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[KOMIL:KOtaro's Miscellaneous
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![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 松山市 (清水地区) |
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市の花 | 市の木 | 市の花木 | 市の鳥 |
街の花:
グラジオラス・ チューリップ |
街の木:
カイヅカイブキ |
大字 | 字 |
中央(ちゅうおう)一丁目〜二丁目 | |
姫原(ひめばら)一丁目〜三丁目 | |
山越(やまごえ)一丁目〜六丁目 | |
山越町(やまごえまち) | |
平和通(へいわどおり)二丁目〜四丁目 | |
御幸(みゆき)一丁目〜二丁目 | |
木屋町(きやちょう)三丁目〜四丁目 | |
本町(ほんまち)六丁目〜七丁目 | |
清水町(しみずまち)一丁目〜四丁目 | |
緑町(みどりまち)一丁目〜二丁目 | |
鉄砲町(てっぽうちょう) | |
高砂町(たかさごまち)一丁目〜四丁目 |
青地林宗の墓【御幸1丁目
来迎寺】
・県指定記念物[史跡](昭和26年11月27日指定)
足立重信の墓【御幸1丁目
来迎寺】
・県指定記念物[史跡](昭和26年11月27日指定)
菊屋新助の墓【木屋町2丁目
円福寺】
・県指定記念物[史跡](昭和30年11月4日指定)
十六日桜【御幸1丁目
天徳寺境内/桜ヶ谷 吉平屋敷跡】
・市指定天然記念物(昭和43年10月25日指定)
杉並木【御幸1丁目】
・千秋寺にあった。
・昭和48年9月14日指定解除
御幸山城(三木城)
「三木城墟 同所[祝谷村]に在り。宝徳三年河野通元男犬法師此城にて死す。白馬に駕(のり)たる武者の像有て山上に安置せり。俗誤て愛宕権現なりと云、と二名集に見(え)たり。俚諺集(に)云(ふ)。城主犬坊月毛馬に駕(のり)て谷より堕て死たり。その後祟りを為し、幽魂白馬に乗て往来する事あり。是に遇者必病事あり。松山臣大脇清大夫と云人、君命を蒙り、甲冑を帯し薙刀の鞘を脱し、馬上にて城山の麓に至り、犬坊の霊立去べき君命なる事を高声に述たれば、白紙の如き物東に飛去と見しが、其後は怪事なし。」(愛媛面影)
「…犬坊師丸は河野通之の子 通元 其子 犬坊師丸 此城にて討死し
法名は見受院殿徳林道遺大居士と号す 俚諺集云 城主犬坊といふ人 月毛馬に乗り
谷へ落て死したり 又 合戦にて討死ともいふ それ故其の怨霊 近頃まで馬に乗て行逢ふものは必ず祟り煩ふとあり
夫を三木寺明神と崇む 大脇清太夫といふもの 大守の命に依て甲冑を着し長刀のさやをはづし馬に乗て
此埜に至て 犬坊に向ひ立去へきの君命なる事を高声に述ければ 白紙の如なるもの東に飛来と見へたるが
石手寺山の山上に止る 今の愛宕堂これなり 其後しき事止みたりとなり」(伊豫温故録PP.129〜130「御幸寺山城」)
※「松山の防火線」ともいえるラインが存在するのではないか?
