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[KOMIL:KOtaro's Miscellaneous
Information Laboratory] Copyright (C) Kotaro Iseki (1996〜2022). All rights reserved |
![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 西条市 (旧・東予市) |
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市の花 | 市の木 | 市の花木 | 市の鳥 |
ツツジ | クスノキ |
・昭和46年、市制を施行。
・明治22年、壬生川村が成立。
・明治34年、町制をしき、壬生川町となった。
・昭和15年、壬生川町と多賀村が合併し、壬生川町となった。
・昭和30年、壬生川町と国安村、吉岡村、吉井村、周布村の4村とが合併し、壬生川町となった。
・昭和46年1月、壬生川町と三芳町が合併し、東予町となった。
・昭和47年10月、市制を施行し、東予市が成立。(県内12番目の市)
大字 | 字 |
明理川(あかりがわ)→西条市明理川 | |
石田(いしだ)→西条市石田 | |
石延(いしのべ)→西条市石延 | |
今在家(いまざいけ)→西条市今在家 | |
円海寺(えんかいじ)→西条市円海寺 | |
大新田(おおしんでん)→西条市大新田 | |
大野(おおの)→西条市大野 | |
上市(かみいち)→西条市上市 | |
河之内(かわのうち)→西条市河之内 | |
河原津(かわらづ)→西条市河原津 | |
河原津新田(かわらづしんでん)→西条市河原津新田 | |
喜多台(きただい)→西条市喜多台 | |
楠(くす)→西条市楠 | |
国安(くにやす)→西条市国安 | |
黒谷(くろだに)→西条市黒谷 | |
桑村(くわむら)→西条市桑村 | |
実報寺(じっぽうじ)→西条市実報寺 | |
周布(しゅう)→西条市周布 | |
新市(しんいち)→西条市新市 | |
高田(たかた)→西条市高田 | |
玉之江(たまのえ)→西条市玉之江 | |
旦之上(だんのうえ)→西条市旦之上 | |
壬生川(にゅうがわ)→西条市壬生川 | |
広江(ひろえ)→西条市広江 | |
広岡(ひろおか)→西条市広岡 | |
福成寺(ふくじょうじ)→西条市福成寺 | |
北条(ほうじょう)→西条市北条 | |
三津屋(みつや)→西条市三津屋 | |
三津屋東(みつやひがし)→西条市三津屋東 | |
三津屋南(みつやみなみ)→西条市三津屋南 | |
宮之内(みやのうち)→西条市宮之内 | |
三芳(みよし)→西条市三芳 | |
安用(やすもち)→西条市安用 | |
安用出作(やすもちでさく)→西条市安用出作 | |
吉田(よしだ)→西条市吉田 |
越智家住宅数寄屋【東予市壬生川】
・国登録有形文化財
・昭和2年の建造物
越智家住宅茶室【東予市壬生川】
・国登録有形文化財
・昭和2年の建造物
涅槃像及び両界曼荼羅(3幅)【東予市広江
徳蔵寺】
・県指定有形文化財[絵画](昭和45年3月27日指定)
木造薬師如来坐像(2躯)【東予市北条
金性寺】
・県指定有形文化財[彫刻](昭和32年12月14日指定)
梵鐘(1口)【東予市北条
長福寺】
・県指定有形文化財[工芸品](昭和40年4月2日指定)
観念寺文書(14軸)【東予市上市 観念寺】
・県指定有形文化財[書跡・典籍・古文書](昭和31年11月3日指定)
土田之木のエノキ【東予市玉之江】
・県指定天然記念物(昭和40年12月24日指定)
カブトガニ繁殖地(東予市海岸一帯)【東予市】
・県指定天然記念物(昭和24年9月17日指定)
観念寺の本堂及び鐘楼堂【東予市上市
観念寺】
・市指定有形文化財[建造物]
観念寺の山門と石垣【東予市上市
観念寺】
・市指定文化財[記念物史跡]
観念寺仏殿文化八年上梁棟札【東予市上市
観念寺】
・市指定文化財[考古資料]
観念寺開山堂【東予市上市
観念寺】
・市指定有形文化財[建造物]
観念寺宝篋印塔【東予市上市
観念寺】
・市指定有形文化財[彫刻]
象ヶ森城址【東予市上市観念寺山】
・市指定文化財[記念物史跡]
周敷神社社殿【東予市周布
周敷神社】
・市指定有形文化財[建造物]
周敷神社絵馬【東予市周布
周敷神社】
・市指定文化財[絵画]
絹本著色十二天画像【東予市旦之上
十地院】
・市指定文化財[絵画]
絹本著色不動明王像【東予市旦之上
十地院】
・市指定文化財[絵画]
絹本著色出釈迦弘法大師像【東予市旦之上
十地院】
・市指定文化財[絵画]
絹本著色仏涅槃図【東予市旦之上
十地院】
・市指定文化財[絵画]
木造地蔵菩薩立像【東予市実報寺
実報寺】
・市指定文化財[彫刻]
俊盛筆聖帝山来由記【東予市実報寺
実報寺】
・市指定文化財[古文書]
徳蔵寺の織部灯籠【東予市広江
徳蔵寺】
・市指定文化財[彫刻]
木造阿弥陀三尊像【東予市周布
寂光寺】
・市指定文化財[彫刻]
甲賀八幡神社祈請文【東予市上市甲460
甲賀八幡神社】
・市指定文化財[古文書]
松山藩壬生川浦番所記録【東予市周布
郷土館】
・市指定文化財[古文書]
久米庄屋古文書【東予市周布
郷土館】
・市指定文化財[古文書]
珠文鏡【東予市周布
郷土館】
・市指定文化財[考古資料]
一柳直卿の奉納額
・市指定有形文化財[書跡]
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木造馬頭観世音菩薩坐像【東予市楠】
・市指定有形文化財[彫刻]
楠の法篋印塔【東予市楠】
・市指定有形文化財[彫刻]
壬生川盆踊りトンカカはん【東予市石田597-1】
・市指定無形文化財
・闇罔神社境内で新暦8月19日の夜に行われる。
実報寺の寺池と睡蓮の群生【東予市実報寺
実報寺】
実報寺の一樹桜【東予市実報寺
実報寺】
大慈庵の蘇鉄群【東予市高田
大慈庵】
鷺森神社の楠【東予市壬生川
鷺森神社】
大元神社の大杉【東予市黒谷乙
大元神社】
黒谷の檜一対【東予市黒谷乙
大元神社】
夜討ヶ窪の山樫【東予市河之内】
甲賀神社の広葉杉【東予市上市
甲賀八幡神社】
金性寺の黒松(薬師松)【東予市北条
金性寺】
豊栄神社のチシャノキ【東予市周布
豊栄神社】
新福寺のカリンの木【東予市新町
新福寺】
宮内神社のツバキの群生【東予市宮之内 宮内神社】
世田城址【東予市楠】
・南北朝時代の古戦場であった世田山の山頂には、世田城があった。
「世田城墟 楠村の山上に在り。河野の本城四十一ヶ所の一にして、建武年中南朝の忠臣大舘左馬助氏明朝臣此城に籠れり。
南海治乱記(に)云(ふ)、大舘左馬助ガ籠タル世田城ヲ取詰、讃岐国ノ住人藤・橘・伴ノ党相共ニ是ヲ攻ル。九月三日ノ暁大舘左馬助城戸ヲ開ケ打テ出、力戦シテ死ス。岡部出羽守一族モ皆戦死シテ城ハ陥ニケリ。是ヨリシテ頼春国中ノ宮方ヲ攻靡ケ、河野ガ罪アルヲ赦シテ本領ヲ還附シ、兵ヲ引テ帰ル。其行粧由々シクゾ聞エケル。
