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![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 松山市 (味酒地区) |
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市の花 | 市の木 | 市の花木 | 市の鳥 |
街の花:
水仙 |
街の木:
藤 |
大字 | 字 |
六軒家町(ろっけんやちょう) | |
味酒町(みさけまち)二丁目〜三丁目 | |
宮西(みやにし)一丁目〜三丁目 | |
平和通(へいわどおり)五丁目〜六丁目 | |
愛光町(あいこうちょう) | |
朝日ケ丘(あさひがおか)一丁目〜二丁目 | |
朝美(あさみ)一丁目〜二丁目 | |
木屋町(きやちょう)一丁目〜二丁目 | |
本町(ほんまち)二丁目〜五丁目 | |
松前町(まさきまち)二丁目〜五丁目 | |
美沢(みさわ)一丁目〜二丁目 | |
若草町(わかくさちょう) | |
萱町(かやまち)二丁目〜六丁目 | |
衣山(きぬやま)一丁目〜五丁目 | |
辻町(つじまち) |
菊屋新助の墓【木屋町2丁目
円福寺】
・県指定記念物[史跡](昭和30年11月4日指定)
庚申庵(こうしんあん)【味酒町2丁目】
・県指定記念物[史跡](昭和24年9月17日指定)
・俳人栗田樗堂の草庵。樗堂が俳諧の研究の場としていた二畳庵を復興して六畳の草屋をつくり、寝起きをして俳諧に精進していた。
・寛政12年(1800)の創建で、一部改修はあるが、ほぼ原形をとどめている。
・樗堂が52歳の時、松山城の西方味酒郷の俗に古庚申(ここうしん)と言われる祠の近くに風雅境を求めて建てた。
・干支と祠に因んで庚申庵と名付けられた。
・床の間四畳半、中の間三畳、東西・南側に廊下があり、面積は25u。
・建物の南側にある庭園には樹齢200年を誇る藤の木があり、毎年5月頃になると大勢の見物客が訪れる。
・小林一茶が伊予来訪の折にはこの庵に泊まり、互いに俳句をつくってその才能を競った。
・写真家・渡部章正氏が所有していたが、2001年1月に市が買収し、解体・復元整備を進めた。
→「県指定史跡・庚申庵 増築・改修重ね構造複雑 松山市解体調査で判明」、愛媛新聞、2001/2/17
蒲生忠知肖像画【木屋町2丁目】
・円福寺所蔵。
・市指定有形文化財(昭和37年11月5日指定)
吉田蔵澤の墓【本町5丁目
大法寺】
・市指定記念物[史跡](昭和45年5月18日指定)
三上是庵の墓【朝日ヶ丘1丁目
宝塔寺】
・市指定記念物[史跡](昭和45年5月18日指定)
奥平貞幹の墓【朝日ヶ丘1丁目】
・市指定記念物[史跡](昭和62年5月26日指定)
雲祥寺【味酒町】
・山号:江勝山
・宗派:曹洞宗/禅宗
・松山西国 元祖 花山院
・天文5年僧侶の郭空が開基した。昔松山小谷にあり小谷寺と称していたが、慶長年間に亀屋、松屋、鶴屋の3町を営むことのお告げにより亀屋町(後の紙屋町。現在では古町に当たる。)に移し、寛永11年蒲生忠知が今の地に移した。
円福寺(えんぷくじ)【木屋町2丁目】
2000/10/15
・宗派:真言宗
![]() ・県指定記念物[史跡](昭和30年11月4日指定) |
大法寺【本町5丁目】
大林寺【味酒町】
・今の味酒町界隈、フジグランの東は昔宮古町と呼ばれていた。
・当初見樹院といっていたが、蒲生忠知が創建して香花院とした。このときは神家であった。
・蒲生家断絶のあと、寛文11年9月久松定行僧三甫を住持とし、これを修営して浄土宗とし、累世の香花院とした。
・その後、蒲生忠知の墓は末広町興聖寺に移された。
・大林寺は松平家の菩提寺である。
![]() ・高さ 1.4m、径 0.4m ・文化15年(1818)の銘あり。 ・昭和40年県指定の有形文化財工芸品となった。 |
