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伊豫の隅々インデックス

カテゴリ別インデックス

市町村概要


キャッチフレーズ
(1).「砥部焼とみかんと公園の町 アートの里づくり」

町の花 町の木 町の花木 町の鳥
カンナ(昭和53年〜平成9年)
ポーチュラカ[別名:ハナスベリヒユ] (平成10年〜)
蜜柑(みかん) ヒバリ


特産物

砥部焼
・砥部焼は磁器の焼き物だが、古くは陶器の焼き物であった。
・元文5年(1740)の「大洲秘録」に「陶茶碗之類ヲ造リ出ス"トベヤキ"と云」とある。
・唐津や有田、朝鮮半島から技術が伝わったものと言われている。
・安永4年(1775)に大洲藩の加藤三郎兵衛(藩主加藤泰候(やすおき))が藩財政を助けるため磁器の生産を考え、砥部の門田金治杉野丈助に磁器生産を命じた。最初の窯を五本松上原(かんばら)に築き、肥前長与窯から5人の陶工を呼び寄せ、丈助に筑前から釉薬を持ち帰らせて、安永6年(1777)12月、白磁器の焼成に成功した。その後、改良が重ねられ、文化10年(1813)向井源治が原料陶石・川登石を発見。井岡太蔵は■瓦(とんばり)で築いた窯や陶石を砕く大水車も導入した。昭和8年には良質の原料陶石・万年石が発見された。

砥部焼のはじまり
"砥部焼"という名が初めて出てくる書物は、『大洲秘録』。これは、約250年前の元文5年(1740)、大洲藩士、人見甚左衛門栄智の手で編さんされたもの。その中にあげられている砥部の大南村北川毛村の特産物のくだりに、「陶茶碗之類ヲ造リ出ストベ焼ト云」「陶器茶碗鉢類トベヤキト云」と明記されているのである。
当時の砥部は、大洲藩領・砥部郷。藩領下・浮穴55ヶ村のうち、『大洲秘録』に陶器生産地と記されたのは、この砥部郷の2ヶ村だけであった。また、「トベヤキト云」とわざわざ記している点からも、秘録が編さんされた以前に砥部郷で陶器が焼かれていたであろう事が読みとれる。ただ、その陶器焼成がいつ頃から始まったのか、創業年月を記す文献は、未だ発見されていない。
しかしながら、陶器焼成は実証された。昭和24年、北川毛の古い窯跡から、当時の陶片が出土したのである。その大半は土物の焼締め・飴釉や土灰釉の日用雑器の類で、たとえば徳利・茶碗・皿・鉢・片口・油壷・灯心具・茶器類等であった。その作り方や絵模様(すべて鉄絵)は九州唐津、さらにいえば黒牟田のものに似ており、九州さらには朝鮮半島方面から技法が伝わったものとも考えられる。
焼き物を称して、東日本では「せともの」、西日本では「からつもの」という場合が多い。これは、日本の代表的焼き物産地である瀬戸・唐津の地名によるもの。ルーツをたどれば、その唐津あたりと縁浅からぬらしい、私たちの砥部陶器である。
砥部焼のこと
焼き物には陶器と磁器があります。陶器は生地が粘土で作られていて水を吸う性質のものが多く、不透明で爪ではじくと響きのない鈍い音がします。
磁器は陶石をくだいて陶土として、生地が真白で吸水性がなく、半透明で、爪ではじくときれいな響きの金属音がします。焼き上げる時、陶器よりも高い温度で、長時間かけます。
砥部焼は四国一の生産額をあげている磁器の焼き物で、ほとんど手づくり手描きで生産されています。
清らかな白磁の肌に溶けこんだ藍色の絵模様(呉須絵(ごすえ))や、素地の白さに調和した色絵、やや厚手の飾り気のない形と材質の堅さに砥部焼の特色があります。
(砥部焼窯元マップ 探索・散策・創作)


沿革
 

・明治22年、川登、岩谷口、大南、北川毛、五本松、外山、大平、万年の各村が合併して、砥部村が村制を施行した。
・明治23年、宮内、千足、川井、七折、大角蔵、麻生の各村が合併して、原町村が村制を施行した。
・砥部村、原町村はもと下浮穴郡に属していたが、明治29年に伊予郡所属となった。
・昭和3年、砥部村が町制を施行した。
・昭和30年、町村合併促進法に基づき、砥部町と原町村が合併し、新生砥部町が発足した。


地名
大字 小字
八倉 堂ノ木、丸太、石原、角田、塚田、崩詰、廣ツラ、道添、宮地、勇田、松ノ下、松ノ本、竹ノ下、久保田、窪田、宮地、長田、樋ノ元、樋ノ井元、八倉、矢取
重光
拾町
麻生
高尾田
原町
三角
田ノ浦 
(昭和50年に新設)
上原町 
(昭和49年に新設)
宮内
川井
七折
千足
岩谷口
岩谷 
(昭和53年に新設)
大南
五本松
北川毛
大角蔵
外山
鵜崎
万年
川登 千里、立野、二ツ木、川下、川中、川上
大平


文化財

砥部衝上断層(とべしょうじょうだんそう)【砥部町大南】
1997/2/8
・とべ文化五十選
・国指定天然記念物(昭和13年5月30日指定)
・2500万年前の地殻変動によって古い地層が新しい地層の上に重なった珍しい逆断層である。砥部川にあり、地質学上の貴重な資料として国天然記念物に指定されている。
◆春には川岸に立ち並ぶ桜の木に、さくらんぼの実が枝もたわわに実り、近所の子供達が木に昇りむさぼりついている。
 
かがす淵

宮ノ瀬窯水車小屋【砥部町】

厨子【砥部町岩谷 岩谷霊岩寺】
・県指定文化財[工芸品](昭和39年3月27日指定)

須弥壇【砥部町岩谷 岩谷霊岩寺】
・県指定文化財[工芸品](昭和39年3月27日指定)

大下田古墳群【砥部町上原町】
・県指定記念物[古墳](昭和43年3月8日指定)
・とべ文化五十選

赤坂泉関係文書【砥部町】
・町指定文化財

坪内家文書【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[古文書](平成11年3月25日指定)

梅山大登り窯【砥部町大南】
・町指定文化財[建造物](平成3年11月25日指定)

楼門【砥部町麻生 理正院】
・町指定文化財[建造物](昭和57年9月30日指定)

宝篋印塔【砥部町高尾田 高雄神社】
・町指定文化財[石造美術](平成11年3月25日指定)

米山書 神名石【砥部町宮内 宮内天満宮】
・町指定文化財[石造美術](平成11年3月25日指定)

米山書 俳額【砥部町宮内 宮内天満宮】
・町指定文化財[俳額](昭和44年3月15日指定)

騎馬図【砥部町麻生 三島神社】
・町指定文化財[絵馬](昭和57年9月30日指定)

木造大日如来座像【砥部町麻生 理正院】
・町指定文化財[彫刻](昭和57年9月30日指定)

木造弘法大師肖像【砥部町麻生 理正院】
・町指定文化財[彫刻](昭和57年9月30日指定)

木造金剛力士像(2体)【砥部町麻生 理正院】
・町指定文化財[彫刻](昭和57年9月30日指定)

木造阿弥陀如来立像【砥部町高尾田 長福寺】
・町指定文化財[彫刻](昭和57年9月30日指定)

木造阿弥陀如来座像【砥部町宮内 永代寺】
・町指定文化財[彫刻](昭和57年9月30日指定)

木造阿弥陀三尊像【砥部町岩谷 岩谷霊岩寺】
・町指定文化財[彫刻](昭和57年9月30日指定)

通谷山古墳出土品【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[工芸品](平成3年11月25日指定)

梵鐘【砥部町原町】
・町指定文化財[工芸品](昭和57年9月30日指定)

三岳寺鰐口【砥部町三角 三岳寺】
・町指定文化財[工芸品](昭和44年3月15日指定)

搏仏【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[工芸品](平成11年3月25日指定)

上原町天神社灰釉唐獅子【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[工芸品](昭和52年4月25日指定)
・嘉永年間の作。
・横35cm、縦52cm、高さ149cm
・大下田窯で焼成された。

上原窯白磁瓶子(はくじへいし)【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[工芸品](平成3年11月25日指定)
・砥部磁器創業に多大な貢献があった門田金治義初の実兄と推定される門田義覓(よしとも)の名が、高台裏に奉納者銘として記名されている。
・磁器創業当初に焼かれたものと推定される。

上原窯錦絵唐子文茶壷(にしきえからこもんちゃつぼ)【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[工芸品](平成3年11月25日指定)
・初期砥部焼の色絵作品として珍重される。砥部焼の色絵は、文政8年、亀屋庫蔵(くらぞう)が藩命で肥前の錦絵の技法を習得してから始まったといわれる。
・この茶壷は、大洲藩士下井沢右衛門が天保の頃、郡中郡奉行在務中に亀屋庫蔵に作らせたところ焼き傷が出来ていたため、沢右衛門が貰い受けたという。

錦手紙雛文耳付花瓶(にしきでかみびなもんみみつきかびん)【砥部町大南 砥砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財
伊藤允譲(いとういんじょう、五松斎)が明治10年頃、肥前大河内から招いた陶器工富永彌兵衛(とみながやへえ)に作らせ、画工市川重助(いちかわじゅうすけ)が絵付けしたという錦手の大花瓶。

寺内半月観音座像(てらうちはんげつかんのんざぞう)【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[工芸品](昭和52年4月25日指定)
・砥部工業学校長であった寺内信一の遺作。

上原窯染付鯉文徳利(かんばらがまそめつけこいもんとくり)【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[工芸品](昭和52年4月25日指定)

上原窯染付唐人文茶壷(かんばらがまそめつけとうじんもんちゃつぼ)【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館
・町指定文化財[工芸品](昭和52年4月25日指定)

上原染付牡丹文徳利【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[工芸品](昭和52年4月25日指定)

北川毛鉄絵松竹梅文徳利【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[工芸品](昭和52年4月25日指定)

五松斎錦絵孔雀文大花瓶【砥部町大南】
・町指定文化財[工芸品](昭和52年4月25日指定)

五松斎錦絵大皿【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[工芸品](昭和52年4月25日指定)

五松斎錦絵紙雛文大花瓶【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[工芸品](昭和52年4月25日指定)

愛山錦絵菊文大花瓶一対【砥部町大南】
・町指定文化財[工芸品](昭和52年4月25日指定)

愛山淡黄磁飛魚文彫花瓶
【砥部町大南 砥部焼伝統産業会館】
・町指定文化財[工芸品](昭和52年4月25日指定)

大森彦七供養塔【砥部町宮内】
1997/2/8、1999/10/16
・町指定記念物[史跡](昭和44年3月15日指定)
・とべ文化五十選
・太平記に記載のある大森彦七に関する代表的な遺跡で、正徳2年(1712)に麻生の庄屋・田中権内が、彦七の功を永く称えんとして、庄屋田中治兵衛および五本松村小助、川井村忠左衛門の協力により建立された。
・その後風化が激しく、また塔身は3つに折れている。
・銘刻は、正面に「長盛院殿大森彦七士神儀」と誌されているが、現在は判読も困難な状態に風化している。
 
砥部町四国八十八ヶ所 第86番札所「志度寺」
供養堂地蔵尊

窪田兵右衛門の墓(五輪塔)【砥部町八倉 八蔵寺】
・町指定記念物[史跡](昭和44年3月15日指定)
・とべ文化五十選

窪田兵右衛門の墓碑【砥部町重光 円通寺】
・町指定記念物[史跡](平成11年3月25日指定)

魔住ヶ窪【砥部町重光】
・町指定記念物[史跡](昭和57年9月30日指定)
・とべ文化五十選

庄屋善兵衛の墓【砥部町北川毛】
・町指定記念物[史跡](昭和57年9月30日指定)
・とべ文化五十選

佐治右衛門の墓【砥部町川登】
・町指定記念物[史跡](平成11年3月25日指定)

砥石山【砥部町外山】
・町指定記念物[史跡](昭和57年9月30日指定)
・とべ文化五十選

千里城址【砥部町千里】
・町指定文化財[城跡](平成3年11月25日)

水満田古墳群【砥部町水満田】
・町指定記念物[古墳](平成3年11月25日指定)

ロクロ技能(哲山窯)【砥部町大南】
・町無形文化財(平成3年11月25日指定)
・代表者:松田哲山

ロクロ・彫刻技能【砥部町五本松】
・町指定無形文化財(平成11年3月25日指定)

大公孫樹(いちょう)【砥部町五本松】

・町指定天然記念物(昭和44年3月15日指定)
・とべ文化五十選

もがし【砥部町八倉 八倉公民館】
・町指定天然記念物(昭和57年9月30日指定)

麻生の椋の木【砥部町麻生】
・町指定天然記念物(平成11年3月25日指定)
・とべ文化五十選

熊野神社の柏の木【砥部町岩谷口 熊野神社】
・町指定天然記念物(平成11年3月25日指定)

