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おたた伝説

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おたた=賣魚婦(松前女)

  頭上運搬魚売り娘、「おたたさん」についての情報です。
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      こんな書き方したら、なんとのう伊藤咲子が歌い出しそうじゃねぇ。

1.なぜ「おたたさん」なのか?

松山近辺出身の方には馴染みがある「おたたさん」。
頭の上に御用櫃(=ごろびつ、御料櫃とも書く)と呼ばれる桶を乗せて魚を売り歩く女性のことじゃね。
しかし、なぜ「おたた」と呼ばれるんじゃろか? うーん。語源が気になるわい。

このページでは彼女(達)にまつわる話のうち、その名前の由来について追ってみようわい。

慶長年間(1596-1614)、京に滝姫という公家の娘がおったんじゃと。滝姫は禁断の恋をしてしまったばかりに流罪となり、泉州、堺から松前の浜へと流されてしもうた(*1)んよ。 
流されてきた滝姫に、気立ての良い松前の漁師達は親切に接し、滝姫も村人の人情に動かされて松前の地に住むことになったんよ。
じゃけど、自活するには働かんといかん。っちゅうわけで、滝姫は京に住んどったころに見かけた行商女を思い起こし、頭の上に桶を乗せて(*2)鮮魚商を始めたんよ。

「魚買わんかー。魚買えー。」と魚を売り歩く、美しく気高い滝姫の姿に村人達は憧れ、やがて「おたきさま」と呼ぶようになり、村の女達は滝姫を真似て頭上に桶を乗せて魚の行商を行うようになったんよ。

やがて「おたきさま」は「おたたさん」に転化したということじゃかぃ
ほかの説では、後冷泉天皇の永承年間(1048-1052)、清原朝臣忠武の妹にあたる御多喜津姫が、安部頼時公により流罪にされ、三人の侍女と共に京都から追放され、船に乗せられた4人が松前の浜に漂着したっちゅう説が あるんよ。これも生計を立てるんに魚の売買をしたっちゅう、上のパターンと類似したハナシに落ち着くんじゃがね。
 

備考1−1 伊予は流刑の地か?

このように関西から「伊予に流される」風習(?)というのは古くは古事記の世界に遡るわけじゃけんどね。
古事記じゃ、允恭天皇の御子、軽皇子と軽大朗女が近親相姦の罪で伊予に配流されてっちゅう説話が残っておらい。
時代は飛ぶけんど、日露戦争の際にもロシア兵捕虜の収容地だったゆうことらしいけんねぇ。
知らず知らずのうち、愛媛は流刑の地という認識が日本人の中に定着しとるんじゃろか?(そんなハナシは余り耳にしたことはないが)
もっとも、現代はそげなことないんじゃけどね
民俗学的に見ると、このように「流される」っちゅうハナシは珍しいもんでもなく、「貴種流離」「空船(うつろぶね、うつぼぶね)」という パターンに属する様々なバリエショーンがあるみたいじゃね。
とりわけ、愛媛にはこの手のハナシ、特に女性が「流される」ハナシはよう残っとるようじゃわい。
例えば、伊予の豪族越智・河野氏の始祖「小千御子」の伝承もこれに当てはまるわいね。

備考1−2 頭上運搬の風習とは?

こげな「頭上運搬」の風習の起源はどこなんじゃろうね?
ようテレビなどでアフリカの映像を見ると、現地の女性達が現在もなお頭に物を乗せてる姿に出くわすけんど....
まあ、確かに頭の上にモノ乗せて運搬するとラクじゃのうと思うこともあるがなぁ。

こないだ辞書をひいてたら「大原女(おおはらめ)」という言葉を見つけたわい。『京都の近郊大原(おおはら)や八瀬(やせ)の里から京の町へ薪を頭上に乗せて売りに来る女性』と書いてある。これから推定するに、昔京都の町には、色々な売り子が存在したんじゃなかろうか?しかも彼女達は皆「頭の上に商品を載せた」スタイルで売りさばく。うん、こりゃいっぺん魚、薪以外の商品についても洗い直してみる価値がありそうじゃなぁ。

2.「おたたさん」松山進出

松前に広まった「おたたさん」の評判は、当時の松前城主、加藤嘉明の耳に止まったんよ。
そのころ加藤嘉明は、平地の城では攻め込まれやすいっちゅうことで、松山の勝山への城の移転を考えておった。
そして、慶長7年(1602)に松山城の築城に着手したんよ。

「おたたさん」の頭上運搬能力は、城を築く為の石礫(せきれき)を運ぶのに買われ、多くのおたたさんは魚の代わりに石礫を乗せて松前から松山まで運ぶことを命じられたんよ。

その功績を頌えられ、松山城完成の暁には「御用櫃」の焼き印の入った桶を頭上に乗せて城下での商売が許される事になったわい。
城下町だけじゃのうて、松山城の城門に入るんも自由じゃったといわれとらい。

