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![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 松山市 (宮前地区) |
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市の花 | 市の木 | 市の花木 | 市の鳥 |
街の花:
葉牡丹 |
街の木:
欅 |
大字 | 字 |
ひばりケ丘(ひばりがおか) | |
みどりケ丘(みどりがおか) | |
三杉町(みすぎまち) | |
中須賀(なかすが)一丁目〜三丁目 | |
会津町(あいづまち) | |
内浜町(うちはまちょう) | |
古三津(ふるみつ)一丁目〜六丁目 | |
古三津町(ふるみつまち) | |
吉野町(よしのちょう) | |
明神丘(みょうじんおか) | |
春美町(はるみちょう) | |
東山町(ひがしやままち) | |
桜ケ丘(さくらがおか) | |
祓川(はらいかわ)一丁目〜二丁目 | |
辰巳町(たつみちょう) | |
青葉台(あおばだい) | |
高山町(たかやまちょう) |
長袖さん【古三津刈屋】
村上水軍【古三津】
儀光寺(ぎこうじ)【古三津1丁目】
1995/5/2
・宗派:新義真言宗 豊山派
・山号:真隆山
・院号:佛集院
・本尊:千体十一面観世音菩薩(由利観音)
・伊予道前道後十観音霊場
・四国ぼけ封じ三十三観音 21番霊場
・天平年間(729〜748)に儀光上人が、伊予灘に在った伝説の孤島由利島に十一面観音を背負いて一草庵を結んだ。
・弘安年間(鎌倉時代)、地震・津波に遭い、観音の導きにより島民とともに当地に移り住んできた。人々は苅屋(神田町、住吉町界隈)、新苅屋(高浜辺り)に住んだという。
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子育て大師(稚児大師)
岡田十五郎翁の墓
・岡田十五郎[1790〜1854]は久万ノ台の地(現在の松山西高校)に大池堤を竣工した。
・しかし養水の水源地がなく、久枝村の三島神社に七日間の断食祈願をかけたところ「明朝未明、山越亀の甲泉から鷹飛び来たり止りたる所に水門を開けよ」との霊夢を得た。直ちに私財を投げ打って水門の掘削工事に着手したところ、水は溜々として流れ込み、忽ちにして池は満々の様相を呈したという。
→c.f.岡田十五郎神社(久枝神社)
法雲寺【古三津1丁目】
1995/5/2
・宗派:真言宗
・山号:金亀山
・本尊:阿弥陀如来
久枝神社(ひさえだじんじゃ)【古三津5丁目】
1995/5/2
![]() ・祭神: 足仲彦命、誉田別命、息長足姫命 ・以前当村大明神に住吉神社、南條に祇園社、東山に岩崎神社があった。何れも河野家、松山城主の 尊崇のみならず、曽根氏、田房氏、岡田氏等の崇敬があった。 ・明治3年郷社厳島神社と合祀し、その後明治12年7月、村民の要望により現在地に奉遷し、社名を久 枝神社と称し奉った。 |
![]() ・藤原純友が攻め寄せてくる軍勢を馬の上から(駒を立てて)見たといわれる場所である。 ・この岩はこの地よりも西北30mの田の中にあった。土地造成中に埋没されていたのを有志で掘り出し、昭和51年3月に現在地に移し復元した。 ★しかし、この岩が駒立岩であるという判断は何なんだろう?「駒立岩」と書いてあるわけでもないのに....とかく、巨石に纏わる伝説にはこの手のものが多い。大きな石が存在することに対して某かの意味付けが必要ということか。 |
![]() ・久枝神社境内にあり、藤原純友が使用したと伝えられている。 |
![]() ・東仙台西麓の畑の中にある。 ・藤原純友の重臣の墓と伝えられる。 |
![]() ・久枝神社より東北約400mの孀塚山山頂にあった。 ・純友の乳母の墓と伝えられる。 |
![]() 『熟田津尓舩乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝气菜』 額田王 ・平成6年、三津土地改良区が建立。 |
![]() ・平成4年10月開基。 ・岡田十五郎は、寛政2年、古三津村に生まれ、安政元年に没した。享年63歳。 ・久万の台新池の築造のため挺身し、当村の農業振興に努めた。 →c.f.儀光寺 |
鬼塚【古三津3丁目】
・光風台遊園地の一角に、藤原純友の重臣を祀る「鬼塚」がある。
・以前は現在の位置より南へ 50mほど離れた畑の中にあったが、住宅地開発のため1992年5月に公園内に移転し、土台の造り直し、新たな石碑の建立を行った。
・重臣の名は不明であるが、「駒立岩」と共に天慶の乱の一連の遺跡として約1050年の歳月を経て今日に至っている。
・藤原純友は日振島を根拠地に海賊の首領として瀬戸内海を荒し回ったが、九州の太宰府での戦いに大敗し、伊予に逃げ帰った。
・久枝神社の南の大明神ヶ丘に館を建てて住んでいたが、天慶4年(941)に攻め入られ、重臣たちは
6月10日に亡くなった。純友も捕らえられ、6月20日に亡くなった。
→c.f. 久枝神社