獅子舞【砥部町大平】

獅子舞【砥部町岩谷口】

獅子舞【砥部町宮内】

獅子舞【砥部町高尾田】

虫送り祈祷【砥部町川登】

虫送り祈祷【砥部町万年】

虫送り祈祷【砥部町外山】

大角蔵・七折・川井・宮内・千足の古文書【砥部町宮内 中央公民館】
 
大角蔵:入会山定書(享和元年)
七折:田畑合高帳(弘化3年)
川井:田畑畝方名寄帳(天保8年)
宮内:砥部町庄土免目録(寛延3年)
宮内:通ル谷池新田新畑検地帳(享保6年)
宮内:宮内村諸事覚書(寛政11年)
千足:田畑地坪帳(貞享4年)
千足:諸村へ苅敷苅人数操廻帳(天明4年)
大角蔵、七折、川井:寺社御改帳(寛政11年)

岩谷口村庄屋の古文書【砥部町岩谷口 旧庄屋日野家】
 
田方水帳岩谷口村(寛政6年)
田方御検地畝方帳岩谷口村大平村(享保13年)



城址

千里城跡【砥部町千里】
1996/4/13、2003/8/3
・町指定記念物[城跡](平成3年11月25日指定)
・とべ文化五十選
・大森彦七居城として知られる。
・銚子ダム公園のキャンプ場から登り口有り。結構急坂。約700mの道のりとはいえ、山頂に辿り着くまえには結構息切れしてしまう。
千里城跡のある千里山は標高581m。
予陽旧蹟漫遊記には世梨山とある。
・「川登村字千里口にあり大森彦七盛長居る後ち平岡民部之亟居る城山の南下に盛長の建たる茶屋あり延寶の頃大洲城主加藤泰興の命を以て麻生村庄屋門田氏の宅の屋敷に移し建てたりと大洲旧記に見ゆ」(伊豫温故録)
・保元・平治の乱の頃(1156〜1159)には、河野新三郎通豊河野通清の弟)が居城した。
・元弘・建武の頃(1331〜1335)には大森次郎佐衛門盛清、その子・大森彦七盛長が居城した。

麻生城跡【砥部町拾町】

要害城跡【砥部町大南】

大戸城跡【砥部町宮内】

大貝城跡【砥部町外山】
・「外山村に在り一に要害城といふ千里城と白瀧城と相圖通達の砦なり地名を大貝といふは大貝を吹て相圖をしける故に斯く名づくるといふ」(伊豫温故録)

堰山城跡【砥部町上原町】

八倉城跡【砥部町八倉】

岩谷城跡【砥部町岩谷口】

八倉山城跡【砥部町重光】



遺跡

麻生小学校南遺跡【砥部町麻生】
・縄文時代から奈良時代にかけての遺跡。麻生小学校の南側の河岸段丘にある。



古墳

大下田(おおげた)古墳【砥部町宮内】
・とべ文化五十選
・県指定史跡(昭和43年3月8日指定)
・海抜60〜100mの丘陵地に散在する。
・6世紀後半から7世紀初め頃の古墳。
・直径20mの円墳・大下田1号墳からは子持ち高坏が出土した。

釈迦面山1号古墳【砥部町】

通谷山古墳【砥部町】
・出土品は、町指定文化財。

水満田古墳群【砥部町水満田】
2003/9/14
・町指定記念物[古墳](平成3年11月25日指定)
水満田古墳2号墳

谷田1号墳【砥部町】

谷田1号窯跡【砥部町】

通谷2号窯跡【砥部町】

通谷3号窯跡【砥部町】



跡地

北川毛窯跡【砥部町北川毛】
・和合神社のある丘陵北斜面一帯にある。
・砥部陶器発祥の地。

上原窯跡(かんばらかまあと)【砥部町外山】
・とべ文化五十選
上原池北側丘陵の麓にある。
・安永6年(1777)、砥部磁器創業の窯。当時の大洲藩奉行・加藤三郎兵衛光敏が藩の財政を助けようと、麻生村の門田金治、原町の杉野丈助に磁器の生産をさせた。杉野丈助が試行錯誤の末、焼成に成功したのがこの地である。

大森彦七館跡【砥部町五本松花畑】
・「大森彦七花畑 五本松村にあり大森彦七か別荘の跡なり 昔は虎ノ尾櫻あり 四十年前に枯れたりと大洲旧記に見ゆ」(伊豫温故録)

陶祖ヶ丘【砥部町大南】
1997/1/19
・とべ文化五十選
・陶祖ヶ丘への坂道の壁には、陶板がびっしりと敷き詰められており、「陶板の道」と呼ばれている。
陶祖杉野丈助の碑
陶祖祭
・砥部焼開発の祖、杉野丈助を祭る。
・丈助が初めて窯に火入れしたのは、陰暦で安永4年(1775)3月16日であり、陶祖碑建立計画をした年(昭和15年)当時の陽暦に直すと4月23日にあたることから、この日を陶祖祭の日として、丈助の偉業に感謝するとともに、砥部焼の発展を祈願する。

川登石(かわのぼりいし)発見の地【砥部町川登】
・「向井源治此地ノ製品良好ナラザルヲ患イ 文政元年川登ノ河底ニ白色ノ岩層ヲ発見シ之レヲ採用シテ改良スルヲ得タリ」(砥部磁器業誌)
・向井窯の素である向井源治が、1818年に余毛の砥部川川底より良質の陶石を発見した。

懸樋跡(かけひあと)【砥部町八倉】
・この掛樋の水の取り扱いが。明和8年(1771)の水論争「矢取川事件」の引き金となった。

田中権内(たなかごんない)の墓碑【砥部町宮内 宮内墓地】
田中権内は、大森彦七供養塔建立の施主。
・墓碑には「黙翁道■覚位 正徳癸己三年 田中権内五十九歳」と記されている。(理正院過去帳に「黙翁道渕」の戒名がある。)

五三の墓(いぞうのはか)【砥部町五本松 仲田家墓地】
・五三は、磁器創業当時に筑前博多より門田金治により招聘された陶工。
・墓碑には「一月道覚居士霊 中村五三 文化七庚午六月三日」とある。(文化7年は西暦1810年)

唐津山仁助の墓【砥部町外山】

中村主殿の墓【砥部町外山】
「中村主殿墓 外山村に在り両澤白瀧城主中村主殿経重の墓なり」(伊豫温故録)

千里口小学校跡【砥部町】
・現タケチゴム工業社地。


岩谷霊岩寺(れいがんじ)【砥部町岩谷】
2002/7/14
・とべ文化五十選
・山号:香石山
・院号:
・宗派:浄土宗
・開基:
・本尊:阿弥陀如来
・正保2年(1645)、浄土宗総本山、京都智恩院の末寺として開山。
・「岩谷さん」と呼ばれる。
砥部村郷土誌には享保元年(1716)の建立とある。
御替地古今集には「壇寺、浄土宗香石山霊岩寺、但本尊薬師、弘法大師之作、古岩谷と云。元真言宗、中興より住僧七、八代後の浄土宗也」とある。
木造阿弥陀三尊像
・砥部町指定文化財(平成12年3月指定)
・江戸時代初期作
厨子(薬師堂)
・県指定有形文化財(建造物)[昭和39年3月27日指定]
・室町時代の名作
・白木唐様の入母屋造
・江戸時代初期に作られたもの
須弥壇(薬師堂)
・県指定有形文化財(建造物)[昭和39年3月27日指定]
薬師月光日光菩薩保存箱(厨子堂)
薬師如来(厨子堂)
薬師日光菩薩(厨子堂)
薬師月光菩薩(厨子堂)
薬師十二神将
@宮毘羅大将(宝杵) A伐折羅大将(宝剣) B迷企羅大将(宝棒)
C安底羅大将(宝鎚) D額爾羅大将(宝叉)  E珊底羅大将(宝剣)
F因達羅大将(宝棍) G波夷羅大将(宝鎚) H摩虎羅大将(宝斧)
I真達羅大将(宝索) J招杜羅大将(宝鎚) K毘羯羅大将(軸宝)
●案内図
 奥の院、くぐり岩、展望台、一とび岩、稲荷神社、毘沙門天、くぐり岩、寝釈迦仏、かさね岩、両院の河原などが記されている。ここで「両院の河原」と記しているのは西院の河原(=塞の河原)の誤りであろう

永代寺(えいたいじ)【砥部町宮内 幸田】
1994/5/22,1999/5/1
・山号:清岸山
・院号:円明院
・宗派:真言宗智山派
・開基:
・本尊:
・「清岸山円明院永代寺宮内幸田にあり。新義真言宗智山派谷上山宝珠寺末
由緒
以前は永立寺と号し、現今の永立寺谷(えれじたに)にありしが、火災のため記録等皆焼失し、其後元禄十丁丑年十一月、当時の住僧権大僧都盛範阿闍梨阿弥陀如来の尊像を奉調安置して本尊とし、爾来数代をへて法印快宥に至り、方三間の阿弥陀堂并に方丈の寺門を建立す。現在せる本堂は天保九年の再建にかかるものにして、当寺は砥部庄の北川毛・五本松・万年・外山・大南・千足・宮内・川井・七折・大角蔵の十大字、戸数八百の檀家を有し、維持法確立せり」(原町村誌)
・「旦寺、真言宗村永代寺、本寺は谷上山なり。但し麻生理正院、灘町光明寺旦家も御座候。その外小庵・小堂数御座候也」(御替地古今集)
不動明王
愛染明王
阿弥陀如来本尊像
阿弥陀如来座像
・町指定有形文化財[彫刻]
・桧材による寄木造り。
・像高61cm
・江戸時代中期、都風の作。
・内刳部分に元禄10年11月の銘有り。

円誓寺(えんせいじ)【砥部町川登532】

・山号:聖福山
・院号:
・宗派:臨済宗妙心寺派
・開基:
・本尊:
・延宝年間の建立
・「旦寺、禅宗・修福山円誓寺、本尊は観音なり。但し辻堂数御座候」(御替地古今集)
地蔵菩薩立像
・桧材。全長58cm
達磨像
辯才天

円通(禅)寺(えんつうじ)【砥部町重光446】
1999/10/16
・山号:慈眼山
・院号:
・宗派:臨済宗妙心寺派
・開基:土居備中守通光
・本尊:
・文明14年8月、当国河野家支流土居備中守通光候が建立され、恵照山真光寺と号し、法系は東京品川東禅寺に属したが、妙心寺の末寺として、明和7年8月25日、現在地に再建され、山号寺号を改め、慈眼山円通寺として今日に及んでいる。
・開山より280年にして、火災のため拾町与瀬鳴より現在地に移され、禅宗臨済派妙心寺(京都)を本山として215年の歳月を経ている。
・その間、19代の住職がこれを管理し、本尊は釈迦如来・正観音菩薩・脇仏として地蔵菩薩・達磨大師及び権現様が安置され、毎年8月16日に施餓鬼法要を営んでいる。
・昭和63年5月15日、本堂庫裡が改築されて落慶御開帳の大法要が盛大に行われた。
・「麻生村に在り文明十四壬寅年八月土居備中守通光創営す」(伊豫温故録)
木造地蔵菩薩像
・本尊として製作されたもの
・像高19.5cm
釈迦如来像
・南同庵より移転したもの
・後背有り
・高さ47cm、幅34cm
・江戸初期の作
観音座像
・像高17.5cm
・江戸中期の作
菩提達磨座像
・像高42.5cm
新羅明神座像
・像高48cm
窪田兵右衛門の墓(五輪塔)
・とべ文化五十選
・「大機院観月浄照居士 俗名窪田兵右衛門居士」「不昧院心月妙照大姉」
・新谷藩が建立した。
・窪田兵右衛門と親しかった円通寺の和尚が、彼の死後直ちに立てたもの。
・八倉公民館(八蔵寺跡)にも兵右衛門の墓標がある。
「窪田兵右衛門の墓碑(砥部町指定文化財)
伊予郡の三義民といわれる中の一人が窪田兵右衛門である。明和八年(1771)夏の大干ばつは、上下麻生村対下五ヶ村(八倉・徳丸・出作・南神崎・上野村)との水げんかとなり、血の雨を降らす大事件となった。
 南神崎・上野村が藩内領であったため、事件の裁判は幕府が…」(説明書き)
アラカシ
島人句碑
「俳句とは 禅とは梅の 花咲けり」
坂村真民詩碑
「念ずれば花ひらく」
・平成12年3月檀家一同が建立。

奥の院【砥部町】
・障子山/山神坊/奥の院
蔵王権現石仏
・安山岩浮き彫り像40cm。
・石仏本尊は千手観音若しくは十一面観音と思われる。
・江戸時代以降の作りと思われる。

