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伊予の隅々
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(道後地区)

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伊豫の隅々インデックス

カテゴリ別インデックス

市町村概要

キャッチフレーズ
(1).

街の花 街の木 街の花木 街の鳥
モミジ

特産物

沿革

地名
大字
上市(かみいち)一丁目〜二丁目
南町(みなみまち)一丁目〜二丁目
山田町(やまだちょう)
岩崎町(いわさきまち)一丁目〜二丁目
常光寺町(じょうこうじちょう)
持田町(もちだまち)一丁目
新石手(しんいして)
桜谷町(さくらだにちょう)
石手(いして)一丁目〜五丁目
石手白石(いしてしらいし)
祝谷(いわいだに)一丁目〜六丁目
祝谷東町(いわいだにひがしまち)
祝谷西町(いわいだににしまち)
紅葉町(もみじまち)
道後一万(どうごいちまん)
道後今市(どうごいまいち)
道後公園(どうごこうえん)
道後北代(どうごきたしろ)
道後喜多町(どうごきたまち)
道後多幸町(どうごたこうちょう)
道後姫塚(どうごひめづか)
道後樋又( どうごひまた)
道後湯之町(どうごゆのまち)
道後湯月町(どうごゆづきちょう)
道後町(どうごまち)一丁目〜二丁目
道後緑台( どうごみどりだい)
道後鷺谷町(どうごさぎだにちょう)


文化財

道後温泉本館【道後】

・国指定有形文化財[重要文化財]

湯築城跡【道後公園】

・国指定史跡(平成14年9月20日指定)

松平定政の霊廟【祝谷東町 常信寺】
・県指定記念物[史跡](昭和29年11月24日指定)

松平定行の霊廟【祝谷東町 常信寺】
・県指定記念物[史跡](昭和26年1月27日指定)

一遍上人の誕生地【道後湯月町 宝厳寺】
・県指定記念物[史跡](昭和24年9月17日指定)

神松【祝谷】
・県指定天然記念物昭和47年7月25日指定解除

道後温泉絵図(1幅)・附明月上人道後温泉詩(1巻)・伊予国道後温泉記(1巻)【】
・市指定有形文化財(昭和41年2月7日指定)

石手寺古墳第1号・第2号【石手2丁目 石手寺】
・市指定記念物[史跡](昭和42年5月24日指定)

浅山勿斎の墓【祝谷東町】
・市指定記念物[史跡](昭和62年5月26日指定)

みかえりの桜【石手2丁目 石手寺】
・市指定天然記念物(昭和38年11月1日指定)

門前の松【石手2丁目 石手寺】
・市指定天然記念物(昭和55年3月21日指定解除)

鶴の松【石手2丁目 石手寺】
・市指定天然記念物(昭和55年1月17日指定解除)



城址


遺跡

道後今市遺跡【松山市道後北代】
・13次調査:縄文時代後期〜中世
[まいぶんえひめ No.29、平成14年(2002)]

岩崎遺跡【松山市持田町・岩崎町】
概 要   松山環状線(岩崎)道路建設にともない、1996年6月から1998年3月にかけて財団法人松山市生涯学習振興財団埋蔵文化財センターが発掘調査を実施しました。
 調査の結果、弥生時代前期末?中・近世までの遺構が見つかりました。
 調査では特に、弥生時代前期末から弥生時代中期初頭の大溝が見つかり、この地域に環濠によって囲まれた集落が存在する可能性があることがわかりました。
 大溝は全部で3条あり、幅5m前後、深さ1.3?1.5mの大きなもので、 このうちの2条は同じ溝と思われ、集落の周りを囲む環濠としての機能が考えられています。
 また、調査地から住居跡は見つかっておりませんが、環濠の内側からはたくさんの土坑(大きな穴)が見つかっています。 (松山市埋蔵文化財センターのホームページ)



古墳

跡地

放生園/道後温泉駅【道後湯之町】

・昔は放生池と呼ばれる池があったが、今は埋め立てられて広場になっている。
・放生池は、建武年間に伊佐爾波神社が現在地に移されたときに境内の御手洗川の引水をたたえて作られた池であった。
・神代の昔、一羽の傷ついた白鷺が湧き出る湯で傷を癒したのが温泉の始まりだという「白鷺温泉発見伝説」に基づく、足跡の残った鷺石(羽休石)や明治24〜29年に使用された湯釜などがある。
・広場に置かれた湯釜からはこんこんと湯が湧き出て、コンクリートで囲まれた泉内に落ちていく。
道後温泉駅
・道後村めぐり 寺町コース 第17番
  「古町木屋町打ち過ぎて行けば道後の温泉場」 伊予鉄道唱歌
道後観光案内所
・道後村めぐりのスタンプ帖「ふるさと調べ帖」をここに持っていくと、道後村名誉村民証(道後温泉入浴券1枚付き)が貰える。(キーホルダーもおまけに貰える。)
放生園:柳原極堂句碑
放生園:羽休石(鷺石)
・白鷺の足形の残る石
・一羽の白鷺が足を傷つけて大層苦しんでいた。ふと、岩の間から湧き出している温泉を見つけ、傷付いた足を浸して見ると、痛みが次第にとれていった。白鷺は大変喜び、それから毎日足の傷を温泉にひたし、すっかり元気を取り戻した。
・この場所は、今の「鷺谷」だと言われている。白鷺の休んだ石は「鷺石」と呼ばれ、今も道後駅の広場放生園にある。
放生園:湯釜
放生園:ガス燈
放生園:からくりモニュメント「坊っちゃんからくり時計」
・毎正時になると坊ちゃんのキャラクタが登場するからくり時計。
・1994年 4月、道後温泉100周年記念に設置された。
・道後温泉の振鷺閣を形どっている。
・高さ約7m
・1時間ごとに太鼓が鳴り、屋根が上昇、正面の時計が反転してマドンナが登場する。さらに本体が上昇して、五カ所から小説「坊っちゃん」のキャラクタが登場する。
★『 新しき 観光名物 背景に 写真取り合う 観光客は 古き良き物 探ることなく 』


