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![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 松山市 (荏原地区) |
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大字 | 字 |
上川原町(かみがわらまち) | |
上野町(うえのまち) | |
中野町(なかのまち) | |
大橋町(おおはしまち) | |
小村町(こむらまち) | |
恵原町(えばらまち) | |
東方町(ひがしがたまち) | |
津吉町(つよしまち) |
「初め徳川村といったが、徳川家をはばかって津吉と改称したという(新編温泉郡誌)」 (日本歴史地名大系第39巻 愛媛県の地名、平凡社、1980年11月) |
西野町(にしのまち) |
渡部家住宅【東方町】
・国指定有形文化財[重要文化財]
・土・日のみ見学可能!(10:00〜16:00)
・豪農で庄屋の家柄の渡部家住家で、方二十五間、七百坪(約2315u)の広大な屋敷構えである。
・南に長屋門、敷地周辺に白壁の大きい倉を配し、大規模な主屋を配置している。
・主屋は入母屋本瓦葺で、棟札には万延元年(1860)新造。慶応2年(1866)上棟とある。
・幕末に川内町から入庄屋して庄屋を務めた旧家の屋敷である。
・昭和45年、重要文化財に指定。
・現在の住宅は万延元年(1860)に着工され、慶応2年(1866)に上棟されている。
・南に庇二階付長屋門、東に白壁造りの米倉と倉を配し、その中に主屋を配し、周囲を土塀で囲っている。
・主屋はほぼ長方形で、建物を前後に分けて、表側を客向き、裏側を内向きの部屋とし、その境に階段、押入、棚などをとっており、松山地方周辺に見られる庄屋の造りとなっている。
荏原城跡【松山市恵原町1110】
2005/12/10
・県指定記念物[史跡](昭和25年10月10日指定)
八ツ塚群集古墳【恵原町】
・市指定記念物[史跡](昭和43年10月25日指定)
ヒノキ【津吉町】
・市指定天然記念物昭和53年1月20日指定解除
縫針城【西野町】
「縫針城 西町、 土岐、油井住、頼政の弟也、又新居純屋敷とも云、」(予陽郡郷俚諺集)
吉岡城【西野町】
「吉岡城 同所(西町)、 平岡遠江守通利住之」(予陽郡郷俚諺集)
棚居城
「棚居城、 平岡大和守」(予陽郡郷俚諺集)
大友城(大砥城)【恵原町】
「大砥城 荏原」(予陽郡郷俚諺集)
荏原城跡【恵原町1110】
2005/12/10
・景観樹林保護地区 12号
・県指定記念物[史跡](昭和25年10月10日指定)
・河野家18代の主席、平岡氏の居城。約120m四方の堀と土塁が残っている。
・東西約125b、南北105bで、四方は高さ5b程度の土塁をめぐらし、その外側を幅16bの堀で囲んだ中世の代表的な城址である。(郷土読本
ふるさと坂本)
![]() 胸高幹周 2.9m、樹高 16m |
新張城【恵原町】
2005/12/10
・「新居張 荏原、 此屋敷は土佐領主源三位頼政知行居住とも云、…」(予陽郡郷俚諺集)
尉之城【津吉町】
・「あの町この町」(広報松山)には、尉之城(いのしろ)というルビが振られているが、尉之城(じょうのしろ)が正解だと思う。
「城 津吉」(予陽郡郷俚諺集)
八ツ塚群集古墳【恵原町】
・市指定記念物[史跡](昭和43年10月25日指定)
・「八塚 荏原、 当所衛門三郎が八子頓死せし其墓所也、委しく石手寺の下に記す、今八塚と名乗は河野末流也、又八束とも書くあり」(予陽郡郷俚諺集)
安楽(禅)寺(あんらくじ)【津吉町】
1997/12/26
・宗派:黄蘗宗
・山号:医王山
・本尊:薬師如来
![]() ・安政5年の銘有り。 |
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常光寺【恵原町】
大蓮寺【東方町】
・宗派:真言宗 豊山派
・山号:青岸山
・伊予十三仏霊場 1番:不動明王
![]() 『山川草木悉有佛性』(さんせんそうぼく ことごとく ぶっしょうあり) ・昭和53年9月建立 ・碧悟東は明治6年、千舟町に生まれた。子規の俳句革新運動に参加し、俳壇で活躍したが、のち写生変調の弊から新傾向俳句に転じた。 ・明治43年8月に1週間、当寺に滞在、俳夏行(一室に篭もって句行に励むこと)を営み、その様子を「日本及日本人」に発表した。旅が好きで自然に親しみ山川草木のことごとくに仏性を見出した碧悟東の意を汲んで地元有志が句碑を建立した。 ・旧 俳句の里城下コース 38番 |
文珠院(もんじゅいん)【恵原町308】
1997/5/3
・遍路開祖衛門三郎旧跡
