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![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 上島町 (旧・弓削町) |
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町の花 | 町の木 | 町の花木 | 町の鳥 |
つつじ | 松 |
大字 | 字 |
太田(おおた)→上島町弓削太田 | |
大谷(おおたに)→上島町弓削大谷 | |
鎌田(かまだ)→上島町弓削鎌田 | |
上弓削(かみゆげ)→上島町上弓削 | |
狩尾(かりお)→上島町弓削狩尾 | |
久司浦(くしうら)→上島町弓削久司浦 | |
佐島(さしま)→上島町弓削佐島 | |
沢津(さわつ)→上島町弓削沢津 | |
下弓削(しもゆげ)→上島町下弓削 | |
豊島(とよしま)→上島町弓削豊島 | |
土生(はぶ)→上島町弓削土生 | |
引野(ひきの)→上島町弓削引野 | |
日比(ひび)→上島町弓削日比 | |
百貫(ひゃっかん)→上島町弓削百貫 | |
藤谷(ふじたに)→上島町弓削藤谷 | |
明神(みょうじん)→上島町弓削明神 |
法皇ヶ原【弓削町下弓削】
2015/6/6
・県指定名勝
・弓削神社境内にある風光明媚な海岸。
・樹齢200〜300年を経た松林が広がる。
「A法王ヶ原(ほうおうがはら)
所在地 越智郡弓削町下弓削
下弓削にあり、昔は商船高等専門学校の用地と浜都部落の一部が松原だったので、全部で5ヘクタール程あったが、現在は2ヘクタール余りとなっている。西南寄りに弓削神社がある。
600年以前に法王宮と呼ばれたことがあるので、その頃から松原もこの名が付げられたものであろう。
樹齢の古いものは300年以上であるところから、法王ヶ原と呼ばれるようになってからは2代目の松がほとんどである。現在、老木200本、成木50本、幼木150本の計400本がある。
燧灘を望む白砂青松の風光絶佳の名勝地である。
(県指定名勝)」
(えひめのふるさとこみち 東予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日)
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薬師如来像【弓削町 東泉寺】
久司山古墳【弓削町鎌田112,鎌田90】
・町指定史跡
小狩尾古墳【弓削町上弓削1139】
・町指定史跡
雨乞踊り【弓削町】
・町指定無形文化財[民俗芸能](昭和56年指定)
・室町時代から行われているという。
・7〜8月頃、雨を司る竜王に踊りを奉納する。
・踊りは、先頭に旗持ち、続いて大太鼓、小太鼓、鉦が従い、円を描きながら進む。
・雨乞い踊りうた
「雨をたもれ竜王なぁ
天竺の竜王なぁ
たもれたもれ竜王なぁ
天に雨はないかいなぁ
さあ参ろう
さあ参ろうさぁ」
役場使丁鑑札【弓削町上弓削
上弓削福祉センター資料室】
→広報弓削町、昭和63年6月号
鯨(くじら)遺跡【弓削町久司浦】
・鯨神社背後の丘陵上にある。
・旧石器時代の遺跡で、サヌカイト製のナイフ形石器(国府型ナイフ)が採集されている。
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福羅古墳【弓削町佐島】
・佐島の横峰山(標高119.9m)にある。
験乗宗八坂寺弓削別院【弓削町日比316-4】
西方寺(さいほうじ)【弓削町佐島263】
自性寺(じしょうじ)【弓削町藤谷832】
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定光(禅)寺【弓削町土生241】
2015/6/6
・山号:万年山
・宗派:臨済宗
・東福寺の末寺
・
![]() ・国指定重要文化財 ・二間四方の小さな御堂 ・釘・金具を一切使用しない組物形式で建てられている。 ・天井板に寛正4年(1463)の墨書が残されており、これが建立年と考えられる。 |