又云(ふ)。貞治二年二日、頼之讃州笑原庄ニ来テ兵ヲ聚メ、総兵二万人ヲ以テ二軍ニ分チ、海陸二路ヨリ豫州ニ向ハシム云々。細川頼之大兵ヲ発シテ豫州ニ攻入、先世田山ノ城ヲ囲ム。河野通朝防戦シテ相守ルコト数十日ニ至ル。城中ニ野心者出来テ通朝ヲ自殺セシメ世田山城陥ル。夫ヨリ兵ヲ進テ湯城ニ至ル。」(愛媛面影)
●こたろうによる口語訳
世田城跡 楠村の山上に在る。河野の本城四十一ヶ所の一つで、建武年中、南朝の忠臣大舘左馬助氏明朝臣がこの城に籠もった。
南海治乱記に以下の記述がある。大舘左馬助が籠もった世田城を取り詰め、讃岐国の住人藤・橘・伴の党相共にこれを攻めた。9月3日の早朝、大舘左馬助が城戸を開け打って出て、力戦したものの戦死した。岡部出羽守一族も皆戦死して城は陥落した。これを以って頼春は国中の宮方を攻靡ケ、河野氏が罪あるのを赦して本領を還付し、兵を引いて帰った。その行動は由々しく聞える。
また、次のようにも述べている。貞治2年2日、頼之は讃州笑原庄に来て兵を集め、総兵二万人を以て二軍に分け、海陸二路より豫州に向わした。細川頼之は大兵を発して豫州に攻め入り、まず世田山の城を取り囲んだ。河野通朝は防戦して相守ること数十日に至った。城中に野心者が出来で、通朝を自殺せしめたことで世田山城は陥落した。それより兵を進めて湯城に至った。
「瀬田古城 楠村 麓に薬師堂あり、河野遠州通朝、細川頼之合戦、通朝不利終に此城に於て生害有と云ふ」(予陽郡郷俚諺集)
近田城址/水源地【東予市河之内】
1999/5/15(土)
・大明神川のきれいな水を台所に送る浄水場の上手の小山に近田氏の拠城があった。
・天正8年城主経治は、櫛部兼久とその父兼氏等をかくまったため、新居郡高尾城主の金子勢に夜襲され、櫛部父子と共に炎の中で自刃した。
・「夜討ヶ窪」の保の木名が残った由来である。
鷺森城(垣上城)【東予市壬生川】
「鷺森城 同所(壬生川)垣上城とも云 壬生川摂津守城跡」(予陽郡郷俚諺集)
古城【東予市広岡】
「古城 広岡村」(予陽郡郷俚諺集)
古城【東予市実報寺】
「古城 実報寺村、長野民部少輔居之」(予陽郡郷俚諺集)
象ヶ森城【東予市上市】
・市指定文化財[記念物史跡](昭和58年7月18日指定)
・城主は、風早河野家18将の一人、櫛部肥後守兼久で、天正7年(1579)新居郡金子城主、金子元宅に攻略され、天正8年に討死した。
・山城は、海抜185mで、庄内側から象、吉岡側がら蝙蝠の姿に見える。曲輪6、堀切6、土塁3、土橋1、堀割1、切岸多く、横井戸など防御機構の規範を備えている。
「象森城墟 旦上村に在り。櫛戸(くしべ)伊賀入道嫡子肥後守兼久と云(ふ)人の城跡なり。天正七年九月、金子備後守元家不意に当城を夜討(ち)せしに、兼久遁(れ)て父伊賀入道と共に川内善久寺へ落(ち)て忍び居ける。其時目見田十郎・芥川新左衛門城中に残りて討死(に)せり。翌天正八年五月十一日、兼氏、兼久・川内村金田原(こんだがはら)にて自殺せり。」(愛媛面影)
●こたろうによる口語訳
象森城墟 旦上村に在る。櫛戸伊賀入道嫡子肥後守兼久という人の城跡である。天正7年9月、金子備後守元家が不意に当城を夜討ちした。兼久は遁れて父の伊賀入道と共に川内善久寺へと落ち延びた。その時、目見田十郎・芥川新左衛門が城中に残って討死した。翌天正8年5月11日、兼氏・兼久は川内村の金田原にて自殺した。
「象ヶ森城 旦之上村、櫛戸肥後守本城、十二月晦日の夜、周布郡大頭の城より当城へ、今に至り虚空に燈明来のよし申伝ふ、櫛戸神三住之」(予陽郡郷俚諺集)
藤ヶ森城址/古屋敷/弓場谷【東予市河之内】
・ふるさとこみち-4
・藤ヶ森城址は、佐川の西、俗称古屋敷の山頂にある。
・象ヶ森城の属城で、櫛部出雲兼氏が拠っていたと伝えられている。
・約500mの平坦地になっており、南側に石垣が築かれている。
・麓の「古屋敷」の地名は城兵の屋敷があったこと、川を挟んで南側の「弓場谷」の名は、当時の武芸修練の場所があったことの名残である。
「藤野森城 川之内村、櫛部伊賀入道居之、同肥後森住之」(予陽郡郷俚諺集)
奥の城【東予市河之内】
「奥の城 同所(川之内村)、奥山に有 山内若狭守住之、菊森といふ」(予陽郡郷俚諺集)
永納山城跡【東予市】
・東予国民休暇村近くの小高い山、永納山(標高132m)の雑木の中に総延長2.5kmにわたる列石や土塁がある。これは「朝鮮式山城」とも呼ばれ、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫したのを機会に、両国の脅威から防備するために大和政権によって築かれたという。
上市池遺跡群【東予市上市】
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観念寺池遺跡【東予市】
久枝(さいだ)遺跡【東予市】
・大地震の跡と見られる噴砂や中世の集落跡が見つかった。
久枝(さいだ)U遺跡【東予市周布】
・'97年2月、県埋蔵文化財調査センターは、弥生時代中期と見られる石製の指輪を発見したと発表した。この指輪は、全国的に見ても初めて見つかったものである。
・指輪は深緑色の蛇紋石製で、直径2.2cm、重さ1.07g。多量の炭化物と弥生式時の破片が埋まっていた土坑から出土した。
幸の木遺跡【東予市】
・四国初の把手付き中空円面硯(えんめんけん)が見つかった。
佐々久山遺跡群【東予市】
新町遺跡【東予市】
東予西中学校遺跡【東予市】
長網T、U遺跡【東予市実報寺】
・縄文時代後期〜中世
[まいぶんえひめ No.29、平成14年(2002)]
高志田遺跡【東予市実報寺】
・縄文時代後期〜中世
[まいぶんえひめ No.29、平成14年(2002)]
広岡池遺跡群【東予市】
福成寺遺跡【東予市】
・直径8m、8.4mの2基の円墳、弥生時代中期の竪穴式住居跡などが発掘された。
吉岡小学校南遺跡【東予市】
甲賀原古墳群【東予市上市
甲賀八幡神社】
・市指定有形文化財[古墳]
天神二号古墳【東予市福成寺乙436】
・市指定有形文化財[古墳]
片山古墳群【東予市】
佐々久山古墳【東予市】
二番山古墳【東予市】
広岡古墳群【東予市】
![]() ・市指定文化財[有形文化財石造美術](昭和58年7月18日指定) ・宝筺印塔とは、塔中に宝筺印神(心)■経を納めた供養塔である。法華経を納めたものもあるという。 ・この宝筺印塔は鎌倉時代の作で、東予市では最も古く、石造文化財として極めて重要なものである。 ・誰がどんな時にどんな発願によって建立したかは不明であるが、当時この地に優れた人物が住み、古い大きな寺があったことを物語る重要な文化財である。 |
![]() ・市指定文化財[有形文化財彫刻](平成2年11月19日指定) ・豊田家の御先祖の自安という人が庵を営み、京都で求めてきたのがこの馬頭観世音菩薩像だといわれている。 ・鎌倉時代の作と推定され、身丈43.5cm、総丈70cmの木造坐像である。三面八臂像で二手に印を結び、左手に蓮華・瓶・棒、右手に鉞斧・数珠・索を持ち、蓮華座に輪王座して大忿怒相をしている。 |
