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![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 松山市 (新玉地区) |
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大字 | 字 |
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南江戸(みなみえど)一丁目〜六丁目 | |
南江戸町(みなみえどまち) | |
味酒町(みさけまち)一丁目 | |
大手町(おおてまち)一丁目〜二丁目 | |
宮田町(みやたまち)、本町(ほんまち)一丁目 | |
松前町(まさきまち)一丁目 | |
湊町(みなとまち)六丁目〜八丁目 | |
生石町(いくしまち) | |
萱町(かやまち)一丁目 |
うば桜【南江戸町5丁目
大宝寺】
・市指定天然記念物(昭和37年11月5日指定)
南江戸鬮目(みなみえどくじゅめ)遺跡【松山市南江戸町】
・中世・鎌倉時代の集落遺跡。
・2000口以上の柱穴が発見されている。
・出土陶磁器には、当時珍重であった水注(すいちゅう)や四耳壺(しじこ)などが含まれる。
[まいぶんえひめ No.29、平成14年(2002)]
地蔵寺(じぞうじ)【南江戸町】
・山号:猪谷山
・院号:十輪院
・行基の創営。延暦20年、桓部天皇
大宝寺(たいほうじ)【南江戸町5丁目】
・山号:古照山薬王院
・宗派:真言宗豊山派
・本尊:阿弥陀如来
・大峰ヶ台(松山市総合公園のある山じゃね!)の南斜面に位置する。
・薬王院という院号が示すように、本尊を薬師如来とする信仰が古くからあったが、実は阿弥陀如来が本尊である。
・太宝元年(701) 国司 越智玉興(たまおき)の創立と伝えられる。
・開基を土地の角之木(すみのき)長者とし、地方住民によって維持されたとも云われる。
![]() ・国指定有形文化財[国宝](昭和28年3月31日指定)・本堂の建立は、その形式手法から鎌倉前期(平安末期?)と言われる。 ・県下で最も古い和様の建造物で、桁行五間(10.65m)、梁間四間(8.85m)一重の寄棟造り、本瓦葺、格子天井、柱は全部円柱で隅柱の上にだけ舟肘木(ふなひじき)が用いられている。 ・堂内に安置された厨子は三間、軒唐破風付(のきがらはふつき)、こけら葺で、寛永8年(1631)の作で、優れた手法である。又、貞享2年(1685)再興の銘のある修理棟札は、本堂とともに国宝に指定されている。大正10年に解体修理が施された。 |
![]() ・国指定重要文化財 ・木造寄木造 ・一躯本尊 ・藤原時代末期の作と見られる。 ・坐高137.9cm ・伏し目、半眼、丸顔、緩やかに流れる法衣、膝を包む彫りの浅い衣紋等、宇治平等院を造った名匠定朝風である。 |
![]() ・国指定重要文化財 ・木造一木造 ・一躯脇仏 ・藤原時代初期。 ・坐高68.2cm |
![]() ・国指定重要文化財 ・木造一木造 ・一躯脇仏 ・藤原時代初期 ・坐高83.6cm |
![]() 息災、敬愛、降伏祈願の神である。 |
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朝日八幡神社(あさひはちまんじんじゃ)【南江戸5丁目】
1992/10/31
・電話番号:089-922-4468
・祭神:品陀和気命、帯中津彦命、息長帯比賣命、市杵島比賣命、多紀理比賣命、多岐津比賣命
・例祭:10月 6日
・社伝によると、はじめ足煩地主神を沼台に祭、沼戸明神と号し、その後、山城国で訓郡の山崎八幡宮を勧請し、山崎八幡宮と改称されたという。河野家代々の崇敬深く、神領を献じ、あるいは社殿を再建し、延文6年(1361)には、平範有が当社を沼台より今の地に移して社殿を新築したと伝えられる。
・加藤嘉明も慶長6年(1601)、城を松前から勝山に移してより、当社を深く尊宗した。
・朝日の差し込む美しい姿から、明治3年(1870)、山崎八幡宮を現在の朝日八幡神社と改称した。
・学問の神、交通安全の神、また神功皇后が三韓出兵の途中、身重の身体で立ち寄ったといわれることから安産の神として親しまれている。
「山崎八幡宮 江戸山(に)在り。…」(愛媛面影)
山内神社(やまうちじんじゃ)【南江戸5丁目】
・松山藩の忠臣、山内与右衛門久元を祭った神社。
・戦災により焼失したが、平成2年12月、往事の姿をとどめて再建された。
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吉重命霊社【南江戸町】
2003/4/12
・考古館から岩子山へ向けて細い山道を登ったところにある。
