云ふ」(伊豫温故録)
 
初午祭(はつうまさい)
・3/4に行われる。
・豊作豊収を祈る。
楼門
亀石
夜泣き石
(日本「神話・伝説」総覧、pp.342参照)
ふじ
「正一位稲荷神社」碑
・明治30年1月建立
境内社:御山鎮座 久美社・命婦社
・金毛九尾狐霊を祀る。
分社
 マルトモ分社
 ヤマキ分社
 鳥の木バザール分社
 真砂家分社

宇佐八幡宮【伊予市下吾川】
2003/8/21
下吾川児童遊園地

大鷦鷯神社【伊予市大平】
2002/9/8
廃高神社

おさん狸大明神
2003/8/21
・銀杏通り町内会の奉献した赤い幟が1本、小祠の右側に立っている。
・赤鳥居。
・傍らには、「狸名は おさんと呼ばれ 月おぼろ  一貴」の句碑がある。
・小社の左側には往古を偲ばせる銀杏の木が1本。

金子天神社【伊予市米湊】
「金子天神社 米湊村字七反に在り 菅公の霊を祭る 大洲旧記に云 菅公植へ給ふと言ひ伝ふる松あり 七抱半あるなり」(伊豫温故録)

鎌倉神社【伊予市上吾川】

・称名寺山門手前からやや東に入った松林の中にある。
・通称「鎌倉さん」と呼ばれる。
源範頼(みなもとののりより)は、兄の頼朝と不仲になり、建久4年(1193)、伊豆の修善寺(しゅぜんじ)で梶原景時に殺害されたというのが一般説だが、密かに難を逃れ、伊予の河野通俊を頼ってこの地に落ち延びたという伝承が残っている。
鎌倉神社 上吾川村字十合に有り 源範頼を祭る 創建年月詳ならず」(伊豫温故録)
 
夏目漱石句碑
源範頼の墓
・墓石には「蒲冠者範頼公墓」と彫られている。
「蒲冠者三河守源範頼墓 」(伊豫温故録)
臣下の墓
・池のほとりに立ち並ぶ十数基の五輪塔は臣下の墓といわれる。

水之明神社【伊予市三秋】

・文化8年(1811)に正一位の神階を授けられた。
・明治43年(1910)に、明神山の頂上から現在地に移された。明神山は、降雨の霊験が高いことで有名であった。藩政時代には祈雨の神として大洲藩主・加藤候をはじめ伊予、浮穴、喜多郡の3町40ヶ村の祈願所となっていた。

五色浜神社【伊予市灘町】

・「萬延元年庚申正月十月...」
・「この地には、稲荷新社の末社があったといわれる。明治4年(1871)灘町から「住吉社」を遷し、明治42年(1909)に天神社を合わせて五色浜神社と改称した。拝殿正面には、明治の元勲伊藤博文の筆にかかる「五色神社」及び「天神社」の額がかかっている。祭神は、航海安全の神である住吉三神〜上筒男命、中筒男命、底筒男命〜及び武勇の神息長帯姫命と学問の神菅原道真である。住吉祭は当地方最大の祭りで賑わう。」との説明書きがある。
 
ねがい石
・境内には多数の末社がある。その一番北端になにやら謂れが記された碑が建っている。
五色浜には「海に身を投げ五色の石になってしまった」という平家の五人の姫達の話が伝えられています。
土地の人々は、五色の石を手にして悲しみにうちひしがれ、石になってしまった五色の姫達が生き返ってくれることを、日々願いました。
人々の涙が数滴五色の石にふりそそぐと不思議なことに海のかなたから、五色姫達が再びよみがえり、土地の人々と幸せに暮らしました。
それ以来、「五色の石に願い事をするとかなえられる」と言う言い伝えが広まり、祈願成就の「ねがい石」として現代に伝承されています。
ねがい石は特に五のつく日と神社祭事日に五色姫神社へ奉納し願い事をするとかなえられます。
※「なるほど、五色姫は入水自殺で死んでしまったものだとばかり思っていたら、このような復活譚も残っているのだな...」と感心してしまう。

金毘羅神社【伊予市八倉】

坂本日吉神社【伊予市八倉】
1998/9/20
・祭神:大山積神、大国主命ほか25座。
・明治42年(1909)八倉内の若宮、伊予夷子、重松、八重谷の各社を境内末社として合祀した。
・此の地には、神崎郷の一の宮である大山津見大明神があったが、弘仁10年(819)近江国(滋賀県)の坂本に鎮座する日吉神社の山王大権現を分霊して合祀した。
《社伝》
・延元1年(1336)南北朝対立の時、伊予の豪族得能通綱父子3人が比叡山で天皇を護ったが、その時日吉山王に祈って勝利を得たので、通綱の孫の通政が祖父の意志を継ぎ、山王七座をこの地に迎えた。

清神社【伊予市両沢】
2002/9/8

住吉神社【伊予市】

手間天神宮【伊予市上野】

中御前神社【伊予市下唐川】

新田大明神【伊予市大平】
脇屋義治は強くて立派な侍であったが、戦いに敗れ、病気にかかり、死ぬ前に方々に兜や弓矢を埋めた。
・兜を埋めたところが「兜谷」、小手を埋めたところが「小手谷」、弓矢を捨てたところが「弓矢ヶ淵」と言い伝えられている。

・「新田神社 大平村字四ツ松に在り 社伝に云ふ 新田義治の霊を祭る 義治脇屋義助の子にして 南朝長慶天皇建徳元年信濃国に匿れ それより伊予国に来り 同年六月十三日 当村に於て痢疾にかかり卒去す 時に十五歳 死に臨み弓矢を流し 甲冑を埋めしむ 故に甲冑谷 籠手谷 弓矢ヶ淵等の名残れり…」(伊豫温故録)
埜中神社【伊予市下三谷】
2005/4/9
クスノキ
獅子舞
・平成9年(1997)に復活。

濱出稲荷神社【伊予市上唐川】
2002/9/8
「上唐川村字本谷にあり 社記に云ふ 神功皇后征韓の時当国の海浜に出現あり 後ち此地に鎮座す 伊予守源頼義当社を繕治せり 其の後焼失せしか 左大臣倉橋麻呂二十代の正統阿部安義寿永の乱に当国に下向 栗田村翁山にて老翁の詞を聞き文治元年遂に是れを再建し今の社号を付す 後ち河野家より神領を寄附す 白滝城主中村主殿正武功の人にして大に崇敬を致す 境内に宝剣殿あり 是れは大森彦七監売より求めたる名剣を納めたり 又た玉石殿あり 是れは中村主殿正応安元年芸州宮島へ出陣 大に勝利を得帰途玉石を海中に得て兜の中に入れて持帰り此社に奉納せり 又た応永年中千里城に三足の化生出つ 当社神主倉橋大夫神前にて鳴弦執行し化物退散すといふ」(伊豫温故録)
 
句碑
大柏
※大樹の幹は境内地より森川に向けて大きくせり出している。よくもまあ倒れないもんだと感心する程に。

廣田神社【伊予市下三谷】
2005/4/9
境内社:冨田神社
※拝殿前に古めかしい石灯篭有り。(2005/4/9)
境内社:石鎚神社伊予遥拝所
 設立70周年記念之碑
 創立80周年記念之碑
境内社:青木神社/尊霊神社
境内末社:生目八幡宮
境内末社:庚申社
境内末社:岩崎神社
境内末社:八重神社
境内末社:高守神社
境内末社:青麻三光神社
境内末社:(名称不詳、2基)
獅子舞
・平成12年(2000)に13年振りに復活。
・古くから、満24歳になる青年が主世話(おもせわ)と呼ばれる役に就いて獅子舞を仕切っていたが、若者が少なくなって1987年以来獅子舞は途絶えていた。

三谷神社【伊予市上三谷】

雲居禅師生誕地から道路へ出て、客池のほとりの道を約200mばかり東へ進むと、三谷神社の鳥居と石段がある。
・参道の両側は林となっており、風格ある社殿が見える。この社は明治43年(1910)に上三谷部落に村社中御前五社大明神社若皇神社と無格社金刀比羅神社の三社を合祀した。従って祭神は天御中主尊、天照大御神ほか10神となっている。