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惣観寺【弓削町引野】
潮音寺(ちょうおんじ)【弓削町下弓削400】
2015/6/6
・山号:海陰山
・宗派:臨済宗東福寺派
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![]() ・下弓削では古くから新仏の家では、三原の和田地蔵に参拝する風習があった。当時の境内にある地蔵像と和田の尊像とは、一木二体だというので和田に参ることを止めて、毎年6月24日に当寺で施餓鬼をする風習が盛んに行われたものである。 (えひめのふるさとこみち 東予編、財団法人愛媛県文化振興財団、昭和57年3月31日) |
![]() ・推定樹齢:600〜700年以上 |
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東泉寺【弓削町久司浦988】
・承元2年(1208)、壬生川村(現在の東予市)から宇田源次兵衛明利が薬師仏を持って住み着き、寺を起こしたのが始まりと伝えられる。
![]() ・町指定文化財 ・応永年間の作と言われる。 |
![]() ・5月5日 ・「東泉寺では五月五日を「鯨薬師」の日と定め、本尊薬師如来の祭日にあわせて花祭の法要を盛大に行っている」(広報弓削町、昭和63年4月号) |
鯨神社【弓削町久司浦】
金毘羅様【弓削町松原】
佐島八幡神社【弓削町佐島】
・祭神:応神天皇、神功皇后、三女神(みつめのかみ)
・「石清水八幡宮(京都、男山八幡宮ともいう)の荘園であった佐島については、同八幡宮に佐島に関する古文書が残っていないので、実情を解明しにくい状況にあり、その創建の年すらも推定しがたい。
本浦(ほんうら)西海岸丘の現在八幡宮のたっている地域は、もともと厳島神社の境内地であったという。ところが、元見山にあった八幡宮が本浦に移転後、更にこの境内に移転されて来て、いつしか、八幡宮が中心になり、厳島神社は、慶長4年(1399)再建の八幡宮の本殿に向かって左側に鎮座することになったのだと、語り伝えられている。本殿に向かって右側に四坂神社と甕(みか)神社の一棟がある。同神社はもと別宮であったが、昭和39年神輿庫を建てる際に一棟にした。四坂神社は、もと四坂島の明神島にあったのであるが、いつのころか、現在の境内地に遷されたという。明神島は、かつて佐島の所有地であった時代があり、佐島・明神・引野の人々が共同して、この島に製塩燃料の竹笹を刈りにいったのである。「佐島明神引野山子安安全祈処」と書かれた木札は、そのことを物語るものであろう。甕神社も、前者と同様に、浦之奥の山腹に祭ってあった大将宮を、天保2年(1831)に遷宮したものだという。その時の庄屋は、菅善兵衛(初代菅又右衛門の八代目)、組頭升屋伊兵衛、橋本勘蔵、寺社奉行竹本吟右衛門、神主は宮原上総元春であったという。
この神社には、宮原宮市が奉仕していたが、大正13年(1924)弓削神社に転任するに及んで、それより約13年間、宮原の兼任という形になる。その後、昭和13年(1938)福田貢が宮司として赴任し、今日に至っている。
この神社で見るべきものは、拝殿の天井にある羅針盤である。この羅針盤は、卯(東)酉(西)が逆に記入されているところの日本独特の逆針の羅針盤である。寄進者は故繁村清太郎船長であり、考案者は金沢清左衛門(明暦年間)と伝えられる。
境内にある明治時代以前のものとしては、55段の石段を登りつめた両脇にある一対の石燈篭、これは天明3年(1783)の寄進である。ついでその燈篭の後側の狛犬一対は、文化11年(1814)の寄進。地区の道路より、石段を19段登った右側の神幸丸願主重吉なる石燈篭は、文政9年(1826)の寄進、向かって左側の金毘羅大権現世話人安右衛門なる石燈篭は、嘉永5年(1852)の寄進等々である。」(弓削町誌)