石手寺(いしてじ)【石手2丁目9-1 】

・四国八十八ヶ所霊場第51番札所
・電話番号:089-977-0870
・山号  :熊野山
・院号  :宝林院
・宗派  :真言宗豊山派
・本尊  :薬師如来
・開基  :行基菩薩
・宗派:真義真言宗豊山派

・交通:伊予鉄バス石手寺前下車すぐ
・道後村めぐり へんろ橋コース 7番
・寺伝によると、聖武天皇の神亀5年(728)に勅宣によって伊予の大領の越智玉純(おちたまずみ)が伽藍を創建し、法相宗に属し虚空蔵院安養寺と称したが、弘仁4年(813)に弘法大師により真言宗に改めたという。
・寛平4年(892)、熊野十二所権現を勧請したことにより、山号を熊野山とし、衛門三郎伝説とも関連して石手寺と改めた。
・境内には線香の煙が常にたなびき、遍路の姿は絶えることがない。

「南無大師 石手の寺の 稲の花」 子規 (散策集 明治28年9月20日午後)
「二の門は 二町奥なり 稲の花」 子規 (散策集 明治28年9月20日午後)
石手寺本堂(1棟)、附 銘札(1枚)、棟札(3枚)
・国指定重要文化財[建造物](明治40年5月27日指定)
・本堂は五間四面、単層入母屋造りで鎌倉期の建造物である。
仁王門(楼門、石手寺二王門)(1棟)
・国宝[建造物]国指定有形文化財[国宝](昭和27年11月22日指定)
・今から 約680年前の文保2年(1318)に建てられたもので、雄勁豪抜な鎌倉期の特徴を発揮している。三間一戸建、屋根入母屋造り、本瓦葺の重層で、非常に均整のとれた容姿である。
・楼門の金剛力士は運慶派一門の作と言われ、県指定文化財である。
石手寺三重塔(塔婆)(1棟)、附 棟札(1枚)
・国指定重要文化財[建造物](明治40年5月27日指定)
・三間四方の和様建築物で、その構造局部の表現技法から見て、仁王門と同時期の建物と思われる。
梵鐘(銅鐘:建長三年六月ノ銘アリ)(1口)
・国指定重要文化財[工芸品]
・建長3年丹治国忠の作。
石手寺鐘楼(1棟)
・国指定重要文化財[建造物](明治40年5月27日指定)
石手寺護摩堂(1棟)
・国指定重要文化財[建造物]
石手寺詞梨帝母天堂(1棟)
・国指定重要文化財[建造物]
・室町初期の建築とされる。
・鬼子母神を祀り、このお堂の前には小石が盛られている。これは安産祈願の風習によるもので、堂前にある小石を1つ持ち帰り、安産の願が叶ったならばそれと同じぐらいの小石を持って御礼参りに来るというものである。
弘法大師お茶堂
大師堂
・この大師堂は、依然は夏目漱石や正岡子規等多くの名士が落書きしており、一名落書堂とも云われていたが、戦時中壁を塗り替えたため消失したのは惜しまれている。
石手寺五輪塔(1基)
・国指定重要文化財[石造美術]
・鎌倉時代、源頼義朝臣の頌徳碑として建てられた。
木造金剛力士立像(2躯)
・県指定有形文化財[彫刻]
木造不動明王及び二童子立像(3躯)
・県指定有形文化財[彫刻]
木造天人面(2面)
・県指定有形文化財[彫刻]
木造獅子頭(2面)
・県指定有形文化財[彫刻]
木造菩薩面(24面)
・県指定有形文化財[彫刻]
絹本及び毛髪地著色仏涅槃図(1幅)
・県指定有形文化財[絵画]
大壇(1基)
・県指定有形文化財[工芸品]
礼盤(1基)
・県指定有形文化財[工芸品]
銅三鈷鈴(1口)
・県指定有形文化財[工芸品]
金銅弥陀三尊懸仏
・市指定有形文化財。
・応永22年(1415)在銘。
河野房五郎顕彰碑
・河野房五郎は伊予のみかんの開拓者。
芭蕉の花入塚
正岡子規句碑
『南無大師 石手の寺よ 稲の花』 『身の上や 籤をひけば 秋の風』
与謝野晶子歌碑
『伊予の秋 石手の寺の 香盤に 海のいろして 立つ煙かな』
前田伍健句碑
『鎌倉の むかしを今に 寺の鐘』
みかえりの桜
・市指定天然記念物(昭和38年11月1日指定)
門前の松
・市指定天然記念物(・昭和55年3月21日指定解除)
鶴の松
・市指定天然記念物(昭和55年1月17日指定解除)
愛宕山
・本堂後方の山で、ミニ四国霊場88ヶ所が祀られている。 
→(「道後平野から望む山の楽しみ方30章」、いせきこたろう、アトラス出版、2005年8月)
常光寺山
→(「道後平野から望む山の楽しみ方30章」、いせきこたろう、アトラス出版、2005年8月)
たのも祭
・11月15日:餅つき
・11月23日:たのも船の祈願祭。願い事を書いた旗を燃やす。