潮見の愛宕山〜御幸寺山〜石手〜日尾八幡裏山の愛宕神社〜北梅本の愛宕山
一草庵【御幸1丁目455】
1999/1/17
・護国神社より西に約100m離れたところ、御幸寺山の麓御幸寺横にある。護国神社前の道を樋又川沿いに西に向いて歩くと案内板が出ている。
・托鉢の俳人として多くの自由律の名句を残した種田山頭火の終焉の地である。
・放浪の俳人、種田山頭火が、四国遍路の旅の途中の1939年12月、松山在住の友人の世話で、御幸寺境内の家を「一草庵」と名付け、翌年10月に病死するまで住み続けた。
・この庵は、当時松山高等商業学校教師だった高橋一洵が準備した。
・「一人一草の簡素で事足りる」との考えより、庵の名を付けた。
・一草庵は6畳、4.5畳の粗末な小屋で、玄関前には句碑3基、庵内には山頭火の遺品が展示公開されている。・当時の一草庵は、戦中の空襲で焼失したとされ、現在の建物は戦後に有志が同じ場所に再建したものである。
・酒を愛し、放浪の旅を続けた彼は、道後温泉にも近いこの地を選び、一草庵と名付けて余生を過ごした。
・1970年に一草庵を管理していた財団法人山頭火顕彰会が松山市に寄付した。
・1995年から、市文化協会主催で春秋の年2回無料開放している。
![]() ・俳句の里 道後コース28番 ・道後村めぐり 寺町コース20番 『 鉄鉢の 中へも霰 』
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![]() ・一草庵には山頭火の遺品が展示されているが、通常は入室できない。 ・10月10日(命日10月11日)に、山頭火を慕う鉢の子会のメンバーによって法要が催される。 |
![]() 「明け暮れを 一草庵に 鉦鳴らし 遙きし年月 かぞえるも夢」 白扇 ・一草庵の入口左側に建っている。 ・「本名横田英明。翁は昭和35年2月庵主として一草庵に入庵。以来、今日迄庵の管理・維持・運営に努力された。依って之を記念し、其の労をねぎらう為、此処に翁の歌碑を建立する。 昭和54年」と碑の背面に刻まれている。 |
七曲がり跡【木屋町?】
・加藤嘉明が松山城築城の際、北の要塞として和気浜から上陸する軍を防ぐために作ったという。
安楽寺(あんらくじ)【木屋町?】
2000/10/15
・宗派:浄土真宗本願寺派
![]() 「このままがおじひであった」 |
弘願寺(ぐがんじ)【御幸1丁目273】
・電話:089-924-1677
・山号:大経山
・宗派:浄土宗
・伊予七福神
弁財天:女神。技芸・雄弁・知恵の神。
「弘願寺 浄土宗鎮西派して阿弥陀如来をまつる。享禄元年2月創立本尊は恵心僧都の作なり。しかるに安政6年3月16日本堂焼失翌年8月再建すとあり」(清水の里 pp.89←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
![]() 「にんげんだもの」 |
景徳寺【木屋町?】
2000/10/15
坂上毘沙門【緑町】
・松山市杉谷町(現在の緑町)に在った。
・加藤嘉明が杉谷に一宇を建立したのを、久松定行が今の坂の上に移した。
・立像は弘法大師の作である。
・直指山見性院の末寺とする。見性院は明治維新後に廃寺となり、毘沙門は本寺の法龍寺に移した。
・明治17年大和国志貴の毘沙門を勧請し再建したが、今は廃れている。
鐘馗寺(しょうきじ)【木屋町】
2000/10/15
西禅寺【御幸】
「」(清水の里
pp.90←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
浄福寺【御幸1丁目】
「浄福寺 浄土宗鎮西派にして本尊は不退寺に同じ。正親町天皇元亀3年5月10日の開山なり」(清水の里
pp.89←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
正法寺【御幸1丁目】
・山号:依報山
・御幸の辺りは以前は北京町と呼ばれていた。
・建久9年3月正宗国師の開基。
正林寺【清水町】
・元は道後村にあり照田寺と号していたが、寛永16年7月に僧侶である終玄がこの地に移した。
千秋寺[千秋禅寺](せんじゅうじ)【御幸1丁目】
・道後村めぐり 寺町コース 21番
・山門の正面には「海南法窟(かいなんほうくつ)」の額がかけられている。
