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こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 松山市 (味生地区) |
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市の花 | 市の木 | 市の花木 | 市の鳥 |
街の花:
チューリップ |
街の木:
ツツジ |
大字 | 字 |
別府町(べふちょう) | |
北斎院町(きたさやちょう) | |
南斎院町(みなみさやちょう) | |
大可賀(おおかが)一丁目〜三丁目 | |
山西町(やまにしちょう) | |
海岸通(かいがんどおり) | |
清住(きよすみ)一丁目〜二丁目 | |
空港通(くうこうどおり)三丁目〜七丁目 |
相生の松【南斎院町】
・日吉神社にあった。
・昭和44年2月県指定、昭和43年2月市指定の天然記念物となったが、昭和52年12月9日指定解除。
大空城址
「」(愛媛面影)
南朝(宮方) | 北朝(武家方) |
仁気義尹(よしただ) | 吉岡氏
大野氏 森山氏:森山城(伊予市大平) 河野通直
今岡通任 |
宍草入道・宍草出羽守(大空城) | 河野通尭(みちたか) |
常福寺
【山西町450】
1994/9/24
・山号:南光山
・宗派:真言宗
・本尊:十一面観世音菩薩
・景観樹林保護地区指定番号16号(昭和53年4月25日指定)
松山市保存樹木「イチョウ」
・昭和52年12月27日指定 協定番号 3号 |
浄明院(じょうみょういん)【別府町546】
1994/5/7、2002/1/20
・山号:飯岡山
・宗派:真言宗 豊山派
・景観樹林保護地区 指定番号 17号(昭和53年4月25日指定)
・伊予十二薬師 第11番
本堂 | |||||||||||||||
大河堂 | |||||||||||||||
歓喜天/弁財天堂 | |||||||||||||||
魚籃観音堂 | |||||||||||||||
相思菩薩 | |||||||||||||||
のぞみ地蔵 | |||||||||||||||
十五菩薩堂
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鐘付堂 | |||||||||||||||
森脇田津子句碑 | |||||||||||||||
クスノキ
・松山市保存樹木協定番号5号 ・昭和52年12月指定 ・樹齢約300年 ・樹高約19m、目通り約3m |
長福寺
「長福寺
別府村にあり 俚諺集に云 昔は大寺にて脇房十二ヶ寺末寺十五ヶ寺 河野通直の制札あり 本尊薬師毘沙門地蔵 何れも行基の作なり 又聖徳太子自作の不動 空海真筆の不動の畫 唐朝より舶来の両界曼陀羅十一面観音像 春日の作あり 貞享中初て開張せり 今は俗に浄明院と呼ふ」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.53)
左島弁財天
(管理:浄明院) ・大可賀沖にある小島。 ・弁財天は海上安全の守護神であり、水辺の神と信じられている。 |
加茂神社【空港通3丁目】
・小社
2003/11/14 所在確認
忽那神社(くつなじんじゃ)【北斎院町】
2002/1/20、2003/3/23
高家八幡神社(こうげはちまんじんじゃ)【北斎院町】
2002/1/20
「高家八幡大神社
北斎院村に在り 往古従五位下一色式部太輔源氏勝と云人山城国加茂神社の斎院に奉事せしか後此地に来住し八幡大神及加茂大神を勧請す 因て此地を称して斎院といふ 承慮三年再建の棟札あり 又村内に加茂引地と称する處あり 是往古加茂神社のありたる跡なり 加茂神社今は高岡村に在り 是後来当村より遷座し奉りしといふ」(松山市誌)→(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.52)
地主神社(じしゅじんじゃ)【山西町】