【由来】頼もうたのもう たのもう一願たのもう。何故こんなお祭りを石手のお寺でするのでしょう。やまとの国がまだ若かった昔、やまと 日本の国は数百の小さな国に分かれていた。そこへ鉄と稲を持った海あまの人がやってきた。その種は もみであり神の実と云われ米と子の女このめ こめと云われ 米と書かれた。
その種の島は大海のみなかにあった。空はみそらであり、そのみそらは毎日西側に数千尺の入道雲を天中にふき上げた。それは南海にそびえる高い山の故でありヤク島であった。
大洋を乗り切る固いヤク杉が取れた。そして種が島は米の出来る良い苗いい根が取れた。その近くは釣針や船釣の出来る鋼鉄のもと海の砂鉄が大量に取れた。山まゆの蚕を運んで南西の諸国と行き来しクメの一族でありエジプトの神々を祭るクメールの人々であった。彼らは大八島に米と鉄と平和をつむぐ虫を伝え次々とヤマ島に移り人々と和解してオホヤマトを作った。好んで近親結婚を嫌いスエ姫を家主としアネ姫にマユ虫を与えて他族に嫁がせた。
妹はオトヒメであり姉はエヒメであった。ヤマトイの日の御子は中国に伝わり耶馬台の卑弥呼と音写され写は字となった。大ヤマトイが連なりアマテラスの大神として祭られた。
戦うことを願わず人を信じて暮らす たのもしの人 であった。お願いする事を嫌い 頼もう たのもうを主としてたのめる人に田を委ねた。鉄の矢を禁止し石矢を用い、鉄鎚を使わず石鉄を好んで石槌山を重んじた。戦いを好む人々は鉄の矢と鉄の刀を尊び人畜を殺傷して白人となることを望んだ。国々は競い立ち天下大乱した。オト姫はヤク島の奥に隠れイネと鉄の移途を断った。エヒメのイヨは神々を集め 頼もうの会 を催した。困った神々は殆どイヨのモトに集まりイヨの神々のイザの集いを実現した。
ノリ人は重んじられ村々にノリトされ海上法と陸上法が可決され大ヤマトのマツリ事が始まった。生命と財産が保証され自由に働く基本人権と他を信頼する たのも の祭り事、人類最初の憲法が制定されたのである。人形の数に従ってイネが配られ ノリトの払いで田植えし 祭りの太鼓に従って分配された。
何人も田の作付けを支配されず 過分の具納は認めず 他の支配をせず 鉄をもって人を打たず他人の土地に踏み入れる事を禁ずた。 たのもう たのもう 信頼に因って生きる これはイヨの神事であり たのも の由来である。(石手寺方丈より)

衛門三郎伝説:石手寺の由来
地底マントラ
・愛宕山の下、石手寺境内から風土記の丘へと続く全長155m、幅約1mのトンネル(洞窟)。
・49体の地蔵が配置される。
→(「音をたずねて-63 石手寺地底マントラ」、愛媛新聞、2003/7/2)
風土記の丘
「薫風や 風土記の丘を かしてなほ」 狸通
・道後村めぐり へんろ橋コース 11番
・石手寺の裏から伊佐爾波神社へ抜ける丘陵地帯は「風土記の丘」と呼ばれ、今も自然のまま素朴な小径が続き、飛鳥・奈良の昔に想いをめぐらすことができる。

円満寺(えんまんじ)【道後湯之町4】

・道後村めぐり へんろ橋コース 3番
『散と見し 幻消て 花に月』(奥平鴬居)
臥牛洞狂平の仮名詩碑
・日本で3基しかないという珍しい碑。新体詩の源流と見られている。
湯の大地蔵尊
・一丈二尺(3.67m)の大きな白塗りの地蔵尊。
・弘仁3年(813)、行基の作と云われ、火除け地蔵として霊験あらたかである。
奥平鴬居の墓

義安寺(ぎあんじ)【道後姫塚】

・道後村めぐり へんろ橋コース 6番
・中世を通じ、伊予の国最大の豪族であった河野氏一族の菩提寺である。
・義安寺螢とか源氏螢と呼ばれる大型の螢の名所。
誓いの泉
・天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐により、道後湯築城の最後の城主であった河野通直は滅ぼされてしまった。
・河野家が滅亡したとき、家臣一同が二君に仕えぬ誓いをたて、境内にある泉の水で別れの水杯を交わして自刃したという。
・それ以来、その家臣たちの魂は大きな螢になって、主君を慕いながら義安寺の周辺を夏毎に乱舞するのだと言われる。
お六部さま
・江戸時代に娘の病気を治すために六十六部という巡礼になって霊場を廻った友平という人が祭った「子安観音」と「延命地蔵」。
・諸状全般の願いを叶えてくれるという。8のつく日にお参りに訪れる人が多い。
待晨碑
三好保徳の墓
松尾芭蕉の句碑
『このほたる 田ごとの月と くらべ見ん』

地蔵院(じぞういん)【石手】

・伊予十三仏霊場 5番:地蔵菩薩

常信寺(じょうしんじ)【祝谷東町】
1998
・宗派:天台宗 本山比叡山延暦寺派
・山号:祝谷山
・藩主松平定行が松山城の艮(うしとら=東北)に江戸の東叡山を模して、鬼門の鎮護のために建てた天台宗の寺で、定行定政の墓や定昭の埋髪塔などがある。静かな境内には桜や松が多く、紅葉もまた美しい。
・この寺は、松山神社から瀬戸風峠に抜ける山道に向かって約 100mのところにある。
・庭園が非常に美しい。

「秋の山 松鬱として 常信寺」 子規 (散策集 明治28年9月20日午後)