貝田廃寺跡【東予市周布】
1999/5/15(土)
・周布公民館ふるさとこみち28番
三芳村役場跡【東予市三芳】
1999/5/15(土)
・JA三芳の前に石標が建っている。
出張橋(でばりばし)【東予市三芳】
1999/5/15(土)
・この川はお大師さん川、または真手川という。ここに架かっていた真手川橋を古くより出張橋と呼んでいた。
・慶長6年(今から約400年前、1701)、三芳村(中村東、中村西、黒本村)は大洲藩の領地であった。そのため、毎年、年貢の検地・収納・運搬などで代官派遣が行われた。大洲藩としては、遠隔地のため色々と不便を来していた。
・寛永11年(1634)、松山24万石に蒲生忠知が封じられた。しかし、忠知は参勤交代の途上急病に罹り死亡した。忠知には後継ぎがなく、家は取り壊し、領地は幕府に没収された。その後1年間は大洲藩預かりとなった。大洲藩としては、この際、不便な飛地問題を解決したく幕府に願い出た。それは松山藩と大洲藩の領地交換である。松山藩へ行くのが13208石、大洲藩へ行くのが13472石である。幕府は検討の末、判断し許可を与えた。
・この年を最後に三芳村の大洲藩代官所時代の出張は終わった。
・その名残として、出張橋の名が今に伝わっている。
・翌、寛永12年(1635)伊勢桑名城主松平定行が松山15万石の城主となった。(三芳村が天領となったのは、明和2年(1765)である。
円満寺【東予市旦之上】→西条市旦之上甲1237
覚法寺【東予市壬生川】→西条市壬生川60
観念寺【東予市上市】→西条市上市甲1017
1999/5/15(土)
・周は:臨済宗東福寺派
・1240年創建。
・中国風の山門を構える。
「観念寺 上市村に在り。大雄山と号す。開山聖一国師の弟子鉄牛和尚なり。仏殿四間四面、本尊釈迦如来、脇立文珠・普賢正観音、鉄牛和尚の木像有(り)、宝物には、開山入唐の時の袈裟・座具・鉢・十四珠数等、寺領寄進状、墨画観音・摩利支天、趙子昂の墨蹟、尊氏将軍の御教書等あり。又庭前に名木の梅あり、花一輪に実数多(あまた)むすぶと云(ふ)」(愛媛面影)
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![]() ・市指定文化財[記念物史跡](昭和58年7月18日指定) ・観念寺は延応2年の創建、山門は天保13年再建。唐様で龍宮門に似て風格がある。正面に寺位を示す「南海諸山」、楼上に雄大な眺望を示す「呑海楼」の扁額がある。 ・高石垣は、松山藩4代定直公が「郡普請」で築造した。粒の揃った流石を集め、面を小さく奥行きを深くした入念な「野面積」の妙技で、300年の天災地変に耐え、当時の姿を残し、美しい。 |
![]() ・市指定文化財[考古資料](平成9年3月28日指定) ・観念寺仏殿文化八年上梁棟札は、総高151.2cm、肩高149.1cm、上・下幅とも24.2cm、厚さ2.7cm、頭部の形状は尖頭で、仕上げは台鉋、材質は桧である。 ・棟札には、当時の住職太髄文可和尚自筆の観念寺改築の状況が表面に、裏面には同筆による観念寺沿革の概要や再建に至る経緯等が鮮明に記されている。 |
![]() ・市指定文化財[有形文化財建造物](平成2年11月19日指定) ・現在の本堂は、文化8年(1811)に再建されたもので、正面入口の桟唐戸や正面と側面の弓形格子の欄間や花頭窓を持った唐様式の建物である。天井板には一枚一枚草花・鳥獣・人物の絵が描かれている。 ・鐘楼堂は、本堂と書院とを結ぶところに位置している。楼の朱色に塗られた桟唐戸と柱や欄干が一層唐様式の感を深めている。 |
![]() ・県指定文化財(昭和31年11月3日指定) ・観念寺は、文永年間(1264〜1274)に越智盛氏の創建にかかり、元弘2年(1332)鉄牛和尚の開基による新居氏の氏寺で、昔は末寺30ヶ所があって、松山久松候の祈願寺でもあった。 ・この寺には、足利尊氏の禁制書など同寺の創立から江戸時代初期におよぶ古文書(教書、禁制、置文、下状、譲渡状)102通があり、絹本掛軸に装幀14軸に納められ保存されていて、伊予の豪族神野・越智・新居氏の盛衰を知る必見の資料となっている。 ・境内には単層入母屋造りの雄大な本堂があり、古来「観念寺の門を見ずして結構をいうな」といわれた名建築の楼門もある。 ・又、裏山の三基の宝筺印塔は完全に保存された鎌倉時代の素晴らしい石造文化財である。山頂には中世の城象ヶ森城跡があって、近くの山中には片山古墳もある。 |
![]() ・市指定有形文化財[建造物] |
金性寺【東予市北条】→西条市北条345
![]() ・県指定有形文化財[彫刻](昭和32年12月14日指定) |
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興照寺【東予市壬生川】→西条市壬生川373
![]() ・東予市指定文化財:書跡(平成2年11月19日指定) |
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弘福寺[日切(ひぎり)大師]【東予市三芳】→西条市三芳1415
1999/5/15(土)
・日切山弘福寺
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![]() ・スエ女は渡辺小市の妻として農業の手助けをしていたが、夫がリューマチに罹り病床で呻吟する身となった。スエ女は病夫の枕辺に付き添い看病に勤しむ傍ら、三児の養育を一身に引き受け、14年の長い年月を働き続けた。しかし、その甲斐もなく夫は明治21年他界した。官府及び各種団体はスエ女の貞操を表彰し、賞状及び金品を十数度にわたり贈っている。スエ女はあとに残された子女の成長に望みをかけ働いたが、今までの疲労が重なり病気となった。そして明治36年に亡くなった。 ・スエ女の貞操は「人の鏡」と題して、小学校修身書に載せられた。三芳村では後生にスエ女の徳をたたえるため、昭和3年表彰碑を建立した。 |
光明寺【東予市三芳】→西条市三芳1603
1999/5/15(土)
・本尊:大日如来
・東予周桑新四国第78番札所
・宗派:真言宗御室派
・山号:観音山
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三蔵院【東予市三津屋】→西条市三津屋136
正法寺【東予市高田】→西条市高田918
・「拈華山正法寺 高田村にあり、黄檗宗、元禄八年松平定直公開基、大休和尚開山たり、正徳二年松林一万九千坪御寄付あり」(予陽郡郷俚諺集)
実報寺【東予市実報寺甲758】→西条市実報寺甲758
1999/5/15(土)
・新四国曼荼羅霊場第35番霊場
・伊予六地蔵第1番札所
・山号:聖帝山(しょうていさん)
・院号:十性院
※予陽郡郷俚諺集には実性院と記されている。
・本尊:地蔵菩薩
※大日如来から改めたのは何時の頃か?
