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こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 東温市 (旧・川内町) |
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町の花 | 町の木 | 町の花木 | 町の鳥 |
桜(さくら) | 楠(くす) |
大字 | 字 |
南方(みなみかた)
→東温市南方 |
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吉久(よしひさ)
→東温市吉久 |
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北方(きたかた)
→東温市北方 |
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則之内(すのうち)
→東温市則之内 |
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松瀬川(ませかわ)
→東温市松瀬川 |
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井内(いうち)
→東温市井内 |
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河之内(かわのうち)
→東温市河之内 |
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滑川(なめかわ)
→東温市滑川 |
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明河(みょうが)
→東温市明河 |
医王寺厨子(1基)【川内町北方
宝泉 医王寺】
・国指定重要文化財[建造物](昭和41年6月11日指定)
三島神社本殿(1棟)【川内町則之内(すのうち)
三島 三島神社】
・国指定重要文化財[建造物](平成4年8月10日指定)
お吉モズク(オキチモズク)発生地【川内町吉久
田中】
・国指定天然記念物(昭和19年6月26日指定)
三島神社木造随身立像(2躯)【川内町則之内(すのうち)
三島 三島神社】
・県指定有形文化財[彫刻](昭和51年4月6日指定)
川上神社古墳【川内町南方
宮西 川上神社】
・県指定史跡(昭和25年10月10日指定)
ウラジロガシ【川内町河之内
音田 総河内神社】
・県指定天然記念物(昭和54年3月20日指定)
近藤林内翁の墓【川内町河之内
日浦】
・町指定史跡(昭和40年4月1日指定)
・近藤林内(文政元年〜明治21年)は俗名を林兵衛という。
・河之内の素封家であり、多額の義援金を寄附した。
・翁の生前の徳行を賞して特に菩薩の諡号が贈られた。
安国寺須弥壇【川内町則之内 恵雲】
・町指定有形文化財(昭和38年4月1日指定)
・江戸時代の禅宗様須弥壇で、高さ120cm、間口300cm、奥行120cm。
安国寺古地図【川内町則之内 安国寺】
・市指定有形文化財(平成16年8月6日指定)
・旧安国寺の配置や周辺の様子を示す地図で、文政三年(1820)に画かれた。
・作者は不明。
・安国寺の配置の他に、周辺の則之内三島神社・中世城館跡などが画かれている。
西方寺五輪群【川内町北方
宝泉】
・町指定有形文化財(昭和49年1月23日指定)
・層塔2基を含む多くの五輪塔がある。中の1基に「建長六年三月八日(1254年)慈仏房」という刻銘がある。
一畳庵【川内町河之内
音田 惣河内神社】
・町指定有形文化財(昭和52年4月25日指定)
・俳人・松根東洋城が河之内惣河内神社社務所の内縁の一畳を借りて、昭和25年頃住んで俳句指導を行っていた。
北方三島神社常夜灯【川内町北方
海上 北方三島神社】
・町指定有形文化財(昭和52年4月25日指定)
・元和二年(1616年)の記銘2基あり、県下で最古といわれる。
川上神社古墳出土馬具【川内町南方
宮西 川上神社】
・町指定有形文化財(平成5年3月26日指定)
・川上神社古墳の副葬品の内、7世紀中期の馬具、金胴張りの鞍金具、杏葉(ぎょうよう)、鏡板、辻金具、轡など。
三島神社狛犬一対【川内町則之内(すのうち)
三島 三島神社】
・町指定有形文化財(平成9年4月25日指定)
・木造のこまいぬ一対で、阿吽像ともにほぼ同じ大きさ。両像とも背に力のこもった盛り上がりを見せ、前後のつめ先まで力量感がある。製作者及び製作時期については、現時点では不明だが、同三島神社にある随身像(延文五年:1359年)と作風や木材が同一の可能性が考えられることから、同一人物の作ではないかと考えられている。
土谷三島神社やなぐい【川内町河之内 土谷三島神社】
・町指定有形文化財(平成12年4月11日指定)
・長さ102cm。総皮製。一部に獣毛を施す。蓋部に三ツ葵、梅鉢の家紋有り。内部に「御鞁屋川瀬四郎衛」の墨書があり、2本の矢が納められている。
・「松山領神社帳抄本」に「松山候施入」の記録があり、「明和五本松山藩神殿ヲ改築シ松平家ヨリ胡録奉納アリ」と記されている。
井内善城寺須弥壇【川内町井内 善城寺】
・町指定有形文化財(平成12年4月11日指定)
・全体の装飾は簡素だが、均整がとれており、真言密教の儀礼が守られている。
・類似したものとして、愛媛県指定となっている、砥部町岩谷寺薬師堂須弥壇がある。制作時期は不明。
川上神社本殿【川内町南方
川上神社】
・市指定有形文化財(平成16年8月6日指定)
・川上神社は、応永四年(1396)に河野通久によってこの地に移されたと言われている。現在の本殿は、火災により消失したものを文化四年(1807)に再建されたもの。周辺に五間社流造の社はなく、規模も大きいことだけでなく、当時の金毘羅街道の宿場町として栄えていたこの地域の状況を示す一つの資料としての意味を持つものとして考えられている。
滑川光明寺本堂【川内町滑川上仲屋
光明寺】
・市指定有形文化財(平成16年8月6日指定)
・現在の本堂は、禅宗様式の特徴を持つもので、文政十一年(1828)の火災で本堂・庫裏が消失したため、嘉永四年頃に建築されたもの。
・光明寺に、嘉永四年に画かれた建築時の本堂側面絵図が残っている。
光明寺本堂側面絵図【川内町滑川上仲屋
光明寺】
・市指定有形文化財(平成16年8月6日指定)
・光明寺本堂を建築時の側面絵図。嘉永四年(1851)に画かれたもので当時の住職・棟梁の名が記されている。住職「覚道上人」 棟梁「宇野徳左衛門・和田金左衛門」
滑川万才【川内町滑川】
・町指定無形文化財(昭和38年4月1日指定)
北方獅子舞【川内町北方】
・町指定無形文化財(昭和52年4月25日指定)
・江戸時代より揚神社の秋祭りの行事の一つとして伝えられた。
・演目は二羽獅子と乱獅子に大別される
百八灯【川内町吉久】
・市指定無形文化財[民俗](平成16年3月5日指定)
・現在は、新暦の8月24日に行われている。
・百八の煩悩を去り、水難事故で亡くなった人の霊を慰め、餓鬼仏の供養を行うための行事として伝承されている。
・川沿いに一定間隔で竹の束を置き、一斉に火をつける。
・溺死者を供養するために盂蘭盆(旧暦7月24日)に行われた。
・「太郎も来い、次郎も来い」と掛け声を唱えながら、巡回して火の世話をする。
・以前は子供による行事であった。1965年頃にいったん取り止めとなったが、1985年頃、大人が参加する形で復活した。
