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[KOMIL:KOtaro's Miscellaneous
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![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 松山市 (雄郡地区) |
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市の花 | 市の木 | 市の花木 | 市の鳥 |
街の花:
サルビア |
街の木:
カシ |
大字 | 字 |
北藤原町(きたふじわらまち) | |
土居田町(どいだまち) | |
土橋町(どばしまち) | |
室町(むろまち) | |
室町(むろまち)一丁目 〜二丁目 | |
小栗(おぐり)一丁目〜七丁目 | |
小栗町(おぐりまち) | |
春日町(かすがまち) | |
末広町(すえひろまち) | |
永代町(えいだいまち) | |
泉町( いずみまち) | |
真砂町(まさごちょう) | |
空港通(くうこうどおり)一丁目〜二丁目 | |
竹原(たけわら)一丁目〜四丁目 | |
竹原町(たけわらまち) | |
藤原(ふじわら)一丁目〜二丁目 | |
藤原町(ふじわらまち) | |
針田町(はりたまち) | |
雄郡(ゆうぐん)一丁目〜二丁目 |
蒲生忠知供養碑【末広町
興聖寺】
・市指定記念物[史跡](昭和57年4月13日指定)
イスノキ【泉町
薬師寺】
・市指定天然記念物(昭和37年11月5日指定)
左馬殿の松【小栗3丁目 雄郡神社】
・市指定天然記念物昭和59年1月13日指定解除
![]() 「じゅずだまや 昔通ひし 叔父が家」 |
興聖寺(こうしょうじ)【末広町】
1995/4/24
・電話番号:089-941-4471
・寛永12年久松定行が伊予に移封するにあたり、勢州桑名に元和4年創営したこの寺を当地に移営した。
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国務大臣塩崎潤句碑:『極堂の 句碑ここにあ里 興聖寺』
柳原極堂句碑:『こころざし 富貴にあらず 老の春』
大高子葉の句碑:『梅てのむ 茶屋も有へし 死出の山』
蒲生忠知の供養碑
赤穂浪士の墓(木村岡右衛門、大高源吾之墓)
・元禄15年(1702)12月14日、吉良上野介邸を襲って、主君浅野内匠頭の敵を討ったという赤穂浪士。(忠臣蔵で馴染みの深い。)
・討ち入りの後、四十七士は切腹を命じられたが、そのうち10人が松山藩の江戸屋敷で切腹している。このときの介錯人の一人、宮原頼安は、木村岡右衛門、大高源吾と親交があった。宮原は、二人の遺髪を松山に持ち帰り、自分が檀家であった興聖寺に墓を建てて二人を供養したと伝えられている。
・二人のうち大高源吾は、子葉という号を持つ俳人でもあった。討ち入りの際にも、茶人山田宗偏や羽倉斎(荷田春満)と交流し、吉良邸の内情を探ったと言われる。
・毎年12月14日の討ち入りの日には義士祭が行われ、檀家や近所の人達で賑わっている。
正宗寺(しょうしゅうじ)【末広町16-3】
1995/4/24
・宗派:臨済宗、妙心寺派
・山号:天龍山
![]() ・県指定記念物[史跡](昭和23年10月28日指定) ・子規堂は、文学仲間であった正宗寺住職仏海禅師(ふっかいぜんじ)が業績を記念して子規が 17歳で上京するまでの住居を寺の中に残したものである。 ・正岡子規の遺稿などが展示されている。 ・玄関4畳、客間8畳、居間6畳、3畳の茶の間であり、玄関左手の3畳は子規の少年時代の部屋であり、この部屋には子規遺愛の「香雲」の額が掲げられている。 ・営業時間: 08:30〜17:00 ・料金 : 大人 50円、小中学生 30円 ・年中無休 |
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![]() 寿老神:杖を持つ長寿の神。 |
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![]() ・正岡子規の命日である9月19日に、子規忌法要が行われる。 ・埋髪塔で墓前祭、本堂で和歌・俳句・漢詩の遺作朗詠などによる法要が行われる。 |
![]() ・12月8日 ・田窪和裁学院。 ・正宗寺にある針塚で海のもの・山のものを供えてお経を唱える。 |
★(にわか)観光おたた(1995/4/24)
・絣の着物に身を纏った娘二人が何やら雑談をしていた。土産でも売っているのかと思ったが、どこにも商品があるわけでもない。しばらくして観光バスが境内に入るための笛の音が聞こえてきた。すると素早く頭の上に桶をセットし、所定の配置につく。「観光用即席おたた」が彼女たちの職業らしい。 ・観光客がさも不思議そうに「桶の中に何を入れているの?」と尋ねる。「魚を売り歩くのです。」 マニュアル通りに回答する。観光名物とは所詮こんなもんである。始終眺めていると何とも他愛ない。 |
瑞応寺(ずいおうじ)【針田】
・宗派:日蓮宗
・山号:観音山
・庭には目通り 1.5〜2mのソテツが植わっている。(特段珍しいわけではないが)