・宗派:真言宗御室派
・舒明天皇12年(640)、天皇の勅願により建立した。学僧・恵穏(えおん)が開山した。開山当所は大明寺と称した。
・養老7年(723)、行基が再興。
・弘仁6年頃、弘法大師(空海)来錫以降、法相宗(ほっそうしゅう)から真言宗に改めた。
「実報寺 寺内に桜の大樹ありて、花の頃は見物の人々群集をなす。村名をやがて実報寺と名(づ)けたり。」(愛媛面影)
「聖帝山実性院般若坊実報寺 実報寺村にあり、本尊大日如来、別堂に丈六の地蔵の像あり、庭に桜の大樹あり」(予陽郡郷俚諺集)
![]() ・鎌倉時代初期の作。楠の寄木造りの座像である。 ・土佐の長宗我部軍が乱入した際、この地蔵尊を持ち帰ろうとしたが大時化に遭い、仏像を海に投げ捨てて逃げ帰った。仏像は浜に漂着した。 |
![]() 「咲き満ちて息を止めをる桜かな」 |
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![]() ・市指定文化財[天然記念物](平成2年11月19日指定) ・「遠山と見し是也花一木」寛政7年(1795)、小林一茶が一樹桜を訪ねて来て、この句を作ったことが「寛政紀行」という一茶の旅日記に記されている。 ・エドヒガンとかウバヒガンといわれるこの種類は、染井吉野に先駆けて咲き、その純白の花は実に見事である。 ・同種の古木が境内になお二本ある。 |
![]() 「聖主峰 縹■と雪 新たにす」 ・平成10年10月建立。 ・阪本謙二は、本名を謙一といい、昭和5年に愛媛県内で生まれ、現在松山市に在住している。元、愛媛県立高校の校長を務めていた。 ・昭和22年に富安風生に師事し、若葉同人、糸瓜編集長を経て、平成5年に欅を主宰した。 |
![]() ・実報寺山の八十八ヶ所は、明治24年、当山63代住職徳永霊仙僧正の時、福正寺の芥川好太郎氏の発願により、芥川近蔵氏はじめ112名施主(白石にその名を刻んである)の方々の寄附により開かれた霊場である。ゆっくりおまいりして2時間のコースである。山上からの眺めは素晴らしい。 |
![]() ・市指定文化財[有形文化財古文書](昭和58年7月18日指定) ・平安時代の貞観10年(868)実報寺第11代住職俊盛上人が書いた寺の縁起で、正式の名は「予州聖帝山実報寺来由之記」という。 ・縦約30cm、長さ392cmの巻き物で、恵隠法師開山の様子、その後の移り変わりが書かれている。 ・明和6年(1769)の写しも現存する。 |
![]() ・市指定文化財[有形文化財彫刻](平成2年11月19日指定) ・現在、本尊としてまつられている地蔵菩薩像は、木造(材質は楠)寄木造り、坐像で一丈(約3m)ある。 ・寺伝では、行基菩薩作と言われてきたが、鎌倉初期の作と推定される。 ・厨子の扉は平素閉じられていて、33年に一度の御開帳法要の時に開かれるしきたりとなっている。 |
![]() ・市指定文化財[書跡](平成2年11月19日指定) ・一柳直卿は、寛文6年小松藩主一柳直治の長子として生まれ、40歳で跡を継ぎ、三代目藩主となった。 ・詩歌・書画など諸芸に優れていたが、特に書道が得意で、当時の三百諸候中第一の能筆家といわれ、将軍家へも習字の手本を納めたほどであった。神仏に対する信仰が厚く、社寺に多くの額を奉納している。 |
![]() ・空海ゆかりの井戸。 |
![]() ・8月23日、24日 |
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寂光寺【東予市周布2175】→西条市周布2175
![]() ・市指定文化財[彫刻] |
![]() ・市指定文化財[書跡](平成2年11月19日指定) |
![]() ・市指定文化財[書跡](平成2年11月19日指定) |
十地院【東予市旦之上(だんのうえ)甲543番地】→西条市旦之上甲543
1999/5/15(土)
・宗派:真言宗
・東予周桑新四国第67番霊場
・天武天皇の勅願所として白鳳13年(685)に大黒山の裾盆地(十地院谷といわれる所)に建てられていたが、約150年前の文化2年に現在地に移転建立された。
・本尊は薬師瑠璃光如来。
・移転前は七堂伽藍を備えた堂々たる格式の大寺であったという。
・河野家より寄進された寺宝の仏画が32幅保存されている。
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![]() ・市指定文化財[絵画](平成9年3月28日指定) ・十地院は、大黒山城主旦之上小三郎の祈願寺として河野家より、寺領・仏像・仏画を寄進されたと伝えられている。 ・諸祈願の本尊である不動明王像は、鎌倉時代末期の作、出釈迦弘法大師像は室町時代中期の作、常楽会の本尊である涅槃図は南北朝時代の作であるといわれており、いずれも見事な仏画である。 |
![]() ・市指定文化財[有形文化財絵画](昭和58年7月18日指定) ・十地院は天武天皇の白鳳13年(685)泰量上人によって大黒山の麓に建立されたが、戦火によって焼失。天保3年(1831)現在地に移った。 ・立派な仏像・仏画が多数あり、十二天もその一つ。(十二天とは帝釈天など十二の天部で、道場を守護する神である。) ・平安末期、牧谿の作と伝えられる。 |
![]() ・市指定文化財[彫刻](平成9年3月28日指定) ・本像は、像高102cm、総丈165cmで、寄木造り、漆箔、玉眼で、左手に持つ未敷蓮華を右手で開く通形の聖観音である。 ・胴体部分の着衣や肉取りなどには平安時代の様式が見受けられるが、頭部の髷の高さから鎌倉時代初期の作と考えられる。また、その作風には、天台宗の傾向が見られる。 |
寿聖寺【東予市桑村】→西条市桑村305
正徳寺【東予市玉之江】→西条市玉之江130
新福寺【東予市新町457】
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神宮寺【東予市楠】→西条市楠1374
清浄寺【東予市吉田】→西条市吉田1140
![]() ・東予市指定文化財:書跡(平成2年11月19日指定) |
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善光寺【東予市安用】→西条市安用甲1044
世田薬師(世田山栴檀寺)【東予市楠】→西条市楠乙454
1999/5/15(土)
・新四国曼荼羅霊場第36番札所
・本尊:薬師如来
・山号:世田山
・院号:医王院
吉田山醫王院 世田城の南に在り。俗に世田薬師と云(ふ)。醫王院有(る)に依(り)て又醫王山と名(づ)く。本尊薬師堂の傍に大舘左馬助氏明朝臣墓あり。殉死忠臣墓には、岡部出羽守忠重・新海太郎貞廣・同四郎貞秋・同五郎貞行・境四郎左衛門光重・同十郎光行・大西宗蔵秀行・小山田伝内定成・中川三郎兵衛正頼・来崎八郎定能・中瀬次郎政道・同三郎政光・同六郎政信・亀岡忠三郎武元・中山八郎高俊・平塚金吾久光・同七郎久行十七人、暦応二年秋九月三日、一所殉 死朝臣 全 其節 也、と俚諺集に見(え)たり。近世碑を建立せり。平安大舘中務入道謙堂氏晴謹誌とみえたり。(愛媛面影)
吉田山医王院 世田城の南にある。俗に世田薬師という。医王院が有るので、医王山とも呼ばれる。本尊薬師堂の傍に大舘左馬助氏明朝臣の墓がある。殉死した忠臣の墓には、岡部出羽守忠重・新海太郎貞廣・同四郎貞秋・同五郎貞行・境四郎左衛門光重・同十郎光行・大西宗蔵秀行・小山田伝内定成・中川三郎兵衛正頼・来崎八郎定能・中瀬次郎政道・同三郎政光・同六郎政信・亀岡忠三郎武元・中山八郎高俊・平塚金吾久光・同七郎久行十七人、暦応2年秋9月3日、一所殉死朝臣
全 其節 也、と俚諺集に見える。近世になって碑を建立した。平安大舘中務入道謙堂氏晴謹誌と記されている。
![]() ・瀬戸内海国立公園 ・えひめの自然100選 |
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![]() ・大館氏明公は新田義貞公の甥にあたり、南北朝時代(14世紀)に南朝方の重臣として全国各地で大活躍し、伊予の守護とし、世田山城の城主となる。 ・1342年に北朝方細川頼春と壮烈な戦いの後、戦死する。 ・墓は山上本堂横に有り、位牌は三宝荒神尊社横にまつられている。 ・太平洋戦争終戦までは命日の9月3日には位牌殿前で盛大に大館祭が行われていた。 ・社殿前には大正12年に大館保存会により顕彰碑が建てられている。 |
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![]() ・5/22 |
![]() ・7月土用丑の日に行われる。 ・江戸時代から続く伝統行事。 ・胡瓜に名前と年齢・病名を書いた紙を貼り付け、病気封じ込めの祈祷をする。 きうり封じの由来