(See.愛媛新聞、2004/8/24)
十七夜【川内町北方】
・市指定無形文化財[民俗](平成16年3月5日指定)
・十七夜は、「入船まつり」とも言われる。
・古くから北方にある医王寺に伝わる行事で、旧暦の6月17日に行われており、現在では3年に一度実施されている。
・船に乗せられた薬師如来を稚児が引き、寺の境内へと入る。この時、門の所で「入波」が唱えられ、行列が庭に入りきると、庭狩りが寺の状況をたたえ、太鼓・杖の由来を語り合う。最後に庭狩り二人の持った杖で渡り合う。次に提婆が薬師如来の功徳を称え、その時厨子が開き、如来を拝む。続いて端歌が唱えられ、稚児一同輪になって踊りながらこれに和する。
北方獅子舞【川内町北方】
・町指定無形文化財(昭和52年4月25日指定)
・江戸時代より揚神社の秋祭りの行事の一つとして伝えられた。演目は二羽獅子と乱獅子に大別される。
トチノキ【川内町北方
宝泉 医王寺】
・町指定天然記念物(昭和38年4月1日指定)
揚神社クスノキ【川内町北方 西之側(揚神社)】
・町指定天然記念物(昭和52年4月25日指定)
・高さ36m、目通り7.8m。
上福寺のクスノキ【川内町松瀬川
西組 上福寺】
・町指定天然記念物(昭和49年1月23日指定)
・高さ29m、目通り5.5m。
クスノキ群生【川内町河之内 狩場 惣河内神社】
金毘羅寺四本杉【川内町河之内
音田 金毘羅寺】
・町指定天然記念物(昭和49年1月23日指定)
土谷三島神社杉【川内町河之内 土谷三島神社】
・町指定天然記念物(平成16年8月6日指定)
大通庵彼岸桜【川内町井内】
・町指定天然記念物(昭和50年5月15日指定)
・高さ12m、目通り1.5m。
久尾の彼岸桜【川内町久尾】
・町指定天然記念物(昭和50年5月15日指定)
・高さ16m、目通り3m、別名「釣鐘桜」。
源太桜【川内町河之内
田桑】
・町指定天然記念物(昭和56年11月26日指定)
・高さ17m、目通り2.88mと2.15mの2本、樹齢推定300年、樹種エドヒガンザクラ。
雨滝イスノキ群生【川内町河之内
音田】
・町指定天然記念物(昭和38年4月1日指定)
川筋のイチョウ【川内町松瀬川
川筋】
・町指定天然記念物(平成5年1月14日指定)
・高さ31.2m、目通り7.85m、雌株。
吉久のイブキ【川内町吉久】
・町指定天然記念物(平成5年1月14日指定)
・高さ15m、目通り4.7m。
大興寺の山もも【川内町北方 大興寺】
・町指定天然記念物(平成9年4月25日指定)
樹勢が旺盛で、川内地区にある山ももの中では一番の巨木。高さ15m、目通り2.4m。
日浦のムクノキ【川内町河之内日浦】
・町指定文化財(平成16年8月6日指定)
一本松【川内町則之内 三島神社】
白猪の滝【川内町河之内
問屋】
・町指定名勝(昭和40年4月1日指定)
唐岬の滝【川内町河之内
問屋】
・町指定名勝(昭和40年4月1日指定)
滑川渓谷(滑床)【川内町滑川
海上】
・町指定名勝(昭和40年4月1日指定)
立鳥帽子城跡【川内町/丹原町】
駒頭城跡【川内町】
・面木山
舟野砦【川内町松瀬川】
・「松瀬川村字三軒屋に在り、弘長中新田の一族堀口備中守尭氏中山口の押としてこれを守る」(伊豫温故録)
名越城【川内町】
七森城【川内町河之内】
・佐伯河内守惟重が居城した。
龜甲城(中山城)【川内町河之内 土屋】
・佐伯惟元が居城した。
八森城(蜂ヶ森城)【川内町河之内】
・佐伯氏が居城した。
・佐伯新左衛門尉善成は、慶長4年より河之内村の庄屋になり、後の文化年中に久米郡苅屋村に移住した。
大熊城【川内町則之内】
・戒能備前守通森が居城。
「大熊城 則之内 戒能備前守居」(予陽郡郷俚諺集)
「則之内村にあり 戒能氏の居城なり 二名集に云ふ 大除城主大野紀伊守利直小手瀧の城を攻む
城主戒能通運防戦 利直当城の用水を絶つ
故に保つ能はず 城を棄て大熊城に莟む 利直進んでこれを圍む
城固して抜く能はず 空しく圍を解ひて引退く 城兵追撃甚だ急なり 寄手度を失ひ死傷数を知らず
周布郡剣山城黒川通俊大野に與力して寄手の陣に在り
馬を射られて遁げ去る能はず 遂に則之内村斎院瀬に於て自殺すと云ふ
河野家分限録に載るもの左の如し
御侍大将十八将之内
浮穴郡大熊城 小手瀧城鳥屋森城三ヶ所
戒能備前守通森
手勢十騎 御旗下組十四騎 併二十四騎
御旗下組衆
宇和川伝右衛門尉 | 北山備中守 | 小山兵庫正 | 大平新右衛門尉 |
上野兵庫介 | 江戸平太 | 野口左衛門尉 | 樫尾四郎兵衛尉 |
森平内左衛門尉 | 南新蔵人 | 吉井主水介 | 山前勘解由 |
大野右近 | 戒能伊織 |
一ノ森[標高850m] |
二ノ森 |
三ノ森(池の平) |
国木屋敷[標高590m] |
小手瀧城【川内町井内】
・戒能通運、戒能通盛が居城。
「大字井内中野部落の東方にある。標高520m、戒能備前守通運(みちのぶ)の居城であった。通運は久万大除の城主大野利直と戦ったが、用水を絶たれて落城し、大熊城へ逃れた。中野の畔畔等には無縁塚無縁墓が数多くあるが、これはこの時の戦に戦没した兵士の墓であるといわれている。現在城跡には竹が密生して竹林となり、「城薮」と里人の間に愛称されている。竹林の中には桜の木があって、春は桜の花をめでる人も多い。山頂は周囲が急峻で、頂上は平となり、西北方には石垣が数間残り、石垣を下ると更に小さい平地があり、人工的な形跡が残っている。東方は絶壁で、周囲の眺望も良く堅固な地である。古老の言には古井戸があるとの事だが何処にあるか又あったのかわからない。東へ迂回して下った所に、「治部屋敷」と云う地名が残り、谷を渡って北上すると、「ハゴレ屋敷」と云う所がある。刃折の変名と思われ、小手ヶ滝城の名残を止めるものとして意義深い。
小手ヶ滝城にちなんで「劍■院殿城離大居士霊慶長十四年酉十月七日」、裏面に「古手滝城而忠死有し義家公国里是古手ヶ城二男なり」と刻んだ位牌を旧庄屋菅野氏の一族菅野勇氏が蔵し、竹の硯と共に保存している。」(川内町誌)
「小手滝城 玉井但馬住之、井内村にあり」(豫陽郡郷俚諺集)
「小手滝古城 井内村に在り
建武年中河野家より此城を築し、天文年中戒能備前守通盛温泉郡石手の館より此城に移る。備前守通盛の子藤兵衛通次男三郎左衛門通邑三郎左衛門通秀関ヶ原御陣の節松前合戦にて落城子孫今に村方に有之よし」(豫陽古跡俗談)
「小手滝城 浮穴郡 戒能伊賀守通運守之」(伊豫二名集)
「井内邑有故城、曰小手滝、建武中河野氏命営也、天文中使戒能伊賀守通運移居焉、永禄中通盛備前守継而居矣、生子、長曰通次、藤兵衛一次曰通邑三郎左衛門、通邑生通秀与左衛門世々継而居矣」(伊豫古蹟志)
塩ヶ森城(笹の城)【川内町則之内】
・「塩が森 同所(則之内) 河野備前守」(予陽郡郷俚諺集)
・河野八郎左衛門通郷が居城。
鳥屋森城【川内町則之内】
・則之内(すのうち)保免にあり、塩ヶ森へ登る「馬の背」という難所の手前にある平らな所で、戒能備前守の持ち城であったといわれている。
・戒能某が居城。
・渡部伝左衛門という者が宇和郡宇和川の城から移り、数代居城した。
・現在は砦形の展望台がある。
川上神社古墳【川内町南方】
斎院木【川内町則之内
斎院木】
・久万町大除城主・大野紀伊守利直が大熊城主・戒能備前守通森を攻め立てたとき、周桑郡剣山城主・黒川通俊がこれを迎え撃ったが、攻防に敗れて則之内の斎院瀬にて自害したという。
・斎院木には黒川通俊の墓があるという。
黒川通俊の墓【川内町則之内 斎院瀬】
・周布郡剣山城主であった黒川通俊は、大除城主・大野氏との戦いに敗れ、則之内村斎院瀬にて自害したという。