「常信寺 祝谷村に在り。本尊釈迦如来。真言宗、中興天台宗に改(め)たり。此寺蒲生秀行(ひでつら)朝臣の位牌ありと云(ふ)。…」(愛媛面影)
松平定行の霊廟
・県指定記念物[史跡](昭和26年1月27日指定)
  → c.f. 東野お茶屋跡
松平定政の霊廟
・県指定記念物[史跡](昭和29年11月24日指定)
松平定昭の埋髪塔
黒田青菱句碑
『色鳥の いろこぼれけり むら紅葉』
句碑
『仰ぐ花 見おろす花や 常信寺』

宝厳寺(ほうごんじ)【道後湯月町5】

・電話:089-946-2418
・道後村めぐり へんろ橋コース 4番
・伊予七福神[大黒天:豊作・裕福の神。]
・宗派:時宗
・山号:豊国山
・道後温泉本館横の坂道を登り切ったところで左に急な坂道がある。ここは以前遊廓があったところで、そのつきあたりに宝厳寺がある。
・この寺は、天智天皇4年(665)に創建され、正応5年(1292)の再建時に天台宗から時宗に改めたといわれ、時宗の開祖である一遍上人の生誕地として名高い。
一遍上人の誕生地
・県指定記念物[史跡](昭和24年9月17日指定)
正岡子規の句碑
『色里や 十歩はなれて 秋の風』
酒井黙禅の句碑
懸仏(かけぼとけ)と残欠一体
・市指定有形文化財
・室町期の作。ほぼ完全な形で残っている。
・懸仏の盤径は18cmで、円形木盤を鍍金(めっき)銅板で覆い、像高約4cmの仏像5体がかかっている。残欠1体は像高約14cmの仏像で、やや大型懸仏の一部と考えられる。
一遍上人立像
・国指定重要文化財
・室町時代作の寄木造りの立像である。
・像高 113.9cm
・文明7年(1475)11月19日の銘がある。
・この木像に、湯築城主河野通直、住職其阿、願主弥阿の名が書かれている。

妙清寺【山田町】

・宗派:日蓮宗
・山号:妙清寺
本堂、庫裏
・1978年〜1981年に出淵町(現三番町)から移転。
報恩大宝塔
・1982年建立
慈母稚児拝観音像
・1985年建立
釈迦堂、客殿
・1993年建立
山門
・平成14年(2002)建立
・高さ約11.5m、幅約8m
・桧造り本瓦葺、二階建て


神社
伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)【桜谷町173番地←道後湯之町4】
2002/1/2、2003/1/1、2004/7/11
・道後七郡総鎮守
・電話番号:089-947-7447
・道後村めぐり へんろ橋コース 5番 『栗の花 こぼれて居るや 神輿部屋』 河東碧梧桐
・主祭神:足仲彦尊(仲哀天皇)、誉田別尊(応神天皇)、気長足姫尊(神功皇后)、市杵島姫尊、湍津姫尊、田心姫尊
・配神:東照大神
・延喜式内社
・ご利益:安産、心願成就。
・交通:市内電車道後温泉駅下車徒歩5分
・石段の数は 135段。
・古くから、通称「湯月八幡神社」として親しまれてきた。
・もともとこの神社は道後公園内の伊佐爾波岡にあったが、1355年頃(建武年間)河野通盛が道後湯月城築城の際に現在地に移したといわれる。
・この場所は、仲哀天皇、神功皇后道後来浴時の御在所であったともいわれる。
本殿
・国指定重要文化財
・現在の社殿は、寛文4年(1664)から7年(1667)にかけて、三代藩主松平定長が流鏑馬の成功の御礼に建立した。
松平定長は、時の将軍に流鏑馬を命じられた。弓には自信のあった定長だが、「金的を射させて下さい。されば石清水八幡と同じものを建てましょう」と祈願した。当日諸大名の居並ぶ前で弓に矢をつがえて祈願し、目をつぶって弓を引き絞ると金の鳩が飛んだ。これこそ神のおつげと思い矢を放つと見事に金的を射抜くことができた。願いが成就した定長は、桃山時代の華麗さを継承した八幡造りの社殿を造営した。円柱に金箔をおき、天井に胡粉彩色、海老虹梁(えびこうりょう)などに桔梗、桜、唐草の浮き彫りを施している。
日本に3つしかない八幡造りの社殿で、重要文化財に指定されている。

※八幡造りは、
 ・大分:宇佐八幡宮
 ・京都:石清水八幡宮
 ・松山:伊佐爾波神社
の3つしか無い。

・昭和41〜44年に白アリの害が目立ったため、文化庁の復元解体修理を行った。
・付棟札一棟、八幡造、三間社の二殿を連絡して一つの屋根とし、内陣は桁行16.2m、梁間 3.6m、切妻造りで、外陣は流れ造り、正面に向拝が付してある。
・柱は円柱で、海老虹梁、手狭などには桔梗・桜・唐草などの写実浮き彫りが施されている。内部の柱は金箔置きで、天井は胡粉彩色となっていて、実に絢爛華麗な表現である。
・棟札には「寛文丁未秋八月国有五日」の記録がある。

廻廊
・回廊には奉納絵馬が多い。
・20枚を超える和算の額がある。
楼門
境内末社:高良玉垂社本殿
・北側
境内末社:常盤社新田霊社本殿
・南側
境内末社:素鵞社
・石段中腹
山城国・国行太刀
・重要文化財。
・刀長77.9cm、反り2.6cm
・鎌倉時代を代表する名刀。
早苗祭
・5月17日
秋祭り
・10月7日
伊佐爾波神社から出てきた神輿と、湯神社から出てきた神輿が、道後駅前で鉢合わせする。
アカマツ
・市保存樹木 協定番号31号
・昭和53年10月枯死
クスノキ
・市保存樹木 協定番号29号(昭和53年4月27日指定)
・推定樹齢:500年
・伊佐爾波神社参道上り口右
加倉井秋を句碑
『伊狭庭の 湯はしもさはに 梅咲けり』
久保斎歌碑
『栗の花に雨滲み通りいろ深しあさきゆめこそ深く夢みよ』
夏目漱石句碑
『はじめての ふなや泊りを しぐれけ里』