西願寺(さいがんじ)【砥部町大南】
・山号:
・院号:
・宗派:
・開基:
・本尊:
砥部四国47,48番
西願寺の祭礼
・とべ文化五十選

三角寺(三岳寺)【砥部町三角】
2002/8/15
・山号:
・院号:
・宗派:
・開基:
・本尊:
薬師三尊
・薬師如来座像・月光菩薩像・日光菩薩像

長福寺【砥部町高尾田】
・山号:
・院号:
・宗派:
・開基:
・本尊:
木造阿弥陀如来立像
・町指定有形文化財[彫刻]

東向山理正院(りしょういん)【砥部町麻生】
1999/10/16、2002/6/8
・山号:
・院号:
・宗派:
・開基:
・本尊:
・宗派:真言宗智山派
・伊予二十一霊場 16番札所
・伊予十三仏霊場 12番:木造大日如来座像
・新四国曼陀羅霊場 47番
・大同2年(807)に空海上人が四国を伝導された際に、当時の国司散位越智宿祢實勝と相談して、堂宇を建て大日如来座像を安置し、東向山理正院有喜寺と称した。
・境内には本殿・奥殿・楼門・鐘楼など多くの堂宇が自然林にうまく配置されており、中でも楼門は堂々たる威容を誇っている。
・「新義真言宗智山派谷上山宝殊寺末、東光山・理正院・有喜寺・麻生水満田にある。
由緒
平城天皇の大同二年丁亥二月、沙門空海上人布教伝道留錫の時、国司散位越智宿祢實勝とはかり造営せらるものにして、本尊大日如来坐像長尺の大仏を安置す。ついで承平・天慶の頃国司紀叔人、同介越智好古目代橘遠保等堂宇再建、寺領寄附あり。後、文治三丁未十月十日国司河野通信同冠者通俊の父子当山に金毘羅権現の堂宇を創建し、長寛の頃崇徳院の河野通清に賜る所の三宝劒の一を納め奉りて予州三金毘羅の一に列するの名刹となれり。又弘安四年七月河野通有及通純蒙古退治の後、堂宇再建寺領寄付、正平十九年十月征南後代々の武将國守等の尊崇厚く後、寛永十二年大洲領に詰替えられし後、依然領主の祈願所となり、寛永十五年に嵯峨大覚寺二品親王の留錫あり。又其後前法務大僧正了恕の留錫ありたり。以上の如き名刹なるを以て古来より一般の信仰甚だ厚く、特に竜燈の寄瑞ありし以来渇仰随喜の輩、遠近踵を接するに至る。.....」(原町村誌)
・「麻生村に在り加藤左馬之助嘉明の創建にして石手寺住職實雄の開基なり鎮守堂あり金毘羅大将を安置す縁起に云ふ大聖明王即ち金毘羅大将也什寶左の如し
 古鈴 一個  金幣 壹臺  剣 國宗作 二口
 剣 小鍛冶宗近作長一尺四分身の表に八幡大菩薩の號を彫り裏にカンマンに倶利迦羅を彫れり 樋入り大身なり 剣 一口 無銘なり本阿弥喜惣次極め有相州貞宗とす」(伊豫温故録)
楼門
・町指定有形文化財(昭和57年9月30日指定)
・入母屋造りの屋根は見事な反りを見せて高く聳え、斗■(ときょう)や蟇股が調和よく組み合わされて均整のとれた建築美を見せている。
・楼の彫刻は、竹田番匠友弘の作と言われる。
・焼失していたものを、寛永元年(1624)5月に、松山城主加藤左馬助嘉明が再建したと伝えられる。
・楼門の両脇には大きな藁草履が立てかけられている。
木造金剛力士像
・町指定有形文化財(昭和57年9月30日指定)
・桧寄木造、内刳造、玉眼
・楼門は寛永元年に再建されており、金剛力士像はそれ以前に安置されたと言われる。
・作者は運慶と伝えられるが、別名伊予運慶と考えられる。
・鎌倉時代の作か?
イヌマキ(2本)
七丈
観音堂
・山号:竜池山
・本尊:木像観音像
・郡中西国26番法華寺播磨国と誌されている。
坂村真民詩碑
『念ずれば花ひらく』
『二度とない人生だから』
坂村真民筆塚
坂村真民花塚
田中九郎左衛門尉吉次候供養碑
水子子育地蔵尊
大師堂
矜羯羅童子/制モ迦童子
・不動明王の眷属として右左に従えている。
力石
聖観世音菩薩(嫁いらず観音)像

法泉寺【砥部町】
・山号:
・院号:
・宗派:
・開基:
・本尊:
地蔵尊

八蔵寺【砥部町八倉】

・山号:竜雲山
・院号:
・宗派:
・開基:
・本尊:
・真言宗高野金剛三昧院の末寺。
・河野御取立の由、元禄年中(1688〜1703)の建立。
・現在は八倉公民館が建てられている。
八蔵寺仏像
・現在は八倉公民館内に安置される。
窪田兵右衛門の碑
・坂本日吉神社参道口から県道伊予川内線を砥部町の方へ約50m行くと、左手に高さ 3m以上に及ぶ窪田兵右衛門の頌徳碑と、彼の辞世の句を刻んだ自然石の句碑がある。
「如月の あわれたずねよ のりの道」
・ この碑は明治24年(1891)、地元の人々が兵右衛門の偉業を顕彰して建てた。
・時の知事勝間田稔の題額の辞に「代衆以死」とある。文は漢学者で、晩年松山中学で教鞭をとった近藤元弘(南菘)の書である。
窪田兵右衛門の墓(五輪塔)
・重光の円通寺にも兵右衛門の墓標がある。
★窪田兵右衛門
・明和8年(1771)夏の大干魃に、上下麻生村と下五ヶ村(八蔵、徳丸、出作、南神崎、上野村)との水喧嘩となり、血の雨を降らす大事件となり、一身を犠牲に責を負って、首謀と名乗り岡山の倉敷の刑場の露と消えた、時35歳。


神社

岩谷稲荷神社(いわたにいなりじんじゃ)【砥部町岩谷】
1997/2/8

大宮八幡神社(おおみやはちまんじんじゃ)【砥部町大南317】
1999/10/16,2002/7/14
・とべ文化五十選
・電話:089-962-2277
・交通:伊予鉄バス伝統産業会館前下車
・例祭:1/5.....初水天宮祭
・旧郷社
・主祭神:誉田別尊、足仲都彦命、息長帯姫命
・配神:天照皇大神、三女神、和霊大神
境内社:厳島神社
境内社:荒神社
大宮八幡宮神門
・町指定文化財(建造物)?
・大平の若宮社の欅の大木1本を材として建造されたという。
・岩谷口の和泉岩次を棟梁とし、明治3年(1870)に作り上げられた。
米山書・注連石
・町指定文化財(石造美術)?(平成14年3月砥部町教育委員会)
・「無為」「而尊」の文字が刻まれている。
・明治21年建立。
イチョウ
・樹高23m、幹周360cm、樹齢300年以上
クスノキ
・樹高23m、幹周400cm、樹齢300年以上
ムクノキ
・樹高22m、幹周300cm、樹齢300年以上
ムクノキ
・樹高27m、幹周410cm、樹齢300年以上
大宮さんのけんか神輿
・とべ文化五十選

川上神社【砥部町千足】
「千足の眺望のよい山の上にある小社。国道33号線を下に見る。コゼガ森といって枝ぶりのよい老松に囲まれている。俗にテンノンサンという。夏の祭りはなかなか賑やか、大太鼓の音が夜更けまで聞こえるので、古老はタイコ祭りともいう。夏祭りの日、当日キュウリを食べてはいけないという禁忌があった。それは大昔、ここの祭神が戦いに敗れて命も危なくなったとき、キュウリの垣の内に逃れて助かったためとか。火除け・疫病除けの神、それで祭りの日にキュウリを食べると患いをする。」(「砥部の小祠とその伝承」、大内優徳、伊予の民俗、第17号、1976.6.15、伊予民俗の会)
※考えるに、元々は(今も?)素盞鳴尊を祭る神社であったということではなかろうか。

川富神社(かわとみじんじゃ)【砥部町川登 古幸】
・主祭神:草野姫命
・配神:素盞鳴命、天御中主命
・旧村社

祇園神社(ぎおんじんじゃ)【砥部町外山】
2002/8/15
・主祭神:天御中主命
・配信:素盞鳴命
・旧村社

衣更着神社(きさらぎじんじゃ)【砥部町八倉】
・主祭神:窪田兵右衛門
・祭日:2月23日
・八倉山(八倉雲雀山)の中腹にあり、眼下に矢取川、赤坂泉、重信川が見おろせる。
・村人により、窪田兵右衛門を義民として崇め、神として祀るため文政7年(1827)に建立された。
・社号は窪田兵右衛門の辞世の句「如月の あはれたずねよ 法の道」に由来する。
・「義人の霊長えに郷民の尊崇に値せずんばあらず兵右衛門処刑の事ありてより正に17回忌即ち寛政3年2月23日に於て先づ神符を奉じて祠堂に安置す、更に33年を経て世は文政の7年となりしが徳沢の浸潤する所庶民の信仰益々深く、許可を官に得て衣更着明神の神号を賜はり、同10年2月22日23日怡故兵右衛門50回忌に相当するの日を卜して盛なる正遷宮式を挙げ祭礼を行ふ。文政11年2月23日改築の神祠全く成り拝殿上棟式を行うと言う、蓋し衣更着神社神殿は南伊予村大字八倉南の山陵字赤禿にあり。境内坪数84、(本殿方3尺 拝殿2間4尺2寸、2間3尺)風色絶佳の境地なり」(砥部町郷土誌資料第1集)
★藩政時代、八倉は新谷藩に属し、大洲藩・松山藩・幕府直轄の天領に隣接するという珍しい地域であった。

熊野神社(くまのじんじゃ)【砥部町岩谷口】
・主祭神:国常立命、速玉男命
・砥部村郷土誌によれば、岩谷口字松ノ下鎮座、祭神は国常立尊、速玉男命、菅家神霊、大山積神とある。
境内社:天神社
熊野神社の柏の木

五社神社(ごしゃじんじゃ)【砥部町川井】
・主祭神:高おかみ神、三女神、稲倉神、大物主神

五社大明神社【砥部町北川毛】
2001/7/29

金毘羅大権現【砥部町】
1999/10/16、2002/6/8
・とべ文化五十選
一石一字御経供養碑
「一石一字御経供養敬白 元禄十四年巳年九月二四日 本誉宗雲居士」

城主神社【砥部町川登】
・「川登村字千里にあり大森彦七以下類族の霊を祭る大森の子孫代々千里城主たりしか荏原の平岡氏に攻められ文明十一年十二月二十九日落城の時此神社を創建すといふ」(伊豫温故録)

高雄神社【砥部町高尾田】
宝篋印塔
・町指定有形文化財[石造美術]

立野神社【砥部町川登】
きくえ句碑

立野七社神社[袋神様]【砥部町立野】
2002/7/14
・頭痛の神として知られる。
コガノキ
・御神木。樹齢1000年。
立野部落の歴史(陶板碑)
・「七社大明神社について
このお社は大己貴命 八千矛神 大国主命 大国玉命 顧国玉命 大物主命 葦原醜男命の七祭神でありまして大黒様を主神とした神社であります。昔から近隣近郷では脳かみさま又は頭痛神様として遠路参詣者が後をたちません。この度崇敬者の寄進により新しい社殿が再建出来ました。世の多くの人々にお陰を受けていただきたいと思います。御参詣をなさった方は御記帳下さい。例祭(年1回)には...... 昭和62年9月吉日 立野七社大明神崇敬会」

天神社【砥部町宮内 上原町】

天王神社【砥部町高尾田(たこおだ)】

常盤木神社(ときわぎじんじゃ)【砥部町五本松】
大森彦七館跡にあった小さな祠がいつのまにか合祀されたという。
・「大森社、五本松村字花畑鎮座、祭神盛長霊」(大宮八幡神社保存の調査記録[明治10年調査]による。)
大公孫樹(いちょう)
・砥部町指定天然記念物
山神坊(さんじぼう)
・町指定文化財(石造美術)?
・障子山の麓、水窪にあった寺の奥の院の本尊であったという蔵王権現石仏。
・「村、南山三十町程登、山神坊・岩谷御座候。但奥ニ山之神・蔵王権現各一尺五寸位之石像、前ニ金毘羅堂あり、後略」(御替地古今集)

石山明神【砥部町外山(とやま)】
・砥石山の守護神を祀るという。
・文化年間の頃か、石の切り出し時に山が崩落し、職人が全員死亡するという大惨事が起こった。亡くなられた人々の慰霊のため、命日に石山明神でお祭りをし、この日は歌舞音曲を一切止め、砥石山での仕事は休むことにしたという。この命日に仕事をすると怪我をしたものだということだ。
(「砥部の小祠とその伝承」、大内優徳、伊予の民俗、第17号、1976.6.15、伊予民俗の会)