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大智寺【東予市石田】→西条市石田844
長覚寺【東予市新市】→西条市新市503-3
長福寺【東予市北条655】→西条市北条655
・宗派:臨済宗妙心寺派
・1282年に「元寇」の武将、河野通有が戦没した敵味方の将兵の霊を弔うために自分の館を寺として創建した。
「北條村字蛭子に在り弘安五壬午年河野對馬守通有これを創建し僧雲心の開基たり其の後河野家亡び伽藍亦兵火に罹り衰微せりしか慶長六辛丑年南明禅師これを中興する」(伊豫温故録)
「河野通有開基、南明禅師中興」(http://www.geocities.jp/fm030/syaji.htm)
![]() ・県指定有形文化財[工芸品](昭和40年4月2日指定) |
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![]() ・5月5日に行われる。 ![]() |
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道安寺【東予市楠】→西条市楠甲896-1
1999/5/15(土)
・宗派:真言宗高野派
・周桑新四国76番番外札所
・本尊は薬師如来で、聖徳太子作と言われる。
大化3年(647)孝徳天皇の勅願所として恵顕上人が開基した。
・1362年細川頼之の世田城侵攻の際、大きい堂等が焼失した。その後再興されたが、再び戦火を受け、寺領も失う。かつての壮大さはわからないが、境内には礎石があり、奈良時代の河原(複弁・単弁蓮華紋の瓦、布目瓦の破片等)が出土し、歴史を物語る。
・弘法大師が四国を遍歴巡錫されたとき、道安寺に逗留され、そのとき掘った泉の一つが白井御来迎と呼ばれ、加持水として尊ばれていた。
藤蔵寺【東予市広岡】→西条市広岡甲463
道場寺【東予市】
![]() ・東予市指定文化財:書跡(平成2年11月19日指定) |
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徳蔵寺【東予市広江364-1】→西条市広江364-1
![]() ・県指定有形文化財[絵画](昭和45年3月27日指定) |
![]() ・市指定文化財[彫刻] |
![]() ・東予市指定文化財:書跡(平成2年11月19日指定) |
碧泉寺【東予市北条】→西条市北条537
法正寺【東予市楠】→西条市楠甲108
宝積寺【東予市】
![]() ・東予市指定文化財:書跡(平成2年11月19日指定) |
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本源寺【東予市壬生川】→西条市壬生川408
![]() ・東予市指定文化財:書跡(平成2年11月19日指定) |
![]() ・東予市指定文化財:書跡(平成2年11月19日指定) |
本妙寺【東予市国安】→西条市国安42
妙本寺【東予市河原津】→西条市河原津
密乗院【東予市周布】→西条市周布982-3
![]() ・東予市指定文化財:書跡(平成2年11月19日指定) |
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黒谷庵【東予市黒谷】
・ふるさとこみち-15
大慈庵【東予市高田892】
・黄檗宗正法寺第二世住職広音老和尚が隠居寺として開基した。
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明理川天満神社(明理川天満宮)【西条市明理川】
・祭神:菅原道真
![]() ・昭和60年10月2日に改築・落成した。 【新聞記事】 |
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青木神社【東予市石田】
「東予市石田に有り。石田黒川家信仰する。」(http://www.geocities.jp/fm030/syaji.htm)
青木神社【東予市北条
大気味神社】
「東予市北条の大気味神社内に有り。北条黒河家信仰する。」 (http://www.geocities.jp/fm030/syaji.htm)
石鎚神社吉田遥拝所【東予市吉田】→西条市河原津甲1151-4
内宮神社(うちのみやじんじゃ、てんのうさん)【東予市楠甲1244】
1999/5/15(土)
・祭神:天照皇大神、手力雄命、袴幡千々姫命
・例大祭:7月25日
・もとは、現奈良原神社のある山の頂にあったが、文政元年(1818)現在地に遷座したようである。
・また、ここは午頭天王(ごずてんのう)の角力場として文化5年(1808)地元有志の労力奉仕によって造られたという記録もある。
・境内社は水神宮、明和9年(1772)寄進の棹石円柱灯籠がある。
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大気味神社【東予市北条239】→西条市北条239
1999/5/15(土)
・今からおよそ300年前、当地方は虫害や風水害によって大飢饉にみまわれた。そこで村人達が神の助けを求めて建てたのが大気味神社で、時に宝永2年(1705)のことである。
・祭神は、大気都姫神、大国主神、大年神御年神、若年神、猿田彦神で、五穀豊穣、家内安全、息災延命、商売繁盛、交通安全、学業成就、男女和合の七福を守護する。
・その頃、境内の老大樹に喜左衛門という大狸が棲んでいた。変幻自在の神通力を持っていて、上方にまでその名が聞こえていた。やがて喜左衛門は、怨霊の祟りを鎮めるとともに、大気味神社の眷族(神使い)として祀られることになり、喜野明神(喜の宮)と呼ばれるようになった。
・喜左衛門狸の伝説は数多く残されていて、童話や研究誌、小説(合田正良「伊予路の伝説」、井上ひさし「腹鼓記」など)にも取り上げられている。
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![]() ・5月22日 |
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大元神社【東予市河之内】
1999/5/15(土)
・河之内の引地から奥の地域の氏神で、祭神は国常立尊、天照皇大神である。
・大元大権現、大元大明神と呼ばれたこともあり、昔から鎮座の古社である。
・大明神川沿いの断崖上に境内地があり、古木の茂り森閑としている。
大元神社【東予市黒谷乙7】
2001/9/29(土)
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春日神社/天満宮【東予市楠】
1999/5/15(土)
・春日神社は供山寺鎮守として祀られていた。
・社の側には槙の大木がある。
・例祭は7月25日。
・芥川平陸郎政忠(楠部落の組頭で、寺小屋で女子の育成につとめた)は、敬神の念厚く、文化年間、筑前太宰府に詣で、天満宮を勧請し、楠の春日神社の右側へ之を創建した。
・古くより芥川本家で祀っていたが、今日では部落の神として、天満宮もまた7月25日に例祭を行っている。
闇罔(くらみつ)神社【東予市石田】
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甲賀八幡神社【東予市上市甲460】
![]() ・市指定有形文化財[古文書] |
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金刀比羅大権現【東予市河之内】
1999/5/15(土)
・医王院の境内横の急斜面の石段267段を登ると、頂上に金刀比羅神社が祀られている。
・明治初年に社号を金比羅宮を金刀比羅社と改めた。
・慶長年間、松山城主加藤嘉明が山頂に勧請した金毘羅大権現を明治に医王院本堂横に移転した後、山頂は神社となり、金刀比羅社となった。
鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)【東予市壬生川20】
・国道196号線沿い、壬生川内港に面した平坦地に鎮座する。
・中世の鷺森城跡と見られる。
・祭神:天照大神、厳島三神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)
![]() ・市指定天然記念物(昭和58年指定) |
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![]() ・旧暦6月17日(7月21日)に行われる。 ・壬生川内港で花火大会も行われる。 |
佐々久神社【東予市安用】
・祭神:大鷦鷯尊(仁徳天皇)外一神
「佐々久神社 安用村佐々久山の麓に在り(火災後山上に立つ)、歌に曰、風さわぐ佐々久の神の瑞籬に幣と手向る霧ぞ降らん」(予陽郡郷俚諺集)
※瑞籬は"みずがき(瑞垣)"であろう。