稲荷神社(いなりじんじゃ)【道後】

・伊予鉄道後温泉駅西側に鎮座する。
・祭神:宇迦之御魂命
松平隠岐守に仕えた河野家の大将村上喜助(因島水軍の大将村上義光の子孫)が日光社のお参りのお供をした際に、伏見稲荷神社より御神像を奉戴しお祀りしたのが始まりという。
【変遷の歴史】
・野間郡佐方の庄(菊間町)   
・松山市辯天町
・松山市花園町   明治13年
・松山市榎木町   明治15年
・松山市道後公園内 明治32年
・松山市道後今市  明治39年
・松山市      明治42年(現在地)
★伊予三島水軍−因島水軍(因島)、能島水軍(宮窪)、来島水軍(今治)

大山祗神社(おおやまつみじんじゃ)【石手】

・石手寺東。石手郵便局より細い路地に入り、突き当たりにある。

客天神【祝谷】
・現存するかどうか不明。
「客天神 同所[祝谷村]に在り。菅公筑紫に左遷の時暫(しばし)此所に居玉ひしに因(り)て客天神と云(ふ)とぞ。此事窪田天神の処に詳なり。俚諺集に窪田天神の勧請なるべしといへり。中興再造河野通能とありて、明徳四年と棟札に誌(し)たり。後、加藤嘉明朝臣の修覆ありけるよし。別当飛梅山安楽寺円盛寺と云(ふ)。」(愛媛面影)

中嶋神社(なかじまじんじゃ)【道後湯之町4-7】

・祭神:田道間守命(柑橘の祖神)
・湯神社境内にある。
・四国四県の製菓業者によって建設奉讃会を組織し、昭和32年3月に但馬国出石郡神美村三宅なる延喜式内社中嶋神社の御分神を迎え、菓祖中嶋神社の四国分社として創祀した。

湯神社(ゆじんじゃ)【道後湯之町4-7】

・道後村めぐり へんろ橋コース 2番
 「道後なる湯の大神の御社のもとにぬる夜となりにけるかな」与謝野晶子
・電話:089-921-0480
・ご利益:開運、家内安全、商売繁盛
・交通:市内電車道後温泉駅下車徒歩3分
・祭神:大己貴命(大国主命)、少彦名命
     大黒、恵比須
・湯之町の中央に冠山があり、その頂上に温泉の守護神である大国主命と少彦名命の二神を祀る湯神社がある。
・湯神社は社殿創立の詳細は不明であるが、「湯神社由来考証略記」に景行天皇が建造したとも、また舒明天皇の勅建とも云う。
・創建当時は鷺谷(今の祝谷)の大禅寺の前に在ったという。
・ここには二神のほのぎが残っている。

・湯月大明神、四社大明神、西宮などの異称もあるようだ。
湯祈祷
初子祭(はつねさい)
中嶋神社
・祭神:田道守命
出雲崗神社
・祭神:須佐之男命、奇稲田姫命(素戔嗚命の妃、大己貴命の母)
・元々冠山にあった。
・湯神社が衰微したとき、出雲崗神社本殿に合祀され、いつしか本殿が湯神社となった。
・江戸時代初期に湯神社の境内の1小祠に移されて祭られるようになった。
『予陽郡郷俚諺集』によると、最初は大禅寺の側に有り、社殿廃絶・再興不可となったため、湯神社に合祀されたとなっている。
三穂社
・本殿脇
・祭神:事代主命、蛭兒命
八幡若宮社
・本殿脇
・祭神:大鷦鷯尊
児守社
・祭神:神大市姫命、鎭疫神、河野七郎通廣(一遍上人の父)
クスノキ
「祝谷」の地名の由来
@冠山に斎の宮として移したので「祝谷」
A湯涌谷

松山神社【松山市祝谷東町640】

・道後村めぐり 26番
・祭神:菅原道真、徳川家康
・例祭:
・社殿:権現造り。明和2年(1765)3月建造。
・電話番号:089-931-4285
・ご利益:合格祈願、家内安全
・交通:市内電車道後温泉駅から徒歩10分
・延喜元年(901)、道真が左遷の途中に祝谷の山崎の丘にしばらく住み、道後の丘に浴して里人に文を教えたと言われ、里人深くその徳を慕い、この地に社殿を設け太宰府より菅公の心霊を勧請し、天満神社と称した。
・元和4年(1618)、松山城主加藤嘉明は湯月八幡宮の境内に社を建て家康を祭祀した。それを後の城主松平定静がこの地に移した。
・明治44年に、菅原道真を祀る社と徳川家康を祀る東照宮とを合わせて松山神社と名を改めた。
社殿
・市指定有形文化財[建築物](平成16年3月26日指定)
酒井黙禅の句碑
高浜虚子の句碑
酒井黙禅の筆塚
・毎年1月24日に筆墨の霊を祭る。
田高庵(酒井黙禅住居跡)
・松山神社の麓にある。
秋祭り
・10月7日。
・6時より奴踊りがあり、続いて神輿の宮出しがある。
【探訪の記録:1994年11月23日】
・祝谷の小高い丘の上にある。
・参道の入口では、犬の散歩の途中の老人3人が暖かい秋の陽差しの中で座り込んで語らいでいる。
・ゆるやかな広い石段を上る。結構長い参道だ。参道の途中には黙禅の句碑が建っている。
・徳川家康を祀るというだけあって、葵の紋所の瓦で葺かれている。