新田五社神社(にったごしゃじんじゃ)【砥部町万年】
・主祭神:新田義貞公
・砥部村郷土誌には、万年字南万年に鎮座、祭神は素盞鳴命・奇稲田姫神・大山積神・高おかみ神・月読尊・新田義貞霊とある。

三島神社(みしまじんじゃ)【砥部町麻生】
1998/10/3
・とべ文化五十選
・和銅5年(712)の創建と伝えられる。
御幸神社
蘇鉄(そてつ)の群生
七丈
クス
エノミ
カシ

宮内天満宮(みやうちてんまぐう)【砥部町川井】
1994/5/22,1999/5/1,2002/7/14
・とべ文化五十選
・祭神:大山積神、菅原道真公、淳茂命(菅原道真の子)、北の御方
・第45代聖武天皇神亀5年浮穴一の宮として越智郡大三島より大山積神を勧請し、井川神社と号した。仁和4年春、菅公讃岐守として民情視察の際この地に立ち寄り、姥桜を賞せられ、昌奏4年春右大臣の時太宰府に左遷される時に再度井川神社に来られ、姥桜を賞せられた。この二度にわたる因縁により、天慶..年9月25日国司越智好古神霊を太宰府より勧請して井川神社に合祀し、淳茂命(菅原道真の子)、北の御方を同座に祀り、井川神社を改め国内25天神社の一とした。
境内社:宇賀社
境内末社:宮内神社、宮崎神社、北野神社、春日神社、小松池龍王神社
三輪田米山書俳額
・町指定文化財(民俗資料)
 宮内天満宮拝殿と、同社境内の宮内神社拝殿に掲げられた奉納俳額。
 いずれも慶応4年(1868)6月に奉納されたもので、松山市久米の、書家として有名な三輪田米山(みわだべいざん)の書である。
 米山の書になる奉納俳額は、県下でも珍しく重要な資料である。
 天満宮拝殿の俳額は、横5.5m、楯75cmで、108句奉納されたと考えられるが、現在は75句残っている。
 また宮内神社拝殿には、102句掲載された額がある。いずれも、願主・会林に地元旧砥部・麻生のほか、松山など周辺地域の人も多い。
 (砥部町教育委員会説明書きより)
三輪田米山神名石
・町指定文化財
 三輪田米山(常貞)は江戸時代から明治後期に生きた松山市久米・日尾八幡神社の神官で、学識が高く、人格は高潔。その独特の書は高い評価を受けている。
 また、酒を好み、その書とともに逸話も多く残っている。
 この神名石は天然の青石に米山の本領を発揮した書風で実に雄大な文字で掘られている。
 *米山自身も「ヨク刻ス」と評した。
 石工は判明しないが、書に忠実に掘り込まれており、石工の技術の高さも目を見張るものがある。
 石の高さ240cm、幅最大170cm、最小80cm、石の厚み35cm。
(砥部町教育委員会説明書きより)
鎮魂平和之碑
・中曽根康弘
菅原道真歌碑
『立ちよりて みればかわいの 姥桜 まためくり来て いつか逢見ん』
・仁和4年菅原道真公 讃岐守としてこの町に来られ、井川神社の...に美しく咲いている桜の名を里人に聞かれた折、..... 太宰府配流のとき再び立ち寄られたので天満神社に改称した。
天神橋
・平成12年2月竣工

御幸神社【砥部町麻生 重光】
「祭神は麻生字拾町の人・三好半右衛門。郷党に神と祭られるに至ったこの義民の、村民のための献身と社の伝承について述べることにする。半右衛門、人となり剛毅、言葉少なく、シンの強い人望家で、五人組頭にもあげられた。彼の属した下麻生村は新谷藩、庄屋がなく、大洲藩下の上麻生村の庄屋の支配下にあった。村民は何かと引け目を感じていた。半右衛門は…仲間の組頭と謀り、大洲・新谷の領藩庁に庄屋の設置方を度々歎願に及んだが聞き入れるところとならなかった。そこで男気の彼は、死を決して単身郷里を発して藩庁に向かい強訴した。藩は、強訴は藩法に触れる重罪として斬首処刑。宝永四年八月十五日のこと。ところが間もなく下麻生村には庄屋設置が認められた。村民は半右衛門の献身に感謝した。」(「砥部の小祠とその伝承」、大内優徳、伊予の民俗、第17号、1976.6.15、伊予民俗の会)

矢取神社【砥部町麻生 矢取】
・「麻生村字矢取にあり高皇産霊命天忍日命天津久米命を祭る浮穴直千継の創建といふ社傍田中に石あり飛礫石と称す」(伊豫温故録)
・「矢取 ここは、昔、誰かが弓で矢を射たが、その矢が手で握り取られたので矢取の名になったという。この付近に矢取神社があり、昔は10月16日になるとみこしが出たほどで、重光の西岡家へみこしが渡り、そこで酒食のもてなしを受けたという。また、地元ではこの付近を矢取さんとも呼んでおり、この地に飛礫石の伝説もあるという。(原町郷土誌)(とべの地名)

六十余総社【砥部町北万年】

和合神社【砥部町北川毛 寺ノ下】
・祭神:庄屋善兵衛常重
・北川毛を見下ろす小高い丘の上に鎮守の森がある。
・寛保2年(1742)、砥部の庄16村と温泉郡、浮穴郡の24村との間で入会山の事に関する紛議が生じ、遂に竹槍・木刀をもって暴力に訴え、これが次第に深刻化したので、大洲藩において兵を繰り出して鎮圧したという。これが砥部騒動である。
・藩府としても、このような大きな事件に対して誰も処罰しないわけにはいかず、権威に関わるとして、当時の庄屋である善兵衛を極刑に処した。
・村人はその徳を慕い、祠堂を建てて、大洲藩主から和合神社の社号を賜り祭った。
・「常重は代々北川毛の里正たり。性温厚寡言にして能く吏務に通ず。寛保年間、浮穴、伊予二郡に百姓入会山の葛藤には、互に一揆を起し、竹鎗又は木片を交え、大に騒.....」(砥部村郷土誌)
→ See. 庄屋善兵衛の墓

「ここには、またもう一つの悲話がある。善兵衛の身柄を預けられた上野村の庄屋(儀兵衛)もまた、とても人柄のよい人望家、自分に関わりのない人を預ることを藩役人にことわったが、迷惑をかけないというので、よんどころなく預り、吟味の役人より善兵衛の命は保証するという約束も得て、役人のいやがる陳述書も焼き棄てさせた。ところが、善兵衛は処刑に決まった。彼は善兵衛に対して義がたたないと悩み、自殺を度々はかるので家人は警戒したが、ついに善兵衛処刑の日に自害した。」(「砥部の小祠とその伝承」、大内優徳、伊予の民俗、第17号、1976.6.15、伊予民俗の会)
 


お堂

七折地蔵堂【砥部町七折】
1997/1/19、2001/7/29
・七折峠にある。
地蔵尊
・町指定文化財(石造美術)?

立野菩薩堂【砥部町立野】
2002/7/14
・立野集会所
延命長寿抜苦離観音
オニユリの花
弘法大師修行像
念ずれば花ひらく
陶板碑
・仏像並御堂の由来
・竹嶋亀五郎翁顕彰碑(平成6年12月 立野会有志 代表 中川喜志雄謹書)




地蔵

樽川大師
・とべ文化五十選

砥部四国【砥部町全域】
・とべ文化五十選




障子山【砥部町/伊予市】
1999/10/16、2001/8/25
・標高 885m
・皿ヶ嶺連峰県立自然公園(昭和42年指定)
・伊予市八景「障子山と鵜ノ崎峠」
・砥部十景「障子山の暮雪」(御替地古今集、菊沢武輝、寛政12年)
・とべ文化五十選

 「いしづち-松高山岳史−」にこんな一文が記されている。
「大戸山は私たちが最初登った自分には、頂上部は全部草山で明るい打開いた山だったので観望もよく、山頂で野遊びができたが、今は植林したので登山的な価値が減少した」
 実際に登ってみると確かに眺望は全く効かない。「これじゃ全然くそ面白くもない」と落胆する人も多いことだろう。
 標高900m足らずの場所に、松山市内から一時間もかからない登山口から登れるという意味では有り難い存在ではないか。無駄なガソリンを消費しなくても高山気分が手軽に味わえるのである。
 登るという意味でも捨て難い価値がある障子山だが、この山の何よりもの魅力はその山容を眺めることにあると僕は思う。
 伊予市八景の一つにも選定されている。
 伊予市の市街地から眺めると、丁度板戸を数枚立てかけたような格好に見える。これが「障子山」たる所以だ。最近の住宅からはすっか姿を消しつつある「障子」戸からの連想で付けられた名前である。
 一名「大戸山」とも呼ばれるようだ。これも名の由来は同じであろう。(砥部町の「大友山」と混同しそうであるが)

 ところが、砥部町から眺めると「これが本当に同じ山なのか」というくらい違った容貌を見せる。そう、まるで富士山のように綺麗な円錐形を見せるのである。
 特に夕暮れ時の障子山は美しい。行道山の山塊の中に沈んだ夕陽が障子山だけにスポットライトを当てる。すると、まるで水晶の大きな塊がそこにあるかのごとく、鮮やかな円錐が浮かび上がるのである。

【参考文献】
いしづち-松高山岳史−、北川淳一郎、北川先生喜寿記念会(昭和42年7月)

逆面山(さかづらやま)【砥部町重光】
・標高 230m
坂面山とも記す。
「坂面山 矢取川の東の山で、昔領主の八倉殿備前入道の居城であったとかで、山頂に水持神という小祠もあり…」(砥部町誌)
八倉山城跡

金小山【砥部町】
・標高 256m。
・大森彦七が鬼女を背負った場所=小金坂か?

城山(じょうやま)【砥部町宮内】
・とべ文化五十選
・現在は県総合運動公園の敷地となっている。
・かつて頂上に河野壱州が居城した堰山城があった。大森彦七の出城も置かれていた。
・中世にはこの付近に刑場が置かれていたという。寛保2年(1742)の入会山事件で庄屋善兵衛が斬首されたのはこの刑場だという。
城山の一つ松
・砥部十景(御替地古今集、菊沢武輝、寛政12年)
・昔は松の巨木が多かったという。

千里山【砥部町川登】

・標高 581m
・地図帳では城山と記されている。予陽旧蹟漫遊記には世梨山と記されている。
千里城址

白滝山【砥部町外山】

→伊予市に掲載

砥石山【砥部町外山】
2003/9/14
・とべ文化五十選
・古代より中央にも名が届いていた伊予砥の産地である。
・今でも砥石の柱状節理が見られる。
「外山村にあり前は砥山村と書したるか何の頃よりか外山と書す伊豫砥の出る所にして其名高し此砥石の開採は頗る古く和名抄に載する土部郷の名も此砥石の出づるより名づけたるものなれば土部は即ち砥部の書き誤りなり故に後来砥部の字を用ゆることになりぬ一ヶ年出高凡六万七八千挺上砥は帽子虎石の類ありといふ」(伊豫温故録)
砥石山公園
「砥石山ノ由来」碑
・陶板製。
砥石山の由来
古代の人類史上に金属器具特に鉄器の出現は近代のエレクトニクスの発達とは比べようもないほどの一大革命をもたらしたものであります。
農耕狩りょう武具建築に必要なこの金属器具の製造修繕及び研磨に一体不離なものが砥石であることは誰でもわかると思ひます。
このように重要視された砥石を産出したが故に外山(以前は砥山と云ふ)は日本の古代史にはっきりと実在の姿を刻印して居ります。即ち天平19年(747年)法隆寺文書に、又(780年)正創院文書に、又平安時代(927)延喜式に伊予砥を中央政府に納め東大寺、法隆寺正創院や其の他の大寺院の建造に役だっていたことが以上の日本の重要な文書に記載されているのであります。
この地方が砥部と云はれるのも色々の説はあるが天平年間以前より砥石産出を職とする集落があったことより地名となったと思はれます。
徳川時代には大洲藩の直営の事業として藩の財政を支る重要な産業でありました。
採石の方法は初めは露天掘であったが天保年間頃より穴掘りとなり製品は馬等により郡中港に運び大阪の問屋により全国に販売され日本の三大産地の一つとして其の優秀性は砥石と云へば外山産の伊予砥として中央の諸文献にも記述されて居ります
 砥部焼もこの砥石屑を原料として始められたものであります。明治になって藩の手をはなれてよりは部落全員の英知を結集して民主的な組合組織によりあらゆる難関を克服して昭和20年頃まで生産され千幾百年の歴史ある生活産業として栄えたのでありました。
昭和57年砥部町文化財史跡に指定されています。
昭和59年3月 外山砥業組合 上田照夫記
(碑文のカナはひらがなに補正。原文のまま記載。よって「エレクトロニクス」など明らかな間違いもある。)