湊神社【伊予市米湊】
2003/8/21
一字一石塔
まっこう鯨が泳ぐ。なぜか郡中沖に住みついた明治42年早春である。どこかに姿を消してほしいと漁民は願う。捕鯨の経験を持たぬ湊町漁民の素朴な願いがあった。

大鯨は姿を消さぬ。しびれをきらした湊町漁民はついに捕鯨に立ち上がる。大網を使った捕鯨作戦も見事に失敗した。網などで獲れる相手ではない。協議の末、浜代表は馬開捕鯨会社(下関市)に応援を求めた。
砲主は数々の道具を携えて湊町に来る捕鯨作戦は3月21日午前8時8■に50人が乗り込むこととなる。
3月21日早朝、法螺貝の合図と共に出動する。森沖に姿を見せる大鯨に、砲主の目が光り、若者50人の血は騒ぐ。朝日に映えて鯨体は黒光に輝く。第一の砲声が郡中沖に鳴る。弾は鯨をかする。驚く鯨に追跡は続く。松前沖で第二の砲声が鳴る。命中と同時に鯨体が空中に舞う。50人のモリが鯨に集中し激砕の海に血潮は渦巻く。歓声は海陸呼応して四国に響いた。二頭の牛と数百人の力で恵美須の浜に引き揚げられた。臨時の鯨小屋がつくられて人々に見せた。見物人が恵美須の浜に群れた。明治43年3月、鯨を供養して碑が建てられる。克鯨一字一石塔。湊町浜浦の長い歴史の中で鯨との出合いはこのときが最初でありまた最後でもあった。
(語り伝える 鯨のはなし 今に残るよ 記念の塔が 白い波 白い波 文字のあと)

絵馬
@恵比寿大黒(昭和58年1月、総代一同)
A宝船(昭和48年7月)
Bまっこう鯨捕獲の図(昭和62年7月吉日、総代一同)
C昔伊予市湊町海岸浜■網引■大■(平成3年3月、加納甚五郎画、総代一同)

森天満宮【伊予市森】

山崎神社【伊予市】

若皇太神宮【伊予市】
2001/7/8
特筆すべき事項無し。
「若王大神社 上三谷村字大門に在り」(伊豫温故録)
 


お堂

大師堂【伊予市湊町】
1998/9/14




地蔵

火防地蔵尊【伊予市】
1998/9/14
・享保6年(1721)灘町5丁目の拾い上げの地に建立された。
明治42年(1909)現在地に迎えられ、翌3月遷座式が行われた。




谷上山【伊予市上吾川】
2001/7/8、2003/5/17
・標高 455.5m。
伊予市八景(市制40周年記念選定)
四国の自然100選(昭和61年選定)
・この公園は、皿ヶ嶺連峰県立自然公園(昭和42年指定)の一部をなしている。
谷上山公園
 第1展望台
 第2展望台
奥院夜光井 愛媛尊旧蹟 田道権現
・大正10年9月
夜光の池
正岡子規句碑

行道山【伊予市】
2001/7/8、2005/4/9
・標高 403m(三角点制覇済)
・頂上に八大龍王社の祠が有る。明治44年(1911)に祀られたという。
※手水石には「文政5年8月」と刻まれている。これはどこからか移されてきたということだろうか?いやいやそうではない。上記の「明治44年に祀られた」というのは、現祠のことであり、元々鎮座していたのだろう。
・現在は伊予神社(伊予市上野)の境内社「時雨神社」へと移されたという。
・南側一帯に弥生時代中期の遺跡がある。

 山の紹介本には未だかって登場したことがないのではなかろうか。
 「行道山」という名を聞いても「あぁアソコの山ね!」などと相槌が打てる愛媛県人は数少ないであろう。
 伊予市の、山裾に高速道が走っている小山、山頂稜線部に紅白の鉄塔が林立している東西に長い山、これが行道山である。
 しかし、そう馬鹿には出来ない山である。標高400m程度の低い山ではあるが、なかなか深い山である。
 四国高速道の伊予灘SAの南側より、車道を上りつめると、NHK行道山中継所の姿が見える。
 雨乞いの行場であったことに名を発するのであろう。
 NHK中継所の西側のピークに降雨の神様として八大龍王を祀った祠がある。御神体は麓の伊予神社(磯野神社?)へと移されたらしい。
  時間と体力が許すならば、尾根縦走を楽しむと良い。NHK中継所とEBC送信所の間には歩道らしきものが見当たらないが、互いの中継所のへと続く車道間は僅かな距離。林の中を成り行きで進めば、ものの5分とかからない。
  三角点を目指すならば、NHK中継所下の広場より、畑と杉林の境界に従って南へと上っていけばよい。但し、三角点のある場所からは四方とも眺望は開けていない。
 下山後は、伊予灘SAで小休止するとよい。眼前に広がる道後平野の風景を眺めながら…。四国各地の御土産モノを調達もできる。
 ちなみに行道山へは大谷池のほとりからも登ることができる。山頂付近までは未舗装ではあるが、農業用の車道が続いており、歩くには安心である。但し、車道の終点から三角点までの道は至って不明瞭である。確実に三角点まで辿りつきたいならば、今回紹介したコースを行くのが無難であろう。
 
八大龍王神社跡
NHK行道山中継所
EBC(テレビ愛媛)中継所
ITV(あいテレビ)/EAT(愛媛朝日テレビ)中継所
松山市消防局中継施設
天狗の話
※御幸寺山との往来の話
神様の投げ石の話
龍の話

障子山【伊予市/砥部町】
1999/10/16、2001/8/25
・標高 884.9m(三角点制覇済)
・皿ヶ嶺連峰県立自然公園
伊予市八景(市制40周年記念選定)「鵜の崎峠と障子山」
・別名、大戸山とも呼ばれる。

白滝山【伊予市/砥部町】

明神山【伊予市三秋】

伊予市八景(市制40周年記念選定)「三秋の大池と明神山」

西権現山【伊予市稲荷】
2000/11/5、2002/9/8
伊予市八景(市制40周年記念選定) 「稲荷神社と西権現山」
 
石鎚大権現


鉱山

川・渓谷

池・沼・湖
大谷池【伊予市上三谷】
2001/7/8、2002/9/8、2003/5/17
・皿ヶ嶺連峰県立自然公園
・えひめ自然100選
伊予市八景(市制40周年記念選定)「大谷池と森林公園」
・昭和7年、当時の南伊予村長武智惣五郎氏が年々起こる旱魃の対策として建設を思い立ち、14年の歳月をかけ、昭和20年3月に竣工した。
・池の面積約14ha、水深約25m、堰堤高約35m、干害防止面積約800haという全国屈指の大池である。
・カモなどの多くの野生生物の群生が憩う場所となっている。
 
武智惣三郎頌徳記念碑

三秋の大池【伊予市三秋】

伊予市八景(市制40周年記念選定)「三秋の大池と明神山」
・姥が谷大池とも呼ばれる。
・正保4年(1647)に築造された。
・昭和8年(1933)に改修がなされた。(堤高16.3m、堤長115m、貯水量380,000m3)




ダム



風景

伊予市八景
 
五色浜
鵜の崎峠と障子山
森の海岸としおさい公園
伊豫岡八幡神社
三秋の大池と明神山
谷上山
大谷池と森林公園
稲荷神社と西権現山


洞窟・鍾乳洞

樹木

稲荷神社の藤【伊予市稲荷】

・伊予市指定文化財天然記念物(昭和35年8月1日指定)
・根廻り1.6m、1.2mの2株から成る。
・のだふじの変種
・正徳年間(1711〜1725)頃、神主高市盛正の願により植えられた。

西願寺のソテツ【伊予市三秋 西願寺】

ソテツ【伊予市大平梶畑】
2001/1/28
・県指定天然記念物
・梶畑集会所の上側の公園敷地内にある。
・根廻り9m、樹高10mの巨樹であったが、台風の影響か、その雄姿は今では過去のものとなっている。しかし、死んではいないのが唯一の救いである。







