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伊豫の隅々インデックス

カテゴリ別インデックス

松山城【丸之内】

・松山城管理事務所:089-921-2540
・リフト、ロープウェイ運行時間:08:30〜
・国の重要文化財に指定されている。
・標高 132mの勝山山頂にあり、和歌山城、姫路城と共に日本三大連立式平山城として全国に広く名を知られている。
・天守閣は標高 153m。天守閣からは四国最大の都市の姿が一望できる。
・東には我国最古の道後温泉、伊予水軍で名を馳せた河野氏の居城湯築城跡(道後公園)、さらに遠く石鎚山を主峰とする四国山脈が南西に連なって見える。
・西は松山の玄関、JR松山駅、松山空港、松山港があり、伊予水軍の本拠地興居島など瀬戸内海の島々が広がっている。
・慶長7年(1602)に加藤嘉明が築城に着手し、26年の歳月をかけて寛永4年(1627)に完成した。
・寛永4年(1627)、嘉明が会津に転封となった後、蒲生忠知が城に入ったが、継子がなく断絶した。その後、寛永12年、松平定行が入部し、以来、親藩大名松平家15万石の居城として明治を迎えた。
・現在の天守閣は、安政元年(1854)に再建されたもので、城郭のうち加藤嘉明の築城当時のものは、乾櫓、野原櫓、紫竹門、隠門、一ノ門などである。
・昭和8年には放火のために小天守閣と回廊などを、昭和20年には戦災のため天神櫓、太鼓櫓などを焼失し、連立式の形態の一部を失った。さらに昭和24年には筒井門も焼失した。
・奈良・平安時代には、味酒(うまさけ)郷の中心部であったことから味酒山ともよばれた。

横山城跡

・愛媛県指定史跡(昭和28年指定)
・松山市野外活動センターから西へ少し登った松山市と北条市の境界にある。
・建武年間(1334〜)に当時の領主であった河野通盛が築いたもの。
・海抜460mの山頂からは風早平野や瀬戸内海が見渡せる。
・もともとは北条側からの攻めに備えたもので、道は北条側が険しく、五明側は緩やかになっている。
・河野氏の城の中でも重要な要害城の1つであった。

荏原城跡【恵原町1110】

・景観樹林保護地区 12号
・県指定史跡
・河野家18代の主席、平岡氏の居城。約120m四方の堀と土塁が残っている。

港山城跡【港山町】
1996/05/19
河野通信が文治2年(1186)に築いたと言われる。
・応仁元年(1467)、河野通春の手で築城された。(三津浜誌稿)
・今も石垣が残っており、河野水軍の根拠地として栄えたことを偲ばせている。
・室町時代、伊予水軍の重要拠点であった。
・文明年間(1469〜1486)の頃の河野伊予守通春の居城であった。(古跡誌)
河野通春はここで逝去したと伝えられる。(俚諺集)
 
「12匹の狸保護」の看板
お願い
私達は西港山に住いする12匹の狸です。昨今来人間の勝手な思い付きで当港山の立木や竹が乱伐に会い、住いが危機に瀕しています。どうか私達の平和な生活を侵害しない様、森をそっとしておいて下さい。
お願いします。
平成8年3月10日  小深里の狸一同 代

縦淵城跡【西石井町】

 
縦淵城趾
・河野通有居城跡
オガタマノキ
・松山市指定天然記念物(昭和56年10月20日指定、申請者:松田義高)
・古代榊ともいう。常緑高木。日本西南部の温暖な地方の山地に自生するが、神社の境内や庭にも植えられている。幹は直立し枝分かれ多く、多数の葉が幹に付く。春白い花を枝先や葉の付け根につける。

有田児山城跡
2003/9/7

小山城跡
2003/9/7
「小山城址、東西4間南北10間回字形を成す。村の北方5町39間字葉佐にあり。足利時代河野氏の旗下山内兵部少輔之れに居る」(久米郡地誌(抄))

明神ヶ城跡
2003/9/7
・4等三角点「向井」、標高166.86m
・NTTドコモ四国 平井無線中継所
・小野第1配水地

行基山城跡
2003/9/7

奥ノ城【湯山町 宿野々】
2004/1/24
「奥ノ城(湯の山 宿野々)河野六郎通存の居城であった。三男通賢と村娘の恋をめぐる悲話が遺っている。」(史伝の人とその周辺 伊予の巻、高橋紅六、くれない書房、昭和42年(第3版))
 