1995/5/2
・祭神 伊予彦命、伊予姫命
・新田高校東南方向の小高い山の上にある。
・螺旋状のカーブを描いた参道の石段を昇りつめると、山頂にはコンクリートの拝殿とその奥に小さな祠があるに過ぎない。草も生い茂り、景観も素晴らしいというわけでもない。
・天平年中、河野通尭が筑紫に出陣するにあたり、地主神社に必勝の心願を込めて敵地に乗り込み大勝した。そのことに報いるために改築して感謝の心を表したという。
・鳥居には、昭和16年5月吉日新田長稔建之の銘がある。
清水八幡神社(しみずはちまんじんじゃ)【別府町】
2002/1/20
・祭神: 品陀和気命(仲哀天皇)、息長足姫命(神功皇后)、帯中津日子命(応神天皇)、武内大臣(武内宿禰)、玉依姫
・神功皇后が三韓征伐をし、その凱旋の帰途この地に行幸され、軍装の脇当を奉納された。皇后が使う水を求められた際、清水を差し出したことから「清水」という。
・もとは辯天山の大岩石の祠のところに神社があったが、大蛇が潜み参拝者を驚かせたので当地に移したという。
・須恵質埴輪円筒が出土した。
地蔵堂
・1989年8月27日建立。 ・清水八幡神社より北に約50mの場所にある。 |
素鵞神社(そがじんじゃ)【北斎院町】
2002/1/20、2003/3/23
・岩子山の麓、味生水源池へと向う道筋の、忽那神社の上手に鎮座する。
日吉神社(ひよしじんじゃ)【北斎院町】
1994/05/22
・春祭 :5月2日 餅まき、神楽奉納
・電話番号:089-972-1451
相生の松 |
句碑 『神■や 相生松の 聳立つ』 |
鳥居
・昭和11年11月 |
常夜燈
・明治19年建立 |
手水石
・慶應三卯年9月 |
境内末社:丸山三島社 |
境内末社:素鵞社 |
境内末社:春日社 |
福水神社(ふくすいじんじゃ)【別府町】
1995/2/5,2002/1/20、2007/2/11
・祭神:高皇産靈神(たかみむすびのかみ)、神皇産靈神(かむみむすびのかみ)、生皇産靈神(いくみむすびのかみ)、足皇産靈神(たるみむすびのかみ)、魂■皇産靈神(たまみむすびのかみ)
※■は凶
田
・この社は、昔神功皇后が三韓を征し引き上げの後、応神天皇を産んだあと、御東上の節、此の地に船を寄せ湯水を奉った。よって里人は福水神社と呼ぶようになった。
・その後、越前守為時郷の女一子なきを心配し、神様に祈り一子を得んと立願したら、伊予の福水の神に祈るべしと夢を見、その通りにしたら忽ちに懐妊したという。
・立産の森(りっさんのもり=奥の院)の土をとって産屋に敷き、月満ちてより安く女子を出産された。成長するに従い知識万人に超え、東門院の女房紫式部その人であった。以来、安産守護の神として崇敬厚く、これによって御産所という地名が生まれた。
・立産の森の旧跡、五柱の神の鎮座地というところに五つの大石がある。河野家代々懐妊あれば必ず奉幣あったということである。
・立産の森は福水神社から東へ500m坂を上って小高い丘の上にある。
「福水大明神社
別府村に在り社地を立産之森と云高皇産霊尊神皇産蜜尊魂産蜜尊生産霊尊足産霰尊を祭る往古神功皇后征韓の帰途皇子降誕あり御船を此海濱に泊し上陸し給ひ水を汲み湯を沸して皇子を浴し給ふ後里民其の所に祠を建て祝ひ祭り福水大明神と称す後越前守藤原為時の夫人子なきを憂ひこれを神に祈る夢に神答て云伊豫国立産福水に祈らは子あらんと因て人を遣はし此社地の砂を取りてこれを臥床の下に撒布しけれは妊娠あり女子を産めり其の女子は上東門院女房紫式部なりと社伝に見へたり」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.52)
★娘のIと一緒にサイクリング。雪のちらつく寒い日であった。夕焼けに白い雪の舞う、そんな松山では滅多にない風景を参道の階段に腰を下ろしてしばらく眺めていた。散歩で参道を上ってきた初老の人が「寒うなりましたなぁ」と声を掛けてくる。「そうですねぇ」と挨拶を交わす。(1995/2/5)
注連石