・寺伝によると、黄檗宗(禅宗の一派で、江戸時代初期に、中国の帰化僧によって開かれた宗派)の寺で、中国から招かれた僧即非を勧請開山として、江戸初期の貞亨年間(松山藩四代藩主松平定直の時代)に創建され、当時は中国風の七堂伽藍をはじめ、20を超える建物があり、「松山に過ぎたるもの」と言われたほど。代々松山藩主の厚い御加護を受け、一際異彩を放っていたという。残念ながら明治維新後、寺の領地は没収され、保護を失ったため、次第に伽藍は荒廃していった。本堂の大雄宝殿も昭和20年の松山空襲で焼失。この山門が昔の面影を止める唯一の建物となった。山門の形式は黄檗宗独特のもの。また、「海南法窟」の堂々たる時は、即非の書だという。
・山門に即非の額や山眠る 子規
・黄檗や僧今やなし千秋時 漱石
「」(清水の里 pp.90←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
![]() 『 山本や 寺は黄檗 杉は秋 』 ・「山本」は御幸寺山の麓、「寺」は千秋寺を表す。 『 畫(画)をかきし 僧今あらず 寺の秋 』
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![]() 『 金色の 仏の世界 梅雨の燈も 』 ・俳句の里 道後コース 30番 ・昭和61年5月5日建立 |
![]() 『 伊佐爾波の 丘めぐる水に こだまして あかつき いで湯の 太鼓鳴りいづ 』 ・俳句の里 道後コース 31番 ・平成4年、愛媛アララギ会が建立。 |
![]() ・野中欣吉が奉賛したもの。 |
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大行院【姫原】
「」(清水の里
pp.90←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
長久寺【御幸1丁目】
長建寺【御幸1丁目281】
「長建寺 浄土宗鎮西派にして阿弥陀如来を祭る。天正11年開山す。真誉上人丁吟和尚の代なり。宝物には慧心の筆、伝教大師の来迎仏あり」(清水の里
pp.89←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
※慧心と恵心は同一人物を指す?
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![]() 『もりもり もりあがる 雲へあゆむ』 ・俳句の里 道後コース37番 |
![]() 『よくみれば 薺(なずな)花咲く かきねかな』 ・道後村めぐり 寺町コース 第23番 ・俳句の里 道後コース 番・貞享3,4年(1686,7)ころ江戸深川での作。薺の花は、ほとんど人目につかない田圃や道ばたなどにつつましくさくもので、その目立たない薺の花を見つけた驚きと喜びとを率直に表現している。 ・この驚きの念は深い愛情があってこそ、おのずから湧きだしたものであろう。 |
天徳寺(てんとくじ)【御幸1丁目】
・道後村めぐり 24番
「天徳寺 臨済宗妙心寺派にして釈迦牟尼佛をまつる。慶長8年加藤嘉明建立す。境内に仏堂一宇あり聖観世音をまつる。延宝三年奥平次郎太夫の新築なり」(清水の里 pp.89←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
![]() ・松山市指定文化財、天然記念物 ・十六日桜は旧正月16日頃(2月15日頃)に開花する早咲きの山桜の変異種であり、御幸一丁目の龍穏寺、天徳寺境内、吉平屋敷跡(山越桜谷)等にあったが、これらの桜はいずれも戦災等で枯死した。現在のものは、天徳寺の実生を育てたもので花期も遅く、本来種の特質がかなり失われている。芽は赤く、花は白色、花弁は5枚有る。 ・俳人 小林一茶の「西国旅日記」によると、寛政7年(1795)正月16日に桜が満開であった記述がある。 ・なお古くから節会桜、辞世桜などとも言われ、伊予節にもうたわれている。真冬に桜花が見たいという病父のために孝子吉平が水ごおりをして桜に祈念したところ開花したという伝承から孝子桜とも言う。 ・小泉八雲が「怪談」のなかで取り上げ、これを世界に紹介している。 『うそのやうな 十六日桜 咲きにけり』 子規 ・西法寺の薄墨桜、大宝寺の乳母桜とともに、名桜として有名である。 |
![]() 『つくしけん 人のまことを にほはせて さくか む月の はつさくらばな』 ・俳句の里 道後コース ・道後村めぐり 寺町コース24番 |
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東榮寺(東栄寺)【御幸1丁目】
「」(清水の里
pp.90←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
不退寺【御幸1丁目296】
・山号:菩堤山
「不退寺 浄土宗鎮西派にして本尊は阿弥陀如来なり。宝物に弘法大師の作地蔵菩薩の木像あり」(清水の里