高浜八幡神社【弓削町沢津】
・祭神:応神天皇(誉田別命)、神功皇后(息長足姫命)、三女神
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著(ちゃく)神社【弓削町引野】
・祭神:大山祇神
山神社【弓削町狩尾】
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弓削神社【弓削町
下弓削】
2015/6/6
・道鏡伝説が残る。
・創建年代不明であるが、応長元年(1311)の記録にある浜戸宮が前身と考えられる。
・その後、法皇宮、弓削宮と改称し、現在の名に至っている。
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![]() ・享保17年(1732)のもので、弓削町内最古のもの。 |
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地蔵堂(日限地蔵)【弓削町上弓削】
深坂大師堂
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![]() ・昭和46年竣工。 |
三山(みやま)【弓削町】
・標高325.3m
とみ山【弓削町】
・標高129.4m
伊勢山【弓削町】
・標高56.6m
立石山【弓削町】
・標高313.6m
古法皇山【弓削町】
・標高279.4m
・昔はここで火を焚き、雨乞い踊りで祈雨をした。
石山【弓削町】
石灰山【弓削町】
・標高219m
あじろ山【弓削町
弓削島】
「…ところで、私が幼い時によく聞かされたことですが、弓削の田窪家は大三島神社の先祖となる七郷の武士の落人で、弓削には同名が六家あると−−今治市の奥の中村には米田郷の小宮が祭られており、弓削島にはあじろ山に田窪宮として祭られています。昔、大三島神社のお祭りには、弓削から田窪様が着られた鎧(よろい)を持参−−宝刀は弓削神社に奉納しており、諸国から武士が参拝にきていたとのことです。また、明神には、畑の真ん中の森に大石馬碑が建てられています。実は、弟から田窪宮を改築して先祖のお祭りをしたらとの相談があり…」
(広報弓削町、昭和61年8月号)
まんじゅう山【弓削町】
(「まんじゅう山の頂に立ちて」、重松利一、広報ゆげ、平成2年7月号)
佐島観音山【弓削町佐島】
元見山【弓削町佐島】
石鎚山【弓削町佐島】
・横峰山の北隣。
横峰山【弓削町佐島】
・標高119.9m(4等三角点)
・眺望良好。
・佐島の中央に位置する。
・佐島島四国八十八ヶ所の60番「横峰寺」札所。
・山頂に御堂がある。
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![]() →広報弓削町、昭和61年7月号 |
おそごえの浜【弓削町】
西辺海岸【弓削町】
福羅海岸【弓削町】
丸岩の砂浜【弓削町】
船の見える丘展望台【弓削町豊島】
久司浦伝十の桜並木【弓削町久司浦】
※「三山の林道沿いの桜」はこの桜並木のことか?
大谷桜園【弓削町大谷】
・昭和62年1月完成。
狩尾の桜並木【弓削町狩尾】
上弓削の小桜【弓削町上弓削】
引野寺道の桜【弓削町引野】
弓削高校校庭の桜【弓削町明神305番地】
中崎公園の桜園【弓削町下弓削】
佐島観音山の桜園【弓削町佐島】
定光寺寺道の桜並木【弓削町下弓削】
潮音寺境内の桜【弓削町下弓削】
弓削商船高専の桜【弓削町下弓削1000番地】
深坂池の桜【弓削町下弓削】
浜昼顔・浜大根【沢津、引野の海岸】
久司山遊歩道
大橋記念公園【弓削町】
2015/6/6
・平成8年3月、弓削大橋開通に合わせて完成した。
中崎公園【弓削町】
・弓削島の南東部の高台の上にある。
・昭和60年3月完成。事業費2000万円。
・弓削町出身の医学博士、村上治朗氏の遺族からの寄附をもとに造られた。