お堂



地蔵



冠山【道後湯之町】
クスノキ


鉱山

川・渓谷
御手洗川(みたらしがわ)




ダム



風景
風景

道後八景
義安寺蛍
奥谷の鶯(うぐいす)
・宝厳寺辺り
円満寺の蛙
冠山の杜鵑(とけん)
・杜鵑とはホトトギスのこと。
御手洗(みたらし)川の水鶏(くいな、すいけい)
・義安寺前より伊佐爾波神社参道の石橋へと繋がる川
湯ノ元の蜻蛉
・道後温泉本館 神の湯
古城の壕の水鳥
・道後公園湯築城
宇佐田の雁
・松山城下〜道後の間の旧街道。両脇の田。

道後十二景(明治20年)
六帝行宮
二神遺社
玉石霊蹤
湯築
鷺谷神井
湯岡古碑
鴉渓聴泉
亀城観月
荒濠叢月
古寺老櫻
山塘夜歸
石川晩釣


洞窟・鍾乳洞

樹木

クスノキ【道後湯之町 冠山】

・松山市保存樹木 指定番号 32号(昭和 53年4月27日指定)
・推定樹齢:300年








瀬戸風峠


柳原極堂句碑【道後湯之町 放生園】
『春風や ふね伊予に寄りて 道後の湯』

・俳句の里 道後コース 5番
・道後村めぐり 湯月城跡コース 1番

芭蕉の花入塚【石手2丁目9-1 石手寺】

松尾芭蕉句碑【道後姫塚 義安寺】
『このほたる 田ごとの月と くらべ見ん』

・貞享5年(1687)初夏の句。
・「木曽路の旅を思ひ立ちて、大津に留まる比、先づ瀬田の螢を見に出で」の詞書がある。
・この義安寺付近は螢の名所であることから、明治16年大原基戎らが句碑を建立した。

正岡子規句碑【石手2丁目9-1 石手寺】
『南無大師 石手の寺よ 稲の花』

・俳句の里 道後コース14番
『身の上や 籤をひけば 秋の風』

・俳句の里 道後コース15番
・納経所横

正岡子規句碑【道後湯月町5 宝厳寺】
『 色里や 十歩はなれて 秋の風 』

・明治28年秋、子規は漱石と一緒に道後温泉で遊び、鷺谷の寺に知人の墓を訪ねたが見当たらぬまま引き返した。 帰途、遊廓のあった松ヶ枝町を通り、宝厳寺の山門でこの句を詠んだ。 この日は、大街道の芝居小屋「新栄座」で「てには狂言」を見て愚陀仏庵に帰った。

与謝野晶子歌碑【石手2丁目9-1 石手寺】
『伊予の秋 石手の寺の 香盤に 海のいろして 立つ煙かな』

前田伍健句碑【石手2丁目9-1 石手寺】
『鎌倉の むかしを今に 寺の鐘』

・俳句の里 道後コース13番
・前田 伍健(1889-1960)
・本名前田久太郎。香川県高松市生まれ。
「本名・久太郎、高松市生まれ、伊予鉄に永く勤め、川柳は、東京の窪田而笑子(じしょうし)の高弟。
 話術に長じ、NHKを通じ伊予弁丸出しの「伍健節」での「川柳角力」で大きな人気を得た。
 俳画にも長じ、また、丸みのある文字は氏独自のもの。野球拳は、氏のはじめたものである。
 昭和33年10月20日建立。寺の鐘は建長3年(1251)の銘があり、鐘楼は元弘3年(1333)再建でいずれも鎌倉時 代のもの。ともに国の重要文化財。
 松山市教育委員会
 俳句の里 道後コース(13)番」(立て看板)

黒田青菱句碑【祝谷東町 常信寺】
『色鳥の いろこぼれけり むら紅葉』
・道後村巡り 瀬戸風峠コース 27番
・「色鳥」は、秋に渡ってくる羽の色が美しい鳥のことで、紅葉の美しさに折りからの羽色の美しい渡り鳥の美しさをことよせた句。
・大正14年3月、位牌を常信寺へ納めるにあたって、弟子の小倉青藍(おぐらせいらん)が自ら石に書いて彫らせた。

酒井黙禅句碑【道後湯月町5 宝厳寺】

句碑【祝谷東町 常信寺】
『仰ぐ花 見おろす花や 常信寺』 ある女

・永井チヨが建立。(昭和58年6月献句)

加倉井秋を句碑【桜谷町173番地 伊佐爾波神社】
『伊狭庭の 湯はしもさはに 梅咲けり』

・昭和61年10月10日 俳誌「冬草」同人が建立
加倉井秋を
・茨城県出身。東京美術学校(現東京芸術大学)出身。
・俳句の里 道後コース  12番

久保斎歌碑【桜谷町173番地 伊佐爾波神社】
『栗の花に雨滲み通りいろ深しあさきゆめこそ深く夢みよ』
・1994年11月建立。(水天の会、にぎたづ有志)
・本殿裏側の駐車場脇にある。
久保 斎
・1939年内子町生まれ。1993年没。
・愛媛新聞入社後、小説「妾」を執筆。太宰治賞候補に選ばれる。
・歌誌「水天(かこ)」を創刊。次いで「にぎたづ」を主宰。