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得法寺【萱町】
・和田修理太夫正義(伊予国人)が諸国を遊歴して越後の国で剃髪して僧侶となり、恵順と名をつけた。その7世の慶恵が法祖恵順の縁故を以て伊予に訪れ、三津浜に寺を創建した。その後今の地に移転した。
法泉寺【松前町】
・元々は持田町(持田村)にあり、河野家の香花院であった。後に伊予郡松前町に移し、慶長8年10月に加藤嘉明の命令により現在の地に移した。
宝塔寺(ほうとうじ)【朝日ヶ丘1丁目】
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阿沼美神社(あぬみじんじゃ)【味酒町3丁目1-1】
2004/7/18
・電話番号:089-932-8722
・松山の守護神、水を司る神。
・交通:伊予鉄電車古町駅下車徒歩2分
・祭神:大山積(おおやまつみ)、神雷神、高■神(たかおかみがみ)(■は雨かんむりに龍)
◎電車の吊り広告で「菅原道真を祀る...」というのを見た。→調査要。→これは境内社「味酒天満神社」のこと。
・勝山(=今の城山)に鎮座していたため、勝山三島大明神とも呼ばれる。
・慶長8年、加藤嘉明の松山城築城により本地に移転したため、味酒神社と改名したが、明治3年、再
び阿沼美神社の名に戻し、県社に列した。
・阿沼美神社は延喜式神名帳に記載する温泉郡四座の一社である。
・社家伝に依れば、面足神、惶根神、並びに神八井耳尊をも合祀する。
・河野家累代に崇敬された。
・廊門は風早郡八反地村(今の北条市)の国津彦神社に、高麗戌(狛犬)は小栗村の正八幡宮に、そ
して鏡は江戸村(今の南江戸町)の朝日八幡宮に分興したとのこと。
・コンクリート製の拝殿。拝殿内部中央には、「延喜式内 阿沼美神社」(久松定武謹書)の社号額が掲げられている。
![]() @.阿沼=葦津、美=姫 →鹿葦津姫(かあしつひめ) A.天鈿女命(あまのうずめのみこと) B.勝山と江戸山の間は大沼であり、明神の神詠に『阿那美クシ沼哉』とあったため。 |
![]() ・明治17年5月建立 |
![]() ★八社八幡 @伊佐爾波神社 A桑原八幡神社 B日尾八幡神社 C正八幡神社(雄郡神社) D日招八幡神社 E朝日八幡神社 F還熊八幡神社 G勝山八幡神社 |
![]() ・伊予拓本研究会が結成七周年を記念して、昭和60年11月23日に建立したもの。 「者流もやゝ気し支とゝの不月と梅(者せ越)」
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![]() 「浮雲やまた降雪(ふるゆき)の少しつゝ」 (栗田)樗堂題 ・俳句の里 城下コース 46番→城下コース45番? ・「昭和四十六年春 発起人 味酒吟社久保清溜(以下略)」 ・近世松山第一の俳人栗田樗堂の句碑。樗堂は市内松前町豊前屋後藤昌信の三男で、同町内の廉(かど)屋栗田与三左衛門(よそうざえもん)家に入夫した。彼は養家の酒造業でも大をなし、また、町大年寄を通算30年近くもつとめたが、若くして俳諧に長じ、養父与三左衛門(俳号・天山)のあとをついで、二畳庵を再興し、寛政7年(1795)、一茶の来訪をうけた。この碑のあるあたりが、その二畳庵の跡といわれている。 ・寛政12年(1800)、この地の西南200メートルの所に「庚申庵」を建ててそこに移った。 ・碑の裏面には「文化十一甲戌八月廿一日卒」と刻まれている。文化11年(1814)、広島県御手洗島(大崎下島)で没した。 ・碑の文字は、樗堂自筆の拡大である。 |
![]() 「さまさまの事おもひ出す桜かな (松尾)はせを」 ・俳句の里 城下コース 45番→城下コース44番? ・「明治甲午夏」と刻まれている。(明治27年(1894)) 俳聖・芭蕉の200回忌にこの地の俳人達が建てたものと思われる。 ・この句碑は、戦災の後、本殿の西側の縁の下に横倒しになっていたが、元の姿に戻された。(いつだろうか?) |