pp.89←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
![]() ・弘法大師自作 |
不論院【高砂町3丁目】
・電話番号:089-925-6906
![]() ・11月第2日曜日 ・処分に困る人形の魂を抜いて火葬し、翌日その灰を人形供養塔に納める。 ・人形供養は当日正午より受付。法要は13時から。 ※不論院の副住職さんより御指摘があり、日時の修正を行いました。(2003/11/29) |
![]() ・松山市保存樹木、昭和52年12月27日指定 協定番号 25号 ・目通り周囲約5m、樹高約18m、樹齢約500年と言われている。 ・根本が 1m余り盛り上がっており、大きな空洞ができているが、クスノキらしい見事な形をしている。 ★クスノキは、関東以南の暖地、特に海岸に多く自生する常緑高木で、材は特殊な香りがあって、樟脳(防虫剤)などに用いられる。 |
法華寺【御幸1丁目】
・山号:妙向山
「法華寺 日蓮宗一致派にして十界具足大曼荼羅をまつる。後水尾天皇慶長年中該寺を開くと。宝物に弘法大師の作地蔵菩薩の木像あり」(清水の里
pp.89←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
法界寺【御幸】
「」(清水の里
pp.90←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
御幸寺(みきじ)【御幸1丁目】
1999/1/17
・山号:御幸寺山
・宗派:真言宗
・本尊:蔵王権現
★お寺なのに狛犬や常夜灯が座っているのが何とも妙な感じがする。神仏混交の名残であろうか。
「蜻蛉の 御幸寺見下す 日和哉」 子規 (散策集 明治28年9月20日午後)
「秋の山 御幸寺と申し 天狗住む」 子規 (散策集 明治28年9月20日)
・古き言い伝えでは、御幸寺には天狗が棲むという。
・「或云古昔帝王ノ行幸有シ故ヲ以テ御幸寺ト名ツクト、服部元喬カ撰スル所ノ温泉碑文中云諸帝行宮今御幸寺是也、全文南郭文集三編ニ載タリ」(和気郡地理図誌稿)
「往古舒明天皇の行宮ありし所にて岡本の庭寺なりという。真言宗新義派なり由緒つまびらかならず」(清水の里 pp.89←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
![]() ・標高164.6m ・山頂には、修験者を祀る御幸寺の本尊がある。 ・年3回、御幸寺の信者 50人前後が集まり護摩が行われる。 ・御幸寺に伝わる古文書によると、御幸寺山は城の鬼門にあるため、17世紀前半に松平定行城主が、城を天災から守り、天下太平を祈ってこの山に権現の堂を建立したと記されている。 |
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来迎寺(らいごうじ)【御幸1-525】
・道後村めぐり 22番
・宗派:浄土宗
・山号:西宮山
・もとは河野家が道後に創建したと云われ、天台宗であったが、天文年間(1527)浄土宗に改めた。加藤嘉明が松山地割のとき、山越の一角に寺町を設け、松山城北辺の防備にしたと云われる。来迎寺もこのとき移築したものと思われる。
「来迎寺 浄土宗鎮西派にして本尊は阿弥陀如来。当時は往古道後村に在りて西ノ宮別当所なり。領主河野氏の創建に係る。もと天台宗に改め智恩院の末寺となし。良荘和尚中興せり。古説つまびらかならず。良荘をもって開山とす。宝物に恵心僧都の来迎仏あり。寺内に足立重信の墓あり」(清水の里 pp.90←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
![]() ・県指定記念物[史跡](昭和26年11月27日指定) ・足立重信は初代の松山城主加藤嘉明の重臣として信任厚く、文武両道を兼ね揃えた武士であった。松山城築城に際しては普請奉行となり、城郭と城下町の建設に苦労を重ねた。又、重信は治水に非凡の才を発揮し、当時荒廃した伊予川(重信川)の改修に成功したばかりでなく、更に石手川の流路を南に移して、広大な農地と城下町建設の予定地を獲得することにも成功した。実に、重信によって城下町松山の素地が作られたといえる。しかし寛永2年(1626)に、未完成の城に心を残しながら、西堀端の邸で病没した。遺言により城郭が一望できる地、来迎寺の境内に葬られた。 |
![]() ・脚柱の右と左に内藤鳴雪・村上霽月の句が刻まれている。 「功や 三百年の 水の音」 鳴雪 「宝川 伊予川の秋の 出水哉」 |