夏目漱石句碑【桜谷町173番地 伊佐爾波神社】
『はじめての ふなや泊りを しぐれけ里』
・伊佐爾波神社参道沿い、ふなや旅館前

小林一茶句碑【道後 道後公園】
『寝ころんで 蝶とまらせる 外湯哉』
・道後村めぐり 湯月城跡コース 13番
・俳句の里 道後コース 3番
・寛政7年(1795)2月1日、道後温泉来訪時に詠む。
・道後新温泉前に在る。句碑の文字は酒井黙禅。
・道後新温泉は現在の子規博物館の敷地にあった。昭和23年3月20日に竣工されたたが、博物館建設のために取り壊された。
・江戸時代古図(1813)によれば、「乞食牛馬入込」とあり、長方形の牛馬専用の温泉も存在したという。
・小林一茶は、寛政7年に栗田樗堂の俳諧の研究の場である二畳庵を訪れ、この句を作った。

松尾芭蕉句碑【道後 道後公園】
『温泉(ゆ)をむすぶ 誓も同じ 石清水』
・道後村めぐり 湯月城跡コース 14番(湯築城跡)
・明治26年頃、芭蕉翁200年忌を記念して振鷺亭に建立した句碑。
・昭和25年、湯釜薬師移設に伴って発見され、公園内に移設された。

正岡子規句碑【道後 道後公園】
『足なへの病いゆとふ伊予の湯に飛びても行かな鷺にあらませば』
・俳句の里 道後コース 1番

正岡子規/夏目漱石句碑(合碑)【道後 道後公園】
『ふゆ枯や 鏡にうつる 雲の影』 子規
『半鐘と 並んで高き 冬木哉』 漱石
・俳句の里 道後コース 2番
・国際ロータリクラブ第267地区年次大会記念にて建立。
・昭和61年11月2日に建立。
・津田大暁書

前田正名句碑【道後 道後公園】

波多野晋平句碑【道後 道後公園】

林克山句碑【道後 道後公園】

酒井黙禅句碑【松山市祝谷東町640 松山神社】
『 東風の船 高浜に着き 五十春 』
・昭和47年 3月 15日建立
・俳句の里 道後コース 24番
・参道途中にある。

高浜虚子句碑【松山市祝谷東町640 松山神社】
『 城山の 鴬来啼く 士族町 』
・松山神社参道入口にある。
・俳句の里 道後コース 23番
・昭和42年秋に建立。
・道後村めぐり 瀬戸風峠コース 第26番
・明治37年 3月、「ホトトギス」に発表した句。

酒井黙禅句碑【松山市祝谷】
『 春光や 三百年の 城の景 』
・祝谷公民館前


公園

道後公園【道後】

・明治19年(1886)に県が公園として整備した。
・道後村めぐり 湯月城跡コース 15番
「元日や 一系の天子 不二の山」 内藤 鳴雪
 
道後動物園(→閉園)
・道後村めぐり 湯月城跡コース 16番
「教えたる ままに唯行く 遍路かな」 晋平
→(「道後動物園記念誌」、道後動物園)
湯築(湯月)城跡
・建武3年(1336)、河野通盛は此の地に居城し、伊予国支配の本拠とした。
・周囲に二重の堀を巡らし、東方が追手門(正門)、西方が搦手門(裏門)となっていた。
・天正13年(1585)小早川隆景に攻められて落城し、57代 1000年に近い名家は滅亡した。
・小早川隆景に次いで福島正則が一時居城し、天正15年(1587)に廃城となった。
湯釜薬師
・県指定文化財
・道後村めぐり 湯月城跡コース 13番
・温泉の湯口に使われた最古のもので、「南無阿弥陀仏」の妙号は、河野通有の依頼で一遍上人が書いたものといわれ、薬師如来像と周囲の撰文は、河野通直が刻ませた物である。いまでは、この湯釜は守護仏湯釜薬師としてあがめれれている。
小林一茶句碑
松尾芭蕉句碑
正岡子規句碑
正岡子規/夏目漱石句碑(合碑)
前田正名句碑
波多野晋平句碑
林克山句碑
道後温泉碑(湯釜薬師南側)
・明治19年丙戌6月
伊佐庭如矢銅像
伊予絣顕彰頌功碑
岩崎権現:道後の「岩崎さん」
・道後公園の東側に菖蒲の咲く内堀がある。内堀に咲く菖蒲、その向かいに岩崎神社がある。
・昔、ある男が東堀の竹薮の竹の子を堀りにきた。ひとくわ打ち込んだところ、おかしなことに眠気がさしてきた。竹の子堀りにきて寝てしまうのでは面目が立たないと、そばの木の根元にすわった。腰の煙草入れから煙草を出して一服吸うと、吸殻をぽんと木の根にはたいた。すると木の根がぐらりとゆらいで、よく見るとそれは大きな蛇であった。男はそれっきり気を失って大蛇に飲まれて死んでしまった。そのあともこの大蛇に飲まれて死んだ者は何人もあったという。その蛇の長さは、ずっと義安寺まであったという。
・岩崎神社はこの蛇を祭ってあるという。
・「ミイさん、ミイさん」といって大事にして、今でもこの岩崎さんにお参りする人がいる。
・河野氏の祖小千命を祀っている。小千命は白人明神と崇敬され、俗に「白蛇」と言われている。古書には「その神両耳白蛇位なり」とある。
・そのほか河野家代々の霊、その後土居通増、徳能通綱(星が岡の戦いで有名な南北朝時代の勇将)も祭神として加え祀られている。
・湯月城を建武年中(1334〜41)河野通盛が築城した当時、庭の一隅に小祠を建てたのが始まりだという。神社が庭の端にあるから「庭先神社」、これが訛って「岩崎神社」のいうのが社号の起こりという。
・例祭:9月14日、15日
・元禄15年(1702)、竹奉行安田又之允源義行が、神霊を古城の南で拾って岩崎大権現を再興したという。
・信心すれば脳、神経痛に効くと言われる。祭神が蛇なので卵を奉納すれば良いと言われる。