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![]() ・休憩所 |
![]() 「見はるかす 瀬戸のうち海 しらしらと 日は照りわたり 春立ちにけり」 吉井勇は昭和十一年五月七日に、和田義一氏と共に弓削を訪れた。 |
![]() ・豊島石を使った碑。 ・「四つのテスト」とは、国際ロータリーの奉仕の理念を実践するための指針。 ・碑の裏面には、町長の顕彰文が刻印されている。 |
農村運動公園【弓削町佐島】
聖松跡地公園(聖松公園)【弓削町土生】
深坂池親水公園【弓削町】
佐島みんなの広場【弓削町佐島】
豊島展望台園地【弓削町豊島】
豊島コミュニティアイランド【弓削町豊島】
行者講【弓削町狩尾】
・毎年 1、5、10月。
・護摩を焚き、法螺貝を吹きながら経文を唱えて無病息災を祈願する。
地祭・百手神事【弓削町】
・1月11日
とんど焼【弓削町各所】
・上弓削、下弓削 久司浦、松原では1月15日、佐島では1月16日に行われる。
・注連飾りを焼いて一年間の無病息災を祈願する正月行事。
弓祈祷【弓削町上弓削、下弓削 高浜八幡神社、佐島八幡神社】
・1月15日に行われる。
@神事(神社本殿)
A弓を射る(弓場):的の数は五つ。真ん中の的には「鬼」という文字が書かれている。
産業まつり【弓削町 中央公民館】
・1月15日
弓削町駅伝大会(弓削町一周駅伝大会)
・2月11日
・昭和32年2月17日に始まった。
・昭和42年に建国記念日が国民の祝日として制定されて以来、2月11日に行われるようになった。
初ごもり【弓削町狩尾】
・3月7日
→宮ごもり
島四国【弓削町】
・4月中旬
・何時頃より開かれたのかは詳らかではないが、札所の仏像には文化年間の年号が刻んであり、その頃に開場されたものと思われる。
![]() ・4月第3日曜日 |
![]() ・旧暦3月21日 |
弓削薬師祭り(おやくっさん)【弓削町久司浦
東泉寺】
・5月5日
・花御堂の釈迦像に甘茶をかけて、1年間の無病息災を祈願する。
・寺の参道には出店が立ち並ぶ。
つつじ祭り【弓削町】
・5月5日
宮ごもり【弓削町狩尾
山神社】
・6月8日
・地区の人が弁当持参で神社に集まり、祈祷を行った後、一杯やりながら世間話に興じる。
・以前は桜咲く4月に、弓削町の各神社で行われていたので、「春ごもり」とも呼ばれた。
さつき展
・6月上旬
虫送り【弓削町久司浦
東泉寺】
・害虫退散・家内安全を祈願する行事。
・7月上旬。もともとは旧暦の5月18日に行われていた。
・文政10年(1828)に行われたという記録が東泉寺に残っているが、実際にはもっと昔から行われていたと考えられている。弓削の塩田が水田へと変えられた頃、貞享4年(1687)頃に始められたのではないかといわれている。
@東泉寺住職による祈祷
A食事(うどん)
B愛虫丸(麦藁製[現在はベニア板製]の小船)を先頭に、行列を行う。鉦(しょう)を叩きながら「アリコ(あぶらむし)を送りましょう」と唱え、農道を歩く。畑に着くと「愛虫丸が出るぞ。早く集まって下され」と大声を出して虫の精を集める。
C久司浦港から「愛虫丸」を海へと流す。
(See.広報ゆげ、平成3年8月号)
海開き【弓削町】
・7月上旬
![]() ・7月第1土曜日 |
ふるさと夜市【弓削町下弓削 中央商店街】
・8月第1土曜日
ビーチドッヂボール大会
・8月第一日曜日に行われる。
庄右衛門忌【弓削町土生】
・弓削島の江戸時代の義民、田頭庄右衛門の供養を行う庄右衛門祭りが8月13日に行われる。
・年貢の軽減を庄屋にかけあったのがもとで斬首にされた。
※中島町与理家神社の剣陵に祀られる大塚翁の話(「一つ免事件」)も参考にすること。
・庄右衛門の親族は宮窪町戸代地区に逃れたといわれる。
(以上、「義民を供養の庄右衛門踊り」、愛媛新聞、2005/8/16)
→(広報弓削町、昭和62年8月)
※庄右衛門の墓は、定光(禅)寺にある。
→庄右衛門の事件
ふるさとソフトボール大会【弓削町】
・8月14日に行われる。