![]() ・県指定記念物[史跡](昭和26年11月27日指定) ・青地林宗の家は代々松山藩医であった。林宗は江戸に出て、杉田玄白について蘭学を修めたが、長崎にも遊学した。再び江戸に帰って幕府の訳官である馬場佐十郎と親交を結び、天文台の翻訳方に任ぜられた。 ・文政 5年(1822)に 48歳で万国輿地誌 65巻を訳述した。 ・更に文政 8年(1825)、51歳のとき気海観瀾一巻を著述し、初めて西欧の進歩した物理学を我国に紹介し、識者を驚かせた。 ・その後、水戸藩に招かれたこともあったが、天保 4年(1833) 59歳を以て江戸で没し、浅草曹源寺に葬られた。 ・この墓は昭和 3年(1928)に青地家に縁のある来迎寺に移された。 |
![]() 『永久眠る 孝子さくらの そのほとり』 ・俳句の里 道後コース34番 ・道後村めぐり 寺町コース22番 |
![]() 『城山を 池に浮かべて 夏の月』 ・明治45年頃来迎寺に来遊した学僧・卍翁が、松田池(御幸1丁目)に松山城が美しく映えている風景をめでて詠んだもの。 |
![]() ・松山大学(元松山商科大学)御幸グラウンドの北側にある御幸寺山西麓にロシア人墓地がある。 ・松山には、日清・日露戦争および第一次世界対戦の度に捕虜収容所が設けられた。 ・明治37年3月 松山は全国最初の捕虜収容所となった。捕虜は続々と送られて来て市公会堂や寺院に収容されたが、その待遇は極めて寛大で外出も自由で観劇、道後温泉入浴、海水浴まで許されていた。 ・松山には4,000人を越えるロシア人将兵が捕虜として収容されていた。 ・同年 6月 城北練兵場(文京町)に 25棟の病院が建てられ治療にあたったが、ワシリーボイスマン大佐ら 98名が異郷で寂しく世を去った。 ・これら将兵の葬儀を行った上、山越の弁天山に埋葬されたが、後にこの地に改葬された。 ・毎年、慰霊祭を行って冥福を祈っている。別にドイツ海兵とアメリカ海軍無名兵士の墓もここにある。 |
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![]() ・"日露友好の架け橋 V.ムハチョーク作" ・1994年10月建立。 |
竜穏寺【御幸】
・「竜穏寺 禅宗 河野家五十一代越智通直出家シテ閑居ヲ営ミ梵刹トナシテ竜穏寺ト名ヶ自ラ開山トナリ 海岸希清大和尚ト称スト云、宝物ニ蜀江錦ノ袈裟有リ、通直ノ直垂ヲ以テ之ヲ作ル」(和気郡地理図誌稿)
「龍穏寺 本尊は釈迦如来迦葉尊者なり。曹洞宗総持派にして開山は右本寺龍文寺月湖和尚これをなす。開基は人皇第7代孝霊天皇第3の皇子其英胃52代刑部大輔河野通宣校、延徳2年6月15日当寺を創建し、前記月湖和尚を請して入院せしむ。宝物には蜀江綿の袈裟、光明皇后御真筆の法華経全8巻あり」(清水の里 pp.89←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
龍仙院(りゅうせんいん)【御幸1丁目796】
![]() ・昭和20年8月6日、広島に原爆が投下され、砂に埋もれた顔だけ出した石地蔵の所に、火傷を負った女の子が座りこみ水を欲しがっていた。地蔵は、目から涙を流し飲ませたが、女の子は助からなかった。すると地蔵の顔は崩れ、胴体だけの地蔵になった。何日かたち、家族を失い顔をこわばらせた老人が、悲しんで顔に似た丸い石を乗せたところ怒っている顔に見えたため、人々は「おこり地蔵」と呼ぶようになったといわれる。 ・実際は、広島で被爆した住職の義母西原ミサヲさんが新しい顔をつけて祭っていたもので、昭和45年、娘の住む龍仙院に身を寄せることになり、広島市から現在地に祭られるようになったものである。 ・毎年8月6日に「おこり地蔵」を行い、原爆で亡くなった人々を供養し、戦争の恐ろしさと平和の尊さを伝えている。 |
龍泰寺(りゅうたいじ)【御幸1丁目】
・禅宗 ※「清水の里」には曹洞宗と記されている。
・本尊:釈迦如来
「」(清水の里
pp.90←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
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![]() ・物外が動かして遊んだといわれる手水鉢は舟形で、長さ約1.7m、高さ0.6m、 幅0.5mの花崗岩で、重さは約1.2トンもある。 |
軽之神社(かるのじんじゃ)【姫原1丁目】
1993/10/28、2003/1/18
「村社 軽神社 …」
(清水の里 pp.88←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