滑川小学校跡【川内町滑川】
1998/2/7
・滑川小学校の位置は、東経133°、北緯33°48′。海抜は310.418m。
・グランドも今ではゲートボールコートとして活用されている。校舎の二階には2つの投光器がゲートボールコートの方に向けて取り付けられている。校庭に一人立ち尽くす、生徒御手製の埴輪像も丁度ゲートボールコートの方を向いているのが何とも物悲しい。
安国寺【川内町則之内
恵雲】→東温市則之内2781
・「暦応己卯年8月8日足利尊氏創建、無極禅師開基」と伝えられる妙心寺の支院。
・延宝四丙辰年8月23日、僧・祐岩が入寺した。
・元禄年間に再建。
「万松山安国寺 則之内、本尊薬師、尊躰楠の櫓に入てあり、十二神脇に立給ふ、暦応二己卯年毎州安国寺を立つ、足利三代将軍義光公寄付の状あり、
寄進伊予安国寺
同国余戸庄並吉原郷地頭職、松崎浜等之事、右為当寺領所令寄付之状如件、
嘉慶二年二月二十八日 左大臣源朝臣
安国寺は於予州領二万三千石、又河野通之状に云、
伊予国余戸庄内、大野、森山、先知行所領之事、
上方為御寄進被成御教書上者、早自寺家御知行不可有相違之状如件、
応永四年十月十八日 河野六郎通之
安国寺衣鉢閣
此安国寺の事なるにや、芸州広島の城下より唐木を以て伽藍建立、今は曹洞国泰禅寺と云い、鎮守三島宮の社あり、」(予陽郡郷俚諺集)
安国寺須弥壇
・町指定有形文化財(昭和38年4月1日指定) ・江戸時代の禅宗様須弥壇。 ・高さ120cm、間口300cm、奥行120cm。 |
医王寺【川内町北方1551 (宝泉)】
1996/4/21、1997/12/26、2004/2/11
・山号:苔渓山
・宗派:真言宗
・奈良中期の大宝2年(702)に行基が開基したとされる。
・本尊:薬師如来
・「北方村字寶泉に在り、大寶二壬寅年僧行基是を創営す」(伊豫温故録)
応観寺【川内町南方】
岡之坊寺【川内町北方 宝泉】→東温市北方1545
光明寺【川内町滑川
仲屋】→東温市滑川甲1281
1998/2/7,2001/1/3
・山号:安養山
・川の西側の小高い岡の上に建てられている。
厨子
・国指定重要文化財(昭和41年6月11日指定) ★昭和36年9月30日 町指定文化財 ★昭和37年11月1日 県指定有形文化財 ・木造入母屋妻入(高さ1.68m、奥行0.92m、間口1.28m)(*1) ・屋根はこけら葺、三手先組、桟唐戸、二軒扇捶 ・室町中期作。 ・本尊薬師如来を収めるこの厨子は大永2年(1522)作(*1)。 ・鎌倉時代盛んになった禅宗様式(唐様)を取り入れた精巧な建造物。 →c.f.浄土寺厨子(松山市鷹の子町、国指定重要文化財)と同一人物による作という説有り。 (*1)川内町のホームページによれば「天文3年(1534年頃)の作。一間厨子で、正面103cm、側面73cm、棟高289cm」
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救世地蔵菩薩
・平成6年12月に造られた。 ・縁日:15日 ・ぼけ封じのみならず、老若男女の悩み・苦しみ。不幸を救済する。 ・詠歌:おんかかかびさんまえいそわか |
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トチノキ
・町指定天然記念物 |
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苔渓山医王寺開基1300年記念碑
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鎮西八郎為朝(源為朝)の霊廟
■源為朝(1139〜1177) 源為義の子で武勇に優れているが、13歳のとき蛮勇を振ったため、父から九州へ追われた。為朝は「阿蘇忠景」の婿となり、数年後に九州全域を支配下におき自ら鎮西八郎為朝と称した。朝廷では彼を京都に召したが応ぜず父為義は連坐により解官された。 ■保元の乱(1156) 12世紀の中頃、皇室では後白川天皇と兄の崇徳上皇が対立し、攝関家では兄の藤原忠通と弟の藤原頼長が対立していた。これらの対立は鳥羽法皇の死を契機に爆発し、後白河天皇・藤原忠通は平清盛・源義朝を味方に、崇徳上皇・藤原頼長は平忠正(清盛の父)、源為義(義朝の父)を味方とした源為朝は父(為義)に従った。親子兄弟が敵味方の二派に分かれて戦った。結果は後白河天皇側が勝利した。 崇徳上皇側の敗因は源為朝の夜襲戦の進言を退けたためであるという。崇徳上皇は讃岐に配流、頼長は戦死、忠正と為義は死罪、義朝は伊豆の大島に流された。 この乱は貴族の無力を示すとともに武士の中央政界進出を促した点で画期的な意義を有する。 ■為朝之墓 伊予の豪族河野家は清和源氏の流れを持つ家柄である。為朝が流された事について、河野水軍が秘に為朝を救い出し、滑川のこの地へ迎えたことであろう。 為朝が沖縄の王に迎えられたとか、大島で死んだという説など色々あるが、国史においては彼の死は不明になっている。 その後、河野(伊予)水軍が源平壇ノ浦の決戦に参加して勝利に導いたことは有名である。 ■清和源氏略系 56代清和天皇は皇子皇女に源姓を与う。 清和天皇−源頼義−源義家−八幡太郎義家 −弟親経(伊予に移り河野家の祖となる) 源義親−源為義−源為朝(鎮西八郎為朝) |
金性寺【川内町河之内 下音田】
金毘羅寺【川内町河之内 上音田】→東温市河之内4874
1995/12/9、2001/1/3、2002/12/14
・伊予十三仏霊場 結願寺:金毘羅大権現
・本尊:金毘羅大権現(教令輪身金毘羅尊)→c.f.総河内神社
・院号:松尾院
・宗派:真義真言宗豊山派
・長寛年中の創立で、称明寺あるいは声明寺とも称されていた。
・慶長年間(慶長14年(1609))に加藤嘉明が金毘羅寺(金毘羅大権現)と改称した。
(伊豫温故録に依れば、慶長6年3月28日、鞍瀬新左衛門が河之内村名越に創営。慶長14年に加藤嘉明が修繕。明治2年に現在地へ移築したと記されている。)
「松尾山宝持院金毘羅寺 川之内、金毘羅立給ふ、近所に腰懸石と云あり、是は建長の比鎌倉の最明寺入道諸国修行の時、最明寺此所に来り暫く腰を懸け休給ふ也、向山の峠を根引峠と云也、最明寺へ饗餉したる時、松を引て■としたるより今に根引峠と云ふ」(予陽郡郷俚諺集)
観音堂
「賢者 説黙待時待人」 |
石碑
「 河之内 金毘羅山 」 「 先づ参詣して 白猪の瀧へ三十丁 唐岬の瀧へ五十丁 」 |
金毘羅寺四本杉
・町指定天然記念物。 |
為水句碑 |
西方寺【川内町北方
宝泉】
五輪群
・町指定有形文化財(昭和49年1月23日指定) ・層塔2基を含む多くの五輪塔がある。 ・中の1基に「建長六年三月八日(1254年)慈仏房」という刻銘がある。 |
上福寺【川内町松瀬川(ませかわ)】→東温市松瀬川270
・「松瀬川村字小松に在り、天平中行基創営後衰微せしを以て、永禄元年荏原町棚居城主平岡遠江守通倚これを再興せり」(伊豫温故録)
クスノキ
・町指定天然記念物(昭和49年1月23日指定) |
昌禅寺【川内町滑川下】
1998/2/7、2001/9/9,2002/7/22
・川内西国霊場第12番札所
・薬師如来堂(写真参照)
・薬師如来堂の屋根(裏側)は倒木で損傷している。(1998/2/7)
・苔生した境内が古さを醸し出している。
・薬師堂名を記した標石の裏側には「御大典紀念 昭和3年6月 光明寺現住 自円代 北条石工久保 寄進郷弥助成組中」と刻んである。
「翁養山昌禅寺 滑川村にあり、長曽我部父子の石塔あり」(予陽郡郷俚諺集)