鵜の崎峠【伊予市/砥部町】
1997/5/11、2002/9/8
伊予市八景(市制40周年記念選定)「鵜の崎峠と障子山」
 
鵜ノ崎峠化石層地帯

砥畦峠【伊予市/砥部町】


正岡子規句碑【谷上山宝珠寺山門前】
『夏川を 二つ渡りて 田神山』
・昭和50年(1975)8月、前伊予市長玉本善三郎夫妻により建立。
・高さ3mの柱状の安山岩。
・昔1890年(明治23年)の夏、子規が松山に帰省しているとき、田舎の友(永田村=現在の松前町に住んでいた武市庫太)を訪ねた際の景色を思い出して詠んだ句。
・『夏川』というのは通説では石手川重信川と解するが、一説では天山近くの内川吉木川とも言われる。

正岡子規句碑【四国縦貫道 伊予灘SA】
「夏の月 提灯多き ちまた哉」
「石手寺へ まはれば春の 日暮れたり」

しぐれ塚(芭蕉句碑)【五色浜神社鳥居前】
『介ふ者(ば)かり ひともとしよ礼(れ) 者(は)つ志(し)く連(れ)』
( 今日ばかり 人も年寄れ 初時雨 )
・句意は「今日ばかりは若い人達もみんなが老人の様な気持ちになり、時雨の風情を味わって欲しい」。
・元禄5年(1692)10月3日の連歌の会にて、芭蕉が会場に着いたとき、折から初時雨が降って来たのを詠んだ句。
・芭蕉170回忌である文久3年(1862)郡中地方の俳人の建立と推測される。

夏目漱石句碑【称名寺奥庭】
『木枯や 冠者の墓撲つ 松落葉』

夏目漱石句碑【鎌倉神社】
『蒲殿の いよいよ悲し 枯尾花』

大谷ます子歌碑【伊予市上三谷 大谷池】
『山青く 水清らかに 風渡る 大谷は 心のふる里』

西野池跡の碑【伊予市】

圃場整備記念碑【伊予市上三谷】
2002/4/30
・県道219号線(砥部伊予松山線)沿いにある。
・昭和63年10月建立。
・塩塚古墳、遊塚古墳、五輪塔(塩塚2号古墳)など圃場整備により消失した古墳群に関する由緒説明の碑が併設されている。
 
由緒沿革 

塩塚古墳
・旧所在地 上三谷塩塚甲3010-3 
・七世紀初頭に築造された当地の首長墓である。古墳の主軸が真北を指す長方墳であり、横穴式石室墳である。巨大な一枚石は高さ2.33m、幅1.91m、厚さ0.52mを立てて奥壁(鏡石)としていた。周溝は5.5mと幅広く深いものである。出土品として太刀と四神四獣鏡等があるが、この時期鏡が出ること自体が非常に貴重である。 

遊塚古墳
・旧所在地:上三谷遊塚2791-1 
・6世紀後期の首長墓である。前方部が北西を示す前方後円墳で、その他4箇所の古墳が点在していた。弥生時代中期の土器片や石器等が出土しているので、この付近一帯に弥生時代の集落があった事を裏付けるものである。 

五輪塔(塩塚2号古墳)
・旧所在地 上三谷塩塚甲2996 
・五輪さんと呼ばれていたが、発掘調査の結果塩塚2号古墳が埋蔵されていた。6世紀末の首長墓である。古墳の主軸が真北を指す長方墳である。周溝は5.5mと広く深いものであり、墳丘に外護列石を伴っており、出土した馬装具などはかなり豪勢なものである。 

その他五輪塔等
 整備した区域内に点在していた五輪塔の残欠を集積したものである。 

右古墳群を圃場整備に伴い発掘調査したためこの地に併合合祀した。この伊予三谷の先人霊を地主神として永久に祭るものとする。 
   平成2年10月吉日 
    上三谷薄井工区圃場整備組合 
    上三谷原団体営圃場整備組合

大谷池記念碑【伊予市上三谷】

「郡中中学校跡」碑【伊予市米湊】
2003/8/16
・校歌
1.谷上の峰の朝ぼらけ
 晴朗の気は みなぎりて
 松に千歳の響きあり
 いざや我等 高くかざさん
 自主の光 ゆるぎもあらす
2.伊豫の広野のかげろえば
 地にらんまんの花ひらき
 空によびこう あけびはり
 いざや共に 手を取りゆかん
 希望の丘 足音高く
3.瀬戸の八潮路 色映えて
 島山遠く風かおる
 調べも深き五色灘
 いざら我等 共にこぎでん
 自由の天地 血潮はたぎる


公園

えひめ森林公園【伊予市上三谷】
2001/7/8、2002/4/30,9/8、 2003/5/17、
伊予市八景(市制40周年記念選定)「大谷池と森林公園」
行ってみよう!えひめ感動の地20選
・皿ヶ嶺連峰県立自然公園
・電話: 089-983-3069(えひめ森林公園管理事務所)

(えひめ森林公園 遊歩道案内マップ、愛媛県)
(えひめ森林公園 遊歩道案内図)
 
大谷池
谷上山
フィールドアスレチックコース
・利用可能時間:9:00〜17:00
・休所日:12/28〜1/4を除き無休
・利用料:無料
・駐車料:無料
学習コース
らくらくコース
探鳥コース
渓谷探訪コース
たんれんコース
句碑巡りコース
1 銀杏ちる深空あをあを澄みまさり 五十崎古郷
2 赤椿さいてもさいても一重哉 正岡子規
3 思ひ出は悲しい熟柿おちてつぶれた 種田山頭火
4 あをぎりの一群落を見つつゆく 酒井黙禅
5 月待つと赤松山をさまよいぬ 石田波郷
6 山茶花に夜降る音は霰かな 松根東洋城
7 さやに咲く芙蓉の朝はたふとかり 五十崎古郷
8 桐一葉おのれの影にかぶさりぬ 芝不器男
9 夏木立栗の花散る笠の上 森田雷死久
10 夾竹桃赤いものを振り捨てんとす 河東碧梧桐
11 かたまりて紅紫や花ずおう 酒井黙禅
12 連翹に見えて居るなり隠れんぼ 高浜虚子
13 木蓮や闇より開き月の夜々 鬼子坊
14 えごの花一切放下なし得るや 石田波郷
15 白芙蓉残んの月の涼しさよ 村上霽月
16 橡の花見つけつつゆくたのしみある道 篠原梵
17 卯の花の曉寒し二十日月 村上霽月
18 道がなくなり萩さいてゐる 種田山頭火
19 紫陽花はおもたからずや水の上 富田赤黄男
20 山梔子の一花開き匂ひかな 酒井黙禅
21 時鳥槐の花のこぼれけり 村上霽月
22 若竹に降り過ぐる雨や小石ほど 松根東洋城
23 春かぜの杉むらゆすりさわたれば
しずくするごと杉の花落つ
長塚節
24 錦木の芽に降る春の小雨かな 森田雷死久
25 咲き満ちてこぼるる花もなかりけり 高浜虚子
26 青き中に五月つつじの盛り哉 正岡子規
27 ほろほろと椿こぼるる彼岸かな 正岡子規
28 焼山に松苗植うる彼岸かな 鬼子坊
29 茶の花は雄薬の奢日は沈む 中村草田男
30 ひそと青し檪林にあそぶ子は 石田波郷
31 一弁散り一弁朴のほぐれゆく 河東碧梧桐
32 花馬酔木揺れやむときのうすみどり 芝不器男
33 窓にふれアカシアの花露を残す 篠原梵
34 馬酔木折って髪に翳せば昔めき 正岡子規
35 木犀の香に惜みてもあまりあり 篠原梵
36 世の中やひとり花咲く百日紅 正岡子規
37 わが旅の紅葉いよいよ濃かりけり 高浜年尾
38 萩をでてまた萩に入る小徑かな 柳原極堂
39 花ざかり梢にさそう風なくて
のどかに散らす春にあはばや
西行
40 折り持てる山吹雪にしなひをり 高浜虚子
野鳥の森
生産の森
山菜の森
きのこの森
昆虫の森
せせらぎの森
木漏れ陽の森