![]() ・俳句の里 城北コース20番 ・松山市姫原の姫池の畔に祀ってある。 ・允恭天皇(紀元5世紀頃、大和國遠飛鳥宮に國を治めた19代天皇)の皇太子、木梨軽太子(かるのみこ)と軽大娘皇女(かるのおおいつらめのひめみこ)の兄妹を祀る。 ・軽太子は同妹軽皇女と熱愛したので、まず軽皇女を伊予國に配流した。ところが太子は暴虐となったので、朝廷の軍勢の攻撃を受けて自殺するに至った。 ・一説には、その後太子も伊予國に流されたとも伝えている。 ・また、別の説では、木梨軽太子が伊予に配流された後に、慕いて軽大郎女が追って来たとも言われている。 ・この神社の東北の山を「軽の御山」、「軽山」という。 ・皇女ゆかりの地にて、この地を「姫原」という。 ・村の人たちは皇女の霊を哀れんで神社を建立し、毎年 1月20日に祭礼を行っている。 『笹の葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも』
・笹の葉を打つ霰のように激しく、確かに衣通郎女を抱いて寝ることができさえすれば、そのことで人々が離れ去っても構いはしないのに...。 |
![]() 二つ並んだ塚の横には、古事記抄の歌碑が立っていた。 ・軽太子歌日(みうた)
・軽大郎女歌日
古事記允恭段に見える歌で、允恭天皇皇子(日嗣皇子=ひつぎのみこ)の軽太子(かるのみこ、きなしのかるのみこ=木梨軽太子)が同腹の妹、衣通郎女(そとおりのいらつめ、かるのおおいらつめ=軽大郎女、身体が白く輝き、光が着物を透かすほどに美しい...)に奸けて、弟の穴穂皇子(あなほのみこ、安康天皇)により伊予の湯に流されたとき、衣通郎女が太子への恋慕に堪えかねてその後を追ったときの作歌とされる。《古事記 2-90》 「山たづ」はニワトコである。 ・「姫塚 芝原ニ小石ヲ積累ネテ上ニ卒塔婆ノ形チシタル石ヲ二ツ並ヘタリ、相伝フ軽大娘皇女ヲ葬リタル墳墓ナリ、因テ此ヲ姫原ト云、日本書紀允恭巻曰二十四年流軽大娘皇女於伊予」(和気郡地理図誌稿) |
![]() ・藻で緑色にくすんだ溜め池。 ・訪れたとき、丁度一羽の白鷺が餌を噤んでいた。脳裏に、道後の白鷺伝説が浮かんだ。 |
![]() ・ここ姫原にはこのように、天皇行幸の縁のある地名が残る。 |
![]() ・軽之神社の東北の山を軽山、軽の御山という。 |
![]() 軽太子の歌曰 「天飛ぶ鳥の使ぞ鶴(たづ)が音の聞えむ時は我が名問わきぬ」 軽大郎女の歌曰 「君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」 古事記允恭段に見える歌で、軽太子が同腹の妹、衣通郎女(そとおりのいらつめ=軽大郎女)に奸けて伊予の湯に流されたとき、衣通郎女が太子への恋慕に耐えかねてその後を追ったときの作歌とされている。 |
![]() 『天さかるしな乃伊予路に永久乃愛に生きたまふ二柱の神』 ・昭和63年4月28日建立 |
愛媛縣護国神社(ごこくじんじゃ)【御幸1丁目476】
2003/6/22
・電話番号:089-925-2353
・愛媛県県社
・道後村めぐり 寺町コース19番
・交通:伊予鉄バス護国神社前下車すぐ
![]() 『 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎ出でな 』 ・俳句の里 道後コース 27番 ・道後村めぐり 寺町コース19番 ・副碑に刻まれた碑文は以下の通り。
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![]() ・拝殿に向って左側にある。立て看板には以下の説明書きがなされている。
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還熊八幡神社(かえりぐまはちまんじんじゃ)【御幸1丁目253】
・電話番号:089-924-8084
・景観樹林保護地区 指定番号30号
「…貞観元年八月南都大安寺行教勅を奉して豊前宇佐宮より山城の男山へ八幡神の分霊を遷宮の途中、海上風強く浪荒れ神船漂い伊豫郡松前の浦に着く。国司この事を聞き行教を迎えて国中道後に八社、道前に八社、八幡宮を建営し分霊をまつる。後天正18年11月合祀し還熊八幡を号す。慶長5年9月国主加藤嘉明の臣佃十成、芸州勢を攻める時この兵火に罹り神体を持ち出したるの外宝物ことごとく焼失す。その後の建築つまびらかならず。」(清水の里 pp.89←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
※「還車坂→かえりぐるま→かえりぐま→還熊」だろうか?