「当社は延喜式に載する社で布都神社、周敷神社になら ぶ古社である。仁徳天皇(大鷦鷯尊)崩御のとき、万民
はその徳をしたいて神社を建てこれを祭る。「おおささぎ のみこと」の音韻に合せ佐々久の地名を社名が生じたと云
われる。元は山の南端に有ったが、天授五年賛岐の将細 川頼之が侵攻、河野道尭と佐々久原で合戦した。細川方
は社殿等すべてに放火焼失した。後、旧地に小社を再建 したが、享保十二年五月十五日に現在地に移し今に至
る。元禄十四年六月十三日より十七日間藩命により祈雨 祭をおこない瑞雨を得て穀物豊作となる。後、各地より
祈雨祈晴五穀成就の祈願依頼あり尊崇甚だ厚かったと伝 わる。」(神社案内)
![]() 佐々久山は南北約八〇〇米の和泉砂岩からなる丘陵 である。丘陵には南端から北端まで弥生時代から古墳 時代の遺跡が多数遺存し道前平野最大の遺跡群である。 南端には土壙墓群、中央部には土壙墓や、箱型石棺が 有り、神社前の最高部には、弥生中期の甕棺墓群があ る。ここからはすでに子供用合せ甕棺が出土した。 これに続く北部にも甕棺墓や、北端には横穴式石室 の古墳が存在したがすでに破壊されて存在しない。この古 墳からの出土物には須恵器、鉄器、玉類等である。 又丘の北端部には伊予の中世に君臨した河野道尭の 墓があり、又河野氏と共に戦った宇和の豪族、西園 寺公俊の墓が中央部東の山すそにある。この墓石は緑 泥片岩の板状のもので、石棺の蓋石を利用したものと 云われる。 ((境内案内)) |
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周敷神社【東予市周布本郷1532】
1999/6/27(日)
・周布小学校南の平坦地に鎮座する。
・境内社として八雲社、厳島社、壷井社、青木社、御霊社、山神社、和霊社がある。壷井社は、延喜式神名帳に載る「周敷神社」は周布に鎮座する「周敷神社」と説いた神学者壷井義知を祭神とする。
![]() ・古代の郡家も周敷駅もこの附近にあったと考えられる。 ・主祭神は火明命、配神は大山祇命、大己貴命。 ・延喜式神名帳記載の神社で伊予国24座の内、桑村郡3座の1社でであるが、当周敷神社の鎮座地は周布郡周布村であって桑村郡でないことから、寛文10年西条初代、松平頼純が入国巡視の際、式内社周敷神社について疑義を生じ、天禄8年と宝永2年など何度か調査したが確認できなかった。 ・享保5年国安村の周敷神社をはじめ、円海寺村蓮宮明神、宮之内村宮内神社からも、それぞれ式内周敷神社だとの訴えがあり、なかでも国安村周敷神社とは久しく紛争が続いたが、結局は中央の神学者壷井義知の「周敷神社鎮座違和郡考」の説に準拠して周布村の周敷神社の勝となり、神祇菅領、吉田家より裁許状を授けられ、享保7年一応の決着をみた。こと周敷神社一帯や湧泉が多く、早くから稲作が行われ、周敷郡の政治産業の中心として栄えていた。 ・天平宝宇8年、多治比連真国ら10人に周敷連の姓を賜り、ついて真国ら21人に周敷伊佐世利宿称の姓を賜る。この一族が先祖の神を氏神として祀ったのが周敷神社ある。 ・境内、東西32間、南北37間、馬場の長さ134間、氏子およそ315戸である。神主の伊佐芹家は、周敷伊佐世利宿禰に繋がるものである。 ・天正13年の兵火で社記、宝物など全焼したが、享保7年西条藩6社の一つに加えられれ、藩主の代参、神田の寄進があった。旧県社、萬代講、永代講があったが中止された。 ・例祭は10月の15,16日である。社宝には、延喜式弁疑、松平頼安の寄進状、一柳直卿の社号、掛け軸などがある。 (以上、周布公民館/周布地区生涯学習推進委員会による立て看板より) |
![]() ・東予市指定文化財:建造物(平成9年3月28日指定) ・元禄5年(1692)の創建。 ・桁行三間梁行二間の切妻、平入流造りの建物である。度々の修復にも原型を損なわず、創建当時の姿を今にも止めている。 ・昔は檜皮葺であったが、現在は銅板葺になっており、軒は二重繁垂木である。 ・建物の様式は、彫刻や木組みなどに安土桃山時代の特色をよく伝えており、古代より破風の桁飾りに蚕の蛾や桑の葉などの彫刻があるのも珍しい。 |
![]() ・東予市指定文化財:書跡(平成2年11月19日指定) ・一柳直卿は、寛文6年小松藩主一柳直治の長子として生まれ、40歳で跡を継ぎ、3代目藩主となった。 ・詩歌、書画など諸芸に優れていたが、特に書道が得意で、当時の300諸侯中第一の能筆家といわれ、将軍へも習字の手本を納めたほどであった。神仏に対する信仰が厚く、社寺に多くの額を奉納している。 |
![]() ・東予市指定文化財:絵画(平成9年3月28日指定) ・周敷神社には、馬面の名手として知られる一方、屏風などの大画面に本領を発揮した、地方でも希有の作家である松本山雪(岨■)の描いた「白馬・黒馬図」の絵馬が対をなして奉納されており、また、県内有数の絵馬の作者で、猿をはじめとする動物画に秀でた画家として知られる山本雪渓の描いた「韓信の股くぐり」の絵馬も奉納されている。 ・どちらの作品も、それぞれの作者の特徴がよくでた優れものである。 |
周敷藤原神社【東予市国安】
1999/6/27(日)
★もともとは、東予市高田に鎮座していたのだと、とよださんが教えてくれた。何でも大明神川がよく大水を起こし、社地が水に浸かることがしばしばあったため、上流側に移転したという。
・複数の社殿を持つ神社は珍しくはないが、複数の本殿を併せて一つの拝殿を設けている神社は今までかつて目にしたことはなかった。
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鶴岡八幡神社【東予市北条】→西条市北条239
徳威神社【東予市吉田】→西条市吉田235
「社伝によると、顕宗天皇の三年(487年)阿閉臣事代の創祀と伝えられている。祭神は大日宴貴神、神産霊神、月夜見神、応神天皇、豊受姫神、武内宿称である。古くは徳威神明宮と伝っていたが、平安時代の元慶三年、応神天皇を勧請してより、徳威八幡宮または、吉田八幡宮と号した。又南北朝時代、南朝方の軍勢催促の為、伊予に来られた、日野中将が徳威八幡宮に参拝したことから、勅使八幡宮の名が起こったと言われている。戦国時代、石根の剣山城、黒川肥前守元春は産土の神と崇め毎年、米八百石を寄進したり、三代城主、黒川通尭は天分六年、銀円鏡一面、太刀一振を奉納している。又天分六年五月には黒川民部小輔重親と黒川通尭が拝殿を造営している。その後、秀吉の四国征伐によって剣山城の落城、黒川氏の滅亡によって、大旦那の支援を失って社運も衰えた。時が流れ寛永十三年、小松藩の成立によって、初代藩主、一柳直頼は、徳威神社を再興し、郡内総鎮守と崇めた。源頼義、伊予の国の時代、干跋の時、雨乞い祈願を神社に命じた所、端雨を得たので、三百五十貫の土地(70町歩)を寄進して次の和歌を献じている。「天の下治まる社の徳威にてめぐみはだてぬ神ぞこの神」社宝に小松藩三代藩主、一柳直卿公の神号一幅と神像彩色絵と市指定文化財の扁頼、和光同塵と八幡宮がある。」(http://www.geocities.jp/fm030/syaji.htm)
![]() ・東予市指定文化財:書跡(平成2年11月19日指定) |
![]() ・東予市指定文化財:書跡(平成2年11月19日指定) |
豊栄神社(とよさかじんじゃ)【東予市周布1411】
・祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)、荒井藤四郎霊
・別名、権現さんとも称する。
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藤森神社【東予市】
・電話番号:東予市観光協会 0898-64-2700
・駐車場:無し
・樹齢300年と言われる藤は広さが120畳ほどに及び、花の長さは1mにもなる。
・5月上旬が見頃。
布都神社【東予市石延大ヶ市】
1999/5/15(土)
・社格:村社
・勧請年月:不詳
・祭神:布都主神ほか六神及び秘密祭神
・当社は延喜式に載する古社(伊予24社、周桑東予市に3社)の内の一社である。仁寿元年(851)正六位、天安2年(858)9月21日正五位を授けられた。
・文武帝から光孝帝(697〜886)の10帝の間に、62回の勅願有りと社記にあり、位階を給わること12度と記されている。
・往時四丁四方の境内に美麗を極めた社殿が建立されていたと云う。
・興国3年(1342)阿波の将、細川頼春の侵攻により焼失し、後に数回遷座し現在位置に小社を建立し祀る。石延字古屋敷の宮田と呼ばれる田に石塔あり、布都神社の本殿跡と伝えられる。
「布都神社 石延村にあり、黒の谷にも一社あり、石延の社を本社とす、歌に曰く、神の名の太しく立てし宮柱幾世朽せぬ誓いなるらん」(予陽郡郷俚諺集)
※"黒谷にもある"と記されているが、現存するか?