![]() ・瑞応寺前の道端にある。 (前)奉八幡宮大神功金比羅 (左)文化八辛未季五月吉日本村中 (右)石鉄山 瑜伽山 |
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善復寺(ぜんふくじ)【土居田町】
1993/10/28
・宗派:真言宗豊山派
・山号:西林山
薬師寺(やくしじ)【泉町122】
1995/4/24、2003/1/26
・山号:瑠璃光山
・宗派:真言宗智山派
・伊予十二薬師巡り 12番
・愛媛県病院の北東。
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![]() 昔、城下の南の外れの藤原村(現在の松山市藤原町)に、言葉は不自由だが大変信心深い百姓・五郎兵衛がいた。 ある日、川原で亀の形をした平らな石を見つけた五郎兵衛は、この石を薬師寺の踏み段にしようと思い持ち上げようとしたが、全く動かない。そこで薬師一心に祈ったところ、不思議にも軽々と持ち上がった。それを見た村人たちは「お薬師さんのおかげだ」「五郎兵衛さんの信心の力だ」と言って、この石を「おし石」と呼ぶようになった。 その後、五郎兵衛は、言葉が喋れるようにと17日のの願をかけたところ、その願いが叶い喋れるようになったということである。 |
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龍寺【末広町】
・寛永12年久松定行が伊予に移封するにあたり、勢州桑名に元和4年創営したこの寺を当地に移営した。
雄郡神社(小栗神社) 【小栗3丁目421】
1994/5/21
・景観樹林保護地区 指定番号 6号
・旧縣社
・祭神:
(1).[主]天宇受売命(あめのうずめのみこと)
・福運の神。別名「お福」という愛称を持つ。
・援女(サルメ)の君らの祖。
・弁財天と同様に技芸・舞踊の上達、道中安全に利益のある神として信仰される。
(2).八幡三神
−品陀和気命(ほむだわけのみこと=応神天皇)
−帯中日子命(たらしなかつひこのみこと=仲哀天皇)
−息長帯姫(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)
・電話:089-921-3944
・ご利益:除難、招福、家内安全、交通安全
・交通:伊予鉄バス雄郡神社前下車すぐ
・三代実録によると、878年、神階叙位(地方豪族を律令国家に繋ぎ止めるために定めたという)の従五位を授けられた。
・社伝によると、宇佐八幡宮より八幡三神を勧請したのは
575年であるが、このころの宇佐八幡は応神ではない。(応神八幡の完成は 725年以降で、僧行教が男山に勧請したのは
859年)
・松山八社八幡の四番社(正八幡神社)松山八社八幡:伊豫守源頼義(八幡太郎義家の父)の命により、河野親経が陽成天皇の朝(延久年間
1069-74)に領内八所の八幡宮を定めた。
★久松家藩三社
@伊佐爾波神社
A阿沼美神社
B雄郡神社
・例大祭:10月6,7日
・感謝祭:11月23日
・福運祭:3月1日
主祭神である天宇受売命に関連すると思われる。
・回廊
@素人大相撲番付表:大関玉笹(余土)観進、番付奉納
A嘉永5年の絵
数点
・用明天皇の代に筑紫の宇佐八幡宮より勧請。慶長5年、関ヶ原の戦いにあたり、毛利勢が来予し、河野家遺臣と連携して加藤嘉明の家臣佃十成(つくだかずなり)と戦った際、兵火で社殿・社宝古文書を消失した。
・昔は今の社地より遥か西に大鳥居があった。
・1614年、加藤嘉明によって社殿復興、杉と松の並木の整備(左馬殿の杉、松)が行われた。現在の社殿は
1693年に建造されたものである。
・明治初年に「雄群神社」と「群」の字が使われ、1902年にもとの「雄郡神社」となった。
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HI |
|G
J |
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K |
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■|@ D
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社 |
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務 |A
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所 |B
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|C L
● ●常夜燈
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この壁沿いには
―――――■←大正3年甲寅1月建立
小さな祠がいっぱい
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@「雄郡神社社司 高市豫興伝」の碑
A三光社
・祭神は大己貴命、少彦名命、事代主命(大己貴命の御子)
・少彦名命は医薬の神、特に中風治癒の神とされる。
B祇園社
・祭神は須佐之男命。
C稲荷神社
D左馬殿(さまどの)の松
E金砂神社(かねひさじんじゃ)
・福助さんがいっぱい!