祭り

イベント
湯祈祷【道後湯之町4-7 湯神社】
・温泉が地震で埋没して湧出しなくなったとき、温泉の守護神を祀った湯神社で神楽が奏せられ、温泉の再湧出祈願が繰り返されたり、温泉の復興を感謝するための湯祈祷が挙行された。
・現在では温泉まつり(毎年3月19日〜21日)と改称され行事化されている。

初子祭(はつねさい)【道後湯之町4-7 湯神社】
・毎年11月の子(ね)の日に行われる。(現在は 1月15,16日に実施)
※2003年度は1/12,13に実施。
・大己貴命が鼠に救われたという古事記の古伝説からいつしか鼠を十二支の子と結び付けたのが起源であるといわれる。
・江戸時代中期から始まった初子祭は、もともと旧暦の11月の初めの亥と子の日に「亥の子祭」として行われてきた。
・撒餅(=もちまき)することで、今年の豊作を感謝し、来年の豊作を祈願するというものであった。
・縁起開運の神様として知られ、商売繁盛、家内安全を願う大勢の参詣者で賑わう。

  ・お献茶祭 [湯神社拝殿]
  ・神事      [湯神社境内]
  ・神符焼上祭[湯神社境内]
      古いお札やお飾りを祈祷して焼上する。
  ・合格祈願祭[湯神社境内]
  ・抹茶会    [ホテルニュー宝荘]
  ・餅まき    [湯神社境内]

→(「道後・湯神社で『初子祭』 もちまきに人の波」、愛媛新聞、2003/1/15)

   道後温泉の繁栄を願う初子(はつね)祭が8日、松山市道後湯之町の湯神社(野口光比古宮司)であった。古いお札やお守り、正月飾りを焼く「神符焼上祭」や、もちまきなどがあり、大勢の市民でにぎわった。9日まで。
 同神社の祭神、大国主命が嫁探しの旅の途中、ネズミに助けられたという伝説にちなむ恒例行事。道後温泉地域振興会などが主催している。
 初日は同神社拝殿で神事があった後、1回目のもちまき。野口宮司や氏子総代ら約20人が、特設台から景品引換券などが入ったもち約1500個を投げ、市民ら約600人がわれ先にと拾った。
(「松山・道後で初子祭 9日まで」、愛媛新聞、2006/01/09)


施設
松山市立子規記念博物館【松山市 道後公園1-30】

・昭和56年4月に開設。
・松山市の歴史と正岡子規を中心とした短詩型文学を主題とした文学系博物館である。
・営業時間:09:00〜17:00
・入場料 :
・休館日 :月曜・祝日の翌日
・電話番号:089-931-5566
・交通:JR松山駅−(市内電車)→道後温泉駅下車

愛媛県民文化会館【道後町2丁目】


学校

温泉
道後温泉【道後】
 
道後温泉第一分湯場【道後湯之町】
・温泉周辺には4箇所の分湯場があり、全体で1060ton/日の温泉を約43℃に調整して供給する。
→(「わが町色いろ-158 道後温泉の分湯場」、愛媛新聞、2000/10/8)


伝説
衛門三郎伝説
 
石手寺の由来
・昔伊予の国浮穴郡荏原に「衛門三郎」という欲深い長者がいた。ある日托鉢の僧を弘法大師とは知らずに彼の托鉢を取り上げ投げつけたところ、鉢は八つに割れた。その後八人の男の子が次々と死んでしまった。三郎は邪見を捨て改心し四国巡拝の旅立った。
・三郎は逆打ちして何度も何度も四国を巡った(*1)がいつまで経っても逢うことができず、とうとう 24回目(*2)に巡って行った時には身体はすっかり弱り果てて阿波の国の焼山寺の麓で倒れてしまった。(*3)その時に大師が現れて、「お前の罪障はもはや消滅している。死に臨んで何か頼むことはないか。」と言った。
・三郎は伊予の豪族河野氏の一族であったので、自分は来世において河野家の若君として生まれ変わりたいと言った。そこで大師は「それではお前の望み通りにしてやろう」と言って、傍らにあった小石(*4)を三郎に握らせた。三郎はそのまま往生してしまった。
・それから何年か経って伊予の豪族河野家に一人の若君が生まれた。(*5)若君は成長しても手を固く握りしめたまま開こうとしない。そこでその若君が3歳になった春、安養寺の住職に頼んで拝んでもらうと、やっと手を開いた。手には固く石が握りしめられていて、その石には「衛門三郎再生」と書いてあった。そこでその若君は衛門三郎の再来であることがわかった。
・その若君は15歳になってから国守となり、衛門三郎の再来と聞かされ続けていたので、弘法大師の恩に報いるために立派な寺を建立し、自分の握り締めていた石を寺に納めた。このことから、寺号を安養寺から石手寺に改めた。
・現在「衛門三郎玉の石」は大講堂にある。

(*1)巡礼の途中で三郎の妻が死し、遺体を焼く煙を遠くから眺めた三郎が涙する話が盛り込まれるバージョンもある。
(*2)21回という話もあったりして、正確な数は定かでない。
(*3)天長8年のことという。
(*4)石の大きさは一寸八分といい、「衛門三郎」と刻んだという。
(*5)「河野息利の子」として語られる。


キャンプ

海水浴

人物

その他

道後村めぐり
★1994年11月23日、念願の「道後村めぐり」全箇所訪問を完遂した。



《References》



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