五色浜公園(五色姫海浜公園)」【伊予市灘町】
1994/7/1、2001/9/16
伊予市八景(市制40周年記念選定)「五色浜」
魚付林の歌碑
五色浜公園の入口、彩浜館駐車場の脇に建つ。
彩浜館【伊予市灘町311番地】
・彩浜館は、明治27年(1894)に郡中町の有志により集会所として建てられた。
・木造寄棟造り。
・日露戦争時には、松山に収容されていたロシア人捕虜将校を接待した。
・明治42年(1909)には、伊藤博文が来遊している。
・平成元年(1989)に改築。

(伊豫市彩浜館 ご利用の手引き、伊豫市)

さざえ堀
・文化9年(1812)、大洲藩がこの地に萬安港を築いたとき、螺旋階段のように石を積み、砂をもりあげて作った井戸である。井戸の水は、港の海水の動きとともに上下するので、これによって潮の満ち干を知ることができた。形がさざえに似ているので、こう名づけられた。かっては、この井戸に鯛を飼っていたことがある。
五色浜神社
しぐれ塚(芭蕉句碑)
陶惟貞翁碑名
・五色浜神社鳥居前。
・漢学者陶惟貞(すえいてい)の碑。
・明治31年3月建立。
藤谷豊城翁胸像
・五色浜神社鳥居前にある胸像。
・秋山好古書。
・昭和48年3月建立。
藤谷豊城は、元郡中町長。
郡中町創業の碑・五色浜神社鳥居前
十日戎開祖の碑
・五色浜神社鳥居前
・「津田七衛(?)」と刻んでいる。
・建立年月日は「萬延元年庚申正月十日」と刻んでいる。
山田十雨句碑
・五色浜神社社殿東側
岡文四郎の碑
・五色浜神社社殿東側
水道記念碑
・五色浜神社社殿東側
伊豫市商店街開町350周年記念碑・五色浜神社社殿東側
・伊予商工会議所会頭 城戸恒
「開町350周年記念タイムカプセル埋没地」の碑
・五色浜神社社殿東側
・「埋設:1986年11月3日、開封:2036年11月3日」と記している。
「伊予市八景 五色浜」の標柱
・五色浜神社社殿東側
・平成8年4月建立
漢学者鷲野南村の碑
粥喰山(かいくいやま)
萬安港(伊豫港)の西、波うちぎわの砂を盛りあげ、港口に寄せる砂を防ぐために文久元年(1861)に築いた人工山。
・大洲藩の工事で、貧しい人の救済事業もかねて 1日交代で灘町、湊町、三島町から毎日300人が出て働き、約90日で完成した。
・昼食は、米・麦・粟・小豆などをまぜた粥とみそ汁であったので、人びとはこの山を「かいくいさん」と呼んだ。
・以後、工事が二回行われた。
粥喰山山頂には忠魂碑がある。
旧燈台
・説明書きには
「江戸時代に築かれた萬安港(ばんあんこう)は、砂や小石で港が浅くなって商船や漁船の出入りが困難となった。
 そこで明治2年(1869)に、長さ約70mの石崖(いしがき)を築き、その先端にこれまで木造であった燈台を石造に改めた。燈台の側面には、石に刻んだ文が残っており、この燈台によって破船のおそれがなくなったと記している。
 燈火は初め種油であったが、後に石油・電燈に変わり、昭和33年に新燈台ができてからは点燈していない。」
と記されている。
・「石工:河野為吉郎」の文字が刻んである。この他にも多くの文字が記されているのだが、風化してきており、判読が困難となりつつある。
・この燈台は当初、石崖の先端にあったが、大正元年(1912)に現在の場所に移された。
・萬安港は、文化9年(1812)から24年にわたって郡中代官所手代・岡文四郎らが築き上げた大洲藩の物産積出港である。後には郡中港と呼ばれた。
伊予商工会議所創立50周年記念美術陶板・「伊予商工会議所創立50周年に際し、記念事業の一環として伊予市内の各児童生徒達に未来の伊予市をテーマに作画依頼し、より優れた作品をここに美術陶板におきかえたものです」と記されている。
・谷上山にもこの手の陶板があったはずだが、五色浜のものは南山崎小学校4年生による「ぼくたちの五色姫海浜公園」という作品。
伊予港竣工記念碑
・県知事久松定武の書。
・昭和33年11月建立。
・碑の裏面には「伊豫港は道後平野の西方伊豫灘の要衝に位し内外の両港に分る 内港は天保六年大洲藩士岡文四郎の築く所にして今を距る 正に百二十三年なり 當時万安港と呼び後郡中港と稱す 爾来船舶の出入物資の集散殷賑(いんしん)を極め為に数次の修補を施ししが猶用を充すに足らず 是に於てか外港築造の議大に興る 郡中町長木村太郎外郷党有志を一にし力を協せ盡瘁最も努む 國縣當局亦之を容れ昭和十二年豫算六十三万円五年間の継續事業とし縣営を以て外港の築造に着手す 然るに拾も太平洋戦に際會し同三十三年を以て漸く完成す 港域五万坏 其始まり年を閲する 正に二十二呈露工費現貸六億円の巨額に達す 我が伊豫市の隆昌期して俟つべきなり 依て市名に因み伊豫港と改稱す 惟ふに余や乏しきを市長の任に受け僅に前蹤を趁ふに過ぎずして此度に接す 國縣の賛褒先人の偉績市民の協力に對し景仰感激の念轉切なるものあり 嗚呼五色濱の波長へに靜に住吉原の松翠彌深し 我が市の前途を祝福するにあらさらむや 茲に築港の来由を石に勒して不朽に傳ふ  昭和三十三年十一月 伊豫市長 城戸豊吉謹撰」と記されている。
郡中巷衢創業原誌碑
・明治27年(1894)、郡中町創始250年を記念して建立。
・表面は宇和島7代藩主・伊達春山の書。裏面は、漢学者山下清風武知五友)の撰文、書は河東坤静渓)。
五色浜海浜公園
★夏場は海水浴客で賑わうこの海岸。もう季節が季節だけに閑散としているだろうなと想像してたのだが、意外と訪れている人は多い。海の家(店)も開店している。
「家族連れ」と「カップル」を除けば、ワシ一人ではなかろうか....。何となく居心地が悪い。
小富士山(松山市興居島)や中島など伊予灘の島々がはっきりと浮かび上がっている。北側の道後平野の遥か遠方には、高縄山、北三方ヶ森、明神ヶ森の姿も見える。南へと視界を移すと、明神山、牛ノ峯、黒山、壷神山などの山々が続いている。東には谷上山。(2001/9/16)
五色姫橋
・平成6年7月完成。
・古小川に架かる。

しおさい公園【伊予市】

伊予市八景(市制40周年記念選定)「森の海岸・しおさい公園」
・スポーツと憩いの場を兼ね揃えた総合公園。市民体育館、市民球場、テニスコートなどがある。


祭り

十日戎(1月10日)
・五色浜神社、湊神社
・商売繁盛、農業豊作、漁業豊漁などを祈願する。
・縁喜笹を授かろうとする人々で賑わう。

谷上山二月入り(3月第一日曜)
・旧暦2月1日は宝珠寺の縁日で、「谷上山の二月入り」と呼ばれ、多くの人が参拝に訪れる。
・宝珠寺では、五穀豊饒を祈願して、大法要が営まれる。
・現在は3月第一日曜に開催される。よって「三月入り」とも呼ばれる。

さくらまつり(3月上旬)
・谷上山の自由広場で開催される。(以前は大谷池で催されていたが、池堤の改修工事で桜が伐採されたため、2002年度より谷上山へと会場が移された。)

五色姫復活祭(3月の第4日曜日) 
・3月の第4日曜日に伊予市商店街周辺で開催される。
・五色姫パレードや稚児行列などが行われる。

大師まつり「おだいっさん」(4/21、8/21)

