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伊予の隅々
こたろう博物学研究所
市町村別情報庫
松山市
(三津浜地区)

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伊豫の隅々インデックス

カテゴリ別インデックス

市町村概要

キャッチフレーズ
(1).

市の花 市の木 市の花木 市の鳥
街の花:
サルビア
街の木:
クスノキ

特産物

沿革

地名
大字
三津ふ頭(みつふとう)
三津(みつ)一丁目〜三丁目
住吉(すみよし)一丁目〜二丁目
元町(もとまち)
松江町(まつえちょう)
梅田町(うめだまち)
神田町(かんだまち)
若葉町(わかばちょう)
須賀町(すがまち)


文化財

白楊会館【須賀町4-6】
2016/7/16
・昭和3年(1929)に愛媛女子師範学校卒業生たちの研究活動などの場として、建設が計画された。
・昭和9年4月13日に落成。
・昭和18年3月に、愛媛女子師範学校が廃校となった後には、同窓生らが維持・管理してきた。
・昭和41年9月、財団法人「白楊会館」が設立された。
・現在は、カフェ「3.CAFE GARDEN PLACE」として活用されている。
 
 



城址


遺跡


古墳


跡地

6人の力士の墓【元町】

三ツ湊  :万延元年(1860)没
千代の松  :明治22年(1889)没
初代押尾川:文化6年(1806)没
打波       :天保7年(1836)没
二代目押尾川:明治2年(1869)没
松之音     :明治7年(1874)没

・松山藩を代表した力士で、当時の塩屋町(現在の三津2丁目)にあった灘屋喜八の八男として生まれ、大阪へ出て陣幕親方の弟子になり、陣幕島之介と改めて大関に昇進。その後江戸に出て、押尾川巻右衛門と名乗って江戸相撲をにぎわし、ここでも大関を張っている。江戸時代では大関は最高位であった。
・墓石の台座には「門弟中」と刻まれており、江戸末期から明治にかけて、力士の門弟などが建てたものと推測される。
 
地蔵尊
・享保元年(1816)と刻まれている。
豫州溺死者招魂碑
・明治17年(1884)の大津波の犠牲者を祀る。


願成寺【住吉2丁目1-12】
2016/7/16
・宗派:浄土宗
・山号:海雲山
 
三津浜小学校発祥の源泉地
・山門入口に向かって左側の塀に花崗岩製の碑が埋め込まれている。平成2年11月に塩崎石材店より寄贈されたもの。
・明治八年に、桜小学校、桂小学校、御津小学校の3校が設けられた、明治十年にこの3校が合併し、西洲小学校と称し、願成寺内に設置された。明治20年3月、西洲小学校を廃し、4月に和気郡三津浜尋常小学校が設立された。
山号額「海雲山」
・山門に掲げられている。

 

西性寺【三津1丁目】
・山号:海穏山

正覚寺【三津三丁目】
1995/5/2
・宗派:浄土宗 
・山号:大音山
・やすらぎの観音さま

正念寺【神田町】
1995/5/2
・「正念寺 法花宗 旧題目庵ト云シヲ享保三年寺号ニ改ム」(和気郡地理図誌稿)

善宗寺(ぜんしゅうじ)【神田町】
1995/5/2
・山号:遍照山
・宗派:浄土真宗 本願寺派
クロマツ 〜臥龍松〜
・松山市保存樹木(昭和52年12月27日指定 協定番号 2号)
・推定樹齢 350年。宝永23年、本堂建立の際、予州藩主久松定行候が植えたと云われる。
・枝は地上1.5mのところより、26.5mに広がり、その名にふさわしく特異な美しい姿態を見せている。
・十数メートルはあろうか、まるで龍のように横に長くその幹を伸ばしている。