七人ミサキの伝説 |
善城寺【川内町井内 成】→東温市井内甲702
2001/1/14
・山号:石林山
・宗派:真言宗豊山派
井内善城寺須弥壇
・町指定有形文化財(平成12年4月11日指定) ・全体の装飾は簡素ではあるが、均整がとれており、真言密教の儀礼が守られている。 ・県指定となっている砥部町岩谷寺薬師堂須弥壇と類似している。 ・作時期は不明 |
大白牛車一字一石塔 |
長泉寺【川内町】
ビャクシン |
龍翁山【川内町河之内】
大興寺【川内町北方】
・山号:龍雲山
・宗派:臨済宗
・「北方村字海上に在り、寺傳に云、建長元巳酉年僧克仁これを創営し鎌倉建長寺の支院とす」(伊豫温故録)
大興寺の山もも |
中山寺【川内町南方】
南昌寺【川内町南方】
揚神社【川内町北方 西側】
1997/12/26、2004/2/11
境内末社:天満神社/頬黒八幡宮 |
境内末社:(社名不明) |
境内末社:客天満宮 |
境内末社:(三島神社?) |
境内末社:八幡宮 |
クスノキ
・町指定天然記念物 |
大野霊神社
「温泉郡川内黒川松の隣に有り。大野氏末裔信仰する。黒河松の横に有」(http://www.geocities.jp/fm030/syaji.htm)
大元神社【川内町則之内】
面木神社【川内町
面木山山頂】
2000/1/22,2002/7/22
川上神社【川内町南方
宮西】
・旧県社
・祭神:伊弉諾尊ほか4神
・中世には河野氏、近世には松山藩主・松平氏の祈願所とされた。
川上神社古墳
・県指定史跡(昭和25年10月10日指定) ・川内町役場の北側の小高い丘の上にある。 ・7世紀中頃の終末期古墳。 ・墳丘は長さ39m、幅22m、高さ約5mで、横穴式石室が2基設けられている。 ・東側石室は玄室長2.6m、幅2m、高さ2.1m。 |
川上神社古墳出土馬具
・町指定有形文化財(平成5年3月26日指定) ・川上神社古墳の副葬品の内、7世紀中期の馬具、金胴張りの鞍金具、杏葉、鏡板、辻金具、轡など。 |
北方三島神社【川内町北方
海上】
1997/12/26,
2003/9/7
常夜灯
・町指定有形文化財(昭和52年4月25日指定) ・元和2年(1616)の銘有り。現存の常夜燈としては県内で最古のものと見られる。 |
熊埜神社【川内町南方】
五柱神社【川内町松瀬川
新畑】
2002/7/22
末社殿
・(向かって右より)西龍神社、臼杵神社、三島神社、日天神社、坂三島神社、素鵞神社、熊野神社、山神社 |
渡辺寅■郎功徳碑 |
森市太郎翁頌徳碑 |
篠森神社【川内町松瀬川
水越】
2002/7/22
由来碑
伝説によるとここ水越は落人の里と言われている。南予一本松町土佐の県境にある篠山に城を築いていた篠森左近之丞は土佐の長宗我部の席捲にあい落城一族郎党と共にこの地に落のび住み着いた。時は天正年間のことと伝えられる。後世末裔ら住民は篠森神社を氏神として頭首左近之丞を祀って来た。 画して安住の地を築いた住民は歴史の変遷と共にこの地を後にし平成七年遂に無住の地となる。 2000年を期して後世のため之を記す。 平成12年12月吉祥日 |
惣河内神社[総河内神社](そうこうちじんじゃ)【川内町河之内
上音田(河之内4867)】
1995/12/9、2001/1/3、2002/12/14
・祭神:正哉吾勝々速日天之忍穂耳命、天之穂日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命(以上五男神)、多紀理毘買命、市寸島姫命、多紀津毘買命(以上三女神)
・利益:家内安全、商売繁盛、五穀豊穣、厄除開運、無病息災、延命長寿、国家平癒
・伊豫温故録には所在地が「河之内村字宮の元」と記されている。
・延暦23年(804)、久米郡余戸郷が野々口郷と河之内郷に別れたときに、河之内郷の総鎮守として創始された。
(惣河内神社のご案内)
雨滝三島神社
・祭神:大山祇神、嵩雄神、雷神 ・利益:祈雨、止雨、五穀豊穣、山林守護、商売繁盛 ・惣川内神社と合祀。 ・建武の頃、河野氏が湯築城を本拠とした際、東の砦を河之内に築き、同時に雨滝三島神社を創建した。 ・松山藩の公儀の雨乞い祈祷所であった雨滝から遷宮した。 |
境内社:金比羅神社(金毘羅大権現)
・祭神:大物主命 ・利益:縁結び、交通安全、病気平癒、夫婦和合 ・慶長6年(1601)、境内にある「御降臨の榊」に降臨した大物主命を奉祭する。 |
境内社:天満宮
・祭神:菅原道真 ・利益:学業成就、五穀豊穣、芸能上達、合格祈願 ・河之内日浦にあった天満宮を遷宮した。 |
百日桜
・百日桜の石碑は松根東洋城の書である。 |
ウラジロガシ |
御降臨の榊 |
長明燈
・三輪田米山、62歳(明治15年壬午10月)の書である。 |
一畳庵
・町指定有形文化財(昭和52年4月25日指定) ・漱石門下松根東洋城の結庵の跡。翁は昭和25年夏より27年春までの間に再度来山し、延べ15ヶ月滞在した。 ・社務所座敷の内縁の一畳庵に起居しつつ地方の渋柿俳句人達を指導、自ら一畳庵主と称して悠々自適の生活をし、その間100余句を残して去る。 ・一畳庵という名前は松根東洋城が名付けた。 |
黛石
・松根東洋城の遺髪と爪を収めている。 |
松根東洋城句碑 |
巨星塔句碑 |
佐伯河内守惟元の鎧
・天正年間(1580頃)に奉納したもの。 |
松山藩から奉納された金幣一対 |
松山藩松平公から奉納された灯篭一対 |
三輪田米山書の幟 |
松根東洋城の作品・遺品 |
石垣
・江戸時代末期の偉人・近藤林内により整備された。 |
惣河内神社【川内町滑川】
1998/2/7
・参道の階段を上がりきった所の両脇には見事な大木が聳え立っている。
新田神社【川内町明河(みょうが)】
菅原大神【川内町南方】
土谷三島神社【川内町河之内】
土谷三島神社杉 |
やなぐい
・町指定有形文化財(平成12年4月11日指定) ・長さ102cm。総皮製。一部に獣毛を施す。蓋部に三ツ葵、梅鉢の家紋有り。内部に「御鞁屋 川瀬四郎衛」の墨書があり、2本の矢が納められている。「松山領神社帳抄本」に「松山候 施入」の記録があり、「明和五本松山藩神殿ヲ改築シ 松平家ヨリ胡録奉納アリ」と記されている。 ※2003/9/7、重信町立歴史民俗資料館にて開催された「温泉郡の文化財展」にて写真撮影。 |
白山神社【川内町滑川
郷】
2000/1/22
三島神社【川内町河之内 本谷】
三島神社【川内町則之内(すのうち)
保免】
1997/12/26,
2001/8/15
・国道11号線沿いにある。
・暦応2年(1339)、足利尊氏が国司河野対馬守通盛に命じて、この地に社殿を再建したもので、安国寺の創建とも関連していると言われる。
三島神社本殿
・国指定重要文化財(平成4年8月10日指定) ・大山積命を主祭神とし、その創立については諸説有り詳らかでない。 ・暦応元年(1338)、河野通郷(みちさと)が大山積神社を崇敬し、それにならって社殿を建立したと伝えられる。 ・本殿の造りは三間社流造(さんげんしゃながれつくり)といい、銅板葺(旧桧皮葺)であり、桁行(正面)4.2m、梁間(側面)4.5m。 ・中世の三間社流造としては全国最大級の大山祗神社本殿と比べると半分程度の大きさ。 ・蟇股(かえるまた)、手挟(たばさみ)等の様式手法から本社大山祗神社本殿の原形をなすものではないかと言われる。 ・14世紀中期頃(室町前期)の建築と推定される。 ・四国地方で数少ない神社建築として価値が高く、三間社流造としては現在愛媛県下で最古である。四国全体でも香川県の神谷神社本殿に次いで古い建築である。 |