大漁まつり[豊漁祭・たたきこみ](5/5)
・百数十隻の漁船が大漁旗をなびかせながら海上をパレードする。

ふれあい土曜夜市(6月第1、第2、第3土曜日)

プール開き・海開き(7月)
・プール開き:五色浜プール、ウェルサンピア伊予ジャンボプール等
・海開き:五色姫海浜公園

五色姫海浜公園サマーフェスティバル(7月下旬)

住吉まつり(7/28,29)
・7月28日、29日に五色浜の住吉神社の夏祭にあわせて行われる。
・28日には新伊予市音頭に合わせて市民が商店街をパレードする。
・29日には五色浜公園内で様々な催し物が行われ、夜には花火大会で賑わう。

みなみ夜市(8月下旬土曜日)

五色浜観月いもたき(9/1〜30)

秋まつり(10/14〜16→第2土・日曜日)

扶桑太鼓
・昭和56年に創始された。


イベント

施設

愛媛県厚生年金休暇センター・ウェルサンピア伊予【伊予市】

愛媛県中予水産試験場・森漁港【伊予市森】
1994/7/01
1994/7/1  一人でこの界隈を散策
1994/7/2  佐藤家と海岸でバーベキューをする。
 
愛媛県中予水産試験場
・第13回全国豊かな海づくり大会(平成5年(1993)11月7日)開催地。
・第1回えひめ水産まつり(平成6年11月6日)開催。
・海岸沿いはこのため整備が行き届いており、防波堤には児童による海の絵が描かれている。
愛媛県中予栽培漁業センター
天皇御製歌碑
「県の魚 またひの稚魚を 人々と 共に放しぬ 伊予の海辺に」
第1回えひめ水産まつりで除幕された。
※またひ=まだい=真鯛:県魚として選定された。

手づくり交流市場「町家」(まちや)【伊予市米湊827番地4】

(株)まちづくり郡中
URL:http://www.ehime-iinet.or.jp/guntyu/

(JR伊予市駅前 街の交流拠点 手づくり交流市場 町家)

※ワシのお気に入りスポット。伊予市立図書館に行ったときは必ずといっていいほど、毎回立ち寄っている。どこのお店も親切でサービス良好。(2005/4/2)


学校

温泉

伝説

平岡城の千人がくれ(平岡)
「蒲の城
 天亀天正の頃、今の平岡部落の蒲の城主平岡左衛門尉(じょう)が、家来一千人ほどを置いて住んでいた。ある時、土佐の長宗我部が大軍をひきつれて攻めて来たが、守りが堅くて城はなかなか落ちなかった。
 ところが、ある坊さんが城を攻めるには裏側の手薄な所(今は坊主ヶ滝といっている)から攻めることをすすめ、急に攻めこんでいった。
 城の中では、裏側の急斜面は安心して守りも手薄だったので、たちまちうちやぶられ、武士は千人がくれへ逃げていった。(千人がくれとは、現在の佐礼谷へ行く所から100m位上で、巨大な岩石が残っている。)
 ところが、その岩の後に隠れていると、一人の赤ん坊が急に大声で泣きだし、敵にみつかり、半数以上の武士が殺されてしまった。その時、ひとりの侍が赤ん坊を背負って松前の方へ逃げていったが、途中でその赤ん坊をこもに包んで川に流してしまった。
 また、城主は家来をつれて谷上山をこえ松前へ逃げる途中、唐川で病にかかって亡くなったという。お墓は平岡の石山に残っていて人人が祭っている。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

白滝城(唐川)
「白滝城と森山城
 道後河野氏の一族は、伊予四方に城主を配置していて、南山崎には森山城・白滝城の二か所があった。天正の乱れの時、長宗我部軍が攻めてきたので森山伊賀守は四方の竹皮を集めて、山の麓から城までしきつめた。これは敵は山の城に登ろうとすると、すべりおちるためにそれを考えた。しかし長宗我部の軍勢も、これに火を放って全山を火の海としてしまった。白滝城もよく防戦し、いくさは長びき、長宗我部軍は兵糧攻めを考えたが、白滝城主もこれを悟り米俵を破って米で足を洗い、長宗我部軍に見せつけたりした。戦いが長引いて武勇のほまれを四方にとどろかせた。しかし、河野氏の城が落ちると共に白滝城も長宗我部軍に渡ってしまった。
 その白滝城の跡は両沢にあり、森山城は曽根に森山神社として残っている。
 また森山伊賀守は正月元旦に、雑煮を食べていて不意に敵に攻められた陥落した。それで頭の悪い人は、三年間、元旦に雑煮の餅を食べなかったら、絶対になおるという。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

浜出稲荷の宝剣(唐川)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

享保の大飢饉(唐川)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

源範頼のよろい・かぶと(唐川)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

大地蔵の木地蔵(大平)
「大地蔵盆踊り
 大平地区で大地蔵の盆おどりの日は、もと旧の七月三十日で、小の月であれば二九日であった。地蔵様は石地蔵であるが、元は木造仏で那須与市が建立したものであった。
 ある時、ひとりの易占いの旅の僧が来て、お地蔵様に向かって拝んでいた。すこしして「この木地蔵の三里に金がはいっている」と話した。それを聞いた百姓は、間違って三里四方の土地を掘り起こして金を探したが、どこからもでてこなかった。
 このことを大洲の殿様が知って「馬鹿な農民どもだ、この木仏がなければこんな騒ぎはおこらなかったろうに…」と言って大洲の城主の寺である如法寺に祭ってしまった。
 そこで大地蔵では、木仏の代わりに、石地蔵を安置することになった。
 旧の七月三〇日に四つ松の人が、朝の七時から夕方の六時まで念仏を唱え鐘をたたくと如法寺の木仏が北向きになり、南山崎村の四つ松に向くといわれた。
 この那須与市が、今の伊豫市大平大地蔵へ木の仏を建立した頃は、四国ではなく予州二名島といっていた。屋島の戦いの時、那須与市が、「扇の的を見事射ることが出来たら、予州へいって仏像を建てる」といって願をかけた。すると、たちまち波は静かになり舟のゆれが止まり、見事に扇の的を射ることができた。そこで与市は祈願成就のお礼に予州の中央である大平の地を選び大地蔵に木造の仏像を建立したという。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

新田義治の墓(大平)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

森山城主森山伊賀守(大平)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

九門修理と虎月毛(大平)
「九門修理と虎月毛
 大平梶畑に、九門修理の墓がある。修理は源範頼の臣で、主君の名馬虎月毛を預って飼育していたが、馬は長命し修理は病死した。その名馬虎月毛はその後野馬と同じように、ある時は野山にまたある時は村里にと歩き回っていた。しかし、決して農作物を荒らすことはしなかったという。現在、馬渡しという地名が残っている。第175図は九門修理の墓所で村の人達がまつっている。
 大洲旧記によると、次のように記載している。
 源範頼公の銘馬虎月毛というあり、臣九門修理という人、これを飼いて有りしが、馬は長命し、修理は病死す。川より北鍛冶畑という所にありしよしなり、修理の墓もあり。後は野馬となりて、ある時は野に入り、ある時は里に出るといえども、作を荒さず。後落ちて今の庄屋所の前に畳二畳敷きて捨て置きしに、七日終る日に飛び去りて、毛一本残さずという。また守護職の記にいう如く、宇都宮豊綱、備後に渡りて、後、子孫荻野与右衛門と改め、郡奉行となり、この馬のことを裁判して、馬は五百何十歳を経て死したりという。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