・金山彦命(鍛冶金工、地固めの神)、天神(菅公)、和霊を祀る。
F愛宕神社
・火産霊神(ほむすひのかみ)を祀る。
G忠霊塔
H「雄郡小学校発祥之地」碑
I正岡子規の句碑(俳句の里散策コース 8)
『 うぶすなに 幟(のぼり)立てたり 稲の花 』
・昭和53年10月建立。
・雄郡神社は正岡家のうぶすな(氏神)であった。
『 御所柿に 雄郡祭の 用意哉 』
・ 昭和47年3月1日建立。
・明治27年10月7日、今出の霽月を人力車で訪れる途中、雄郡神社で詠んだ。
・「散策集」では『御所柿に雄郡祭の用意哉』とあるが、「病餘慢吟(びょうよまんぎん)」では『御所柿にいそぐ祭の用意哉』とある。
御所柿:土居田や小栗の旧家に植えられている柿で、実が小さい甘柿
J龍昇の松
K「御大典記念」之碑
L加藤嘉明手植杉
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![]() ・大可賀沖にある左島(佐島)で催された雨乞いの図。雄郡の神輿3体を出し、太鼓を鳴らし、神官が祈りを捧げている状態を描いている。 ・記録によれば、1809年,1814年,1823年に大干魃が発生しており、この時の雨乞いでは、その帰途に太鼓が流されるというハプニングが発生し、その太鼓が吉田浜に漂着し、漁師が拾い上げて神社に届けたという言い伝えがある。この太鼓は今も神社に収められている。 |
![]() ・雄郡神社にあった。 ・市指定天然記念物(昭和59年1月13日指定解除) |
![]() 1年の無病息災を願い雄郡公民館(松山市小栗3丁目)と雄郡地区社会福祉協議会が7日、七草がゆを作り、地区の高齢者や住民にふるまった。 同公民館で約15年前から実施している恒例行事。前日に採取したセリやナズナ、ハコベラなどの新鮮な「春の七草」を、地元の主婦グループが早朝から調理。湯気の立ち上る七草がゆはお年寄りたちに大好評。「おいしいね」と話しながら、一足早い春の香りを楽しんでいた。(「無病息災願い七草がゆ 松山」、愛媛新聞、 2006/01/07) |
![]() 『木下闇(こしたやみ) 人驚かす 地蔵かな』 |
イスノキ【泉町122 薬師寺】
・市天然記念物(昭和37年11月5日指定)
・別名ヒョンノキ、ユシノキ、クシノキと言われるマンサク科植物で常緑高木葉に虫瘤ができ、それを笛のように吹くとひょうひょうと音をたてることからヒョンノキという。
・虫瘤はイスオオムネアブラムシ、イスコブネアブラムシが葉に寄生して葉が異常発育するためにできる。
龍昇の松【小栗3丁目421 雄郡神社】
加藤嘉明手植杉【小栗3丁目421 雄郡神社】
・奉祀皇紀2600年。
・1948年に枯死したという。
左馬殿の松【小栗3丁目421 雄郡神社】
・雄郡神社にあった。
・市指定天然記念物(昭和37年11月指定→昭和59年1月13日指定解除)
・加藤嘉明手植えの松。それほど大きくないなあ。(1983年に枯死したというからもっともだ。)
正岡子規句碑【土居田町 鬼子母神堂】
「じゅずだまや 昔通ひし 叔父が家」
・俳句の里城西コース2番
正岡子規句碑【末広町16-3 正宗寺】
『朝寒や たのもとひびく 内玄関』
・俳句の里城下コース36番