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保内八幡(ほうないはちまん)神社【東予市円海寺】→西条市円海寺172-1
1999/5/15(土)
・旧郷社
・祭神:應神天皇、神功皇后、仲哀天皇、市杵嶋姫命、湍津姫命、田心姫命、武内宿禰
・当社、勧請年月不詳なれども、中古の造営主(応永年間、河野六郎通之)と伝えられ、当時は、社地広大、三町四方に及び、「丹生川(にゅうがわ)八幡宮」と称えられる。然るに天正十三年、豊臣秀吉四国征伐のとき八幡宮の森に伏兵あることを察知した小早川隆景の軍勢に四方より火を放たれ、社森ことごとく焼失したるも御本殿のみ火中に焼け残り足る故、時の人「火中(ほなか)八幡宮」とも称え居たりしに、のちに文禄元年「保内(ほうない、内を保ちたの意)」と社号を改めらる。
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三島神社【東予市桑村】→西条市桑村448
・大明神川の東側沿い、周越広域農道の北側の平坦地に鎮座する。
・祭神:大山祇命
宮内神社【東予市宮之内】→西条市宮之内46-1
・周越広域農道の近くの、水田と人家に囲まれた平坦地に鎮座する。
・祭神:大山祇神ほか2神
・庄内、三芳、楠地区の郷社。 文安6年(1449)、玉殿造立の棟札
から東予市近郊では最古のもので あろうと言われている。祭神は大山祇神、高
神、 雷神。秋祭りには三体の神輿が地域に分かれおでまし になる。最近、子供神輿。暴れ獅子の乱舞で宮出
しも活気を呈してきている。深い巨木の繁みが移り ゆく四季の風情をおりなしている。
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柳森神社【東予市明理川】
・祭神:須佐之男命
【新聞記事】
永納山
佐志久山【東予市吉岡】
・標高約50m
うばすて山、おじすて山
ひょうたん池【東予市】
・春には桜が美しい。池の周辺には、昭和30年に植樹した70本の染井吉野が立ち並ぶ。
河原津海岸【東予市河原津】
・絶滅危惧種のカブトガニの生息地。
黒谷の檜一対【東予市黒谷
大元神社】
・市指定文化財:天然記念物(平成9年3月28日指定)
・「黒谷の大元神社の境内にある双樹の檜は、幹の目通りは3.1m、根回り3.5m、樹高28mの老樹である。伝承によると、文治元年(1185)、伊予の初代守護職佐々木三郎盛綱の重臣といわれた長井斎藤景忠(斎藤別当実盛の孫)が伊予の守護代として来住、その一族の者の手によって植えられたと伝えられている。 東予市教育委員会」
クスノキ【東予市壬生川 鷺森神社】
・市指定天然記念物(昭和58年指定)
クスノキ【東予市壬生川 鷺森神社】
・保存樹木
クスノキ[3本]【東予市円海寺 保内八幡神社】
・保存樹木
クスノキ【東予市三芳 弘福寺】
・保存樹木
クスノキ【東予市国安 周敷藤原神社】
・保存樹木
豊栄神社のチシャノキ【東予市周布
豊栄神社】
・市指定天然記念物
・目通り2.5m、根周り3.4m
チシャノキ【東予市壬生川 鷺森神社】
・保存樹木
ムク【東予市北条 大気味神社】
・保存樹木
土田之木のエノキ【東予市玉之江】
・県指定天然記念物(昭和40年12月24日指定)
・根回り14.15m、目通り6.2m、樹高25m
・枝張り東西20m、南北16m
・推定樹齢400年
エノキ【東予市北条 大気味神社】
・保存樹木
エノキ【東予市壬生川 鷺森神社】
・保存樹木
モチノキ【東予市石延大ヶ市 布都神社】
・保存樹木
宮内神社のツバキの群生【東予市宮之内宮内神社】
・市指定天然記念物(平成2年指定)
宮内神社社叢【東予市宮之内 宮内神社】
・保存樹木
実報寺の寺池と睡蓮の群生【東予市実報寺
実報寺】
・市指定天然記念物
実報寺の一樹桜【東予市実報寺
実報寺】
・市指定天然記念物
大慈庵の蘇鉄群【東予市高田
大慈庵】
・市指定天然記念物
夜討ヶ窪の山樫【東予市河之内】
・市指定天然記念物
甲賀神社の広葉杉【東予市上市甲賀八幡神社】
・市指定天然記念物
金性寺の黒松(薬師松)【東予市北条
金性寺】
・市指定天然記念物
・目通り幹周約2.8m、樹高約7m
・枝の広がり東西10m、南北11m
・推定樹齢400年
新福寺のカリンの木【東予市新町
新福寺】
・市指定天然記念物
・目通り周囲約1m、樹高約10m
・推定樹齢約300年
本谷公園【東予市河之内 本谷温泉】
1999/5/15(土)
・1992年4月着工、1995年4月28日に完成し落成式を行った。
・面積:約18,000m2
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![]() ・本谷温泉館と本谷公園を結ぶ、長さ52m、幅2.5mのアーチ形の橋 |
![]() ★ちょっと遅いが、ここで昼食(弁当)をとる。(1999/5/15) ★本谷温泉より、やや下ったところに以下の看板が立てられている。 |
![]() ・ふるさとこみち-4 ・藤ヶ森城址は、佐川の西、俗称古屋敷の山頂にある。象ヶ森城の属城で、櫛部出雲兼氏が拠っていたと伝えられている。約500mの平坦地になっており、南側に石垣が築かれている。麓の「古屋敷」の地名は城兵の屋敷があったこと、川を挟んで南側の「弓場谷」の名は、当時の武芸修練の場所があったことの名残である。 |
東予日曜市【東予市 JR壬生川駅前通り】
・昭和54年から始まった。
・生鮮食料品を始めとした多種多様な店が立ち並ぶ。
とうどうさん【東予市内各地】
・正月15日に行われる行事で、正月の注連飾りなどを燃やす。(この行事は左義長、とうどう送り、どんど焼き、塞土焼きなどと呼ばれ、全国的に行われる。)
やなぎのてんのうさん【東予市明理川 柳森神社】
・柳森神社の初市。旧暦正月7日から始まる。(1/30〜31)
・「東予の椿さん」との異名も持ち、商売繁盛と合格祈願の参拝者で賑わう。
土曜夜市【東予市内商店街】
夏越(ワゴセ=輪越)【東予市内各神社】
きゅうり封じ【東予市 世田薬師】
灯籠流し【東予市三津屋
宝積寺】
壬生川盆踊りトンカカはん【東予市石田597-1】
・市指定無形文化財
・闇罔神社境内で新暦8月19日の夜に行われる。
おかげん祭り(花火大会)【東予市壬生川 鷺森神社】
・広島の安芸厳島神社に倣って神事が行われる。
・神事に先立って花火大会が行われる。
東予の夕べ【東予市 JR壬生川駅前通り】
・昼には丸太切り競争、夜には盆踊り大会が行われる。
秋祭り【東予市内各地】
秋祭りだんじり統一運行【東予市 JR壬生川駅前通り】
文化祭・米まつり・魚まつり【東予市 中央公民館】
カブトガニ標本室【東予市今在家】
・住所:〒799-13 愛媛県東予市今在家187
・電話:0898-64-3052
・内外のカブトガニの標本や資料を中心に化石鉱物土器類(朝鮮、中国等)や海産動物を展示。
東予国民休暇村【東予市河原津】
和紙資料館(手漉き和紙・山本屋の展示館)【東予市】
・周桑手漉き和紙は約150年前から続く伝統産業。国安和紙は天保2年(1831)、石田和紙は文久2年(1862)から続いている。
・和紙資料館は山本屋内にある。
・電話番号:0898-66-3863
産業学習館【東予市】
・JR壬生川駅に隣接し、東予市の産業について学ぶことができる。
・手漉き和紙の体験コーナーもある。
郷土館【東予市周布】
・歴史展示室やカブトガニ飼育コーナーなどがある。
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![]() ★3匹のカブトガニがいた。この歳になって、はじめて生のカブトガニを見た。何となく感動した。 |