端の左衛門に纏わる伝説【伊予市三秋】
 
@9発の弾丸をむしろに九曜紋の形に撃ち込んだ。
 昔、三秋村の端部落に左衛門という鉄砲の名人がいた。ある時、左衛門が、松山の城下へ用事で行った帰りに、石手川の土手を通っていると、四、五人の武士が鉄砲で的打ちをしているのに出合った。しかし、武士はいくら撃っても的にあたらない。見ていた左衛門がおかしくなってつい笑うと、武士達は怒りだし、「お前もあの的を撃ってみよ」といって、鉄砲を手渡した。左衛門は失礼をあやまったが聞きいれてくれなかった。仕方なく的のかわりに大きなむしろを所望して、それにねらいを定め、九発の弾丸をうちこんだ。武士達はそれぐらいなら誰にでも出来るといっておこったが、悪びれるようすもなく、「的は小さくても的、ここへ撃てという印があるが、むしろにはそれがない。私が撃ったのは九ようの紋、さしをもっておしらべください。角で結んで出合ったところに中央の星がある、中の星から回りの星まで、星と星の隔たりは一分一厘の差があるまいと信ずる。的がないところを撃つのはむずかしいと思う」これを聞いた武士達は一言もなかった。
 果たしてさしで計ってみると、左衛門の言ったとおりであった。(伊予市誌)
A大洲の神南山のヒヒを退治し、その褒美に部落の年貢を4分の1に改めてもらった。
 左衛門は大洲の神南山のひひ猿を退治して殿様の危急を救い、ほうびとして部落の租税を四分の一に改めてもらったという。(伊予市誌)
B鶴が鳴いて口をあけた時にその舌を撃った。
 鉄砲の名人、左衛門の話はついに大洲の殿様にも伝わり、殿様の狩りには必ずお供を仰せつかったという。
 ある時、鶏を撃って殿様に献上した。その鶏には傷がなかったので殿様がわけをたずねると、「鶏に傷をつけては恐れ多いので、鶏が鳴いて口を開けた時に舌をうち切りました」と答えた。(伊予市誌)
C殿様と鴨猟に行ったときに殿様の行動を仕切った。(釣りバカ日誌の浜ちゃん的な存在としての左衛門)
 左衛門はまた、鴨が池におりる所を一発で見事に数羽を撃ち落とした。
 ある時、鴨猟のお供をして草むらで鴨のおりて来るのを待っていた。おりから一羽の鴨が沼に降りて来たので、殿様はもう撃ってよいかと左衛門にたずねると、左衛門はまだまだといって殿様の肩をたたいて止めた。
 そのうち二羽、三羽と降りてくるのを待って、始めてもうよしと合図をした。あとで殿様がいうには「臣下にして、余の肩を打ちしもの未だあらざるに、一猟夫の左衛門は、余の肩を打ちて平然たり」といった。(伊予市誌)
D山犬退治〜名刀の鶏の機転〜
 ある時、飛脚が松山をたって大洲に向かって走っていた。夜にはいって犬寄せ峠にさしかかった頃はもう夜中すぎであった。このあたりは強盗や追いはぎや山犬が沢山いて、人人から恐れられていた。
 果たして、山犬が群がって来ておそいかかった。彼は樹に登り、おそって来る山犬をのがれたが、山犬の群に、命をおとしそうになった。このとき左衛門が通りかかった。彼の持つ刀は、刀の目抜きに鶏の名作があり、血潮の暖かみを得ると、その刀が精を得て鳴くということを思い出し、刀をふりかざして「この鶏の名作よ、精あるものなら見事歌え」というと、コケコッコーと刀が歌った。それを聞いた山犬たちは朝になったと思い、夜が明けたら大変だと残念そうに引き上げていった。(伊予市誌)
E妻に化けた山猫を退治した。
 左衛門は、あるとき明神山で一匹の大きな山猫を撃ち殺した。山猫は雄で体じゅう松やにをぬりつけていた。さびしく残された雌の山猫は、仕返しに左衛門の妻を食べてしまい、妻になりすましてよく左衛門の世話をした。そして何か月かが過ぎたある日、近所のものが左衛門の家をたずねて、ふと家の中をのぞいてびっくりした。大きな雌の山猫がおいしそうに灯明の油をなめていた。これがたちまち評判となって広まり、とうとう殿様の耳にはいってしまった。
 殿様は「其方の妻は山猫だという、もし退治せばよし、夫婦愛にひかれて退治しなければ軍勢をさし向ける」といった。
 左衛門は困り果てたが、殿様の命令では仕方がなかった。殿様は「これにて撃ちとめよ」といって、南無八幡大菩薩の銘のある弾丸を一個渡した。彼は苦しんだが、翌日いつものように猟のしたくをして出かけた。いつも猟に出かける時は妻から七発の鉄砲の弾丸を受けとるのが例になっていた。
 出かけると見せかけて引き返えし、障子のすきまから部屋の中をのぞいてみると、炉にあたってぺろりぺろりと菜種油をなめている異様な妻の姿があった。左衛門は妻に向かって鉄砲を発射した。ズドーンと音がすると、妻は茶がまのふたでカチーンと撃丸(たま)を受けとめたその早業は、目にもとまらぬものであった。
 そして七発うちつくすと、妻はもう大丈夫と髪をときはじめた。そのすきに、例の殿様から拝領の弾丸をこめて一発、ズドーンとうちこむと、「ギヤッ」といって倒れ息が絶えた。みると殿様のいった通り、倒れているのは一匹の大きな山猫であった。(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

頼信城の千人塚(三秋)
「千人塚の伝説
 昔、戦国の時代に三秋の原中部落の南の山に頼信城という城があった。この城には頼信と二人の弟が千人の武士と平和に毎日を送っていた。当時長宗我部という大きな勢力を持った武士が、この三秋の地方にも勢力をのばそうとうかがっていた。そこで頼信兄弟はいろいろ工夫して、城内に長い洞穴を掘って敵が攻めて来ても逃げられるようにしていた。
 ある時、長宗我部の大軍が三秋の地へ攻めて来て、台山の尼が城を滅ぼし、西願寺に火を放ち、ついに、頼信城に攻めこんできた。敵が来たことをいち早く知った頼信兄弟は、家来達を連れて洞穴を通ってかくれてしまった。敵は攻めて来ても誰もいないので、不思議に思い方方捜したが、全く影も形も見ることはできなかった。ふと、かまどの灰にふれるとまだぬくもりがあり、座ぶとんもぬくもりが残っていた。そう遠くへは行っていないと悟った敵は一層厳しく捜しはじめた。しかし、夕方になってもみつけることはできなかった。
 日は西にかたむき、山ふところの谷間の部落は、たちまち暗くなりやがて夜がふけようとする頃、明神山の山ふところにわずかに光るものをみつけた。「あそこだ!」と大声で叫ぶと、たちまち頼信兄弟はもちろん家来達も、ひとりひとり引き出されて首を切られた。
 胴は胴塚・首は首塚・刀は刀塚と別別に、今の三秋畑部落の北の尾根伝いに西側から、首塚・刀塚・胴塚という順序にほおむられている。現在では数個の五輪の塔がこけにうずもれて、部落の人からは若宮さんと呼ばれ、あたりは山桃の大木と山草がうっそうと茂り、誰も尋ねる人はいない。
 頼信兄弟は三しゃ権現といわれ、胴塚の南に三人いっしょにまつられている。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、「鉄砲の名人端の左衛門」、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

三秋の池の大蛇(三秋)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

市場の祇園さん(市場)
「市場の祇園さん
 むかし、市場に豪族が住んでいた。ある夜のこと夜討ちにあって、逃げる途中きゅうりのつるに足をひっかけてころび不運にも討たれて死んでしまった。ここを祇園さんとよんだ。
 これ以後、市場ではつるのある野菜は植えない風習が残っていた。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

国松丸の墓所(中村)
「国松丸の伝説
 豊臣一族が滅亡する頃、大阪城が落城し、秀頼の子国松丸は当時七歳で京で殺されたことになっているが、身代わりが殺されて当の国松丸は、徳川の目をのがれ、少数の家来をつれて今の高野川の地に上陸し、山伝いに見渡しのきく、現在の中村の地にたどりついた。そこに明音寺という寺を建立し、国松丸は僧侶となり苦厭聖人と称した。家来達もみんな僧になりこの地で一族ははてたという。明音寺跡は今でも地名となって三秋と中村の境に残っている。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