正岡子規句碑【泉町122 薬師寺】
『寺清水 西瓜も見えす 秋老いぬ』
『我見しより 久しきひょんの 茂哉』
・俳句の里城下コース29番
・子規が愚陀仏庵で静養中の明治28年10月2日、石手川方面散策中薬師寺に立ち寄っての句。
・昭和30年3月建立。
正岡子規句碑【小栗3丁目421 雄郡神社】
・俳句の里散策コース 8番→城西コース
『 うぶすなに 幟(のぼり)立てたり 稲の花 』
・昭和53年10月建立。
・雄郡神社は正岡家のうぶすな(氏神)であった。
『 御所柿に 雄郡祭の 用意哉 』
・ 昭和47年3月1日建立。
・明治27年10月7日、今出の霽月を人力車で訪れる途中、雄郡神社で詠んだ。
・「散策集」では『御所柿に雄郡祭の用意哉』とあるが、「病餘慢吟(びょうよまんぎん)」では『御所柿にいそぐ祭の用意哉』とある。
御所柿:土居田や小栗の旧家に植えられている柿で、実が小さい甘柿
子規と野球碑【末広町16-3 正宗寺】
『打はづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする』
・俳句の里城下コース35番
子規埋髪塔【末広町16-3 正宗寺】
・俳句の里城下コース33-1番
正岡氏累代の墓【末広町16-3 正宗寺】
・俳句の里城下コース32番
子規の句碑+千代の富士の碑【末広町16-3 正宗寺】
『秋晴れて 両国橋の 高さかな』 子規
『道』 千代の富士
・前代未踏の1945勝をあげた第58代横綱千代の富士貢の功績を頌えた碑。
塩崎潤句碑【末広町 興聖寺】
『極堂の 句碑ここにあ里 興聖寺』
柳原極堂句碑【末広町 興聖寺】
『こころざし 富貴にあらず 老の春』
・俳句の里城下コース30番
・昭和59年9月17日建立。
大高子葉句碑【末広町 興聖寺】
『梅てのむ 茶屋も有へし 死出の山』
・俳句の里城下コース31番
・大高子葉(〜1703)は赤穂浪士、大高源吾。
・この句碑は墓と並んで建っており、この句は大高源吾の辞世の句である。
蒲生忠知供養碑【末広町 興聖寺】
・市指定記念物[史跡](昭和57年4月13日指定)
・在城わずか7年で病没した、二代目松山城主蒲生忠知の供養碑。
内藤鳴雪髯塚【末広町16-3 正宗寺】
・俳句の里城下コース33-2番
高浜虚子筆塚【末広町16-3 正宗寺】
高浜虚子句碑【末広町16-3 正宗寺】
『笹啼が 初音となりし頃のこと』
・俳句の里城下コース34番
与謝野晶子句碑【末広町16-3 正宗寺】
『子規居士と鳴雪翁の居たまへる居よの御寺の秋の夕暮れ』
「雄郡小学校発祥之地」碑【小栗3丁目421 雄郡神社】
・明治10年(1877)に創立したという。
・碑は昭和52年11月、百周年記念に建立した。
「御大典記念」之碑 【小栗3丁目421 雄郡神社】
・陸軍大将秋山好古書の碑。昭和3年11月建立。
「雄郡神社社司
高市豫興伝」の碑 【小栗3丁目421 雄郡神社】
・高市豫興は、明治14年2月11日に生まれる。
・雄郡神社宮司、北豫中学校教師、民生委員を務める。
・昭和18年1月6日に没する。
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