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![]() ・市指定文化財[古文書](平成9年3月28日指定) ・秀吉の平定後、壬生川村は政治の拠点であるとともに漁村であったので、港を中心に商業が繁栄し、他村より高税率であったことや、雑税として水主役を義務付けられていたため、鷺森城跡に人を詰めさせ、行政にあたらせた。 ・浦番所は代官所に属し、港湾における通行船舶、通行人、荷物などの検査と、分一銀を徴収するところで、今の税関と港務所にあたり、この古文書は壬生川浦を研究する貴重な資料である。 |
![]() ・市指定文化財[古文書](平成2年11月19日指定) ・久米庄屋古文書の内訳は、 @近世初期の土地制度に関するもの A干拓新田の開発に関するもの Bその他一柳監物への提出文書 などの三群16册である。 ・中でも一柳監物への提出文書は、小松藩開藩直前の広江村のあらゆる状況を詳細に読み取ることができる大変貴重な資料文書である。 |
![]() ・市指定文化財[考古資料](平成9年3月28日指定) ・珠文鏡とは、古墳の副葬に使われた■(ぼう)製鏡の一種で、珠文(小円点)を密に並べたものや、二重、三重に並べたものもあり、ほとんどが小型で■(ぼう)製鏡末期(古墳時代後期)に作られている。 ・この珠文鏡は直径7.3mで、内区に一列に環状に並べた珠文があり、鋸歯文帯、櫛目文帯を伴っており、損傷は少なく、円満寺古墳より出土されたものである。 |
本谷温泉【東予市河之内甲494】
1999/5/15(土)
・道後温泉、鈍川温泉と並び伊予の三湯の一つとして古い歴史を持つ。
・古くは舒明天皇や斎明天皇が入浴・湯治されたと言う伝説がある。
・温泉の源泉は、温泉館から4kmの大明神川上流にある。
・泉質は清澄な弱アルカリ単純泉で、ラドン、フッ素、硫化水素などを多量に含む良質の温泉で、神経痛や皮膚病などに効能がある。
・源泉名:三芳鉱泉1号泉、2号泉
・泉質:低張性アルカリ性冷鉱泉
・泉温:源泉19.6℃、使用位置42.0℃
・電話:0898-66-0372
・営業時間:10:30〜21:00、年中無休
・料金 :大人 300円、小人200円
・休館日:第一・第三水曜日、1月1日、12月31日
★探訪でずっといごき(動き)っぱなしで汗かいたんで、入浴料300円とタオル代200円払うて、温泉に漬かることにした。浴室の扉をあけると、爺やんが浴槽脇のタイルの上であぬけ(仰向け)になって横たわっておる(ちゃんと股間はタオルで隠しておる)んで、わしゃのぼせてぶっ倒れとるんじゃなかろうか思うて、よいよ不安になりましとい。(ちゃんと息はしておいでたようで...安心安心。)
おしょぼ狸【東予市高田
正法寺】
むかし、むかし正法寺あたりがずーっと松林やったころ、その松林に「おしょぼ狸」ちゅうて悪さばーかしする狸がおったんじゃと。
そのころ、寿聖寺(じゅしょうじ)にお酒の好きな和尚さんがおったんじゃがの、この和尚さんが河原津へ法事に行って、その後で精進おちに、たーんと酒やごちそうをよばれたんじゃ。折詰や酒を土産にもろうて、正法寺の松林をホクホク帰りよったら、林の中から小坊主が飛び出してきよって、
「おっ(和尚)さん、角力(すもう)とろや」
と言うんじゃちゅうわい。
だいぶ酔うとる和尚さん、
「どこの小坊主か知らんが、わしがひとひねりしちゃろ」
ちゅうことで、すもうを始めたんじゃそうな。
寺の方では、和尚さんの帰りがあんまり遅いもんで、心配しよったそうな。ところで、和尚さんが寺にもんたんは真夜中じゃった。それも手土産は持たんと、下駄の鼻緒と空(から)になった徳利をぶらさげて帰ったんじゃと。
このように、おしょぼ狸は通行人にさいさい悪さをしよったんじゃそうな。
またある時、国安の平吉さんちゅうおいはん(おじさん)が、上市の砂糖を売りに行っての帰りに、大明神川を渡ってしばらく行くと、ソバ畑が広がっとったんじゃが、そのソバ畑の中を若い女(おなご)が、着物のすそを腰まであげて歩き回りよったんじゃと。
平吉さんは不思議に思うて、
「どうしよんぞ。」
ちゅうて声をかけたんじゃ。そしたら、
「そっちは深い、そっちは深い。こっちが浅いけん、こっちを渡れ。」
と言うとるんじゃと。
それを聞いたおいはんは、
「おしょぼ狸め、悪さをしやがって」
と舌うちして、ソバ畑から女の人を助けだして、
「あんた、狸に化かされとるんじゃ。しゃんとせい。」
ちゅうて、おもいっきり背中を、どうづいたんじゃ。(たたいたんじゃ)
ほして、正気にもんた女の人を新町の円照寺のはたまで、送っていっちゃったんじゃちゅうわい。
あくる日、平吉さんが三芳へ行っての帰り、正法寺のオオノボリの所で、どうしたもんか、前の道が急に真っ暗になってしもたんじゃ。
「ははあ、おしょぼ狸め、きのうの仕返しに悪さをしやがったな」
と考えて、ここでバタバタしよったら奴の思うつぼになってしまうと、道ばたの石に腰をおろして煙草を取り出し、火打ち石で火をつけようと、カチカチやりよったんじゃ。ほしたらの、片方の石がポーンと飛んでいくんじゃ。今度こそは思うて何遍(なんべん)もやったんじゃけど、つーいに飛んで行ったんじゃと。
平吉はんは、よわってしもて、腕組んで天をにらんどったんじゃ。
ほしたら、急に闇の中に一筋の白い道がスーッと見えてきたんじゃそうな。
「やれやれ、これで家に帰れるわい」
とホッとして、その明るうなった道をどんどん行ったんじゃ。ほじゃけど、なんぼ行っても家へはつかなんだんじゃ。とうとう夜があけてしもうてのう、気がついてみたら、象ヶ森の茨(いばら)の中を、体じゅう血だらけにして歩き回りよったんじゃと。悪さばーかししよったおしょぼ狸も、松林がなくなってからは、お宿を変えたか、どっかへ行ってしもたちゅうことじゃ。
[東予市誌、http://www.city.toyo.ehime.jp/kids/legend/oshobo/index2.html]
実報寺のお地蔵さま【東予市三芳 実報寺】
@村人が朝早く水を汲みに海岸へ行って見ると、昨夜の嵐で地蔵が浜に打ち上げられていた。人々は地蔵を祀るために川上へ運ぶ途中、実報寺まで来た。すると急に車が回らなくなったので、ここに地蔵を祀った。
A土佐の長宗我部氏が侵攻し、地蔵尊を持ち去ってしまったが、帰りに大しけに遭い、海に投げ捨てた。この地蔵は翌朝・浜に漂着していたという。
腹こわり石【東予市楠
世田薬師栴檀寺】
栴檀寺の山上の本堂に向かって1キロ登ると、最後に108の煩悩を落とすという百八段の石段がある。やっと登り切ると、荒石段のまん中にで一んと二抱え程の石が座っている。人はこれを「腹こわり石」という。さわると腹が痛くなるぞ!絶対にさわるな!という石である。寺伝によると、724年(神亀元年〉に行墓菩薩が薬師如来を刻み、小さいかやぶきの庵を開いた。ある時、きこりがこのお堂の真上で木を切っていると、過って根元にあった大きな石を落としてしまった。「シマッタ!お堂がつぶれてしまう。大ごとじゃ。」とその時、あら不思議。石はお堂を右回りで空を飛び、本堂の前にドスンと落ちた。この石はすごい石じや、神力の石じゃ、と大騒ぎになったという。その後、弘法大師が修行中に世田山に登り、この石を拝んだために、弘法大師の「お加持石」ともいう。また、1342年9月、世田山において南北朝の「世田山の合戦」が行なわれ、城主大館氏明公の軍用金が、石の下に隠されたのだという話もある。事実、世田山一帯には昔より埋蔵金「大瓶8杯、小瓶8杯」の話が伝わる。どちらにしても、さわるなよ!近づくな!さわるとバチが当たるぞ!腹が痛くなるぞ!ということになったらしい…。今でも地元では、この話は受け継がれており、腹こわり石にさわる者はいない。
(愛媛新聞、2004年7月17日、世田薬師広告)
乳母の墓【東予市黒谷】
2001/9/29(土)
・ふるさとこみち-14
「黒谷部落北西部、原王影の田圃の中に一基の石塔が建っている。何時の時代、どんな由緒の人か記録も史実もない。今ある墓碑は風化の程度から見てそう古くはない。しかし多くは語らず、唯、乳母の墓とあるのみ。
その文字が寡黙であるだけに、秘めた昔のロマンが感じられる。疣(いぼ)神様としてうやまわれている。」(ふるさとこみち説明書き)