水晶山【砥部町五本松】
・「水晶山 五本松村に在り其の地名を以て水精山といふ水晶の出づる山なり」(伊豫温故録)
★7/31、木村さんより、幼い頃(昭和30年代)にここで水晶を採った記憶があることを聞いた。更に、砥部の友人に確認をとり「この山を水晶山、谷を水晶谷と呼ぶ」との情報を得たことを伝えてくれた。

ひばりが峰【砥部町八倉】


鉱山

弘法師鉱山跡【砥部町川登】
2002/8/15

鳴滝鉱山跡【砥部町鳴滝】
2002/8/15
・「鉱石 川登村は諸鉱石に富たり銅鉱は字鳴滝に在り百年前に開採す錫鉱俗に白目といひ洋名安質母尼といふ字辰野にあり柳砥は字南坂山にあり又た茶碗石あり其の出高一年凡二十二万六千貫代価凡一千百圓を得といふ」(伊豫温故録)


川・渓谷

矢取川(やとりがわ)【砥部町麻生−八倉部落】
1994/5/22,1998/9/13,2003/8/3,2003/9/14
大森彦七と鬼女の伝説で名高い矢取川は、典型的な天井川で、河床は住宅地よりも高い位置を走っている。今では水無川で、雨の日の後でも、水が流れている姿を拝むことは殆ど無い。(というか、ワシは見たことが無い。)
※2003/8/3探訪時には、珍しく水が流れていた。
矢取川の堤には約20本の桜の大樹が植わっており、春先には花見に興じる家族の姿も見られる。
矢取川の碑
・「正義の鬼、美女となりて大大森彦七をおそひし處」と刻んである。
・昭和12年 西松順一氏が建立。
矢取川の鬼女

カンドノ窪川

立野川渓谷【砥部町立野】


池・沼・湖

大谷池【砥部町/伊予市】

・とべ文化五十選

通谷池(とおりたにいけ)【砥部町宮内】

・とべ文化五十選
・桜の名所。
・灌漑用の溜め池で、「原町村郷土誌」や「大洲領池帳概要」によると、築造は寛政5年(1793)である。
・道前道後平野農業水利事業の道後南部幹線水路が通谷池に導水されており、赤坂泉−八倉−松前町、川井−七折−伊予市(大谷池)へと送水されている。


赤坂泉【砥部町重光】
1994/5/22、2002/6/8
・とべ文化五十選
・八倉の東端、矢取川の左岸をおよそ200m下り、重信川と合流する手前の端を右岸に渡ると、重信川の堤防に添って、幅約10m、長さ約175mの細長い泉がある。これが赤坂泉である。別名鏡泉ともいう、
・昔、このあたりの村々は干魃で度々水争いが起こっていた。そこで八倉・宮下・上野・徳丸・出作の五部落が協同して泉を掘る事になった。明和8年(1771)測量をして計画を進め、天明元年(1781)着工。これが完成したのは寛政5年(1793)のことであった。
・工事の世話係は、上野出身で、当時鶴吉の庄屋阿部万左衛門で、十余年の歳月と、延べ3回、752人の労力を要した難工事であった。この泉によって、5部落の水田約10町歩(約110ha)の水不足が解消した。そして旱害と水争いの後を絶つことができた。
・今も泉の水は、四季を通じてこんこんと湧き出し、田に水が不要の時は、下手に設けている水門を開いて重信川に放流している。又多くの水が必要な際は、重信川の水を引き込むよう、泉の上手に樋管が作られた。
※近くを流れる矢取川は、大森彦七が鬼女を背負い、その姿を水面に映したことから別名「鏡川」と呼ばれる。赤坂泉を「鏡泉」と呼ぶのは、これに符合するのではなかろうか。
赤坂桜づつみ公園
・春は重信川堤防及び水路の脇を薄紅色の桜が咲き乱れる。
・夏は地元の子供達の恰好の水遊びの場所となる。
赤坂泉開鑿碑(あかさかいずみかいさくひ)
・大正13年(1924)、この泉の恩恵を受ける部落の人達によって建てられた。
『赤坂用水樋管改修記念』碑
・伊豫市長 城戸豊吉
・施工者:建設省
・昭和32年11月着工、昭和33年3月竣工
・赤坂泉井掛建之
赤坂泉関係文書
・町指定文化財(昭和35年(1960)指定)
『赤坂桜つづみ』の碑
・建設省/砥部町
・流れる川に桜の花五つが配されたデザイン。


銚子の滝【砥部町川登千里】
1994/4/17,2002/7/14,2003/8/3
伊予十二景
・国道を広田村方面から降りてくると、銚子ダムの下に滝が見える。
・落差約50m、傾斜角約80°。安山岩の懸崖から落下する滝。
・大雨のときには滝の南側の絶壁に銚子の滝の2倍以上の高さの布引の滝が出現する。
滝見橋
佐野粂太郎翁之碑
亀井宮治郎翁頌徳碑

鳴滝【砥部町千里】
2002/8/15
・伊予鉄バス「下千里」停留所から山道を下って行くと滝音が聞こえてくる。
・千里口より徒歩約20分。
・落差10mの滝。

白滝【砥部町外山】
2003/9/14

五光の滝【砥部町川登川中】
2003/9/14
・伊予鉄バス「古幸」停留所から砥部川を渡り、約500m(約20分)のところにある。
・水の飛沫が朝日を受けて虹色に輝くことから「五光の滝」と呼ばれる。
樽川大師
・とべ文化五十選
・砥部四国霊場23番札所薬王寺はここにある。
・鉄筋コンクリート製の祠で、内壁には、地元出身の陶芸家、中元竹山氏の陶板が埋め込まれている。
・通称「樽川さん」と呼ばれる。
・心願成就、入学祈願に御利益有り。


ダム

銚子ダム【砥部町千里】

・愛媛県下では珍しいロックヒルダム。
・昭和42年の大旱魃を契機に、砥部川両岸山麓に開けた樹園地472haの畑地灌漑計画が立てられた。工事は県営灌漑排水事業として昭和46年に着工し、昭和53年にダムが完成した。
・昭和61年には送水路が完成した。
・有効貯水量:770,000m3
・堤高:47m
・堤長:141.6m
・キャンプ場が完備されている。
銚子ダム公園
大森彦七史跡碑


砥部橋【砥部町】
2002/7/14

麻生橋【砥部町】
水梨川を源とする砥部川(16.8km)は、17の支流を集めて重信川に合流する。この合流点よりも一つ手前の御坂川との合流点が通称「落合」であり、そこに架かるのが麻生橋である。
落合からやや御坂川を上流に遡ったところに、「目張埼」という絶壁があった。原町郷土誌にも、「麻生高尾田ノ北端ニ丘アリ目張埼ト云フ.....眺望絶佳風光明媚ノ処常ニ雅人墨客杖ヲ曳クコトアリ....」と記されている。
・今ではその面影も無い。


風景

風穴【砥部町】
「大平字幸宝師ノ山間ニ風穴トテ大ナル洞窟アリ…」(砥部町誌)

古岩屋【砥部町岩谷口】

・「岩谷口村に在り其の景久万岩屋寺に似たるを以てかく名づけたりかぶきたる岩下廣くせりわりなどいふて岩の間人の行だけわれたる所もあり元文二年の開基にて霊岩寺といふ寺院あり」(伊豫温故録)

七折の梅
【参考資料】
小学生記者が行く「七折の梅」砥部町、愛媛新聞、平成18年(2006)3月18日


洞窟・鍾乳洞

樹木

アラカシ【砥部町 円通寺】
・樹高15m、胸高幹周350cm、推定樹齢300年以上。
・アラカシはブナ科の常緑高木であり、本州・四国・九州に産し、朝鮮・インドシナからヒマラヤにかけて広く分布している。
・柱目に美しい虎斑があり、床材などに利用されている。

蘇鉄(そてつ)の群生【砥部町麻生 三島神社】

・この蘇鉄の奥には御室(おむろ)があり、神を祭っていたようである。
・樹齢:300年以上
・根周り:4.05m
・樹高:4.05m
・株数:7本
・砥部町内で最大の蘇鉄である。

大公孫樹(いちょう)【砥部町五本松】
1997/1/19
・とべ文化五十選
・町指定天然記念物(昭和44年3月15日指定)
・常盤木神社にある。
・樹高36m、幹周り・目通り6m、根周り15mの大きな銀杏の木である。

もがし【砥部町八倉 八倉公民館】
・町指定天然記念物(昭和57年9月30日指定)
・根周り:約12m
・樹高:約15m
・もがし2本のうち、1本は枯れ、残ったほうの1本の根下に馬頭観音が納められている。
・「境内に七丈の大樹二本あり、枝葉繁茂一見旧跡なることを証せらる」(原町村誌、明治44年編)

麻生の椋の木【砥部町麻生】
・町指定天然記念物(平成11年3月25日指定)
・とべ文化五十選
・根周り:約5.8m
・目通り:約4m
・樹高:約11m
・樹齢:約500年
・以前はここに猿田彦命を祭るお宮(現在は三島神社境内に合祀)があった。

熊野神社の柏の木(イブキビャクシン)【砥部町岩谷口 熊野神社】
・町指定天然記念物(平成11年3月25日指定)
・根周り:6.7m
・目通り:2.8m
・樹高:18.5m
・樹齢:推定約200年(熊野神社棟札に安永7年(1778)とあり、この当時に植えられたものと推測される。)

楊梅(やまもも)の木【砥部町宮内】
・旧宮内村の庄屋・大野家の庭内にある。
・根周り:3.3m
・目通り:2.8m
・樹高:約15m
・樹齢:推定約300年

万年柿【砥部町万年】
 
万年柿の伝説

杉本家の柿の木【砥部町】
・とべ文化五十選

イヌマキ(2本)【砥部町麻生 理正院】
・根廻り:2.17m、2.31m
・目通り:1.92m、2.15m
・樹高  : 40m、40m
・「愛媛の森林基金」が看板を立てている。

理正院境内樹叢【砥部町麻生 理正院】

古岩谷の樹叢【砥部町岩谷】

天神の街路樹【砥部町】
・とべ文化五十選








 

上尾峠(うえびとうげ)【砥部町/広田村】

・標高463m。
・峠附近の焼き畑を谷底から見上げて「上火」と称したのが転じたといわれる。
・この附近からは、良質の陶石が採掘される。
庚申塔
・国道379号線を広田から砥部に向かい、上尾峠を越して2番目と3番目のトンネルの間から右側を走る旧道を下ったところにある石仏。
・前方には、昔の六郎鉱山の山々が眺望できる。
・この石仏は梵字入りの庚申塔(青面金剛像(しょうめんこんごうぞう))で、右手に剣、左手に数珠を持ち、背後には索、蛇、猿の姿が見える。
・一面八尾の忿怒仏(ふんぬぶつ)であり、幸福を呼び寄せる神通力を持つという。

鵜ノ崎峠【砥部町/伊予市】

おそごえ峠【砥部町】

間戸峠【砥部町/中山町】

砥畦峠【砥部町/伊予市】

七折峠【砥部町/伊予市】
 


天洋(てんよう)句碑【砥部町大南 長曽我部利市氏宅】
「五月雨の 小降りとなりて 続きけり」
・昭和34年建立

天洋(てんよう)句碑【砥部町大南 長曽我部利市氏宅】
「還暦の 春や明治の 生れなる」
・昭和43年建立。

天洋(てんよう)句碑【砥部町大南 障子山林道沿い】
「あの山を 越ゆれば土佐よ 雲の峰」
・昭和27年建立

守中庵石山(せきざん)句碑【砥部町八倉 八倉公民館前】
「杜宇(ほととぎす) 鳴くや江の空 涵(ひた)す水」
・「川の水が、まるでこの大きな空までをも涵(ひた)すかのように悠々と流れている。近くでほととぎすが鳴いていることよ」との意味の句。
・昭和31年春、原町村俳句同好会の手により八倉公民館前庭に建立された。
・石山は、山口県出身で、明治27年頃より八蔵寺の小庵に移住し、明治42年2月15日、60歳で逝去するまで、地方の子弟の教育や俳句の指導に尽力した。
・石山は、原町郷土誌によると「俳句、和歌、詩など文芸人として、また書家として広く知られ、特に俳句には非凡の技があって町内外から教えを乞うものが多かった」という。
・石山辞世の句は「薮入りや 六神丸を 手みやげに」である。
・句碑の側には、石山の墓がある。