※「旅立ちの時、この神社に参拝して祈れば、必ずここへと還る」という意味で、旅の安全の祈願の御利益あり。
![]() 提灯行列 |
![]() ・演目:親爺 ・演目:狩人 |
たごり大明神【高砂3丁目】
2003/1/19
・清水3丁目バス停前
「たごり大明神縁起
たごり大明神は、江戸時代中期、当時の味酒郷即ち現在鎮座なされております処の御塚の中より御神体が現れた事に起因するものでありまして、たごりの神様として誠に霊験あらたかで、近郷、近在はもとより遠方よりの賽者あとをたたず、崇敬せられていたのであります。尚当社の縁日は古くから毎年7月14日に大祭を盛大に執行しておりました。昭和15年頃より荒廃しておりましたが、昭和35年頃北味酒町民及び崇敬者により社殿を新築して御神体を御遷座申しあげこのあらたかなるたごり大明神を永遠にお祀りすることになった次第であります。
昭和35年7月14日」
三島神社【姫原】
![]() 子供大将:神輿担ぎの中心となる子供。 鈴神楽:子供巫女が鈴を鳴らし、扇を持って舞う。 みこしの宿:4軒の家が当番となり、子供神輿にもてなしをしていた。 |
大川
湯川
(清水の里 pp.88←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
御幸寺池
(清水の里 pp.88←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
松田池
(清水の里 pp.88←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
姫原池
(清水の里 pp.88←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
隅田池
(清水の里 pp.88←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
十六日桜
(清水の里 pp.90←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
ナギ【御幸1丁目 御幸寺】
→県内のナギ:田ノ上神社(新居浜市神郷)、新谷小学校(大洲市新谷)、大元神社(長浜町下須戒)、法通寺(伊方町中浦)
孝子桜古蹟碑【桜谷町】
十六日桜碑【桜谷町】
紫井戸【木屋町4丁目】
・松山七不思議
・木屋町通り東の民家敷地内にある。
・紫色の綺麗な水がたたえられていたというが、今では水が涸れてしまっている。
(参考文献:「清水の里」pp.207)
片目鮒【木屋町4丁目】
・松山七不思議
・木屋町通り東、民家の敷地内にある。
・昔、巡礼中の弘法大師が木屋町を通りかかったところ、ある家の前の井戸端で生きた鮒を焼いていた。これを哀れに思った大師は、事情を話して鮒を買い取った。
・鮒は既に片目が焼けただれていたが、井戸の中に放すと元気を取り戻し、井戸の中を泳ぎ始めたという。
・それ以後、この井戸には片目の鮒ばかりだったという。
・昔は、溢れるほどの水量があり、近くにある紫井戸とも水路がつながり、片目鮒が行き来していたと伝えられてている。
『 鮒鱠(ふななまず) 鮒に片目の 由来あり 』 子規
(参考文献:「清水の里」pp.208)
おこり地蔵
(参考文献:「清水の里」pp.209〜210)
御幸寺山の天狗
昔は殆ど人も立入らぬ山であったようで、天狗が住んでいるとも囁かれていた。松山市の生んだ俳聖・正岡子規も「秋の山 御幸寺と申し 天狗住む」と句を詠んでいる。