![]() ・1985年[昭和60年]4月建立。 ・1363年(貞治2年)此の里の頂に岩子山大空城という城が在った。 城主は健岩古命より三代山部蒿家公。当時中予一口郡の領主河野氏が堀江町の花見山に進出し、兵300をもって大空城に攻め込んだとき、城代家老軍師の宍草出羽守吉重公は父の出羽入道と共に防ぎ戦ったが、多勢に無勢にて父子供に切腹して果つと南北朝時代の戦乱の世に在って南朝の天皇に味方して戦った武将である。 「葉は落ちて野末の散しとくちるともその根は枯れち春に栄えん」 貞治2年 9月 吉重 |
![]() 「奉納 願いごと 思ふがままに 導きて 萬の人を救い賜わん 身をもって 守りし城は 今はなき 昔を永遠に 語り伝えん 荒れ果てし 君の御霊は 今ここに 真心集い 石鳥居建つ 幸せを 此の世に命 ある限り 親子三代 後の世までも 石鳥居 社を建てし 世話役の 観音様に 顔もよく似て 昭和60年4月吉日 西谷政子55才」 |
庚申堂(庚申さん)【南江戸町2丁目】
2002/12/21
・向かって左側より、庚申、大日如来、地蔵菩薩の三体の石像が祀られている。
大峰ヶ台
「古町駅西方の丘陵で花見山とも云う、櫻の名所で風景もよき所以であろう東南の山腹は櫻樹霞をなし宝塔寺は日蓮上人の遺跡で又大宝寺には名木姥櫻と国宝の仏像がある」(広報まつやま、昭和28年10月1日)
姥桜(エドヒガン、アズマヒガン、ウバヒガン)【南江戸町 大宝寺】
・松山市指定文化財、天然記念物(昭和37年指定)
・根廻り 2.8m。高さは低いが枝張りが良く、その姿勢は美しい。
・松山地方では早く開花する種類で、彼岸桜の一種。
・名の由来は「姥桜の伝説」に基づく。
川本臥風句碑【湊町七丁目 済美高校校庭】
「柿の実の 中より光 さすごとし」
・2001年2月15日除幕。
・済美高校家庭科教諭であった豊田ヒサ子氏が、同校の創立百周年を記念して建立した。
速水句碑【南江戸町 大宝寺】
「しだれ咲く 花の浄瑠璃 世界かな」
・俳句の里 城西コース10番
義郷句碑【南江戸町 大宝寺】
「花見れハ 齢そのふる 世の人の 老ぬ薬や 桜なるらむ」
・俳句の里 城西コース11番
正岡子規の句碑【南江戸5丁目 山内神社】
『西山に 櫻一木の あるじ哉』
・俳句の里 城下コース 30番
・享保17年の大飢饉で松山藩に約3,500人の餓死者が出た。この時、生活に苦しむ農民の騒動が相次ぎ、藩政の大変動があった。目付、山内与右衛門は、その責めを押うて切腹し果てたが、文化11年、時の藩主久松定通はその忠義心を頌えて山内神社を建てた。与右衛門を櫻一木に託した明治25年作の句。
ゴールドマイヤー像【南江戸町2丁目
新空港通り(サクラメント通り)沿い】
2002/12/21
松山市考古館【南江戸町】
1998/10/31、2006/11/1
・休館日 :月曜、祝日の翌日
・開館時間:09:00〜17:00
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![]() 「この高床建物は、昭和47年に古照遺跡(こでらいせき)(松山市南江戸4丁目)で発掘された堰材に利用されていた建物部材をもとに復元したものです。 出土した建物部材には、棟木や壁板、棟持柱などがあり、手斧(ちょうな)をかけた痕跡やほぞ穴があけられています。 建物は、古墳時代前期(4世紀)の高床倉庫と考えられ、穀物など収穫物の貯蔵に最適な構造となっています。床と柱の接する部分には、害虫の侵入や湿気を防ぐための「ネズミ返し」が取りつけられています。」(説明書き) |
![]() 「この古墳は、昭和62年に発掘調査された高月山第2号古墳(松山市勝岡町)を移築復元したものです。 古墳は16m×10mの長方墳で、主体部には板石を組み合わせた箱式石棺が置かれていました。石棺の側板に沿って鉄剣や鉄斧(てっぷ)などの鉄製品が副葬されていました。また周溝(しゅうこう)内からは銅鏃(どうぞく)や土師器(はじき)の壺形土器が出土しました。 これらの遺物より4世紀末から5世紀初頭の古墳と考えられ、当時の有力者の墓と推定されます。」(説明書き) |
※1998/10/31
・平成10年度特別展「魂のゆくえ」 |
松山市総合コミュニティセンター【湊町7】
姥桜の伝説【南江戸町 大宝寺】
・昔、ある長者(角木長者)が子供に恵まれず、松山の西山の麓、太宝寺のお薬師様に願かけをした。
・願いが叶って、女の子が生まれて、露(つゆ)という名前を付けた。
・大事に育ててきた乳母の乳が急に出なくなったが、お薬師様のおかげで治り、そのお礼に長者はお堂を建てた。それが太宝寺の本堂だという。
・お露は美しい娘に成長したが、15歳の時に病に罹り、乳母は我が命に替えてでもお嬢様を助けて下さいとお薬師様にお祈りした。その甲斐あって、お露は元気を取り戻したが、乳母はその約束だといって薬も口にせず、「お薬師様にお礼として桜の木を植えて下さい。」と言い残して死んでしまった。
・長者は乳母の言葉通り、桜を本堂の前に植えた。
・不思議な事に、桜は枝なしに幹から2〜3輪花が咲いた。その花の色は母乳のような色で、花はまるで乳母の乳房のようであったという。
・この話は明治時代にラフカディア・ハーン(小泉八雲)の手で英訳され、英国・米国で出版された「怪談(Kwaidan)」にも収められている。