蘭舟(らんしゅう)句碑【砥部町高尾田 澤田廉三氏宅】
「藻の花や 汚れて育つ 田舎の子」
・昭和61年建立。

高浜年尾句碑【砥部町拾町 稲荷滋明氏宅】
「軒を出て 気づかぬほどの 秋時雨」
・昭和37年建立

たけし句碑【砥部町拾町 稲荷滋明氏宅】
「山に雲 見馴れしものに 露すずし」
・昭和31年建立。

富安風生(ふうせい)句碑【砥部町宮内 大森彦七供養塔前】
「道ばたに 大森彦七 曼珠沙華」
・昭和50年10月、原町村俳句同好会の手により建立された。
・富安風生の芸術院会員就任、満九十歳、そして俳誌「若葉」第550号発行を記念して建てられたもの。
・文字は富安風生本人によるもの。
・富安風生は愛知県出身。明治18年〜昭和54年。

富安風生(ふうせい)句碑【砥部町高尾田 門田弘美氏邸】
「春雨や 松の中なる 松の苗」
・昭和28年建立

一貴(いっき)句碑【砥部町高尾田 門田弘美氏宅】
「石鎚も 師の句碑もよし 菊日和」
・昭和29年建立

如雲(じょううん)句碑【砥部町大南 陶祖ヶ丘】
「陶祖碑に 立てば一望 砥部小春」
・昭和60年建立

春暁樓(しゅんぎょうろう)句碑【砥部町高尾田 門田正記氏宅】
「瑞兆(ずいちょう)を 見せて初日の のぼりけり」
・昭和50年建立

窪田兵右衛門(ひょうえもん)辞世句碑【砥部町八倉 八倉公民館前】
「如月の あわれ尋ねよ 法(のり)の道」
・昭和47年4月、兵右衛門200年記念に建立。

きくえ句碑【砥部町川登 立野神社】
「去りゆけど 忘れがたしや 藪椿」
・昭和62年建立

島人(しまと)句碑【砥部町重光 円通寺】
「俳句とは 禅とは梅の 花咲けり」
・昭和63年建立

島人(しまと)句碑【砥部町七折 七折公民館】
「梅林を 巡りては径(みち) のぼるなり」
・平成4年建立

島人(しまと)句碑【砥部町麻生 金毘羅山公園】
「山峡(やまかい)に 陶房百戸(とうぼうひゃっこ) 鵙(もず)日和」
・昭和63年建立

島人(しまと)、柿人(かきと)句碑【砥部町重光 円光寺】
「禅定尼(ぜんじょうに) 禅定門(ぜんじょうもん)の 墓洗ふ」 島人
「掃台(そうたい)や 烈女松江の 妹千代」 柿人
・昭和63年建立

門田蘇青子(そせいし)句碑【砥部町高尾田 麻生小学校】
「苗札に 従ふごとく 萌え出でぬ」
・昭和27年4月、原町村俳句同好会の手により建立された。
・「種を蒔いて、苗札を立てておいたら、朝顔は朝顔、コスモスはコスモスとそれぞれ苗札のとおりに芽を出して育っていく」という意味の句。
・蘇青子は、本名範之で、高尾田に生まれた。
・原町村役場に長らく勤務しつつ、俳諧の道を志した。
・当初は八倉に隠棲中の守中庵石山宗匠の流れをくむ旧派の手ほどきを受けていたが、その後「糸瓜」、「柿」の同人として活躍した。
・やがて村内を中心に「月見草吟社」を結成し、後進の指導にあたった。
・昭和25年12月、53歳で生涯を閉じた。

菅原道真歌碑【砥部町川井 宮内天満宮】
「立ちよりて みればかわいの 姥桜 まためくり来て いつか逢見ん」
・昭和53年建立

豫士(よし)[稲荷武]句碑【砥部町拾町 稲荷滋明氏宅】
「このまるる まま手作の 豆の飯」
・昭和35年建立

樋口清風句碑【砥部町川井 樋口氏宅】
「みはるかす 心ゆたかに 毛見をえて」
・昭和28年、自宅の庭に建立した。
・文字は柳原極堂の筆によるもの。
・樋口清風(喜一郎)は、明治22年2月、川井に生まれた。
・30歳の若さで原町村村議会議員に当選し、以降収入役・助役を歴任した。
・明治44年に81歳で逝去した。

吉井勇歌碑【砥部町五本松 陶芸創作館】
「陶(すえ)ものに 旅の歌など 書きつつる 砥部風流 おもしろきかな」
・昭和60年3月に建立。
・文字は吉井勇自筆の軸を写したもの。

正岡子規歌碑【砥部町大南 武道館】
「砥部焼の 乳の色なす 花瓶(はなかめ)に 梅と椿と 共にいけたり」
・昭和60年建立

正岡子規句碑【砥部町高尾田 渡部隆樹氏宅】
「女負ふて 川渡りける 朧月」
・平成7年建立

シゲ美句碑【砥部町高尾田 渡部隆樹氏宅】
「先人の 彦七懐かし 供養塔」
・平成7年建立

冬子(ふゆこ)句碑【砥部町重光 西松公園】
「花と見し 春ののや清ら 千代の名を なにに契りて 明々年(みょうみょうねん)ゆき舞(まう)」
・昭和15年建立

坂村真民祝歌石碑【砥部町宮内 とべ温泉湯砥里館】
「砥部温泉祝歌 砥部砥石砥部焼の地に温泉(いでゆ)まで湧きて知楽の栄ゆくさと 坂村真民」
・平成6年(1994) 5月30日除幕。

坂村真民詩碑【砥部町千足 砥部中学校】
「二度とない人生だから」
・平成2年3月建立。平成元年度記念に砥部中学校PTAが建立した。

坂村真民詩碑【砥部町麻生 理正院】
「二度とない人生だから
 二度とない人生だから
 一輪の花にも無限の愛をそそいでゆこう
 一羽の鳥の声にも無心の耳をかたむけてゆこう
 二度とない人生だから
 つゆくさのつゆにもめぐりあいのふしぎを思い
 足をとどめてみつめてゆこう」
・昭和63年建立

坂村真民詩碑【砥部町麻生 理正院】
「念ずれば花ひらく」
・昭和51年3月、つゆくさの会が建立した。
・同詩碑では、7番目の碑。
・この碑には表裏に「へそ」があり、裏面には女の人型が自然に浮き出ており、建立後1年経って人型の脇腹あたりに童女の顔が浮かんできたという。

坂村真民詩碑【砥部町拾町 開花亭】
「念ずれば花ひらく」
・平成元年建立

坂村真民詩碑【砥部町拾町 稲荷喜久夫氏宅】
「念ずれば花ひらく」
・昭和61年建立

道標【砥部町岩谷口】
2002/7/14
・「左 古岩谷山 五丁」と刻まれている。大正11年1月織田冨代建之。
 (1丁≒109m→36丁≒1里≒4km)

岩谷道路改修記念碑/里道改修記念碑【砥部町岩谷】


公園

県立とべ動物園【砥部町】

行ってみよう!えひめ感動の地20選
・西日本屈指の規模を誇る動物園
・広大な敷地に180種類1000匹の動物が飼育されている。

愛媛県総合運動公園【砥部町】

・とべ文化五十選

砥部町総合運動公園【砥部町千足】
1994/7/31
面白自転車
・\200/人・時間
ローラー滑り台
湯砥里館(ゆとりかん)
・1993年8月5日に落成、翌日6日にオープンした温泉。
・この愛称は一般公募の結果、砥部町三角の田辺氏により名付けられた。
・入浴料金:大人350円、小人200円。
・営業時間:10:00〜22:00
・定休日:毎月20日
坂村真民祝歌石碑
「砥部温泉祝歌 砥部砥石砥部焼の地に温泉(いでゆ)まで湧きて知楽の栄ゆくさと 坂村真民」
・1994年5月30日除幕。

水満田(みつまた)古墳公園【砥部町麻生】
2002/6/8、2003/9/14
・昭和63年4月14日竣工。
・水満田古墳群(金毘羅山支群)に遊歩道を整備した古墳公園。 6世紀後半から7世紀にかけての古墳が22基見つかっている。
・2〜13、20〜27号墳が確認できる。
★遊歩道沿いの欄干には、地元の小中学生が造ったであろう赤土による素焼きの埴輪が取り付けてあるのだが、その大半は心無い来園者がもぎ取って持ち帰っている。
★初夏になると、公園の随所でヤマモモが実もたわわになる。1997年はヤマモモ酒造りにチャレンジしてみた。透き通る赤が非常に美しい酒が出来上がったのだが、ちょっと臭みがあるのが難点だ。
 
水満田西古墳群(金毘羅山支群)
 この公園には、いたるところに「コブ」のような盛り上がりがあります。
 これらは「古墳」と呼ばれ、今から約1,400年前の有力者のお墓です。
 それぞれの古墳をくわしく観察すると、まわりに埴輪をめぐらせているもの(2・4号墳)や、溝を掘っているもの(11・13・21・24号墳)、墳丘の裾に石を並べているもの(2号墳)があることがわかりました。
 どの古墳も、横穴式の石室の中に多くのお供え物(土器など)と一緒に数人の人が次々と葬られていたようです。石室のしくみやお供え物の種類からは、古墳の年代や埋葬された人の地位まで推定することができます。また、この古墳群では、丘陵の高いところから低いところへと、古い順に古墳が造られていったことも、考古学の調査でわかっています。

(水満田古墳公園案内図より)


 
物見櫓
・6本柱、高さ9mの木製の櫓。
・管理上、自由に上がれないよう鎖で施錠しているのが残念。(展望希望時は、町教育委員会社会教育課:089-962-4820へ申し込む。但し団体様のみ。)
・上からの道後平野の眺めは最高だ。
はにわ窯
・古墳時代窯跡群の中で、県内でも珍しい埴輪窯跡「谷田1号窯跡」が愛媛県総合運動公園内で発見された。はにわ窯は、この窯跡をもとに平成3年に再現したもの。実際に年2回程度は埴輪を焼くのに使用している。
高床式倉庫
2号古墳
・墳丘は直径17m、残存高3.4mの円墳で、水満田古墳公園内で最も高い位置にある。
・横穴式石室があり、土器・鉄器・耳輪・円筒埴輪などが出土した。
・墳丘の低い位置からは、大型の甕や壷が出土しており、墓前祭祀(墓前で行う祖先への祭り)に使用されたと見られる。
水満田2号古墳
 古墳とは、そのあたりの村を支配していた人を葬るために、土を高く盛ってつくった墓のことです。古墳はその形から、円墳、方墳、前方後円墳、前方後方墳などがあり、現在のところ砥部町の古墳は円墳と方墳です。
 水満田2号古墳は、墳丘が直径約17m、残存高3.4mの円墳で、内部に横穴式石室をもった、この公園の中では最も高い位置にある古墳です。この古墳は、平成5年に砥部町教育委員会が発掘調査を行い、その後、広く後悔するために整備を行いました。
 石室の中からは、たくさんの須恵器、鉄器、玉類と円筒埴輪1点・耳環(耳輪)4点が出土しました。耳環と、床に分布する赤色顔料の存在から、東側に頭をむけて葬られていることがわかっています。また、墳丘の低い位置からは、須恵器や埴輪がみつからりました。この須恵器のうち、大型の甕や壷は墓前祭祀(祖先を祭ること)に使われたと考えられます。
 この古墳は、追葬(いったん遺体を葬ってから、後世に別の遺体を葬ること)が行われています。まお、今回の整備により、石室の中の土器は、町内の粘土を使って再現しました。

 2号古墳の石室説明図

砥部町の古墳群について
 砥部町は愛媛県の中でも特に古墳が密集している地域です。砥部川両岸にある丘陵・河岸段丘上に合計10以上の古墳群があり、通谷池南部がその南端です。
 財団法人愛媛県埋蔵文化財調査センターが昭和61年に実施した調査の結果、この公園には19基の古墳があったことがわかっています。すべて古墳時代の後期につくられたものですが、一度につくられたのではなく、6世紀後葉から7世紀中葉にかけてつくられています。そして、古いものほど大きく、丘陵稜線上の高いところにあるようです。
 また、古墳稜線上の高いところにあるようです。
 また、古墳の中の石室を形づくる大きな石は、砥部川などから運んできたものと思われ、当時の人々の苦労がしのばれます。

平成8年3月 砥部町教育委員会

(説明書きより)

竪穴式住居
・砥部川の河岸段丘上集落遺跡から、たくさんの竪穴式住居跡が出ている。
・水満田古墳公園には、5.5m四方、地上高3mで、壁際に竈がある住居を再現している。
竪穴住居
 竪穴住居とは、地面を数十センチ掘りこんで床をつくり、柱をたて屋根をふいた住居で、夏涼しく冬は暖かく住みやすいといわれています。床には炉またはカマドなどがあり、床面はかたく踏みかためられています。また、周囲には浅い溝をめぐらしていることもあります。
 竪穴住居は、日本では縄文時代から平安時代にかけて使われていたらしく、その床面の形は円形、方形、隅丸方形などがあります。砥部町では、全体的にみると弥生時代には円形が多く、古墳時代には隅丸方形が多いといえます。町内で発見されている住居跡は、縄文時代、弥生時代、古墳時代のものがほとんどで、愛媛県総合運動公園附近や、砥部川の河岸段丘にある集落遺跡からたくさん出土しています。
 これらの住居跡には、弥生時代には、ものを煮炊きするための炉の跡が中央にあることが多く、古墳時代の中頃からは、炉にかわってカマドが壁ぎわにとりつけられていることが多いようです。今回は、5.5m四方、地上高3mでカマドがある竪穴住居を再現しました。
 なお、一棟に一家族(5〜6人程度)がくらしていたといわれています。