悪社谷窯跡【】

朝日谷2号墳【】
・1989年6月に発見された。
・大峰ヶ台中腹の標高71mのところにある。

天山天王ヶ森遺跡【】
・旧石器時代の遺跡

伊台忽部遺跡【】
・旧石器時代の遺跡

祝谷六丁場遺跡【祝谷】
・旧石器時代の遺跡

蓮華寺在舟形石棺【東大栗町】

若草町遺跡【若草町】
・西堀端

枝朶下池窯跡【】

枝松遺跡・束本遺跡 【枝松】
・湯渡橋から南環状線につながる東部環状線の建設に先だって発掘調査された。
 
枝松遺跡
・弥生時代後期から中世にかけての土器や、古墳時代の建物などを確認
束本遺跡
・弥生時代から中世にかけての集落を確認し、竪穴式住居や掘立柱建物の後が発見されている。
・特に注目されるのは、弥生時代終わり頃の竪穴式住居で、地面を円形または四角形に堀りくぼめ、周囲を一段高く盛り上げたもの。屋根には萱などを葺いていたようであるが、現在遺跡として残っているのは、ほとんどの場合は柱が建っていた柱穴や地面を堀りくぼめた部分だけである。
・ここでは「周堤帯(しゅうていたい)」と呼ばれる住居を取り囲む土手のようなものを確認した。このように住居の廻りを一段高くすることで、水害から守り、暖房効果を高めていたと推定される。

大渕遺跡【太山寺町大渕】
・昭和6年、市立北中学校建設地の発掘調査で発見された。
・遺跡は標高3.5mの低湿地にあり、第5〜7層にかけて縄文晩期後半の遺物包含層から検出された。
 
彩文土器
・口径16cm、胴径43cm、高さ44cm
・口のところに黒の彩文が施されている。
その他出土品
・籾圧痕土器、深鉢、浅鉢、紡錘車、石鎌、石包丁

小野駄馬古窯跡群(おのだばこようしぐん)【小野町】

釜ノ口遺跡【】
・旧石器時代の遺跡

久万ノ台遺跡【久万ノ台】
・昭和48年調査。
・六世紀中頃の横穴式石室を主体部とする3基の円墳があった。

久米官衙(かんが)遺跡【来住町】
・7世紀後半に作られたとされる陶仏台座(陶器製仏像の台座)が国内で初めて発見された。
→See.「『陶仏』から見える古代伊予〜松山で国内初の台座発見」、愛媛新聞、2004年8月5日

久米窪田森元遺跡【】

久米高畑遺跡【南久米町】

古照遺跡【南江戸町4丁目】
・縄文時代の遺跡。
・昭和47年(1972)、松山市下水道中央処理場の建設工事中に発見された 4世紀古墳時代の水田農耕用の巨大なダム(堰=しがらみ)と堰材に転用された建築用材の遺構が発見された。
・我国古代の農業史、建築史、考古学上たいへん貴重なものとなっている。
・日本初のPEG(ポリエチレングリコール液)保存処理法が施され、木製品の半永久的な保存が可能となった。