・伊予七福神(毘沙門天:インド生まれの軍神。甲胃をまとう。)
・伊予巡錫二十一霊場 第15番札所
・本尊:地蔵菩薩・文殊菩薩
・開山:弘法大師
・電話番号:089-963-1960
・遍路開祖衛門三郎旧跡
・荏原城の西方にあり、番外札所で、衛門三郎の邸跡と言われている。
・当院は、弘法大師が衛門三郎の子供の供養と共に悪因縁切の修法をした四国唯一の寺。
・衛門三郎は四国遍路開祖と言われる。
昔は徳盛寺とも呼ばれていたが、弘法大師が文殊菩薩に導かれ、逗留された後、文殊院と改めた。
![]() ・遍照殿には『衛門三郎由来之図』が掛けられており、八ツ塚、八窪が描かれている。 ・八窪は"はちくぼ"と呼ぶ。(とおばちゃんが教えてくれた。) |
![]() ・本尊は文殊菩薩、地蔵菩薩、弘法大師 ・本堂には、大師が刻まれたという大師自身の姿像、延命子育地蔵尊を祀る。 ・四国遍路元祖、河野衛門三郎の物語が記された寛正時代の巻物も保存されている。 |
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![]() ・衛門三郎の胸には"セバ札"なるものが掛けられている。 ・『われ人をすくはん為の先達に導きたまう衛門三郎』の歌が刻まれている。 |
龍光院【津吉町】
1997/12/26
・山号:天神山
・安楽寺の東隣にある。
大宮八幡神社(おおみやはちまんじんじゃ)【上野町49】
・電話番号:089-963-0504
・景観樹林保護地区 指定番号27号
「大宮八幡 上野村に有り、厳島大明神也と有、 …」(予陽郡郷俚諺集)
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諏訪神社(すわじんじゃ)【恵原町】
1997/5/3
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★1997/5/3 愛犬のロイを車に積んで散策
参道の前で畑仕事に向かう農家のおばちゃんに八ツ塚と八窪の場所を尋ねる。 『八ツ塚言うてどこにあるんですか?』 『八ツ塚はちょうどあの辺りよ。ほれあの緑の屋根の二階建ての家が見えるじゃろ?あの丁度西っ側になるんよ。車じゃったら、そこをまっすぐ行って右に折れて、ほしたらあの緑の屋根の二階建ての家の前の方に出るんじゃが、あの丁度西っ側になるんよ。そこをまっすぐ行って右に折れて、ほしたらあの緑の....』 教えて戴き大変有り難いのだが、懇切丁寧過ぎて際限のない無限ループに陥ってしまっている。 『わ、わかりました。ほしたら八窪(やつくぼ)はどこになるんですか?』 『やつくぼ?ああ八窪(はちくぼ)のことかな。ほれやったら、あそこにそげとる山が見えるじゃろ。あそこの2本の杉の下辺りが八窪よ。じゃけど、何もないで。祠みたいなもんはあるけど、何もないよ。まあ、人それぞれに見るもんも違うけどなぁ。まあ行ってみたらええわい。八ツ塚からやったらあの道をまっすぐ...』 長くなりそうなので、 『ありがとうございました。それじゃ行ってみましょうわい』 と御礼の言葉を述べて、とりあえず諏訪神社の参道を散策。周りの景観を楽しみながら歩いていると、遠くからおばちゃんが叫ぶ。 『あれぇ。あんた大きいワンちゃんが御主人様に捨てられらいけん言うて窓からこっち見よるじゃないか〜』 まあ、なんと話好きというか親切というか。とても有り難いことであるが。 |
素鵞神社(そがじんじゃ)【中野町】
2002/7/22
徳川神社(とくがわじんじゃ)【津吉町乙12ー1】
1997/12/26、2004/7/11
・景観樹林保護地区 指定番号 第36号(昭和54年3月30日指定、13,116u)
★椿神社に対抗するかの如く、朱色の大きな鳥居が参道に聳え立っている。
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境内末社:素鵞神社(祭神:素盞鳴尊) |
境内末社:若宮神社(祭神:大雀命(仁徳天皇)) |
境内末社:天満神社(祭神:菅原道真) |
境内末社:白山(しろやま)神社(祭神:伊弉諾命) |
三島神社(みしまじんじゃ)【東方町甲950】
・景観樹林保護地区 指定番号 13号(昭和52年12月20日指定、2,334u)
・祭神:大山積命
・712年(和銅5年)、伊予国司越智玉興が大三島より勧請した。
龍神社【大橋町1-1】
・景観樹林保護地区 指定番号 11号
札始大師【上川原町】
1998/9/27
八窪【恵原町】
1997/5/3
・大師の鉄鉢が飛び散った山と言われる。
★1997/5/3
・市道工事中で未舗装の山道を上っていったが、何もめぼしい物を見つけることができなかった。強いて言えば黄色い藤の花が咲いていたことぐらいかなぁ..