盆踊り【弓削町】
8月13日〜15日
「弓削音頭」「炭坑節」
「雨乞い踊り」(町指定無形文化財)
「さーまいろう さーまいどっせ」
「ヤートセ」
地蔵盆【弓削町久司浦
地蔵堂(西の地蔵さん)】
・8月23日
・盆行事の締めくくりで行われる。(昔より「盆の行事は七夕に始まり、地蔵盆に終わる」と言われている。)
・「西の地蔵さん」で、肉親・先祖の霊の安穏を地蔵に祈願する。
@地蔵への祈り
A男女の掛け合いの盆踊り歌
B口説きの盆踊り歌
さしま島四国【弓削町】
・旧暦7月21日(9月上旬)
・何時頃より開かれたのかは詳らかではないが、札所の仏像には文化年間の年号が刻んであり、その頃に開場されたものと思われる。
歩行ラリー大会【弓削町】
・10月10日
秋祭り【弓削町上弓削、下弓削、佐島】
※昔は下弓削は9月半ば、上弓削・佐島は10月半ばに秋祭りが行われていた。現在は10月中旬に統一されている。
・10月中旬
![]() 上弓削:久司浦・沢津・上弓削のダンジリのからみ。 下弓削:引きダンジリ(老若男女が綱を引く) 佐島:小ダンジリ(女子供に任される) |
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行者講【弓削町狩尾】
・10月8日
・天保年間から続けられている。女人禁制。
・護摩を焚き、法螺貝を吹きながら経文を唱え、無病息災を祈願する。
・毎年1、5、10月の年三回、各戸持ち回りで行われる。
秋祭り【弓削町引野、明神】
・10月上旬
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商船祭【弓削町】
・11月上旬
ふるさとのつどい【弓削町】
・11月上旬
亥の子さん【弓削町久司浦
久司浦集会所前、佐島小学校】
・11月中旬(旧暦10月初亥の日)
・春に地上に降りてきて五穀豊穣をもたらしてくれた地の神に、感謝を込めて天に帰ってもらうという意味を持つ。
「いのこもち はじめましょ
いーのこ いのこ いのこさんという人は
一で 俵をふんばって
二で にっこり笑うて
三で 酒をつくって
四つ 世の中えーように
五つ いつものごとくに
六つ 無病息災に
七つ 何事ないように
八つ 屋敷をつくって
九つ ここらで蔵建てて
十で とうとうおさまった
エーサッサ エッサッサ
こーれの餅は ようねれた
となりの餅も ようねれた
エーサッサ エッサッサ」
亥の子さん【弓削町引野 弁天さん前広場、著神社】
豊島コミュニティセンター【弓削町豊島】
国民宿舎ゆげロッジ【弓削町日比】
・昭和45年7月に建設。
弓削中学校
校歌:「松は緑に砂白く 文化の潮岸洗う…」
弓削小学校
弓削小学校豊島分校
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姫塚【弓削町】
「寿永四年(1185)二月、源義経の率いる源氏に敗れた平家軍は、屋島の浦から瀬戸内海を西に向かって敗走し、この船団の中に一そうが弓削島の浜都湾に漂着した。
彼らは、やむなく船を捨て狩尾の谷に隠れた。
一行の中に、一人の美しい上臈(じょうろう)(身分の高い女官)がいた。平家一門の姫であろうが、その人の名は伝わっていない。
薄幸の彼女は、間もなく、若い命をこの地で終え、落人たちは、丘の中腹に塚を造って姫を葬った。
その後、落人たちは身の危険を感じ、狩尾の谷を出て久司浦の三山(みやま)山中奥深くに移り住んだと伝えられ、その地は今も"かくれ谷"という。
この哀話は、平家落人伝説として永く語り継がれており、彼女の墓は"姫塚"と名付けられ、現在も大切に保存されている。」
(広報弓削町、昭和61年6月)
おむねさん【弓削町】
「狩尾には、こんな唄がある。
狩尾の谷に すぎたるものは 波止(はと)に おむねに 山の神
昔、狩尾の里に"おむね"という大層な美人がいた。
この里謡は、美しい彼女をたたえて歌われるようになったと伝えられている。