三島神社随身立像(二躯)
・県指定有形文化財(昭和51年4月6日指定) ・桧材寄木造 ・法眼(ほうけん)作 ・南北朝 延文4年(1359)造立 ・像高:左135cm、右138cm ・昭和49年5月30日、文化庁倉田文作先生の鑑定を受けたところ、全国的にも珍しく価値高きものと認められたため、仏師菰田宗二郎氏に依頼し■■したところを修理復元した。 |
木造狛犬二躯
・町指定有形文化財(平成9年4月25日指定) ・阿形、吽形ともにほぼ同じ大きさ。表面に施されている塗りは、後の時代(江戸時代末ごろ)に行われたもので、作られた当時は木地の狛犬だったと考えられる。 ・胴体は一木造りとなっており、尾の部分だけ後で取り付ける工法となっている。また台座の部分は裏面には4ヶ所の穴があり、4本の脚を持った台座に狛犬は置かれていたものと想像される。 ・狛犬の作者については、随身像と作風及び材質が似ていることから同一人物の作品ではないかと考えられている。 ・製作時期は、随身像に書かれていた「延文5年(1359)」頃に作られたのではないかと考えられている。 |
池川蜩谷句碑
・平成13年5月、川内吟社、めぐみ吟社、与力吟社、白糸吟社、表川吟社、タンゴ吟社、湯月吟社、連句会が建立した。 ・池川蜩谷は大正14年、則之内に生まれ。巨星塔に俳句を学ぶ。ひたき渋柿会の指導に専念す。渋柿代表同人、課題句選者となる。 |
三嶋神社【川内町則之内】
森正八幡神社【川内町南方
八幡】
1998/2/7、2004/2/11
・社叢林が立派で、青々とした樹木が林立している。
・この辺りから東を眺めると、冠雪した石鎚の姿がとても美しく目に映る。
愛媛県神社庁 |
高市政則氏頌徳碑 |
吉井神社【川内町井内】
2001/8/15
・永禄9年に小手瀧城主・戒能通盛が創建した。
・元々惣河内八社大明神と称していたが、明治3年、今の社号に改称した。
吉井神社【川内町南方】
六角堂【川内町松瀬川(ませかわ)】
瀧権現
【川内町奥惣田谷】
2001/9/1
・昭和25年の石灯篭有り
得道庵【川内町北方】
大通庵【川内町井内】
2001/8/15
・大通庵は、河野家重臣・大熊城主である戒能氏一族の墓所。
戒能通森の墓
・大熊城主・戒能備前守通森の墓。 |
自性庵【川内町北方
西中村】
2004/2/11
・山門には 「自性院」の額が掛かっている。
・境内地にある一体の地蔵には「正観音/丹波国/穴穂寺/第一番」と刻まれている。これはミニ西国三十三観音霊場か。
・山門を潜って左側には、コンクリート塀を背にして六地蔵が並んでいる。
中野薬師堂【川内町井内】
2001/8/15
・もともとは日光山円満寺と呼んだ。
中野薬師堂のイチョウ |
荒神堂
1998/2/7
神明大河小【川内町北方
東中村】
2004/2/11
・小学校の名前?と思いきや...御堂である。
・平成3年7月に建立されたもの。
庵【川内町奥惣田谷】
2001/9/1
・額が掲げられているが、名は判読不能。
・安政12年の常夜灯有り。
・明治19年の法華経塔有り。
椀貸塚(物部塚、在原塚)【川内町】
・川上神社の東北約50m。
久尾の乳地蔵【川内町久尾】
・西谷小学校から八町坂を登ると竹林がある。そこに小堂があり、傍らに銀杏の木が聳える。この銀杏の木は「乳生(ちちぶ)さん」と呼ばれる。
★この辺りには銀杏の巨木もあることから、乳地蔵が祭られる運びになったのだろう。
塩ヶ森(しおがもり)【川内町南方/則之内】
1994/11/3,11/6、1996/6/2、1997/2/23、2001/1/14,9/1、2002/12/14、2003/1/13
・皿ヶ嶺連峰県立自然公園
・標高524.7mの山頂にはテレビ塔が建つ。三角点(2等三角点)はテレビ塔の根元付近にある。その脇には蔵王権現が安置されている。
・山頂周辺には遊歩道が整備されており、南側には四国山地の山々が、そして北から西にかけては道後平野の町並みが一望できる。
★道後平野夜景スポット
・春には桜の花が咲き乱れる。
【花】
・桜
・ツツジ(4〜5月)
・石楠花(5月)
「元来塩が森と云う山名は山の容(かたち)が一升枡にお塩を盛ったようなので、かく名づけたものである。だから日本全国には相当の数「塩が森」があるにちがいない。松山附近では、ここのほかに国道三十三号線の砥部側から久谷側に出たところに一つある。これも柔らかい山だ」 (ふるさとの山々−思い出−、北川淳一郎[川内町誌所載])
「頂上。NHKの建物も不愉快で無い。私たち先づ、川上平原の大観を縦ままにした後、三内村の方へ眼をうつしたが、部落は山蔭になっていて殆んど見えない。後の山々、善神山、梅ヶ谷山、大隅山、根無山が見えるのは嬉かった。石墨以東は雲で駄目、何にも見えなかった。」
(ふるさとの山々−思い出−、北川淳一郎[川内町誌所載])
塩ヶ森ふるさと公園
・駐車場:無料、60台 ・電話:川内町産業課 089-966-2222 キャンプ場 シャクナゲ・アジサイ園 子供広場 桜の森(頂上付近) コデマリの道 |
塩ヶ森城(笹の城) |
鳥屋ヶ森城跡 |
番駄ヶ森【川内町】
2003/1/13
「この番駄が森、子供の頃、父から、この山に塙団右衛門直之が昔城を構えたとか、この山に登ったとかで塙団が森と云うのだと聞いたことがある。塙団右衛門が加藤嘉明の家来だったことは間違いないが、伊予に下ったことがあるかどうか、よし伊予に来ていたことがあったにしても、この川内地方まで散歩に来ると云ったようなことは全然ある筈が無い。父亡きいまそれをただすべき術が無い。」(ふるさとの山々−思い出−、北川淳一郎[川内町誌所載])
★塩ヶ森駐車場より徒歩30分。シキミ畑と植林帯との間に登山道有り。東側〜南側の眺望に富む。
大熊山【川内町】
2003/1/13
・標高 856m。
・川内町奥惣田谷より登山路有り。
・山頂には大熊大権現が祀られた祠がある。祠の脇には「大熊大権現」と刻まれた石標有り。その石標の裏面には「昭和42年4月 大窪精市 世話人
戒能■年」と刻まれている。
一ノ森 |
二ノ森 |
三ノ森(池の平) |
国木屋敷
・くぬぎ屋敷ともいう。 |
瀧神社
・国木屋敷方面への登り路の脇にある。 石灯篭 ・昭和28年 |
名号塔(法華経塔)
・国木屋敷方面への登り路の脇にある。 ・明治19年 |
常夜燈
・国木屋敷方面への登り路の脇にある。 ・安政十二巳年 |
善神ヶ森(ぜんじんがもり、ぜんじがもり)【川内町/久万町】
2001/8/15
・標高1248m。
・川内町井内の集落を抜けて林道梅ヶ谷永子線に入り、幾つかの小瀑を眺めながら上っていくとやがて、井内峠隧道(1978年11月竣工、延長124.7m、総幅4.2m)に辿り着く。隧道の川内町側より登山口有り。
・前善神山、奥善神山からなる連峰。前司ヶ森、うなめごなどの呼び名も持つ。
・登山道はスズタケが覆い被さっており、至って不明瞭。長袖・長ズボンで行くことをオススメする。
※善神山のブナ林は見物である。
石墨山(いしずみやま)【川内町/面河村/久万町】
2000/4/29、2001/7/22、2002/12/14
・標高1457m
・唐岬の滝入口のヘアピンカーブのところから登山道有り。約40分で割石峠に到着。割石峠には東温高校の小屋・石墨山荘がある。ここから右折して尾根道を歩く。やがて勾配が段々とキツくなってくる。息が上がりそうな急勾配を一歩一歩踏みしめながら登っていくと、突如景観が開け、笹原の肩部に着く。ここからの眺めはなかなかのもの。皿ヶ嶺山系の山並み、久万町直瀬の集落、川内町河之内の集落などが見渡せる。