定秀寺【神田町】
1995/5/2
・宗派:浄土真宗 本願寺派
・山号:蓮華峰
河東碧悟桐句碑
『銀杏寺(いちょうじ)を たよるやお船 納涼の日』
・俳句の里 城北コース4番
・碧悟桐は明治39年から44年にかけて全国旅行をして「新傾向俳句」をすすめた。
・明治43年(1910)8月11日に当地の結社「水戸鳥会」の大会に参加したことが「続三千里」に見える。出席者は一修、雷死久、連翠、隣仏、碧悟桐で、そのときの句である。(隣仏は当寺の住職であった。)
★なるほど、山門の脇にはおおきな銀杏の木がそびえている。


神社

厳島神社(いつくしまじんじゃ)【神田町2096】
1994/9/24、1995/5/2
・祭神:宗像三女神
・利益:道主貴之命(みちぬしのむちのみこと)とも言われ、交通安全に利益あり
・景観樹林保護地区 指定番号 2号(昭和52年12月20日)
・伊予七福神 [寿老神]
・寿老神の功徳は、無病息災、延命長寿、ぼけ封じ。
・家族を怪我や病気から守り健康長寿を授ける。
・電話番号:089-951-1471
・ご利益:交通安全、子育て、病気平癒
・交通:伊予鉄バス三津厳島神社前
・1400年前に、福岡宗像大社から、また1300年前に広島の厳島神社から御祭神を勧請。古くは武門の神として多くの武将の参拝を受け、歴代の松山藩主が参勤交代の都度、藩内平和の祈願をされた。現在は交通安全、子育ての神として知られている。
 
天満宮
紗空楽都閑(桜塚) 
正面:『紗空楽都閑』
右面:『はつさくら華の世の中よかりけり』 栗田樗堂
左面:『木のもとにしるも鰌もさくら哉』  松尾芭蕉

・俳句の里 城北コース 3番
・元禄3年(1690)の句。花の下で宴を行っている。汁にもなまずにも桜の花びらが降り注ぐ。

→らいふろんぐ、No.56、平成17年11月10日、(財)松山市生涯学習振興財団

竹内武城句碑
『古きみなと三津 葉月潮 澄みたたへ』
戦利兵器奉納ノ記
・明治40年3月 陸軍大臣 寺内正毅(てらうちまさたけ)
絵馬殿
・天保七申春三月
・文化十三
・元治二
・安政
・慶應二
神輿の鉢合わせ
・「けんか神輿」の異名を持つ。
→らいふろんぐ、No.56、平成17年11月10日、(財)松山市生涯学習振興財団
虎舞

住吉神社【住吉1丁目】
2016/7/16
・三津浜商店街入口(東側)横に鎮座する。
 
注連石
・「善至」(右)、「嘉祥」(左)

三津恵比寿神社(恵美須神社)【三津】

・もともとは三穂神社と称した。
・旧丸屋根の北にあったが、昭和初期に三津浜町が現在地より南一帯を埋め立てして造成地が出来た。この機会に移転して三穂神社を新設した。
・当時は春祭に近郊の小学生による相撲大会が行われた。
・夏祭は毎年7/8、9に行われていた。(現在は7/9、10)
・平成9年7月に社殿を新築。これと同時に恵美須神社と改称した。
 
十日えびす
・1月10日に行われる。

三穂神社【三津】
 
伊予源之丞
・県指定無形文化財
・人形頭には、名人天狗久の40数頭をはじめ、松山の面光(めんこう)・林祥山らの名工が心血を注いだ傑作もある。
・250年前の享保年間、三津の三穂神社の祭りに、不景気が打開できると信じられて奉納されて以来、庶民の娯楽として伝えられてきた。