狩尾の地は小さい集落ながら、浜には立派な波止、山には山の神の社があり、それに里の"おむね"を加えた三つの名物を唄に託して語り継いできたのであろう。
平家落人の美しい姫、その再来ともいわれた美人のおむねさん−−二人の間に血のつながりがあるのかないのか、そんなせんさくは野暮なこと。ほのぼのとした物語をいつまでも残しておきたいものである」
(広報弓削町、昭和61年6月)
百貫島【弓削町】
弓削の東方1kmほどの海上に小さな島が浮かんでいる。この島は「百貫島」と呼ばれる。昔大阪のある商人が一人娘を連れて大阪へ帰る途中、娘が急に苦しみ出し、この島に差し掛かったところで息を引き取ったので、この小島を銭百貫で買い取り、島に娘を手厚く葬ったことからこの名が付いたという。
「むかし、京都の公家が宮島に参詣しての帰り、誤って家に伝わる黄金の太刀を海中に落とした。
公家は、船を近くの鞆の港へ着け『誰かあの海へもぐって太刀を取ってきて欲しい』と頼んだが、このあたりは恐ろしいフカがウヨウヨしている難所だったので、誰も行こうとはしない。ようやく次郎という若者が引き受けて海に飛び込んだ。しばらくすると、海が真っ赤に染まってくるとともに、次郎が丸刀を口にくわえて浮かび上がってきた。
次郎は、太刀を公家に渡すとそのままずるずると海中に沈んで二度と浮いてはこなかった。
公家は、フカに喰い殺された哀れな次郎のために、百貫の銭を出して近くの島を買い取り次郎の塚を建てた。それから、この島を百貫島と呼ぶようになったと伝えられている。
なお、この物語は鞆地方に伝わる民話で、島は鞆のすぐ沖にある弁天島のことであって、因島の近くにある百貫島(弓削)ではないという作者のお断りが付記されている」(因島の民話と伝説→広報弓削町、昭和62年8月)
次武と猫又【因島市】
「弓削の薬師祭りは、草相撲がたいそう盛んで、腕自慢の人たちが大勢集まってきてにぎやかな祭りであったが、伊予の今治から猫又という男がやってきて、毎年土俵荒らしをするので皆が困っていた。
中庄に次武というとても力の強い人がいた。庄屋のお供で薬師さんにお参りした次武は、庄屋の命令で草相撲にしゅつじょうし、決勝戦でみごとに猫又を投げ飛ばし、やんやのかっさいを浴びた。
その翌年から、猫又は姿を現さないようになり、薬師祭りは平和でにぎやかな祭りが続いたという。」(因島の民話と伝説→広報弓削町、昭和62年8月)
大蔭さんと法王さん【因島市】
「むかし、外浦の奥にある大蔭山の谷に、一匹の雄の大蛇がいた。
大蛇は夏になると、きまって隣島の弓削の法王山に住んでいる雌の大蛇に会いに海を渡って出かけた。
大蛇が通るときは、激しい風が吹き、草木は揺れ動く。皿のようにギラギラと光り輝く大蛇の目に見つめられた者は、もがき苦しんで死ぬといわれた。
それでこの地方では、大蛇に出会ったら、鍬も鎌も投げ捨てて逃げ帰ったと伝えられている。」(因島の民話と伝説→広報弓削町、昭和62年8月)
庄右衛門の事件
「庄右衛門忌
八月十二日は土生地区が生んだ江戸時代の偉大な農民リーダー庄右衛門の命日といわれる。土生の組頭庄右衛門は、江戸時代半ばの宝永年間、飢饉と重税にあえぐ農民たちのために立ち上がり、庄屋や今治藩に二度にわたって年貢の減免を願い出た。当時の幕藩体制の下ではこのような行為は許されるべくもなく、首謀者の庄右衛門らに対する判決は斬首獄門という厳しいものであった。土生地区では、最近まで盆の初日(十三日)の踊りを庄右衛門踊りと称して地域の英雄を偲んでいたし、今でも古老たちは毎月十二日を庄右衛門の命日としてお堂に集まっている。それは、農民の生活を守るために死を覚悟してまで立ち上がった庄右衛門たちの行動が、人間の生き方として人の心を揺さぶり続けるからであろう。しかし、この事件はムシロ旗打ち振り、鎌や鍬振りかざしてという派手な一揆でないためか、町内でも知る人が意外と少ないのは残念である。今年の盆あたり、定光寺墓石をはじめとして庄右衛門ゆかりの地を訪ねてみてはどうだろうか」(広報弓削町、昭和62年8月)