・ここからの尾根道も多少勾配はあるものの、ブナの自然林が待ち構えていてくれて、なごんだ気持ちで歩くことができる。
・山頂からの景色は最高。360°パノラマの絶景が楽しめる。特に堂ヶ森、二ノ森方面の眺めがいい。
法師権現山【川内町】
割石東山(わりいしひがしやま)【川内町/面河村】
2001/6/3
・標高1074m
・非常にお手軽な登山ができる。
・黒森峠の公衆トイレの脇から登山道有り。ほんの少し登れば尾根道に辿りつく。幅広で緩やかな尾根道を何度かアップダウンを繰り返すと、行き着く先に山頂が待ち構える。
・山頂からは石墨山が見える。堂ヶ森方面も見えるはずなのだが、立ち木が邪魔してどうも塩梅が悪い。
・三角点はあるが、山名標示板などは無し。
黒森山(くろもりさん)【川内町/面河村】
青滝山(あおたきやま)【川内町/丹原町】
・標高1304m
黒森(くろもり)【川内町/丹原町】
2001/1/3、2001/2/3、2001/9/9
・標高904m。
九騎峠 |
念上峠(ネンジョ越) |
面木山(おものきやま)【川内町/丹原町】
2000/1/22,
2002/7/22
・標高988m。
・山頂には3つの祠から成る「面ノ木神社」(面ノ木神社、三ヶ森神社、石鎚神社?)が鎮座する。
・ここからの石鎚の山々の眺めは最高。
・滑川の白山神社から西に上がったところにある集落・郷から登山道が続く。
※昔は茅が生い茂る山だったらしいが、今は見る陰もない。
経座ヶ森(きょうざがもり)【川内町】
2000/9/3
皿ヶ森(さらがもり)【川内町】
2000/9/3
ヨソ山(よそやま)【川内町/重信町】
2000/10/22
船野山【川内町河之内/松瀬川】
・標高 413m。
雨滝【川内町河之内】
1995/12/9
・断崖に渓流が深い淵をなす景勝地であり、昔は雨滝神社があって公儀の雨乞所であった。
・赤い欄干のアーチ型の橋が架かっており、深い淵を見降ろせる。滝といっても高々2m位の落差しかない。
・伊豫温故録には、「尼ヶ淵」という呼び名も示されている。
・隣接して「久保淵」があるようなのだが、未確認。これも雨滝同様雨乞いの場所。
イスの木 |
滑川渓谷(なめかわけいこく)【川内町明河
海上】
1998/2/7、1998/2/11、2001/9/9
・皿ヶ嶺連峰県立自然公園
・えひめ自然百選
・町指定史跡(昭和40年4月1日指定)
・平家の哀話伝説が伝わる。
・ナメラと呼ぶ砂礫岩の岩床が約1km続く。
・落出から川を遡ると約5kmの川底は結晶片岩が続き、海上からは基底礫岩にかわる。
塩嶽(塩ヶ岳)
・駐車場から北の方へ約250m歩いたとこにある。 「汐ヶ嶽 明河村にあり、海上と云ふ所ありて塩の塊あり」(予陽郡郷俚諺集) ※滑川渓谷界隈の明河は現西条市丹原の明河と同じ行政区画として扱われていたのであろうか。(2005/1) |
前の滝
・駐車場から渓谷に向かうとすぐに見える第1の滝。 |
中の滝 |
龍の尾 |
み淵 |
熊の爪 |
犬くぐり |
龍の腹 |
奥の滝
・駐車場から南(川上)へ約600m歩いたところにある滝。 ・高さ16m。 |
上奥の滝 |
窪野淵【川内町河之内 狩場】
お吉モズク |
白猪の滝(しらいのたき)【川内町河之内】
・町指定名勝(昭和40年4月1日指定)
・皿ヶ嶺連峰県立自然公園内にある。
・えひめ自然百選
・重信川上流、表川白猪越の渓谷にかかる。
・高さ約96m。3段の滝。
・冬場には滝全体が氷の彫刻と化す。
・滝の名前は、河野氏の霊が白猪に乗って山中より現れた伝説に由来する。
「見渡せば 雪かとまがふ しらいとの 滝のたえまは もみじなりけり」 子規
・正岡子規は、明治24年(1891)に白猪滝・唐岬滝を訪れた。
(自然探勝の町 川内)
白猪の滝祭
・11月3日 |
唐岬の滝(からかいのたき)【川内町河之内
問屋】
2000/4/29、2002/12/14
・町指定名勝(昭和40年4月1日指定)
・四国のみずべ八十八ヶ所
・皿ヶ嶺連峰県立自然公園内にある。
・割石峠の渓谷にかかる滝。
・高さ約114m。7段になって落下する。
「瀑五段 一段毎の 紅葉かな」 漱石
・夏目漱石は、明治28年(1895)に白猪滝・唐岬滝を訪れた。
漱石・子規句碑
「雲来たり 雪去る瀑(たき)の 紅葉かな」夏目漱石 「追いつめた 鶺鴒(せきれい)見えず 渓の景」正岡子規 |
桜三里(さくらさんり)【川内町】
「桜三里は源太のしおき、花は咲いても実はなるな」松山藩が中山越えに桜を植えたとき、藩役人の林源太兵衛が人夫を酷使したので、これを恨んで歌ったという。
ホタルの里【川内町滑川上仲屋】
山椒ヶ崖【川内町】
・重信川上流表川の侵蝕作用でつくられた崖。
・屏風を立てたように垂直にそそり立つ。
・和泉砂岩の断層が重なり合い、見事な自然の造形美を呈している。
お吉モズク【川内町吉久(よしひさ)】
トチノキ【川内町北方 医王寺】
・町指定天然記念物(昭和38年4月1日指定)
・幹周6.3m、樹高17m(台風災害前は21.5m)、樹齢1000年以上
クスノキ【川内町北方
西之側 揚神社】
・町指定天然記念物(昭和52年4月25日指定)
・幹周7.9m、樹高36m
・昔、このクスノキを伐ろうとした者が鋸で一挽きしたところ真っ赤な血が流れ出し、驚いて逃げ帰ったまま10日余り寝込んでしまった。何年か経ち、話を聞いた他の男がそんなことあるものかと大きな斧を勢い欲打ち込んだところ急に腹痛を起こし、そのまま死んでしまった」という話が残る。
・800年も経ったクスノキの大木が田に日陰をつくるので、ある百姓がこれを伐ろうとしたところ、突如その百姓が苦しみ出した。
・何年か後に一人の樵が、またこの木を伐り始めると、その場に倒れて死んでしまった。
・今でも人々はこのクスノキの大木を神木として大切に祀っている。
カヤ【川内町北方
西之側 揚神社】
・幹周3.1m、樹高20m
金毘羅寺四本杉【川内町河之内
音田 金毘羅寺】
1995/12/9、2001/1/3、2002/12/14
・町指定天然記念物(昭和49年1月23日指定)
・参道最上部の石段の上、本堂前の左に2本、右に2本づつ門柱状に聳える。
・樹高約40m、目通り幹周4m前後(3.7m、3.5m、3.3m、3.3m)の4本。
・加藤嘉明公の手植えと伝えられる。
・4本揃って残る巨杉は県内でも珍しい。
ウラジロガシ【川内町河之内
音田 惣河内神社】
1995/12/9、2001/1/3、2002/12/14
・県指定天然記念物(昭和54年3月20日指定)
・惣河内神社の神木。
・幹周6.0m、根回り11.0m、樹高約15m、一の枝迄直径3.6m。
・樹齢算出は困難だが、全相老大の風格を備えており、ウラジロガシとしては全国稀にみるものである。
イスの木【川内町河之内
音田 雨滝】
1995/12/9
・町指定天然記念物(昭和38年4月1日指定)
・えひめ自然百選
・橋の右側にある。
・本州南部の山地に自生する常緑◆木でこの木の葉は小虫のために嚢状のふくらみを生じる。別名ひょんのきとも云う。
・4、5月頃新芽を出して深紅色の花を開く。
百日桜【川内町河之内 総河内神社】
1995/12/9、2001/1/3、2002/12/14
・年中2回開花する珍しい冬桜の一種。秋より翌春にかけて咲き続き、12月中頃が最も見頃である。
・百日桜の名は東洋城翁の名吟「春秋冬 冬を百日 桜かな」からとる。(句碑は社務所の庭池の辺りにある。)
★2002/12/14来訪時、すでに花が咲いていた!