 住居跡の一例(水満田遺跡より)

平成8年3月 砥部町教育委員会

(説明書きより)

箱式石棺
・近くにある釈迦面山1号古墳から出土した石棺を移転・再現している。
金毘羅山3号墳
金毘羅山3号墳
 この古墳は、標高182mの丘陵上にある直径20m前後の円墳で、古墳のまわりに溝は埴輪はありませんでした。
 石室は、遺体を納めた「玄室」と、その部屋に入ってゆく通路の「羨道」からできています。真上から見ると、ちょうど羽子板のような細長い形をしており砥部地域の典型的な「横穴式石室」のひとつです。
 発掘したところ、玄室には、数人の人が、武器(刀や弓矢)や馬具(轡など)、さらには、工具(斧や小刀)や土器(壷や皿)とともに、次々と葬られていたことが判りました。
 壷や皿は、「須恵器」と呼ばれる灰色の堅い焼き物ですが、この焼き物の年代から、この古墳が、6世紀の中頃から7世紀の初め頃(古墳時代の後期)に営まれた、有力者一族のお墓であることが判りました。

(説明書きより)

西の谷上池
西の谷下池
金毘羅上池竣工記念碑
・砥部町長高市昭次書
・碑の裏面には以下の通り記されている。
ため池等整備事業主旨
 本ため池は、砥部町三角、麻生地区をかんがいしてきた主要なため池であるが、築堤後百余年を経過、老朽化による漏水が著しく、かんがい用水不足はむろん、豪雨時には、極めて危険な状態であったことから、平成8年の事業採択により、悲願であった安定した用水確保と堤体の安全のため、改修を実施した。

事業名:県営ため池等整備事業金毘羅上池区
事業費:7,170万円
工期:平成8年10月〜平成10年3月
堤高:9.9m
堤長:52.1m
貯水量:9600トン
受益面積:13.6ha
管理者:西之谷水利組合

丸山農道竣工記念碑

金毘羅山公園【砥部町】

砥石山公園【砥部町】

・砥石山は古代から全国的に有名な「伊予砥」の産地で、砥部焼磁器創業の原料となった陶石屑はここのものである。正倉院文書や平安時代編纂の延喜式にも記載があり、この砥石採石跡が公園として整備されている。
★ほとんど誰も訪れることが無いと思われるほど、ひっそりとした山の中にある。車1台がやっとの道を上りつめると、そこにはグランドがあるだけで、見所があるわけでもない。
★西手になるのだろうか。大きな岩が切り立っている。昔はここから砥石を切り出していたらしい。今ではその面影も薄れてしまっている。

銚子ダム公園【砥部町】
1994/4/3、1995/4/13
・とべ文化五十選
・昭和42年の大干魃を契機に、砥部川両岸山麓に拓けた樹園地 472haの畑地潅漑計画がたてられた。工事は県営潅漑排水事業として昭和46年に着工し、昭和53年には銚子ダムが完成した。昭和61年には送水路が完成した。
・有効貯水量:770,000m3
・堤高   :47m
・堤長   :141.6m
・ここいらでは珍しいロックヒルダムである。
・[ロックヒルダムと言っても馴染みがないことであろう。要するに直訳の通り「岩の岡でできてるダム」なのだ。ダム壁面が、石垣の斜面で形成されてるといったほうが分かりやすいであろう。
・キャンプ場も併設されており、家族でゆっくりと過ごすにはなかなかの穴場であろう。
・ダムサイドには桜の並木があるが、若干海抜も高いので、松山平野での花見が終わった頃がちょうど見頃となる。散った花びらがダム湖面で花の道を形成する様はなんとも美しい。
・大森彦七居城の千里城跡への登山口もある。
《1995/4/13》
・家族総出でガスコンロを持っていき、野外でカレーを作って食べる。
・ニョーボに昼食を作るのを任せて、娘、息子と3人で千里城趾まで登山をしたが、見かけよりも急勾配で、上るのに非常に難儀な思いをした。頂上には何もなく、ただ見晴らしが良いだけで、子供達は不服そうな顔をしていた。仕方がないので、下に降りてから竹と蔦で弓矢を作ってやったら大喜びで遊んでいた。少しはオヤジの威厳を保てたか。
・排水路にイタチが迷い込んでいた。子供達は「生イタチ(?)」を見るのが初めてで、大喜びで追いかけまわしていた。
銚子ダム

障子山自然公園【砥部町鵜ノ崎】
障子山

田ノ浦町民広場【砥部町田ノ浦】
2001/7/29、2003/9/14
・昭和63年4月14日竣工。
・野球場、多目的広場、子供広場、休息所がある。
農免農道竣工記念碑
・「砥部町長 松崎明」

砥部町民イベント広場【砥部町】

西松公園【砥部町重光】
御幸神社跡の石柱
義民三好半右衛門の碑
三好半右衛門は農民の鏡として神に祀られた。御幸神社は、この半右衛門を祀った神社であるが、今では三島神社に合祀されている。
半右衛門は麻生拾町に生まれ剛直な人であった。長じて五人組頭に推挙されたが、当時新谷藩であった下麻生村(拾町、重光、八倉)には庄屋が設置されておらず、色々と不便であった。藩政時代に庄屋が無い地区はみじめな思いをしたのである。そこで関係の新谷藩主、大洲藩主に庄屋設置の陳情書を何度となく提出したが許されず、単身藩主に直訴したという。当時直訴は固く禁じられていたため、終に極刑が言い渡され、宝永4年(1707)8月25日に斬首刑に処せられた。しかし、これにより藩主も事情を調査し、庄屋の設置を認めた。かくして村の中心重光に庄屋屋敷が作られ、初代官宮内清右衛門以下五代、更に西岡家が維新まで在勤した。
・村人は彼の死を無駄にしてはならないと、半右衛門を祭神とする神社を建立した。
半右衛門の功績は。原町村郷土誌や御替地古今集などに記載されている。


祭り

原町の大般若【砥部町原町】
・とべ文化五十選
・大般若経は、昔宮中において国家の除厄招福のために、勅を奉じ転読(経文を飛び飛びに読む)する習わしがあったが、仁和年間に天災・疫病・飢饉などの厄があり、朝廷が諸国の寺院にこの大般若経の転読を命じたのが始まりといわれる。
・昔悪病が蔓延し区民は困り果てて理正院の住職に悪病退散を依頼したところ、大般若祈祷を教示され、区民が大般若経を転読し大般若の御礼を各戸に貼り区内の東西南北に厄除けの御札を立てて祈念すると、たちどころに悪病は退散し、平和な生活に戻れたと伝えられる。
・以来、この習慣は続き、毎年1月24日に地区の人々が集まり大般若経を奉納し、僧侶を迎えて転読した後、経本を納めた経櫃(きょうひつ)をみんなで担ぎ、掛け声も賑やかに町内各戸を回って、家内安全と除災招福を祈念する。現在は区を6組に分け、順送りで当元を決めて行われている。

高尾田の獅子舞【砥部町高尾田】
●渡御獅子:神輿渡しを迎える獅子舞
★獅子舞の種類:@三番そう、Aうちこみ、B山さがし、Cそく飛、Dとんとこ、E二ツがい、F三ツがい、G四隅とんとこ、H芋堀

砥部焼まつり
・陶工の祭典。4月中旬に行われる。即売会には町内はもとより、近郊から大勢の人が押し寄せ、この日ばかりは国道33号線に長蛇の車の列が出来る。
・砥部総合公園、砥部焼伝統産業会館、砥部町商工会館が会場となる。

陶祖祭
・4月23日に陶祖ヶ丘で行われる。

如月忌
・とべ文化五十選
・砥部町が生んだ名俳優、井上正夫の命日2月7日に行われる。

七折梅まつり
・七折は梅の名所。丘陵、平地とも、辺り一帯梅の木が純白の花で色づく。その数、およそ1万本といわれる。
・梅まつりは、2月下旬の土日曜日に行われる。

お日待ち【砥部町】
・とべ文化五十選

砥部四国【砥部町全域】
・とべ文化五十選

古樋の堰上げ
・とべ文化五十選

西願寺の祭礼
・とべ文化五十選

盆踊り
・とべ文化五十選

大宮さんのけんか神輿
・とべ文化五十選

亥の子
・とべ文化五十選

獅子舞
・とべ文化五十選

伊予万歳
・とべ文化五十選


イベント

施設

砥部焼伝統産業会館【砥部町】

・和風瓦葺きの建物には、屋根に壷が配され、玄関に入ると轆轤作りとしては日本最大といわれる高さ2.3mの大壷が置かれている。
・中の展示は、歴史資料から現代感覚溢れる名品まで砥部焼の全てを揃え、作品の数と多様さでその魅力を堪能させる。
・入館料:200円
・開館時間:09:00〜17:00
・休館日:木曜日

陶芸創作館【砥部町五本松82】

・昭和58年5月にオープンした。
・町営の創作館。粘土を利用して轆轤成形や手びねりから絵付けまで、一日陶工気分で手作り体験ができる。
・休館日:毎週月曜日、木曜日(但し祝日は開館し、翌日は休館)、年末年始(12/25〜1/5)
・開館時間:10:00〜17:00(4月〜11月)、10:00〜16:30(12月〜3月)
記念陶壁
・自分で絵付けした陶板を創作館の陶壁に埋め込むことができる。

砥部焼観光センター 炎の里(えんのさと)【砥部町千足359】

・営業時間:08:30〜18:00
・国道33号線沿い。三坂峠上り口。
・昭和42年オープンした「砥部焼観光センター」を「炎の里」の名を付け加えて、平成16年(2004)3月1日にリニューアルオープンした。
・http://www.tobeyaki.co.jp/

・2階では、砥部焼の絵付け体験ができる。
・2階には、中国西安市出身の水墨山水画家・牛子華(ぎゅうしか)氏の作品展示がある。

登り窯・展示館(梅野製陶所)【砥部町】
2005/12/10
・砥部町内で一番大きな窯元。
・工場見学が可能。

蔵元酒造資料展示館【砥部町】
・伝統産業会館の南側。蔵の一部を展示館として開放している。
・酒造りの道具・資料などを見学できる。

開花亭
2005/12/10
・陶街道五十三次-1
坂村真民詩碑(第100番碑)「念ずれば花ひらく」
成就石
・「どんな願いでも告げて下さい。どんな願いでもかなえて下さる霊石です」
陶街道五十三次案内マップ(陶街道起点)

真砂屋

※探訪の際、ちょうど「陽器なやきもの展」というのをやっていた。土造窯(坂本明三郎)、つもる窯(宇都宮積)の両氏の作品を展示していた。宇都宮積氏としばらくお話させてもらった。宇都宮氏は非常に物腰が低く丁重な物言いで、色々と説明をしてくださった。(2005/12/10)

井上正雄記念館

サレガランド・プラーナ【砥部町川登2842】
・2003年12月にオープンしたスキー場
・2006年度は休業。


学校

温泉

湯砥里館【砥部町】

一本松鉱泉【砥部町宮内】

古名鉱泉【砥部町川登】

川登鉱泉【砥部町川登】


伝説

矢取川の鬼女
矢取川は今でこそ水無川であるが、昔は水を湛えた天井川であった。
・湊川の戦いで功績をあげた大森彦七が神前郷松前村(現在の松前町)の金蓮寺(唐僧明海上人開基とされる名刹)に猿楽を見に出かける途中、重光の部落を流れる矢取川に差し掛かったとき、一人の女が蹲っていた。
・女は顔を見せようとしなかったが、彦七は女を背負い、川を渡ることにした。
・川の真ん中まで来たとき、背負った女の顔が水面に映った。それは恐ろしい形相をした「鬼」の姿であった。 この鬼女は楠木正成の亡霊だという。
・この物語は江戸時代には舞踊劇となり、明治時代には、福地桜痴の史劇「大森彦七」が新歌舞伎18番の1つとして上演されていた。
矢取川はこの伝説に基づき、鬼女の顔を映したことから「鏡川」とも呼ばれる。