お堂



地蔵





鉱山

川・渓谷



ダム

堀川橋
県道脇で「堀川橋」と刻まれた橋柱らしきものを見かけた。しかし、これは橋柱ではなく石碑なのかもしれない。以前、ここには「堀川橋停車場」があった。


風景

洞窟・鍾乳洞

樹木








正岡子規句碑【三津 三津浜港】
「十一人一人になりて秋の暮」
「子規は明治二十八年四月、新聞「日本」の記者として日清戦争に従軍したが、休戦講和のため五月帰航船中にて発病し重体になり生死をさまようが神戸病院須磨保養所にて療養、回復し同年八月二十五日帰松 漱石の下宿先「愚陀仏庵」にて予後を養うこと五十二日間。この間松風会会員の指導等を任していた。同年十月十九日再度上京の途につくが、それに先立ち十月十二日二番町の料亭「花廻会」において漱石ら松風会会員十七名によって送別会が開かれた。
酒宴の中で句の贈答が行われ漱石は「御立ちやるか御立ちやれや新酒菊の花」を贈り子規も惜別の句「十一人一人になりて秋の暮」を作り応えた。又、子規はこの場で参加者全員の雅号を詠みこんだ即興俳句も披露し皆を驚かせた。同日宴後、子規は三津浜に向い「久保田回漕店」に宿泊、十八日松風会会員十人が再び訪れ別盃をくみかわし送別の句を交換。漱石は「疾く帰れ母一人ます菊の庵」を詠み、一同が引き上げた後、子規は「せわしなや桔梗に来り菊に去る」と、その寂寥感を詠み松山最後の句となった。その後子規は宇治、須磨、大阪、奈良を巡って上京。その間法隆寺では有名な「柿食えば…」の句を残した。十月三十一日新橋停車場にて虚子、碧梧桐、鳴雪の出迎えをうけ根岸の子規庵に帰る。
この七年後、明治三十五年九月十九日永眠す
贈 松山北ライオンズクラブ結成二十周年記念

・松山北ライオンズクラブ結成二十周年記念


公園

祭り

虎舞
・「加藤嘉明が朝鮮出兵をした際、山中で猛虎をしとめて、頭と皮を豊臣秀吉に献上した。その虎狩に同行した家来の中に古三津のものがおり、それを土産話にしたのが発端」ともいわれる。
・長い間忘れれていたが、昭和28年頃に復活。
→らいふろんぐ、No.56、平成17年11月10日、(財)松山市生涯学習振興財団

・三津厳島神社の虎舞は、10月7日の未明に行われる行事。
・この行事は、松山城初代城主加藤嘉明と深い関わりがある。
・慶長2年、豊臣秀吉の第二回朝鮮出兵に際して、伊予の勇士を率いて出征した加藤嘉明は大活躍をした。そして慶長3年の春には山中で虎狩を行い、見事に猛虎をしとめたといわれている。獲物の頭と皮は大将である秀吉へと献じられ、大層喜ばれた。この逸話は伊予古文書に記されていて、「悦思食候(よろこびにおぼしめし)」と表現されている。
・虎狩に同行した家来の中には、遠藤小太郎森川彦兵衛ら古三津出身の者がおり、彼らは虎狩の様子を土産話にし、それが現在の虎舞へと変化したと思われる。
★古三津虎舞保存会:宮前公民館(代表:岡田忠夫氏)


イベント

施設

学校

温泉

伝説

三津須先町の和霊さん【港山町】
・宇和島藩家老山部清兵衛公頼は、よく殿様を助け、よい政治をし、藩民に慕われていた。ところがここに1つ問題が持ち上がった。仙台の本家からの借金を返済しなければならぬことである。どうしても返済の目処がつかない。最後の手段として家来の知行を減らす計画を立てた。穏やかでないのは家来たちである。かつての彼の良策を忘れて、あることないこと悪口を言い、殿様に讒言(ざんげん)する者さえ出てきた。生命の危険を感じた清兵衛は江戸へ訴え出る決心をし、こっそり松山まで来た。船便を待つため、三津須先町の大阪屋という宿屋に泊まったのは元和6年(1620)6月29日の夜だった。ところが彼の宿をつきとめ、寝込みを襲った。まず蚊帳の四隅のつり手をばっさり切り落として逃げ場を断っておいて、切り殺してしまった。その姿態は蚊帳に包んで海に放り込んだ。
・この悲劇を知った三津の人々は、清兵衛の霊を慰めるため、渡し場に和霊様を祭った。毎年7月23日から3日間をお祭りとし、その間は蚊帳をつらなかったそうだ。
・今の島津肥料店の裏の土蔵のところにあったということだ。