3.おたたの鏡、お豊の伝説

松山城築城のとき、松前の港には大名から送られた紋入りの石垣用の石が山のように陸揚げされた。
これらの石を、毎日たくさんの松前のおたたさんが頭の上に乗せて松山まで運んでいたんじゃと。(*1)
その中の一人「お豊」は、長い勤めに疲労困憊していたのじゃが、生真面目な性格じゃけん、その日も勤めに出たのじゃった。
1つ丸に二の字の入った石は大きく、誰もが顔を見合わせて運ぼうとはせんかった。
お豊は疲れているにも関わらず、皆の制止を振り切って「私がやりましょう」と運搬を引き受けた。
「こんくらいのことができんかったら御主人様に申し訳ない....。」(*2)
運び始めてみたものの、出合を過ぎる辺りからだんだんと遅れ始め、よろめいていた足も日招神社のところまで来て倒れてしもうた。
そして、彼女は帰らぬ人となってしもたんよ。(うるうる..)
その後、健気なお豊を哀れんで、その石を「お豊石」といい、日招神社の境内に残すことにしたらしいわい。(*3)

備考3−1 おたた北上ルートに関する一考察

おたたさんはどげなルートを通って松前−松山間の運搬をしよったんじゃろか?

これは全くワシの独断と偏見による解釈じゃが、今の旧国道56号線を北上し、伊予鉄余戸駅の所から東に折れ、 新国道56号線を突き抜けて(結婚式場「日本閣」の前)土手沿いに進み、県病院の筋を真っ直ぐ北上しとったんじゃんなかろうかと思とります。ほじゃが、し女性がこんだけの道程を礎石を乗せて歩いていくのは労力的に並大抵なことじゃないけん、重信川−石手川を船で上って行ったと考える方が自然なんかもしれんなぁ。

じゃけど、その当時は足立重信が岩堰での石手川付け替え工事に着手していなかったんで、舟を使っても高々出合橋 ぐらいまでだったようにも思うんよね。(しかし、小野川の水量が多かったんかもしれんし、案外上流まで進めたんかもしれんよ。)

備考3−2 美談に関する一考察

「御主人様」という slave的な言い回しがとってもエロティックに聞こえるのう!

しかし他人様の為にこれだけ尽くせるもんでしょうかね。ワシじゃったら、 「ちょ、ちょっと腹痛いけん、誰ぞ正露丸くれんか...腰に力入れたらゲリポンが出そうなけん、 わしゃちょっと運ぶんは遠慮させて貰おうわい」とか理屈こねて運ばんけどねぇ。

まあ、美談(伝説)というのはこの手の献身さがやたらと強調されますわね。

備考3−3 お豊の石

この石は、大正2年8月の耕地整理の際に発見され、日招神社の境内に移されたらしい。ちゅうわけで、日招八幡神社【保免西1丁目502-1】に行けば「お豊の石」に会えるんよ!(それほどたまげて大きい石ではない....)

4.どんな荷物も頭上で運搬

おたたさんの運んだものには魚、石だけではなく水もある。
「なんのため? どこに?」
日照で水不足(*1)になったときに、おたたさんは松前の竜宮神社で1週間の雨乞い踊りと祈祷を行い、20数Km東の川内町 雨滝宮まで海水を運び、 淵に水を投げ入れて降雨を祈願したと伝えられとるんよ。
昭和42年の夏も、日照り続きでこりゃ困ったっちゅうことで、6月21日に松前竜宮神社に25名の「おたたさん」が集結し、雨乞いをしたらしいわい。
1週間、満願の日まで毎夜2時間、太鼓の音に合わせて「雨を下され竜宮どん、竜宮界のオトノ姫、アラ雨大ぶりじゃ大ぶりじゃぁ」と祈祷して、 ほして満願の日の早朝、「おたた組合長」が潮水で水ごりした後、100数名のおたたが潮水を入れた桶を頭に載せて、川内町の雨滝神社まで歩いていった ということじゃわい。
備考4−1 日照りといえばなぜか義農作兵衛を思い出す
いまでも、ほんと松山って雨が少ないわいねぇ。日照のときは、重信川も歩いて渡れるくらいにからっからじゃ。
全く余談じゃけど、日照りというと、私が小学生のときには社会の授業で義農作兵衛の話をくどくどと聞かされた記憶が蘇るんじゃでど。
今、娘の教科書を見てもそんな話はどこにも載っていないのは、地元のつまらん話(いや、ワシにとっては興味深いハナシ)を乗せても しゃーないという教育委員会の配慮なんじゃろかねぇ?(松前町の小学校の教科書には絶対載っとる思うんじゃけどね。)

5.「おたたさん」と遭遇するには?

今日でも「おたたさん」は実在するはずなんじゃけど、わしゃ、まだ実物の「おたたさん」と遭遇したことがないんよ。 「観光客用にわかおたたさん」ならば松山市の子規堂で見掛けたことがあるんじゃが、バイトの女の子達(推定年齢:18〜22歳)がぺちゃくちゃ喋りながら突っ立ってるだけなんで、なんとも風情の無いことよ。 [1996年12月記]
聞くところによると、松前町には未だなお「おたた組合」のようなものも存在するし、朝夕には松前町内を魚を売って回っとるらしい。勿論、頭の上に桶をかついで売っとるわけではなく、リアカーじゃの単車じゃので回りよるらしいんじゃけどな。[1999年6月記]
おたたさんに関する話はこれだけではないと思いますが、調査不足ゆえ これにて終わりです。松前町民または最寄りの縁(ゆかり)のある地域に 住んでおられる方、関連する話を他にお知りでしたら教えて下さい。
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