大通庵彼岸桜【川内町井内
蔵元】
2001/8/15
・町指定天然記念物(昭和50年5月15日指定)
・エドヒガンザクラ。
・高さ12m、目通り1.5m。
久尾の彼岸桜(釣鐘桜、孝子桜、孝太郎桜)【川内町井内
久尾】
・町指定天然記念物(昭和50年5月15日指定)
・高さ16m、目通り3m。
・花の咲き具合で、その年の豊凶を占ったという。
源太桜【川内町河之内
田桑】
1998/2/7
・町指定天然記念物(昭和56年11月26日指定)
・源太桜は、エドヒガンで、推定樹齢350年に及ぶ。
貞享11年(1687)、田野の代官、矢野五郎衛門源太は藩命を破り、金毘羅街道の桧皮峠から丹原町落合に至る山中三里の間に8,240本の桜を植えたらしい。これが桜三里の起こりなんじゃと。そん時村人は源太に命じられて中山川で水を汲んで、ひーひー言いもって担いで山道を上り、桜に水をやることを余儀なくされよったらしいわい。ほんで腹に据えかねた村人達は「桜三里は源太のしおき、花は咲くとも実はなるな」
と怨嗟の謡を歌ったんと。ほしたら、ほれ以降、春になったら花は咲くんじゃが一つもサクランボの実を付けることはなかったんじゃと。呪いのパワーはおとろしいねぇ。桜はその後千原銅山の煙害などで殆ど枯死し、この桜がそのとき植えられたものかどうかは定かじゃないらしい。
落出隨道の東側には、以下のような由来が記されている。
桜三里のゆらい
「桜三里を夜で越す時にゃ親にゃ是非ない妻恋し」と唄って交通の難所と言われた。中山越の起源はわからないが歴史は古いであろう。中山越が一般的に必要性の増したのは鎌倉以後であろう。江戸期に入ると松山藩領の道前と道後を結ぶ道として必要性が増えた。金毘羅参り、お山参り(石鎚)が盛んになり商人の往来が増えてくると一層必要が増えてきた。中山越は川内町松瀬川より小鳥越→大鳥越→三軒屋→七曲→大桧皮峠→札場→小峠→田桑→千原(丹原町)→上落合→笹ヶ峠→宝ヶ口→来見までの間、中山川沿いを通って二つの平野を結ぶ幹線でもあった。藩でも力を入れた道であった。
「田桑の鞘橋御公儀普請」といわれ、屋根に手すりのついた立派な橋がかけられていた事でもわかる。
貞享4年(1687)松山藩士矢野五郎右衛門(源太)は8240本の桜の木を植えた。崩壊を防ぐのに桜がよいといわれ、藩の囚人を酷使して植えたのだという。以来、桜の季節は美しく「桜三里」とよばれるようになった。
また一説には、平家の残党樫原源太季秋は、土地の娘お初と懇になり百姓姿に身をやつし、平家の再興を願って中山川添の地に桜を植えたという。幸福な二人の間に男の子が生まれたが、お初は産後の日立が悪く、最愛の夫と子供を残して亡くなった。号泣、慟哭、悲哀は憤怒にかわり、桜にむかって「汝すべての欲を去って散るべきに散れ決して実を結ぶことなかれ」といい、桜の木に「桜三里は源太の仕置き花は咲くとも実はなるな」と書き残して愛児もろとも最期を遂げたという。二つの哀活は共に旅情を誘う。
諸国道法ができ、城下町を中心に一里毎に道標が建てられ、木から石標に代えられたのが元文5年(1740)。今に残っている「松山札の辻より●里」の道標はこれである。金毘羅大門へ●●里も目につく道標である。難所であった事は道中地蔵さんが多い事でわかる。旅の安全を神仏に頼った名残である。
新しく国道ができて旧街道はさびれて通過しぬくい所もあるが、中山越時代の道はほとんど原形をとどめていて懐かしい。今や桜三里は建設省や地元有志で国道添に桜が見事に管理され旅情を慰めている。
平成3年3月吉日
上福寺のクスノキ【川内町松瀬川
西組 上福寺】
・町指定天然記念物(昭和49年1月23日指定)
・高さ29m、目通り5.5m。
長福寺のイチョウ【川内町松瀬川】
川筋のイチョウ【川内町松瀬川
川筋】
・町指定天然記念物(平成5年1月14日指定)
・樹高31.2m、目通り7.85m、雌株。
吉久のイブキ【川内町吉久】
・町指定天然記念物(平成5年1月14日指定)
・高さ15m、目通り4.7m。
ビャクシン【川内町 長泉寺】
クロマツ【川内町海上 三島神社】
吉井神社の大松【川内町 吉井神社】
光明寺の大杉【川内町滑川 光明寺】
土谷三島神社の大杉【川内町土谷
三島神社】
・町指定天然記念物(平成16年8月6日指定)
・幹周6.0m、樹高25m
クロガネモチ【川内町保免
三島神社】
・幹周3m、樹高20m
コガノキ【川内町大宮
王柱神社】
・幹周2.7m、樹高18m
ウラジロガシ【川内町相谷
虚空蔵森】
・幹周3.1m、樹高20m
エノキ【川内町南方
国道沿い】
・幹周4.8m、樹高20m
アラカシ【川内町相谷
虚空蔵森】
・幹周3m、樹高20m
イヌシデ【川内町相谷
虚空蔵森】
・幹周3.3m、樹高25m
大興寺の山もも【川内町北方 大興寺】
・町指定天然記念物(平成9年4月25日指定)
・高さ15m、目通り2.4m。
日浦のムクノキ【川内町河之内日浦】
・町指定文化財(平成16年8月6日指定)
善神ヶ森のシャクナゲ【川内町/重信町】
オオモミジ系カエデ【川内町土谷
渡部重雄氏庭内】
・幹周1.7m、樹高8m
旧金毘羅街道(桜三里)
1998/2/7
・レストパーク桜三里のやや松山寄り、国道11号線の道端に「旧金毘羅街道→」の看板が立っている。
・細い道に入り、中山川に架かる土谷橋を渡ると正面に源太桜と旧金毘羅街道に関する説明書きが建っている。
中山川
★道前渓上流。1998/2/7来訪時は、河川工事のせいか茶色に染まっていた。 ★村人達は桜並木に水を与えるため、この川から水を汲んで山道を歩かされたんじゃね。こりゃ難儀なこっちゃ。 |
宿場
★昔は土谷橋界隈が宿場が設けられていたようで、茶七、新屋などの宿屋があったらしい。今ではその末裔達は農業を営んでおるようじゃ。庭に筵(むしろ)を敷き、切り干し大根(だいこ)を造っておる。軒先には吊るし柿をつらくっておる。 |
道標
★「左こんぴら道」と記されとる。 ★石窟に祭られた地蔵が道往く人の安全を祈りながらじっと見守っとるように見えらい。 |
峠茶屋跡
★真っ直ぐに伸びる杉の木の間の細道を分け入っていくと、心持ち平坦な広い場所に「峠茶屋跡」と案内板が立てられていた。正直な話、ここに茶屋があったなどと想像もできない場所で、面影さえも偲ばせない跡地じゃった。 |
馬治療院跡
★山道は続く。途中「落石注意」といった注意書きもあるような、何ともあぶかしい場所もある。峠茶屋から10分ほど歩くと椎茸の苗木が道の両脇で腐敗している。 ★ここも「ちょっと広いかな」と思う程度で馬が沢山停留できるような場所ではない。 |
源太桜
・エドヒガン桜 ・推定樹齢350年 ・川内町指定天然記念物(昭和56年11月26日指定) ・1本は目通り288cm、高さ25m、もう1本は目通り215cm、高さ20m。 ・貞享11年(1687)、田野の代官、矢野五郎衛門源太は藩命を破り、金毘羅街道の桧皮峠から丹原町落合に至る山中三里の間に8,240本の桜を植えた。その時、谷川から喘ぎ喘ぎ水を担ぎ上げて桜に水を汲んだであろう人々はその過酷な労働に堪えかねて 「桜三里は源太のしおき、花は咲くとも実はなるな」 と怨嗟の謡を残した。以降、この道を桜三里という。桜はその後千原銅山の煙害などで殆ど枯死し、この桜がそのとき植えられたものかどうかは定かでないが、ともかく300年以上生き延びて花を咲かせている。 |
道標
・「金毘羅大門より二五里」と記されている。 |
あけぼの橋跡
・施工:茶屋、炭屋、酒屋、笠屋 |
滑川林道
九騎峠【川内町明河
九騎/丹原町鞍瀬】
・黒森登山路。九騎→九騎峠→念上峠→黒森。
・「九騎」という地名は源氏軍の9騎の騎兵がやってきたことに由来する。
念上峠【川内町明河
九騎/丹原町鞍瀬】
・黒森登山路。九騎→九騎峠→念上峠→黒森。
黒森峠【川内町河之内/面河村笠方】
割石峠【川内町河之内/面河村笠方】
・石墨山登山路。唐岬の滝→割石峠→石墨山。
白猪峠【川内町/久万町】
井内峠【川内町/久万町】
根曳峠【川内町】
長田峠【川内町】
桧皮峠(ひはだとうげ)【川内町】
(愛媛の峠、愛媛新聞社編集局、昭和49年6月30日)