![]() ・松尾芭蕉句碑の傍らにある。 ・大山為起は、貞享4年(1687)より当社の神職を勤めた。国学者であり、「味酒講記」の著者である。 |
![]() ・10月7日。 ・神輿の屋根で競り合う喧嘩神輿。町方の黒塗「四角さん」と村方の金箔「八角さん」が鉢合わせする。 ・宮出しが6時、宮入りが21時頃。 |
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![]() 「学問・芸術の神様として有名な、菅原道真公を祀る大宰府天満宮は、道真公の門弟味酒安行が創建。その子孫が、今もゆかりの地である阿沼美神社を訪れている。」(祠前の貼り紙) |
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出雲大社松山分祠(いずもたいしゃまつやまぶんし)【本町3丁目5-5】
・電話番号:089-921-3229
・ご利益:縁結び、商売繁盛
・交通:伊予鉄バス、市内電車本町3丁目下車徒歩3分
・祭神:大国主大神
![]() ・2月3日に開催される。 ★我が家の地鎮祭はここの神主さんに来て貰った。「おーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ ....」と唸りながら摺り足で四方を拝むそのお姿をばちあたりにも笑わずにはいられない。 ★1999年1月14日、出雲大社松山分祠の西嶋氏より「祭神の記述に誤りがある」旨のメールを戴き、修正しました。どうも御指摘ありがとうございます。 |
![]() 「大神宮 衣山村にあり 往古は大社なり旧蹟俗談に云今百姓太郎衛屋敷脇に瓦寵の小社あり 大神宮といひ伝へ其の小社内を二つに分け内宮外宮とす 八十年前まては一間に三尺の盧葺の社ありたるよし 此社の西脇畑七町余穂の木名を大神宮といひ又其の邊田の穂の木にも内宮田二町三反外宮田二町一反余あり往古は当社の御供田なりし由いひ伝ふ当村に厳島明神の小社あり六月十五日例祭なり右大神宮も同日に祭る預り社人は南江戸村田内劃馬毎月朔日御供持参両社へ供奉す初穂として当村より米二斗づつ差L来るといふ」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.52) |
三島神社(みしまじんじゃ)【萱町】
![]() 「萱町や 裏へまはれば 青簾」 |
衣山
「衣山
衣山村に在り 衣山はきぬ山と読む 昔此山の東に寺を建つ 一年雨を祈けるに忽ち急雨来り 衣を霑せしか又忽ち晴て其の衣を此山に干したり より衣山と呼ひしと古蹟志に見へたり」(松山市誌)→(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.52)
フライブルグ通り【松山市】
・松山市は'89年、ドイツのフライブルク市と姉妹都市調印を行った。
・フライブルク市はドイツ西南部に位置し、温暖な気候に恵まれた美しい都市である。
・第二次世界大戦時に市街地の大部分が破壊されたが、市民の熱意によって古い街並が再現され、中世初期の雰囲気が漂っている。ブドウ栽培の盛んな土地で、フライブルク市は「森とワインとゴシックの街」としてよく知られる。
サクラメント通り【松山市】
・松山市は'81年8月、アメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメント市と姉妹都市提携を結んだ。
・サクラメントはアメリカ合衆国西海岸のサンフランシスコの北東に位置し、カリフォルニア州の州都として150年近い歴史を持つ美しい町。年間平均気温21℃という暖かい土地で、雨の少ないさわやかな地中海性気候である。町は1849年に始まったゴールドラッシュとともに急激に発展し、今もこの時代の名残りを止める古い建物などが保存されている。
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