●天狗にもらった小箱(参考文献:「松山のむかし話 伝説」→「清水の里」pp.201)
単に「天狗が住んでいた」という話だけでなく、松山城主であった蒲生家の断絶に纏わる伝説も残っている。この話を要約すれば、「城主・蒲生忠知(がもうただちか)の家来に笛の名人がいて、その人が御幸寺山の山頂で笛を吹いていたら天狗がやってきた。天狗のリクエストに応えて1曲奏でると、その音色に聞き惚れた天狗はその御礼に小箱を与えた。しかし、その箱の蓋は決して開けてはならぬと告げた。この話が殿の耳に入り、殿は笛吹き名人にその箱を持って来させ、そして強引にその箱を開けた。するとその箱の中には『蒲生家断絶』と書かれた紙が入っていた。その後、蒲生家には後継ぎが途絶えてしまった」といった展開である。
眉唾的な話ではある。しかし、これは御幸寺山に天守閣の載せることを期待した人々の願い叶わぬ怨みがましい思いが作り出した話とも見て取れるのではなかろうか。この推測は単なる思いつきに他ならないのだが、「松山城築城伝説」と「蒲生家断絶伝説」が繋がりを見せる点では面白い。そんな想像も、この山に登らずしては生まれなかったであろう。やはり、現地に足を運んでみるに限る。
天狗の方は、山岳宗教との関連。岩峰で修行にいそしむ山伏の姿を天狗になぞらえたに違いなかろう。
御幸寺山の怪物
怪物とは言いつつも、おそらく天狗遭遇譚であろう。
松山のある武士が松茸狩りに御幸寺山へやってきた。赤土の禿山の岩に腰を下ろして休んでいると、大松の根元で昼寝をしている怪物の姿を目にした。体長約2m、そのいでたちは烏のようで、翼を広げて眠っている。驚いた武士は思わず叫び声を上げた。その声に目覚めた怪物は、すくっと立ち武士を睨みつけた。武士は急いで逃げ帰ったが、それ以来高熱を発して寝込んでしまい、約1ヶ月後に狂死した。(参考文献:「えひめ昔ばなし」→「清水の里」pp.202)
御幸寺山の首なし馬
●首なし馬にまたがり疾走する妖怪の話〜行逢い神
(参考文献:「松山のむかし話 伝説」→「清水の里」pp.202〜203)
●妖怪退治譚
(参考文献:「松山のむかし話 伝説」→「清水の里」pp.203)
十六日桜
●老翁の願いを叶え正月に花を咲かせたこと
余命いくばくもない老翁が「桜の花が咲くころまでは生き延びることができない」と歎きながら桜樹の下に立つと不思議にも花を開いた。
●節会桜
宮中で踏歌が行われる日に咲くので、節会桜とも呼ばれる。
●孝子桜
「老翁の願いを叶える」、これに「息子が嘆願した」を付け加えた。親孝行の美談。
●桜が枯れたこと
宝永2年(1705)に枯死したため、藩主・松平定直が安田重太郎に命じて同種の桜を植えた。
●冷泉為村の歌
藩主・松平定清が歌道の師・冷泉為村(れいぜんためむら)にこの桜を贈ったところ、その返礼として
「初春のはつ花桜めづらしく都の梅の盛りにぞ見る」
の歌が届けられた。
●小林一茶の来訪
「又たぐ世は梅ざかり比桜」(「花見の記」、小林一茶)
●天徳寺の桜〜吉平桜
●小泉八雲の伝えた十六日桜
桜の木の下で割腹した侍の霊が乗り移った…と紹介。
(参考文献:「清水の里」pp.204)
→「西遊記」、橘南谿(たちばななんけい)
→「怪談」、小泉八雲
→小学校教科書
車返しの坂
(清水の里 pp.90←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))
勅使橋
(清水の里 pp.90←御幸村誌←温泉郡誌(明治41年刊))