キャンプ

海水浴

人物

その他

辻井戸【住吉】
1995/5/2
 
辻井戸
・慶長八年(1603)、松山城主加藤嘉明が三津浜を水軍の根拠地として決めたことにより、この地は御船手と問屋と漁師の街として繁栄した。
・寛永十二年(1635)、松平定行が御船手(水軍)の水を確保するために掘らせたもの。
・この辻井戸は御船手の専用水として用いられたが、明治の初めの廃藩後は重要な生活用水として長く用いられた。
・当時、北浜町、南松前町、北松前町、江ノ内が交差する四つ辻に位置していたことから、辻井戸と名付けられた。
三津江内修繕碑
・明治22年12月、愛媛県松山浦屋寛制撰

御茶屋井戸【梅田町2-42 三津浜小学校】

・松山藩主が参勤交代の折に立ち寄った。参勤交代出発に際して、潮待ち・衣装替えなどで休息するための別邸。
・後に松山藩校・明教館の分校となった。
・三津浜三名水の一つに数えられるようになった。
 

三津の朝市【三津】
・港山城の兵が毎朝、米穀や魚などを買い求めて須崎の浜を賑わした。これが三津の朝市の始まりだという。(応仁年間)

三津浜港【三津】
 
正岡子規句碑
「汽船乗り場」の石標
「汽船乗り場
 三津浜町の歴史と発展の跡を見つめてきた、貴重な記念物である。
 三津内港は、鎌倉時代から、伊予水軍の拠点てあったが、三津は寒村であった。慶長八(1603)年、松山城に移った加藤嘉明が水軍の根拠地とし、松前から町民が移り、発展が始まったといわれる。
 寛永一二年(1635)、松山藩松平初代藩主定行が、御船手組や町奉行を置き、参勤交代の御用船の根拠地としてから、物や魚の集散する町となった。
 明治になると、三津浜町は、商工業も発展して、大阪商船や宇和島運輸等の汽船が出入りする、四国一の商取引所になった。しかし、港は海底が浅いため、大きな汽船は沖合いに停泊していた。船着場から沖の汽船まで「はしけ」(和船)に乗せて運んでいた。
 明治四(1871)年、窪田高乎が、「はしけ」で沖の汽船までの運送を始めた跡が、この「きせんのりば」「きせんとゐや久保田」と刻まれた標柱である。もとは、三津三丁目四あたりに建っていたといわれる。
 夏目漱石正岡子規も、ここから出発し、ここに上陸したのである。
 明治三六(1903)年、高浜に南桟橋ができると、船舶は高浜港に移った。
 松山市 松山市教育委員会」

三津の渡し【港山町/三津 三津内港】
 
渡しの由来
「渡しの由来
 三津浜の人びとはこの渡しを「瀬崎(せさき)の渡し」「三津の渡し」と言い、港山の人びとは「古深里(こぶかり)の渡し」「港山の渡し」と言っている。
 分明年間(1469)伊予守河野通春が湊山城主であったとき、この渡しを利用したのが始めだとも言われ、松山城主が三津を水軍の根拠地と定め(1603)、ここに御船場(おふなば)を置き、御船手(おふなて)を配置(1635)してからは、その統括の下に運行されていた。
 寛文四年(1664)洲崎の魚市売買に御沙汰があったことにより商人(あきんど)などでにぎわい、また小林一茶も古深里洗心庵の句会のとき渡っている。(1795) 大正の初めころまでは小舟を水竿で操り、その後手漕ぎ時代が長く続き、昭和四十五年(1970)エンジン付渡船となった。
 現在正式名称は松山市道高浜二号線の一部(約八十米)である。
     松山市
三津の渡し
・元禄4年(1691)に始まった。室町時代、伊予守河野通春が港山城主の頃、食料輸送に利用したのが始まりとも伝えられる。
・三津と港山の間の約80mの港湾を結ぶ渡船で、航路は市道に認定される。
敷村良子の坊っちゃん文学賞受賞作「がんばっていきまっしょい」の映画の1シーンにも姿を見せる。



《References》



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