五郎兵衛谷遺跡【】
・旧石器時代の遺跡

筋違遺跡【】
・旧石器時代の遺跡

高木遺跡【樽味4丁目】
・平成4年3月、幾つかの線が刻まれた弥生土器が発見された。これは古代絵画「弥生時代の船」が刻まれていた。

駄馬姥ヶ懐窯跡群【】

樽味遺跡
・愛媛大学農学部構内
・弥生時代前期(紀元前2〜3世紀)の溝や土坑(生活施設の穴)が発見された。
・人々が住んだと跡としては最古である。

樽味四反地遺跡【樽味4丁目】
・古墳時代で西日本最大級とされる大型建築跡。床面積152.9u。

樽味立添遺跡【樽味2丁目】
・昭和63年、1枚の貨泉(弥生時代後期、紀元前2〜3世紀の貨幣)が発見された。これの出土例は全国でも20数遺跡に過ぎない。

津田鳥越遺跡【北斎院町】
・漁具として石の重りが発見されている。

土居窪遺跡【道後北代】

道後一万遺跡【】

道後今市遺跡【道後今市】

道後公園山麓遺跡【道後】

道後桶又遺跡(←正式名称?)【道後桶又】
・弥生時代の農耕遺跡。
・炉跡や土器のほか、木の鍬や木器が発掘されている。

鳥越遺跡【北斎院町】
・昭和52年1月18日からの発掘調査で、弥生時代の製塩土器が発見された。

南海放送遺跡【道後樋又】

西石井遺跡【西石井5,6丁目】
・弥生時代の井戸数基が発掘された。
・井戸を祭ったと見られる大量の土器が出土した。

乃万の裏遺跡【北久米町】

東野お茶屋台遺跡【東野】

東山鳶ヶ森遺跡【】
・旧石器時代の遺跡

福音寺遺跡【】

文京遺跡【】

松山北高遺跡【】

御幸寺山東麓遺跡【御幸】

宮前川遺跡【】

持田遺跡【】

山越遺跡【山越三丁目】
 

岩子山古墳【】

岩風呂古墳【】

観音山古墳【】

来住廃寺【来住町】
1994/9/11
・国指定史跡(昭和54年指定)
・来住廃寺は、塔跡が現存し、発掘調査によって僧坊跡・講堂跡などが確認され、法隆寺式の伽藍配置が想定される松山平野最古の寺院である。創建瓦には四天王寺出土瓦とよく似た素十弁蓮華文軒丸瓦が葺かれている。
・発掘調査は昭和42年度より開始された。
・発掘調査では、昭和52、53年度には法隆寺式伽藍配置を持つ寺院と確実視され、昭和54年(1979)に国の指定史跡に指定され、昭和63年度から平成元年にかけて、隣接した一辺百メートル四方の回廊状遺構の規模や内部施設の確認を中心に調査が進められ、平成2年度には、寺域の西端と思われる溝が発見されている。
・指定面積約12,000m2。
 ◎僧坊:寺院で僧尼の起居する建物
  ◎伽藍:仏道を修行する所
七寺院
 ・湯之町廃寺(道後)
 ・内代廃寺(道後)
 ・中村廃寺
 ・朝生田廃寺(南土居)
 ・中之子廃寺(南土居)
 ・千軒廃寺(高井)
 ・上野廃寺
 ・来住廃寺(久米)

北谷古墳【福角町】

経石山古墳【桑原4丁目】

・県指定文化財
・松山市東部の東野台地の平坦部に築かれた前方後円墳。平面柄鏡式とも言われるものである。
・前方部の頂上近くに小祠があり、後円部の南東中腹には約1m四方の祭壇があり、その上に「一字一石」と刻まれた台石が置かれ、その台石上に石柱が建てられている。この経塚らしいものにちなんで経石山の名が付けられたと言われる。

権現山古墳群【平井町】

潮見山古墳【】

素鵞神社古墳【】

たんち山古墳【】...消滅

塚本古墳【】...消滅

永塚古墳【】...消滅

波賀部神社古墳(はかべじんじゃこふん)【】

葉佐池古墳(はざいけこふん)【北梅本町】
・前方後円墳
・松山平野東南部の水田地帯の丘陵(標高121m)上にある。
・この丘陵を地元の人々は「小山」と呼ぶ。標高は121m。快晴時には東に石鎚山系、西に伊予灘が一望できる。

播磨塚古墳群【南梅本町】
「播磨塚、村の東方7町山字播磨塚にあり。数ヶ所ありて何れも大石を以て之を作り土を封ず。相伝人皇23代清寧天皇御世、伊予国の人来目部小楯播磨守に任じ彼国に至り。顕宗仁賢に帝を供奉して上洛せり、其後任満伊予国を賜り此地に帰る。其家代々此に住す。其人の墓なるに由て播磨塚と称す。小楯の事跡は古事記日本紀等に詳なるを以て之を略す」(久米郡地誌(抄))

東山古墳群

東山鳶ヶ森群集墳【】

平井谷1号古墳【平井町】

平山古墳【】

二つ塚古墳【】

弁天山古墳【】

星岡西山古墳【星岡町】

三島神社古墳【畑寺】...消滅
・畿内式横穴式石室としては中四国において最古。

明神ヶ鼻古墳【】

八ツ塚古墳群【恵原町】

・市指定史跡
弘法大師の怒りにふれ、次々に亡くなった衛門三郎の五男三女の墓という伝承がある。
・縦に並ぶ8基の古墳は古墳時代後期(約1400年前)の集団墓である。
・塚の頂には小祠が置かれ、石地蔵が安置してある。
現地踏査で7つの小高い塚を確認することができたが、残り一つはどこにあるのだろうか?
→c.f.衛門三郎伝説
 

堀之内東御門櫓台石垣跡【堀之内】
2003/1/26
 「この石垣は、国指定史跡松山城跡の通称堀之内(三之丸)の通用門(櫓門)に伴う石垣の一部です。江戸時代の東御門は櫓門と呼ばれる二層のたいへん大きな建物で、その両脇に配置された大規模な石垣は、門の建造物とともに城の守りを代表する施設でした。
 平成七年度からの発掘調査で、すぐれた石積技術により造られ、詰石(間に詰める小さな石)がすき間なく配置されたその石垣の見事さは、松山城本丸の石垣に匹敵するたいへん立派なものです。
 この東御門は、その大きさはもとより、石積技術の精度の高さからも、松山城の重要な門として位置づけられていたものと思われます。」  (立て看板より)

殿蔵跡【吉藤1丁目】
2003/1/18

眞光庵跡【志津川町】
2003/1/18
・松山市潮見公民館志津川東分館の敷地にある。

旧制松山中学校跡【一番町】
2003/1/26



《References》



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