・文字は三輪田米山の書 |
拝殿
・三輪田米山の書の神名額が懸かっている。 |
高市弓忠鞆大人頌徳碑
「高市弓忠鞆大人略歴 明治二十五年壬辰年八月十六日出生。高市テルの養子となる。明治四十五年から昭和十二年の間松山周辺小学校の教員として子弟の教育に当たる。大正六年に福水神社、飯岡神社、清水八幡神社の宮司に任命され、昭和十八年から愛媛県神社庁に奉職。理事・副庁長を経て、庁長に就任。伊勢神宮第六十回式年遷宮の大任を果たす。昭和四十一年に神職最高の浄階に進み、身分一級を以て待遇され、神社界に多大の貢献をなせり。昭和五十一年丙辰年三月十八日歸幽。妻マサミの遺言により昭和六十三戌辰年十二月此の碑を建立。 玉井正素謹言」 |
矢竹神社(やたけじんじゃ)【別府町】
・矢竹神社は、清水八幡神社の旧跡の建立されたもので、"矢竹"とは、神社の周りに竹林があり、当時その竹を戦争などで矢として使っていたことから名付けられたと言う。
・昭和 7年、三津の田中園次郎氏が霊夢によって神霊を祭ってから、霊験あらたかな霊場として評判になり、広島、岡山、山口などの山陽地方からわざわざ特船を仕立てて参拝に訪れたという。
・現在ではその面影もない。
樅の木地蔵【南斎院町】
大空城址 |
宍草入道の墓
・所在地不明。(一本の柿の木がその印であると言い伝え有り) ※宍草入道・宍草出羽守は別人?(See.松前町誌) |
戦弾の窪山
・考古館上部の斜面辺り。 ・藤原純友VS小野好古(朝廷より派遣)軍と楠戸根千代(味生の地頭)軍の戦闘地。 |
クロガネモチ【山西町 新田高校】
・松山市保存樹木(昭和52年指定)
・目通り幹周約1.6m、樹高約15m。推定樹齢約100年。
烈女松江の墓
・墓石の側面には「大洲家中井口満津江 行年十八歳寂」と記されている。 ・堂の柱には幾つか貼り紙がなされている。 @短歌烈女松江(池村敏江先生作) 「世を遠く隔てし今も在りし日の名を残すかな今宵松恵忌」 A烈女松江(漢学者林洞人先生作) 「剣先一閃一身捐つ烈女の名は千歳に伝わる鏤々として香煙吹いて絶えず秋風涕は落つ墓碑の前」 |
松江堂
・昭和49年建立 |
烈女松江の碑
・評判の美人だった松江(1795〜1813)は、大洲藩士である瀬兵衛の二女として生まれた。瀬兵衛は故あって浪人となり、三津久宝町に移り住み、剣道を教えていた。 ・ある日、この松江に恋していた岩蔵という不良青年が、略奪結婚を企て直接行動に出ようとしたため、やむなく松江は岩蔵を斬り殺してしまった。 ・松江は「悪人といえども人を殺した罪は許されるべきではないから、私の首を切って下さい」と父に申し出た。父も「それが武士道だ」と、文化10年(1813)12月8日に三津の浜辺で松江の首をはねてしまった。 ・この父娘の立派な行動により、時の松山城主が松山藩に瀬兵衛を召しかかえようとしたが、「武士は二君に仕えず」とこれを拒否した。 ・しかし5年後には大洲藩の帰参が叶った。松江の勇気ある行動は、当時至難の業でされたお家の再興を成し遂げさせたのである。 ・松江の死から97年後の明治43年(1910)には、三津に愛媛女子師範学校が開設されたが、松江は女子師範の鏡として、その遺志が校風に反映された。 ・貞女松江を頌える顕彰碑をはじめ唱歌や漢詩などもたくさん作られ、松江の死は三津浜地区に文化を残したと言える。 |
大原基戎(おおはらきじゅう)の墓
『造作なふ 共に消えけり 雪仏』 大原基沢 ・俳句の里 城北コース5番 ・雪仏は雪達磨のこと。 ・大原基沢は基戎の父。 ・安永2年(1773)生まれ、嘉永1年(1848)没。 『明月や 丸うふけゆく もののかげ』 大原基戎 ・文化9年(1812)生まれ、(1889)没。 ・大原基戎は松山藩士の父の跡を継ぎ御船手大船頭になった。 ・明治維新後三津に明栄社を起こし、俳誌「真砂のしらべ」を主宰刊行。 ・道後義安寺の芭蕉塚を建立した。 |
アイテムえひめ
【大可賀】
・FAZ(Foreigh Access Zone)
・1996年3月オープン。