梅ヶ峠(うめがとう)【川内町】
(愛媛の峠、愛媛新聞社編集局、昭和49年6月30日)
松根東洋城句碑【川内町河之内 総河内神社】
「 春秋冬 冬を百日 桜かな 」
・社務所庭の池の辺にある。
・冬に咲く桜「百日桜」を詠っている。
「 山屏風 春の火燵に こもるかな 」
・鳥居奥右側
巨星塔句碑【川内町河之内 総河内神社】
「 一畳庵 ひたきくるかと 便りかな」
・社務所前庭
為水句碑【川内町河之内 金毘羅寺】
「春め久(く)や 麦一寸の 日乃(の)光」
・昭和57年建立。発起人 川内吟社
・近藤仙翁は号を為水と称し、明治29年川内町河之内に生まれる。
・大正4年小学校訓導となり、昭和24年西谷小学校長を最後に教職を退く。
・昭和28年三内村教育長となり、21年川内町誌編纂に加わり、47年教育委員会より永年勤続者表彰を受ける。俳句は22年渋柿に入門。松根東洋城に師事し後進を誘掖て今日に至る。
・夫人乙鳥女との共著に句集「落穂」あり。
・氏の教育文化功績を頌えて此の碑を建立する。
正岡子規句碑【川内町
唐岬の滝入口】
「追いつめた 鶺鴒見えず 渓の景」
正岡子規句碑【川内町
松山ゴルフ倶楽部玄関前】
「追いつめた 鶺鴒見えず 渓の景」
・昭和49年11月3日山中義貞氏,宮脇先氏,平田陽一郎氏発起により会員一同建てるとある。
・句の文字は 寒山落木より拡大で, 裏面の由来は河野如風氏の書になる。
(正岡子規 故郷松山の文学風景 鶴村松一
松山郷土史文学研究会 昭和52年)
佐伯みどり句碑【川内町上妙 稲荷大明神】
「懸命に咲いて 根じめに 甘んじる」
佐伯みどり
・明治44年、川上村に生まれる。
・昭和24年、川柳入門。川柳まつやま吟社同人・番傘川柳社同人となる。
池川蜩谷句碑【川内町保免 三島神社境内】
「さえずりにいて さえずりを忘れけり」
・池川蜩谷俳業40周年と喜寿を記念して建てられた。
・平成13年5月に除幕。
滑川林道改修記念碑【川内町滑川】
1998/2/7
・面木山登山口へと続く滑川林道の入口に建つ。
義人與右衛門翁碑【川内町北方】
1997/12/26
・原沖集会所前に建っている。昭和26年5月建立。
・碑文は以下の通り。
「延享の頃、北方山一帯は山之内に属せしため農民は入会山を持たずその窮状他に
倍せり旦上の人與右衛門之を坐視するに忍びず北方山入手のため蹶然起って百方画策
すれどならず。遂に權道を以て訴訟をなし誠意と智謀をもって宮司と隣村民を動かし
目的を貫徹せしも身はその責を負ひて縲紲の裡に果つるに到れり。郷人その志を多と
し、二百年来油料を献し慰霊の誠をが■し来りしも今回有志相謀りて翁が功を顕彰し
以て子孫に愛郷の精神を涵養せしと冀ひ之を建立す 石嶺鬱々 重水洋々 與翁之恵 山高水長」
斎藤別当実盛の碑【川内町北方 旦ノ上】
・地元の人が「おちごさん」と呼ぶ場所にある。
・斎藤別当実盛は禅宗竜雲山大興寺まで落ち延びてきたが、ここで稲穂に足を取られて倒れたところを斬り殺されたと伝えられる。
「三代目頭取
小松川四作」記念碑/揚神社御度所【川内町北方】
2004/2/11
・平成7年3月に現在地に移転。
・記念碑は昭和3年11月に作製された。
高市政則氏頌徳碑【川内町南方
八幡 森正八幡神社南】
「記
愛媛県神社庁は道後の地から移転を余儀なくされ候補地を模索していたところ、森正八幡神社総代会長・愛媛県神社総代会副会長高市政則氏より此の地に1,000平方メートル余の寄進をうけることとなり、庁舎建設の具体化が急速に進展し、庁舎の竣工をみるに至ったのである。
まさしく神社庁の窮状を救った恩人であり、斯界への深い理解と温情も厚くまことに奇特の極みである。
ここに同氏の至誠を頌徳碑に印し後世に遺すものである。
平成11年5月
愛媛県神社庁 庁長 三輪田 本亮」
川内公園【川内町南方】
・吹上池には水鳥が遊ぶ。
滑川コミュニティ広場【川内町滑川下】
1998/2/7,
2001/9/9
・「平成3年度推力発電施設周辺地域交付金事業」で設けられた。
・トイレ有り。
・川端に設けられている。
・滑川ふるさと塾による「滑川ふる里まっぷ」が建っている。
→2001/9/9探訪時には塗装が剥がれ、色褪せて判読不能な状態に陥っていた。
棚田ボタン園【川内町井内】
・永井公一氏・地元住民で構成する「愛桜会」が1990年に、山間の棚田約2000uに開園した。
井内の里ぼたん祭り
・4月29日 |
レストパーク桜三里【川内町】
・国道11号線沿いにある電話・トイレが設置された休憩所。
さくらの湯【川内町】
川内温泉【川内町】
・泉質:弱アルカリ性単純泉
・効能:神経痛、リューマチ、疲労回復
お吉モズク【川内町吉久】
2001/5/1
・学名:ネマリオノプシス・トールツオサ
・淡水産チスジノリ科(*1)に属するベニモの一種。葉は紫紅色の円筒形。
(*1)色々調べてみると、「ベニモズク科に属する」というのが正解みたいじゃね。
・現在は、熊本県の志津川、長崎県の土黒川(ひじくろかわ)、愛媛県川内町お吉泉にしか生育していない。
・国指定天然記念物(昭和19年6月26日指定)
・昭和13年、八木繁一氏により発見された。
・自生北限とされる。
吉久集落の大西弥衛門という百姓に見初められ、嫁に来たお吉はとても気立てのよい働き者じゃった。
ところが、弥衛門の継母じゃった姑は、大変意地悪く、何かにつけお吉につらくあたった。
ある日、3人目の子供を身篭ったお吉は、姑の着物を洗って仕立て直し、できあがった着物をつい左前にして折り畳んでしもうた。これを目ざとく見つけた姑は、「お前は私を殺す気か!着物を左前に畳むんは死人にするもんじゃ!」と戒めた。
お吉は両手をついて謝ったが許してもらえず、弥衛門が留守なのをいいことに、姑はお吉を追い出してしもうた。
戸口で座り込んで泣き伏せていたお吉は、やがてとぼとぼと実家に向けて歩き始め、近くにある泉に来たところで身投げをしてしもうた。この泉はその後「お吉泉」と呼ばれ、その泉ではその後自殺するものが相次いだ。
やがて「あれはお吉さんの霊が呼び寄せとるんじゃ」と噂されるようになった。それから不思議なことに、その泉から流れる水には、川の中の石に黒く長い水藻が生えるようになり、まるで長い女の髪の毛のように見えた。この水藻は誰とはなく「お吉モズク」と呼ばれるようになった。
平家落人の里【川内町滑川 九騎】
米研狸【川内町南方 竹之鼻】
音田の大崩壊〜大崩壊(おおつえ)物語【川内町松瀬川
音田】
・皿ヶ森を頂点とする南東斜面に、大崩落の跡がある。これは、今から約200年前に起こった山津波の痕跡である。
・山から崩れ落ちた土砂は本谷川を堰き止め、辺り一面を沼地に変えた。堰き止められた水は長田峠を越えて桧皮へも及ぼうとした。
・龍神へ祈りを捧げると、不思議にも降り続いていた豪雨も止み、土砂も流れ去っていった。村人は、龍神の加護を信じ、祠を建立した。
(ハロー砂防「やまびこ」、No.19、2003、四国山地砂防事務所)
竜宮さん祭り
・皿ヶ森の山津波の際から松瀬川桧皮で代々続けられている行事。 ・2004年は7/25に実施。 |
北方鉱泉水【川内町北方】
1997/12/26
・北方唐子谷の泉源から送水している鉱泉で、硫化水素・ホウ酸を含み、重炭酸ナトリウムを主成分とする単純泉。汗疹などに効用有り。
★ポリタンク持参で訪れるべし!持ち帰り可能!(但し飲用不可)
最明寺時頼腰掛石【川内町則之内
東谷長野】
・昔、最明寺時頼が諸国巡回時にこの地に来て、腰を掛けて休息したときの石であるという。
九騎鉱山【川内町九騎】
木の葉石【川内町河之内】
・滑川渓谷奥の海上との境に木の葉石と呼ばれる石があり、この辺りの石を割るとどれも木の葉の形を含んでいたという。(要するに化石産出地ということじゃね。)
「....其の辺は一面に木ノ葉岩なり 其の岩に種々の木ノ葉の形あり 其の岩を割りて取るなり 其の岩に堅き處と柔なる處あり....」(伊予温故録)
「河之内村より出つ(周布郡明荷山よりも出つ)、松山の大守、此石を冷泉為村卿に贈りたまふ時、為村卿御歌に、 松山の久米の郡の木の葉石 幾世もつきぬ例とそ見る」(予陽郡郷俚諺集)