・登り口の池の辺に「皇太子成婚記念植樹」らしき碑が建っていた。
虎ヶ石【西野町】
「虎ヶ石 同所(西町)にあり、鈴石とも云、 大さ二、三尺ほどあり、たやすく引揚る事成難し、たたけば金の響き出ると云、所の人に尋ぬれば只虎ヶ石とばかり答る、」(予陽郡郷俚諺集)
アキニレ【松山市恵原町1110 荏原城跡】
胸高幹周 2.9m、樹高 16m
イブキビャクシン【上野町49 大宮八幡神社】
・大宮八幡神社の境内にあるビャクシンの大木に住んでいた狸は、宮司代々に仕えてきたお使い狸で、主人には絶対服従で、村人にも親切で大明神の位を得て信仰を集めている。
・毎月 '9'のつく日には「金平講」が開かれ、信者が集まりお篭もりをする。
・また毎年5月9日には「金平大祭」が催される。
クスノキ【恵原町 諏訪神社】
・平成4年7月、市保存樹木に指定
・推定樹齢約430年
・樹高 15m、目通り周囲約 4.5m
・クスノキは関東以南の暖地に多く自生せうる常緑高木で5月ごろ黄白色の花をつける。
ヒノキ【津吉町】
・市指定天然記念物(昭和53年1月20日指定解除)
衛門三郎伝説
![]() ・衛門三郎は荏原の庄の長者であった。国守河野一族でもあり、その勢いは近辺に及ぶ者がない程であった。強欲非道で、年貢米の取り立ても厳しく、召し使いにも酷い仕打ちをすることから、「悪鬼長者」として名を知らしめた。 ・ある日(11月)のこと、一人の旅僧が来て托鉢をした。しかし三郎は「お前のような乞食坊主にはめぐんでやるものなど何もないわい。早う去(い)ね!」といって追い返してしまった。ところがその旅僧は翌日もまた翌日もやってきた。三郎はその都度その坊主を追い返した。あまりにもしつこく来るので、ある日のこと三郎は旅僧の持っている托鉢のための鉄鉢を箒で叩き落としてしまった。(*1)すると鉢は八つに割れて空高く飛び散った。(飛んで落ちていった先の山を鉢降山という。) ・その日以来、三郎の五男三女八人の子供は次から次へと高熱にうなされ死んでいった。その子どもを葬ったのが八ツ塚であるという。 (*1)大師の持っていた杖をしゃくり取って、叩き落としたというバージョンもある。 |
![]() ・三郎は子供が次から次へと死んでいったのは自分が鉄鉢を払い落とした報いに違いないと思い、そして間もなくその僧は諸国を巡歴している弘法大師に違いないということを知った。(*1) ・そこで何とかして大師に逢い自分の罪を懺悔しようと思った。大師は四国八十八箇所霊場を歩いておられるということを聞いたので巡礼を始めた。 ・巡礼は厳しいものであり、「悪鬼長者」として名高かったこともあって、御布施を乞うときに散々打ちのめされることもあった。 ・しかし大師になかなか逢うことはできず、追いかけるばかりではいつまで経っても追い付かないと考え、自分は逆打ち(88番から逆に巡っていくこと)して大師にお目にかかろうと思った。 (*1)これについては、弘法大師が夢枕に現れ、鉄鉢を壊したが故に子供達が死んだと伝えたというパターンもある。 |