猿神さま(中村)
「猿神の伝説
 むかしむかし、庄屋が住んでいた。その庄屋の庭には大きな松の木があった。
 ある朝、一匹の猿が来てその松の木の上で遊んでいた。これを見た庄屋は鉄砲でうとうとした。その猿は身ごもっていたので、お腹をさすりさすり助けてくれるようにと庄屋に哀願した。しかし、庄屋は鉄砲で打ち殺してしまった。
 そのこと以来、その庄屋の家は不幸がつづいた。これはあの時の猿の生きりょうがたたっているのかもしれないと思い、ねんごろに社を建てて葬ってやった。その猿神さんの社は今でも残っている。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

森の扶桑木(森)
「森の上浜に神代(かみよ)からの大木があって、枝葉の栄え茂っているようすは、ことばではいいあらわせないほどであった。木の幹の先はさぞ高いことで、富士山より高かったのであろう。海を隔てた豊後の地(大分県)では、朝日の照ることは遅く、夜が明けるのが遅い。それで田んぼの稲や麦が不作続きでたいへん困った。豊後の百姓(ひゃくしょう)たちは、がまんができなくて、はるばる海を渡ってやって来た。「どうかあの大木を伐らせてください。」と涙を流して願い出たので、しかたなく伐ることを許した。大勢で伐りにかかり、数年かかって遂に切り倒した。これが海の方へ向って倒れたので、木を伝って豊後へ帰った。それからは豊後の田畑の作物はよくでき出したという。大木は海中に沈み、何万年も経た今日、その根が大谷という所から出てくる。昔の人は黒く光ってきれいなので黒檀(こくたん)のようだといって、もてあそんだという。当時の人はこの大木は楠だといい、また桂だといった。人人はこの木のことを神代木また扶桑木ともいって、世にも珍しいものとした。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

森の雨乞い【伊予市森 大谷海岸】
茂平という漁師が大時化のあくる朝、海岸で木造を拾った。ところが、その後不幸が続くので、木造を大門寺に預けた。
・木像は「虚空蔵菩薩」とよばれるようになった。
・何年か経って、この地方に日照りが続いた。そこで大門寺の「虚空蔵菩薩」を出して雨乞いをすると、たちまち雨が降り出したという。
・それ以降、雨乞いをするときには必ずこの「虚空蔵菩薩」を出すという。
「森村の雨ごい
 今から300年前のこと森部落に茂平という猟師が住んでいた。
 大じけの朝、いつものように海岸に出てみると波うちぎわに、名にかがさっと光をさしたので不思議に思い近寄ってみると、木造の菩薩がうちあがっていた。さっそくこれを家に持ちかえり、仏だんに祭って毎日拝んでいたが、不幸が続くのでみ仏のたたりかもしれないと思いその木像菩薩を大門寺にあずけた。
 ある時、この地方に大干ばつがあり、作物はかれかけて農民は困りはてた。雨ごいをしても雨が降らず、どうすればよいかと大門寺に集まり、みんなで相談した。
 「そうだ、大門寺のこくぞう菩薩を出して雨ごいをすれば、雨が降るかもしれん」という意見が出て、みんなでその菩薩を出して雨ごいをした。すると、不思議なことに、空はだんだん曇りにわかに雨がふりだした。百姓は喜んでそれ以来雨ごいの時は、必ずこの菩薩を出して行うようになった。」(伊予市誌)

三十三の観音さま(森)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

夜泣き石【伊予市稲荷 伊豫稲荷神社】

・正一位伊豫稲荷神社にある。
・郡中灘町の素封家宮内家の奥庭にあったこの石は風の治まった月の無い深夜にはすすり泣きの声をたてていた。ある人が、「この石は氏神の稲荷神社の境内にある大岩の側に納めれば泣き止むだろう」といったので、奉納したという。
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

久美さん(稲荷)
「8.久美(九尾)さん
 江戸の末期頃、九州路から来た一人の浪人風の旅人が、郡中湊町の旅人宿「門文」に泊っていた。浪人は長の旅の疲れから病にかかり、宿賃にもことかくようになった。そこで旅人は今まで持っていた大切な桐の箱を宿の主人に渡し、「これは広い日本にも二つとない、珍しい有難い品で、私の命同様に手放せないものですが、今日までの親切にお報いするためお預けするから、お金にかえてくれるようにお願いします」といってどこへ行くとも告げないで立ち去った。主人が桐の箱を開けてみると、古代錦の包みの中から、見事な狐の尾がでてきた。それは尾の付根から九つに分かれた黄金色にかがやく美しいものであった。
 この話を伝え聞いた人が、一もうけしようと「門文」から譲りうけたが、霊気がさして持ちあぐみ、稲荷神社に奉納した。今、稲荷神社の裏山に、朱塗りの門がたくさん立っているりっぱな久美社(九尾)がある。
 昔から狐は千年の功を積んで神使いとなり、神わざをするといわれているが、稲荷大神の神使いは霊狐であるので、稲荷大神への信仰があついて大神は霊狐をなかだちとして、商売繁昌の福・金銀財宝の福・健康長寿の福・開運の福・勝運の福・農業の福などの福を与えられるものといわれている。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

金子の天神松(米湊)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

大池の大入道(米湊)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)
五色浜に伝わる五色姫の伝説【伊予市郡中】
(1).5人自殺説
・屋島の戦い(*1)に敗れた平家一門の五人の姫が郡中の浜に漂着した。
(*1)源義経との戦い。
・五人の姫は世をはかなんで海に身を投げた。
・その後、海岸に五色の美しい石が打ち寄せられた。人々は五人の姫が化したものと哀れんだ。

(2).大姫による1名殺害後自殺、3名自殺説
・5人の姫がこの地に漂着後、居住していた。
・ある日一匹の赤い大蟹をみた大姫が、「お前は平家の蟹。平家の旗がお前のように美しい赤色で輝いていたのに、....。それにつけても憎きは源氏。どこかに源氏の白蟹はいないか....」と狂ったように叫んだ。
・そして、驚いて駆け寄った妹姫達に「お前達、白蟹を探しておいで。私が踏み潰してやるから」と命じた。妹姫達は辺りを探したが、七日間探しても見つけることができなかった。
・妹姫達は相談し、赤蟹に白粉をつけて大姫に差し出した。すると大姫はその蟹を掴んで、庭の手水鉢の中に投げ込んだ。すると白粉がとれ、もとの赤蟹になった。これを見た大姫は刀を抜いて一番末の妹を斬りつけた。
・恐ろしくなった他の3人の姫は、悲観し、海中に身を投げた。
・大姫は末姫の亡骸を抱き、「憎き源氏を成敗した」と叫びながら浜辺を歩いていたが、その後、海中に入水自殺を図った。
・この海岸に五色の石は、五人の姫が化したものだという。
(See.伊豫市のむかし話 伝説、「五色浜の石(灘町)」伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

尼弘法(湊町)
「尼弘法(妙園尼)
 その昔、南山崎村大平に一人の女が住んでいた。その女は信心深い人で、下吾川の田中佐兵衛の家に奉公していたが、食事の際には必ず仏に向かって供養をして後でないと食事をしなかった。
 女は嫁にも行かず、ついに尼僧として世を終わった。そこで人人は尼弘法(あまこうぼう)と呼ぶようになった。
 この尼弘法がある時夢をみて、高浜の海中に仏像がある。これを引揚げて祭ると、どんな願いごともかなうといった。毎夜同じような夢をみるので、湊町の浜に住む叔父に話した。叔父は半ば疑いながらある日舟をこいで高浜まで行ってみた。しばらくして海中から後光がさしているのがみえた。不思議に思いよくみると、大師の石像から放つ後光であった。さっそく付近の漁師を雇って、これを引揚げようとしたが、なかなかあがらない。そこで尼弘法が背負って来て、現在地にまつったという。今の大師堂である。
 尼弘法の墓は大師堂(湊町)の入口の左手にある。その仏像にはかきの貝がらがくっついているといわれている。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