黒岩谷の相撲好き狸【砥部町大谷】

柿取り狸【砥部町五本松】

たかぼうず【砥部町北川毛 高野橋】

きつねの嫁入り【砥部町中通】
・昔、孝行息子がおり、農作業をしていると夕暮れ間近より雲行きがあやしくなってきて、忽ち雨が降り出したので仕事そっちのけで家にすっ飛んで帰った。
・暫く外を眺めていると、向かいの山裾にぼんやりと灯が灯っているのが見えた。仰天した息子は母親に「あれは何じゃ?」と尋ねた。「あれはきつねの嫁入りでの。足下を照らす提灯なんよ」と答えた。
「ほしたら、おっ母、何で雨の降る日に見えるんぞな」「ほりゃ、親ぎつねが悲しんで泣いとるけんよ」

騙されたカワウソ【砥部町大角】
・昔、ある爺さんが竹で編んだよこしま(籠)を腰に下げて川釣りに出掛けた。しばらくすると、元気のよい小僧がやってきて魚釣りを眺めていた。魚がぼちぼし上がり始めると、小僧は
「爺さん、僕がよこしまを持っといてあげらい」
と言ってきた。
「好きにしたらええわい」
と爺さんは、黙々と魚を釣り続けた。
・魚が沢山釣れたので、喜んで帰ってよこしまを開けてみると、何と一匹も魚がいなくなっている。
「くそぉ!あの小僧にやられてしもたわい」
・悔しくてたまらない爺さんは、あの小僧を懲らしめてやろうと翌日も同じ場所へ釣りに出向いた。すると、昨日と全く同じように小僧が寄ってきて、
「爺さん、僕がよこしまを持っといてあげらい」
と言ってきた。
「好きにしたらええわい」
と爺さんは、黙々と魚を釣り続けた。
・しばらくして、爺さんは
「小僧よ、もう沢山釣れた思うんじゃが、ちょっとよこしまの中に入って数えてくれんかのう」
と言うと、小僧はよこしまの中へ入っていった。しめたと思った爺さんは、すぐさまよこしまの蓋を閉じた。
・そのまま持って帰ってから、よこしまの中を覗き込んでみると、中には一匹のカワウソが入っていた。

辛螺山(にしやま)の大蛇【砥部町重光】
・昔、ある爺さんが辛螺山の「杖の内(つえのうち)」に薪を拾いに出掛けた。
・日が傾き、薪も沢山集まったので、ぼちぼちと山道を下りはじめた。すると、道の先に、古い大きな木らしきものが横たわっており、
「ありゃぁ、こりゃ大変じゃ。来るときは無かったのに、大きな木が倒れて道を塞いどる」
と困りながら、側に寄ってみると、何やらゆっくりと動いている。よくよく見てみると、見たこともないような大きな蛇であった。
・すったまげた爺さんは拾い集めた薪も放り捨て、這いずり回って山道を駆け下りた。その日以来、爺さんは余りの驚きに寝込んでしまったという。

万年柿の伝説【砥部町万年】
[パターン1]
 昔、万年に甘くてとても美味い柿が沢山なっていた。
 ある時、旅の僧がここを通りかかり、この辺りに住む老婆に
「柿を一つめぐんではもらえぬか」
と頼んだが、欲深い老婆は
「これは渋柿じゃけん、干し柿にせんと食べれんのじゃ」
と断った。
 すると、その翌年からこの老婆のところの柿は渋くなり、また種も無くなってしまった。
[パターン2]
 昔、万年に甘くてとても美味い柿が沢山なっていた。
 ある時、弘法大師がここを通りかかり、この辺りに住む老婆に
「柿を一つめぐんではもらえぬか」
と頼んだ。快く差し出したが、弘法大師は種が喉にひっかかり大層腹を立てたという。
 それ以来、弘法大師の仕業か、種が無くなってしまったという。

夫婦石【砥部町川井】
・昔、ある川の中に仲良く寄り添うように大きな二つの石が並んでいた。1つは荒々しい石で雄石と呼ばれ、もう一つは滑らかな石で雌石と呼ばれていた。
・ある日、ひとりの村人が
「いつも夫婦みたいにひっついとる。ちいと離れ離れにしちゃろう。」
と、片方を別のところへ持っていってしまった。
・ところがしばらく経って大水が出て、川の水は溢れんばかりになった。その翌日、水が引き、石があったところに行ってみると、不思議なことに二つの石はもとのように仲良く並んでいたという。
・以来、この二つの石を誰とはなしに、夫婦石と呼ぶようになったという。

ハゼトリ【砥部町大谷】
・昔、殿様行列が通るときは人々は道端に寄って深く頭を下げていなければならなかった。
・ある時、二人の男が大きな櫨(はぜ)の木に登って実をとっていたところへ、殿様行列がやってきた。行列に気付くのに遅れ、とうとう下りることができなくなってしまった。
・「どうすりゃええんじゃ」「何でも構んけん歌でも歌うてみいや」
・大きな声で歌い始めると、殿様はその声に気付き、
「これ、あの声は何の声じゃ」
と家来に尋ねた。すると、その家来は。
「あれはハゼトリと申します」
と答えた。殿様は、
「ハゼトリとは綺麗な声で鳴くものじゃのう」
といたく感心したそうな。
★大谷地区には昔たくさんの櫨の木があったらしい。

馬取淵のエンコ【砥部町宮内】
・昔、永代寺の下の馬取淵の河原で庄屋が馬を繋いでいると、そこへ一匹のエンコが現われ、手綱を持って淵の中へ引きずりこもうとした。馬は驚いて飛び跳ね、エンコを綱で巻き付けて家まで駆け戻ってきた。
・驚いた庄屋は、エンコを殺そうとしたが、哀れみに思いエンコを戒めて川へ戻した。
・しばらくして、エンコは庄屋のところへ魚を持って訪れ、悪さをしないことを誓ったという。

土子池(つちこがいけ)のドンコ【砥部町川井/七折】
池の傍らで背干しをしていたドンコを、柴刈りに訪れた余戸村の百姓が持ち返ろうとする。
「ドンコさんよ、あんた今自分どこ行きなはるんで?」
「わしゃ余戸の麦わらの割木で背なをあぶりにいくわい」
百姓は魚が物言うことに驚き、投げ捨てて逃げ帰った。

・川井の土子池:行道山〜川井
・七折の土子池:七折の鳥ヶ池(矢取川水源)

土子池の伝説(伝説)  砥部町川井
 大ドンコの興味深い民話で、御替地古今集に、行道山から川井分に下ると、ツチコガ池があって、余戸村の百姓が柴刈りに来た時、この池の辺りで背干ししている大ドンコを見つけ、ワラに包んで持ち帰る途中、どこからともなく「ドンコさん、今時分どこへ行きなさるか」と声がした。すると背中のドンコが「わしゃ余戸の麦わらの割木で背なをあぶりにいくわい」と言ったので、その男はおどろいて、ドンコを投げ出したまま逃げ帰ったという。
 原町村誌記載も大体同じだが、ドンコ池は七折の鳥ヶ池の地にあって矢取川の水源地であり、付近には山菜も多く松山や、郡中からの来遊者が多かったと記されている。
 ぬし魚が人語を発したという伝説は多いが、この山中のドンコ池の伝説は有名。

→c.f.「キタガモリの黒ドンコ」【広田村篠谷】

馬の鞍【砥部町外山】
・昔、「長生き」という家があり、この家には昔京都から来た人が乗ってきたと伝えられる鞍が代々大事に保存されていて、大層な「金持ちであったという。
・ある日、この鞍で子供が遊びたいと駄々を捏ねたので、母親は「この鞍も古いことだし、遊び道具にしてもよかろう」と子供に宛がった。ところが、数日経って長生き家の人々は次々と病気になり、やがて一人もいなくなった。

飛礫石伝説【砥部町八倉】

二ツ木の地名の由来【砥部町川登二ツ木】
・千里城から合図の歌声があると、二ツ木の的場めがけて矢が放たれ、その矢に伝言が託されていたところから「歌継ぎ」と呼ばれていたものが、後に「二ツ木」になったといわれる。
二ツ木に射場という姓が残っているのは、的場の名残といわれる。


キャンプ

銚子ダムキャンプ場【砥部町川登】


海水浴

人物

その他

魔住が窪(まずみがくぼ)【砥部町 大字麻生 重光】
1994/5/22,1998/9/13,2003/9/14
・とべ文化五十選
矢取橋から 600m程東に寄ったところで、大森彦七が化け物に出逢った所。旧県道脇に「大森彦七之遺跡」と刻まれた石標が建っている。
・「麻生にあり。大洲旧記に云ふ。大森彦七化物に出逢たる所なり。今、俗誤って茄が久保といふ。又小金坂といふ所あり、異女の出て彦七の背に負はれたる所なり。矢取川一に鏡川といふ。異女の形の川水に写り、鬼の姿と見えたるに因り、鏡川ともいふとなり」(伊豫温故録)
 
魔住が窪 砥部町指定文化財
 伊予温故録に「麻生村に在り、大洲旧記に云ふ。大森彦七化物に出逢たる所なり…」と大森彦七にまつわる遺跡として代表的なところである。
 彦七が、筒井金蓮寺で催される猿楽に行く途中のことである。矢取川にさしかかると美女が川を渡ろうとして難渋していた。それを見た彦七が自ら美女を背負って川を渡っている時、背が急に重くなり、月光に照らされ水面に映った美女は、にわかに鬼女となり、彦七を襲ったと伝えられている。
 ここには地蔵堂があり、彦七の襲われた場面を想像して、地元の絵師矢野翠堂が描いた絵馬が奉納されている。

 昭和62年8月 砥部町教育委員会

魔住が窪地蔵堂(藤の棚地蔵堂)
・大森彦七が鬼女に襲われた場面を想像した絵馬が奉納されている。
・春の頃は藤の花が一面に咲き、見事である。

井上正夫出生地【砥部町】
2002/8/15

井上正夫像【砥部町】
1999/10/16
・伝統産業会館南の町武道館前に建っている。
・もとは、中央公民館前に据えられていたが、国道33号線拡張工事のため、現在地に移設された。

井上正夫の墓【砥部町 愛育幼稚園より南】
・墓碑の傍らには、井上正夫の年譜があり、最後に「南無三宝 七十歳に はやとなり 昭和二十四年 正夫」の句が書かれた陶板が埋め込まれている。その陶板には、「酒は不好 うどん、そば、果物が大の好物 趣味は多岐多様で有ったが絵画を書くことは一生不変 多忙の中にも一日も筆を放さなかった 竹山写」と書かれている。

大森彦七花畑【砥部町五本松】
・「五本松村にあり大森彦七か別荘の跡なり昔は虎ノ尾櫻あり四十年前に枯れたりと大洲旧記に見ゆ」(伊豫温故録)

砥部焼の里ゾーン【砥部町】

塩売り淵【砥部町】
・麻生小学校の西側。
「麻生村に在り昔鹽賣晝寝して有しか此淵より大蛇出て鹽賣を呑まんとしてねらひ寄る籠の内に鹽の■に取りたる剣あり自ら抜出て彼の蛇を追ふ大森彦七通り掛り其の霊剣たることを知り乞ひ得て持刀となす此剣は元暦年中平家壇ノ浦にて亡ひし時悪七兵衛景清か海中へ落したりしを其の後百餘年を経て讃岐宇多津の沖にて漁夫の網に引かれ上りたるものにて此刀は二本銘刀三振の一なりと云ふ」(伊豫温故録)

土壇【砥部町麻生】
・「麻生村に在り松前城の刑罪場なり上り口の邊に五輪塔あり梅應義紅居士とあり天文元年河野七郎討死の墓なりと云ふ」(伊豫温故録)

五本松の窯元群【砥部町五本松】
・とべ文化五十選

鵜ノ崎の梨【砥部町鵜ノ崎/伊予市】
・とべ文化五十選



●とべ文化五十選
鵜ノ崎の梨 五本松の窯元群 お日待ち 原町の大般若 如月忌
砥部四国 古樋の堰上げ 西願寺の祭礼 盆踊り 大宮さんのけんか神輿
亥の子 獅子舞 伊予万歳 三島神社 金毘羅大権現
天満宮 千足の警鐘台 大宮八幡神社 ■南館 梅山窯の登り窯
霊岩寺 佐川製陶所の水車 砥部焼 重信川河畔 窪田兵右衛門の墓
森石山の句碑 赤坂泉 魔住ヶ窪 重光の常夜燈 麻生のむくの木
念ずれば花ひらくの詩碑 愛媛県総合運動公園 大下田古墳群 城山 大森彦七供養塔
通谷池 源氏ボタル 大谷池 陶祖ヶ丘 天神の街路樹
庄屋善兵衛の碑 五本松の大公孫樹 上原窯跡 砥石山 障子山
衝上断層 樽川大師 杉本家の柿の木 銚子ダム公園 千里城跡

千足の警鐘台

■南館

梅山窯の登り窯

佐川製陶所の水車

砥部焼

重信川河畔

森石山の句碑

重光の常夜燈

念ずれば花ひらくの詩碑

源氏ボタル

大谷池【砥部町/伊予市】

天神の街路樹【砥部町】

杉本家の柿の木【砥部町】



《References》


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