伊豫市の鹿物語(下吾川)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

銀杏狸(下吾川)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

力持ち善喜(下吾川)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

吾川の武術の達人たち(下吾川)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

伊予岡八幡神社の八角さん(上吾川)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

太刀打場の柳(上吾川)
「上吾川の太刀打場
 もと、郡中村上吾川にある布部という部落の西の稲荷部落のひとりの女が、麦をまいていた。ふと西の方をみると、馬にまたがった一人の武士が、一生懸命かけて来て、やがて女の所までくると馬を止めて、女にいうには、「この金をやるから、どんなことがあっても、われが東の方へ行ったということはいってくれるな」と言い終わると、馬にひとむちあてて一目散にかけていってしまった。しばらくすると、また、ある武士がかけてきた。そうして、また、その女に「今少し前に一人の武士がこちらへ来なかったか、この金をやるから教えてくれ」といった。欲に目のくらんだ女は、また、その金をもらって教えてやった。やがて、かの武士は前の武士に追いつき、その場で勝負したところ、どうしたはずみか先の武士の太刀が、つば元からぽきっと二つに折れてしまった。こうなってはしかたがない、すきをうかがっていた一方の武士は、たちまち「やあ!」ときりこんだので、かわいそうに彼は真二つに切り下げられた。あとで村の人人は死骸をその場に葬ってやった。
 折れた太刀もその場へうめてしまった。勝った武士は、それから引き返して先の女の所まできて、その場で腹を真一文字にかききって死んでしまった。
 そこは、今「ツイドウ」といって小さい地蔵さんがすえられている。
 武士が死んだちょうど、その翌年のことである。そのあたり一帯に悪病が流行して、たくさんの人が死んていった。人人はこの病気で非常に苦しんだ。そこでご祈祷してもらうと、それは前の女がうそをいったからだということであった。それから後は、稲荷部落の人がこれを仏としてまつることになったので、病気がすっかりなくなった。毎年陰暦七月十二日は仏むかえといって、太鼓をたたいて稲荷の子供が仏を迎えに来ることになった。今もやっているという。
 何十年もたって、そこから一本の木がはえた。墓から出たものであるからといって、そのままにしておくと、後には天にもとどくばかりの大木となった。しかし、大正七年、大暴風雨の時折れてしまった。直径が2mもある本株が残っていたという。そのとき、地蔵さんのお堂もこわれて中からよろいの破れたのがみえていたという。
 今はセメントで作ったお堂が、第176図のようにさびしく田んぼの中にたてられている。
(第176図 上吾川にある太刀打ち場の地蔵尊)」(伊予市誌)

(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

鎌倉さん(上吾川)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

称名寺裏の化け物(上吾川)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

宝珠寺の建立(上吾川)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

宝珠寺の絵馬(上吾川)
「谷上山宝珠寺の絵馬
 寿永の頃、伊予の守護職河野通信(みちのぶ)と、その子通俊は平氏を討とうとして、谷上山(田神山)の本尊千手観音に戦勝の祈りをした。その夜通信はみ仏から、駿馬を買った夢を見た。そしてその翌朝彼は山の中でよい馬をみつけた。通信は喜んでその馬に打乗り出陣し。大変な武功をたてめでたくがいせんして帰り、その馬を献納するため寺にやって来た。
 一方、お寺ではお堂に上げてあった絵の中の馬が、いつの間にか急に絵からぬけ出していなくなっていた。ところが、奉納するために引いて来た通信の馬が全く絵馬にそっくりなので寺の人達はびっくりした。そして馬の鞍をはずすと急に馬がいなくなり。もとの絵の中に帰っていた。
 それは、絵馬だったのである。このことがあって通信通俊父子はますますこの寺を信仰するようになり寺は大変栄えた。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

夜光の池(弥光井、真名井)【伊予市上吾川 谷上山】

・月夜見比売と愛比売に二尊が降臨した場所と謂われる。
・大山津見・鹿屋野比売・熊野三所大権現を合祀し、田神大権現と崇められている。
・天暦6年(952)8月、筑紫の領主太宰大弐国光が京に上る途中、伊予の沖で大嵐にあい、その時、谷上山夜光の池から光がさし、不思議に嵐が静まり九死に一生を得た。国光は谷上山の観音様のお蔭を深く感銘し、この恩に報いるために荒れていた寺院の再建につくしたと伝えている。
・この夜光の池は山頂に有りながら大昔から一度も水が涸れた事がなく、近くには雨を呼ぶといわれる水神竜王を祀った小祠がある。
生きていた切株(上吾川)
「一木神社の伝説(上吾川布部)
 一木弥太郎(太郎とも云われる)は喜多郡一木村八が森城主の子として生まれた。ある時、ささいなことからけんかをし、人に追われて吾川村までにげて来たが、そこで決闘となり、弥太郎は太刀がおれ、柳の枝を刀の代わりに戦ったが、ついに討たれて死んでしまった。この時使った刀代用の柳をつきたてたまま月日が立って、不思議にもこの柳から芽が出て美しい柳となった。
 布部あたりの家では、盆の十二日には柳をつき立てたところへ来て仏をむかえ、南無阿弥陀仏を唱えて鐘をたたき、特に新盆の人には年の数だけ太鼓を打ち、団子をそなえ、供養することになった。また、近隣の人も霊験があるといって、崇敬礼拝する者が多かった。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

町永の加助とカー公(下三谷)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

薄井の大師堂(下三谷)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

桜崖の地蔵尊(上三谷)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

幡立神社と一宮神社跡(上三谷)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

夜光池のどんこ(上野)
「ちち子が池のどんこ
 行道山から川井村分へ8町(約860m)下ったところにちち子が池という沼があった。ある時、余土の百姓が柴刈りに池の辺りに来たとき、大きなどんこが背中をほしていた。
 百姓はわらに包んで持ち帰る途中、重信川を渡る時、「どん子殿、何国に行き給う」ときくと、どんこが答えて「我は余戸むらへ背あぶりに行く」と答えたので、百姓は驚いて捨てて帰ったという。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)
※谷上山の「夜光池」とは別モノのようである。砥部町田ノ浦で語られる「物言うドンコ」の話と同じものと思われる。

神様のいた行道山(上三谷)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

玉生神社の起こり(宮ノ下)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

後藤又兵衛(宮ノ下)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

入仏寺の本尊(八倉)
「入仏寺の伝説
 弘仁の頃、毎夜峠の谷にきらきら光る物があり、人人は怪しんでその光のさすところに行ってみると、正月だというのに谷の小さな池に蓮の花が美しく咲いていた。あまりに不思議なので、これを掘ってみると、地下三尺のところから銅の阿弥陀仏が現れた。この仏像を安置したのが入仏寺で、その本尊がそれであると伝えられている。」(伊予市誌)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

キュウリ封じ(八倉)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)

大蛇の化身(八倉)
(See.伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月)


キャンプ

海水浴

新川海水浴場【伊予市下吾川】
・伊予鉄郡中線新川駅で下車し、西へ約200m行ったところにある。


人物

その他

郡中森の大谷海岸【伊予市森】
1994/7/1、2000/9/2
伊予市八景(市制40周年記念選定)「森の海岸・しおさい公園」
・約1900mにわたって、礫を主とし、砂や粘土の層を挟む地層−郡中層−が露出して崖をつくっている。この地層には『扶桑木』と呼ばれる埋木がある。メタセコイア等25属29種の植物化石を産出する。
・扶桑木は県指定天然記念物(昭和31年11月3日)である。
 
郡中層・・・─礫層
     ・・─砂層
     ・・─粘土層
     ・・─シルト層
     ・・─テフラ層
森の雨乞い

木目石【伊予市大平】
木目石 大平村に有り 里人木石といふ 木の切口のやうに成りて出る奇石なり」(伊豫温故録)



《References》
《パンフレット》
・(伊予市街なか商店街探訪「街なかてくてくマップ」)
・(感・動・王・国・いよし)
・(四季の彩りがある感動王国 いよし)[表紙が「カニ」の写真のバージョン][表紙が「五色浜の夕陽」の写真のバージョン]
・(海とロマンのまち 伊予市/ぬくもりあるまち 松前町)
・(伊予市観光マップ)
《文献》
・伊予市探訪〜歴史文化の里めぐり〜、伊予市歴史文化の会、平成5年8月
・伊豫市のむかし話 伝説、伊豫市教育委員会、昭和56年3月
・伊予市誌
・広報なかやま、2005年2月号、No.431

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